煮売りの威勢良い掛け声に振り返る。醤油の香りが紅花の鼻をくすぐった。五切れ、と言い掛けて慌てて口を押さえた。「六お願い」
 織楽はもう数日家で頭を悩ませてから、好き合った役者の田舎へ向かうらしいのだ。椀にずしりと加わるアズメの重み。干物でもと思って持ってきた椀は煮汁と切り身で溢れんばかりだ。紅花は慎重に歩む。
 ふと視線を上げると橋が見えた。このまま直進して、大通りも突っ切って、小間物屋のある裏通りを通ろう。
「紅花ちゃん」
 聞き覚えのある声だった。
「あらあら、大変ね。器貸してあげるから待ちなさいな」
 紅花は左を向く。団子屋に客の姿は無く、面長の看板娘が奥に引っ込むところだった。
 これといって仲良くもないのに話し掛けてくる年上の彼女に、どこか及び腰な紅花だったが、今は渡りに舟だ。椅子に椀を置いて腰を伸ばす。看板娘は椀と箸と杓子を手に戻ってきて、今にもこぼれそうな紅花の椀から切り身と汁を半分移した。
「よくやっちゃうわよね。……よし、これで大丈夫でしょ」
「わざわざすみません、えっと……」
「ひよ、よ。気にしないで、どうせ暇だったの。良かったらどうぞ」
 彼女は気のいい顔で紅花にひと串差し出した。紅花は頭を下げて受け取り、何となくの印象で人を決め付けるものではないと深く心に刻みながら、大口を開けて団子を引き抜く。その隣にひよが腰掛け、ちらと椀を見た。
「買い込むのね。一、二、三……六切れって、今六人暮らしなの。夕餉の用意も大変ね。うちなんか父と私だけだから簡単なものよ」
「ややを入れたら七人ですよ。まだ乳呑み児だから助かってます」
「暁ちゃんのやや、だったわね。男の子、女の子?」
 彼女は団子売りのときとは違う、何とも柔和な顔になった。何を話題にしたものかと悩むべくもなかった。ややの話をすれば万事は収まるものらしい。紅花は三つ目の団子を呑み込んで答える。
「男の子です。元気ですよ、もう一人座りもできるようになって」
「そう、男の子なの。じゃあそのうち浬ちゃんに似てくるかしらね」
 むせるかと思った。目を丸くして見つめる紅花を、ひよは口を結んで見つめ返す。
「あれ、……違った?」
「違います、全然違います!」
 強硬に否定する裏には、浬の隣にいるのは自分なのだという自負と、ほんの数日前、あっさり押し倒されたときの混乱や落胆があった。あの夜のことがどっと脳裡に押し寄せ、顔が熱くなる。ひよの顔を見られなかった。
「そうなのね。じゃあ誰のやや?」
「ええと……」
 紅花は躊躇った。いつだったか、針葉がここでひよと親しげに話していたのを思い出したのだ。もし彼が家へ帰る前にここに立ち寄ったとしたら、他人から伝え聞くのは気分の良いものではないだろう。
「……いいわ。どうして誤解してたのかしら。悪いことしたわ」
 ひよは肩を竦めて立ち上がり、店の奥へ戻る。しばらくして彼女が差し出したのは一通の文だった。
「この前うちの看板の話をしてたじゃない。お詫びも兼ねて浬ちゃんに頼みたいのよ。これ、渡してくれる」
「……浬、字には癖がありますよ」
「一度見せてもらって考えるわ。ね、頼んだから」
 椀を借り、団子までもらった身としては断り辛かった。紅花はやむなく文を帯に挟み、両手に椀を持って夕暮れの家路を辿った。



 針葉は苦虫を噛み潰した顔で歩いた。
 実戦に戻って半年近くが経つ。桜が散って葉桜に変わるまでは東雲にいた。梅雨入り前になると、一旦飛鳥へ入って山脈の北を通り、大回りで峰上に逗留した。深い山林に満たされた峰上で開けているのは、亰からの通り道を含む北西の都だけだ。
