ろくに歩けない浬に肩を貸しつつ悪態を吐きつつ坂道を上って、懐かしの家に辿り着いたのは夜更けだった。丸い月がそろそろ天に昇る時分だ。
 にも関わらず、戸を開けた音にすぐさま駆け付けたのは紅花だった。そして二人を見るなり、
――どういうことよっ!」
 躊躇いなく針葉の頬を叩いた。乾いた音が秋の夜長に響き渡る。唖然としたのは針葉だ。
「な……っ、何すんだお前」
「何するじゃ無いわよ、どうせこんなことだろうと思ったわ」
「訳の分かんねぇこと言ってんじゃ……」
 妹の声を聞き付けたか、続いて現れたのは紅砂だった。眉を寄せて目をしょぼつかせていた彼は、事態を把握するなり紅花を引き離して浬の右手に回った。
 青い目がちらと二人を見て「酷い目見たみたいだな」と呟いた。針葉の眉間の皺が薄くなる。それはきっと自分にも向けられた言葉だった。
「妹が早とちりして悪かった。何があったか知らないが、後は俺が運ぶから休んでろ」
 紅砂は浬の腕を自分の肩に回してひと息で引き上げた。針葉はひゅっと短く口笛を吹く。疲れを差し引いても体の使い方では到底敵わない。
「花。まず黄月起こして、浬ん部屋に蒲団敷いてこい」
「わ、分かった」
 不満げに見ていた紅花が慌てて飛んでいく。針葉は紅砂に浬を任せ、最奥の自分の部屋までのろのろと二人の後を付いていった。三つ目の部屋で紅砂たちは左手に折れる。中には火が灯され、黄月が薄暗い光の中でがちゃがちゃと壜をいじっていた。針葉と目が合う。
「生きてたか。いよいよ獣じみてきたな」
「うるせえよ。お前こそ面白いもんしてんな。何だそれ」
「眼鏡だ。玻璃でできている。よく見えるぞ」
 一年ぶりの再会などこんなものだ。話し込みたいこともあったが疲れ過ぎている。そのまま廊下を歩いて自分の部屋へ向かうと、中では紅花らしき影が蒲団を広げているところだった。
「……黄月が敷いてやれって言ったの」
 訊いてもいないのにばつの悪い声で呟くと、のそのそと蒲団を伸ばし、意を決したように顔を上げる。「さっきはごめんなさい」――滅多に無い詫びを茶化す余裕も無く、針葉は倒れ込むように横になった。
 その後は何も聞こえなくなった。底無し沼に沈むように、針葉はどこまでも深く眠りに落ちた。

 目が覚めたときは既に日が昇り切っていた。疲れた彼を慮ってか障子も襖も閉まっている。体が千切れるほど伸びをして寝返りを打つと、部屋の隅に握り飯の入った椀が置かれているのが目に入った。紅花にしては気が利いている。
 蒲団の上に半身を起こして頬張った。全体にまぶされたオビノモの塩加減が程良い。次に手に取ったものには赤身魚の醤油漬けが包まれていた。たちまち椀を空にし、針葉は再び横になった。眠気が完全に消えるまで怠惰に過ごしたい。
 目を閉じ、直後に起き上がった。腹は膨れても喉の渇きは癒えない。ふらつく頭を押さえて立ち上がり縁側へ出ると、ちょうど紅花が洗濯物を干しているところだった。足元に置かれた盆を蹴りそうになり、床板が鳴って紅花が振り向く。
「あ……、起きたの」
「飯だけじゃ喉渇いてよ。茶ぁあるか」
「飯? ん、じゃあそれ飲めばいいわよ、口つけてないから」
 彼女は近寄ろうとして途中で表情を強ばらせ、足を止めた。針葉も上げかけた手を下ろす。
 家を出てきたときの騒動が頭をよぎる。当時の激情は彼の中では既に過去のものだったが、家の者にとっての自分はあの時のままなのだろう。ほころんでいた唇を結ぶ。
 しかし紅花の口から出てきたのは予想しえない言葉だった。
――くさい」
「は?」縁側を下りようとした針葉から後ずさり、紅花は大仰に鼻を摘まんで顔の前を扇ぐ。
「やめて近寄んないで! あんたいつから風呂入ってないのよ。そのぼろぼろの着物も。やだ、蒲団も!?」
