父も母も顔はおろか名すら知らぬ。我らは群れで育まれる。
 我らは名を持たぬ。自らの姿は見えず声も聞こえぬ。我らは融けた泥のごとく形を持たぬ。我らは塗り籠めた闇のごとく色を持たぬ。
 切っ掛けなどその程度のものだ。不確かな自分に色と形を与えるには、誰より優れてあれば良い。見えざれば頂へ顔を向けよ、そこにいるのが自分だ。
 そうして力で群れを離れた彼は齢十のとき、立場上も群れから切り取られた。彼が仕えていた家の養子として迎えられたのだ。昨日まで見上げていた邸は、今日には彼を迎える巣となった。
 名を与えられた。立場を与えられた。彼は人となった。
 父となる当主に初めてまみえるとき、彼はその傍に知った顔を見付けた。
「よく来たね。私の弟となるのはお前だと思っていたよ」
 それは彼よりいくつか年嵩の男で、彼がまだ幼い頃、若い群れの中で他の追随を許さぬ力を見せ付けていた。名を持たぬ者どもの中で男を覚えていたのは、彼自身がどこかでそれを目標にしていたからだろう。
「今の私は泰孝という。お前にも水に言祝がるる名を付けねばな。……良いか群れを脱した子よ、この家には男児が産まれぬ。我らは家を継ぐ者として文武に励むとともに、中から家をお護り申し上げねばならぬ。身に余る誉れと思い、誠心誠意仕えよ」
 その後、広すぎるこの家には「父上」と「母上」の他に「姉上」がいることを知ったが、父以外に見えることは無かった。
 彼は武芸だけでなく学問でもめざましい伸びを見せた。誰の間に波風立てることもなく、あらまほしき「息子」であり続けた。
 邸に上げられた次の年、彼は兄から家の噂を聞かされた。一年共に暮らして話すに足る者と認めたのだと兄は言った。この家に生きる以上、いつか知らねばならぬことだと。
 それは家の成り立ちから始まった。百年ばかり昔、隣国の有力家が不始末を仕出かしたときに、分家に罪を背負わせてこの国に追いやったのだと。当時この国は、今以上に少数部族ばかりが寄り集まる混沌とした地であった。
 だが分家と本家との繋がりが途絶えたわけではなかった。罪をなすり付けた代償として本家からは物資が潤沢に流れ込んだ。分家の当主はこれを契機とし、未だ開かれていないこの地で鶏口となることを選んだ。
 以来分家は、少数部族の長の娘を娶ることで力を蓄えてきた。幸いこの国は古くから隣国の保護地扱いであったし、隣国から持ち込まれた豊かな物資と洗練された文化、卓越した技術は、先住者にかの者たちを認めさせ、崇めさせるには充分だった。
 地盤が固まるのを待ってその家は、既に国として成熟していた壬の仕組みを、国統や国守という名前ごと東雲に持ち込んだ。
 最古の部族と一つになり、湖を根城としたとき、この家の地位は不動のものとなった。家の領地は都と呼ばれた。隣国との太い繋がりを持ち、流通を握ったこの家は肥える一方だった。
 ――そこまでは史書である東雲公紀の内容とほぼ同じだ。だがそこから先はたちの悪い怪談だった。
 この家には男児が産まれない。それは奥方が、つまり彼らの「母」が産まれた男児を殺すからだというのだ。
 母は部族の教えの中で育った。それは代々女が祭祀を執り行うという慣いだ。血を継がせるのは姉で充分であり、男児は神下ろしの力を乱すというのだ。
 彼は一笑に付した。男児が産まれないこと、母や姉に会えないこと、父がいつも怯えた様子でいることを理由づけるにしても、あまりに荒唐無稽だ。兄も笑っていた。あくまでこの家に囁かれる噂を耳に入れておきたかっただけなのだろう。
 だが次の年、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべて兄は言った。
「私は近いうちに殺されるよ」
 夏至を昨日迎えたばかりの、梅雨中にしてはからりと晴れた日だった。小窓からは斜めに光が差し込む。死の匂いなどどこにも嗅げない日だった。
「私に何かあれば雅兄を頼りなさい」
「がけい?」