 峰上で、時には南下して津ヶ浜で、彼の体はその感覚を思い出した。
 忍ぶ、見張る、待ち伏せる。追う、捉える、吼える。振るう。腕に加わる重み。肉が裂ける音、骨が砕ける音。かつて人だったものの匂い。
 森の奥に潜みながら、耳はじっと待つ。星一つ無い闇の中で、目はじっと待つ。
 どちらが先に見付けるのか分からない。ぴりぴりと肌が痛み出して悟るのだ、また始まると。深く()けた火が息を吹き返すように、凪いでいた体の中に風が巻き起こる。体の芯が燃えるようだ。
 身を焦がし尽くそうとする炎から逃れるように、彼は無心で駆ける。薙ぐ。血を浴びる。
 指先から全身にじわじわと拡がる痺れ。対して頭の中は限りなく澄み渡っていく。あやふやだった全てのものが単純化され、一方向へ集約する。それが最高潮に達したとき、雷に打たれたように身を貫く感覚。奥底から湧き上がる声が言う、ここに今生きていると。ここが自分の居場所だと。
 命を削ることで、彼は命の在り処を知る。渇いた喉の奥で、研ぎ澄まされる命を味わう。
 次に立ち止まるとき、息を求めて激しく喘ぎながらも、彼の体は歓びに打ち震えている。
 それが今はどうだ。
 振り返ったところには壬五家の一つ、津山家分家の男の姿があった。相変わらず締まりの無い顔で、隣を歩くナツにぺちゃくちゃと話し掛けている。
 夏も終わりを迎え、次は津山から坡城へ入り、国を横断して東端の都へ向かうはずだった。だが突然指令が入り、津ヶ浜の中ほどから壬に入って津山の護りを任されたのだ。
 何の縁かは知らないが、津山の邸で二人を待っていたのは、いつかのあの男だった。今度はもっとましな道中だろうなと笑っていた矢先だ。頬を引きつらせる二人に、彼は鷹揚に言った。「何だあ、また君たちか。つまらないな。頼むよ、全く」
 津山はさぞかし金が余ってやがるんだろうな。こんな糞の役にも立たなさそうな男一人を送り届けるのに二人雇うなんて正気の沙汰じゃない。針葉は二人が後ろにいるのをいいことに毒づく。そのくせ馬も駕籠も与えないのは暗に厄介払いをしたいのか。
 男の話は今、他の四家の悪口雑言に移っていた。
「どこが嫌いって、まず菅谷だよね。昔話を引きずってるのか知らないけど、いつも兄貴気取りで偉ぶっちゃってさ。でも国統なんて何も生み出さずに高台から見下ろして指図するだけだろ。半分寝てたってできるよね。まあ、旧三家は全部いけ好かないんだけどね。旧家でーすってお高くとまりすぎだよ。最悪は上松。六代前の旱魃かんばつのとき、津山を無能呼ばわりしたんだよ。雨が降らないんだもの、仕方無いじゃないか。江田だってそうだ。津ヶ浜が興った後の会合で、真っ先に津山をこき下ろしたのは奴らなんだ。裁きを担ってると自分の立場を勘違いしちゃうのかな。それにしたって、罪人はともかく同じ五家の津山を裁こうとするなんて傲慢もいいとこだよね。筆方は字だけ書いてればいいんだ」
 もはや彼はナツの相槌すら必要としていない。短い舌が唾をさかんに飛ばして動き続ける。
「津山さんよ、その調子で豊川のこともぼろくそに言えるか」
 ちらと振り返って言う。現に彼を護っている二羽の烏は、針葉自身は忠誠心など欠片も持たないが、れっきとした豊川のものだ。からかったつもりだったが、針葉は男の鈍感さを甘く見ていたようだ。彼はちょっと言葉を止めただけだった。
「何だい、君も聞いてたの。豊川はそうだね、僕らと表立った衝突は無かったみたいだけど厭だよね。近寄りたくないよ。殺し屋風情が五家に名を連ねてるってだけで嫌気が差すし、それにあそこはさあ。やってることがおかしいよ。いくら何でも偏りすぎだよ」
