いつもより、ほんの少し遅くまでいただけだ。
 浬の右手は紙の上を滑るように動いて、右から順に文字を残していく。手付きは淀みないが、満足に文字を読めない紅花でさえも少々座りが悪いのを感じられる。きっと上手いとは言い難いのだろう。それでも欲目だろうか、どことなく、どことなく愛嬌があると言えなくもない。
 ふっと浬が息を吐いて筆を置く。首をぐるりと回すと関節が小さく鳴った。首を後ろに倒したときだけ、普段目立たない喉仏が目に付いた。
「今日はお仕舞い?」
「お仕舞い。……紅花ちゃん、もう遅いよ。早く戻って蒲団入りな」
 今更気付いたように言われて紅花は口を尖らせた。ずっと隣で見ていたのに。いつもこうだ、浬が見ているのは机の上だけなのだ。
 浬は文机や書きものの道具を片付け始めたが、紅花はその場から動かず、むくれた口で言葉を放った。
「追い出すの。蒲団ならそこにあるじゃない」
 こんなことを言えるのも、浬が本気にするはずないと知っているからだ。困ったような溜息。浬は片付けの手を止めて紅花の傍に腰を下ろした。
 紅花は目を逸らした。こうして寄り添われてやっと後悔するのだ、子供っぽい意地を張ってしまったと。元からこうではなかった。少なくとも暁の人別帳の一件があるまでは。あの夜以来、彼の前でだけ我儘になってしまう。
 浬はうつむいた紅花の顔を覗き込んだ。
「今日はどうして機嫌が悪いのかな」
「悪くない」
 実際、目を合わせられないのは怒りよりもきまりの悪さが大きかった。じっと紅花の視線を待っていた浬は、途中で諦めたように苦笑を漏らした。紅花の視界から彼が消える。
 紅花はぱっと顔を上げた。浬の袖を掴む。立ち上がろうとしていた浬が振り返った。驚いた顔。まるで縋るようだった。みっともない。でも諦めては嫌、どうしようもなくなんかない。なんて我儘。
「……紅花ちゃん」
 はっと思う間もなく抱きすくめられていた。体が硬直する。だが彼女の髪を撫でる手は優しかった。
 ああ、やっぱり。ふっと肩から力が抜ける。触れていたかったのだ。どれほどみっともなくても、触れてほしかった。
 これで充分だった。たったこれだけで、心の奥にわだかまっていた我儘がすっと溶けて無くなった。もう意地を張らずに自分の部屋へ戻ろう。
 そう思ったのに、どうしてだ。
 どうして彼の向こうに薄暗い天井の梁が見えるのだ。どうして背中が畳に触れているのだ。どういうことだ。どういう、
「ちょっと待って」掌を突き出して彼を制止する。「何これ」
「え?」
「これは……あの、違うでしょ」
 動きを止めた彼の下からごそごそと這い出して距離を取る。浬は呆気にとられた顔で、今の今まで腕の中にいた人を見つめる。
「あたし、そんなつもりじゃないんだけど」
 言葉だけはやけに冷静に吐き出せた、ように思う。何も言わずにいる浬を残したまま廊下へ出て、二つ右隣の向かいにある自分の部屋へ音を立てず歩く。そっと襖を閉じたところで、かっと頬が紅潮した。蒲団に飛び込んで声にならない声で叫ぶ。
「な……な、な、何なのよ何なのよあれ、おかしいでしょ、違うでしょ、駄目でしょあれは、信じらんない、おかしい、馬鹿じゃないの、何、何なの」
 ひと通り呟く言葉が無くなっても、胸がどきどきとうるさくて眠れやしなかった。蒲団の中で汗ばみ、息苦しくなりながら紅花は考える。
 今のは結局、どちらの我儘ということになるのだろうか。



