紅砂が若菜に会わなくなって半年が経つ。
 軒先に蜻蛉玉を吊り下げた彼女の店は、港通りから随分奥まった場所にあった。屋台への行き帰りに目を向けても、視界に入るのはほんの一瞬だった。
 梅雨に間地や小間物屋で人別改めが行われたときは、次は港かと身構えた。東雲集きに改めが入ったときも、明日は港かと覚悟した。だがいつまで経っても港を流れる艶やかな匂いは変わらなかったし、蜻蛉玉を下げるような安い店の大半を占めている、壬や東雲の女の姿が絶えることもなかった。
「親爺、天ぷら」
 いつもの屋台に声を掛ける。親爺の反応も慣れたもので、しゃがんだまま手が了解を示した。
「貝か魚かどっちがいいんだい。魚なら今朝揚がったコマジだよ」
「それにしてくれ」
 親爺の手がくるくると機敏に動き、溶き粉に白い切り身をくぐらせて煮立った油に放り込む。ぱちぱちと切れのいい音が耳を弾いた。
 親爺は油の加減に目を配りながら椀につゆをよそう。
 紅砂はふと思い出す、初めて若菜と出会ったのもここだった。

 二年前の暮れのことだ。
 やたらと声の大きい男だった。だが何を言っていたのかは覚えていない。そのとき紅砂は、噂には聞いたことのあった、糸のように細長い蕎麦を出す屋台を道場帰りの港で初めて見掛け、はやる胸を抑えて一丁注文し、親爺の手際のほどをじっと見届けるのに忙しかった。
 男が紅砂の後ろを通るとき、どんと体がぶつかった。
 振り返ったが、男は紅砂に背を向けたまま、身振り手振り激しく話し続けていた。彼の騒々しい声しか聞こえなかったものだから、その隣に女がいることにもそのとき気付いた。
 女が指し示してようやく気付いたらしく、彼はちらりと紅砂を見た。上背があり髭も濃い、どことなく獣を彷彿とさせる容貌だった。彼は威嚇するように「あぁ?」と眉を寄せただけだった。
 厄介事はごめんだ。紅砂は何も言わず親爺の手元に目を戻した。
 その男女も紅砂と同じ屋台に決めたらしかった。左耳を男の声に占領され、声の高まりに合わせて大仰に振り上げられる腕を避けながらも、紅砂の視線はじっと親爺の持った椀に注がれていた。
 やがて湯気の立ち上る椀が差し出された。紅砂は目を見開いてつゆの色を確かめ、立ち上る出汁の香りを鼻の奥へ吸い込んだ。これは……もしや至高の一品。
 恭しく受け取り、震える指で箸を取ってつゆに沈める。箸先が秋の稲穂のような見るも美しい黄金色に染まった、正にそのときだった。
「そこで俺は言ってやったわけよ、その程度の腕で俺に勝とうたぁ百年早いっ!」
 男の肘が勢いよく紅砂の肩を押した。
 あっと思う間もなく椀は紅砂の手から離れ、無惨にも地に叩き付けられて転がり、熱いつゆと蕎麦をそこらじゅうにばらまいた。湯気が一歩遅れてふわりと広がる。
 紅砂は目も口もあんぐりと開いたまま、為すすべなくそれを見送った。紅砂の右手に残った箸、その先に辛うじて引っ掛かっていた一本も、後を追うように落ちて地に還った。
「なっ……何やってるの! あなた大丈夫?」
 女が慌てた声で言ったが、男はその場を動こうともしなかった。
「何だよ、たかが蕎麦一杯だろうが。放っとけよ。片付けんのも親爺の商いのうちだ、なあ親爺よ。んなことより俺の話聞いてんのか」
「蕎麦じゃないわよ、火傷してるんじゃないかって言ってるの」
 火傷より蕎麦だ。とは言わなかったが、土にまみれた桜鼠色の蕎麦、土に吸い込まれていく芳しいつゆを呆然と眺めながら、紅砂は肩を落とした。
 同じものを再び注文したところで、美味い一品ではあろうが、先程と全く同じ味にはなり得ない。初見の感動を味わうことも再びは叶わないのだ。
 これほどの出会いはニ度と無いだろうに……。消沈して転がったままの椀を拾う。親爺があたふたと走り出てきて頭を下げた。「親爺は何も悪くないよ」と肩を叩いても、恐縮して禿頭をぺこぺこと下げるばかりだ。