「覚えているな、旭家とは、壬五家である江田の分家が追いやられたものだ。私たちのいた群れは、そのとき同じ五家の豊川から分け与えられたという。烏、といえばお前も聞いたことがあるだろう。長は代々牙の名を受け継ぐ。からすの牙だ。……先だって姫君とお会いするときに、牙殿とも話をした」
 兄は近々豊川家の一人娘を娶ることになっていた。これで旭家も安泰だと、父は丸い頬をてかてかさせて笑っていた。
「長の座を継いだばかりらしく、私とそう歳の変わらない御方だった。鴉は、書き方を変えれば雅。ちょっとした洒落だよ。私たちの間にだけ通じる呼び名だから、お前の顔を知らずとも旭の者だと分かってくださるだろう。……封じ夜の節というのは豊川にもあるのだと仰せであった。雨呼びというらしい」
「兄上!」
 家のことを安易に漏らすとは。目をつり上げた弟を、兄は困ったように見てまた口元に笑みを浮かべた。
「声を荒らげるな。……お前の言わんとすることは分かる。お前が今、私を信じていないということもだ。だがもし私が死んだとき……次に据えられるのはお前なんだ」
 握った拳が文机の上で細かく震えていた。
 兄はその後間もなく殺された。秋分の翌日のことだ。「姉」に手を上げたことによる不敬罪だった。それ以上は明かされぬまま、残された彼は旭家の長子となり、兄は初めからいなかったことになった。
 そのわずか三月後の冬至の夜、彼自身が姉の来訪を受けた。鈴の音。笑い声。初めて見た姉は、暗闇の中で甘い花の香りを漂わせる黒い輪郭だった。部屋の隅まで追い詰められて動けなくなった彼を、影が覆った。狂人がそこにいた。濡れた髪が視界を縞のように覆う。ずり、ずりと頬を滑っていく。耳を執拗に舐め回す呪詛。影が体を起こす。目の前で闇が裂け、にたりと笑った。
 彼が姉の手を逃れたのは、単にその前に旭家が無くなったからに過ぎない。兄が亡くなった翌春、大火で東雲は仮初めの頭部を失い、元通りの分裂地へ後戻りした。
 そして、焼け野原と化した都跡地から山一つ越えた、春の咲き誇る下で、旭浬は黄月と織楽に拾われた。





「こんにちは」
 店は人で賑わっていた。浬は品を見る親子の脇をすり抜けて手代に話し掛ける。彼は怪訝な顔で振り向いて「いらっしゃいませ」と口にするだけだったが、奥の番頭が早足で寄ってきて頭を下げた。
「お待ちしておりました」
 店の一室で茶と共に待たされる。しばらくして姿を見せた番頭が手で示したのは店の奥だ。わずかに逡巡しつつ後へ続く。
 西の大通りの外れに店を構えるここは菱屋と呼ばれる大店である。広い敷地の手前右で質屋を、左で口入屋を営む。店の裏に出ると、木々に囲まれた砂利道の先に邸がすっぽり収まっていた。番頭はその脇を通り抜けて更に進む。敷地の境目を、樹影が覆い被さるように囲んでいた。
「よほど繁盛しているようですね。これほど広いとは思いませんでした」
「お陰様で、有難いことにございます。さ、その離れでございますよ」
 彼が手で示したのは敷地の最奥に位置する小さな建物だった。この広さの中ではむしろ壁つきの東屋に見える。木々の中にひっそり隠れるような佇まいは喧騒から遠く、茶を楽しむにも密談にも使えるだろうと思わせた。
「後から茶をお持ちいたしますので、どうぞごゆるりと」
 ぺこりと辞儀をして番頭は背を向けた。浬は戸に手を掛ける。
 中は薄暗かった。目が慣れるのを待って進む。廊下はすぐに突き当たり、右手の襖が開け放たれていた。六畳間には行灯、煙草盆、飾り棚。その傍らに女が一人正座で待っていた。背後の障子から肩にほんのりと柔らかな白が降り注いでいる。彼女は浬を見上げると、すぐに柔和な笑みで顔を満たした。
「いらっしゃい」
「……こんにちは」
 ひよは二つ折りの座布団を浬の足元に広げた。
「どうぞ。遅かったのね、紅花ちゃんに文を預けたのは何日も前よ。こっちから訪ねようかと思っちゃったわ」
「勘弁してください。色々あって、つい昨日受け取ったところなんです」
 浬は座して部屋を見回す。これほど通りから離れていると静かなものだ。
