針葉は月末のある朝、突然姿を消した。前日に急ぎ帰った斎木が目を離した隙のことだった。斎木の話では、前の晩にどうにか熱が下がったところだったという。 暁の 紅花も駆けつける中、痛みは波が寄せては引くようにして夜通し続き、小さな産声が上がったのは明け方だった。 ……頼りない声。不規則に聞こえる、精一杯の声。時に止んではまた思い出したように始まる。 暁は朦朧とした頭のどこかでそれを聞いた。薄ぼんやりと目に入る天井板。水の落ちる涼やかな音。斎木の鼾と、里がそれを追い払う声。 「ご苦労さん」 聞き慣れた声がして暁は頭を左に傾けた。そこには紅花と、視界の端には衣、その中に見慣れぬ小さな頭が一つあった。何なのか見極めようと目を凝らすが、目の前に手拭いが差し出されて見えなくなった。 汗ばんだ額は、拭ったところからすっと抜けるように熱が引いていく。 「あんた、すっごい力だったわよ。跡ついちゃった」 紅花の手首には赤い手形がくっきりと残っていた。いくつもの爪型が一緒に並んでいる。 「それ……私が?」 「じゃなきゃ誰なのよ。ほらこっちも。訳分かんないこと口走るし、全く」 「産のときは誰だってそんなものよ。あんまりからかいなさんな、いずれ自分に返ってくるわよ」 里に窘められた紅花は慌てて口を噤んだ。 紅花の額も汗で濡れている。夜じゅう暁の腰をさすり続けてくれたのは彼女なのだ。腰の骨が全て砕け散るような痛みに耐えられたのも、彼女が添うて声を掛け続けてくれたからだった。 小さく礼を言うと紅花は表情を和らげた。彼女の視線を追ったところにあるのは先程の見慣れぬ頭だ。もぞもぞと衣が動いている。 「男の子。元気よ」 そっと衣ごと抱えて暁の顔の傍に横たえたそれは、小さな、とても小さな生き物だった。 見える肌の全てが赤い。 掌に収まるほどの頭には濡れた細い髪が張り付き、凹凸の少ない顔には小さな鼻、はち切れんばかりの頬、むくんで腫れぼったい瞼と涎でつやつやした唇が付いている。小さな手は顔の脇に投げ出され、か細い指の先には、嘘のように小さな爪がきちんと並んでいた。 生きている。 胸を衝いたのは、何故か爪を見たときだった。こんなに小さくて右も左も分からない、人にも見えないような生き物は、指の先まで十全て、一つの手抜きもなく作られ産まれてきた。 じわりと暁の視界が滲んだ。なんと涙もろいのか。気が昂っているのかもしれない。 「……洗い物してくるから、何かあったら呼んで」 気を遣ったのか、紅花が腰を上げて盥を運んでいった。 暁はしばらく、ほんの小さな手足を忙しく動かして宙を掻いている「何やら尊いもの」を見つめていた。吾子とは思えずにいた。 胸の奥の方から温かさが満ちて、体じゅうに広がっていった。それは何度も何度も、どこかから滴り落ちて肌に染み込んでいった。ほのかな温もりを行き渡らせるように、何度か瞬く。 唐突に音が無くなったように感じた。斎木の寝息も聞こえる、水音も聞こえる、風の音も聞こえる、なのに全てが遠かった。暁は視線を巡らせて汚れた天井を眺める。そこに射す光、もう日は昇ったか。 ふと気付いた。幸せに満たされていた胸の中に一つの 熱が急速に引くようだった。 ああ、幸せだ。 この幸せなときを、共に迎えたかった。 小さな生き物のつややかな頬に触れてみる。指先に伝わるしっとりと柔らかな温かさ。 寒い。 こんな温かなものが今まで誰よりも近くにいたから、離れてしまっては寒くて仕方ない。隣では遠すぎるのだ。 寒い寒い。 天井に射す穏やかな冬の日。 それを滲ませたのは、きっと先程とは違う涙だった。 「そうそうしてたら日も沈みそうになったから季春を出ようとしたわけ。そしたら追ってくる足音があってさ、振り向いてびっくり、誰だったと思う。