 一方背後では、
「いい加減にしてちょうだいよ!」
 どこからか湧いて出た野次馬に囲まれて、男女が引き続き悶着を繰り広げていた。男につられて女の方まで甲高く声を張り上げている。白い息の応酬だ。
「何だと。お前、誰に対してそんな口きいてるか分かってんだろうな」
「分かってるわ、お客よ、でもだから何。あれっぽちのはした金で何でも思い通りになるなんて思った?」
「生意気なことを……」
 男の手が女の衿を捻り上げて突き飛ばした。周りから上がるどよめき。短い悲鳴とともに女の体が飛んできて、立ち上がろうとした紅砂は尻餅をつく羽目になった。
「けっ、飯の一つも奢ってやろうって恩情かけたのが間違いだった」
「お、お客さん!」
 勇気を振り絞って声を掛けた親爺にも、男は一瞥をくれただけだった。
「ああ? たかが蕎麦の一杯でいちゃもん付ける気か。言っとくが俺を怒らすと怖いぞぉ」
 親爺が何も言えなくなったと見ると、男は腹いせのように屋台を蹴り、踵を返した。揺れ落ちる器具を親爺が慌てて捕まえるが、いくつかはがしゃんと割れて飛び散った。取り囲んでいた人々はぞろりと動いて彼の行く手を空ける。
 それを止めたのは、紅砂に支えられて立ち上がった女だった。
「怒らせると怖い? あなたこそ、この港で騒ぎ起こしてただで済むなんて思わないことね」
 振り返った男の目は、今度こそ血走っていた。その顔が与える恐怖を知り尽くしているように、肩をいからせてゆっくりと女ににじり寄り、腕を振り上げる。
 女は咄嗟に顔を覆う。だが何も起きなかった。彼女がそろりと顔を上げると、もう一つの腕がそれを掴んで止めていた。
「っ、この野郎……!」
 紅砂だった。男がどんなに振り払おうとしてもびくともしない。舌打ち一つ、男は左の腕で殴りかかった。紅砂は身を引いて受け流すと、勢いを利用して自分より大きな男の体を引き倒す。
「つっ……」
 だが男はすぐに起き上がって間合いを取り、挑発するように片頬を歪めて笑ってみせた。
「何だ、蕎麦ごときで熱くなりやがるな。もう一杯頼む金も無いってか。哀れな坊やに恵んでやろうか、あぁ?」
 その言葉が、意図したのとは全く別のところで紅砂の心に火を付けるとも知らず。
 獣のような雄叫びを上げて猛然と向かってくる男に、紅砂も今度は加減などしなかった。
「食いものを笑う奴は……」
 男の腕をがちりと掴むと、懐に滑り込んで屈み込むように重心を落とし、ぐいと体を捻る。大きな体躯が円を描きながら鮮やかに宙を舞い、つゆの染み込んだ土の上に叩き付けられた。
「食いものに泣け!」
 ろくに受け身も取れずに全身を強打した彼は、舞い上がった土埃がゆらゆら落ちる中で目と口を半分開いたまま、気を失っていた。先程まで彼らを取り囲んでいた野次馬は、見世物が終われば用済みとばかりに去っていく。
 さて女はと見ると、「あらあら派手にやったわね」などと言いながら男の懐を漁り、紙入れから中身だけ取り出した。
「おい、あんた……」
 だが彼女がそれを自分の懐に納めることはなかった。「しけたもんね」形の良い唇が呟いて枚数を数え、数枚を親爺に手渡した。
「悪かったわね。一丁分と、壊れたものもそれで直してちょうだい。あなたにも」
 女が紅砂の方を向いた。正面から向かい合ったのはそれが初めてだった。
 美しい女だと思った。ひと目で壬びとだと分かる茶色の髪を後ろでまとめ、真っ直ぐ立っている。毅然とした物言いから感じられた気の強さも、垂れ目がちの目と厚めの唇が緩和していた。
「嫌な思いさせて悪かったわ。火傷はしてないの」
「いや」
「そう、良かった。あなた恰好良かったわよ。言ってることは訳分かんなかったけど」
