探した末に浬を見付けたのは彼の自室ではなく物干しで、しかもすぐ隣には妹の姿もあったので、紅砂は何も言わずに彼の首根っこを掴んだ。
「な」
「何してる」
 眉をしかめた浬の顔が、振り返って固まる。
「あの……手伝いを」
 掴んだ手を払うように放すと、彼は二歩だけよろけて止まった。
「うちの妹が手を取らせたな。後は俺が手伝うから行っていいぞ」
 浬は戸惑ったように口元だけで笑い、紅砂がてきぱきと洗い桶のものを広げるのを眺めていたが、肩越しにもう一度鋭い視線で睨まれるなり、じゃあと言い残してその場を後にした。
 紅花は慣れたもので、呆れた目付きで兄を見ただけで自分の仕事を続けた。
「で、ここん来ょうた用は。ほんのほんに手伝おうて来たがかや」
 そこで紅砂ははっと顔を上げ、妹を置き去りに浬を追った。紅花はそれも慣れたもので、呆れた目付きでその背を見送った。
 物干しを終えて桶の水気を払い、陰に立て掛ける。表に回ったところでまた二人に出くわした。
 浬は紅砂に何やら場所を教えているようだった。紅花は何事もない顔で傍を通り過ぎ、脱いだ下駄を手に持ち替えて板を踏む。
 紅花の部屋の斜向かいは黄月の部屋だった。彼は二通の書状を見比べながら、手元の紙に何か細かく書き付けていた。
「黄月。夕は釜の残りと、あと何か適当に食べといて。煮染め売りと貝売りは毎日坂の下を通るし、運が良ければマザメ売りも来るかも」
 返事は無く、焦れた紅花が再び口を開こうとしたとき、やっと筆を止めて紅花の方へ向き直った。
「季春座か」
 彼がこの春から時々鼻に乗せている妙なものは、西の大通りの舶来市で手に入れたものだという。両目の周りにぐるりと円を描いたその顔は、まるで羽子突きに負けた子供のようで、紅花などは見るたび笑いそうになるのだが、彼は見えが良くなるのだと言って手放さない。
「違うけど、まあちょっとね」
「紅砂には言っておけよ。山狩りに付き合わされかねん」
「平気よ」
 黄月は紙に目を戻して、ふと彼女を振り返った。
「この前亰から一座が来てたみたいだが、次はいつ来るか分かるか」
「吹喜座でしょ。知らない、この前のが初めてだもん。評判良かったからまたやるのかもしれないけど、あそこを呼ぶとは限らないし」
 そうか、と短く言って黄月はまた自分の作業に没頭した。
 紅花が自分の部屋に戻って縁側に立つと、ちょうど紅砂と浬が下り道に入るところだった。そっと下駄を下ろして追う。
 豪快な足音を立てたつもりはなかったが、道の中ほどで先に浬が振り向き、続いて紅砂も立ち止まった。
「小間物屋か」
「ん……でなぁて、ちょっとつけてみやぁ思うて」
 紅砂は妹が隣に並ぶまで待ち、くるりと彼女の肩を回して今来た方を向かせた。紅花は頭を後ろに倒して兄を見る。
「戻れ」
「そや言われて易う戻らぁよ」
「ええ場所にゃ行かぁぞ」
 港はええ場所やなぁの、とは言わなかった。煽りすぎてはいけない。
 浬が指していたのは港のある方向だったのだ。二人で何か食べに行くのだとしても、見世に行くのだとしても、まさか女を見に行くのだとしても、紅花には面白くない。
「一緒に来たってつまらないだけだよ。戻りな」
 浬からも言葉が飛んできて、紅花は不満げにではあるが上り坂を向いた。肩を落として言う。
「分かった。あたしは大人しゅう夕餉作って待っとうけ。ただ……しばらく黄月と二人きりんなるけど……。んん、平気。黄月は間違いなんぞ犯さんわね。ずっと一緒ん暮らしてきたとや、疑うたりして罰当たる。……うん、何も起きんわ、心配せぇで。行ってらっしゃい」
「紅花」
 この程度、慣れたものだ。妹はちらりと兄を見やる。
「ついて来い」
 彼の隣で浬が青葉繁る天を仰いだ。

