夜半に忍ぶ声。ごとりと音がして扉が細く裂ける。 顔を覗かせた男は、手燭の灯を差し出して紅砂を一瞥すると、「入れ」と白い息を残して扉の内に引っ込んだ。紅砂は細長く黒く空いた隙間に身を滑り込ませる。 紅砂が番処の門をくぐるのはこれが初めてだった。ざっと辺りを見回す。 まず目に入るのは右手前の大きな建物だ。いつか見た姿は海沿いの街にふさわしく、煌びやかではないが堂々とした構えをしていた。今は闇に沈んで、不気味な物々しさを醸し出している。 左手から奥をぐるりと覆うように木々の影が暗い空へ伸びる。それに沿って視線を移すと、奥にもう一つ建物があるのが分かった。あれがきっと、そうなのだろう。 男の後姿の縁から漏れる淡い光を頼りに、無言で後を付いていく。 木々の翳りに入ったところで先を行く男が歩みを止めた。ぐるりと振り向き、もう一度、紅砂の顔の傍へ火を近付けてまじまじと見つめる。心中の窺えない隙の無い目だ。紅砂の方からも、彼の垂れ始めた瞼や額の黒子や突き出た下唇の皺がよく見えた。鼻の下にたくわえた髭の一本一本が数えられるほどだ。 「火の加減ってわけじゃないんだな」 手燭が下ろされたので、紅砂は乾いて痛む目を長くつむった。 「濃い顔ってのは島生まれなんかによくいるが、異人は目の色まで違う。こりゃ面白いと思ってたが、まさかこんな近くにいたとは。餓鬼の時分から坡城育ちだってな?」 「これでも親は黒目黒髪でした。改めもきちんと受けています」 「先祖返りってやつかね。しかし不便も多かろう」 「色に驚かれるのは真昼くらいのものです。それすら、言葉に澱みなければ気付かれないことも多い。それに師範殿は、目を閉じていても 「そんなもんか。……いや、なんかお前さんの口は俺より折り目正しくて参るな」 男は再び歩き出す。暗がりではどれだけ進んだのか分かりにくい。本所の奥行きの深さも相まって、霧の中をもがくような気持ちだ。 「忠良からお前さんの話を聞いたときゃ即座に断ったんだ。どうせあの異人に会わせろって言うんだろってな。実を言うと私塾の奴らからそんな申し出が再三出ててうんざりしてたとこだ。女の方なら、何もこんな忍びで来ることない」 「この見た目ですから、きっとそれ以上に疑いを受けるでしょう。篠原殿も、道場づてでなく突然俺が現れたら、こうして話を聞いてくださいましたか」 「そりゃあお前、……ひっ捕らえるだろうよ」 低い笑い声とともに肩が揺れた。武骨だが悪い男ではなさそうだ。紅砂も口元を緩める。 本所を過ぎて辿り着いた奥の建物は、対比で小ぢんまりと見えただけで、いざ近くに寄ればこれも随分な大きさだった。 男は扉の前で立ち止まり、唇に人差し指を立てた。「ここからは無駄口を叩くな」手燭を紅砂に渡して、扉を照らせと指で示す。紅砂は目を瞠った。扉に下がっているのは掌ほどもある立派な錠前だった。男は懐から鍵らしきものを取り出して扉を開く。 「付いて来な」 男に従って扉の向こうへ足を進める。 門の向こうには細い土間が路地のようにずっと伸び、所々で横道と交わっていた。路地と違うのは、すぐ傍まで板壁と檻が迫っており、そのどれもから苦しげな息遣いが漏れていることだった。 土からは湿気と冷気が絶えず立ち上る一方、換気と採光ができるのは、天井近くに設けられた格子窓くらいしかない。だがこの重苦しさは、それだけが原因とは思えなかった。 影が蠢いている。この一瞬一瞬に何十の肺腑から吐き出された息。念が渦巻いているようだ。全身を縛り上げられたように紅砂の足取りが重くなる。 数歩先で男が振り向く。