織楽が片桐の部屋にいるということは知っていた。
 外では先程の興奮がまだ醒めず、浮足立った人の声がそこかしこに溢れている。だがそれも二階へ上がり、廊下の突き当たりを曲がって板戸の前に立ったときには、まるで遠いどこかの出来事のように感じていた。
 板戸を引くと階段が現れる。一階と二階を繋ぐものとは比べ物にならないほど幅が狭く、一段一段も高い。何より暗い。そのうえ黴臭い。
 果枝は顔をしかめて顔の前を扇いたが、舞い踊る埃と黴の臭いには太刀打ちできないことを悟ると、諦めて階段を上った。
 ろくに掃除もしていないのだろう、足の裏が足袋ごしでもざらざらとして気持ち悪い。上ったところには梁がむき出しの低い天井と、その割に広々とした板間が一望できた。一応足の裏を払って板張りを踏む。ざらり。こちらもか。
「片桐。さっきのはお前にしたらようやったやん」
 声は衝立の向こうから聞こえた。むしろしっかり衝立を持ち込んで自分の塒を確保している要領の良さに、果枝は目を瞠った。らしいといえばらしい。
「片桐……」
 返事が無いのを不審に思った織楽が衝立から顔を覗かせて、彼女と目が合うと、きまり悪そうに頭を掻いた。
「……おかしい思たわ、足音が静かすぎて」
「奥ゆかしかったでしょう」
 いつか片桐自ら口にした言葉だった。織楽は片方の口を歪めて笑う。
 衝立の向こうには蒲団から着替え、机に正本、その他紐や鏡、盥、何やら分厚い本まで束で置かれていた。間借りしている身でさえ、彼は頓着せず居心地の良いように作り変えるのだ。
「あ、ちょぉ待ち」
 果枝が彼の前に座ろうとすると、織楽は蒲団の下から座布団を引っ張り出して、まず窓の傍で思い切り叩いてから自分の前に置いた。もうもうと空に溶けていった埃を思い、控えめに腰掛ける。
 憎らしいのは、こんな薄暗く湿った、日陰を体現したような部屋に棲みながら、彼の髪には埃一つ付いていないことだ。織楽も円座に座り直して、ようやく二人は向かい合う。
 果枝は織楽の顔をしげしげと眺めた。これほど陰気なところで暮らしていても、身だしなみに乱れは見られない。手入れの怠りも、髭のそり残しすら無い。化粧さえ施せば今すぐにでも舞台に上がれそうだ。唯一変わったことといえば、短く整えられていた眉が伸びて自前の眉尻が現れていることくらいだ。
「あの、久しぶり」
 棒読みの台詞には訛りすら無かった。
「ついさっき会いましたよね。部屋に飛び込んでこられて」
「え、ああ、うん。見てた?」
「見てた、って何ですか。私のこと首が痛くなるくらい揺さぶりましたよね」
 織楽は首肯して顔を歪ませた。
「あれは恰好つかんかったわな」
 きっとそれは、彼が部屋を出た後のことだった。果枝は思い出す。吹喜座の花形役者に対して彼がつけた軽率な言い掛かりと、まるで昔からの知り合いであるような応酬、そしてそれをたちまち止めた女。
「知ってる人だったんですね。だから一緒の舞台に立つのも嫌がったんですよね。織楽さんは元々吹喜座にいたんですか」
 織楽はまるで子供のようにそっぽを向いて答えない。
 それでも感情は様々に揺れ動いているようで、所々に視線を移し、何度か眉を寄せて、果枝が焦れそうになったところで、しかめっ面のまま頭をぐしゃぐしゃと掻き毟った。
「そうや。あいつは後から入ってきた。あいつが入って最初の年越しのときに、女や思われて襲われかけて、その上あいつの金盗んだて言い掛かりつけられて追い出された。どっちが悪いか座長かて分かってたはずやのに、手っ取り早いほう選ばれた」
