廓の夜は遅い。
 帰りの廊下は行きほどではなかったが、それでも時々漏れ聞こえる声があった。
 部屋に帰り着いて若菜が取り出したのは小さな飾り袋だった。開くと中には、紅砂の三日の稼ぎに足りないくらいの銭が入っていた。
「山吹から預かってたのよ。使って」
 このくらいどうってことないと言えれば恰好がつくのだろうが、手持ちが足りないのは事実だった。若菜の手は、彼の手を包むようにして飾り袋を置いた。彼女はそのまましばらく動かなかった。
「さっきの、何て言ってたの」
 それは、と言ったきり紅砂は言葉に詰まる。不意に若菜の手が離れた。行灯の傍に座った彼女は、何事も無かったかのように皿に油を足す。
「知らないほうが良いってことなのね。分かった、気にせずにおくわ。今夜のことは幻で、あたしは何も見てない、聞いてない」
「ごめん」
「何を謝るのよ」
 紅砂は少し笑って行灯を眺めた。紙の向こうで陽炎かぎろいが揺れる。
「あんな上背のある男でも匿えるんなら、同じようにしてあんたを連れ出せないかな」
「港の中だけなら出歩けるわよ。覚えてないの、初めて会ったときもそうだったじゃない」
「そうじゃなくて」
 薄闇の中で視線がかち合う。躊躇うような、諭すような、若菜の笑い声。
「何を……言ってるの。やめてよ。やめ……やめましょ」
 彼女は首を振って紅砂に近付く。彼の前に屈むと、いかにも女郎じみた仕草で彼の頬に冷たい指を添えた。勿体つけたような笑みが唇からこぼれている。
「それより……夜はまだ長いのよ。どうせ幻なら、いつもと違う過ごし方をしてもいいんじゃない」
 紅砂の口元にも笑みが浮かんでいる。だが彼の目には悲しげな色が宿っていた。
「あんたに、こんなことしてほしくないんだ。下拙な台詞を口癖だと言ってほしくもない。初めて港で会ったとき、あんたのことを廓の女だなんて思わなかった。今だって思ってない。俺が会いに来てるのは廓の女じゃなく、若菜なんだ」
 紅砂の頬からおもむろに指が離れる。逆光の影がじっと彼を見つめる。
「あなた、あたしの何を見てるの」
 指先よりも更に冷たい声だった。
「こんなことって何。肌見せて足広げて跨ること? これっぽちも感じちゃいないのに馬鹿みたいに喘いでみせること? ふざけないでよ。何の芸も持たずに壬の北から売られてきて、それ以外にどうしろっていうの。操を立てて舌噛んで死ねば良かったって言いたいの」
 矢継ぎ早に飛んでくる言葉。鋭く研がれた声。否定する間も無かった。
「廓の女だと思わなかった? は、お生憎様ね、あいつだって客よ。港番に引っ張られてなかったら一緒の蒲団に入ってたでしょうね。それに自分はどうなのよ。あなたは廓もんでもない女に、銭払って会いに来るわけ」
 影の肩が震えている。短く息を吸う音。
「……あなたが自分でどう思ってたか知らないわよ。話だけして、指一本触れずに帰って、なんて気高い人だなんて、あたしが言うとでも思った? 同じよ。部屋に入るなり押し倒してこようと、話だけして帰ろうと、銭を払って来る以上、あなたは客にしかなり得ないのよ。それなら二度三度果てる男のほうが、よっぽど可愛げがあるわ。少なくとも自惚れちゃいないもの」
 彼女の名を呼び手を伸ばす。だが彼女はそれを振り払って紅砂に背を向け、怯えているかのように、自分の肩を抱いた。
「……あなたみたいに買った女から罵られた客もいないでしょうね。かわいそうなひと。あなたはここに来るべきじゃなかった。……ううん、違うわね。あたしが、あなたを呼ぶべきじゃなかったのよ、初めから。助けてくれてありがとう、で終わるべきだった。……欲を出したのはあたしの方だったのかしらね」
 振り向いた彼女の顔はやはり逆光で見えにくかったのに、どうしてだろう。
「あなたには娑婆がよく似合うわ。あなたの目は、空の下でこそ海の色に見える」
 歪んだ頬を伝う涙が見えるようだった。
「もう来ないで。あなたはもう、こんなところに来ちゃいけない」