「こちらに呼び出されるとは思いませんでしたよ。てっきり団子屋かと」
「あら、あんなところじゃ積もる話もできないでしょう。……それに、あなた様をお招きするには無礼でございましょ」
 口調が変わっていく。ひよは三つ指を突いてゆっくりと頭を下げた。
「お久しゅうございます」
 浬は黙って彼女の旋毛を見つめていた。彼女が頭を上げたところで戸が開く音。
「きゃっ」
 盆を持った女が立ち竦んでいた。顔には恐怖が張り付いている。
「お客様に向かって悲鳴を上げるとは何事。さっさとお持ちしなさい」
 ひよの厳しい声に促されて女はおずおずと上がり込み、浬から遠いところに膝をつくと、精一杯腕を伸ばして茶托と湯呑を置いた。指が震えて、湯呑がかちゃかちゃと音を立てた。彼女が叩き付けるように襖を閉めて出て行くのを待って、ようやく浬は湯呑に手を伸ばす。
「申し訳のうございます。躾が行き届いておらず、お恥ずかしい限りで」
「今のは酷でしょう」
「あら、覚えていらっしゃるのですか」
 口を離した湯呑には波紋が残っている。
「……二年前、私が生かした子でしょう。ここは烏の巣ですか」
「どう動くにしても拠点と銭が要りますもの。あれはまちと申します。かもめにございます。ただ一度お目にかかった限りで覚えていてくださったとは、伝えればさぞ喜びましょう」
「お止めなさい。あれ以上怯えさせては可哀想だ」
 眉間の皺を見て、ひよは開きかけた口を閉じた。口角を上げて浬が湯呑を置くのを待つ。
「それで……御世継ぎはいずこに。お目にかかりたいと書きましたが、お忘れですか」
「産まれたばかりの子を連れ出せるわけがないでしょう」
「もう一人座りもできるそうではないですか。あなた様の御子なのですから、少々お連れになるくらいできませんの」
 浬の唇は堅く結ばれていた。黒い目がひよを睨みつける。
「無礼が過ぎるのではないか。それが主に対する口の利き方か」
「お忘れになってはいけません、我らはあくまで豊川に仕える者。あなた様は確かに旭家の長子でございましょうが、私は、奥方を間男に引き渡し、あまつさえその子を産ませる者を主とは認めません」
 沈黙と睨み合いが続いた。先に目を逸らしたのは浬だった。
「……あの子が漏らしたのか」
「とても利巧な子でございましたよ、なかなかお喋りにも乗らず口も割らず。誰の言い付けか存じませんが」
「家の者には近付くなと言ったはずだ」
「ええ、祭りの晩にわざわざお出でになって。覚えておりますとも。巻き込むのは気が引けましたが、昨年の途中から暁殿の姿がまるで見えなくなったものですから。お叱りならいくらでも受けましょう。ですがその前に、あなた様の事訳をお聞かせくださいませ」
 彼女の瞼は笑みを湛えた形でありながら、その奥の目は燃えるようだった。
「二年前私どもが、何故暁殿をお渡ししたとお思いです。何故それから一切の干渉を控えたとお思いです。あなた様が旭家の長子と知ったからです。今まで通り坡城で暮らすのが、夫婦としても御世継ぎを成すためにも最良と、あなた様がおっしゃったからです」
 浬は茶を啜って口を湿した。冷めて苦みが増している。
「……私の子だ」
「ええ、人別帳ではそうなっておりましたとも」
 浬は視界の端でひよを見る。東雲集きの人別改めの日、港番に忍び込んだ者があったと聞いた。あれはやはり烏だったか。
 証文を偽造したのは浬だ。白証文さえあれば容易いことだった。旭家の源流は壬で筆方を担う江田家だ。国の仕組みが整い、国統や国守、蔵役といった役職が増えても、東雲の証文作成は旭家が一手に引き受けていた。
 人別帳の記帳には二つの手段がある。一つが他国の正式な証文をもって記帳を移すもの。もう一つは原則姻戚に限られるが、正しき坡城びとに身元引受人になってもらうものだ。
 暁は、自分が当然前者の方法で記帳されたと思ったことだろう。だが浬が作成したのは自らの証文だ。まず自分を記帳した上で、暁の身元引受人となり、妻としての記帳を願い出る。万一烏が調べようとも、書類から綻びが出ることはない。彼らは人別帳の中では紛うことなき夫婦なのだから。