 吐き捨てるような言葉の数々が、果枝の体にぶつかってそこらじゅうに転がる。「あいつ」が誰かさえ言わず、それは喧嘩した子供が泣きながら事情を話すさまに似ていた。
「けど喧嘩売りたかったわけとちゃうんや。お互いいがみ合うて分かり切ってた。顔合わさんだらそれで良かった。……同じ役者や言うても向こうははるばる足運んでもろた側や、花持たせなあかん。そやし俺が引いたんや。このまま何も無く済んでくれる思たのに、あんな騒ぎ……果枝まで」
 織楽は顔を覆っていた手を外す。縋るような目が果枝を射抜く。
「私は、無事ですよ」
 伏せ目がちに頷いて、織楽はまた視線を外した。
「あの子は果枝と同じ組やったな」
「はい。落ち着いてはいますけど、次の稽古は暇を貰うかもって」
「そうか。……可哀想に」
 こんなに気持ちに余裕の無い彼を見るのは初めてだった。聞きたいことは山ほどあったのに、今それをしたら彼を責め立てるように感じ、ぐっと堪える。
 間を持たせるように、果枝は傍らの本に手を伸ばした。見るからにぼろぼろで触れることさえ気を遣う。織楽に目で問い、目で答えを得て開いた。
 正本ではなかった。
「これ、御伽噺ですか」
 ぱらぱらとめくると、頁の半分を占める絵が展開して話の筋が読めてくる。兄弟らしき三人の男が雲を薙ぎ払い、龍を従えて豊かなる国をつくり、祖として民に崇められ、長くその国を治めた。男たちが桁外れに大きく描かれているところを見ても、よくある建国神話というやつだ。
 次に手に取ったのも同じく絵が見開きの真中をでかでかと占め、端々に字が散らばっている程度のものだった。こちらに出てくるのは西へ旅を続ける二人の兄弟だ。行く手を阻むは西の沼に棲む大蛇。大蛇は何を象徴したものか、弓でも槍でも石礫でも仕留められず、彼らを脅かし続ける。蛇を挟み撃ちにしようと二手に分かれたところで話は唐突に終わった。
 どこか聞き覚えのある話だ。しばらく頭の中でもやを転がし、はっと思い付く。
「これって祭りのときの芝居ですか。ツクモの」
「下敷きにはされとんにゃろね」
「ちゃんと元になる話があったんですね。そういえば言葉遣いが妙に古めかしいかな。知りませんでした」
 奥に積まれた本は分厚く、比較的新しいもののようだ。手を伸ばして開いた果枝だが少しめくってすぐ閉じた。字ばかりだ。
 織楽は笑って紙の束の中から一枚を探し出す。彼が書き付けたもののようだ。
「えーと、それは東雲公紀。史書やし小難しいだけでおもろないで、俺もなかなか読めへん。そっちの二冊が壬の新しいのと古いので、新しいほうがまだ読み解きやすい。そんでそっちは」
「読みません」
 うっかり手にしてしまった字の塊を丁重に返して果枝は短く息を吐いた。悔しさが声に滲んだ。
「この半年弱は、私が思うより満ち足りた暮らしだったんですね。そこらじゃ売ってないような本まで買って、謹慎してたわけでもないですもん。自由に出歩いて、好きなものを並べて好きなように過ごして、ちょっと長めの暇乞いじゃないですか」
「満ち足りた?」
 果枝は顔を上げた。柔和な笑みの中で、彼の目だけが拗ねたように悲しげだった。ずるい。この表情は、ずるい。
「果枝が足りひんやん」
「ひ、人を味付けみたいに言わないでください」
「味付けて」
 今度は目まで崩して笑う。ずるい。目を離せなくなりそうだったので、無理やり顔を背けた。