 白昼夢か。
 近付いてくる足音ではっと我に返る。本を閉じたところで音が止まった。
「なんだなんだ、ぼーっとして。平気か」
 生返事を返した相手は、道場師範の息子である忠良だった。紅砂に負けず劣らず背が高く、その上幅も奥行きもがっしりとした岩のような男だ。
 紅砂がいたのは道場内に設けられた、正骨室とは名ばかりの狭い板間だ。奥の棚に少しばかり本が積まれているほかは何の飾り気も無い。
「待ったぞ。今日は詰める日じゃないんだが」
「まあまあ、堅いこと言うなよ」
 彼は大きな口で笑いながら紅砂の前に座り、袖を捲って毛むくじゃらの腕を突き付けた。汗の匂いがむんと鼻を覆う。
「この前と同じとこ痛めちまってよ、一つ頼まぁ」
「またか。治りきるまで無理するなって言っただろ、そのうち腕が上がらなくなるぞ。お前の代を待たずにここを閉める気か」
「悪い悪い、つい熱が入ってさ。親父にゃ内緒な」
 紅砂は溜息を吐いて、彼の手首を自分の掌に乗せた。指を一本ずつ手の甲のほうへ曲げ、動きを確認する。
「たまには喝入れてもらったらどうだ」
「そう言うなって。融通利かねぇなあ」
 手首から肩を細かく指で押さえ、忠良の表情を観察する。丸太のような腕をぐいと前に突き出させ、自分の腕を絡めて少しずつ引く。
 てて、と彼が顔をしかめたところで力を緩め、今度は腕を持ち上げて同じように力を入れていく。
 施術を終えて立ち上がった忠良は、機嫌の良い顔で肩をぐるぐると回してみせた。
「やっぱりこういう時はお前だよなぁ。親父だと馬鹿力だもんな、次の日にゃ寝込んじまうよ」
「だから無理に動かすなって。ったく……師範が俺に教えてくれたことは、本当は、全てお前に望んでることなんだぞ。愚痴聞かされる身にもなってみろ」
 ごつごつとした顔が、悪戯を見付かった子供のようにくしゃりと崩れる。口答えをせずに忠良は去った。気の良い男だが、子供っぽいところが未だに抜けないのだ。
 紅砂も本を棚に戻して道場を後にする。
 忠良を待つ間に思い出していたのはあの夜の顛末だった。瞼の裏の情景が切り替わる瞬間、どこかから聞こえた声。「勿体ないことをした」。頭を掻きむしりたくなる。結局それが本音なのだろうか。いつも押し隠しているものが、心を取り戻す途中で漏れ聞こえたのだろうか。
 喧嘩をするつもりなど無かった。あの時、彼は確かに若菜を廓から連れ出したいと思っていたし、知恵を絞れば何とかなるのではないかと思った。打つ手がまるで無かったとしても、同じ夢を見たかった。
 ふと気付いて首を振った。喧嘩だと。甘えるな、あれは決別だ。
 あれから若菜には会いに行っていない。ネイトと名乗った男がどうしているのかも知らないが、既にふた月が経ち、桜も散った。きっともうあそこにはいないだろう。危険を冒してでも手に入れたい、魅惑の「夜陰」とやらを求めて、どこかへ。
 まだ日が暮れるまでには間があった。紅砂は斎木の家へ足を向けた。

 斎木宅の戸に手を掛けた彼は、はっと腰を落として腕を広げた。途端に開く隣宅の戸、まろぶように飛び出してくる影、よろけた拍子にすっぽり紅砂の胸に収まる、小さな体。頬をくすぐる幼子特有の細い黒髪。
「ゆき、だっけ? 気ぃ付けないと次こそは頭打つぞ」
 口調は叱りながらも、前も見ず扉も閉めずに矢のように飛び出すさまは昔の妹によく似ていて、自然と顔がほころんだ。
 名を呼ばれたのに驚いたように彼女はきょとんと彼を見返したが、すぐ満面の笑みに変えて、口の中からは小さな歯が覗いた。
 彼女の背を見送って、改めて斎木宅の戸を開ける。中に斎木や暁、妹の姿は無かった。
 あれ、と呟いて踏み入る。赤子を連れて遠出はしないはずだが、特に壬の容貌を持つ彼女は。
 理由が分かったのは裏の、おしめ干し場と化した、猫の額ほどの空き地へ出たときだった。ゆきが出てきた隣宅との間には隔てるものが無く、そちらから暁の声が聞こえたのだ。もう一つ聞こえるのは黄月の知り合いだという産婆の声か。
