里に連れられて坂を上ってきたゆきは、初めて見る家に大はしゃぎだった。地から這い上る冷たさをものともせず、頬を赤く染めて幹の間を走り回り、積もった落ち葉を踏みしだき、井戸を覗き込み、縁側へよじ登って家の中を探検した。
 それもやっと落ち着き、今は暁の隣にぴったり寄り添っている。暁が読んでやっているのは草双紙で、ゆきは暁の膝の上の絵をじっと見つめていた。話の間は微動だにしなかったが、読み終わるとほぅと息を吐いて笑顔を見せた。
「面白かったの」
 ゆきは大きく頷き、本の初めを開いて絵を指差した。話に出てきた子供の一人だ。暁が名を読み上げると頷き、また別の面を開いた。指差しと身振り手振りで、ゆきは言葉を繋いでいく。
「うんうん、長吉が……長吉と、次郎吉が、……もらった薬の実を埋めて……震える……寒い間もじっと待って、……芽、かな? 芽が出て、実が生って、おいしそう? 違うか。うーん、偉い? ……でもないか、村の皆が、元気になって、……あ、嬉しい?」
 ゆきが満足げに頷いたので、暁はふと思い付いて机を引き寄せた。筆の穂先を墨に浸して、今自分が読み上げたゆきの言葉を仮名で書いてやる。
「ゆき、ご覧。これが今言いたかったこと。分かる、これがちょうきち。と、じろきち、が……」
 ゆきは根気よく何度も文字を追い、暁と一緒に筆を持ち、ついには真似ながら字を書いてみせた。不揃いで不恰好な文字は、しかし声を失った彼女が自力で発した第一声だった。
「凄い凄い。里さんに見せておいで」
 ゆきは後方で睦月の様子を見ていた里に駆け寄った。彼女は紙に目を落として表情を緩め、ゆきの頭を撫でた。
「そうね。きっと、どんなに駄目だって言われても、旅の人の言うことを信じて世話したから、芽を出してくれたのよ。でも独り占めせずに分けてあげるんだから二人とも優しいね。ゆき、字も書けるようになったの。頑張ったね。家でもお稽古したい?」
 ゆきが頷くと里は目を細めた。「よし、頑張ろう。次に来たときお姉ちゃんを驚かしてやろう」
 戻ってきたゆきに暁は草双紙を手渡した。言葉に飢えているからか、ゆきは呑み込みが早い。自分一人では読めずとも、絵を眺めていれば字に親しむことにもなるだろう。
「それはそうと、睦っちゃん風邪ね。元気はあるから長引かないと思うけど。汗をこまめに拭いてあげて、便の様子にも気を付けて。もしおっぱいを受け付けないようなら早めに呼びにいらっしゃい」
「ありがとうございます。……体を冷やしてしまったんでしょうか」
「そんなに気にする事じゃないわ。半年過ぎればそりゃもう風邪もひくし怪我も多くなるし。いちいち落ち込んでちゃあなたが持たないわよ」
 暁は眉を寄せてぷっくり膨らんだ睦月の頬に触れる。内側に籠った熱が感じられた。渇いた唇が小さく咳をする。
「夜泣きがひどいと負って外に出るんです。その……あんまりうるさくしてもいけないと思って」
「いいんじゃないの、私だってそうしたわ。歩いてると意外と泣き止むものよね。暖かくしてやってるんでしょ、なら大丈夫よ」
 暁がほっと息を吐くと、里は立ち上がってゆきを呼んだ。もう日が傾いている。
「悪いけど隼くんに送ってもらおうかしら」
 暁は黄月を呼びに立ち上がる。それを里が呼び止めた。
「忘れてた、お爺ちゃんから伝言。早く次の本を書き上げろって。和解わげも逆引きもあと二十は欲しいらしいわ」
「にじゅ……!? でも、この前新しいのを納めたばかりですよ。そんなに早く売れるはずが」
