人別帳に関する噂を聞いたのは間地の道場を出ようとしたときだ。睦月も半ばを過ぎたある夕のことだった。
 紅砂は西門を通って足早に進む。これほど吹きすさぶ日でも人通りはいつもと同じだ。ほとんどは冷やかしだろうが、格子の外には数えきれないほどの人がひしめいている。港通りは赤く明るく目を痛めつけた。
 ひとたび小道に入れば喧騒は止み、脇に提灯と網入りの蜻蛉玉を吊るしただけの質素な見世が並んでいた。紅砂はその中の一つを選んで戸を引く。油が勿体ないのか造りの古さを誤魔化すためか、中も灯りがぽつぽつ並ぶくらいで薄暗い。出てきた皺くちゃの女主人は汗まみれの彼に顔を引きつらせたが、気にせずいつもどおりの数だけ指を立てて示す。
「あら」
 上階から降りてきた若菜は、ぱっと顔を明るくした、ように見えた。
「嬉しい。今度は日を空けずに来てくれたのね」
 そして主人が持った線香にちらりと目をやるや紅砂に歩み寄り、彼の首にがばっと腕を回した。
「ね、ね、折角だから泊まっておゆきなさいよ」
 驚いたのは紅砂だ。ここまであからさまに媚びを受けたことは無いし、そもそも急に思い立って立ち寄っただけの身に、そこまでの持ち合わせは無い。
「待ってくれ」主人の目を気にしつつ彼女の耳元に囁く。「ほんの少し話したいだけなんだ、それに」
「いいから話を合わせなさい」
 泊まっていけと甘く誘った口が、今度は客相手とは思えない低い声で脅し付けた。
「……泊まりで」
 皺に埋もれた女主人の目がきらりと輝いた。にんまりと相好を崩した彼女に見送られ、紅砂は軋む階段を上がることになった。
 部屋に入った紅砂は襖をすぐ背にして胡坐をかいた。居心地の悪い思いが腹に渦巻いていた。
 そもそもそういう場所だというのは分かっている。どんな手を使おうが高い花代を取った者が勝ちなのだ。だが一昨年の暮れ、強引な客に絡まれていた彼女を助けて以来、彼女がしなを作って彼を誘ったことは無かった。当時の彼が彼女の見世を小料理屋だと誤解し、食べて早々帰ろうとしたのも一因かもしれないが。
 どこか裏切られた思いだった。だが彼女がそうやって生きねばならないのも事実なのだ。
 結局自分も馬鹿な期待をしていたのではないか。自分だけは他の客とは違うと。彼女もそう思ってくれていると。
「ごめんなさいね」
 若菜は窓際の脇息に体をもたせかけた。それを見ればすぐ脇の蒲団が目に入ってしまう。やむなく紅砂は顔を背けて畳の縁ばかりを睨んだ。
「銭の心配はしなくていいから」
「そういうことじゃ……っ。いや、それもあるけど……何なんだ、一体」
「びっくりした?」
 ふと視線が合う。彼女の声も顔もわざとらしく飾り立てたところは無かった。それこそ本当にどこかの小料理屋や街角で会ったようで、それは今までの若菜とどこも変わりなく、ほっとした。なのに思ってしまう、それも彼女の顔の一つではないかと。
「そうよねえ、線香ならお話だけで済んでも、泊まるとなると蒲団を使わないわけにはいかないものねえ。……ごめんね、こういう言い方は癖なの。駄目ね。あなたを待ってたのは本当なのよ、会いに来てくれてすごく嬉しい」
 そして若菜は思い付いたように立ち上がった。紅砂に返答する間も与えない。
「あなた汗まみれね。湯を持って来させるわ。背中でも流してあげられたらいいんだけど、生憎湯女じゃないから」
 またやっちゃった、これも口癖。そう呟いて彼女は姿を消し、盥と手拭いを持って現れた。
「ほらほら、そんな端っこじゃ寒いでしょ」
 紅砂を火鉢の近くに追いやり、てきぱきと上肢をはだけさせる。何となく母親に追い立てられているように感じ、ここはもう少し色気を出してくれても、と勝手なことを考えた。ちゃぷちゃぷと水の音がして、湯を含んだ温かい布が背を拭いていく。心地よさに思わず目を閉じる。
「今日は道場の帰りだったのね。ほんの少し寄るつもりって言ってたものね。無理言ってごめんなさい」
「別に、後は家に帰るだけだったけど……」