「偏るってのは?」
「そりゃあ僕だって父上も母上も生粋の壬びとだよ。五家だったら大体はそうだろうさ。遠縁から嫁ぐことだってある。髪も目も肌も、色が薄ければ薄いほどいにしえの系譜を汲んでるって尊ばれるんだ。混じりものがあると色が濃くなるからね。でも豊川はやり過ぎだよ。知ってる、あそこは分家筋がほとんど無いんだ」
 知ってるも何も、彼自身から聞いたような気がするのだが。先を促す。男は焦らすようにひと呼吸置き、針葉を上目遣いに見てにやりと笑った。
「何でって、ふふ、豊川同士でくっついちゃうからだよ。混じりものだらけの手駒に囲まれてると、却って結束が強まるんじゃない。もう死んじゃったけど、当主だって奥さんが姉か妹じゃなかったかな。あれ、従姉妹だったかな? 姪だっけ? どれでもいいけど。もうさ、やってることが人じゃないよね」
 下卑た笑みから目を背け、いつか遠目に見た豊川当主の顔を思い浮かべる。この男の言うことだから話半分に聞いておいた方が良さそうだが。男は更に顔を寄せて声をひそめた。
「あんまり血が濃すぎて、産まれてすぐ死んじゃう子供もいたみたいだよ。今のはただの噂だけどさ……でもここからは実話。あそこの長男は、自分一人じゃ歩くことはおろか、まともに物も食べられなかったよ。あれじゃ大火を生き延びるのなんて無理だね。次の子は十年以上産まれなかったって言うけど、本当かなあ。水蛭子ひるこが次々産まれて、こっそり始末してたんじゃないのかなあ」
「やめてくれ。もう充分だろ」
 不機嫌な声を上げたのは、今まで沈黙を貫いてきたナツだった。津山の男は目を丸くして、ばつが悪そうに口を曲げた。針葉は強ばった表情のナツの傍に寄る。
「珍しいな、お前が怒るなんて。俺もちょうど気分が悪くなってきたとこだが」
「壬も豊川もどうだっていいさ。けど黒烏にゃ俺の恩人がいる。恩人が必死で護ってきたもんを、あんまり虚仮にされちゃ黙ってらんねぇ」
 なるほど、国より人に付いたというわけだ。通り名と太刀筋しか知らぬ男の一端を垣間見た気がした。
「何だよ、そっちから振ってきたくせにさ……」
 男はまだぼやき続けている。針葉は早足で彼の前に戻った。
 一行はそのまま山へ分け入る。深い緑に遮られて夕暮れの道が陰りを増す。遠くに目をやるとうっすらと霧がかかっているのが分かる。人の気配はどこにも無い。一人黙るだけで静かな道中となった。ナツを警戒して口を閉ざさざるを得なくなった男は、苛立った様子で針葉をつついた。
「ねえ、まだ着かないの。遅いんじゃない」
「これが最後の峠だ、我慢しな。今日中に下っちまったら明日にゃ着く。この前みたく津ヶ浜に寄るより断然早いはずだ」
「僕は足が痛いんだよ。君たちとは育ちが違うんだ」
「だから何だ、負って行けってか。駄々こねるんなら置いてくぞ」
 男は針葉を睨んでもごもごと口の中で呟いた。「何だよ、気遣えよ、もうお前らには頼まないからな……」是非そう願いたいものだ。次は馬でも駕籠でも好きにするがいい。
 突然、ぴりりと肌が痛んだ。針葉は細く息を吸う。
 歩調を乱さず目だけを動かす。耳を澄ます。どこだ……どこにいる。
 すっと息を吸い込む。瞼を下ろす。
 一人……二人。
 目を開く。
「おい、おっさん」
「……何それ、僕のこと?」
「休んどけ。邪魔だ」
 針葉は男の肩を突き飛ばしざまに木々の中へ駆けた。同時にナツも腰を低く落として駆け、幹に向かって地を蹴る。