「それが売れたんだって。北で異人が捕まったって聞いたでしょ。すぐにお役人が北へ調べに向かって、今はもう番処に向かってるらしいの。本国とやり取りする必要が出てくるからって、港番がご所望らしいわ。ここまでが本当の話。で、港にも流行りが飛び火するに違いないっていうのがお爺ちゃんの胸算用。更に季春座がこの一件を芝居に取り上げて市井にも流行りが広がるし、方々の私塾にも異国語が根付くだろうっていうのが皮算用。先物買いここに極まれりよ。あなたの体が持つ範囲で、売れるときに売っておけば」
 暁は少し考えて答えた。
「各一は三日後までに納めます。それから先は……善処します」
「伝えとくわ」
 ゆきは草双紙を胸に抱き、満面の笑みで坂を下っていった。



 それから半月ばかり暁は働きづめだった。布団から上肢を起こして預かった紙の束に視線を落としていた浬は、自分の右肩を器用に揉みながら現れた暁に視線を移し、痩せて死にかけた野良猫でも見付けたような顔をした。
「お疲れ」
「うん。……これ、一冊追加お願い」
 差し出した紙の束を浬が受け取ると、暁は両目の間を指で揉みながら敷布団の傍に腰を下ろした。
 浬は受け取った束を脇へ置き、元々膝に置いていた束へ視線を戻す。この急な繁忙を乗り切るため、暁は書き仕事に専念し、朱墨の異国文字は紅砂が、墨字の国字は浬が点検していた。浬の黒い目が縦に細かく動いて字を追っていく。
「睦月の様子見てくる」
 そう言って去った暁は、そうそうしないうちに睦月を抱いて再び現れた。浬は再び顔を上げる。
「あれ。黄月は外に出たの」
「いるけれど、薬を調合するって」
 うつむきながらも、口角はどうにか上げている。見てはならない。浬は自分の目を紙面に引き戻した。
 暁は睦月を抱えて日ごと行き場を探す。夜は夜で、泣き声が治まらないと外へ連れ出して宥めているようだった。静かな夜が戻った、過ごしやすくなったと、表立っては口にしないだけで誰もが思っていただろう。
 浬が目を動かしていると、視界の端で暁は子を抱いたまま船を漕ぎ始めた。睦月の形になりかけの声が聞こえるたび、小さな手足が触れるたび、はっと目を覚まし、またゆらゆらと瞼が下りる。
「遊ばせておいていいよ。暁も横になりな。ちょっと働き過ぎだ」
 迷っていた暁も睡魔には勝てないようで、浬が枕を寄越すと、むにゃむにゃと謝りながら体を横たえた。一年で肩の下まで伸びた髪がふわりと広がる。目が痛むのか、彼女はしばらく閉じた瞼に皺を寄せていたが、程無くして寝息が聞こえた。
 睦月はきょとんと母を見つめ、次に浬を見つめた。浬は夜着で暁の体を覆った。
「お前の母上は困った人だね、倒れるまで力の抜きどころが分からないんだって。……そんなものなのかな、母親って」
 睦月の柔らかい髪を撫でるが、幼子はつれなく顔を背けると、滅多に訪れない浬の部屋を珍しげに掌と膝で歩き回った。おとなしいもので、手に取れるものを見付けて一人遊びに熱中している。浬は、睦月が小物を口に入れないよう時々目を向けるだけだ。睦月は織楽から押し付けられた踊る老婆の石像がたいそう気に召した様子で、しばらくお喋りしながら睨めっこしていた。
 早い夕暮れが訪れる頃、暁は寝返りを打ってはっと飛び起きた。
「夕餉の支度!」
「紅花ちゃんが取り掛かってるよ。まだ頭がしっかりしてないだろう、今日は包丁持つのはやめときな」
 傍らの浬を見ていささか驚いた様子の暁は、やはりまだ寝惚けていたようだ。夜着を肩まで引き上げてふっと息を落とした。かと思うと頭まで被って落ち込んだ声を漏らした。
「そうする。……ああもう、駄目だ。紅花は怒ってなかった」
「全く」
 むしろ彼女は、暁が浬の部屋で眠りこけていることに眉をひそめたようだったが。母の目覚めに気付いて睦月が這い寄ると、暁は起き上がって夜着で包んだ。睦月は「ばっ」と這い出してにやにやする。
「少しは休めたの」