「ほら、よく見て。……ね、分かった? ちゃんと目で追ってるでしょ」
「本当。え……あの、私もやってみていいですか」
 少し間があって暁の小さな歓声。
「いいですか、は要らない。何でもかんでも糧になるんだから、手足を触るでも話しかけるでも玩具を握らせるでもいいから、存分に構ってあげなさい」
 里さんって黄月がまんま女になったみたいな人よ、とは紅花の台詞だったが、なるほどと誰にともなく頷く。言い得て妙だ。
 しばらく嬉しそうな暁の声が続いた。紅砂は土の上に足を投げ出し、軒に区切られた狭い空を見上げる。身籠っている間の彼女は見ているだけで不憫なほどだったが、これほど変わるものか。初夏に近付く夕方の、ゆるりとした心地よい風が額を撫でていく。
「……あなたはちゃんと可愛がれるようね」
 はっと顔を隣へ向ける。
「どういうことですか」
「ほんの少し安心したのよ。変な顔しなさんな、悪い意味じゃないわ。言ったでしょう、子供が子供を産むのは反対だって。心の準備もできていないのに身籠ったところで、結局母も子も不幸になるのよ。特にあなたは、子の父にあたる人から逃げるような心許ない身の上だったしね。後先考えずに、まあなんて頭の足りない子かと思ったわ。初めはね」
 その後の沈黙は、暁の不満の表れであるようだった。
「冷たいと思う? 私だって元からこうじゃなかったのよ。身籠った母は全て幸せだし、子供は全て望まれて産まれるんだと思っていた。いい機会だから一つ話を聞いてくれる」
 そして変わらず淡々とした口調のまま、里は語り始めた。

 私の祖母は私と同じ産婆だった。ここに住んでたのよ。婆さんがどうのこうのと斎木が口にするから知ってたかしら。
 祖母は産婆である一方で、まあ分かるかしら、子堕ろしもやってたのよ。場所柄そっちの方が繁盛してたかもしれない。廓がこれだけ近ければね。取り上げる数と間引く数は、そりゃあ同じじゃないけど、孕もうが孕むまいが年に数度はお調べがあるからね。今でも港の方が上客と言えるかも。
 私は嫌だった。習いはしたけれど、堕ろすほうは専ら祖母に任せっぱなしだった。
 その祖母が亡くなったのが五年前のことよ。これから話すのはその少し後のこと。
 境の近くで素姓の知れない女を預かってるって話を聞いたのが初めだった。すぐ会いに行ったわ。預かり主は女を港番に突き出して身軽になりたがってたけど、港番に関わってもろくなことはないし、何よりその女は身籠ってるって話だったからね。
 痩せた女だった。腹が目立つ頃合だったから、尚更それが目についてね。棒みたいな足とか、目の下の深い隈とか。
 女……すみと名乗った彼女はなかなか喋ろうとしなかった。家はどこで、どんな経緯でそこに流れ着いたのか。まあ国許くらいは見た目で察しがついたけれど。あんまり黙りこくってるから言ったの、あなた港番の世話になりたいの、今に壬へ逆戻りよって。
 つまりそういうことよ、すみはどこからどう見ても壬びとだったわけ。彼女は途端におろおろと怯え出して否と答えた、だから連れ帰ったの。五年前のこの家にね。
 私は意気込んでいた。放っておいたら間違いなく不幸になる女とその腹の子を、私が支えるんだって。
 ここへ来てからもすみは相変わらず静かなものだったわ。ひと通りの家事はこなしたけれど、産婆としての私にも、同宿人としての私にも、ほとんど話し掛けようとはしなかった。破られたのは、私が覚える限りニ度だけよ。
 一度目は、「この腹のものを今のうちに殺せませんか」。何を言うのかと驚き、命の尊さを切々と説いて聞かせた数日後にニ度目を聞いたわ。「子流れに気を遣うべきことはありませんか」。母が健やかなら平気よとだけ言うと彼女は黙った。
 そう、分かる? すみはね、つまり子流しの方法を知りたがっていたのよ。その時の私が気付くわけもなかったわ。それにもう、そんな時期はとうに過ぎていた。