 抱き寄せたことも唇を交わしたこともある女の子が夜遅くまで一緒にいようとするものだから、理性を叩き起こして戻るよう促したのに、一緒の蒲団に入りたいようなことを言い出したので、内心うろたえつつも動揺を見せないように彼女の反応を確認したらそっぽを向かれ、勘違いだったかと引いた途端に、袖に縋りつくわ潤んだ瞳で見つめてくるわ、これは一世一代退いてはならぬところと抱き締めても満足げだったので、勢い余って押し倒したら、汚らわしいものでも見るような目で「そんなつもりは毛頭ございません」。
 浬は前を行く紅砂の頭をちらりと睨む。彼の妹にどんな心無い目に遭わされたかを逐一語ってやりたい。と思いつつも、それをしてしまうと酷い目どころでは済まないので黙っておく。
 縁側をぐるりと回ったところで紅砂は足を止めた。視線の先では睦月を背負った暁が洗ったおしめを干しているところだった。
 振り返った暁が紅砂を見て、「どう」したの、と言い掛けたところでその後ろの浬に気付き、わずかに顔を強ばらせて「どうしたの」と言い直す。
 三人は暁の部屋に腰を下ろした。暁はおぶい紐を解いて睦月を座らせる。幼子は現れた二人の顔をじっと見ていたが、思い付いたように転がった毬に手を伸ばして遊び出した。
「それで何なの」
 暁が二人に向き直る。浬はそもそも自分がここへ連れてこられた理由を知らなかった。昼餉を終えて戻ったところで突然紅砂から声を掛けられたのだ。紅花とのことかと一瞬腹に力を入れたが、どうもそれも違うようだ。
 浬が紅砂を見る。視線を戸惑わせていた暁もつられて彼を見る。その時だ。
「揃ってるか」
 開いた襖の向こうに姿を見せたのは黄月だった。襖をきちりと閉め、部屋を横断して障子も閉めると、彼は当たり前のように暁の真正面に座った。
 たじろいだのは暁だ。閉ざされた襖と障子を交互に見て眉根を寄せる。自らを落ち着かせるように目を閉じて短く息を吐く。次に目を開けたとき、彼女の顔つきは豊川のものに変わっていた。
「どういうこと」
 腹の底から吐き出す低い声。応答したのは黄月だった。
「無駄な言い合いは望まん。単刀直入に言おう。お前の行う妙な儀式のことだ」
 暁が真っ先に睨んだのは浬だった。「まだ飽きずに嗅ぎ回っているのか」
 浬は頭を振って立ち上がり、隅の柱に体をもたせかけた。
「……僕に言わないでくれるかな。黄月、雨呼びがどうしたって」
「雨呼び、か。浬は、お前がその儀式をやっておかしくなったと主張した。だから俺は浬が小藤とやらを燃すところに立ち会った。何も起こらなかった」
 浬は腕組みのまま仏頂面で対角の柱を睨む。暁はふんと鼻から息を吐いた。それ見たことか、と。「だが」黄月が続ける。
「儀式というのはそれだけじゃないんだろう。木片を燃すだけじゃない。お前は、木片を包む葉を食べたんだ」
 暁の表情に確かな変化があった。浬は組んだ腕を解いて彼女を見下ろす。
「そうだろう」
 暁は堅く口を結んだまま何も言わなかった。黄月は食い下がることもなく、ふっと息を吐いた。
「言いたくないならいい。もう済んだことだ」
「黄月!」浬は慌てて声を掛ける。黄月は暁から視線を外さずに、
「だが、子供が大事なら今後はせいぜい控えるんだな。俺がいた里では、あの葉を口にして大の男が何人も死んでいる。どんな使い方をしたか知らないが、次は無いぞ」
 言うだけ言って彼は腰を上げた。誰もが言葉なく見ていた。
「ま……待って」
 彼を止めたのは暁の声だった。黄月が鷹揚に振り向く。そこにあったのは、豊川家を背負った勇ましい顔ではなく、一人の母の顔だった。
「死んだって……それは本当なの」
「本当のことだ。それが原因で俺の一家は里を出てきた。死因を究明したからこそ、父は言われのない罪で裁かれた」