 派手に転んだ津山はしかめ面で起き上がった。膝と掌が熱を帯びてじんじん痛む。擦り剥いたに違いない。あいつ、僕を護る立場のくせに怪我させるなんて。
 振り向いた彼の目には激しく刃を交わす者の姿が見えた。一方は針葉、もう一方は黒い布で顔を隠した大柄な男だ。もう一人は? 顔を上げると、幹の間を軽く跳び回りながら刀を打ち合わせている影があった。接触の度に高い金属音が響く。ナツがもう一人を相手にしているらしい。
「ぼ、僕を狙って来やがったな!」
 擦り傷の痛みも今は忘れ、慌てて木の影に身を隠した。
 連続する刀の音と鳥の羽ばたきが、密度の濃い木々の間を駆け抜ける。
 針葉は刀を細かく動かして応戦した。一薙ぎごとに加わる重みを受け流しながら考える、これは津ヶ浜で烏を襲った奴らの一味か。太刀筋を見極める目に、柔軟に動いて間合いを詰める足首に、問いを投げる。
 ――否。
 山には慣れているが、それだけだ。あの不気味な掴みどころの無さは微塵も感じられない。むしろ。
 立て続けに打ち込まれ、力で押し返した。ぎいんと金属音。相手が飛び退く。後にはすっぱりと斬られた枝葉が散る。針葉は一瞬の隙に息を整える。
 切っ先の向こうの相手は目以外を全て隠している。癖を極力消しているようにも感じる。だが明らかな殺意が襟から、袖から、瘴気のように漏れ出ていた。
 針葉は片頬を歪めて笑った。
「あのお坊ちゃんにそこまで価値があるとはな。いくらで雇われた。代わりに請け負いたいくらいだ」
 答えは無い。針葉にじっと視線を合わせたまま、相手も刀を構え直す。ゆらりと、視界の中の二口ふたふりが交差する。
 静かに睨み合う。ナツの刀の音が右に左に聞こえる。あちらはちょこまか動く奴のようだ。互角か、やや押され気味か。
 針葉は細く息を吸う。足元からぞくぞくと、痛いほどの緊張と恍惚が上ってくる。

 津山は幹からそろりと顔を出して烏たちを探した。派手に動き回っているナツたちの居場所はすぐに分かった。彼の頭よりずっと高いところから生える枝を黒い影が跳び回りながら、懐に飛び込んで数合刀を交えたかと思うとすぐに離れる。それが彼の目には戦いを引き延ばしているように見えた。
「ああもう、何やってるんだよ。早く決着つけちゃえよ」
 じれったく舌打ちして視線を巡らせる、その途中で幹の向こうに針葉たちの姿を見た。
 あまりに静かで見逃すところだった。
 二人は刀を構えて対峙したまま一歩も動かない。騒々しく跳び回っては刀を合わせるナツたちとは対照的だ。まるで何も聞こえていないようだ。時が止まったようだ。じっと見つめているうちに気付かず呼吸を止めていた。途中で苦しくなって息を吸う。
 はらりと落ちる木の葉が枝の向こうに見えた。はら、はら、彼らの間を縫うように舞って地に触れる。
 その途端、彼らは動き出した。
 先に地を蹴ったのは針葉だった。ひと息で間合いを詰めて相手の懐へ潜り込み、低い位置から斬り上げた。相手が跳び上がったと見るや否や追って跳ぶ。彼の体は宙でぐんと伸びて、切っ先が相手の袖を捉えた。斬り裂く。
 敵は落ちる途中で幹を蹴ってどうにか避けたが、劣勢は明らかだった。無理な姿勢で着地してよろめいたところに白銀の光が迫る。
 これで決まりだ。
 思ったそのとき、彼の目はとんでもないものを見た。ナツと交戦していたはずの男が、いつの間にか身を翻して針葉の背後に迫っていた。
「ああっ!」
 津山は思わず目を覆った。

 鋭い光が鼻先をかすめていった。すんでのところで身をかわした針葉は細く息を吸った。