 月満ちてすみは子を産んだ。可愛い女の子だったけれど、すみはひと目見ただけで顔を背けた。一瞬見えたのは親の仇でも目にしたような、怒りと怯えと憎しみが綯い交ぜになった形相だった。乳を与えるのも嫌がった。産後で具合が思わしくなかったから、そのせいだろうと思ったわ、いいえ、思い込んだ。吾子を疎んじる母なんて、いるはずが無かったの。
 だってそうでしょう、こっちだって産まれる前から母の体を気遣って気遣って、まる一日以上付きっきりでようやく引っ張り出すのよ。それを悔やまれたら、恨まれたら、私や祖母のしてきたことは一体何なの。
 ……私の胸に疑いが生まれたのは、その子の細っこい産毛が少し伸び、目がしっかり開くようになったとき。……ええ、すみはその子に関わる全てを嫌がったから、なだめすかしたり、それでも駄目ならヤソの湯ときを与えたりして何とか育てたのよ。
 すみは間違いなく壬びとだったわ、それもかなり奥地の。波打った茶色の髪に目、それから、斎木の家へ来たばかりの隼くんに残っていた訛りも、全て壬のものでしょう。
 一方の赤子はというと、真黒い髪に目を持って、見るからに坡城よ。驚いたけれど、聞いたことが無いわけじゃなかったわ。混じり子は色が濃くなるってね。そこでふと思ったのは、赤子が別れた夫の胤で、憎い男を思い出すから嫌なんじゃってことだった。
 それまで子の命の重さ、産み育てる歓び、無事に授かれるありがたさなんかを口酸っぱく言ってきた私が、初めて彼女に寄り添って話したのよ。「この子を産むまで余程辛いことがあったんでしょう、よく耐えたわね」って。
 すみは今までのどんな時より酷い形相になり、両手に顔をうずめて答えた。「今の方がもっと辛い。どんなに目を閉じ耳を塞いでいても、私があれの顔を見ず、声を聞かずにいることはできないんです。泣き声を聞くと乳が出るのが分かります。それがどんなに辛いことか分かりますか。あんなものをこの世に出してはいけなかった。どうして産ませたんですか。どうして産声を上げる前に殺してくれなかったんですか。私はあなたを怨みます」。勿論もっとひどい訛りでね。
 正直に言って、私はとても傷ついたわ。すみと分かり合えることをどこかで望んでいたのね。こちらが譲ったのだから彼女も譲るべきだと思っていた。
 固まった口でどうにか言えたのはひと言。「一度は好いた男の子でしょう」……落ち着くのを待てば良かったのよ、お互いに。でも私は捨て台詞のように口にして、すみはそれを聞いた。
 すみは顔を上げて私を見た。ぞっとするほど長い間があって、彼女は初めて境遇を話してくれた。
 ……すみがいたのは壬の山の向こう、飛鳥と接する辺りにある貧しい村で、彼女は夫と、その親と暮らしていた。
 その村には当たり前のように「黒髪」が出入りしていた。すみは黒髪としか言わなかったけれど、場所からして飛鳥びとでしょうね。番人衆はもちろん壬びとだったけれど、黒髪は切っても切れないほど村の中に入り込んでいた。客として来たら平身低頭で迎えたり、黒髪の子供が村の子供を従えて歩いたり。左扇の黒髪に嫁ぐのが孝行娘とまで言われたそうよ。
 あるとき番人衆から村の男に呼び出しの触れが出され、彼女の夫も連れて行かれた。場所が場所でしょう、壬と飛鳥が停戦するまでは珍しいことではなかったそうよ。違うのは、既に村には黒髪が溢れていたってだけでね。
 村には女子供と腰の曲がった者だけの壬びとが残された。黒髪は以前にもまして我が物顔で歩くようになり、その数は日に日に増えていった。
 ……分かるわね。夫の帰りを待っていた彼女の家には黒髪が入り込むようになった。番人衆? それどころか、隣近所にだって言えるわけがないわ。
 戸を塞いでも、隠れても無駄だった。彼女を守ろうとした舅は大怪我を負って起き上がれなくなった。知り合いの家へ身を寄せようとしたけれど、そこでも同じことが起きていた。そこでようやく番人衆へ訴え出たけれど、何も聞いてもらえなかった。泣く泣く家へ戻るほか無かった。