「弁解さしてや。あんとき果枝がどっから聞いてたか分からんけど、あれは俺のしたかった話とちゃうで。針葉、はあの怖ーい兄ちゃんやけどな、あいつがどこで何吹き込まれたか知らんけど、最初っから俺のこと煽る気やったやろ。そんで……後は知ってのとおりの売り言葉に買い言葉。俺ももうちょい落ち着けたら良かったな」
「私がすんなり信じると思うんですか」
「信じられんかっても同じ話しかできひんよ。ありがちな作り話で引き下がるほど、果枝は易い女とちゃうやろ」
 もう一度真正面から見つめた彼は、いつになく真剣な顔で果枝を真っ直ぐに見つめ返した。
「……あの男の人を呼んでしたかった話って何ですか」
「ごめんな。言えへん」
 きっぱりと言い放つ彼が憎らしくてたまらない。引っぱたいて出て行けたら胸もすくのだろうが、それが自分にできるとは到底思えなかった。彼女の手は今も膝の上に指を揃えて行儀よく並んでいる。
「捨てられてもしゃあないけど、これだけは分かってな。この半年間、誰よりも一番恋しかったんは果枝や」
 織楽は伏せていた目を閉じる。
 果枝は咄嗟に平手を振り上げる。
 穏やかな顔、女のもののように滑らかな頬、その寸前で手は止まった。
 震える拳を握り締め、唇を噛んで、腕を伸ばし、彼の頭を抱き寄せた。ふわりと埃が舞う。
 ふざけるな、勝手に浸るな、自分だけが一途だったような物言いをするな。
 納得なんてしようがない、この半年のことは丸ごと呑み込むしかないのだ。どんなに熱くても噎せても彼の隣を選ぶのなら。
 これ以上責めずにいてやろう。だって、いつも気取った彼のこんな情けない姿を、他の誰が知っているというのだ。
 世話好きで好奇心ばかり強くて何にでも首を突っ込みたがるくせに、肝心なところで脆く、頼りなく、寄りかかる幹を探している。彼の隣にいる限りこの先も苦労が絶えないのだろうと、彼の手が背に回されるのを感じながら、諦めたように思った。



「あの、すんません」
 がた、と戸の揺れる音とともに低い女の声が聞こえた。土間にいた暁が、ウスアカザの泥を洗う手を止めて膝を伸ばした。赤く染まった手を振って水気を飛ばし、細く戸を開けると、そこに立っていたのは彼女よりいくつか年嵩に見える女だった。
 真黒い髪を後ろで引っ詰めた姿は里に通じるものがあったが、穏やかさが段違いだ。派手な顔立ちではないが、何か押し籠めたような強い眼差しに目を引き付けられた。彼女は暁に合わせてかすかに身を屈めた。
「こちらは斎木先生のお宅ですか」
「斎木、は、あの、お待ちください」
 女をそこに残して、暁はくるりと家の奥を向いた。庭で摘んだ草を笊いっぱい抱えた黄月が、ちょうど戻ってきたところだった。
「先生にお客さん」
 黄月は女を一瞥して、
「隣と間違えたんだろう。まともな女が先生を訪ねてくるか。少しは考えろ」
「確かに斎木先生って言われたんだ。さっさと出て」
 折悪しく睦月が泣き出して暁が草履を脱いでしまったので、黄月は笊を置いて土間に下りた。狭い斎木宅には泣き声が響き渡り、やむなく戸を背にして、所在無さげに立ち尽くしていた女を見下ろす。
 少々顔色が悪いように見えるが、これといって苦しんでいる様子も見えない。
「斎木先生ですか? えらいお若ぁ見えますね」
「生憎斎木は出ています。簡単な薬くらいなら出せますが」
「具合はどうもないんですけど……じゃあ息子さんでもええから教えて、織楽はここに居てるんやないんですか」
 黄月が眉をぴくりと動かす。
「あ、織楽てそこの芝居小屋の。……あれ、ちゃうの、斎木先生が身元引受人やて聞いてんけど。どないしょ、この辺で斎木先生て他にいはります」