なんとこれが」 赤子がほやぁと泣き出して、紅花の話が中断した。 「……っと。お乳? おむつかな」 暁は赤子の体に鼻を近付け、抱き上げて自分の着物の身八つ口を開けた。泣きじゃくり腕を振り回していた赤子も、吸い寄せられるようにそちらに顔を向けた。 紅花はそれを黙って見守る。暁は赤子の体を胸に押し付けるようにして抱き直し、 「もうすっかり慣れたもんね」 「この前の吐き戻しは驚いたけどね。口から鼻からごぼって。もう心臓が止まるかと」 「あのときのお爺ちゃんの言葉覚えてる? ほんと酷いったら」 軽やかな笑い声が斎木の家を吹き抜ける。赤子のことが明らかになったときにはひと悶着あったものの、いざ産まれてみれば、紅花はこの小さな生き物の面倒を焼きたがって毎日のように通って来ていた。斎木が外に出る日など、彼より長く家にいるほどだ。 「ね、その子……あ」 言葉を止めた紅花に暁が首を傾げる。 「その子、名付けはどうするの。七日目なんてとうに過ぎたわよ」 「名付け……」 「いつまでもその子呼ばわりじゃ可哀想でしょうよ」 暁は目を瞬かせて寝入った子を見つめる。 「私が……付けるのか」 「あんたが産んだんでしょ。それともお爺ちゃんにでも頼む?」 「あ、違う、違うの、そうじゃなくて」 今まで出会った全ての人にはあらかじめ名があった。見た目や立ち居振る舞いに釣り合った、顔を思い出せば名が浮かぶ、名を呟けば顔が浮かぶ、そんな呼び名が。山を見て山と思う、川を見て川と呼ぶ、ごく自然なことだ。 だがよく考えてみれば、名というのは全て後から付けられたものなのだ。当たり前のことに今更思い至る。この子にはまだ名が無かった。 「……困ったな」 産み落とすだけでもひと苦労だったが、更にこんな大役が回って来るとは思わなかった。 「紅花の名は誰がどうやって付けたの」 「あたし? 知らない、父ちゃかな。本当は咲く花じゃなくて、別の意味があるって聞いた気がするけど」 「別の意味ってどんな?」 「だから知らないってば。紅砂も確か同じで、だから砂なんて妙な字当ててんのよ。まあその程度のもんよね」 暁は困り顔で赤子の頬を撫でる。 「決まらないんなら太郎になさいよ。その次は次郎でその次が三郎、覚えやすくていいじゃない」 唾を呑み込む。紅花に気付かれないように。 それは駄目だ。 次、が有り得るとも知れないのに。 「嫌なの? じゃあ長助はどうよ、長男の長。これ実は去年の顔見世で本川さんが演じた役の名でね、その役っていうのが」 「あ、あの、本川さんと言えば何の話だっけ、ほら季春の」 「ああ……うん、ここだけの話さぁ」 わざとらしい話題替えに頓着することもなく、二人と赤子しかいない家で、紅花は口に手を当て声をひそめた。 「いたのよ織楽、季春座に」 その唇が閉じてから暁は口を開く。 「だって今回の芝居には出てないんじゃなかったの。亰へ行ったんじゃ」 「あたしもそう思ってたわよ。看板だって上がってないし、絵も売ってなかったし、実際芝居にも出てなかったし」 そして紅花が語り出したのは千秋楽の日のことだった。 その日も紅花は升席の中にいた。同じ芝居を三度見たことになる。 最終公演ともあって役者にも客にも熱が入り、そこだけ坡城の街から切り離されたようだった。興奮冷めやらぬまま無事に幕は下り、ぞろぞろと去る人波を途中で外れて、紅花は仲良くしている役者を労いに駆けた。 役者ばかりのところに真正面から行くのは気が引ける、半分が遠く亰から来た役者だとすれば尚更だ。しかもそのとき紅花は織楽が亰へ行ったものと信じていた。だから彼女は角を曲がって井戸近くをうろつき、知った顔が来るのを待った。 「……双葉ちゃん、双葉ちゃん」 「え、あ……花ちゃん!」 しばらくして姿を見せたのは、運の良いことに紅花と親しい下の組の役者の少女だった。