 暁に渡した手形には一人分の身上しか記されない。人別改めの日も、東雲について暁に講授することを口実として斎木の家に留まり、何事もなく乗り切ったのだ。
 とはいえ黒烏の目を欺くことだけを狙ったわけではない。最初の目的はあくまで睦月を嫡子とすることだった。それを言ったところで誰が納得するわけでもないだろうが。
「周到ですこと。すっかり騙されて安堵しておりました」
「書類上私の子で、それ以上何の不満がある。私自身が旭の養子だ。お前たちの欲しがる正統な血などどこにも流れていない。見てみろこの髪を、この目を。お前たちが混じり子と蔑む色だ。それでも子を成せば満足か」
 ひよの顔からも笑みが消えていた。見開いた目でひたと浬を見つめる。
「当然、壬には劣りましょう。ですが東雲の黒は部族が寄り集まったがゆえのもの。他国の黒とは成り立ちが異なります」
「壬に劣ると言うのであれば、国を跨がず他の四家に輿入れすれば良いこと。いや、それまでの慣いのように血族同士で一つになっても良かったはず。東雲と壬の結び付きを強めるだけであれば、豊川でなくとも良い、江田や菅谷にでも任せれば事足りるのだから。それをしなかったのは何故だ。暁の兄上のようなことが再び起こるのを恐れたからだろう」
「……お止めください。それ以上おっしゃると」
「いや、それ以前も以後も同じことは起こっていたはずだ。ことの重大さを一番よく分かっていたのは当主殿ではないか。豊川にはもう後が無かったのだろう」
 ひよの表情は今や完全に凪いでいた。
 しばらくの沈黙ののちすっくと立ち上がり、障子を細く開ける。差し込む光は今は赤く、弱々しい。
 彼女はおもむろに振り向いた。
「捕えよ」
 襖が開け放たれた。浬は反射的に飛び退いた。そこに白い軌跡が弧を描く。
 見れば襖の向こうにはまだ若い男が二人。障子はひよが塞ぎ、その向こうにも人影が見える。退路は断たれた。
「……これは雅兄の命令か」
「まさか。畏くも豊川の姫君が下賤な者と交わり子を成したなど、誰に聞かせられましょう。安心なさいませ、全て私たちの手で収めます。牙を煩わせはしない。間違いは一つ残らず正されましょう……あの御子も」
 ――睦月。
 障子に向けて調度品を蹴倒し、低い姿勢で襖へ駆け出した。切っ先が迫る。座布団を掴んで突き出す。綿が散る。座布団ごと刀身を掴んで捻る。一人目はあっけなく引き倒されて視界から消えた。
 後ろに控えていた二人目の男が刀を振りかざす。一人目の髪を掴んで盾にし、刀が血を散らして過ぎたところで投げ付ける。二人が重なり合って倒れる。襖が外れる。落ちた刀に手を伸ばす。
「そこまでだ」
 背後から声が降った。首に切っ先が突き付けられたのを感じる。ひよの背後の障子がいつの間にか開き、夕闇が覗いていた。彼女の傍にもまだ数人。
 浬は細く息を吸う。迷わず刀を握った。ぐるりと体を反転させて後ろ手に斬り付け――
「紅花ちゃんが惜しくないのですか」
 体が止まった。
 ひよの声だった。辺りは既に表情が判別できないほど暗い。だが彼女の声に虚勢の色は無かった。
「あなた様の御子かと訊いたときの顔で瞭然でしたよ。今日は彼女が小間物屋へ出る日でしたね。……好いた女が嬲られるさまを見たいですか」
 頭の中でいくつもの手が浮かんでは消えていく。何か、形勢を逆転できるような。何か。
 浬の視点がゆっくりと暗い畳に落ちる。刀が指から落ちて音を立てた。
 途端、後ろから伸びた腕が浬の両腕を固めた。身動きが取れなくなる。
 ひよの傍にいた男が倒れた襖を持ち上げる。頭をさすって起き上がった影は後ろにいた男だ。彼に斬られたもう一人は喪神したか絶命したか、倒れたままだった。影は威嚇するようにどすどすと音を立てて畳を踏み、浬の前に立った。
「……っの野郎」
 拳が浬の腹にめり込んだ。息が止まる。胃がせり上がるようだ。二発、三発。