いつの間にか距離が空いていた。どうにか振り切って進む。 しばらく歩いたところで男は、紅砂に待っておくよう手振りで示して角を曲がった。暗がりに取り残されると、背後から重い闇に取り付かれるような錯覚に陥る。形の無い幾十もの視線が、壁越しに、檻越しに、彼の背に注がれている。 廓の廊下で感じた居心地の悪さの方がどれほどましだったか分からない。手燭の火と男の手招きが見えたときは救われた気持ちだった。 「例の女を呼んどいた。この火が落ちるまでに戻ることになるから、あまりのんびりはするな。突き当たりの左手だ」 紅砂は会釈して闇の中を進んだ。左右の檻は大半を目隠しの板壁に阻まれているが、気配はすぐそこにある。房を一つ通り過ぎるたびに足首を掴まれ 突き当たり左手の房だけは板の一部が開いて話をできるようになっていた。懸命に目を凝らすと影が檻のすぐ傍まで寄っているのが見えた。胸を乱暴に鷲掴みされるようだ。 まさかこんな形で再会するとは思わなかった。 「若菜……」 「あら、本当に旦那じゃない」 足が途中で止まった。嘲るような、あけすけなこの声は……。 「あたしのこと忘れた? 別にいいけど。山吹よ」 「……若菜はどこだ」 「いるわよ、奥に。でも嫌なんだってさ。旦那にゃ会いたくないって。だから健気にもあたしが出て来たげたのよ。不憫ね、散々貢いでも夜中に忍んできてもこのざまよ。ねえ、結局どうだったのよ、一度でも抱いたの」 「黙れ」 紅砂が低く呟くと、山吹はふんと鼻息を吐いて筵敷きの床に腰を下ろした。と言うよりも、立っていられなくなったような動きだった。その影を見下ろして紅砂は思う、声が随分しゃがれている。寒さが祟ったのか具合も悪そうだ。見れば足には何も履いていないようだ。 港に改めが入ってから十日。その間の暮らしがこれほどこの女を疲れさせたというのか。それはつまり若菜も同じということだ。 紅砂は檻の前にしゃがみ込んだ。 「ネイトを匿った者としてあんたの名が出るのは分かる。だが若菜に何の関わりがある。第一、奴は若菜の名なんか知らないはずだ」 「そりゃそうよ。最初に捕まったのはあたしだけだもの」 「……若菜を売ったのか」 「売った? 売ったって何よ。どのみちあたしは閉じ込められてんだから、道連れでしょうよ」 紅砂は闇の中に沈んでいる山吹の目を睨みつける。 「そんなことをして何の得がある。それであんたは満足なのか」 「やめてよ、こんなとこに放り込まれてからもお説教なんて懲り懲り。聞きたくない。いい、あんたのお目当ての女郎はあんたには会いたくないって言ってんの。大体、抱けやしない檻の中の女に何の用があんのよ。とっとと表に出て別の女でも買えばどう」 紅砂は黙って地面に目を落とす。一歩下がり膝を付く。清々したとばかりに鼻息を吐いた山吹は、去らぬ気配に視線を戻してぎょっと身じろいだ。 紅砂は地面に額衝いていた。 「な……あんた、何、それ」 「……頼む。本当のことを番人に言ってくれ。嘘だったと」 「ば、馬っ鹿じゃないの。たかが女郎のために何やってんの。やめてよ」 「頼む」 湿って冷たい土の、かび臭い匂い。触れたところから染むように熱が奪われる。どれほど経ったか、震える息が聞こえて紅砂は顔を上げた。 「いいわね、若菜は。抱けなくても触れなくても会えなくても、あんたは構わないんだ」 声を掛けることを躊躇わせる、喉の奥から震えで押し出すような声だった。乾いた響きににじむ、怒りと羨みと情けと、憐れみ。 「あたしがここから出られないのなんて分かってんのよ。