間地において人別改めが行われたのは梅雨入りして少し経ち、晴れた日が恋しくなった頃だった。前日に触れが張り出され、当日は斎木宅を居処に定める黄月も姿を見せた。
 自分が生まれ育ったことになっている東雲の地について暁が浬に聞きかじっているとき、里の家の戸が鳴り、程なくして彼らが見つめる戸の向こうにも人影が立った。
 戸が叩かれる。「人別改めに参った」と男の声。内側ではぴたりと話し声が止み、黄月が土間を下りて戸を引く。
 ざあっと流れ込む雨の音とともに姿を見せたのは、浅黒い肌にごつごつした顔立ちの中年男だった。後ろには小脇に帳面を挟んだ若い男を従えている。二人は傘を軒先に立て掛けて「御免」とひと声、敷居をまたぐ。狭い長屋はたちまち窮屈になった。
 長屋回りでいちいち傘を差すのも面倒なのだろう、年嵩の番人は濡れた肩を軽く払うと、後ろの男から帳面を受け取って左手に持ち直した。
 暁は、何も知らずご機嫌な睦月を抱えて横を向いていた。極力目を合わせぬようにしても、ぐるりと家の中を見回す彼の目が、黄月と暁のところでしばらく止まったのを感じずにはいられなかった。
 再び帳面に目を戻した彼が声を掛けたのは、家の主である斎木だった。
「そこの者の名と生まれ、齢を答えよ」
 斎木が黄月と暁の分をさらりと答え、ついでに自分と睦月の分、そして浬の分まで答えた。
 港番は更に、常にこの人数を抱えるには長屋が小さすぎると指摘し、斎木は日頃自分以外は坂の上に住んでいると答えた。
「あっちもこの老いぼれめの持つ家でございますよ、お調べ下さればすぐ分かりますとも」
「ここは借家であろう。人に貸すものがあるなら、そちらに住むのが道理ではないか」
 口を挟んだのは若い男だった。斎木がじろりと目を向ける。
「この老いぼれめや怪我人にあの坂を上れと仰せですかな、いやはや手厳しい」
 年嵩の番人にも肩越しに睨まれ、彼は苦々しい顔で口を噤んだ。
「曲がったことのできん性分でございましてな、なけなしの日銭から地口もきちんと納めてございますが、はて不首尾がございましたかな」
 番人は一瞬視線を彷徨わせたが、すぐに帳面を閉じて小脇に挟み「失礼」とひと声、敷居をまたいだ。若者もそれに続く。
 戸の向こうで跳ねる雨音、その中を足音が二つ去っていく。少し離れてまた戸を叩く音。
 暁は体の底から息を吐き出した。
 こうして彼女たちの人別改めは、何事も無く、呆気なく終わりを迎えた。

 紅砂と紅花は小間物屋で改めを受けた。訪れた港番は暁が見たのとは別者のようであり、受けた問いも異なるようだった。
 興業の最中である季春座の面々は芝居小屋で改めを受け、斎木宅を居処にしている織楽もそれで用が済んだという。
 だが匿われていた、もしくは家を持たなかった壬びとや東雲びとが番人衆に引っ張られていく姿を見ない日は無かった。多くは触れを知らずにいたか、番人の問いにうまく答えられなかった、もしくは事前に密告のあった者で、ひと通りの調べの後は労役刑に処される者もあれば、場合によっては文身のうえ坡城を追放となる者もあったという。
 そして夏至から十日後の、雨が気まぐれに止んだその日、抜き打ちの改めが東雲集きに入った。
 一つの町の大きさにまで広がった仮初めの地から小蠅の一匹も逃すまいと、番人の大半が送り込まれて集きを取り囲み、入り組んだ通りに潜む者どもを次々暴き、追い立て、ひっ捕らえた。
 その裏で小さな思惑も動いていた。

 蕎麦を食べに行くと言って出て行った紅砂が、ほんの数行しか書き進めないうちにむすっとした顔で帰ってきた。