 暁は落ち着かない様子で何度か瞬きをし、唾を飲み込んだ。口の中の言葉をどう形にするか迷っていたが、しばらくして視線を黄月に合わせた。
「……済んだことはと言ったけれど、それが、この子に何か……悪いものとして出てきたりは、しないの」
 蚊の鳴くような声だった。葉を使ったと認めたも同然だった。黄月は暁の前に座り直してじっと彼女を見つめた。彼女はちらちらと子に目をやり、恐れ、怯え、うろたえているように見えた。
「まず、身籠った女が使った例は聞いたことがないのが前提だ。その上で、葉を服用して死に至らなかった者に共通して見られるのは、狐でも憑いたかのようなでたらめな行動と、その間の記憶の完全な喪失だ。気が付いたときには何も異常が残っていない、だから周りと食い違う。お前と浬の応酬が正にそれだ。目を悪くする者もいると聞くが、そう日が経ってから現れるものでもない」
 黄月はあくまでいつも通りだった。気を遣うでもなく、殊更責め立てるでもなく、良くも悪くも中立だった。
 暁は項垂れて長く息を吐いた。彼女の傍らでは幼子が毬を転がしている。茶太郎が通ったのだろう、縁側を鈴の音が歩いていく。
「いつから、何度使った」
「……最初は二年前の冬至。次が去年の夏至」
 浬は唇を固く結んで暁を見つめていた。二年前の冬至は、彼が初めてふらふらと歩き回る彼女を見たとき。そして去年の夏至に彼は、織楽の部屋にいる彼女を見たのだった。
「二年前の秋分から使うつもりだったけれど、夏至のために手に入れた小藤が使えないまま残っていて、その葉があまりにぼろぼろだったから捨てたんだ。去年の春分は、小藤もカゾもすり替えられていた」
 暁が浬を見上げた。今までのような憎々しげな色は無く、困ったように、まだ心を許し切れないように、躊躇いが見え隠れしていた。浬は小さく頷く。
 二年前の夏至はちょうど、彼女が烏に連れ去られていた時期だ。そして翌春分ですり替えに気付いたからこそ彼女は、去年の夏至には安物の香ほづ木をわざとすり替えさせて浬を油断させ、まんまと出し抜いたのだった。
 睦月が遊んでいた毬がはずみで幼い手の届かないところまで転がった。不満げな声に気付いて腕を伸ばしたのは紅砂だった。睦月は再び機嫌よく遊び出す。
 紅砂は足を崩して座り直した。黙って次第を聞いていた彼が唸るのを聞いて、暁はそちらへ視線を移した。
「三年前だったか。最初にあれを買いに行ったときにも、あの大きな葉に包まれたものを受け取っただろう。季節の変わり目ごとに手に入れておきながら、丸一年使わなかったのか。二年前の秋分からってのは一体またどうして」
「そ……れは、あの」
 ふとした疑問だったが、暁は顔を背け、視線をあちこち彷徨わせ、手を忙しなく動かして、ひと目で分かるほど狼狽していた。
「い、言わなきゃ……駄目?」
 誰からも明確な答えは無かった。浬も同じだ。これほどの過剰な反応。真相を知りたくて当然だが、むきになって口を噤んでいた今までとはどこか違っていた。静寂が余計に暁を焦らせたようだった。眉を寄せてうつむくと、彼女は自らぽつりと口にした
「…………馬が」
「え?」
「あの……つ、月のものが……夏に」
 耳に手を当てて身を乗り出した紅砂だったが、その言葉の意味するところを察するや否や、弾かれたように元の位置へ上肢を戻した。彼の方が顔を赤くしている始末だ。黄月は顔色一つ変えず、浬は巧妙に視線を逸らす。不自然な沈黙が部屋を支配する。
「あの葉は……細かく千切って酒で煮て、飲んだ。それにどんな意味があるのかは知らない。ただ、その……「それ」が始まったらそうするものだと教わっていた。疑ったことなんてなかった」