「そんな臭うか? 昨日帰ったときは何も言わなかったくせに」
「昨日は……っ、浬もあんたも、あんななりで帰ってくるもんだから訳分かんなくて」
 確かに、いつもは家へ戻る前に港へ寄っていた。山道を走りどおしで血と汗にまみれた体臭は、水浴びだけで落ちるものではないだろう。ついでにその後には骸を始末し、吐瀉物と血と埃まみれの浬を運んでいる。
「……湯屋行ってくらぁ」
「髭も髪もどうにかしてきなさいよ。家に入れないからね」
「あーあー分かったよ。んで浬はどうだった」
 しかめっ面が虚を衝かれたように弱々しくなる。一瞬のことだったが、針葉もぎょっと目を丸くした。
「肋から腕にかけて骨折と打ち身だらけって。今は黄月に替わって紅砂が様子見てる。目は覚めてるけどまだ何も食べらんないし、すごく苦しそう。あんなの見てるこっちが辛いわよ。なのに何聞いても答えてくれないし……何があったの」
「いや、正直俺も知らねぇんだ。帰る途中でたまったま拾っちまって」
 それで得心する紅花では無いだろうが、弱々しく頷いて溜息を吐いただけだった。
「あれじゃ当分動けやしねぇが、無理しなきゃそのうち治るだろ。あんま気に病むなよ」
 紅花は珍しいものでも見るようにじっと針葉を見つめた。「何だ」
「あんたちょっと変わった? 何か――
「当ったり前だろ、日々粋に磨きがかかってくんだよ俺は」
「何か気持ち悪い、針葉のくせに」
 紅花こそ生意気の中に嫋やかさの片鱗が見えるようになった、のは気のせいに違いない。この生意気娘が。
 着物を替えて紙入れを懐に仕舞い、縁側に出る。紅花は再び物干しに戻っていた。たすき掛けの背中に呼び掛ける。「そんで、あいつは。昨日は見えなかったけど出掛けてんのか」
 紅花は振り返りもしなかった。「織楽はしばらく留守よ」
「誰があの糞野郎の行方なんか知りたがるか。あいつだよ、ほら……暁」
 振り返った紅花の目が針葉と合った、と思う間に明後日のほうへ逸れた。あー、と間延びした声。胸にざわりと嫌な風が吹く。
「……何だよ。まさか糞野郎と一緒とか言わねぇだろうな」
「ば……っ、無いわよそれは絶対。あ、あのね針葉、あんたに言っとかなきゃいけないことが……、あ、でもその前にまず誤解を解いときたいんだけど」
「まだるっこいな。いるんだろ、そこに」
 縁側の端にある一室を親指で示して歩き出す。最低の別れ方をしてから一年半近く。時が経ちすぎた。もはや愛しさか懐かしさかも判別できないのに探そうとするのは、もつれた糸が今も指に引っ掛かるからだ。
 触れられない、顔も見えない声も聞こえない、苛酷な道中の安らぎにはなりえない女。それでも家を想うときにふと浮かぶ、帰り道の標のような女。不思議と、瞼に縫われた姿はいつも穏やかな笑みを浮かべていた。そんなもの、実際に目にできたのは数えるほどしか無いというのに。
 変わらないものなどあるわけがない、ましてや自分を待っているなど。あれだけのことをしたのだ。覚悟はしているつもりだった。
 心は凪いでいる。彼女を再び求めるのでも、背を向けるのでも、いずれにでも踏み出せるだろう。だがそのためには彼女の今の気持ちを知らねばならなかった。きっと目を合わせた一瞬で全て分かる。
「いるけど……ちょっと待ってよ!」甲高い声と同時に袖を掴まれ、転びそうになり振り返る。「さっきから何なんだ、お前は」
 そのとき泣き声が聞こえた。家にそぐわないふやけた音は猫の鳴き声を想起させた。視線が交わる。針葉の瞳が細かく揺れた。何だ、これは……何だ。
 紅花の表情の微妙な変化から、首のわずかな動きから、湧き上がるように、体の外側のどこか遠くで、ぞわりと鳥肌が立つような感覚。
 これは何だ。