関わり過ぎたんだもの。出られなくてもいい。……あたし、もう長くないのよ。見えないでしょうけど、顔にも、体にも瘤ができてるの。最近じゃ客も取れなくなって……このまま鳥屋に就いて……体じゅうぐちゃぐちゃに崩れて、気も狂って死ぬくらいなら、今のうちに殺されたほうがましよ」 紅砂はごくりと唾を呑む。知らず知らずのうちに地に置いた指には力が入り、土を掴んでいた。 「誰も見舞いなんて来やしないわ。ここにだって誰も来ない。あたしに優しかったのは、あたしを利用したあの異人だけよ。……道連れにしたのは腹いせのつもりだった。でも駄目。ここ、一度入ったら出られないのよ」 「あんた……」 「これってあたしが思ってたより大ごとだったのね。なんかさ、あの異人には、外つ国との関わりがあるから厳しくできないんだって。でも壬も飛鳥も関わってるから揉み消したりできないって。だから番犬の奴らは自分たちの叩きやすいとこを叩くのよ。若菜も……何でか知んないけど、ほんっとに訳分かんないんだけどさぁ、あの異人が潜んでたのって若菜の郷里なんだってね。それが分かってからは……もう、何言っても無駄だった」 声の最後はほとんど泣き声だった。紅砂は苦々しい思いで目を閉じる。檻の内では、手が尽くされた後だった。 紅砂の視界の端にちらと光るものが目に入った。手燭の火だ。そろそろ戻って来いということだろう。紅砂は重く冷えた体を持ち上げて土を払った。奥にうずくまる影を見つめる。あの中に、いるのか。 「若菜」 奥の影は身動き一つしなかった。それを見て山吹の影が、ゆっくりと首を巡らす。 「ねえ。……旦那って根っからの善人なのね。呆れるくらい綺麗」 山吹の声は今、穏やかだった。乾いた嘲りも湿った悲愴も聞こえない。 「でもそれって、日蔭者には毒なのよ。あんまり眩しい陽は目を焼くでしょ」 ――あなたには娑婆がよく似合うわ。あなたの目は、空の下でこそ海の色に見える。 紅砂は身を翻した。火へ近づくと、男が焦ったように手招きしているのが見えた。 「急げ。次の詰め番が来ちまう」 扉を出て元通り鍵を掛けたところで、紅砂は肩の力を抜いて息を吐いた。男の指が鍵を弄んで懐に仕舞う。 「篠原殿。あの女の罪が覆ったり、恩赦が下ることは、無いのでしょうか」 「まあ無いな。あれか、病持ちが出放題でもう一方を引き込んだって。しかし異人はどっちの女も知ってたぞ。好いた女を庇いたくなるのは分かるが、望みは持つな」 二人とも知っていると言えど、どちらが奴を匿っていたかまで詳しく聞いたのだろうか。ネイトが旧上松領に逗留していたのが若菜の入れ知恵だと、そんな根も葉もない話の裏を取ったとでもいうのか。普段異人と話すことのない名ばかり通詞に、そこまで細かな仕事ができるとは思えない。 「何を目当てに旧上松領にいたのか、異人は話したんですか」 「さあな。それが分かったからこっちへ送られてきたんだろうが、俺みたいな下っ端にゃ何も下りて来んよ」 「異人に会うことはできませんか」 「言っただろう、そいつは無理な相談だ。第一会って何する。お前さん、坡城育ちのくせに奴と話せるとでも」 「俺は……」 通詞しか異国語を学んではならぬという決まりはない。暁の本は細々と捌けているし、私塾の者だってネイトとの面会を申し出たというではないか。だが諫めるような男の目が紅砂の喉を塞いだ。 「……やめとけ。あの異人にゃ俺一人だけの立ち会いでは会わせられん。お前さんはその見た目だ。下手すりゃ共謀したとみられるぞ」 目の色が違い、言葉が通じるだけでそこまで濡れ衣を着せられねばならないのか。