 黄月は後ろ手に戸を閉めた。赤子の声が心持ち小さくなる。改めて見下ろした女の、若いわりに疲れて見える口元の、ほくろがやけに目についた。
「あんた、亰の……」
 女が、少し眉をひそめて黄月を見た。
「ここの斎木は間違いなく身元引受人です。ですが織楽はここにはいません」
 女の視線が落ちる前に黄月は言葉を繋いだ。
「それより少し話したいことが」
「初めて会うた女に話て何ですのん」
 戸惑ったように笑う女に、黄月は愛想笑い一つせず答えた。
「織楽の姉と話してみたいと、ずっと思っていました」
 女が浅く息を吸った。吐く息に混じって、誰、と呟く。
「六年前に亰で、織楽を拾いました」

 斎木の家のある入り組んだ細道から出たところで、季春座とは逆の方向に爪先を向けて女は立ち止まった。
「亰へ帰るまで日ぃ無いし、どうせなら役者が行かへんようなとこ適当に歩かせて」
 それならと、黄月が先導してそのまま西へ歩いた。昼を取り損ねたことに腹の疼きで気付いて、道中餅を二つ買う。一つを差し出すと、女は何か考えるようにして伸ばしかけた手を止めた。
「姉て、織楽がそう言うたん。うちのこと」
「いえ。自分を家に置いてくれた化粧師の子、と言っていたと思います。年上のような口振りだったので勝手に姉と解しましたが、違いましたか」
「そやないの。あの子がそんなん言うはずない思て。どんだけ言うても、うちのお父ちゃんのことはおっちゃんとしか呼ばへんかった。舞台に立つ前から一緒に育ったくせに……いっつも線引きは忘れんかった。そういう子やの」
 何やら眉を寄せて感傷に浸っているふうだったので、邪魔しないようその場に放って土手に腰掛け、片方の餅にかぶりつく。ふと振り向くと女が恨めしい目で黄月を見ていたのでもう片方を渡した。
 女も黄月の隣に座る。二人とも、対岸に並ぶ桜のぼんやりと赤く染まった枝々に視線を合わせ、互いを見もしなかった。
 隣の女が餅に口をつけた後で「あかん、坡城の銭持ってきてへんわ」と呟いたので、首を横に振って返す。半分まで食べ進めたところで「客やないねんし丁寧にせんでええよ」と呟いたので、首を縦に振って返す。さらに、あとひと口というところでまた口の開く気配。
「食べるか話すかどちらかにしてくれ」
「いや、うちは構へんけど、息子さん、家の番してたんちゃうの。話したい言うて来たのに、こんなのんびりしとってええの」
「まず俺は斎木の息子じゃない」
「そしたらなんで……ああ、婿いうことか。尚更あかんやん、後継げへんなるで」
 顔を引きつらせた黄月が言葉を止めた隙に、女は最後のひと口を放り込む。
「つまりあんたは、俺とあいつが夫婦ものに見えたって言うのか? 冗談でもやめてくれ。まるで好みじゃない」
 女は目を丸くして何か言ったが、咀嚼しながらだったので聞き取れなかった。口元を隠して全て飲み込んだかと思うと、彼女は無遠慮に黄月の顔を眺め、小首を傾げて笑った。
「あの子のことは好みやった?」
 それが織楽を指した問いだというのはすぐに知れた。
「まだ声変わりもしてへんかって、娘にしか見えへんかったやろ。……季春入りした日に初めて成長したあの子を見てん。ここにいてることも、生きてることも知らんかったし、心臓止まるか思たわ。声も名ぁも変わってたし。……今も顔立ちは整うてるけど、やっぱり男やわな。面影はあんのに別もん見てるみたい」
 返答を求める様子は無かったので黙っていると、「なあ」と再び彼女の方から声を掛けてきた。
「あの子を拾ったんて、いつ」
「六年前の正月だ。一年で一番めでたい日の夜に、あいつは捨てられて何も持たず町をうろついてたんだ」