 そう言いながら彼女は紅砂の手に残りの銭を握らせた。ひやりとした細い指の名残を感じながら掌を開くと、そこにあったのはひと月分の掛け蕎麦を平らげて余りある額だった。きつねならひと月、天ぷらでも二十日は充分に……いやいや。我に返って返そうとする紅砂に彼女は首を振った。
「大丈夫よ、すぐに番人が引っ張ってくから足なんて付きやしないわ。あたしは持てないの。そりゃ銭は有難ぁーいものだし、充分迷惑も被ったけど、今からこの人のことでお調べがあるでしょうし」
 そこで思い当たる、彼女が男を煽って引き留めたのは、港番が来るまでの足枷だったのだ。
「どうしても要らないっていうんならあたしの店で使ってよ。そこの道入って突き当たりから二つ目。若菜を呼んで」
 そうこうしているうちに港番が二人連れで現れて、男は担がれ、若菜と名乗った女は自分の足でその場を去った。
 もはやその場に残る騒動の跡は、少しばかり荒れた地面が濡れて見えるだけだった。
 紅砂は腹の減りを思い出し、もう一丁を注文する。程なくして湯気を立てた椀が差し出された。
「お待ち! ちょいと多めにしといたから、味わって食べておくんなさい」
「ああ、どうも……。親爺も災難だったな。何だったんだ、あれは」
「まあいいじゃないですか、丸く治まったことだし。いやあ羨ましい限り、あんな綺麗どころに誘われるなんて、私ゃ聞いてるだけで涎が出そうでしたよ」
 涎と聞いて紅砂にもぴんときた。糸のような蕎麦を箸ですくい上げ、間に含まれた香り高いつゆと共にすする。これは……これは美味い。冷えていた頬が火照りを帯びる。
「こんなに置いていくってことは、よっぽどの馳走が出てくるんだろうな、あの女の店では」
 親爺もにやにやと笑いながら頷く。「そりゃあ贅を尽くした料理でしょうねぇ、いや羨ましい」
 その笑みの裏に隠された意味など、蕎麦に熱中していた紅砂に読み取れという方が無茶な話だ。紅砂は椀を返して言った。
「俺一人がいい思いするのも何だかな。妹を連れて行ってもいいと思うか」
「は?」

 彼女の店が安い廓で、彼女が女郎だということは、初めて訪れたときに知った。とはいえ紅砂は最初、案内された狭い部屋を不審がるでもなく、衝立の向こうの蒲団に気を向けるでもなく、何が運ばれてくるものかと正座で待っていたのだが。飯はまだ来ないのかと訝る紅砂に、若菜は引きつった笑顔で膳を用意させた。
 港が喧騒と享楽の場で、身を売る女が多く住むということを、近くの長屋で育った彼が知らないはずはなかった。ただ思い付かなかったのだ。買おうとして出会ったわけではない。初めて目にした彼女は凛として美しい、ただの女だった。そこが港だったというだけで。
 彼女の声を聞くのが好きだった。彼女の前では、家の誰にも話したことのない彼自身の生い立ちを話すことができた。
 髪は黒く染められても、目の色ばかりはどうしようもない。夕暮れを選んで外に出されていた長屋暮らしの幼少期。彼女は彼の目を海の色だと讃えた。
 決してその先へは踏み込まない、たまの逢瀬。
 だが、それで満たされていたのは彼だけだったのだろう。だから差し伸べた手を呆気なく振り払われた。
 それでも彼が人別帳の一件で暁に肩入れしたのは、どこかで白証文が買えるなら若菜に転用できると思ったからだ。結局、去年のうちに針葉が手に入れていた東雲証文という、紅砂がどう足掻いても真似しようのないすべをもって、暁は坡城びととなった。
 今も紅砂は、彼女のために何もできずにいる。



「あれ」
 紅砂が久々に寄った斎木宅には黄月の姿があった。彼一人ではない。その膝にはゆきの小さな頭が乗っていた。黄月は作業を止めて口の前に人差し指を立て、紅砂もそろりと近付く。