「大事に抱え込んできた風習だとしても、やるんなら子供がお前なしで生きていけるまで育ってからにしろ。死に急ぐのは勝手だが周りを巻き込むな」
「もう、しない……」
 項垂れた暁を浬はじっと見つめた。彼女の姿にもう一つ、瞼の中の影が重なる。知らず眉根が歪んでいた。憤り、哀しみ、悔恨。
 神憑りの式だったのだ。どちらの家が先だったのか、今となっては分からない。だがあの御方も暁と同じように小藤を焚き、カゾの毒の溶け出した湯を飲んだのだろう。自分を失い、(はらえ)の紐も断ち切って、許されぬ場所へ自ら下り、愉しむように兄を死へ追い込んだ、尊き御方。
 恐ろしい女。
 浬は目を伏せて、こみ上げた感情をぐっと喉の奥へ沈めた。



 三人が出て行ってからも暁は脱力したように座り込んでいた。今まで信じ守ってきたことは何だったのだろう。
 ゆっくりと視線を巡らせる。赤子は体を横たえて眠っていた。そろりと手を伸ばして抱き上げる。抱き寄せる。
 浬の言っていたことが本当なら、あの夏至の夜自分は。自分は……。
 首を振って立ち上がった。これ以上は暗闇を手探りで進むようなものだ。間違えば戻り方も分からなくなってしまう。今はまだ、じっと留まっていたほうが良い。
 部屋で作業をしていた黄月に睦月を預けて厨へ向かうと、紅花が既に夕餉の支度を始めていた。
 この家に帰ってきて何より助かったのは、睦月が広く動き回れることでも、いくつかの家事を紅花がまとめて担ってくれることでもなく、人手と人目が多いことだった。一日のうち何度かはこうして、睦月を周りに任せられる。
 たといその間に別の仕事を入れたとしても、張り詰めていた気がふっと緩むのを感じた。取り留めのない話をするだけでも、知らず知らずのうちに溜まった重苦しいものを吐き出せる。
 ちょうど睦月が人見知りをするようになった時期でもあり、最初は全身でぎゃんぎゃん泣いて母を恋しがったが、回数を重ねるごとに少しずつ慣れてきているようだ。気が散ると言って世話を拒んでいた黄月も、受け入れてくれるようになった。
 落とし蓋を取り、鍋に二度目の味噌を溶き入れる。鍋を傾けながらアオハサの切り身に煮汁を絡ませていく。
 紅花は小鍋の番をしていた。簡単な料理なら信頼して任せてもらえるようになっていた。
 遠くでがらりと扉の開く音。誰が帰ってきたのだろう。誰が出て行ったのかも……すぐには思い浮かばない。
「暁、それ取り分けたらお茶入れてくれる」
 声の方を振り向いたときだった。
「熱っ」
 思わず片目を歪めた。煮汁が指に撥ねたのだ。
「大丈夫? 冷やしてきな。後はあたし一人でできるから」
 紅花に甘えて厨を後にした。外へ出て井戸の方へ向かう。家の壁に寄せて置いた桶には六分目まで汲み置きの水が入っている。蓋を外してしばらく指を冷やし、水気を払った。暗い中では腫れまでは分からないが、ひりつく部分にそっと触れると熱を持っているのが分かった。
 水膨れにはならないだろうが。
 念のためにと縁側沿いに土を踏み、黄月の部屋へ足を向ける。彼の部屋は障子が開け放たれ、灯りが外へ漏れていた。何やら騒がしい。珍しいことだ。
「黄月……」
 縁側に片膝を乗せたところで暁は息を止めた。
 黄月の隣で、睦月を抱えて揺すっているのは織楽だった。
 思わず口を覆う。彼と最後に会ってから既に一年以上が経っていた。
 暁が悪阻に苦しみ始めた夏の終わりには、彼は季春座に詰めて帰ってこなくなった。そう、今思えば姿を見なくなったのは夏至の頃からだったかもしれない。秋には公演で亰へ向かったと思っていた。それを無理やり降りたことは紅花から聞いていたが。