 二人は港へは行かなかった。小間物屋の裏口がある細い通りを進んで、港をかすめるようにして東へ曲がり、墓地を左目になお進む。昼をたっぷり費やして辿り着いたのは、家からは山の裏手にあたる場所で、幼い時分から坡城暮らしをしている紅花でさえ足を向けたことがなかった。
 行き交う人の数は裏通り程度で、心なしか子供は少ない。
 たった今通ってきた細い通りに様子が似ているが、それよりもまだごみごみとして、入り組んだ道が多いようだ。きょろきょろと首を振っても、横道はすぐに突き当たり、更に折れ曲がっていて、一度には全容がつかめない。野っ原に簡素なつくりの小屋がにょきにょきと好き勝手に生えてきて、いくつかが運よく家になったという感じを受けた。
「何なの、ここ」
 紅花が声をひそめると、浬が前を向いたまま小声で答えた。
「大火の後、東雲びとが住み付いた場所だよ。東雲(すだ)きと呼ばれている。壬の境と、ちょっと似ているだろ」
 なるほどと頷く。壬の境には一度だけ行ったことがあったが、紅花の好むものは置いていなかったのでそれっきりだ。あのときは小屋と筵の商い人ばかりだったあの場所も、いずれはこうなるのか。
「どこに行きたいの」
「いや、ここからは自分で探す」
「……分かった。ここはできて長いから、壬の方ほど殺気立っちゃいないけど、紅花ちゃんは紅砂と一緒にいるようにね。ざっと分けると、今通ってきたのが食べ物や品物、中央は鋳物師なんかの職人が揃う。奥に行くほど、こう……物売りからは離れるかな。あまり踏み入りすぎないほうがいい」
 浬が横道に消えたのを見届けて、紅砂は奥へと足を向けた。紅花もぴたりと後をついていく。
 奥へ行くほど道は狭くなり、細々とした店が増えた。紅砂は途中で足を止めて屋台の若い男に話しかけた。周りにも屋台は多いが、品も並べずに一体何を売っているのか。商い人たちの顔は一様に陰に隠れて見えにくい。見ると見世の隅には小猿がいて、紅花と目が合うと、歯をむき出してき、と鳴いた。慌てて目を戻す。
「行くぞ」
 紅砂の後を追って更に奥へと進む。ふと振り返ると、屋台の男がにやりと笑って彼女に手を振っていた。
 横道に入り、何度か角を曲がる。道は益々細くなり、途中人とすれ違うときには帯を汚れた壁に押し付けなければならなかった。
 辿り着いたのは、小さいながらも家の形を取った見世だった。戸の前にしゃがんでいた大柄な男がやおら立ち上がり、鋭い目で二人を一瞥した。
「経緯は」
「分かるだろう、この容貌だ」
 男は顔を歪ませた厭な笑い方を返すと、戸の奥を示した。男に見付からないように小さく舌を出した紅花も、紅砂に続いて戸の内に入る。
 中は薄暗く、細い土間が続いていた。まるで今通ってきた曲がり角だらけの道がまた現れたようだった。目付きの悪い男がずらりと並んで威嚇してくる様を思い描いていただけに、紅花はほっと息を吐いた。
「さっきの何やが。何買う気」
 前を行く兄に問うが、彼は肩越しに人差し指を立てて黙っているよう合図しただけだった。
 土間は左手に続き、奥に見える板戸からか細い光が漏れ、揃えて置かれた下駄を照らしていた。
「ここで待ちよれ」
 そう言い残すと紅砂は板戸に手を掛けた。その途端内側から戸が空いて、出てきたのは小柄な男だった。紅砂が一歩退くと、彼は小さく会釈して下駄に足を滑り込ませた。
「何買ったんですか」
 紅花がすれ違い様に声を掛けると、彼は足を止めて辺りを見回した。紅砂は既に戸の中に消えており、暗い土間には二人だけだ。
「仕方ないなぁ、姉ちゃん可愛いからちょっとだけ見せてやろう。触るなよ」
「やだ優しい人、触んないから早く早く」