「ん……うん、大分楽になった。ごめんなさい」
 そう言う顔にはまだ疲労が色濃く残っている。浬は気付かないふりをして膝の本を閉じ脇に積んだ。
「謝ることじゃないよ。それより暁は、自分が育てられたように睦月を育てたいと思っているのかもしれないけど、どだい無理な話だからね」
 暁は目を丸くしたが、すぐに肩の力を抜いた。
「そうか……浬は知ってるんだったね、私の家のこと」
「儀式と託宣だけやって生きていける身分じゃないんだから、無理をしちゃいけない。子を迎えるのはこの家でも初めてのことだし、気を遣うのは分かるけど」
「うん、分かってる……つもり。ありがとう」
 暁はこそばゆさと困惑を混ぜ合わせたような顔でうつむいて、浬に微笑んだ。
「浬こそ、随分無理したみたいだね、その怪我」
「これは別に……」
「烏がらみなの。針葉と一緒に戻ってきたって聞いて驚いた」
 浬は溜息を落とした。こちらが暁の事情を知っているのと同様に、暁も全てではないにしろこちらの事情を知っているのだった。
「暁、一度川を渡ってみるといい」
「……どういうこと。そんなことをしたら、あの人が」
「彼女はもういないよ。そりゃ誰か見張りは付くだろうけど、今度は純粋に君の身を案ずるものだ」
 ぽかんとした暁の顔がすぐに恐怖に覆われる。視線が左右に振れて、ひそめた声がかすれる。
「何があったの。二人して一体何を……」
「全くの偶然だよ。僕は針葉さんが現れるとは思ってなかったし、向こうも僕がいるとは思わなかっただろうね。自分が訊かれたら困るからか、あの人は何も訊いてこない。だからお互い事情は明かしていない。と言っても、こっちは大体の見当がついているけど」
 浬は幼子の頬を撫でる手を止めて、視線だけを暁へ向けた。
「あの人が彼女から赤烏の仕事を融通されていたのは知っているだろう。そのうえで何かあったんだ」
「それで……あの人が、その」
 言いにくそうに籠る声を、浬は小さく頷いて止めた。暁は眉を寄せる。
「針葉の事情は分かったけれど、つまり浬が先に痛めつけられてて、その後で針葉が現れたってこと? 浬は何があってそんな目に遭ったの」
「日頃から針葉さんに雑な扱いを受けてる僕が、ついに痛めつけられたとは思わないの」
「そうなの!?」
「違うよ」
 浬は顔色一つ変えずに言う。暁は苦いものを嘗めたような顔で脱力した。
「浬は私への扱いが雑になっていると思う」
「そうかな」
 浬は小さく笑って考える、暁が本当に兄嫁となっていたとしても、こんなやり取りがあったのかもしれない。
「針葉さんには助けてもらったよ、悪態は散々吐かれたけど。彼女とは……まあ色々あってね」
 暁の目が訴えている、言わない気か、と。浬はちらと視線を返す。言わないよ。暁は根負けして目を逸らす。
「……あの人が手を下したということは、向こうには露顕していないの」
「どうかな。でも、ばれていたとしても意趣返しとはならないよ。彼女が勝手に動いた末のことだからね」
 完全に胸のつかえが取れた様子ではなかったが、暁は愁眉を開いた。
「浬は、自分が黒烏ではないと言ったね。みずちの文身も持たない。なのに関わりすぎている。知りすぎている。……一体何者なの」
 浬の返答は小さな笑み一つだった。言わないよ。今はまだ。
 足音が近付いてきて襖が開く。顔を覗かせたのは紅花だった。
「ご飯よ。ああ、起きたの暁。大丈夫?」
「だっ、大丈夫! ごめんなさい」
「いいわよ別に。浬、これ黄月から。後であたしにも読んで」
 紅花が差し出したのは早売りだった。浬は受け取ろうとした手を止めて暁を指した。
「暁、先に読みなよ。僕はしばらくこっちにかかりきりだし」