「やり過ぎないように。お前たちでは代わりがきかない御方よ」
 何発目かで嫌な音がした。鳥肌が立つ。全身から汗が噴き出し、急速に冷えていく。ひよの溜息が遠ざかる。
「こら、遊びは程々にとあれほど――



 頬の冷たさで目が覚めた。
 その瞬間、忘れていた痛みが胸に蘇る。息ができない。額に脂汗が浮かぶ。強烈な吐き気を催したが腹に力が入らず、吐瀉物か血か分からないものをわずかに喉の奥から吐き出しただけだった。浬は顔をしかめつつ自分が置かれた立場を観察した。
 手足は何重にも縛られており起き上がることはできない。彼が転がされているのは物置のような狭い部屋だった。周りに物が積み上げられている。灯り取りが無いので今が昼か夜かも掴めない。一体どれほど気を失っていたのか。
 埃が鼻をくすぐった。くしゃみをしそうになってまた痛みに襲われ、床に鼻を押し付けてどうにか止める。汗で濡れた額に埃が張り付くのが分かった。
 どこかで低く続いていた声が止んでがらりと音がした。小さく頭を動かして、光の射し込む方へ向ける。
 手燭を提げたひよが彼を見下ろしていた。後ろには別の影も見える。
「おはようございます。具合はいかがです」
 余計な体力を使いたくない。口は開けなかった。後ろにいた男がひよを押し退けて浬の衿を掴んだ。
「おい、姐さんが具合はどうだって訊いてんだろうが」
「馬鹿、お止め。何かお召し上がりになりますか。……無理そうね、湯冷ましならどうかしら」
 ひよの後ろから盆に乗せた湯呑が差し出される。ここはどこだ、何人がいるのだ……口の端から温い水が流し込まれて考えが途切れた。
 腹にあるのは吐き気ばかりだが喉は渇いていた。舌を使って少しずつ喉の奥に水を流し込む。溢れた水がもう一方の口の端から垂れて床を濡らした。浬が顔を背けたところでひよは湯呑を盆に戻した。
「日が落ちるのを待って東雲へ向かいます。どうかそれまでご辛抱を」
「あ……かつき、は」
 どうにか吐き出した声は情けないほど弱々しかった。ひよは小さく笑う。まるで子供に向けるように優しく。
「焦らずとも暁殿もすぐにお連れいたしますよ。今度こそ仲良くなさいませ」
 そのまま立ち去ろうとして、ひよは足を止めた。
「御子の父はどの者です。あの家の誰かですか」
 答えずにいると先程の男がひよを押し退け、先程と同じような台詞を吐き捨てながら執拗に浬を蹴飛ばし、踏み付けた。食いしばった歯から呻き声が漏れる。ひよは今度は止めようとしなかった。
 男が足を止めたときには再び気が朦朧としていた。口の中に溜まっている温いものは、吐瀉物か、先程含んだ水か、鼻血でも流れ込んだか。
「答えたくないのならそれで結構。父が誰であろうと同じことですし、それに大体の見当はついております」
 目も口も中途半端に開いたまま、浬は意識を手放そうとしていた。彼の背後で戸が閉まり、部屋は再び闇に閉ざされた。

 男を伴って部屋を離れたひよは、盆を置いてふっと息を吐いた。
 彼らは昨夜のうちに浬を団子屋へ運んでいた。怪我人を連れて東雲へ行くには川沿いが都合良いし、いくら烏が取り仕切る菱屋とはいえ、あの状態の浬を見られては面倒だ。出立までは万全を期して、手下のうち二人に店の表と裏を見張らせ、橋の下に繋いだ舟は残り一人に見張らせていた。
 烏は一枚岩ではない。今の牙は熟慮型の鳩派であり、先代は急進派だった。いずれの代でも、群れとしてはそれに従っていても、異なる考えが噴出することが度々ある。
 ひよが率いるのは数ある鷹の中でも極めて尖鋭な考えを抱く一派だ。だからこそ半端者は容れられない。数を絞っても、気性のむらに目をつむってでも、同じ志を持ち、決して離脱しない者を求めた。
 浬が盾に使った一人は思いのほか傷が深く、当分使いものにならない。適当な理由をつけて菱屋に放り込んだが、ただでさえ多いとは言えない手駒だ。一羽減るだけでも痛手だった。
「……北へ放った二羽はどうした。随分戻りが遅いではないか」