 男が襟を探るとかさりと音がした。彼は取り出した紙を、紅花と一歩距離を取ってから広げて見せて、十数えるより早く畳み直した。
「暗くてよく見えない。もう一回お願い」
「何と言われようとお仕舞い。何せ稼ぎの三月分だからな、大事なもんなんだよ。しかしこんなとこに来るってことは、姉ちゃんも不憫な身の上なのか」
 男はぺらぺらと語り出し、紅花の肩に手を置いた。
「可哀想になぁ。今から港番に行くけど一緒に来るか。ここで会ったのも何かの縁、嫁にしてやってもいいぞ」
「ふ……っざけんじゃないわよ!」
 激昂した紅花に、男は目を丸くして飛び去った。開いたままの戸から、先程の男が何事かと顔を覗かせる。
 しかし今の男の話で分かったことがある。あれは東雲の証文なのだ、それも紛いものの。男が広げた紙は、薄暗いとはいえ見えなかったわけではない。字を読めない紅花がもう一度見せるようせがんだのは、どこか見覚えがあったからだ。
 似たものをどこかで見た。似ていたが、あれほど粗末ではなかった。
 紅花ははっと顔を上げて、紅砂が入った板戸の前へ走り、下駄を脱ぐのももどかしく戸を引き開けた。
 そこにあったのは予想したとおりの鋭い目、目、目、刺青。委縮する心を奮い立たせる。目の端で見た紅砂の手は――よし、まだ払っていない。
「こんなとこにいたの五郎兵衛! 裏の畑にアズメが大漁で仏像が泡吹いてとにかく大変なんだ早く!」
 呆然とする紅砂を引っ張り、下駄も彼女が摘み上げて、裸足で土間を走らせる。
 戸を抜けて細い道を駆ける。猿を見掛けたところで足を止めたが、取り引きの前だったからか、幸い追手は無かった。
「紅花」
 息を弾ませた紅砂の声。しゃがみ込んだ紅花は肩でぜいぜいと息をし、喋るどころではなかった。兄を見上げる。
「いくら何でも、五郎兵衛て」

 詳しい理由は聞けないままだったが、紅砂は妹に随行した。そうしないと彼女は一人ででも慣れない道を戻っただろう。
 墓地を過ぎたところで道を外れて木々の間を抜け、草むらを進む。下り坂の先に見えるのは港番詰所とそれを囲む高い壁、その間をいくつかの頭が動いている。詰所は二人のいる場所に背を向けるかたちで建っており、手前に屋根の棟だけが見える簡素な建物は裁きを待つ者たちの収容所だ。
 紅花につられて丈高の身を折り草むらに隠れたものの、何も動きは見えない。
「港番に用があらぁか」
「しっ」
 丁度だった。
「嘘だろ! ちょっと待てよ聞いてくれよ、そんなわけない……おい放せ、やめろよ!」
 聞き覚えのある声が先に耳に飛び込み、続いて番人衆に両脇を抱えられた男が暴れながら姿を見せた。小柄な彼は易々と詰所を離れ、収容所へ運ばれる。途中で壁に隠れて二人からは見えなくなっても、男は無様なほど喚き散らしていた。
「……あいつだ」
「知り合いか」
 逆光だったこともあり、兄からは顔もろくに見えなかったのだろう。紅花は震える唇を押さえて頷く。
「あたしに……嫁ん来やあて言うた奴」
「そやぁ奴は捕まって当然じゃ!」
「いや紅砂。そやなぁでな」
 再び足音。脇を抱えていた番人衆だろう。二人は身を縮めて息をひそめる。
「前と同じやつだな。また場所を変えて小金稼ぎを始めやがったか」
「泳がしときゃあいいのさ。無宿者が向こうから飛び込んでくるんだ、改めるまでもない」
「馬鹿野郎、その金がごろつきを潤わせるんだ。無宿者を飼うのだって只じゃないぞ」
 彼らの声が聞こえなくなったところで、二人は体を屈めたまま草むらを上り道へ戻った。
「さっきん店は証文売りようじゃろ。今のは紅砂ん前に証文買うた奴じゃ、すれ違うたが。一歩遅うだら紅砂があやなっとうたかしれん」