 紅花が、思い出したようにそっと自分の鼻を摘まんだ。



 遠目に団子屋が開いているのが見えた。表ではいつもの親爺と見たことのない若い女が忙しく働いていた。
 通りすがりに客が尋ねるのが聞こえた。「ひよちゃんはどうしたんだい」
 親爺は忙しなく手を動かしながらにこやかに答えた。
「実は良いご縁があってねぇ。遠くへ嫁いだもんで、姪っ子が田舎から出てきてくれたんだ」
 ああ、そんなものか。針葉は視線を前へ向けたまま通り過ぎた。姪っ子というのもきっと左腕には、あの蛇のような文身が棲んでいるのだろう。
 しばらく家でゆっくりしようと思えたのは帰ったその日までだった。あの得体の知れない声を聞いてから、魚売りでも網引きでも荷運びでも外に仕事を見付け、意図して飯刻をずらした。紅花も気が利くもので、毎朝針葉が起きる時分には、マチクの皮に包まれた昼用の握り飯が部屋の隅に置かれていた。
 その日も空が真っ暗になるまで待って坂を上った。
 家の前で足を止める。真向かいに見える五つの部屋の並びのうち真中は空き部屋だ。その障子からぼんやりと光が漏れ人影が動いていた。縁側から直接上がり込んで障子を開くと、紅砂が箱膳を並べているところだった。
「なんだ、今日は今からか。遅いな」
「紅花が芝居に行ってたんだ。自分の膳持ってきてくれ」
「いや、俺は後で食うから」
 言って襖に手を掛けようとしたところで腹が鳴った。後ろからも声。「二度手間になるだろ、今食べていけ」
 構わず襖を開けた。短い悲鳴。
 暁がそこにいた。
「ああ……びっくりした。お帰りなさい」
 盆にみっちりと並べられた椀の中で、吸い物の具がゆらゆら揺れていた。一年半ぶりに見る暁は、頬の輪郭がややふっくらしたように見える以外は何も変わらなかった。得体の知れないものを産み、あやし、彼女自身が得体の知れないものへ化したかのように思っていた。
「あの、ちょっと」
 はっと気付いて道を譲る。暁はそろりと歩いて畳に膝をついた。
 針葉は毒気を抜かれたように立ち尽くし、ふと思い出して膳を取りに部屋を出た。

「それ」を抱いてきたのは黄月だった。暁が大事そうに両手で受け取り、慈しむように背中を撫でるのを、対角に位置する席の針葉は視界の端で見た。
 浬がまだ自分の部屋で食事を取っているため、並んだ膳は五つだけだ。紅花が席に着くのを待って箸を取る。
「いただきます」
 温かい飯を食べるのは久しぶりだった。冷えた体を吸い物が温めていく。ふっと息を吐いたときだった。
「針葉、昼はずっと出ずっぱりで睦月をまともに見たことなかったんじゃない」
 針葉の向かいに座る紅花が、お節介と作り笑いの中間の顔で言った。見るどころか「あれ」の名さえ今知った。あ、と続けて声を上げるのは暁の隣に座る紅砂だ。
「悪い、替わろうか」
「いらねえよ」
 針葉は顔を上げずに魚の中骨に沿って箸を入れた。身を脇へ寄せて骨を取る。
「もしかしてあんた、まだ誤解してんじゃないの。や、やだわー……織楽がさ、ちゃんと話するって言ってたんだけど、こんなときに限っていないのよね。……あ、あのね針葉、何も無かったのよ。全部誤解なの。あいつは売られた喧嘩をつい買っちゃっただけで」
「紅花」
 針葉は箸を置いた。紅花の表情が不自然に口角を上げたまま固まる。
「んな話、誰がしてくれっつった。飯くらい静かに食わせろ」
 視界の端で暁が小さく首を振った。やめろという合図だ。紅花はゆっくりと視線を下げてぽつぽつと魚を口に運ぶ。針葉はぐいと茶を呷った。胸にもやもやと黒い泥が広がって沈み、澱になる。
 沈黙に耐え兼ねて針葉は右に座る黄月へ顔を向ける。
「今日は目の何とやらはしてねえんだな。玻璃だって言ってたが異国見世か」