 月のものが無くなったと気付いて彼女は自害を考えた。思い留まらせたのは姑だった、息子は今に帰ってくる、迎えてやってくれと。
 結局ね、黒髪の子を孕んだ彼女の家にはわずかながら物が届けられて、ろくに働けない三人が食い扶持に困ることは無かったそうよ。それを知ってもすみは姑を責められなかったと言ったわ、自分を守って舅は動けなくなったのだと。
 さて、五年前に何が起きたか覚えている? 少なくとも、壬がどこかと戦を交えたなんて話は無かったわね。
 東雲の大火よ。
 ねえ、どうして彼女の夫は連れて行かれたのかしら。壬と仲の良かった東雲に加勢するため? 私の知る限り、東雲はどことも戦を始めることなく焼かれたはずよ。悠長に山の向こうから徴集してる暇なんか無いわ。……東雲を焼いたのは飛鳥なんでしょう。壬の番人衆は飛鳥と通じてたんじゃないの。飛鳥に加勢するために壬びとを集めて、東雲を焼いて後ろ盾を無くして、そのうえ壬びとの女を差し出して、黒髪の子しか産まれないようにして、内側から壬を壊そうとしたんじゃないの。
 ……ごめん、今のは誰にも言わないで。思っただけ……思っただけなのよ。
 大火からひと月経っても夫は帰らなかった。舅は冬を越せず、姑も追うように亡くなった。すみは逃げ出すことを決めた。子を堕ろそうにも、村の産婆には黒髪の息がかかっていたし、恥を忍んで産み終えたところで、また黒髪がやって来るのが関の山だったから。
 簡単に逃げ出せるものではないわ。山向こうにいた医者なんて、首一つで戻ってきたらしいもの。彼女は運が良かった。ある時期だけは近くの谷に、なんとかって木や草を取りに壬びとが来ると知っていたから。……え、香ほづ木? ああ、そうなの、じゃあそれかもね。
 その人を頼りに、どうにか境まで来たのだと言っていたわ。
 ……聞き終えたとき、私は何も言うことができなかった。どんな覚悟ですみが壬を逃げてきたか、どんなに嘆いて黒髪の赤子を産んだか、どんな思いで私のお説教を聞き、どんな思いで境遇を語ったのか。察するに余りあったわ。
 ひと言、謝った。それ以上どれほど言葉を重ねようとも、彼女を慰めることなんてできなかった。
 それから数日は何事もなく過ぎたわ。でもあるとき、目を離した隙に彼女は包丁刀で子の喉に切り付け、自分の頸も。

「盗み聞きかい」
 耳元でしゃがれた声がして、紅砂はびくりとはね上がった。振り返ったところにはにやにや笑う斎木がいた。
「お……脅かすなよ、先生」
「脅かしやしない、自分の長屋に帰っただけだ」
 言われてみればそうだ。小さく頭を下げると、張り合いが無いとでも言いたげに額の皺を上げ、斎木は隣に目を向けた。
「あのちびの話か」
「そうなんだな……やっぱり。先生は覚えてるのか、五年前のこと」
「織楽がいっちばん可愛がり甲斐のあった頃だ。忘れるわけないね。……そうか、もうそんなになるか。大変だったな。血の海の中に二人沈んでて、里はちびを片腕に抱えて、もう片っぽで女の頸押さえて、それでどうなるわけもないんだがなぁ」
 その情景が目の前に浮かぶようで、紅砂は慌てて首を振る。
「結局女は助からず終いで、ちびもあのとおりの喋れない体だ。港番が何度か調べに来たが里は憔悴しきってるし、何もかも儂が収めたようなもんさ」
 斎木が得意げに言うものだから少し笑ってみせるが、実際そうだったのだろう。神妙な顔の紅砂を見て、斎木はやはり張り合いが無いとでも言いたげに口を曲げてしまった。隣では里と暁の声が小さく続いている。
 ――酷いとこだった。そればっかり覚えてるわ。
 あまりに自然に蘇った声は若菜のものだった。黒髪というのは彼女も口にした言葉だった。そうだ、彼女も北の生まれなのだからおかしいことはない。すみと若菜は近くの、もしかすると同じ村で育ったのだろう。
 そうだ、それに首一つで戻ってきた医者というのも若菜の話の中に。
 ちかっと頭の中で何か光った。
「里、あんまりうちのお嬢をいじめてやんなよ」