 紅砂は詰所を見下ろして何事か考えていたが、ふと妹に目を向けた。紅花にも訊かれることくらいは分かっていた、「どうしてお前は俺を止められた?」。
 紅花は早足で歩き出した。どこであれを見たのか、もう思い出していた。



 その機会を見付けるまで数日を要した。
 彼は紅花が狙ったときには部屋にいるか、彼女の傍にいたからだ。
 だから洗濯物を放り込みがてら覗き込んで、部屋に誰の姿も無いのを見たときは、思わず息が止まった。
 そっと畳を踏んで襖を閉じる。適度に散らかり適度に片付いたいつもどおりの彼の部屋。
 後ろめたくないと言えば嘘になる。だから言い訳をする、ちょっと確かめたいだけなのだ。何も盗もうとはしていない。散らかり具合を見兼ねて片付けているうちに、ちょっと目に留まってしまうだけだ。
 彼の部屋には、明らかに彼以外が占有する一画がある。年季の入った扇。役者の名前がでかでかと書かれた板。魔除けの札。おかしな顔の石像。そしてその脇に、何の変哲もない袋。
 すっと手を伸ばす。この期に及んで迷いはしなかった。紐を解くと中からは、半年前に見たのと同じものが顔を覗かせた。簪が一つとしっかりした蛇腹の紙。
 紅花の指は蛇腹だけを抜き取って開いた。こちらも以前見たのと変わらず、手触りのよい滑らかな紙には、右端と左下に文字、そして朱色の印が押されていた。
 同じだった。
 港番に捕まった男が見せびらかしたものより、文字は格段に少なかったし、紙質は明らかにこちらの方が良かったが、あれがこの蛇腹を模したものであることは一目瞭然だった。
 ごくりと唾を呑む。もしこれが本物なら。
 東雲の証文を求める理由は兄から聞いていた。どう探せば見付かるのか紅花には見当もつかない、それが、今ここにある。自分の手の中に。これを、使えば。
「紅花ちゃん」
 ぞっと、背中を悪寒が走った。
 紙を袋に仕舞おうとして、ぽろりと取り落とす。
「何を……」
 彼は言葉を止めた。彼の目が紙に注がれているのが分かった。紅花が顔を上げると、戸惑ったような浬の目がそこにあった。限界だ。
「ごめんなさい!」
 額を畳に付けたのは、彼の目を見られなかったからだ。恥ずかしかった。邪な思いをもって人の荷を探って、持ち出そうという考えすら過った。どうとでも誤魔化しようはあったが、何より自分で自分を赦せなかった。
「これは……ああ。どうしたの、これが珍しかった?」
 あまりに穏やかな声だった。紅花はむくりと顔を上げた。
「何よ、とぼけるつもり? これがどんな貴重なものか、あたしだって知ってるんだから。知ってて見に来たのよ。見て、確かめて、終わるつもりだった。なのにあんな……あんなこと思うなんて。怒ってよ、おとなしく叱られるわよ!」
「ん、なに、僕が怒られてるの?」
「あたしよ! あたしに怒れって言ってんのよ、分かんないの? 怒るわよ!」
 もう自分が何を口走っているのか分からない。滅茶苦茶だ。浬は面食らった顔のまま紅花の前に膝をつき、改めて蛇腹を開いた。
「紅花ちゃんはこれが何か知ってるんだね。何かに使うつもりだったの」
「……暁。人別改めの噂は聞いてるでしょ、でもあの子、大火の後に来たから人別移しができてないのよ。自分一人なら良くても、睦月のことを考えると、どうしても今坡城びとになっておきたいって」
「ああ、だから集きに行ったんだね。先に聞いていれば止めたのに。あれは港番も既に目を付けている。調べが入りそうになるたび場所を変えて商いを続けているらしいよ。危なかった」
「うん、見た。あたしはたまたま、前にこれを見てたから手を出さずに済んだのよ」
 浬は頷くと、再び蛇腹に目を落とした。
「人別改めか……。昨日触れが出ていたよ、西域から順次行われるみたいだ」