 それくらい覚えておけと、言葉に棘が混ざったのは事実だった。お前たちが捨てたのだろうと。
「元日……よね。そやね。寒い日やったね。ほんま……体の芯まで凍える夜やった」
 黄月は思わず彼女を見た。柄にもなくうろたえた。彼女は目頭に涙を溜め、眉を歪ませて今にも泣き出しそうな顔だった。取り繕う安易な言葉が頭に浮かび、ぐっと呑み込む。だから、彼女が唇を震わせながら漏らした言葉は、彼の目を見開かせるのに十分だった。
「あの子は、凍えて夜明かさんで良かってんね。あんたが、そうなる前に救ってくれてんやね」
 黄月は立ち上がった。振り向かずに橋へと歩き出す。
 女も慌てて尻を払い、後に続く。
 橋を渡りきった彼が唐突に立ち止まって、肩越しに彼女へ吐き捨てた。
「あんたは、生きてたあいつの手前、心配してたふりをしてるだけじゃないか」
 反駁は無く、女はじっと黄月を見つめて立ち尽くしていた。おもむろに、たわわに蕾のついた枝を見上げる。その向こうの空には傾きかけた日が。
「ええのよ、それでも。何言うても同じことやもの。うちにあの子は救えんかった」
 黄月は視線を緩めなかった。女は穏やかなままだった。疲れて見える口元にも笑みがあった。
「何も信じんといて。……まさかあのまま出て行く思わんかったんよ。いくら思い切る言うても荷の一つや二つ取りに戻るやろ。まさかほんまに、身一つで出て行く思わんやろ。うちに何の断りもなく、潔白の一つも訴えんと……そこまで線引きされてる思わんやろ。得意先かて橋の下かて花街かて、人売りの巣かて走り回ったけど、行き倒れの顔かて毎日見たけど、どうにもならんかってんよ」
 彼女は笑みを浮かべたまま、黄月の脇をすり抜けて桜の木の中を歩いた。花見をするにはまだ早く、人通りはまばらだった。
「でも全部嘘で、今咄嗟に考えただけかもしれん。信じたあかんよ。あの子に言うのもあかん。うちのことどう思うんも、あの子の好きにさせたったらええ」
 お互いええ大人なんやと呟く彼女は、まるで掴みどころが無くて、初めて会ったときの織楽に似ていた。肌で感じる、織楽はこの女と共に一生の一番長いときを過ごしたのだ。
「……今回織楽が亰に出向かなかったんなら、家には戻ってないから季春座のどこかで寝泊まりしてるはずだ。あいつに会って何を話すつもりだったんだ」
「もう、よう分からんわ。何も話せへんかったかも。あんたに言うて全部すっきりしてもうた気もするし。今もし会えたとしても……そやね、小洒落た名前付けたね、くらいしか思い付かへんかな。衣に音に矛、芝居向きの名ぁやん」
 黄月はうつむいて首を振った。
「付き合わせて悪かった。それに……よく知らずに責めるようなことを言って悪かった。戻ろうか」
「悪かった思てんのやったらもうちょい付き合うてよ。家の番も要らん言うてたやん。女一人やとなかなか面白い場所にも行かれへんのやし」
 見上げた空は既に暮れかけていたが、確かにこれでは土手で安い餅を食って蕾だらけの桜を見ただけだ。黄月は湊屋の面する西の大通りまで彼女を連れて行った。
 人でごった返すここは季春座が面する東の大通りよりも規模が大きく、彼女もそれなりに店を冷やかして楽しんでいるように見えた。適当に腹を満たしつつ進む。
 東西の通りとの辻では坡城びとによる舶来市が開かれており、既に去った異国見世の名残を残していた。港で開かれていたものに比べるとこぢんまりとしていたが、海から離れたところで暮らす彼女には充分珍しいようだった。