 久々に会う彼は何も変わっていなかった。驚くほど記憶の中と同じだった。
「久し……ぶり」
 暁が躊躇いがちに言葉を選ぶ一方で、織楽はぱっと表情を輝かせた。部屋が突然華やいだようだ。
「暁ぃ。何やお前、産んでんやったら見せに来ぃや。ひとっ言も無しに水くさいなぁ」
「最近まで間地にいたから、まともに外にも出られなくて……。織楽こそ、ずっと季春座にいたんでしょう」
「何度か帰ったで、ここには。間地てあの爺ぃの家やろ、よう行かんわ。何されるか。あ……てことは何や、黄月も紅花も寄ってたかって俺に隠しててんやな。俺だけ仲間外れか、えぇ?」
 針葉はともかく織楽にまで赤子の存在は伏せられていたらしい。それを過剰な気遣いと取るのか、織楽との関係は無いと言い張った暁への信頼の無さと取るのか。溜息を吐いて縁側に上がる。
「知っとったら熨斗目の祝い着くらい仕立てたったいうのに、なぁ」
 織楽が睦月に頬をすり寄せる。睦月はやっと人見知りを思い出したように顔を崩して母へと手を伸ばした。
 残念そうに睦月を抱え上げる織楽と、腕を伸ばす暁の、手が一瞬触れて、赤子の重みとともに離れた。睦月はすぐさま暁にしがみつき、暁はその背を優しく撫でた。織楽は足を崩して満足げに二人を見る。
「母ちゃんしてんねんなぁ。一年ちょいで変わるもんやわ……。ほんま驚いた」
 そしてふと気付いたように畳の上を指した。
「暁、これ食うてみ。どれがええかな」
 視線を落とすと、黄月のものは脇に退けられ、畳を陣取った紙の上に数種類の干菓子が並べられていた。紅葉を模したものや花を模ったものなど様々だ。
「有難う。でもそろそろ夕餉だよ」
 ちょうど紅花の呼び声も聞こえて、織楽は菓子を包み直して腰を上げた。黄月が「何の用だった」と声を掛けたが、火傷は少々赤みが出ただけで治まっていたので、暁は首を振った。

 廊下で織楽と顔を合わせた紅花は、その後ろの暁に一瞬視線を迷わせたが、すぐに眉を寄せた。
「だから飯時に急に帰って来られても困るのよ。あんたの分の魚無いわよ」
 顔をしかめることで動揺を隠したのだと、暁は気付いて目を伏せた。二人が鉢合わせないように、織楽が睦月に気付かないように、やはり家の中には暗黙の了解があったらしい。暁が望む望まないに関わらず。
 昨日までなら憤ったかもしれない。だが暁は知ってしまった。あの夏至の夜の行動は、彼女自身にもどうにも見えないのだ。
 ちらりと見上げた彼の後姿。艶やかな黒髪。目元から頬、顎への無駄なもののない輪郭。耳朶から下がる洒落た飾り。
 何かあったのなら、あんな嬉しげな表情をできるわけがない。あんなふうに彼女に話し掛けられるはずがないではないか。
 夕餉の席に着いてからも、帰ったばかりの織楽を中心としてごく自然に会話は進んだ。落ち着かないのは暁ばかりだ。
 最近千秋楽を迎えた芝居の話、評判の良い菓子屋の話、坡城の東西を結ぶ大脈路の治安の話、全てを上の空で聞く。何を食べても味が感じられず、ただただ箸を動かして咀嚼を続けた。
「暁。その子今何か月目なん」
 自分が問われたことにもしばらく気付かず、はっと顔を上げて赤子と織楽の間で視線を往復させる。織楽は箸を止めて答えを待っていた。
「え……と、睦月の生まれ、だから今は七か月目かな」
「そうかぁ。ほんま驚くわ、ほんの一年ちょい会わんだけで立派にやや産んでな」
「立派と呼ばれるのは一人前に育て上げてからだ」