 暁は刷り紙を受け取った。横長の紙の下半分にはでかでかと絵が陣取り、周りを仮名多めの字が囲んでいた。
 睦月を抱き上げて廊下に出た暁は、奥の左手に位置する自分の部屋から細く灯が漏れているのに気付いた。そっと覗き見ると、紅砂がまだ積み上げられた紙の束の中に座っていた。
「紅砂、夕餉だって」
 襖を開けると、彼は顔を上げて腹から息を吐いた。めくっていたところに、書き損じの半紙を裂いただけの栞を挟んで置き、大きく伸びをする。
「そっちにまとめたのが終わった分だ。見るだけでもなかなか堪えるな」
「うん……ごめんね、ありがとう。お疲れ様」
「俺に気を遣えって言ってるんじゃなくて。誤りなく書き上げるほうが余程堪えるだろ」
 暁は苦笑して返事を避けた。腰を屈め、脇へ寄せた文机に早売りを置く。「早売りか」後ろから声がしたので、頷いて最初の数行を走り読みする。
「例の、異人の一件みたい。昨日とうとう異人が境に到着した、異人を初めに匿い知識を与えたとされる港にも改めが入るだろう……だって。今朝の早売りだろうから、もう番処に入っているのかもね」
 紅砂は何も言わなかった。暁の隣に並び、文机の上の早売りを取ると、じっと目を向けていた。



 あ、雨が降っている。
 紅花が音に気付いて外を見たときには、既にざらざらと形のある雨粒が地を打っていた。空は昼過ぎとは思えず暗い。慌てて物干しを置いた南側へ駆ける。
 縁側へ出たところに洗い物の山が飛んできた。短く叫んで受け止める。顔を上げると、残りの衣を竿から手際良く取って駆けてくる浬の姿があった。
「ごめんごめん、濡れちゃったかな」
 第一声がこれだ。紅花は顔を歪めて「馬鹿」と吐き出す。浬の笑みが堅さを帯びる。
 紅花は抱えたものをそこに置いて手拭いを引っ張り出し、浬の髪から額へ、頬へ伝う雫を拭った。
「馬鹿よあんた。あたしの仕事よ。なんで怪我人のあんたが走り回るのよ。風邪でもひいたらどうする気」
 睨みつけた視線が、静かに彼女を見下ろす視線と絡む。紅花は思わず手を止める。
「怪我人だけど病人じゃないよ。それに体だってもう無理なく動くし」
「屁理屈言わない。……ねえ、これ部屋に広げたいんだけど、体が動くんなら手伝ってくれる」
 二人は洗い物の塊を夕餉の部屋へ運び、湿り具合を確かめつつ一つ一つ広げていった。紅花はちらと浬を見る。無理をしているようには見えない。
「本当にもう大丈夫なの」
「ん? うん。肋って折れやすいけど治りやすいんだって。腕はさすがにね。肉が落ちてたから、元通り動かすまで苦労したけど」
「でも走ったりなんかして」
「あのね。元々足は打ち身くらいしか無かったんだよ。これ以上部屋に閉じ込められたら足の肉まで落ちるから、少しは働かせてほしいな」
 自分の過保護ぶりが目の前に曝されたようで、紅花は顔を伏せた。湿り気の少ない衣類を畳む。
「……そろそろ聞かせてくれてもいいでしょ。何があったの」
「だから何がってわけじゃないんだって。変な奴に絡まれてさ、運が悪かったんだ。心配かけたのは悪かったけど、僕だって恥ずかしいんだから、あんまり蒸し返さないでほしいな」
「嘘でしょ」
 浬は口を結んで顔を上げる。紅花が困ったような、縋るような顔で彼を見返していた。
「だって浬、言ってたじゃない。ひよさんから文を受け取ったその日に、遠出するからって。器を返しに行くんだって。……団子屋には今、別の女の人がいるのよ。ひよさんのこと聞いても、遠くへ嫁いだの一点張り。でも浬、あんたもしかして何か関わってるんじゃないの」
 浬はゆっくりと瞬いた。
「そんなこと言われても。……じゃあ訊くけど、紅花ちゃんはどう思ってるの」
 この少女に勘付かれるとは思っていなかった。浬は息を吸って待つ。体のすぐ傍を、ぴんと張った何十もの糸に取り囲まれているようだった。