「買いたいものがあったら立て替えておくが」
 そう提案しても彼女は首を振って歩いていく。黄月は当てもなく、花冷えの夕に赤みを失う彼女のうなじと、後れ毛を追った。
 彼女が足を止めたのは通りの端から端まで見終わったときで、もう夕餉どきも終わろうかという頃合だった。いつしか店の灯りの中心は揚屋のある南に移っていた。海を渡る灯りは、港の女が乗る舟だ。
「遅なったね」
「今気付いたのか」
「ええやないの。……な、ここらで宿てどっち。宿代だけ立て替えてくれへん」
 黄月が呆気に取られて彼女を見つめても、真顔で見返されただけだった。一体これは何だ、突拍子も無いのか図々しいのか、どちらだ。何か言おうとしたが言葉にならず、彼女を従えて歩き出す。意に反して口を噤むのはこれで何度目だろう。全く、調子が狂う。
 後ろから足音が続いた。おおきに、と小さな声も追い掛けてくる。
「今になってあの子に会おうかしたんは……いや、今まで会いに来られんかったんは、一つだけ理由があってん。あの子に後ろめたぁてな」
「後ろめたい?」
「あの子が追い出された経緯は聞いたん」
 黄月は肩越しに頷いた。濡れ衣を着せられたという話だ。
「ほんまはそんだけとちゃうんよ、その前にもう一つあってな。……暮れに誰かが芝居小屋に残っといたら年明けて客の入りが良うなるいう験担げんかつぎで、あの子と、もう一人が選ばれてん。そんで」
 自然と歩幅が狭くなった。二人は隣に並んでゆっくりと夜の道を踏んだ。黄月は前を向いたまま、時折瞬きだけをしながら彼女の話を聞いた。
「……あの子が一度だけ言うてたことや。不始末したんは金積んで呼んだばかりの役者やったし、年明けの芝居もえらい触れ込んだ後やったから、あの子を悪者にしてでも隠したかったんやと思うわ。誰も口閉ざしとったし、今はもう吹喜に残ってるもんも少ななったけど、うちはそう信じてる」
 彼女は顔を上げて笑ってみせた。もはやお馴染みの表情だ。目には心の内を押し籠めたまま、嘘の笑みを吐き続けて疲れた口元を堅く結んで。
「その役者はな、今は亰では知らんもんおらんくらいの人気で、今回の芝居でも花形務めてん。座長は賭けに勝ったわけや。大勝ちや」そして同じ笑みを浮かべて、「うちはそいつのいろや」
「……どうして」
「言うたらうちのことも救ってくれるん」
 闇の中で視線がかち合う、彼女は逃げるように目を伏せる。笑った形のまま固まった口元には、ほくろが、歩調に合わせて揺れていた。
「何でやったかな。嫌なことはみな忘れてしもた。……なあ、お願い、亰に戻るまでの間でええから……あいつの隣で寝たないの」
 彼女はその場に立ち止まり、両手で顔を覆った。掌に隠される直前、顔に張り付いていた笑みが崩れたように見えた。
 それで時間稼ぎをしていたのかと、黄月も足を止めて彼女の旋毛つむじを見下ろす。彼女が黄月に付き合えと言い出したのは、織楽が季春座に寝泊まりしていることを知った後だった。
「あんたもつくづく運の無い女だな」
 彼女が顔を覆う手を外したとき、既にその口元には穏やかな笑みが漂っていた。
「んなこと、言われんでも重々承知や」
「そうじゃない」黄月は細い路地を抜けて、提灯が二つ下がる小さな宿へと足を進めた。「あんたのことは、割と好みだ」
 彼女が声を出して笑うのを、そのとき初めて聞いた。
「そら厄介やな。こんな阿呆、坡城でなかなか見付からんやろ」
 互いの名を知らなかったことは、狭い部屋の畳の上で、灯りを落とした後に気付いた。



 左の眉を触る癖がついた。