広がった襟から覗くわずかな肌色は白粉とくっきり分かれ、幼さと生活臭、更に言うなら役者としての迂闊さを象徴していた。駆け寄ってくる双葉に紅花も手を振って近付く。 「今までお疲れ様ぁ。とうとう終わっちゃったね」 「ありがと! 今日も見に来てくれたんだ、嬉しい。どうだった」 「そんなの決まってんじゃない、今日は今までで一番良かった。いっちばんよ。もー、思い返すだけで涙が止まんないわよ」 「花ちゃんったら本当に泣いちゃってるじゃない」 双葉は役者仲間に呼ばれて一度その場を去ったものの、間もなく化粧を落とした姿で戻って紅花を打ち上げに誘った。 さすがに一度は遠慮した紅花だったが、季春の下の組の役者、その中でも双葉たち馴染みの深い者の集まりと聞いて、日暮れまでならと末座を汚すことにしたのだった。 打ち上げは一階の部屋一つを使って既に始まっていた。他の部屋でも内輪の宴が行われているようだった。双葉たちの部屋は一目で畳の数を数えられる程の小ささだったが、少女ばかり五六人が火鉢を囲むのなら充分だった。 親しいとはいえ打ち上げに誘われるのは初めてだ。紅花もそれなりに緊張しつつ幕ごとの感想を頭の中でまとめていたが、 「ちょっと、双葉遅い」 「あれ、花ちゃんだっけ。来てくれたの。どうぞ、うっすい座蒲団で良ければそこから取って座って」 「久しぶり! 良かったー、前の話の続きしたくてずっと待ってたんだから」 「今日お兄さんは?」 同年代ばかりが集まればそれどころではないらしい。年をまたぐ長丁場であった芝居から解放されたばかりの少女たちは、いち早く板張りの舞台から下りて畳の感触に浸っているようで、街で見かける少女のような年相応の表情がそこにはあった。 紅花は座蒲団を取って双葉の隣に座る。 「今日はあたしだけ。でも兄も、前に一度見に来たの。そういえばいつもの……皐月ちゃんだっけ、あの子はいないのね。亰?」 「縁もよ。あの子も亰」 「じゃあ戻ってくるまで寂しいのね。うちの奴なんて、いなくて清々するくらい」 紅花が誰のことを言ったか分からぬ者はいないはずだったが、会話の流れは止まることなく、巧妙にそこから離れた。紅花の周りにいるのは皆、下の組とはいえ役者だった。 それから部屋は稽古中の失敗話から役者の噂話、惚れたはれたの話まで大いに盛り上がった。紅花が暮れかけた日に気付いて腰を上げるまで、お喋りは止まることを知らなかった。 「えぇ、もう帰っちゃうの。これからが面白いのに」 「こら、無理に引き留めない」 「よかったら明日も来てよ。だいたい二日三日は喋りとおすの。お決まりなの」 礼をした紅花が明日は摘み物を持ってくると言うと、部屋から歓声が上がった。 縁側を歩いて下駄の在り処まで行く。空はもう赤い。いくつもの障子の内側から笑い声が響いていた。ああ、満ち足りた一日だった。今日は暁の様子を見て、明日一番で家へ戻ろう。何を作ろうか。 ふと、足音が自分を追ってくるように感じて紅花は振り向いた。双葉か誰かだろうと思っていた。 そこにいたのは、花形役者の本川その人だった。 「もっ……本川さん」 思わず声が上ずった。紅花は顔が緩むのを手で押さえて隠し、ぺこりと頭を下げた。 「今日の舞台も、本っ当に、誰よりも素敵でした! 向こうの役者に花持たせなきゃってことで、脇役だったのは残念だけど……でもあの浅葱って人よりずっとずっと良かったです! なんかもう幕が下りた後も幸せすぎて、寿命が十年延びたような、ええと、何言ってるんだろあたし、あの、とにかく」 本川は薄い色の目を丸くして紅花の熱弁を聞いていたが、ふっと笑って唇に人差し指を立てた。 「ありがとう、でも吹喜座の人もここにいるからね。もちろん浅葱さんも。