「重くてな、作業のとき以外は外している。舶来品だが買ったのは西の辻の舶来市だ。見世で多く仕入れておいたんだろう」
 静かに食べたいんじゃなかったの。紅花が唇の形だけで非難するが構わず続ける。
「たまにしか来ねえんだよな。俺も見に行きたかったな。ほら、昔長に連れて行ってもらったときにゃ変な獣の見世物やってただろ」
「今回も来ていた。カワホリ、ウシドウ、ルー、ヒスネズ、それから」
「待て待て、何だって? どれがどんな奴だ」
 針葉が身を乗り出し、黄月が口を開いたときだ。あのふやけた声が始まった。はっと目がそちらへ泳ぐ。見えるのは暁の背だけだ。無理やり視線を引き剥がして黄月へ向ける。
「な、何だって」
「足でぶら下がる黒い鳥だ。顔は鼠に似ている。小さいものならこの近くでも見掛ける」
「それじゃ分かんねえって。初めから話してくれよ、そいつはさっき話した中のどれだ」
「だから」
 重ねるようにあの声。骨も輪郭もないふやふやした声。望んでもいないのに耳を奪う声。せっせと世話を焼く暁の背中。泥が煙のように広がって積もる。
 何だ。
 何なんだ。
「うるせえ!」
 時が止まったようだった。あの声だけが静まった部屋に響く。暁が目を丸くして肩越しに針葉を見ていた。怯えた目が癇に障った。
「耳障りだ。さっさと黙らせろ」
 暁は何か言いたげだったが泣き声にせがまれるように向こうを向いた。紅砂が助け舟のため暁の傍に膝を付く。正面へ向き直った針葉を待っていたのは紅花の目だった。
「ちょっと。今みたいな言い方ってないでしょ」
「うるさいもんにうるさいっつって何が悪い」
「確かにうるさい」
「黄月まで!」
 紅花が眉を吊り上げる。黄月は変わらぬ表情で飯を口に運ぶ。
「だが赤子はうるさいものだ。言葉を知らず好きに動けない身では、泣くことで世話をしろと訴えるしかない。泣かない命は失われる。うるさいのは赤子が生きているからだ。結構なことだ。なに、あと一年もすれば泣き叫ぶことも減る」
 お前は誰の味方だ、言おうとして口を噤む。黄月は誰の傍にも寄らない。彼の態度はいつも一貫していた。
「あと一年もこのうるっせえのに耐えろって言うのかよ。この家はいつからあの餓鬼の城になった」
「あいつは睦月が産まれてからの九月ばかりずっと耐えてるが。その覚悟も無いなら、お前が親になるには早すぎたな」
 薄く笑った黄月に、抑えようの無いものが走り出すのを感じる。
 浅く息を吸う。片頬が歪む。
「親ぁ? 俺に言うなよ。誰の餓鬼か分かったもんじゃねぇのに」
 黄月は顔を変えなかった。紅花は咄嗟の言葉が出ずに眉を寄せる。治まりかけた泣き声ばかりが寒々と部屋を満たす。
 泣き声がぐずり声に変わったとき視界の端で動くものがあった。暁が「それ」を抱きかかえて立ち上がったところだった。大股で針葉の傍まで歩き、真正面でしゃがむ。
 燃えるような目だった。
「……文句でもあんのか」
 暁は何も答えなかった。さっと湯呑に手を伸ばし、中の茶を針葉の顔にぶちまけた。
「……っ」
 視界を奪われた針葉の耳には、耳障りなぐずり声に紛れることなく凛とした暁の声が聞こえた。
「この子は間違いなく私の子です。私一人の子です」
 顔を拭った針葉が次に見たのは、部屋を出て行く暁の後ろ姿だった。
「暁、てめぇ――
「追うな」
 振り向いたところでは黄月が、騒動など知らぬ顔で箸を進めていた。
「あぁ!?」
「うるさいのが去って気が済んだだろう。追うな、騒々しい」
 呼吸が遅れた。足を止めた針葉の脇をすり抜け、紅花が暁を追っていく。遠ざかる足音を背中で聞いて、もう何をする気も失せていた。

「暁」
 紅花が襖を開けると、真暗い中に暁らしき輪郭が浮かび上がっていた。そっと歩み寄る。