 ひきつれはほとんど消えたものの、傷痕は浅く盛り上がり、そこだけ皮膚がつるりと滑らかなままだ。
「兄貴、あんまりいじると痕が残るぜぇ」
 隣を歩く男が芯の無い声で針葉の指を止めた。既に暗がりに溶けた山裾の道を、枯れた枝葉を踏みながら二人は歩いていた。
「消えやしねえよ。お前、女みたいなこと気にしやがんだな」
「そりゃ兄貴、堅い考えってもんでよ。今どき、他がまるっきり同じなら女だって色男選ぶもんだぜ。見てみろよ、芝居小屋だって女が群がるのはなよっとしたお綺麗なのばっかりでよ、寡黙に見えて実は情に厚い、燻し銀の男ん中の男なんぞ見向きもしねえ。せめてあの一握りくらい俺に群がっても良いと思うだろ」
「お前がいつ燻し銀の何とやらになった」
 声にお似合いの軽薄な顔つきでぺちゃくちゃと喋るこの男は、見た目の割には根性の据わったところがあり、傷を負った針葉を背負って国境をすり抜け坡城の間地まで走ったのも、共に行動する彼だった。今思えば最悪な年の迎え方だが、当時はそれすら気がつかなかった。暦の無いところで彼らは生きていた。
「今日は久っしぶりの町なんだしさ、ぱーっと遊ぶよな、な、兄貴」
「風呂には入りたいな」
「よし湯女だな」
 張り切りすぎだろと呆れては見せるものの、それ以上に口を挟みはしなかった。
 二人が今日無事に送り届けたのは、津山の分家筋にあたる四十過ぎの男だった。
 壬の西部で蔵役を担っていた津山家は大火による被害が少なく、中西部で行われている壬の割譲談義においても切実さに欠けていた。どうにか壬の地、壬の名を残そうと粘り強く交渉を重ねる菅谷や豊川とは対照的に、壬の名に思い入れなど無く、早く切り分けられて落ち着きたいと言わんばかりだった。むしろ壬を切り分ける周辺国の立ち位置で物事を見ていたようでもある。
 津山家の者は頭数ばかり多くて、まるで役立たずの者も目立ち、彼はその筆頭だろうと思われた。
 入れ替わり立ち替わり現れて多くなりすぎた補佐役がまとめて帰路につく中、一人だけ別の護り手が欲しいと言い出し、いざ発ったと思えば津ヶ浜に寄りたいとごねて、とうとう経路の変更を強いられた。
「津ヶ浜ができたのってもう百年も昔のことだけど、率いたのは僕ら津山家の当主の弟君だったんだ。凄いだろ。凄いよね、一つ国を作っちゃうなんて。浜びとって蔑まれて辛い思いをしてた人たちを救ったんだ。なかなかできないよね。ま、そのせいで津山は今まで憂き目に遭ったんだけどね。でも最後に笑うのは持てる者だよ。君たち分かる、蔵役は壬なんて形が無くなろうとも痛くも痒くもないんだよ。あ、違うかな、ちょこっとだけ痒いかな、この辺が。ふふ。僕ら津山は津ヶ浜に名を刻んでるからね、他の四家とは違うんだよ」
 男はねちっこい声で、聞いてもいない内部事情を話し続けた。
「どうせ分割されちゃうなら西と統合がいいなあ、島々との交易を一手に引き受けてるから、なかなか豊かなんだよね、津ヶ浜って。女の人も綺麗だし。それに建国の父の血筋が帰還なんて絵になるよ。地理からして、菅谷は上松と同じように飛鳥だろうし、江田は東雲ごと坡城かな。豊川はねえ、本家筋が何かと理由をつけて一度も出てこなかったから、実は死んでるんじゃないかって僕は睨んでるんだ。ふふ、そうなったらお取り潰しだね。あそこは、ふふ、あの気持ち悪い風習のせいで分家筋がほとんど無いからね。ただの殺し屋血筋のくせして大きい顔してきた罰だよね。ああ、それにしても滑稽だった。君たち聞いた、あの豊川家補佐の若造の縋り声。いい気味だったよねえ……」