眉根を寄せて口を開こうとしたとき、男がすっと紅砂に顔を寄せた。 「いいか、一度しか言わんぞ。表沙汰にゃしてないが、港番ではもう一人探してるんだ。異人は廓で三人に会ったと話した。二人は女で一人は男だ。男についちゃ女の客としか言わんが……」 男の目は火を映してほのかな橙に染まっていた。既に紅砂は若菜に会いに行った。彼女の客として、睨まれる者の一人に加わった。 言葉が続かなかった。若菜を救う千に一つの見込みを頼んで、二度と帰れぬ道へ踏み出すのか。逡巡する自分は、一つも綺麗ではない。一つも善人などではない。 紅砂は額に拳を当ててうつむいた。叫び出したかった。この醜悪な心に、恨んできたこの容れ物の色に、どれほどの未練があるというのだ。それでも臆病な足は動かない。内側からどす黒く腐っていく。悪臭を放ってどろどろに溶けていく。 「俺は何も聞かなかった。……もう帰んな」 男の手が紅砂の肩を叩く。紅砂はゆっくりと頭をもたげた。 「通詞殿がお使いの和解は、人を裁く下地になるくらいですから、さぞ質の良いものでしょうね」 「……私塾が出している版本と、間地の医者が出している写本を併せて使っている。版本は薄いが俗語や小難しい語がよく載っている。写本は二色書きで読みやすいし、書き文字に出てくるような語ならこちらで事足りる」 「篠原殿のおっしゃる私塾とは、山北の川沿いにある徳慧舎のことですか」 男が頷く。手燭の蝋は残りわずかだ。紅砂は表に繋がる扉の前で一礼した。 「今日は、本当にお世話になりました」 「何を考えてるか知らんが無茶するなよ。俺にできるのは、自分の詰め日に女と会わせてやるくらいだ。それ以上は手に負えん」 「彼女には、どのくらい残されているのでしょうか」 「このまま行けば年明け早々ってとこだ」 紅砂は目礼して扉をくぐり、番処を去った。受け皿に蝋がひと滴垂れて、露わになった芯を火が焦がす。ちょうど番人の交代らしく、向こうから手燭の小さな光が歩いてきたところだった。 紅花は片付けと朝餉の用意を簡単に済ませて、暗い廊下をそろりと歩いた。本当はもう少しうじうじと、後回しでもいい仕事を片付けたりして、今までのあれこれを思い返して悩みたい。体じゅうがむず痒いような今だけの感覚を、もう少し長引かせたい。 だが芝居帰りの二人が坂を上り切ったとき、灯りが漏れているのは暁の部屋だけだったのだ。これ以上遅くなっては明日に障る。 板張りの床からは一歩ごとに寒気が這い上ってくる。袖の内側まで、冷たい手で撫でられているようだった。心臓がぎゅっと締め付けられて悲鳴を上げる。 左右に五つずつ並んだ部屋のうち、四つ目で足を止めて紅花は左を向いた。胸は意外なほど落ち着いている。あまりに呆気なくて、まるでそれが自分の部屋のように錯覚した。息を整えて襖を引く。 気配が揺れた。障子だけが暗闇の中でほんのりと白く、中にいる人の影をぼんやりと浮かび上がらせた。 一瞬、自分が何をしているのか分からなくなった。部屋を間違えた? 違う。見舞い? こんな夜中にまさか。 「そこにいたら寒いだろ。おいで」 紅花ははっと我に返って襖を閉めた。今更胸が鳴り始めていた。今まで何度となくこの部屋へ来たのに。蒲団に横たわる浬を何度となく世話したのに。 紅花が近付くと浬も立ち上がって、子を慈しむ母のように彼女の肩に蒲団を着せた。見上げる紅花の頬に、指の甲が触れて笑う。「やっぱり冷たい」 浬がそのまま座ってしまったので、蒲団を独占している紅花もそのすぐ脇に腰を下ろさざるを得なかった。