「どうしたの。今日は店出してなかった?」
「いや、港に入れなかった。漬物余ってるか」
 睦月の手から文鎮を取り返して机の上に置き、暁は腰を上げる。
「蕎麦が駄目なら冷麦でも食べてくればよかったのに。確か間地の中だったでしょう、美味しいの出してるって言ってた」
「今日は蕎麦だと決めてたんだ。間に合わせでごまかすくらいなら似ても似つかないものを食べる。それが礼儀だ」
 暁は肩を竦め、盆に小鉢と茶碗を乗せて戻る。紅砂はでんでん太鼓を鳴らす手を止め、膝から睦月を下ろして箱膳に盆のものを受け取った。暁は今朝の残りの田楽も手渡して湯呑を取りに戻る。
「もう温いけどどうしよう。沸かそうか」
「そのままでいい。悪いな」
 律儀に手を合わせて一礼し、紅砂は飯に口をつける。遅れて湯呑を置き、暁も文机の前に座り直した。睦月があまりにじっとでんでん太鼓を見つめていたので、ちょっと鳴らしてやると、涎でつやつや光る唇から未熟な声を上げて喜んだ。思わず覆い被さるようにして頬をすり寄せる。
「ご機嫌だねぇ睦ちゃん。音出るのが好きなの」
「紅花も喜んでたな、それ。俺のお下がりだったけど」
 暁は体を起こして小さな玩具に目をやった。
「覚えてるんだ」
「物心ついたらお守り役だったからな」
 しばらく軽やかな音を響かせ、暁は睦月を抱き上げた。
「港に入れないって何を仕出かしたの」
「俺じゃない。番処に誰かが忍び込んだ跡があったんだと。昨日は東雲集きの改めで、滅多に無いほど手薄だっただろ」
「泥棒? こんな近くで嫌だ」
 紅砂は箸を止めて首を振った。
「何も盗まれちゃいないのにって、門番の若いのはぼやいてた」
「それ本当? 変な話」
 茶を啜って手を合わせた紅砂は、文机の脇に積まれた紙の束に手を伸ばした。すかさず暁は一冊に閉じられたものを差し出す。
「こっちが原本。それは売りものにするから駄目」
 頷いて本を受け取る。既に折れ目と手垢のついた紙には二色の墨が行儀よく並んでいた。朱墨が異国文字で、墨字が国字だ。初めて書き写したものだからぎこちなさが見てとれるが、きっとそれまで見たこともなかっただろう文字の傾きや線の流れまで几帳面に写されている。
「紅砂、その文字読めるの」
 本を膝に置いて顔を上げた。不思議そうな顔の暁と目が合う。
「だってほら、その向き。知らないと気付かないんだよね、横書きだってこと」
 はっと視線を落とす。彼は本を上下に開いていた。横長になった紙の中で、赤と黒が左右に伸びている。
「私も最初はずっと縦書きで写してたんだけど、途中で先生に教えてもらって」
「……それじゃ書きにくかっただろ」
「そうそう、でも案外気付かないんだよね。紙を回して書くのって、一気に仕上げられないのは手間だけど慣れたら早いもんね。よくできてる」
 それ以上追及するつもりが無いようだったので、紅砂はまた本に視線を落とした。
 そして一度本を閉じると、真中付近で再び開いた。つづりを流し見しながらその単語を探す――「夜陰」。
 彼の手が止まる。海の色の目が、朱墨の上で細かく揺れる。
 本を閉じた。ぱたんと軽い音がして前髪が揺れる。
「ありがとう」
 暁はおむつ替えの手を止めて本を受け取り、自分が写していたところで開き直して文鎮を置く。
 無かった。
 ネイトが口にした音から紅砂が連想した単語は、暁の和解わげには載っていなかった。
 聞き違いだったのだろうか。そうだとしても再び聞くすべは無い。ただ単に載っていないということも考えられた。語彙の全てを載せるには和解は薄すぎる一方で、あの言葉にはあまりにも後ろ暗さが見え隠れしていた。