「まぁた黄月はそう言うて厳しいやろ。伸びるもんも伸びひんやん。気にしたあかんで暁、胸張っとり。それにしても、暁が一番に人の親になるて思わんかったわ」
 織楽はいたく思い入った様子でうんうんと頷く。ふと左手の指を折って何事か数え出した。彼の箸が行儀悪く暁を差す。
「そしたらあん時てもう腹に入ってたん。ほら、最後に会うた時。夏至やったかな」
 部屋から箸の音が止んだ。暁は恐る恐る視線を上げる。
「げ……夏至?」
「そう、確か夏至やったわな。覚えてへんの」
 誰かが茶を啜る音。それすらわざとらしく聞こえてしまう。
 暁は短い瞬きを繰り返しながら織楽を見つめていた。逸らしてはいけない。細かく震えながらも、茶色の瞳は、彼の上にあった。
 織楽の目が細くなる。ふっと笑い声。
「覚えてへんわなあ、べろんっべろんに酔っ払って千鳥足で乗り込んできて、酒臭い息で好っきなだけくだ巻いて、人の蒲団奪ってぐーすか寝て、なんっちゅうはた迷惑な。んで大概そういうのは、迷惑被ったほうは忘れへんのに、掛けた方は綺麗さっぱり忘れてんねん。どや、覚えてるんか。言うてみぃ」
「お、覚えてない……けど」
「そやろ? もうええけどな、あんな無茶な呑み方したあかんで」
 暁は戸惑いつつも頭を下げる。
「……ごめんなさい」
「そんでええ」
 芝居がかった厳しい顔で深く頷き、織楽は自分の膳に向き直る。すぐに顔をしかめて部屋を見回した。
「何やな、気色悪い。見せもんとちゃうで」
「織楽、今のって本当なの」
 意を決して尋ねたのは紅花だった。「今の?」と織楽。
「今のってどれや。暁がべろんべろんに酔っ払って千鳥足で乗り込んできて」
「織楽、それはもういいから!」
 赤面して途中で遮った暁に織楽は不満げな顔を寄越す。
「そ……そうよね、あるはずないって思ってたのよ。そうよ、当然よね、うん」
 紅花が打って変わって明るい声を作る。つられるように、ぎこちない安堵の表情が周りに広がっていく。
「何がやな。ああ、そや、針葉にも頭下げささな気ぃ済まんわ。勝手に勘違いして喚いて暴れて、ええ迷惑や。あいつはどないしてんの」
「知らない。ずっと帰ってきてないわよ。たまに菱屋から稼ぎが届くから、無事ではいるんだろうけど……。ねえ、あいつが帰ってきたら今のことちゃんと話しといてよ」
「ええけど紅砂が後ろで捕まえとってや。聞くより先に手ぇ出るやろ、あいつ。悪いけど商売道具やねん」
 しなを作るようにくねっと体を傾げて指先で自分の頬を包み込むさまは、自惚れよりも滑稽な芝居色が漂っていた。誰かの軽口。笑い声。話題は少しずつ暁のもとから離れていく。誰も気付かぬうちにわだかまりも影も消していく。
 暁だけが口を噤み、遥か遠くを眺めるように目の焦点も合わないまま、言葉の渦にたゆたっていた。



「なんや可愛いお客やな」
 睦月を抱えた暁を振り返って、縁側の織楽は口元に笑みを浮かべた。穏やかな夜の入りに重ねるように虫の声。
「どうしたん」
 彼はいつもと変わらずにこやかだが、言葉を発するまでの間は幾分短かった。暁は襖を拳一つぶん開けたまま彼の元へ歩む。織楽は顔を元に戻した。地図を並べて見ていたようだった。
「私は、去年の夏至にここへ来たの。同じように」
「そうそう、今と同じ」
「そう。……その時、何も無かったんだよね。その……ひと晩、一緒にいたことになるけれど」
 くいと織楽の顔が上がる。暁は睦月を抱く手に力を込め、彼の隣に膝を折る。織楽は茶化すでも笑い飛ばすでもなく、じっと遠くを見つめていた。
「どうしたん。そんなん聞きにわざわざ来たん。……何か覚えとんの」