向かい合って座る彼の肩も覆うよう、紅花は自分の位置を調整する。 「母親みたいだ」 「あんたもよ」 「そっか」 囁くような笑い声を上げ、浬は紅花の背をぐいと抱き寄せて仰向けに寝転がった。思いがけず押し倒すような恰好になって、紅花はどぎまぎと浬の胸の音を聞く。 「あ……、折れたとこ。大丈夫」 「心配性だな」 浬の手がゆっくりと髪を撫でている。今の位置ではそれが精一杯なのだ。そう気付いて紅花は浬の体を踏まないよう気を付けながら、身をずりずりと枕の方へ進める。額に触れる息。顔を上げる。どちらからともなく口づける。 彼の頬に耳をぴたりと付けて、体も押し付けて、隙間なく体温を繋ぐ。そういえば浬にも髭が生えるのかと、肌で知る。触れたところから透けて消えてしまいそうな、限りなく頼りなく震える、この心許ない体。 浬が蒲団を引き上げて、紅花の肩に着せた。 「寒くない?」 うん、と小さく頷く。また唇に触れたくなって顔を上げた紅花に、浬は同じ口調で囁く。 「脱がせていい?」 うん、と答えるのにひと呼吸を要した。浬は半身を起こして紅花の体を隣に横たえた。向かい合うように自分も横たわると、帯の結び目を探り当てて緩め、衿を分ける。 「浬」抑えた紅花の声が、浬の指を止める。 「えっと……あたしも脱がせた方がいいの」 浬は小さく笑って髪を撫でた。「後でいいよ」指はそのまま紅花の首を通って肩へ下り、滑らかな曲線を伝う。突然紅花がその手を掴んで止めた。くぐもった笑い声が、縮こめた体を揺らしている。 「……くすぐったい」 「えぇ? じゃあこっち」 「や、笑っちゃうからっ。みんな起きるからっ」 どこに触れても紅花の喉からは、くく、と笑いを噛み殺す音が聞こえた。それでも浬は指を止めない。程無くして声に吐息が混じり始める。吐息が割合を増す。 浬は焦れたような笑い声を残して身を起こした。仰向いた紅花の体に覆い被さる影。身じろぎ。息の音。冷えた肌を熱い舌が這う。 二人を覆う闇が、肌の動きに一歩遅れて形を変える。夜が緩慢に温んでいく。 「浬。……浬」 二度目を呼んだところで、浬は身を起こした。吐息。紅花は顔を覆っていた手の甲をわずかにずらして、影を見つめる。 「あんたはきっと、初めてじゃないのよね」 ぼんやりと暗い視界の中で、浬が口を開き、言いあぐねるように閉じたのが分かった。 紅花は身を起こして彼の頬に触れた。沈黙を埋めるように指を沿わせる。衿の内へぺたぺたと、自分の手には色気の欠片すら無くて笑ってしまいそうだ。 「あたしがここに来たのが九つのとき。男所帯に放り込まれて、正直あたしは一緒に住む人ってくらいにしか考えてなかったんだけど、紅砂はきっと、すごく気を遣ってたんだと思うの。あたしが思うよりずっと。一番年下のあたしが一人ぼっちになってやしないか、寂しがってやいないか、たまにはその逆で近付きすぎてやいないか、いっつも気にしてた」 記憶を辿るようにゆっくり話していた紅花が、肩を揺らして小さく笑った。 「そうそう。ここに来てすぐの頃、あたし、何でか知んないけど黄月に憧れてたの。ここに来る前、間地で暮らしてたときだって、小間物屋くらいしか遊び場が無かったから、初めて身近に見た年の近い男の人でさ、針葉みたいながさつなのが隣にいるから引き立つわけよ。ほんと、姿があったらほんのちょっと長く見ちゃうとか、その程度でさ。多分誰も気付いてなかった。あたし自身よく分かってなかったもん。なのに」 「お兄ちゃんは気付いた?」 「そう、そうなのよ。