 いずれにせよ行き詰まったことは確かだ。
「……今書いてるのは慣れたもんだな」
「でしょう。これで三冊目。この次が売れたらやっと私の稼ぎになるんだ。初めて副本作ったときなんか、何度見直しても誤りが見付かって、そのたびに書き直して。ふた月で仕上げるつもりだったけれど、とてもとても」
 暁は紙をくるりと左に回し、穂先の赤く染まった筆に持ち替える。そしてそのまま動きを止め、また筆を置いた。
「先生は、品が出回るほど値打ちは下がると言っていたんだ」
「出回るって言っても、一年に書ける本なんて知れてるだろう」
「同じように書写する人が出てくると鼠算でしょう。本を必要とする人が突然増えるとも思えないし。だからちょっと考えたんだけど」
 暁は紙の束の中から一枚を引っ張り出して紅砂に見せた。和解とは逆に、上に国字、下に異国文字が並んでいる。
「こうやって、いろはから異国の言葉を探せるようにしたら、欲しい人はいると思う? 単純に写すんじゃないから、最初の一冊を作るのはとても手間だけど……だからこそ、もし受けるようなら他の人が思い付く前に取り掛かってみたいんだ」
 いの読みから始まる言葉を集めたたった一枚の紙は、ほんの試しに書いてみたという気後れと、その裏に、後押しさえあれば今にも走り出せそうな意気込みを感じさせた。紅砂は紙を縦横に回してじっと考える。
「和解が一定売れていて、こういった逆引きのものが無いのなら、受け容れられる素地はあるだろう。ただ一つ気になるのは、言葉をそのまま置き換えたところで意味は通じないってことだ」
 暁は目を丸くした。「どうして」
 やはり、と紅砂は視線を上げる。彼女は紙の上の字の羅列を目で見て知っているだけで、異国の言葉を習ったわけではないらしい。
「順序が違うんだ。ひと口で説明しきれるもんじゃないが……とにかく、逆引きを求める層のことなら俺よりは先生に話してみるといい」
 暁は眉を寄せつつも頷き、三冊目の残りの枚数を目算して溜息を吐いた。
 数日後に紅砂が再訪したとき、飛び出してきた暁の第一声は「睦月が寝返ったの!」だった。
 落ち着くよう促して「寝返りを、打ったの」と言い直し、その日も、その次も、暁は和解写しに勤しむばかりで逆引きの話を持ち出すことはなかった。



 暁が斎木に同じ話を切り出したのは、それからひと月近く経った、蝉の声が嵐のように降り注ぐ夏の終わりのことだった。
 そもそも、三冊目を斎木に渡すまでは借金持ちの身だ。手間ばかり掛かって当たるか分からない本のことなど、口にするのは憚られた。
 その日暁を起こしたのは斎木の呆れ声だった。
「お嬢」
 渋々開けた薄目に飛び込んできたのは、斎木に抱えられた我が子の顔だった。はっと身を起こす。睦月はその動きに驚いたか、ぐずり出してしまった。
「あーあー。今の今までおとなしく母ちゃんの顔見てたんだぞ」
 謝るのもそこそこに睦月を抱いてあやしにかかる。焦った気持ちが移ったかのように、ぐずり声はやがて大声へと変わった。蝉の鳴き声と合わさって頭の中にわんわん響く。奥歯を噛み締める。どうして。目をつむる。どうして。
 叫び出しそうな衝動が喉元までせり上がる。
 斎木の手が肩に乗った。
「まずお前さんが落ち着くんだ。ゆっくり息吸って、吐いて」
 寝起きの混乱した頭が少しずつ晴れてくる。暁は睦月を軽く揺すりながら、低い声でゆっくりと、囁くように歌った。耳を叩き破るような泣き声がどうにか落ち着く。
「すみませんでした……ついうとうとしてしまって」
「だろうな。そこまで動いてたぞ」