気持ちだけでとても嬉しいよ」 紅花は慌てて口を噤む。憧れの人に会えて焦るあまり、彼に迷惑を掛けるところだった。 「それより、もう帰るの。双葉たちの宴では夜通し語らうみたいだけど」 「あの、その、なんというか……お手伝いに行っているところがあるので」 「どこ。もう日も暮れるし、送るよ」 「そそそそそんな、滅相もない!」 ぶんぶんと手を振る紅花に本川は思わず噴き出したが、ふと先の障子に目をやった。徳利を両手に持った男たちが二人、連れ立って部屋に入るところだった。彼はまた口元を結ぶ。 「送ろう。酒の入った奴も多い。どれだけ注意してても毎年何か起きるんだ。大事なお客さんには、最後までいい気持ちで帰ってほしいからね」 「じゃ、じゃあ間地まで……すみません、ありがとうございます!」 夢の続きを歩くようだった。紅花は長身の背を追って歩く。ああ、なんて、なんて満ち足りた一日だろう! いくつかの障子と、内側から漏れる笑い声の層を過ぎて、大通りを離れる。暗さを帯びた道のあちこちにぽっと火が灯る。季春座に近いいくつかの店でも役者が打ち上げをしているようだった。 紅花がそんなことばかり覚えているのは、そわそわどぎまぎしすぎて彼をまともに見られなかったせいだ。 だというのに、せっかく話をふってもらったと思えば、団子屋のひよが図ったかのように声をかけてくる。浬ちゃんは元気なの、あの女の子は最近顔を見ないけど……会釈だけで楚々と通り過ぎる。 間地に入ったところでは小間物屋で馴染みの客に次々呼び止められる。んまあ花ちゃん、いい男連れて。あらどこかで見た顔じゃない。あらあらまあまあ、ちょっと、お父ちゃん来てみなさいよ。いいから来なって。 まるっきり下町だ。隣から本川の笑い声が聞こえて、紅花はますます身を小さくする。 丸七屋の跡地が見える前に、紅花はぺこりと頭を下げた。 「もう、すぐそこなんで大丈夫です。あの、お疲れなのに本当にありがとうございました」 「こちらこそ、可愛いお嬢さんをお護りできて身に余る誉れにございました」 本川は芝居がかった口調で言うと、優しく目を細めた。紅花は心臓を鷲掴みにされる。 「一緒に歩くだけでも、君が日頃周りにどう接してるか分かるもんだね。これからも双葉たちと仲良くしてやって。では失礼」 紅花は悩ましげな溜息を漏らし、闇に紛れる背中をただ見つめていた。 「……え?」 暁は苦笑いを引きつらせる。 「どれだけ聞いても、この前紅花が夢見心地で来て、踊りながらこの子をあやし回した理由しか分からないんだけれど」 「ち、違うわよ次の日よ! よく聞きなさいよ」 次の日のことから話し始めてくれたらいいのに、とは思っても言わず、暁は赤子の頬をくるくると指でいじる。 掌に白い息を吐きかけながら、紅花は朝一番の青く冷える街を家へ急ぐ。 今や月の三分の一は男所帯ながら、厨はこざっぱりと片付いていた。紅花は襷を結んで鳥肌の腕をぱんと叩くと、隅の麻袋から大きめのトイモを九つ取り出し、味噌樽も開けて摘みものに取り掛かる。 「……おはよう」 欠伸をしながら現れたのは浬だった。紅花は滑りやすいトイモを器用に回しながらくるくると皮を剥く。 「おはよ。竈の火起こしてちょうだい」 浬は落ちた小枝を拾い上げて火鉢から火を移し、戻りがてら竹筒を取って竈の前にしゃがむ。再び立ち上がったときには、息を吹き続けた起き抜けの体がふらりと傾いだ。赤く火照った顔を手の甲で冷やす。 「紅花ちゃん、昨日は季春の千秋楽って言ってたっけ。楽しめた?」 「そうなのよ! 聞いて、昨日それが終わってから暁のとこ行こうとしたら、なんと本川さんが危ないからって送ってくれたのよ。あの本川さんが、あたしのためによ?」 「どの本川さん?」 「本川さん。季春座の花形役者の。やだ、知らないの? なんで?」 