 何だ、今のは。
 彼の前には刺客が二人いる。腹の底まで息を吐く。
 すると今までが勘違いだったのだろうか。
「兄貴ぃ!」
 駆け付けたナツが針葉を背に刀を構える。
「畜生、舐めやがって」
 戦いの途中で放り出されたのが許せないのだろう、ナツは歯をぎりと噛み締める。
「ナツ。同じ奴をここで引き付けられるか」
「望むところだ」
 ナツは刀を低く構えて先に駆け出した。再び始まった騒々しい斬り合いに囲まれ、針葉はゆっくりと刀を構える。相対する男も構えた。針葉に斬られた左袖が不恰好に垂れ下がる。
 針葉は突然山の深くへ駆け出した。虚を突かれた男も即座に後を追う。草むらが深くなる。針葉はますます足を速める。ごうごうと耳元で鳴る風の向こうにナツたちの刀の音が遠ざかる、と思いきやまた聞こえる。やはりそうだ。
 狙われているのは津山の男ではない。針葉自身だった。
 何故かは分からない。理由は無いと言えば無いし、あると言えばありすぎる。だが先程一瞬見えたものは、あれは一体何だ。
 後ろにぴたりと付いてくる足音。針葉は気付かれないよう徐々に速度を緩める。追い付けるものと勘違いして、後ろの足音は更に速まる。
 針葉は頃合を見計らうと、跳び上がりざまに枝を掴んでぐるりと半回転した。全力で駆けてきた男がはっと息を呑む。足がもつれている。――よし、届く。
 幹を蹴り、高さと勢いを生かして斬り下ろす。男も刀を振り上げるが、それよりもわずかに、落ちてくる切っ先が額にめり込む方が早かった。
 顔面が割れて血が飛び散る。男はそのままどうと前のめりに倒れた。周りの木の葉がふわりと浮き上がってまた落ちる。撓んで戻った枝から名残のようにぱらぱらと葉が降る。
 いつの間にか辺りは闇に包まれていた。
 針葉は荒く呼吸しながら近付き、痙攣している男の指から刀を取ると、迷わず心臓のある場所に突き刺した。命を失った体が最後の抵抗のようにびくりと震えた。抜き取り、体を蹴飛ばして表に返し、喉にも突き刺す。露わになった顔に見覚えは無かった。
 次に針葉は、男の左腕の付け根に狙いを定めて刀を払った。吹っ飛んだ腕は地面を転がり、幹に当たって止まった。血と脂に塗れた男の刀を棄ててそちらへ足を向ける。命を失った腕は重く、持ち上げるとひらりと袖が落ちた。暗がりに目を凝らす。
――兄貴!」
 見えるよりも聞こえるよりも、体が先に反応していた。振り向きざまに翳した刀がぎぃんと鳴る。びりびりと腕を侵食していく痺れ。ナツが相手をしていたもう一人の刺客だ。二人の刀が十字を描く。
 瞳孔の開いた目が間近にあった。
 針葉は勢いで負けていた。このままでは持ち堪えられない。ひゅっと息を吸って後ろに跳ねた。
 間髪入れずに次の一迅が弧を描く。首を仰け反らせてどうにか避ける。平衡を失ったところにもう一迅。下駄の底で受け、膝で勢いを流し、体じゅうのばねで押し返す。
 地を蹴るのは同時だった。一歩一歩、飛ぶように地面を駆けて、右手を振り上げる。振り下ろす。
 刃が噛み合う。
 音が遅れて聞こえる。ぎりと歯を食いしばる。
 相手はすぐに腕を引いた。かと思うと薙ぎが迫ってきて体を引く。胸に熱さが走って血が散った。速い。
 先程のナツとの戦い方が脳裡に蘇る。そうだ、こいつの手強さは力より速さだ。退こうとする足を闇に慣れた目が捉えた。逃すか。体が、腕が、刃が、大蛇のように伸びて脛を斬る。
 致命傷にはならない。だが着地したところで膝がわずかに折れたのが見えた。
 ――ナツ、来い!