 斎木が指したのは部屋の端だった。本が散らばっているのは睦月が遊んだ証だ。小物を片付けておいて良かったとまた息を吐く。
 寝返りを打ったと単純に喜べたのも今は昔、間もなく睦月は狭い部屋を不器用に転がって移動するようになった。同じくして寝付きが浅くなり、夜にぐずることも度々だ。暁は泣き止んだ子の柔らかい髪を撫で、部屋を見回す。きっとこの子には足りないのだ。
 間地での壬びとへの反感は、人別改めを境に多少和らいだようだ。それでも暁が外を歩くのは最低限で、飛鳥入りしたときのように頭に手拭いを巻き、隣に誰かを伴っていた。何よりここは黒烏の跋扈する川の外側だ。睦月を連れて歩けるはずがない。
 いくら自分の足では歩けずとも、暗い板間の上と庭だけでは足りなくなってしまったのだ。だから夜ごと泣くのだろう。
 だがそれに付き合わされる身も辛かった。寝入ったのを見届けて横になっても泣き声で起こされる。初めこそ具合を案じて隣に駆け込んだが、息を抜きつつ付き合うしかないと言われただけだった。
 あの手この手を試すうち、乳を咥えさせると少しは落ち着くことが分かった。だが睦月を軸として、合間合間に家の切り盛りと書きものを押し込む毎日で、身八つ口を大きく開いたまま寝入ってしまうことも度々だった。
 母である暁でさえそうなのだから、間貸ししている斎木はどれほどだろう。「年寄りは元々眠りが浅いもんだ」と笑い飛ばしてくれるのが唯一の救いだった。
「そうだ先生、これ」
 睦月をそっと横たえて、綴じ終えた三冊目を斎木に手渡した。皺だらけの手がぱらぱらと中を見た。
「いつもどおり、縦横三度見直しました。買い取りをお願いします」
 斎木はにっと笑って頷いた。
「これでちゃらだな。これからは書いた分だけお前さんの儲けだ。張り合いが出るだろ」
「そのことなんですが……」
 暁は膝を正して新しい本づくりのことを話した。斎木は腕組みして終いまで話を聞き、低い声で唸った。
「確かになぁ。お前さんたちの家の北に私塾があるだろ、あそこの門人が同じようなもんを売ってる。時期から言って異国見世で買ったもんだろう。お前さんのと違って墨字だけだが、それも真似られたら終いだからな。並行して別のもん作るってのはいい案だ」
「ただ、紅砂が言っていたんです。そもそも順序が違うから、語彙の訳だけ分かっても仕方ないって」
「それも一理あるが、お嬢、逆引きを欲しがるのはどんな層だと思う」
「どんなって……ええと、異人と文をやり取りしたり、本を読んでほしい人じゃあ……」
 斎木は満足げに深く頷いた。
「そう。つまり元々字に親しんでる、学のある層ってことだ。更に言うならこの異国言葉にも親しんでる。語順の違いもまるで知らん奴が手を出しやしない。それだけに出回る数は和解よりぐっと少なくなるだろう。その代わり欲しがる奴は、大枚はたいてでも欲しがるだろうよ。それが手間に見合うかは、お前さんが考えりゃいい」
 暁は考える、もし本当に作るとしたら何から取り掛かるだろう。
 いろは四十七字ごとにまとめ直すなら、当然紙の束を四十七置く必要がある。最初から四十七は要らずとも、何字か並行で行うほうが手間は省けるだろう。全て書き出したら見直して、次はそれぞれの頭文字の中で並び替えだ。
 愕然として部屋を見回した。置く場所がまるで足りないし、手間が掛かりすぎる。見直し一つ取っても、今までのようにただ写すのではないのだ。それとも一冊余分に和解を作って切り貼りしようか、駄目だ、それこそ場所が。
「どうやって思い付いた」