 紅花は目を見開いた。海の色の目が、躊躇いがちに浬を見つめる。
「これ、あんたが使うつもりだった……のよね」
「いや」
「それなら……! お願い、暁に使わせてやって。このとおり」
 目を堅くつむって拝む紅花に、浬が返した答えはあっさりとしたものだった。
「いいよ」
 え、と間抜けな声を出して紅花は目を開いた。
「いいの?」
「元々僕のものじゃないんだ。預かりものだよ」
「預かりものって、そんなの尚更……」
 浬は一度首を振って袋を逆さにし、中に残ったもう一つを手に空けた。
「針葉さんが一度坡城に戻ってきたのは知ってるだろ。立秋を迎えてすぐだった。家には戻らなかった。坂道で僕と会って、そのまま織楽に会いに季春へ向かったんだ。この袋は、そのとき針葉さんが置き忘れていったものだよ」
 広げて見せた浬の掌には、簪があった。
「自分が悪かったと言っていたよ。簪が入っているのを見ても、これは針葉さんが暁のために探してきたものなんだろうね。これだけ精巧な白証文を手に入れるのは並大抵のことじゃない。苦労しただろうね。だからこれは暁が使うべきものだよ」
 浬はそこで言葉を止めた。紅花は眉を寄せ、今にも泣きそうな顔で口を押さえていた。
「紅花ちゃん……」
「言ってたのよ。針葉が。坡城で堂々と暮らしていけるように段取りつけてるんだって。何のことか分かんなかったから茶化したの。どうせ適当な付き合いしかできないくせにって思ってた。まさかこんな……」
 浬は震える彼女の肩を優しく叩いた。
「人別改めまで間が無い。早速証文作りに取り掛かるよ。紅花ちゃんは暁に伝えてきてくれるかな」

 夕方が近かったので紅花は家を飛び出して坂道を駆け下り、間地を目指した。早く伝えて安心させてやりたかった。
 斎木の家には黄月を含め四人がいたが、手を叩いて喜んだのは斎木だけで、黄月はいつもどおりの能面、そして書きものの手を止めて話を聞いていた暁は、針葉の名が出たところで筆を取り落として傍らの赤子を見つめた。
 睦月へ手を伸ばす。頬に触れたかったのだろうが、その前に彼女の手が小さな指に掴まった。暁が笑みを漏らすと、睦月も歯の無い口を開いて笑みを返した。小さな命全てで発する柔らかい笑みに、見ていた紅花も思わず顔を緩ませた。
 黄月が薬を分ける手を止めて二人に視線を寄越した。
「東雲の証文っていうのも一度見てみたかったが、ここには持ってきてないんだな」
「浬が書くんだって。書式は分かるし、東雲の事情は自分が一番よく知ってるからって」
「あいつに任せておけば堅いだろう。にしても、去年の夏ならまだ人別改めの話なんて聞こえてなかったのに、針葉も随分勘のいいことしたな」
 それは、と顔を上げたのは暁だった。
「欲しいものを聞かれたことがあったんだ。何にも脅かされず当たり前に暮らしたいと、ひねくれたことを返したんだけれど……あの人はそれを、坡城びとになりたいって意味だと捉えたのかな」
「お前がいつそんなに脅かされた暮らしをした。好き勝手暮らしてるようにしか見えなかったが」
 澄まし顔で作業を再開する黄月を、暁が睨み、紅花が宥める。
「じゃ、これもあんたがねだったの。一緒に入ってたらしいんだけど」
 紅花が簪を取り出すと、暁は受け取らずにしばらくそれを眺めた。
「暁?」
「……私が針葉から、一つだけもらったものがある。まだお互いに何とも思ってなかった頃。私が紅花の店で番をしていたときに針葉が簪を買って、忘れていったの。でも私が届けたときには、もうその時の人とは別れていたみたいで、簪は男が持つものじゃないって私の頭に付けられた」
「それ、押し付けられただけじゃないの。馬鹿にしてるわよ。そういう時は怒んなさいよ、あんたの昔の女の代わりじゃないってのよ」