 紅花は浬の目と衣の隙間から覗く畳とに視線を彷徨わせ、意を決したように口を開いた。
「つまりね、つまり……ひよさんには別に好いた相手がいたのよっ」
「……え」
「あの団子屋は休みも多いし、二人養えるほど儲かってないと思うのよね。火の車なの。そこに嫁入りの話が入ってきて、なんとその相手は借金を肩代わりしてくれるっていうのよ。でも好いた相手がいるひよさんは、どうしても受け容れられなかったの。だから、ちょっとした知り合いで弁の立つあんたに助けを求めて、自分は好いた相手と逃げ出したのよ」
「あの……」
「借金を肩代わりできるくらいの家だもん、当然腕っ節の強いのの一人や二人雇ってるわ。矢面に立たされたあんたは哀れにもこてんぱんにのされたんだけど、恨みごと一つ言わず、健気にも口を閉ざしてるのよ。それもこれも遠くへ逃げたひよさんたちの身を案じてのことよ」
「紅花ちゃん」
 強めに呼び掛けた声で、ようやく彼女は浬に視線を合わせた。浬は子供にそうするように、目を細めて微笑みかける。
「……季春座の顔見世って、もしかして駆け落ちものだった?」
 紅花はぱっと顔を輝かせる。「あんたも見に行ったの!?」
「いや、見てないけど。なんとなくそんな気が」
「そ、そう。そうよね。確かに顔見世が始まってからほとんど部屋の中だもんね……」
 みるみる消沈して作業に戻る紅花に、浬の口から思わず笑いが漏れた。
「まだやってるんだろ。紅花ちゃんさえ良ければ連れて行ってほしいな」
「本当? いつ行きたい?」
「混んでない方がいいな。今年は港で見世が開かれたりしないの。そういう時なら客が分散するだろ」
 紅花は宙を見て何事か考え出す。もはや、自分が何に疑いを持っていたのかすら忘れているようだ。
「でも生憎、僕はそんな芝居みたいな境遇に巻き込まれちゃいないからね」
 紅花は唇に笑みを浮かべ、あれでもないこれでもないと考えながら、分かってるわよそんなの、と呟いた。



 二人が季春座へ出向いたのは、それから十日近く経ってからだった。冷えた風が頬を弾く。町の人出は多かったものの、芝居小屋の中は混みすぎることもなく、賑わいと見やすさがちょうど良い塩梅だった。弁当を持ち込み、四人掛けの升席を二人で使う。
 話は、なるほど紅花の頭の中が染まるのも納得の、情に訴えかける悲恋ものだった。終幕近くで浬が隣を盗み見ると、紅花は震える唇を噛みながら瞼に涙をたっぷり溜めていた。
 口元が緩みそうになり、彼女の気分を壊さぬよう慌てて強く結ぶ。
 芝居小屋を出たのは空がすっかり暗くなってからだった。浬は提灯を手にゆっくり歩く。隣では昂奮冷めやらぬ紅花が気に入った場面についてまくし立てていた。一つ一つに頷いてやると、地蔵が見える辺りでようやく話し声が途切れた。熱を放ち続けた細い体がぶるりと震えたので、浬は自分の羽織を紅花の肩に掛けた。
「それにしても今日は何の日だったの。通りは人出が多いような気がしたけど、芝居小屋は落ち着いてたね。港で何かあった?」
「多分ね。最近まで改めで港に入れなかったし、今日は何しろ特別だもん。異人見物でしょ」
 港の改めについては浬も耳にしていた。自分の足元の埃だけは見て見ぬふりをしていた港番が、異人が忍んでいた一件で、ようやく重い腰を上げたのだ。通詞つうじの取り調べと数日に及ぶ港見世の洗い出しは、果たして二人の女郎の関与を浮かび上がらせた。
「でも例の異人が番処に連れて来られたのは、先月の末じゃなかった? 早売りが出てたと思うけど」
「そうよ。すっごい人出で歩けないくらいだったんだから。今日はその異人の国の人たちが話しに来る日だったみたい。葦さんが見に行くって言ってた。意外と珍しいもの好きなの、あの人」