紅花が包丁を持ったままくるりと振り返り、浬は危ういところで身を躱す。 「で、今作ってるのは量が多いみたいだけど朝餉?」 「半分はね。もう半分は双葉ちゃんとこ持っていくから」 「双葉ちゃんてどの――ああ、いいよ、分かったから」 再び包丁を向けられそうになった浬は、渋い顔でぼそりと呟く。 「送っていこうか」 「え……ええ? なんでよ、本川さんが送ってくれたのは暗かったからだもん。要らないわよ。……それより団子屋の、何て言ったっけ、あそこのお姉ちゃんがあんたのこと気にしてたわよ。好かれてんじゃないの」 まさか張り合っているのか、紅花が本川をあまりに褒めたから。頭を過った考えが赤面もので、気付かせまいと早口で続けたのだが、浬は顔を曇らせただけだった。 「やっぱり送っていくよ」 付き添おうとする浬を何とかはね退けて、季春座へ着いたのは日が昇ってからだった。 昨日までの華やかな姿からは一転、誇り高く通りを見下ろしていた櫓は姿を消し、役者名を染め抜いた幟も寿幟も下げられている。だが木戸脇をすり抜けて進んだところにある役者長屋は何やら騒がしかった。 一つの部屋に人が集まって何やら言い合いをしているらしい。まだ酒が抜け切らないのだろうか。紅花は風呂敷包みを抱え直してこそこそと歩くが、彼女を見咎める者はなかった。 「紅花です。皆いる?」 昨日の部屋に呼び掛けると、さっと障子が開いて、そこにいたのは昨日の面々の一人だった。 「どうぞ。双葉はまだぐっすりなんだけどね。ねえちょっと、誰かその寝ぼすけ起こしてやって」 「あ、花ちゃんその包み! まさか!」 「こら双葉、起きな。起きなって。……もー、あたし無理。茱歌やってよ、あたし顔に傷がつくと困るのよ」 「やだなあ。前に引っ掻かれた右手がまだ痛くて」 「私なんか蹴られた!」 紅花は双葉から一定の距離を保ちつつ、風呂敷を解いて箱を開けた。片側には赤みがかった黄色の鮮やかな透き巻き、片側にはトイモの炙り味噌。香ばしい匂いが広がって歓声が上がり、双葉も目を閉じたままむくりと起き上がる。それを見てまた笑い声。 「ありがとう。昨日の残りで良かったらこっちも食べて」 隅に置かれていた小振りの半切りには酢締めの魚がまばらに並んでおり、大小二つを囲んで遅めの朝餉となった。 ぺちゃくちゃと言葉を挟みながら三切れ目の魚に手を伸ばし、紅花は顔を上げた。 「……ね、そういえば何かあったの。人が集まってたみたいだけど」 「え、何? どこで?」 「私も見た。そこでしょ、亰の人たちに貸してる部屋。何だろうね」 「えー何それ気になる。見てくる」 「やめときなって。あんたの分食べちゃうよ」 その時だった。縁側をどたどたと派手に踏む足音が聞こえて、部屋の障子が真中から両側に開いた。 「果枝!」 部屋の誰もがぽかんと呆気に取られ、身動きできずにいた。その中でも特に目を丸くしたのは紅花だった。声の主、織楽は肩で息をしながら、子を攫われた親のように必死な形相で部屋に踏み込む。 「おい、果枝は……」 その視線は、紅花の対角線上にいた少女の上で止まった。双葉に蹴られたと言っていた少女だ。 「……無事か」 「な、何が……」 彼は人の間を器用にすり抜け、果枝と呼ばれた少女の前にしゃがみ込むや否や、彼女の肩を激しく揺すった。 「昨日からずっとここにおったんか。何も無かったか」 「そ、そうです、そうですってば! やめてください!」 織楽は手を止めてひたと果枝を見つめる。 「お前も、他の皆もそやな?」 「この部屋の皆そうですっ。何なんですか一体」 織楽は脱力したように深く溜息を吐き、再び立ち上がった。今度は焦燥よりも憤怒を目にたぎらせて。 「何もない。