 斎木に問われて暁は立ち上がった。棚の上から取って戻ったのは三冊の帳面だった。書写を始めてからはほとんど使わなくなった、斎木の手回り品の一覧だった。
「色々な並べ方があるのだと、ふと思ったんです。この家にある物の名前だけでも場所と用途といろはの音」
「なるほどなあ」
 斎木はそれだけしか言わなかったが、その中に含まれた感嘆の色は挫けかけた暁の心に波紋を起こした。

 秋の入りとは名ばかりの、まだまだ暑くなるさなかで、暁は睦月の肌に天花粉をはたいていた。気を付けていたにも関わらず背中に汗疹ができてしまい、幼子は痒がって泣いてまた汗をかく。
「肘も全部伸ばしてあげなさいね。襞に汗が溜まりやすいのよ」
「肘つっても肉だらけでどこにあるんだか」
 里の後ろから斎木が茶々を入れる。
「お爺ちゃんの庭に汗疹に効く葉が植わってるのよ。ゆきも汗疹が出やすいから後で煎じてあげるわ」
「何だと。聞いとらんぞ」
「隼くんが植えてくれたのよ」
「勝手なことしやがって、あの馬鹿弟子」
「勝手に抜かないでね。ゆきにも使ってるんだから」
 立ち上がろうとした斎木が渋い顔で腰を下ろす。いつもの会話に暁は笑い、全身くまなく白くなった睦月を衣で包もうとして、その手を止める。
「先生」
 言い合いが止まった。睦月を包み直して暁は振り向いた。
「何でもないことを時々不思議に思うんです。私は女なのにどうして男の子が生まれるんだろうと。馬鹿みたいでしょう」
「それじゃ男の子は父親が産まなきゃいけなくなるじゃない」
 里が笑い飛ばす一方で、斎木は目を細めて暁を見つめていた。
「お嬢、お前さんはちーっとばかり勘違いしてるな」
「勘違い?」
 斎木は里を押し退けて睦月の前に座り直した。睦月がじっと彼を見つめ返す。
「こいつは間違いなくお前さんの子だが、お前さんだけの子でもない。見てみろ、この真っ黒い目に髪。お前さんに似てないってことは父ちゃん譲りだろうよ。目や眉はお前さん似だな。鼻はどうだろうな、乳飲み児は押し並べて低いもんだからな。指も見てみろ、爪の形がお前さんにそっくりだろ」
 暁は目を丸くして、慌てて自分と幼子の手足を見比べる。
「同じことだ。こいつの股ぐらが父ちゃんに似た、だから男になった。何もおかしかない」
 何でもないことだ。何でもない当たり前のことが胸を打つ。それはちょうど、初めて睦月の爪を見て命の巡りを感じた瞬間に似ていた。
 糸のように細い髪。じっとこちらを見つめる目。自分と違うその色がどこから来たものか、気にしたことはなかった。そっと抱き上げて髪に頬をぴたりと付ける。一度も会ったことが無くても、見たことが無くても、この子は覚えているのだ。遠い父を。
 肌は早くも汗ばみ始めている。全身で命を叫んでいる。
「先生」
 暁が家に帰ろうと決めたのは、その時だった。



 家を離れたのはそもそも、針葉が家に戻ってきたときの懸念、そして里が隣家にいるためだった。
 既に睦月は産まれてすくすく育っており、暁もつつがなく日々を過ごしている。
 針葉のことは――彼を思い出すとき、決まって耳に蘇るのは「元気な赤子産めよ」という別れ際の言葉だった。そして産み月の彼女の腹に触れた、臆病なほどに慎重な指。
 頭に血が上ったとしても、あの人が子供を傷つけられるはずがない。根拠は無くとも確信できた。
 しかし家の者には言わなかった。「暁を殺そうとした」という、紅花に告げられた言葉はあまりに馬鹿らしかったが、同じ言い合いを繰り返すのも懲り懲りだ。別の、睦月を連れて外に出たい、睦月が動き回るだけの場が欲しい、本を作るにあたって場所が欲しい、人別改めも済んだことだし、そういった理由を並べた。