 二人は地蔵を目印に右へ曲がり、坂へ差し掛かる。そこで提灯の光がふっと勢いを失った。
「あれ」紅花が覗き込むのを待たずに火が消えて、辺りは暗闇に沈んだ。最後の光が目に焼き付いて邪魔だ。紅花は目をしばたたく。
「蝋燭、使いさしだったのかな」
「かも。ごめん、店にあったのをよく見ずに持ってきちゃったから」
「いいよ」
 浬の腕が伸びて紅花の肩を抱いた。紅花は思わず体を縮こめる。
「足元、気を付けて。歩ける?」
 紅花はぶんとかぶりを振り、暗さを思い出して「大丈夫」と付け足した。
 二人は暗い坂道を少しずつ進む。木々の表面を撫でる風。一歩ごとに乾いた葉の砕ける音。ぴたりと寄り添いながら、まるで慣れぬ道のような帰り路を行く。
「今日は暁に飯当番を任せたの」
「……そうよ。黄月と針葉だけだし。あ、でも黄月にはちゃんと言っておいたから。針葉と暁が二人きりになることはないはず」
 言いながら紅花は、まるで先回りの弁解だと思う。自分が家を空けるときには何もかも手筈を整えなければならないと、勝手に思い込んでいる。
 浬が気にした様子は無かった。そのまま足を進める。じきに目が慣れたが、浬に支えられて進むのが心地よくて、酩酊したかのように紅花の歩みは遅いままだった。
「少し、帰るの遅らそうか」
「え?」
 浬に腕を引かれて道を外れた。紅花は足元を確かめるのに必死で、転ばないようにするのが精一杯だ。先を行く浬は踏み均されていない柔らかい土の上を、まるで日中のようにすいすい行き、一本の幹を背に立ち止まった。
 視線を合わせる間も無く、紅花は抱き寄せられていた。ぴたりとくっついた衣越しの肌からじんわりと熱が広がる。最初に戸惑い、次には受け入れられて当然と言いたげな振る舞いへの反発。そしてそれをかき消すほどの愛しさが、奥深くから皮膚を通ってぞくぞくと湧き立つ。体じゅうがむず痒いほどだ。
 迷いはきっと、一瞬にも満たない短い間だった。そっと浬の背に指を這わせる。
 辺りは暗く、あまりに近くにいるせいで顔も見えない。それが紅花の背を押したのかもしれない。
 ずっと身を乗り出して眺めていた淵へ、痛みなく落ちていくようだった。屈したのだ。心の弱いところからほろほろと崩れていくような、心地よい不安感。頬を押し付ける。委ねるのはこれほど甘やかなものか。
 浬が腕の力を強めた。紅花はうっとりと目を閉じる。耳元に熱い息。
「家に帰ったら当分お預けだもんね」
 あ。
 ずるい人。
 頭より先に心がそう呟いた。熱が逃げていく。紅花は目を開いたが闇があるばかりだ。ぎこちなく、誰もいない方へ視線を逸らす。
 何をどうしてそんなふうに思ったのか、うまく言葉にできない。だが疑る心は種火のようにちろちろと闇を食む。「いつもこうだ」、「選ばせると言えば聞こえは良いが、責めを負いたくないだけなのでは」。
 紅花を抱く腕の強さは変わらぬままだ。その内で彼女がどんな顔をしているかなど知らずに。浬を、愛しいと思う。可愛いと思う。ただ今までよりも、彼女の肌は外気を吸って冷えている、それだけだ。
 紅花は幾分熱から醒めた頭をゆっくりともたげ、少し高いところにある耳に唇を寄せた。
 冷たい耳朶。
「あんたの部屋で、いいんでしょ」
 浬は腕を緩めた。暗がりに慣れた目で向かい合う。離れたところから冷たい風が吹き込んで、冷える、冷える。
「いいの」
 ずるい人。優しいふりをして、とてもしたたかな人。でももう知ってしまったから、気付かないふりをしてあげよう。紅花は指を絡ませてわずかな温もりを得る。
「帰ろう」
 鳥肌の立った腕を擦りながら、二人は夜の道を再び歩き出した。