洗い物でも干してたんだっけな、黄月と喋ってたらいきなり割り込んできて、どういうつもりだとか妹に手を出すなとか……もう顔から火が出るかと思った。結局、そんなわけないでしょって怒ってみせるしかなくて、あたしの淡い恋心はそこで終わり」 言葉を止めた紅花は、口を噤んでいる浬の胸に頬を寄せた。汗の匂い。 「ごめん。妬いた?」 「ちょっとね」 突然、浬の腕が紅花の体に伸びて、締め上げるように強くかき抱いた。紅花は目を見開く。胸が潰れて息が漏れる。浬の腕はすぐに緩み、闇に放された体は寄る辺を失った。震える吐息は闇を恐れるからか。それとも彼を。 崩れていく、弱いところからほろほろと。痺れたように身が感覚を失う。 全て漆黒に溶けてしまう前に紅花はおずおずと指を伸ばした。触れたところから体は輪郭を取り戻す。 「そ、それから……黄月とか針葉が外で泊まってきたりとかさ、仲良い女の人、連れ込んだりとかするんだけど、あたしは躾がうまくいきすぎてたみたいで、気持ち悪さしか無かったの。恥じらいを通り越して母ちゃよね。これだから男は、とか考えてさ」 浬の肌はしっとりと熱を孕み滑らかで、まるで女の肌のようだ。そこにあるはずの、いつのものかも知れぬ傷痕を指でなぞる。口づける。 浬は細い手首を掴んで紅花を組み敷いた。はっと息を呑む音。それでも紅花の声は止まない。 「き……黄月が最初に女の人連れて来たのってあんたが来てすぐだっけ。何が悪いんだかって態でさ、あ、呆れたわよ、ほんとにもう」 浬は横たわった紅花の肌を乱暴に食んでいく。頭の中には血でも撒いたかのような赤い霧が広がっている。この愛しい人を噛みちぎりたくなるほど、握り潰したくなるほどの。 「針葉は針葉でさ、そこらへんの慎みはあったかもしんないけど、ちょっと付き合っちゃ酷い別れ方する、の繰り返しで……あたし、相手の人から八つ当たりされたことあるんだから」 首に歯を立てられてびくりと紅花の顎が上がり、白い喉がむき出しになる。浬はなぶるように指を進める。 お喋りは止まない。指や舌の尖で何を教えようとも、彼女は一瞬たりとも我を失うことなく、いつもどおりの声が闇に異質な匂いを与える。 「そのうえあたし、何も知らずにその人らのとこに手伝いに行かされてたのよ。訛りを正すため。だからあたしの喋り方は全部、針葉の遊び相手譲り」 浬は息を吐いて身を起こす。二人の体の間に薄明が割り込む。その時気付いた。 紅花は平静を装うために話すのだ。だから声とは裏腹に、こんなにも緊張にまみれ、今にも逃げ出しそうな顔を。 毒々しい色の霧がすっと澄むようだった。同時に浬の腹の底から熱いものがせり上がる。 紅花は浅く胸を上下させて息を落ち着かせた。 「色々……うるさく言われるたびに、そんなこと有り得ないって思ってた。あたしの頭ん中はここに来たときのまんま。それが覆る切っ掛けなんて無かったの。暁が来るまで女の子の話し相手なんてろくにいなかったし。最近はさ、季春の子ともちょっと仲良くできてるんだけど」 「双葉ちゃん?」 不意をついて肌に触れる。押し殺した吐息。「……そう、双葉ちゃん」気取られまいと取り繕う声が却って煽情的だ。 房事を意識すまいとするほど、彼女の肌は艶を増す。躾が失敗したとしか思えない。 膝を割る。はっと紅花の息の音。 「だからね、だから、男の人と仲良くするなんて思ってもみなかったし、そんなの無縁だって思ってたし、むしろ気持ち悪いくらいだったし」 声が堰を切ったように素早くこぼれる。盾のように。 「だ、だからあたし……蓮っ葉な物言いしかできないけど、慣れてるわけじゃないんだから。