 来たときと同じく荷物は先に運んでもらい、身一つと睦月を浬が迎えに来た。ゆきは暁に抱き付いて寂しがり、斎木も「食えるもん作れるようになった途端これだもんなぁ」と漏らしてそれなりに残念な様子を見せた。
「何かあれば躊躇わずいらっしゃい」
 里はそれしか言わなかったが、幾度となく顔を合わせているうちに暁は、冷たく聞こえる言葉の奥に彼女なりの優しさを見付けられるようになっていた。
 三人に深々と頭を下げ、暁は間地を出た。

 家を出てきたときには腹の中にあったものが、帰るときには目も開き歯らしきものも見えている。
 暁は浬の背を追って、来たときと同じ道を戻った。港の西門から北門へ抜ける間は睦月を強く抱いて人目から覆い隠した。夕暮れの港は熱気と騒々しさを吐き出す直前で、門をくぐり抜けるまで睦月が泣き出すことはなかった。
「ややを抱えてあんなところを通るなんて」
 すぐ右手に曲がって裏通りに入り、暁は不満げに呟いた。深く被りすぎた笠を正すと、髪の中に溜まっていた汗がつっとひと筋落ちた。
「同感だけど、「彼女」を避けるにはこうするしかないよ」
 暁は頷いて睦月を抱え直す。
「黒烏には知られてないの、このことは」
「僕は何も言っていないよ。知られてたら何らかの接触をしてくるだろう」
 しばらく歩いて地蔵の手前で坂道に入ると、肌に触れる熱気がすっと薄らぎ、その代わり蝉の声に四方から耳を覆われた。秋に鳴くもの寂しげな声だ。暁はまた浬を呼び止めた。
「壬の割譲談義は、どうなったの」
「……どうしてそれを、僕に?」
「どうしてって、東雲の扱いも同時に話されているんじゃないの。何か知らない」
 坂に入って足が遅くなった暁を見かね、浬は睦月を抱えた。
「まだ続いているよ。去年の夏、談義が始まったばかりの頃は飛鳥を筆頭とした周辺国に切り分けられて終わり、となりそうだった。だがその後、周辺国で色々とあったようでね、何度も中断している」
「色々?」
「津ヶ浜の要人殺しは覚えているだろう。同じような騒動が飛鳥や峰上、そして坡城の都でも起こった」
 暁は唾を呑み込んだ。知らず止まっていた足を動かして浬の背に追い付く。
「それは……烏が?」
「元々各国で手を焼いていた悪党が動きを見せていることもあって、一概にそうとは言い切れない。だが皆、心の奥では思っているだろうね。結局、まだ正式に割譲された土地は無いよ。北府の上松領を除いてね」
「上松領……」
 浬は肩越しに振り返り、皮肉まじりに笑った。
「早かったよ。談義開始からわずかふた月足らずで、まるで最初から合意があったみたいだ」
 うつむいた暁の目に映るのは暗い山道だ。様々なものが浮かんでは消えていく。深手を負って呻いていた針葉。飛鳥の穂垂るで火に包まれながら見た上松当主の屍。ゆきの母が暮らした、地獄のような日々。
 坂を抜ける。家は、既に藍色に沈んだ東の空を背に、黒々と影だけを浮き上がらせていた。ほんの一年足らず離れていただけなのに、まるで見知らぬものを見るようだった。
 立ち尽くした彼女を、浬が振り返る。
「暁?」
 暁は初めてここへ来た日を思い出していた。あの時はこれほど長くいることになるとは思わなかったし、これほど深く、切れないところまで根を張るとも思わなかった。
 あの時と同じ三人で帰ってきた。だが荒っぽい言動で出会い頭から暁を脅しつけ、叱り、結局彼女を連れ帰って生き延びさせる決断を下した彼は、今はいない。代わりにいるのは彼に似た、黒い髪と目を持つ赤子だった。