「どうした」
「暁がここに物を忘れたって。お前こそ、薬詰めるくらい家でもできるだろ」
「湊に近いほうが都合がいい。それに、仕方のないことだが泣き声で気が散る。細かな作業がしにくい」
「ああ……睦月なぁ」
「と思ってここに来たら、ここはここで手の掛かる子供がいた」
 紅砂は噴き出して傍らに腰を下ろす。ゆきはすやすやと眠り込んでおり、心を許し切っているように見えた。こんな心温まる光景は、黄月の仏頂面にはまるで似合わない。つぎはぎの絵のようだ。
「懐いてるな」
「産まれたときから知ってるからな。ちょうど良かった、そこの掻巻かいまき取ってくれ」
 黄月は受け取った夜着で小さな体を覆った。ますます似合わない光景だ。紅砂は再び腰を下ろす。
「お前もその子の話を聞いたのか。……いや、昔からここに出入りしてたんだったか」
 黄月はふっと笑って視線を落とし、幼子の頭を撫でた。黒い髪がさらさらの頬から滑り落ちる。
「里さんが言ってなかったか、ゆきの母は訛りがひどかったって。言葉が通じなくなるたびに俺が呼ばれたよ。だからこの子の生い立ちに関することは何から何まで知っている」
 そういえば里が言っていたことだった。「斎木の家へ来たばかりの隼くんに残っていた訛りも、全て壬のものでしょう」。
「お前も壬の北の出なんだったか」
「俺が暮らしたのは九つまでだから、そこまで狂っちゃいなかったがな。ゆきの母親の話にはさすがに耳を疑った。……だが俺がいた頃でも、里の北には当たり前のように飛鳥びとの邸があったし、壬にはいつも冷遇されてたから、飛鳥に諂う奴がいたのも事実だ。同じ壬でも山で分かたれた南北は、言葉も違えば豊かさも違い、考えも違う。別の国だ」
 紅砂は頷く。壬の北はすんなり飛鳥の一部となり、今や完全に別の国になった。
「じゃあもしかしてお前、ゆきの母親とは知り合いだったのか」
「いや、山一つ向こうだ。だから俺は知らない。向こうはこちらを知っていたようだが」
 怪訝な顔をした紅砂に、黄月は目を眇めて笑ってみせた。
「ゆきの母の話に俺の父が出てきただろう。それとも里さんはそこまで話さなかったか。首一つで戻ってきた医者だ」
 あ、と思わず紅砂は声を出した。首一つで。医者。それはずっと前にも聞いたことのある話だった。誰に。そんなもの一人しかいない。
 ――酷いとこだった。そればっかり覚えてるわ。
 ――ああ、でも隣里のお医者先生が首だけで戻ってきたときは、さすがに逃げる人も減ったかな。
 ――居辛かったんじゃない。骸を掘り出して切り刻んだとか、腹を開いたなんて噂もあったからね。
「あれは……お前の父親だったのか」
「あの辺りの里は四方を峠に囲まれて、さながら擂り鉢だ。まず逃げることが難しい。逃げたところで大抵は連れ戻されて終いだ。逃げて捕まり、首を落とされ、わざわざ見せしめにするだけの値打ちのあった者は」
 彼の父くらいだ、ということだろう。実際、ゆきの母も若菜もそれを聞き及んでいたのだから、見せしめとするには充分だったのだ。
「でも黄月、お前の父親って医者だったか。俺はてっきり」
「薬師だよ。壬の北には薬となる木や草が多く自生している。それを採って薬にして、一年の半分近くは近場の里を回っていた。だが置き薬に限らず、腹が痛いと言えばそこらの草で薬を煎じ、腫れ物ができたと言えばそこらの草で湿布をする。あんな狭い域では、それができる者は医者以外の何者でもない」
 彼はいつになく饒舌だった。同じ薬師の先達として以上に、亡くなった父親に並々ならぬ尊敬の念を抱いているのだ。
 それが分かるからこそ紅砂は躊躇った。
「実は……北の出の壬びとに知り合いがいて、その人からも同じ話を、つまり亡くなった医者の話を聞いたことがあるんだが」
「ああ」