だから……」 「うん」歯を食いしばる苦悶の表情。「だから?」言葉の溜まった喉が震えている。「聞かせて」 「……だから、」 耳元に寄せられた唇が小さく動いて、囁きが、浬の耳朶をくすぐるように噛んだ。頷いて答える。 それより後は言葉を成さない。身動きするたび彼女の口からは、押しやられて行き場を失った息が途切れ途切れに漏れるだけで、お喋りは止んだ。 体が分かれたときには、朝はもう手の届くところまで明けていた。紅花は浬を残し、細く障子を明けて縁側へ出る。寝足りない体には刺すような曙光が痛かった。 「おい新入り。お前んとこのかみさんは気が利くな」 ふた口目を齧り付こうとしたところだった。「あ?」針葉は握り飯を口から離して顔を上げた。人の行き交う港の屋台裏、遅い昼飯を取る彼ににやにやと目を向けているのは、湯気の立つ椀を左手に抱えた髭面の男だった。 昔のつてで声が掛かり、数日前に乗り子を始めたばかりだった。声を掛けてきたのは、名前までは思い出せないが気の良い男だ。太い眉が剽軽な印象を与える。 「何だいきなり」 男は右手の箸で針葉の握り飯を指した。 「アスビナだろ、それ。この冬じゃ初めて見たな。初もんたぁ縁起がいい」 「これか?」 歯型に凹んだ握り飯から顔を出しているのは、どこにでもあるようなカタウオまぶしの青物だ。苦みのある厚葉が甘味噌で煮られている。男はずるりと麺をすすって咀嚼しまた口を開けた。 「知らんのか、どんなに冷え込んでも風邪引かないっつってな。見せ付けやがって、この野郎」 「何だ何だ、盛り上がってるねぇ」 「見てみろよ、アスビナだ」 串を手に近寄ってきた背の低い乗り子に、髭の男が顎をしゃくって教える。針葉は片頬を歪めてふた口目を荒っぽく頬張った。うまく呑み込めない褒め言葉ごと喉の奥へ押しやる。 「冷え切って氷みてぇだ。日の出前から川下りした身にゃ、あんたらのほうが羨ましく見えるぞ」 針葉は広げたマチクの最後の一つに手を伸ばす。髭の男は渋い顔で首を振った。 「贅沢贅沢。作ってくれるだけで万々歳だろうがよ。うちの母ちゃんなんて昼飯はおろか、夜飯だって忘れたことあんだぞ。普通忘れるか、亭主の分を? 口を開きゃあ稼ぎが悪いだの何だの。お袋とも口喧嘩ばっかりの癖して、何かあるとぐるになって責めてきやがるし」 「おまけに見るたび肥えてくもんな」 「やめろ、追い打ちかけんな」 二人の掛け合いを聞きながら針葉はマチクの皮を丸め、口の端についた飯粒を取って立ち上がった。 「そいつはとんだ外れくじを引いたもんだな。可哀想に」 同じような軽口を叩いたつもりだった。だが場の熱気がすっと冷めたのが肌で感じられた。 「外れくじねぇ。なかなか手厳しいな」 背の低いほうの男が頭を掻きながら言う。髭の男は困ったように笑いながら椀の残り汁を土へ返した。 「いいって、俺がちっと貶しすぎた。いいか新入り、うちの母ちゃんは口は悪いし器量も十人並みだ。しょっちゅう朝寝坊するし昼飯も作っちゃくれねぇし、縁起もんなんて一生拝めねぇだろうよ。けど間違っても外れくじじゃない。うちのちびどもの母ちゃんは、あの大飯食らいだけだからな」 「おいシゲ、さっきより余分に貶してないか」 「俺が言うのはいいんだよ。さ、そろそろ戻るぞ。 とんと肩を突かれて堰までの道を戻る。街を過ぎるうちに同じように昼を取っていた乗り子が加わり、川端でせっせと蔓を解く見張り手が見える頃には十人近い一団となった。 「悪かったな」 途中で声を掛けた針葉に、髭の男は気のいい笑みで振り返った。 「いいってことよ。