「何も」かぶりを降る。「厭な夢を見たことだけしか」
「夢てどんな」
 暁は息を止める。何も思い出せない。残るのはざらりとした不快感だけだ。心に残った、厭なものの足跡だけだ。深く潜ろうとしても、何も。どこにも。闇に眼を凝らすようだ。生温かい泥を掻くようだ。
 その時ふっと蘇ったものがあった。体の中をほんの一瞬満たしてすぐに消える。目でも耳でもない、それは匂いだ。
「煙」
 唐突な言葉に織楽がぴくりと表情を動かす。続いて蘇ったのは、しつこく這い回る、厭なもの、ずりずりと滑って離れない、これは何だ。
「……蛇」
 織楽は緊張した面持ちのまま暁を見ていた。
 暁の睫毛が、見開いた目を縁取ってぴたりと止まり、しばらくして、ゆるゆると力無く下瞼と重なった。
「分からない。けれど、とにかく厭な感じだけ残っていて……。私自身は何も覚えていないのに、周りからは色々言われたものだから、もう一度きちんと聞いておきたかったの」
「色々て?」
 織楽に視線を向ける。目が合う。何故かきまり悪くなり、赤子の旋毛に目を移した。
「だ……誰の子か分からない、とか」
「誰のて……ああ、……えぇ!?」
 明らかに困惑している声だった。暁は自分の舌を恨んだ。言わなくていいことをわざわざ。この馬鹿もの。
「ほんまにぃ。そうか、そら嫌な思いしたわなぁ。堪忍な」
 縮こまる暁の心中を知ってか知らずか、織楽は至って申し訳なさそうに呟き、睦月の頬に手を伸ばした。「こんなええ子なら大歓迎やけど」
 冗談じみた言い方には何の湿っぽさも無く、暁の気まずさを取り払ってくれた。織楽は大きく腕を広げて後ろに寝転がる。
「そしたらいきなり二児の父か。どうしよ暁、盆と正月がいっぺんに来るで」
 天井に向かって吐き出された言葉の意味を、正しく捉えるまでにひと呼吸要した。
「……果枝さん?」
 織楽はごろりと横に転がって肘をついた。満足げな顔で、腹をぽんと叩く。
「この前の芝居が始まる前に果枝の田舎に行ってきてんや。山ばっかりやったで。そんで集落入ったら畑ばっかり。……目新しいもんは何も無かった。ひたっすらのどかやった。春の終わりや言うのにまぁ暖かかったわ。……小ちゃい家やった。ええ人らやった。親いうんは正直よう分からんけど、長う付き合うていけるかなて思えた。何日か泊めてもうて、次の芝居が終わったら祝言挙げます言うて帰った。芝居言うたら神楽みたいなもんやと思てはって、秋口になるて分かって目ぇ丸してはった」
 穏やかな眼差しはどこか遠くを見ていた。
「きちんと挨拶しに行くねんけど、殴られるかな。干菓子で機嫌取れるやろか」
 暁は視界の端で彼を見つめた。自分に流れたのと同じ時間が、誰の上にも等しく積もっていたのだ。当たり前のことだった。
 前を向く。彼の姿は視界から消える。赤子の匂いが濃くなる。見えるのは闇ばかり、聞こえるのは虫の声ばかり。黒い幕一枚の向こうに朝を隠した夜が、そこには広がっていた。
「大丈夫でしょう」
「ほんまに!?」
 がばっと起き上がる音。暁は笑いを含んだ声で言った。
「殺されやしないよ、せいぜいそこ十発殴り飛ばされるだけだから。覚悟を決めて行ってきたら」
「ちょ……えぇ〜、何なん暁、冷たいわぁ」
 笑いが弾ける。織楽は拗ねた顔で暁の隣に戻り、縁側から足を下ろした。
 ああ、なんという穏やかさだろう。暁は空を仰ぐ。ちらちら輝く星が、夜の幕から漏れ出た暁光のように見えた。ここに男女の別は必要ない。同じ家に住まう者として肩を並べるだけなら、こんなに自然に流れていく。これで良かったのだ。これ以上近付くことはできなくても。