 明快な論調につられて破顔しながら暁は続ける。
「私は何とも思わなかったよ、元々簪なんて欲しくなかったし。でも針葉は、紅花と同じように考えて気にしてたみたいだね」
「だからこれで帳消しってこと? そんなぁ」
 自分のことのように憤慨する紅花を、止めたのも暁の言葉だった
「何にせよ、針葉がその袋を持ってきてくれたのは、私のことを疑って季春座に乗り込む前なんだから。もう事情が違うよ」
 静かに笑う暁は自ら口にした言葉の前に、目を伏せつつも平然と、真っ直ぐ立っているように見えた。紅花は居た堪れなくなって斎木宅を出る。ちょうど日も傾いた頃で、夕餉の支度を思い出して家へ急いだ。
「あら紅花ちゃん」
 橋に差し掛かったところで紅花の足を止めたのは女の声だった。振り向いたところには団子屋があり、のどかな夕焼けに団子を頬張る客が一人、そして面長の看板娘が一人。
 苦々しい思いを隠して会釈する。この人は、本川と共に歩いているときやこうして急いでいるとき、図ったように話し掛けてくる気がした。もちろんそんなものは気のせいに過ぎないのだが、紅花の何が気に入ったか、この半年とみに話し掛けてくるのは事実だった。
「一人? 最近はあの女の子とは一緒にいないのね。元気にしてるの?」
「あの、今急いでるんです。飯の支度をしなきゃ」
「あらごめんなさいね。あの子が字を書く仕事をしてるって聞いたことあるんだけど、うちの看板を新しくしたいのよね。話をしたいから、是非一度来てほしいんだけど。紅花ちゃんも一緒にどう? 団子ならいくらでもご馳走するわ」
 団子。いくらでも。ご馳走。
 垂涎ものの話ではあったが慌てて首を振る。
「駄目なんです。暁のことですよね、あの子ややが産まれて今それどころじゃないから」
「……やや?」
 頷きがてら橋の向こうに目をやると、大通りを棒手降りが正に行くところだった。あれに見えるはマザメ売りではないか。
「ごめんなさい、行かなきゃ!」
 走り出す紅花は、またいらっしゃいと女の声を背中で聞いた。



 何か訊かれたときに答えられるのは自分しかいないと言って、港番へ行くのも浬が申し出た。翌日のことだった。
 そしてその翌夕、彼は暁に二枚の手形を渡した。家族単位で細かに身上を記される人別帳とは違い、手形は一人一人が受け取れるものだ。縦長の紙の一枚には暁の、もう一枚には睦月の名と出生年、出生地、居処、そして坡城びとであることを証明する旨が記され、文字の上から朱色の角印が押されていた。
「暁のは、出生が東雲で今が坡城びとになっているだろ。大火より前の日付で出したから、遡ってその頃から坡城びとだったことになっている。従って睦月は産まれたときから坡城びとだ」
 暁は何度も頷いて頭を下げた。
「大事に取っておくから」
「それはただの手形だから来月の末で使えなくなるよ。大丈夫、大元はきちんと記帳されているし、それが分かってもらえるように手形発行を願い出ただけだから」
 幾度も頭を下げる暁に見送られて、浬と紅花は斎木の家を離れた。夕は日に日に長くなり、薄青く暮れる東の空を鳥が横切っていく。
「暁、喜んでたね」
 浬はうん、と短く返事をしたきりだった。いつもなら素っ気ないと思ったかもしれないが、驕らない姿が今は何故か好もしく見えた。

 宵の支度を終えた紅花が浬の部屋を訪れたのも、だからごく自然な流れだった。熱心に何事か書き綴っている背中に声を掛ける。
「お疲れ様。あたしからも言わせてね、本当に有難う」
 思ってもみなかったようで、浬は筆を止めてまじまじと紅花を見上げた。