お前さんもいずれ餓鬼ができりゃ分かるだろうさ」 しんと静まる暮れの夜道は、気付かないうちに体の芯まで凍らせる。今日は風が無いだけ幾分ましだった。木々に沈んだ蒼い坂道を、針葉の下駄の音だけが上っていく。 髭の男に肩を叩かれたとき、澱の中からむくりと頭をもたげた感情があった。周りの泥を舞い上げて底から水を汚していく、重ったるい化け物。 ――見せ付けやがって、だと? だがそれは言葉にしてはならない。頭の中でさえ、形作ってはならない言葉だった。 ――ふざけるな。お前のほうが余程、 言葉にしてはならない。 足が坂の終わりを踏み、樹影が途切れた。仰いだ星が白い息で曇り、 針葉は仰いだ顔を元に戻す。見慣れた家の影の中に何かが見えた。 細く長く息を吐く。 針葉は同じ速さで足を進める。目を逸らし、数歩のちまた戻す。 彼女は身体に襷をくくり付け、籠のようにした胸元に「あれ」を抱えていた。大方、泣き出したものを連れて外を歩き回り、いつしか眠り込んだのだろう。ここのところ家には安らかな夜が訪れていた。当然だ、こうして抱え込む者がいるのだから。 あと十歩ほど。足取りを緩め、忍ぶようにそっと、震えそうな息を吐き出す。 再会したふた月前よりも頬が痩けて顎が鋭く見える。肌も唇も、夜闇の中でさえ色を失っているのが分かる。寝息は聞こえない。白い靄も見えない。ゆったりと上下を繰り返す胸と、あの生き物。 足を止める。 肌を合わせた後の彼女は決まって自分の寝床へ帰っていったから、共に夜を過ごすようになって以来、彼女の寝顔を見るのは初めてだった。「あれ」の姿を見るのも、無論これが最初だ。針葉は視線をゆっくりと下ろす。 はっと息が止まった。 幼い目が彼を見つめ返していた。 針葉はあどけない瞳に射竦められたかのように動けなくなる。 喉だけで浅い息を繰り返す。ごくりと唾を呑む。 丸い目は、泣くでもなく笑うでもなくじっと目の前の男を見ていた。おもむろに母の胸を離れた手が、短い五本の指が、彼に向かって伸びる。月を求めるように無心に。 歯が鳴る。苦しい。まるで刃を突き付けられたかのように、刃、まさか、あれは指だ、首にまとわりつく長い指。 「あー……」 柔らかい声が夜に響いた。暁がはっと瞼を開け、眼前に立っている男に目を丸くした。 互いに言葉は無かった。 にわかに険しくなった顔で、暁は小さな生き物を覆い隠すように強く抱いた。針葉の知らない顔だ。それは子を護る一人の母だった。 針葉の体が痺れたように重くなる。こわばった手足をぎこちなく動かし、二人の脇をすり抜けて縁側へ上がった。 「部屋に戻れ。……風邪ひく」 吐いた息の白が消えてからは振り向かず、泥濘を掻くように、自分の部屋のある右端の部屋まで冷えた板の上を歩いた。急速に寒さを思い出していた。 もはや舞い上がった泥では隠しようがない。 女は子を宿した瞬間から別の生き物になる。だがそんなことではないのだ。原因はそんなものではない。 針葉は叩き付けるように障子を閉め、そのまま膝をつく。闇に沈んだ部屋の中で瞼を閉じる。闇。その奥から伸びてくる指。声にならない叫びが体の中でこだまする。 わだかまりは完全には消えない。全てを呑み下せはしない。それでも暁は悪くない。彼女が抱いていたあの子供も。ただただ認められない。ただただ恐ろしい。 水面まで立ち上った泥がゆっくりと沈んでいく。目を背けてきたものが見える。 拒んでいるのは自分だ。目を閉じ耳を塞ぎ、同じ場所で足踏みしているのは。 目を開けた。 ――原因は、俺だ。 戻 扉 五ノ年 |