「……北の里の薬師は、骸を掘り出したり、腹を開いたりもするのか」
 黄月の顔色が変わった。眼鏡なるものを取って傍らに置き、睨むように紅砂を見つめる。沈黙。ぴりぴりと肌が痛むような。黄月が口を開く。
「紅砂」
「あ……いや! ただの噂や勘違いだったら勘弁してくれ。すまない。お前の父親を侮辱する気は」
「お前が言うのは腑分けのことだな」
 聞き慣れない言葉だった。瞬く紅砂に黄月は「骸を開いて中を検分することだ」と続けた。慌てたのは紅砂ばかりで、黄月は相変わらず抑揚のない声だった。
「確かに父は里でそれを行った。立ち会うことは許されなかったが、俺も逐一を聞いていた。薬師の本分を踏み越えているのは明らかだ」
「それは……」
「今から話すことは、俺の家族が里を出てきた経緯だ。誰にも話したことがない。誰に話すことでもないと思って仕舞ってきた。だが父の名誉のためなら別だ」
 紅砂は浅く息を吸った。目の前の男は、十年以上も閉ざしてきた口を今開こうというのだ。紅砂は唇を結び、膝を正した。斎木の薄暗い家には、幼子の規則正しい寝息だけが響いていた。

 まず何から話そう。……俺の生まれ育った場所については知ってのとおり。壬北部の険しい山々の向こう側、すぐ目の前まで飛鳥領の迫る地がある。そこに開けた小さな里の一つだ。壬北部を見張っていたのは上松という旧家で、そこに属する番人衆の詰所が里の南端に置かれていた。他方、北側には黒髪と呼ばれた飛鳥びとの家もちらほら見えた。
 貧しいところだった。
 と言ってもなかなか思い描くのは難しいだろう。寒さと年中曇りの空、油粕を撒いて幾度耕しても実りの少ない痩せた土地。四方を山に囲まれた地域では、商人も年に数えるほどしか来ないから物が足りない。来たところで交換できるものもない。
 誰も口にはしなかったが、誰しもが心の底では壬を恨んでいた。北域は地理上の要所だ。長年に渡って、戦となれば真っ先に負担を強いられてきた。一方で北域が山に閉ざされたのは、壬が飛鳥に押されて領土を削られたからだ。人の行き来は制限され、税は重く、不満を口にすれば、上松家の手の者が飛んでくる。
 飛鳥との停戦を約したのはもう祖父の代だが、恨みは脈々語り継がれてきた。
 叶うなら誰もかもが逃げ出したかったはずだ。だが許されるはずもない。想いが渦を巻き、擂り鉢の底で鬱積していた。すると不思議なもので、周りに目を光らせるようになる。自分は逃げられない、だからお前も逃げるな。自分は苦しい、だからお前も苦しめ。
 誰かが姿を消すと寄ってたかって悪口雑言の嵐だ。お上は何をしている、早く捕えて八つ裂きにしろ、上松殿の目を逃れられるものか、今に裁かれようぞ。お上のことは憎んでいるくせに、はけ口の無い怒りは周りへの枷として働いた。
 里にはしばしば野良犬と呼ばれる集団が跋扈した。素性は知れないが、親を亡くしたごろつきが里を問わず集まっていたようだ。物を盗むわ畑を荒らすわで、里の者からは嫌われていた。俺もよく言われた、見知らぬ者がうろついていたら逃げなさいと。
 俺が八つのときだ。年の暮れだった。突然その野良犬たちが姿を見せなくなった。
 姿を見せたら見せたで嫌がるくせに、見えなくなればお決まりの台詞だ。引っ捕まえて皮を剥げ、真似する者が現れないよう見せしめにしろ。
 野良犬たちが骸で見付かったのは年が明けてすぐだった。
 詳しいことは聞かされなかったが、狂死のような有様だったようだ。骨に達するまで体じゅうをかきむしったり、自分の一物を切り取ったり、形を失くすほど殴り合ったり、凍った池に全裸で飛び込んだり。おかしなことに皆、行方知れずになる前よりも肥えていたらしいが。