 顔を上げると、斎木が隣へ姿を消すところだった。里の抗議が終わるのを待って紅砂も続く。二人は既に話を終え、赤子を横たえてあやしていた。
 初めて見る里の家は、斎木の家を見た後ではすっきりとしすぎて寒々しいくらいだった。こんなところも黄月に似ている、と独り言つ。
「お嬢もお嬢だ。お前さん、まだ儂に菊二枚の借りがあるんだが、まさか忘れちゃいないだろうな」
「あ! いえ、それは、あの、大丈夫です!」
「ちょっと何それ。あなた適当なこと言われて騙されてるんじゃないでしょうね。お爺ちゃんもどういうことよ、きちんと事訳なさい」
 にわかに騒がしくなった部屋に響く泣き声。これはお腹が減っているのだと暁のひと声で、男二人は再び狭い空き地を向いて待つことになった。
 暮れた空を鳥の群れが行く。
「里。あのちびはお前に育てられて充分幸せだと思うぞ」
 唐突な斎木の言葉。しばらく沈黙があって、背後で里の溜息が聞こえた。
「聞いてたのね。いいのよ、報われたくってやってるわけじゃないんだから」
 斎木は口元に笑みを含んだまま紅砂をちょいとつつく。
「ああ言ってるけど、人別改めの話が聞こえたときゃ真っ先にあいつを記帳しに行ったんだ。庶子扱いだからこの先不便もあるだろうが、罪滅ぼしってだけで自分の子にゃできんよ」
「ちょっと。何ぼそぼそ言ってるのよ」
 紅砂の隣でくっくっと笑い声。ちょっと、ともう一度怒気を含んだ声が背中を蹴った。
「話していたんです、私がゆきに文字を教えようって。今のままでは話す術が無いでしょう。……も、もちろん本を写し終えた後でですが!」
「そいつは良いことだ。早いとこ誰かさんに借りを返して、ちびを博雅の士にしてやんな」
 背後で暁が写本の事情を話すが、里は依然疑いの声を上げる。隣で斎木が笑う。紅砂は一人、引っ掛かりを感じて眉を寄せた。赤子の声が聞こえるのを待って振り向く。
「暁、お前はどうだったっけ」
「何が」
「睦月のことはまだ届けちゃいないだろ。そもそもお前が来たとき、人別移しなんてやったか。俺は覚えが無いんだが、黄月が代わりにやったのかな」
「待って。この子は大火で出てきたんでしょ。いくら隼くんでも、燃えた国の証文なんて出せないわ」
 里の言葉で狭い長屋が静まり返り、遠くで聞こえる子供の声が寒々と響く。
「儂があの家で後ろ見になってやったのは黄月と織楽だけだ。この兄妹はとうに坡城暮らしだったからな」
「黄月を記帳できるなら、私のことも……っ」
 縋るような暁の視線に、斎木は小さく首を振った。
「後ろ見って言っても儂の子にしたわけじゃない、二人とも十とそこらだったから、元々あった証文を折紙つきで出してやっただけだ。この者のことで不明があればどうぞ斎木までってね。だが二人が何年前に坡城入りしたと思ってる。壬はもう証文出せる状態じゃないし、仮に手に入ったところで、今のものじゃもう意味が無いんだぞ」
 お爺ちゃん、と里が彼の言葉を止める。だがそれ以上何も言えずに黙りこくった。
 吾子を見つめる暁の目が細かく揺れている。
 やがて顔を上げた彼女は、屹然とした表情で言った。
「壬のものでなくても構いません、前年までの証文を手に入れる術はありませんか」
「待ちなさい、なりすます気? それが明らかになったらどうするの」
「里の言うとおりだ。それに、前年までの証文だからってすんなり通るわけじゃないぞ。歳や前歴がおかしけりゃ撥ねられるし、下手すりゃ調べも避けられん。……まさか一から書き上げる気か」
 二人の言葉に、彼女は首を一度振っただけだった。
「人別改めが始まれば同じことです。坡城の証文を見せてもらえば言い回しは学べますし、私は筆には困らない」
 紅砂は一人黙っていた。壬でなくてもと言っても、彼女の容姿では壬か、東雲くらいがせいぜいだろう。静かに口を開く。
「先生、大火の後に東雲びとの集まった域があったよな」
「ん、確か東の方に……っておい、お前」
 彼をひたと見つめる暁の目だけが、薄暗い部屋の中でぎらりと異様な光を放つようだった。