「そういやそうだな。まあでも、そんなもんじゃないんで。ほら、奴らは前だって別のとこをうろうろして、見込みの倍はかかってやがったらしいし」
 ひよは隣の男をじろりと睨む。
「だからと言ってそれに付き合う馬鹿がどこにいる。適当を申すな」
 男は機嫌を取るように浮かべていた笑みを強ばらせ、じわじわと目を逸らした。「俺も舟を見張ってきまさぁ」小声で言うなりそそくさと土間へ降りて出て行った。薄暗い赤が一瞬覗いてすぐ閉まる。
 一人残されたひよはもう一度息を吐いた。あの血気盛んな考えなしに嫌味を言っても詮無いことだった。
 暁が別の男のややを産んでいたのは誤算だった。だがそれを知って以後は何の手抜かりも無く来ている。もうひと息なのだ。
「唐丸。もう日が落ちただろう、良いから戻って来い」
 声を掛けたが、既に戸を離れたのか返答は無かった。いずれにせよ浬を運ぶには複数の手が要る。ひよは手燭を取り、見張りの烏たちを呼び戻しに土間へ降りた。
 そのとき、戸の向こうに気配がしてがらりと開いた。
 口を開いたが声が続かなかった。
 闇に沈んだ空の下、立っていたのは肌蹴た上半身をずぶ濡れにした針葉だった。胸には一文字に赤い傷痕が走っている。
「な……っ」
 思わず一歩下がった。何故ここに。何故秋分も過ぎたこの時期にこの恰好で。そもそも団子屋など今日は開けていないのに。言いたいことが山ほど浮かんで舌が縺れた。
 針葉は目を白黒させるひよを尻目に土間へ上がり込み、脇へ寄せていた椅子にどかりと腰を下ろした。腰の刀ががちゃりと音を立てる。
「悪いな、風呂に入ってる暇も無くてよ。何か拭くもん貸してくれ」
「え……あっ、いえ……し、仕事はどうしたんですか」
 無理やり作った愛想笑いも引きつった。針葉は顔を振るう。髪の水気が辺りに飛び散った。さながら犬だ。
「ちっと気になることがあってよ、一抜けだ。金も取りっぱぐれた」
「そんなんじゃもう良い仕事なんて回せませんよ。今日はどうして来たの。その様子じゃ新しく仕事を取りに来たんでもないでしょう」
 針葉は暗い土間を眺めて腹を鳴らした。
「ここは団子屋だろうが。何だ、椅子まで仕舞い込んで。親爺さんもいねぇのか」
「父が出てるからよ。しばらく店は開けません。表に貼り出しておいたはずですよ」
「字はまだ習い中だ。それよりお前、暁って覚えてるか。うちに住んでる奴」
 不意打ちだった。呑み込んだ唾が喉で蛙のような音を立てる。一旦落ち着こうと奥へ入り、ひと抱えの手拭いを針葉の隣に置いた。
「ええ、覚えてますよ。それが何か」
「あいつがここ最近、つっても最近ずっと会ってねぇから去年か一昨年かな。遠出を怖がるようになって、聞いたら橋を渡るのが嫌だってんだ。おかしいだろ。俺も初めに聞いたときゃ思ったね、ここまで変な奴だったかって」
「……はあ」
 針葉が言うのはきっと、川の向こうには烏がいるから暁が慎重になっていたということなのだろう。
「お前とも一度会ったな。二年前の紅葉の時期、ほら、そこの社に行く途中だ。三人連れで歩いてた」
「ええ……そうだったかも」
「あのときお前、あれが暁って分かってたんだよな。今までそんな素振り無かったとか何とか」
「そう? 二年前のことなんてよく覚えてないわ。まあ、見掛けたのなら言ったかもしれませんね。だってあなたたちが連れ立って紅葉狩りだなんて」
 ひよは徐々に苛立ちを覚えていた。この男は一体何を言いに来たのだ。
 針葉はひよの様子にはお構いなしで、体の水気を粗方取って上肢を袖に収めた。
「お前、何で驚かなかった。あいつが女物着たのも髪結って外出たのも簪付けたのも、あれが初めてだったらしいぞ」
 何のことかと眉をひそめ、はっと思い当たる。その夏、ひよは豊川の娘としての暁を東雲に攫った。女物を着て当然なのだから、いちいち驚きもしなかった。
 その程度か。却って肝が据わった。ふんと鼻で笑い飛ばす。