「よくやったわねって言いたいとこだけど……あんたあれで大丈夫? あそこまで言い切っちゃうと針葉も意固地になるわよ」
 暁は何も答えなかった。更に足を進める。
 立ち止まる。
 泣きじゃくる押し殺した声が聞こえた。紅花は何も言わず膝を付き、きょとんとしている赤子に手を伸ばす。暁の指は力無くするりと解けた。
「ずっと……まどろんでいたみたい。やっと、夢から覚めたの」
 苦しげにしゃくり上げながら暁が言った。振り向いた彼女は涙で汚れた顔で、それでも笑った。赤子の頬をそっと指で撫でる。
「強くならなくちゃ」



 寝覚めの悪い朝だ。
 障子を開けると縁側を拭く紅花と目が合った。うんざりと目を閉じるが、紅花は針葉をひと睨みしただけでそれ以上は何も言わなかった。鴨居に指を掛けて大きく伸びをする。朝の冷気が肌に沁みる。何度目かに雑巾を絞った彼女は、ふっと顔を上げて手を止めた。
「昨日のことだけど」
「説教なら要らねえぞ」
「聞き入れやしないでしょ、分かってるわよ。あのね、あたしはいいわよ、あんたが何言うかくらい見当がついてたもん。でも暁は馬鹿なの。馬鹿だからあんたにされた仕打ちなんて綺麗さっぱり忘れて、あんたを庇ったりすんのよ。まだ期待してたのよ。大馬鹿よ。そもそも、馬鹿だからあたしの言うことなんて聞きもせずあんたに絆されたんだけどね」
 針葉は渋い顔で聞き流す。紅花は暁を貶しながら、それ以上に針葉を貶していた。
「でもいいわ、これでようやく懲りたでしょ。……あたしはさ、あんたの釈然としない気持ちもちょっとは分かるつもりよ。だから睦月を大喜びで迎えろとか、父親らしくしろとか言うつもりは無いの。ただお願い、暁を放っておいて」
 針葉はふいと顔を背けた。障子を開けたまま部屋の中へ戻り、蒲団を畳んで衝立の向こうに押しやる。
 言われなくても構うものか。道中思い描いたのは自分のものだった女だ。今この家にいるのは名が同じだけの、得体の知れない生き物の庇護者だった。家の中に自分の知らない澱みがある。ざらりと気味の悪い感触で針葉を拒む、薄黒い濁り。
 足を踏み入れれば爪先から侵されるが、見なければどうということはない。行き場の無い居候を引き取ってやったと思えば良い。
 ふと部屋の中を見回す。いつも置いてあるものが、今日は無い。
「紅花、飯は」
「は? いつもと同じとこにあるわよ。自分で食べに行ってよ」
「そうじゃねえだろ、昼の」
 針葉は言葉を止めた。紅花の怪訝な顔。帰ってきた翌朝にも見たその表情に、今更、すとんと落ちるように得心した。
 帰ってきてひと月が経とうとしている。最初は帰ってきた翌朝だった。日中ずっと出るようになってからも、起きたときには部屋の隅に昼飯が用意されていた。それは誰がしたことだったのか。
 知ったところでどうしようもない。何を感じることも許せないし許されないだろう。
 その日の昼は港の屋台で済ませた。すれ違った二人連れは港番だろう。異国見世がどうのと言っているのが耳に残った。
 異国見世が開かれたのは年の初めだと聞いた。その頃坡城へ戻っていれば何か違ったのだろうか。せめて彼女の腹が膨れているのをこの目で見ていれば。
 思い描こうとして、やめた。そんなことではないのだ。きっと、織楽の一件が無くても、この一年を傍で過ごしていたとしても。
 女は子を宿した瞬間から別の生き物になるのだから。
 いつものように遅く帰った次の朝、目を覚ました針葉は、しかし部屋の隅にマチクの包みを見付けた。



 木々は風に抱かれるように、外に張り出した葉から色づいていく。
 道場の門の脇でさかんに芳香を放っていたケイカの花が、昨日の時雨で全て落ちていた。木の下に積もった橙の小花は土に塗れてなお色鮮やかだ。しばらく足を止めていた紅砂だが、彼を呼ぶ声に再び歩き出した。