 音も無く樹上に潜んでいた相棒が、ふわりと枝を蹴り、黒い影となって下りる。腕の刀は地に引き寄せられるままに相手の体にめり込み、右腕を引き裂いた。
 布の下から声にならない声が漏れる。だらんと垂れた右手から左手に刀を持ち替えてぶんと後ろへ振るうが、慣れぬ手では届かない。
 針葉は、男の目が一瞬色を変えたのを見た。脛から下を血で汚した足が、誰もいない幹の間を一心不乱に駆け出す。その背中は素早く、すぐに闇に紛れて見えなくなった。
「ま、待ちやがれ!」
 追って駆け出したナツに針葉も続く。途中の草むらに抜き身の刀が落ちていた。あれは針葉自身が最初の相手から奪って棄てたものだ。あのときの骸も腕もどこにも無い。
 ナツの声。はっと顔を上げる。すぐ先で木々が途切れ、視界が開けていた。崖だった。そこに、身を躍らせる二つの影が見えた。
 影はあっという間に遥か下の闇に溶けた。潰れる音さえ聞こえない。ここから落ちては生きていられないだろう。勝機が潰えたことを悟り、証を残さぬよう身を投げたのだ。
「……何だったんだ、あいつら」
 ナツの呟きも闇に消える。針葉は踵を返して街道へ急いだ。慌ててナツが追ってくる。
 津山は同じ場所で震えていた。近付いてくるのが二人だと分かると飛び出してきて、いつもの調子でまくし立てた。
「何なんだい一体! 酷いじゃないかこんなに長いこと一人きりにするなんて、僕がどれだけ肝の潰れる思いをしたか分かってるのかい!? そ、そ、それで奴らはどうしたんだ、やっつけたのかい、勿論やっつけたんだよね……うわっ、ハルくん君それ血が流れてるじゃないか、平気かい、死ぬのかい!?」
 針葉はしかめ面で片耳を塞ぎ、津山の腰からひさごをぶん捕った。袖を歯で引き裂いて左手に巻き付け、中の焼酎を染ませて荒っぽく血を拭う。
「おい、ナツ」
「うん?」
「急用ができた。後は峠を下るだけだ、お前一人で行けるな」
 ナツの顔色が変わる。津山が目を剥く。
「待てよ兄貴。そりゃ明日には着くだろうが、あんなのがまた出てきたらどうしろってんだ」
「俺が離れりゃ何も起こらん。せいぜい小金狙いの賊が出るくらいだ」
 彼にも針葉の言う意味が分かったらしい。堅く口を結んで少し考え、舌打ちした。それが答えだった。
「……今回の金は俺の一人占めだぜ」
「分かってる。短い間だったが、お前と組むのはなかなか面白かった」
「もう戻らねぇつもりか」
「かもな。達者でな」
「何なんだよ二人して、主人は僕だぞ! 勝手なことばかり言ってたら許さないぞ。こ、こら待て! 戻ってこい!」
 津山の怒鳴り声を背に受けて針葉は夜道を走った。幸先は悪いが、仕方無い。





 紅花が浬に文を渡せたのは、ひよに託されて数日経ってからだった。
 いつまでも預かってはいられない。意を決した紅花はまるで喧嘩でも吹っ掛けるように、ずんずんと彼の目の前まで歩んで文を突き出した。さながら果たし状だ。顔もまともに見られない紅花だったが、浬も同様に居心地悪そうな顔でそれを受け取った。
「団子屋のひよさんから。この前器借りて、そのとき預かったの。店の看板書いてほしいんだって。……じゃあ、確かに渡したからねっ」
 くるりと踵を返した紅花を浬が呼び止めた。ごくりと唾を呑み込んで振り返る。浬は片手に開いた文を持ち、存外に穏やかな顔だった。
「借りてた器ってもう返したの」
「あ……やだ、忘れてた。次の日返しに行こうと思ってたの」
「ついでに返しとくよ。僕の部屋に置いといて」
 何のわだかまりも無かったかのように、変わらずにこやかな彼の、手の中で文がぐしゃりと潰れた。

 その日の夕餉はアオハサの塩焼きとヒラビの新芽の煮浸しだった。
 食事が始まってしばらく経ち、織楽がふと箸を止めた。
「紅花。明日からしばらく飯要らんしな。果枝の田舎行って、戻らんとそのまま季春入りするし」
「ようやく決心したんだ」
 からかうように言ったのは暁だ。彼女はこのところ、もしかすると睦月を身籠る前よりも遥かに、織楽と打ち解けているかもしれない。
「いやいや、ただ尻込みしてたんちゃうで。今は物騒な話も聞こえてきぃひんし、果枝の悪阻も落ち着いたし」