「それが何だって言うんです。悪いけど見る人が見れば、男物着てようが飾ってなかろうが一目瞭然ですよ。暁ちゃんは女の子だってすぐに気付きましたとも。男の人って鈍いのかしら」
「へえ、そんなもんか。そういや紅花も随分前から知ってたふうだったな」
 針葉が感心した様子であっさり頷いたものだから、肩透かしを食らったようだった。
 容易いものだ。ひよは手燭を取ると、着物を直す針葉に背を向け、自分の衿に手を滑らせる。そこにあるのは手拭いを取るときに忍ばせた合口だった。
 こちらの陣地に飛び込んでくるとは愚か者め。勝手は狂ったが、いずれ始末しなければならない相手だ。戸の向こうに耳を澄ませる。わずかに音、気配。烏たちが忍んでいる。
「もう暗くなりましたよ。うちでは何も出せませんし、お帰りになったら」
 彼が戸を開けたところで待ち伏せていた烏たちが襲いかかるだろう。運良く避けられても、ひよの合口が喉笛を裂くだけだ。
 針葉はなお名残惜しげに立ち上がった。ひよは一歩下がって彼に道を譲る。
「そうだな、仕方ねぇか。どうしてもここの団子が食いたかったんだがな」
「あら嬉しい。父が帰ってきたら、また食べにいらっしゃいな」
 次など無いことを、ひよは知っている。
「次はねぇんだよ」
 ……それは彼女が胸の内に留めたはずの言葉だ。
 おかしい。そう思うと同時に、ふっと額に風が触れた。
 切っ先が目の前にあった。
「最後に教えてくれ。何だって俺を殺そうとした。ツケ溜めた腹いせにしちゃあ荒っぽい」
 落ち着いた声だった。手燭の小さな灯りでは表情までは窺い知れない。だが彼を特徴づけていた赤く燃え上がるような激情はそこには無く、研ぎ澄まされた穏やかさが闇の向こうに感じられた。
「な、何を言って……」
「奴らの腕にゃ例の墨が入ってた。黒烏を動かせんのは黒烏だけだろ。俺の行程を突然変えて、あのお坊ちゃんの守りをさせたのは誰だ。細かい仕事の割り振りはお前の役目じゃねぇのか」
「待ってよ、奴らって誰。何があったか知りませんけど、そんな物騒なもの振り回さないで。酔ってるの」
「素面だよ。お前を仕留めるために酒断ちしてきたんだ。健気だろうが、え? 稼ぎも捨てて遥々お前に会いに帰って来たんだよ。この上なく一途だろ」
 ひよは身じろいだふりで腕を板戸にぶつけた。戸が揺れて音を立て、わずかに開く。何をしている、戸の向こうでこの会話を聞いているのだろう。早く加勢しないか。
 針葉が刀を突き付けたまま一歩進んだ。鼻先に鋭い切っ先。思わず顎を上げる。
「お前の手下どもならもう息絶えてるだろうよ。這ってくるだけで精一杯だ」
「……な」
 針葉は視点をひよに合わせたまま戸を細く開いた。ひよは精一杯瞳を下へ向ける。そこに倒れていたのは、あの喧嘩っ早い同志だった。黒々と流れ込む血。再び戸が閉まる。
 ひよは体を大きく逸らせて切っ先を避け、手燭を投げ付けた。針葉の左腕が振り払う。左胸が開く。そこに体ごと飛び込んでくる合口の刃。
 音が消える。
 土間の天井に、壁に、血飛沫が散った。
 崩れたのはひよだった。
「今まで長いこと世話んなったな」
 針葉は刀を振った。黒い雫が土の上に点々と落ちる。
「借りは返したぞ」

 落ちた蝋燭から広がった火を踏み消すと、土間は闇に包まれた。血の匂いが体にまとわりついて重い。
 ふと針葉は顔を上げた。何故かは分からない。あえて言うなら何かを察知するときの肌の痛みに似ていた。
 暗い板間へ上がって方々を見て回る。不吉なものが忍び寄ってくる。……何だこれは。
 最後に開けたのは物置らしき小さな部屋だった。開けた途端に顔をしかめる。かびと埃の中に血と胃液の匂いが混ざっている。舌打ちして聞こえよがしに溜息を吐く。
「あーあ、畜生、開けんじゃなかった」
 暗闇の中で、彼はわずかに身を動かしたようだった。
「何でお前がここに転がってんだよ。囚われの姫さん気取りか。まるで俺がお前を助けに来たみたいじゃねぇか、気色悪ぃ」
「ひ……酷い、なあ……」
 弱々しく笑う浬に、針葉はもう一度舌打ちした。