「針葉によう似た子に育つわ」
 織楽は誰にともなく呟いた。
 二人は視線も交わさず、音も立てずに、闇を浴びた。虫の声だけが満ちる。
「……もう遅いで」
「うん。ごめんね、おやすみ」
 立ち上がった暁を追うように、織楽は顔を上げた。
「その子は確かに針葉の息子や。でもあの夜、何も無かったんやて安心したあかんで」
「……何?」
「乳くらい揉んだかもしれん」
 暁はぷいと顔を背けた。「馬鹿」不安そうな顔から一転、呆れ笑いが部屋に転がる。
 彼女は地図を踏まぬように気を付けながら部屋を後にした。とん、と軽い音を立てて襖が閉まる。
 織楽はじっと後ろを見つめていた。向かいにある暁の部屋の襖が閉まる音を聞いて、再び背中から倒れ込む。目を覆う。
 結果としては何も無かった。だが起こるはずだった。
 あの二人を見ているのが好きだった。眺めているだけで嬉しくなった。上手く纏まれば良いと思っていた。
 あの夏至の夜の暁は明らかに様子がおかしかった。だがあの時の言動は、全く心の底から出たものだったのだろう。常には自分の心を表に出さない彼女が、あの時ばかりは何の繕いもなく、だからこそそれは織楽の驕りを鋭く刺した。
 ――慈悲だけは一人前に垂れるくせに。焚き付けるばかりで、省みたことはなかったのでしょう。
 彼女の唇は乾いていた。口移しで注ぎ込まれた言葉は毒を持ち、彼の体を芯から冷やした。
 ――残酷なひと。
 彼女の白い首には指の痕がまだ生々しく残っていた。それは彼に目を背けることを許さなかった。
 嘘ではない。自分が焚き付けたのだ。自分の好きなように筋書きを用意して、それに沿うように演じて。中途半端な慈悲で暁をかき乱して。暁の想いなど素知らぬふりで。
 彼女から目を逸らした。結局応えられないのだからと、気付かないふりをした。そうすれば彼女はそれ以上近付いてこないと分かっていた。
 歯をぎりと噛み締める。
 二人の間に何があったかは分からない、だが結果として彼女は身も心も傷ついて、自分の前にいた。
 彼女さえ割り切れるのであれば、何でもしようと思った。何でも捧げようと、それで彼女が楽になるのなら。
 それで責められるくらい大したことではなかった。針葉からでも、正気に戻った暁からでも、家の者からでも。今、絶望に暮れている彼女を救いたかった。
 それこそが驕りだったのだろう。
 織楽は目を覆っていた手を外した。闇に沈む天井を睨みつける。
 睦月は間違いなく針葉の子だ。あの夏至の夜、織楽は暁を抱こうとした。だができなかった。
 今更気が咎めたわけではない。
 彼女は虚ろな表情のまま彼に縋った。彼を誰だと思っているのか、彼のことが見えているのかすら分からなかったが、触れた肌から幾許かの安らぎを得ているように見えた。そのまま一線を越えようとした。
 そのとき彼女は目醒めた。
 織楽を止めたのは彼自身ではなく、彼女の記憶だった。彼女の口から漏れた途切れ途切れの言葉。それが示す意味に気付いたとき、愕然とした。何たる救いの無さだ。
 彼女が絶望に暮れているのは今日昨日の話ではなかったのだ。織楽に与えられる程度の慈悲でどうにかなる相手ではなかった。彼の片腕は芝居や、果枝や、捨てられないもので埋まっている。空いている腕だけでは、引き上げるには重すぎた。
 救おうと伸ばした手は、逆に沼へ引きずり込まれると悟った途端に怖気づいた。
 あの様子では、彼女は覚えていないのだろう。
 ごろりと横になる。畳の冷たさが頬に心地よかった。
 針葉は、両腕を差し出してやれるのだろうか。
 遣る瀬無い思いで目を閉じた。