 上松の者はすぐに埋めるよう命じた。里の者がどう答えたかは聞いていない。だから父が一人で決めたか、後押しがあったのかは分からないが……父は埋める役を買って出て、骸を開くことにした。
 いくら酷い寒さの中でも、魂の抜けた体は少しずつ腐る。夜半に仮置き場から運ばれてきた体は臭気を放っていた。いつも穏やかだった母が声を荒らげていた。結局父を止めることはできず、土間に追い出されて、母は、俺を抱き締めて震えていた。
 俺は正直なところ、母を振り切ってでも部屋に入りたかったよ。何が起きるのか知りたかった。
 しばらくして骸を引きずった父が出てきた。顔は汗に濡れて、昂奮した様子なのに血の気が失せていた。父はそのまま骸を埋めに行った。母がほっとしたのも束の間、父は今度は別の骸を背負って戻ってきた。あの時の母の顔は忘れられない。
 それが何度続いたかな……気付けば長い夜が明けていて、父は臭気に満ちた部屋の中で座り込んでいた。

「お前の親父さんは何か見付けたのか」
 黄月は小さく頷いた。
「おかしな死に様を見たときから疑っていたんだろう。何人かの腹と口の中から、葉が見付かった」
「道端のものを口にするくらい朦朧としてたってことか」
「逆だ」黄月は首を振った。「人を狂わせる葉だ」
 紅砂が息を呑む。黄月は瞼を閉じて続けた。
「阿芙蓉と同じようなものだと思えばいい。あれは燃して煙を吸うのだったか……」
「気分が良くなるとかいうやつだな。そんなものに手を出したのか」
「……父は、無理やり食べさせられたのだと考えていた。燻して使うならともかく、あの葉は苦くて口にできたものではない。それに、あれが産む幻は阿芙蓉とは比べ物にならない。昂揚など無い。直ちに狂人と化す葉を、誰が真似して食べる。足並み揃えて一度に口にしたか、そうでなければ誰かに陥れられたんだ」
「誰かって誰に」
 細い目が開く。睨むように床を見つめ、大きく息を吐いた。
「あれは北域にしか自生しないものの一つだ。里の南に位置する山の中……飛鳥びとは足を踏み入れることが許されない場所だ」
「飛鳥びと?」
「雪の上を裸足で歩く奴なんて、気違いしかいないだろ。骸たちの足跡は里の北の、飛鳥びとの邸から続いていた」
 紅砂は思い描く。行き場の無い野良犬たち、雪に閉ざされる里。彼らを招いて寝食を与える飛鳥びと。野良犬の骸は肥えていたという。
 そして気を許した彼らに、無理やりその葉を食べさせる。
「何のためにそんなことを」
「それは分からなかったが、重要なのは、故意に人を狂わせたかもしれない飛鳥びとの邸が里にあること。そして、上松が飛鳥びとの居住を、もしかすると葉を取ることまで黙認したということだ。だから俺たちは雪解けを待って里を出た。薬師の父は山に慣れていた。櫂持ちの道も知っていた。……最初は、峠を越えたところにある上松本家に里の現状を訴えるつもりだった」
 黄月は視線を落として幼子の髪を撫でる。
「上松領は既に手が回された後で、俺たちの人相書きが配られ、道角に貼り出されていた。紙には目を疑うような罪状が連ねられていた。俺たちは南へ向かった。裁きを執り行う江田家に訴え出るつもりだった。だが人相書きは間もなく大きな町を中心として、他家の領地にも広がった。小さな村を伝うようにして南を目指したが、明日そこで人相書きが貼り出されないとも限らなかった」
 壬びとの印である茶色の目が紅砂を見た。
「だから国を出ようとした。北域のことより命が先だった。その時いた豊川領からは坡城が一番近かったから、そのまま南下した。だが枕探しが出るというので関の調べが厳しくなっていた」
 そこから先はいつか聞いた話だった。黄月の母は忍び込んだ枕探しに殺され、父が枕探しとして捕われた。母によって長持に押し込まれた彼だけが無事で、父を追って行った豊川の仕置場で黄月は、針葉を連れた前の長と出会った。