「紅花ちゃんから言われるとは思わなかったな。でも今回のことは僕一人じゃどうしようもなかったんだよ。針葉さんも、紅砂も、紅花ちゃんもいて、ようやく一つの結果が出たんだ。……紅花ちゃんこそ、まるで自分のことみたいに必死になってたよね。どうしてなの」
 紅花は浬の隣に腰を下ろした。どれだけ紙を睨んでも、やはり彼が何を書いているのかは読めず終いだ。浬は頬杖をついて彼女の言葉を待っている。
「あたしさ、睦月のことが可愛いって思ったのよね」
「うん。……え、それだけ?」
「違うのよ。産まれるまでって、そりゃもう色々あったじゃない。惚れた腫れた、くっついた別れた、生臭いことだらけだった。針葉が暁に手を上げたときも、……これは今となっちゃ誤解だったのかもしんないけど、織楽とのことを聞いたときも、暁の腹が膨らんだのを見たときも、変な言い方するけど出家したくなる気持ちがちょっと分かったもん」
 神妙な顔をして聞いていた浬は唐突な展開に堪えきれず、顔を背けて息を吐いた。紅花も表情を緩めて続ける。
「いいわよ笑って。尼になろうと思ったことはないけどさ、ほとほと厭気が差したわけよ。暁が何を産んでも、あたし、笑い掛けたりできないと思った。……でもさ、どんな経緯があってもややは可愛いもんなのよね。暁が睦月をあやす様が当たり前のものに見えたの。自分もああやって産まれたんだと思った。ややの立場で言うなら、皆から大切にされて見守られて産まれるって、本当に当然のことなのよね。暁はあるがまま受け止めてたのに、あたしは自分勝手に当たり散らして、暁にも睦月にも酷いことしたなって」
 浬は再び神妙な顔に戻っていた。急に気恥ずかしくなって、紅花は怒った口調で「思った、わけよ」と続けた。
「だから、何かしてあげたかったの」
「……紅花ちゃんは、いい子だね」
 しばらくの沈黙ののち呟かれた言葉に、つられるように浬のほうを向いた。彼の口調はまるで「ここは坡城だ」や「茶太郎は猫だ」とでも言うようで、声だけ聞いても褒められているとは感じなかっただろう。そのくせ目には羨んだような色が宿っており、視線を外せなくなった。
 手が伸びてくるのが、視界の端に見えた。
 彼の指は、髪に落ち葉が乗った程度の優しさで紅花の頭を撫でた。心地よい重さに、少し足りない。もう少し。ほんの少し。
 気付けば、すぐそこに彼の顔があった。
「今日、怖いお兄ちゃんは?」
「……もう灯は落ちてたけど」
 浬はふっと笑って指を離した。
「そうだね、もう夜更かしだ。戻りな。この前の紅花ちゃんの台詞じゃないけど、間違いが起こる前にね」
「間違いって?」
「間違いっていうのは」
 一度口を開いた浬は何も言わずに唇を結び、窘めるように紅花を軽く睨んだ。
「分かって言ったんだろ」
 紅花は悪戯を見付かった子供のように肩を竦め、また身を乗り出した。息が触れるほどの近くに顔を寄せて、
「浬。あんた、紅砂に勝てる?」
 浬は迷わなかった。彼女の兄の立場を慮るためだけにひと息の間を置いて、答えた。
「畳の上じゃなくていいんならね」
 紅花は顔をほころばせた。浬に肩を抱き寄せられても、嬉しくてたまらないというように、くすぐったがるように身を揺らして、唇を塞がれるまで声を殺して笑い続けた。
 浬が目を開けたとき、間近に彼の目を見つめる紅花は、かすかに眉を寄せて困ったような表情をしていた。
「ねえ、これってさ、間違いなわけ」
「間違いなわけないだろ」
 ぶっきらぼうに聞こえたのは拗ねていたのだろうか。
 書きものを片付け始めた浬から再び部屋に戻るよう言われ、余韻の無さにがっかりしつつも、ここで止めなきゃ浬じゃないと納得もし、紅花が素直に従ったのは結局、彼が頭に置いた手が、先程よりわずかに力強かったからだった。