ごめんな、邪魔した」 口元に形ばかりの笑みを湛え、ひらりと鮮やかに身を翻して出ていく――はずの袖を紅花が掴んだから、織楽は大きくのけぞって迷惑そうに振り向いた。 「……紅花ぁ? お前ここで何してんねん」 「こっちの台詞よ。あんた亰に行ったんじゃなかったの。なんでここにいんのよ」 何か言い掛けた口をすぐに噤んで織楽は障子を閉めた。「後で」とそれだけ言い残して。 追おうとした紅花を、双葉は反対側の階段へ誘った。二階のある場所からなら、見付かりにくいが声はよく聞こえるのだという。 化粧道具や帯が片付ききらぬ畳の上を踏んで窓の傍に寄り、そっと障子を開ける。 「せやから言うてるでしょうが、あの女がええ言うたんやて。俺ら何遍も確かめたわ、なあ」 聞こえた第一声はそれだった。そやそや、と同意が続く。人の輪に囲まれてよく見えないが、話しているのは吹喜座の者のようだ。 「あんたらと話しても埒明かんわ、あの女と話さしてぇや。ほら、隣おるんでしょ」 「それはできない。あいつがどんだけ怯えてるか分かってんのか。あんたらの前に出してまともに話せると思えない」 「何やそれ、本人おらんで話せぇ言うほうが無茶やろが。おい出てこいや。季春の女は美人局までしよるんか」 これって、と双葉が呟く。紅花も唇を噛んだ。「どれだけ注意してても毎年何か起きるんだ」、昨日の本川の声が蘇る。そのとき凛とした声が聞こえた。 「まあ落ち着いて、一度話を整理しましょう」 舞台で聞くよりよく通る本川の声が、部屋をたちどころに静まらせた。紅花は思わず拳を握る。 「あなた方は昨夕うちの役者と一緒に打ち上げを始めた、その時は男三人と女三人だった。ところがこちらの二人は夜のうちに部屋を出て、後にはあなた方と例の彼女一人が残された。そしてあなた方は彼女を誘い、彼女は頷いた」 「お、おう……そや、その通りや」 「一方、昨日のうちに部屋を出た二人はこう言っている、彼女はかなり酒を勧められていた。あまりにぐったりしているから、彼女を休ませておこうと言い出したと。あなた方がね」 何やと、と途端に相手の口調が荒くなった。 「そんなん口裏合わせよったんや」 「口裏ね、あなた方にも同じことが言えるわけだが」 「何やとぉ」 吹喜の男が本川に詰め寄ったとき、部屋の隅の徳利を煽ってみせたのは片桐だった。ぺっと吐き出すような仕草に周りが注目する。 「けっ、こいつぁ千鳥だぜ。辻の酒売りが扱ってるもんじゃねぇ。こんなもん呑ませりゃぐったりもするよな、犯そうが何しようが身動き一つ取れねぇはずだ。誘って頷いたってのも嘘っぱちだな。違うってんならお前ら、呑んでみるか」 しばらく間が空いたが亰訛りの言葉は無かった。本川が静かに言った。 「女を出せと繰り返していたが、あなた方三人のうち、誰か一人でも彼女の名を覚えているというのか」 その声が内包する怒りは、聞く者の背すじを粟立たせた。しんと静まり返る部屋。季春座の座長と吹喜座の副座長を呼びに人が走る。ともかく場は収まったかに見えた、別の声が三人に問い掛けるまでは。 「この一件に関わったんはお前らだけか」 それは織楽の声だった。は、と胡散臭そうな声。紅花の体に今までと違う緊張が走る。何を始める気だ、あいつは。 「浅葱は」 「俺が何やと」 別のところから声が上がる。外から戻ったばかりに見えるその男は、吹喜座の役者であり今回の芝居で主役を張った浅葱だった。こちらもよく通る声ではあるが、どこか棘が感じられて紅花は苦手だった。嘲りを含んだ声が続く。 「なぁんや、誰や思たら、舞台に上がりたない言うて逃げ出した三流役者やないか。今更台詞の稽古でも始めたか」 「お前んとこの役者が不始末仕出かしよって、あんまり昔のお前にそっくりやったもんでな。うっかり、手籠めの稽古でも付けとんのか思たわ」 双葉は口を押さえて目を白黒させる。