「そうか……。悪かったな、色々と思い出させて」
「いや。気にすることじゃない」
 黄月は何でもないことのように言葉を返した。そこまで平然とされると却って継ぐ言葉に迷う。
「……そこまでしたんだから、上松ってのも後ろ暗いところがあったんだろうな」
「じゃなきゃいち早く飛鳥の領地になったりしないだろう」
 紅砂は浬が同じことを言っていたのを思い出す。壬のもの、特に北のものが高騰していると。あれは確か昨年の秋だっただろうか。そして浬は彼に、暁が雨呼びとやらで使う木の名前を訊いたのだ。
 暁が家に来たばかりの頃、紅砂は暁に付き添って境へ行った。去年の夏には自分の用のついでに買いに行ってやった。だから答えた、「あれは小藤と呼ばれている」。
 黄月は片眉を歪ませて、だが、と呟いた。視点を定めず、独り言ちるような話し方だった。
「今でも分からないのは、どうして野良犬にカゾを使ったかだ。ただ殺したいだけなら、あんな怪しまれる手は禁物だ。どうなるか見てみたかっただけか、それとも……」
「おい」
 思わず口を衝いた。黄月が言葉を止めて紅砂に目をやる。
「カゾ? ってあの、でかい葉のことか」
「な……」黄月が目を瞠り、「紅砂、お前……どこで見た」
 待て、待て……紅砂は記憶を辿る。間違いない、あの大きな葉はそう呼ばれていた。虫に侵食された小藤を買う者にだけ与えられる、虫の匂いの混ざりを消すという、あの大きな葉。
「境の香ほづ木売りが持っていた。北で必死になって採ってきたと……言っていた。そうだ、やっぱりあれだ」
 そこまで声に出してはっと口を噤んだ。黄月の顔色が変わっていた。
「待てよ、いきるな。食べるために売ってたわけじゃない。暁がほら、妙な儀式をやるだろ。あれに使うのが小藤っていうやたら高い香ほづ木なんだが、それを買ったとき、包んでおくようにって渡されるんだ」
「それで俺が得心するとでも思ったか。ますます悪い。……浬は誤ったな。あの女がおかしくなったというのは、木片じゃない、葉だ」
 訳が分からず眉を寄せる紅砂に、黄月は舌打ちして首を振った。ゆきの頭を膝から下ろして立ち上がる。幼子がむにゃむにゃ呟きながら目をこすって起き上がり、また掻巻を手繰り寄せて丸くなる。
「そのやたら高い値段にはカゾの分も含まれてたんだろう。紅砂、今から出られるか」
「ど、どこに」
「境だ。付き合え」

 ちょうど帰ってきた里にゆきを預け、彼らが境の地に着いたのは、滑り落ちるような初秋の夕日が入りかけた頃だった。
 人はまばらだった。夕暮れに急かされて見世を畳んだのではない。板と布で組み立てた、雨露もろくにしのげない荒家のほとんどにもひと気が無かった。所々に壊された跡も見える。大通りとはまた違う、荒々しい活気に溢れたあの姿が嘘のようだ。
 今やそこは、広い道の両端に人の塒の面影が残るばかりだ。何があったか知らなければ素通りしてしまうだろう。
 戸惑ったように辺りを見回していた黄月は、今にも崩れそうな小屋跡に人影を見付けると、大股で近付いて声を掛けた。薄汚れた身形の男はじろじろと二人を見ていたが、眉間に皺を寄せ「改めだ。ほんのこないだのことよ」と言うなり奥へ引っ込んだ。
「そうか……しまった」
 黄月が額を押さえて呟いた。
「ここでも人別改めか。……港から離れているから最近になって手が入ったんだな。くそ、ひと足遅かった」
 黄月は指の隙間から空っぽの通りを睨み、くるりと踵を返して来た道を引き返した。
 紅砂は寒々しい橙色に染まる賑わいの残骸を眺めた。さて、ノアイソウとミズカケをこれからどうやって手に入れよう。
 髪をぐしゃりとかき上げて息を吐いたが、黄月の苛立ち混じりの声に背中を叩かれ、彼も家路についた。