「おぉい、無事か。遅かったから心配したぞ」
 紅砂が辿り着くのを待たずに敷石を一つ飛ばしでやってきたのは師範の息子である忠良だ。岩のような体が一段と厚みを増した気がする。
「心配って何だ。この図体じゃ飛ばされも攫われもしない」
「んなこた誰も思ってねぇって。お前聞いてねぇのか、港のこと」
「港?」
 忠良は、あーと濁った声を吐き出して首を振った。「いや、港ってより異国見世だな。年初めに来てただろ」
「それが?」
「そこの異人が逃げ出して北に忍んでたらしいんだよ。で取っ捕まったって」
 唇の裂けるようなぴりっとした驚きが体を走る。一歩前に踏み出した。
「それ本当か。いつのことだ」
「確かなことまで知らねぇけど昨日一昨日にゃ噂になってた。お前本当に知らなかったのか、港はこの話で持ち切りだぞ。十箇月もどこに潜んでどう暮らしてやがったとか、手引きした奴がいたんじゃねぇかとか、とうとう港にも調べが入るんじゃねぇかとか」
 紅砂は無言でかぶりを振った。これまで安静必須だった浬を日常に戻すため、按摩治療や体の動かし方の指導を始めたところで、前回の詰め日は休みを取っていた。間地に来るのも数日ぶりだ。
「そうか。ならいいけどよ、ほら、お前は舶来品みたいな顔してっからとばっちりでも食らってんじゃないかって親父が」
「誰が舶来品だ」
 忠良は厳つい顔を崩して人の良い笑みを見せる。二人連れの門弟が会釈して彼らの脇を通り過ぎた。
「それで、その異人は今番処に捕えられてるのか」
「どうかな、何しろ捕まったのが壬の北端だっていうから」
「北っていうのは壬か!」
 仰天して声を上げる。てっきり大通りを北へ進んだところにある境の地に潜んでいたのかと思えば。
「ああ、いや、今はあそこも飛鳥なんだっけな。ころころ国境が変わるから分っかんねえ」
「旧上松領か。壬を縦断したのか……」
「そこら辺の手順を調べてるんだろうよ。いくら中央が焼かれたからって端っこにゃ生き残ってる領主もいるし、壬びとだって大半は大火前と同じように暮らしてる。危険を冒して突っ切ったか、はたまた東雲か津ヶ浜を迂回したか」
 ひたすら直進したって五日は下らない。地理の分からぬ異国で人目を避けながら進むなら、一体どれほど要するだろう。飯の調達ひとつ取っても困難が伴うのだ。それに加えて壬と旧上松領の間には険しい峰が立ちはだかっている。
 ただ迷い込んだとは思えなかった。何らかの目的があったのだ。十箇月もの長きにわたり人目を忍んでしなければならなかったことが。
 ――お前さん夜陰を探しに来たんだろ。
 紅砂は目を見開いた。そうだ、奴は確かにそう言った。夜陰とは旧上松領にあるものなのか。黄月や若菜が昔暮らしていた、四方を山に閉ざされた擂り鉢の底のような里に。
「おい紅砂、もし港番に何か言われたら躊躇わず俺や親父の名を出すんだぞ。これでもちっとは顔が利く。番人にゃここの門弟だった奴もいるからな」
 顔を上げて瞬く紅砂に、忠良はにっと歯を見せた。
「髪染めの草もまだ手元にあんのか? 早めに言えよ、どうにかして取り寄せてやる」
 じっと見つめる視界の中に浮かんだのは、夕闇の中を駆ける妹の小さな影だった。
 背景の空はいつも赤く、紫雲が棚引いていた。いつも二人だった。その目の色が誰にも見えないように、誰にも気付かれないように。幼い我が子を案ずる黒目黒髪の二親はそれを選んだ。それしか許されない日々があった。
 今、薄曇りの空には日が浮かんでいる。向かい合った男は紅砂の目を見て話し、紅砂の身を案じてくれる。
 神妙な顔つきの紅砂を見て、忠良は照れた顔になり「よせやい礼なんて」と勝手に盛り上がって肩を突いた。