 耳にしただけで頭が沸き立つような話を終始聞かされ、無駄に日数を費やしたせいで路銀も突きかけ、たまに我儘に付き合わされるという、無性に疲れる旅路だった。
 怪我の治りきらぬ体には無理のない役目だったものの、もう懲り懲りだ。最終的な実入りは多かったが到底割に合わない。
 あの声が耳に蘇りそうになり首を振った。
 去年のように、始末しろとだけ指令を受けるほうがよほど性に合っている。今あの津山家の男を始末しろと言われれば、喜び勇んで来た道を戻るだろう。まずはあのよく動く舌からだ。
 山を抜けて徐々に増える灯りは、ここが壬であることを忘れたようだった。津山家の者たちの悲壮感の無さも然ればこそだ。
「ナツ、俺が斬られたときのこと覚えてるか」
「もちろん」
「奴は浜びとだと思うか」
 星の出た夜をちらと睨み、彼は首を傾げた。
「あのとき報復してくるんなら津ヶ浜だろうけど、そうは思えなかったんだよなぁ。俺はほとんど手合わせもできず終いだったから、何がってのは言いにくいんだけど……」
「山に慣れ過ぎてる」
「そうそれだ! 動きにもたつきが無さすぎた。あんな真っ暗闇の、しかも足場の悪い中でよ」
 針葉は頷く。津ヶ浜は平地と海と島ばかりの国だから、舟上での戦いに長けた海賊よけの手練ならいくつもの豪商が飼っていると聞くし、調達するのも容易いだろう。だがあれは何だったのだ。
 夜の山深くを駆けていた二人に、奴は音もなく忍び寄り、針葉が刀を抜く前に斬りかかってきた。躊躇いは微塵も感じられなかった。
「近くに散らばってた連中も急襲受けたらしいぜ。どいつもこいつも崖とか急斜面とか、まともに戦える場所じゃないのにだ。相手はどう少なく見積もっても十人はいる。んで誰ひとりとして捕まってない」
「俺が戻るまではどうだ」
「いんや、あの一度っきりだ」
 すれ違う人々を眺めながら針葉は思う、まるで使い勝手を試したようだと。
「俺だって今まで色々渡ってきたけど、あんな滅茶苦茶なくせに緻密なのは初めてだ。津ヶ浜で育ったらああはならねえよ」
「別の国と通じてるってことか。面白い、どこと」
「お、俺に訊くなよなあ。国がどうしたこうしたなんて腹いっぱいなんだよ、俺は」
 道中あれだけ聞かされていれば、彼の反応も頷けた。思わず噴き出す。
「俺もだよ」
「だろ? どこが栄えようが滅びようが、今日明日の飯が食えりゃいいんだよ。俺は国なんかより人に付くね。それより兄貴、ほら。お待ちかねだ」
 彼が指した先には、港通りに似た光景が広がっていた。所変われば品変わると言うが、花街だけはどこの領地に行っても似た匂いがする。夜の中にぽっかりと浮かぶ仮初めの昏い灯り。
「国境だと色んなのが揃ってていいよな。ずっと昔に江田領で抱いたのなんか、肌がほんっとにきめ細かくてよ。まあ東雲の出だったから顔立ちは珍しかったけど、あれは掘り出しもんだったなあ」
 針葉は足を止めた。視線の先には旅籠屋が一つ、しかしその戸は開いており、暖簾の向こうには見るからに壬びとの容貌を持つ女が一人、正座して道行く者を目で追っていた。幼さの残る唇に紅を差し、薄い色の瞳には憂いを浮かべて、ふと彼女の目が針葉を捉える。
「兄貴は案外ああいう大人しそうなのが好みかい」
 はっと目をそらすと、にやにや笑う緩んだ口元が間近にあった。押し退けて先を歩く。
「色気の欠片もねぇ飯盛りがいたもんだ」
「言えてら」
 結局彼らがくぐったのは湯屋の暖簾で、針葉が選んだのは、触り心地の良い、旅籠にいたのとはまるで逆の女だった。