接点が無かったに見える彼ら二人が、何故一触即発の事態にあるのか分からずにいるのだ。 もしや、と紅花は思う。織楽の昔の話は彼が来たばかりの頃に一度聞いたきりだった。濡れ衣を着せられて、と彼はそれしか言わなかったが、もしや彼は吹喜座にいたのか? 浅葱との間に確執があって追い出されたのか? 「……はぁ? 意味の分からんことごちゃごちゃ抜かしおって。籠ってるうちに気ぃまで触れたか」 「男襲おうとしよったどっかの誰かに、まーんま言うて聞かせたりたいなぁ、気ぃでも触れたかて」 「この糞餓鬼が……いいっ加減に黙らんと……」 突然の織楽の登場と、浅葱との応酬、そして織楽の話に、周りは半信半疑ながらもざわつき始めていた。そしてざわめきを切り裂くように。 「やめて」 低く落ち着いた女の声だった。聞き覚えのない声だ。双葉が目をぱちくりさせて身を乗り出す。 声の主は浅葱の後ろにいた。顔合わせの時に一度目にした、化粧師だという吹喜座唯一の女だった。 「今明らかにせなあかんのは昨日のことでしょう。浅葱は何も関わり無い。昨日の夜から、ずっとうちと一緒におりました」 織楽が何か呟いたようだったが声までは聞こえなかった。 織楽はそれ以上何も言わなかった。浅葱の潔白が明らかになったことより、化粧師の女を目にして打ちのめされているように見えた。 「可哀想なもんやな、捨て犬みたいな顔しとったで。お前やったら味方になってくれる思とったんやろな」 人が散った後の長屋裏で、紅花は先程の男女を見た。ざらりと毒を含んだような男の声。対する女は彼に背を向けていた。 「あんたかあの子かどっちの味方や言われたら、そらあの子や、決もてるやん。でもあんたと一緒にいたんはうちで、それはうちが一番よう知っとる。残念やけどな」 「相変わらず冷たいなぁ、夕日。皆の前であない堂々と閨の話してみせたんは誰や」 浅葱が肩にかけた手を、夕日と呼ばれた女はぱしんと叩いた。肩が震えていた。 「どんな恥やて、あの子に嘘吐けるわけないやろ。……触らんといて。あんたに……何するか分からん」 二人が会話を止めたので、紅花は双葉たちの部屋に身を滑り込ませた。火鉢の周りは先程の話題で持ち切りだったが、その中に果枝と呼ばれた彼女の姿は無かった。 「襲うだの何だの言ってたわけだから、浅葱って人が織楽にちょっかい出したんだと思うのよね。あいつが亰出てきたのって、それこそまだ声変わりするかしないかって頃でしょ。着飾って口閉じときゃ見目だけは良いもんね、あいつ。まあ、だとしてもそれがどう濡れ衣に繋がるんだか分かんないけど。それにあの女の人もなんか訳ありげに見えたのよ。だって「あの子」って呼び方はちょっと、ねえ。織楽の様子も変だったしさ。こういうのって聞いちゃっていいと思う? あー、でもあのお喋り男が今まで言わなかったって考えると聞きにくいなあ」 紅花が止めどなく話を続ける横で暁は思う。 かつて好きだった人。赤子の親は針葉だと信じているけれど、今もどこか気にしてしまう人。周りには中途半端な慈悲を垂れるくせに、彼が傍に置いたのは慈悲など要らぬように見える可憐な少女で、引き裂かれる思いをしたこともあった。 それでも、織楽が真っ先に彼女の安否を確かめに行ったと聞いて、救われたように感じたのは嘘ではない。 心がふっと軽くなり、澄んでいくようだった。 「睦月」 紅花がひと息遅れて口を閉じる。暁は赤子を抱き上げて産毛のように細い髪を撫でた。乳臭い、優しい匂い。 「この子を、私はそう呼びたい」 「睦月の生まれだからってこと? ああ、まあ良いんじゃない、分かりやすくて」 暁は頷いて、愛しきものに頬を寄せそっと目を閉じる。 この名に込めた暦の初月、転じて長子の意味を、自分だけは忘れずにいようと誓いながら。 戻 扉 進 |