「ならそろそろお腹が目立ち始めるかな。とにかく果枝さんの体を一番に気遣ってあげてね」
「任せとって」
 暁が食事に戻ると、黄月が織楽に道中のことを尋ねる。箸の音と雑多な声が部屋に混じる。浬の声もそのうちの一つだった。
「僕も明日から要らないから」
 紅花が首を向けると、彼も彼女を見返していた。相変わらず穏やかな顔だった。
「どうして」
「ちょっと遠出するんだ」
「いつ帰るの」
「うーん、いつになるかな。いいよ、突然帰ってきて夕餉が無いぞなんて言わないから。しばらく楽しなよ」
 この場でそれ以上追及すれば不自然だ。紅砂の目もある。紅花は口を噤んだが、心は燻っていた。
 出掛けるなんてそんなの、今初めて聞いた。家の一員というだけならともかく、紅花にだけは先に告げてくれても良さそうなものだ。だって自分は浬の……浬の。
 紅花の箸が止まった。
 浬の、何なのだろう。自分から拒んだくせに、それ以来口もほとんど利かなかったくせに、未だに特別扱いを望んでいる。
 もう一度浬を盗み見た。アオハサのほぐし身を口に運ぶ横顔は、紅花が惹かれたそのままの彼だ。柔和で温和で、仕草の一つ一つも品良く優しい。
 不意に、紅花の胸に一抹の不安が宿った。彼がどこかへ行ってしまう。自分の手をすり抜けて。
 話す機会を得たのは夕餉の片付けが済んだ後だった。洗い物をしていた暁はぐずり出した睦月を抱いて自分の部屋へ戻り、代わりに膳の片付けをしに行った浬が、厨の紅花にひと声掛けて引っ込んだ。紅花は慌てて前垂れとたすきを取り後を追った。
「浬」
 彼が振り返ったのは幸い縁側に踏み出す前だった。浬の部屋がある東の並びには織楽と黄月の部屋もある。黄月はともかく、織楽に聞かれたら何を言いふらされるか。
 浬は不思議そうに紅花を見つめた。
「どうしたの」
「どうしたの、って……」
 なんでもっと早く言ってくれないのよ。ただ従って待ってればいいっていうの。あたしはあんたの何なのよ。
 言おうとした全てがくしゃっと萎んでしまう。浬に言葉を躊躇したことなんて、今まで一度だって無かったのに。どうしてだろう、我儘になる、臆病になる。浬はいつだって変わらないのに、自分だけ滅茶苦茶だ。
 浬は首を傾げる。口元に静かな笑みをたたえて、うつむいた紅花を見つめる。
「……この前はごめんね、紅花ちゃんの気持ちも考えずに。もう、あんなことはしないから」
 紅花は顔を上げた。わだかまりさえ二人を繋ぐ糸だった。それを彼は解きほぐして消そうとしている。彼がどこかへ行ってしまう。
「おやすみ」
 再び背を向けた浬に、紅花はしがみ付いた。
 浬が息を吸ったのが分かった。鼓動も、ぴたりとくっつけた頬から伝わった。たった一文を頭の中で何度も繰り返す。うまく口が動きますように。
「あ……あんたの、部屋に行ってもいい?」
 言った後は顔を上げられなかった。闇に沈む雑草の一点をじっと睨んで待つ。何か言ってほしい。何か。
「……有難う。でも無理しなくていいよ」
 彼の声は落ち着いているのに、紅花の喉は渇ききっていた。
「む、無理なことないわよ。暁だって去年の今は身籠ってたのよ」
 口走った後でかっと紅潮した。何を言った。何を言った今。馬鹿。馬鹿。馬鹿。恥ずかしさのあまり涙が滲む。いっそこのまま井戸へ身投げしてしまいたい。
 ふっと浬が笑った。振り向いた彼の掌が紅花の頬を包む。火照りが手を伝っていく。
「うん、そうだね。……でも今日はやめておこう。泣きそうじゃないか」
「こ……これは違う、別に嫌だからってわけじゃ」
 言葉の途中で抱きすくめられる。一瞬息ができなくなった。
「帰ってきたら、誘っていいかな」
「ちゃんと帰ってくるのよね」
 彼が置いたわずかな間が、彼の驚きを物語っていた。だが彼がこぼした笑顔はいつも通り柔和だった。
「当たり前だろ」
 紅花も浬の背に手を回す。彼の胸にじっと頬を当てて、布越しの体温と鼓動を感じた。

 次の朝、紅花が起きる頃には浬の部屋は既に空になっていた。
 蒲団はいつも通りきちんと畳まれて隅に寄せられていた。
 借りものの器は無くなっていた。