 紅砂はそう言いつつ、妹にどやされるかと思い至る。
「話って何だったの」
 時折盥の湯で洗いながら、若菜は手拭いで彼の首周りから肩を清める。
「ああ……道場の奴らが言ってたんだ、次はきっと人別改めだぞって」
「人別改め?」
「知ってるかな。最近壬びとに対する反感が高まってて、と言っても実際は生まれじゃなく見た目だけで決めてかかって、殺されたり店に火を放たれたりしてるんだ。港番は素知らぬふりだけど、その一方では人別帳の締め付けを強めて、本年元旦付け以降の他国証文による記帳を止めている」
 若菜の手が止まった。
「ちょっと待って、何の話。あたしにも分かるように言ってよ。なになに、小火が続いてるのは知ってたけど、壬がどうこうって何なのよ」
「やっぱりあんたらには伝わってないんだな。詳しい経緯は省くけど、とにかく壬びとが危ない目に遭ってることだけは知っておいてほしい。あんた、壬の出だろ」
 紅砂は首をめぐらせる。彼女の顔は存外近くにあった。ゆるやかに波打つ茶色の髪と、同じ色の目。
「ただ、それだけであんたらが狙われることはないと思ってた。今まで襲われたのは壬は壬でも悪目立ちしてた奴や、商いで成功してた奴らばかりだし、大抵は男だ。あんた含めてこういう小道でひさぐのは、言っちゃ悪いが日陰者だからな」
「でもそれが、その、人別なんとやらでは違うっていうのね」
 紅砂は頷き、指を二本立ててみせた。
「港番は今までに二つ触書を出している。一つ目は夜間の外出禁止令。二つ目はさっき言った、他国証文の受付差し止め」
 番人衆――この域では港番がそれにあたる――が管理する人別帳には、正しく坡城びととして認められた者の名が書かれている。
 新たに名を連ねるには、今まで二つの方法があった。一つが他国の正式な証文により前歴を取り調べたうえで記帳を移す方法。もう一つは正しき坡城びとに身元引受人になってもらうもので、数十数百の養子などという濫用を防ぐため、現在は原則姻戚に限られている。これは縁座制を取っており、記帳された者が間違いを犯せば引受人も罪を免れないものだった。
 このうち前者が差し止められた。昨年以前の日付であれば辛うじて滑り込めるというが、偽造は重罪であり、また東雲や壬のように国そのものが斃れてしまっては原版の入手さえも極めて困難である。
「そして三つ目として言われているのが人別改めだ。不正記帳しやすいところを締め付けたうえで、無宿者を一人ひとり洗い出していくんじゃないかってな」
 若菜は手拭いを洗って絞る。水音が緩慢に聞こえるのは、考え事をしているのだろうか。
「これが今までと違うのは、港番が行うこと。触書を盾に家の中まで洗いざらいだ。それに大火で焼け出された者にとっちゃ明らかに不利だ。そんな証文準備してないし用意のしようがない」
「あたしだって……婆ぁもお父ちゃんも、そんな手続きしてるわけないわよ。十一だったのよ。他の女だって」
「だから心配したんだ」
 若菜が手拭いを広げて紅砂の腕を拭く。もう湯は冷めかけていた。
「……悪い、よく考えたら伝えたところでどうしようもない。不安を煽るだけだった」
 部屋を出た若菜がしばらくして戻ってきたとき、盥の中からはまた湯気が立っていた。
「大丈夫よ」
 彼女は紅砂の前に回り込んで彼の首筋から胸を拭った。
「だってまだそうなると決まったわけじゃない。港番は金蔓の廓には甘いしね。婆ぁだって馬鹿じゃないから、いざとなれば改められる間だけ別の場所にあたしたちを移すんじゃないかしら」
 若菜の強い目に、紅砂は思わず見とれた。
「それに無宿だからって何よ。殺しやしないわ。ね、もしかすると坡城にいちゃ駄目ってことで、廓から出してもらえるんじゃない。ここより悪い場所なんてないわ」
 そう言って顔をほころばせると、彼女はまた手拭いを盥に浸して絞った。
「下も拭いてあげようか。優しーく」
「……自分でやる」
 若菜は悪戯っぽく笑うと紅砂の背後に回った。紅砂は肩に着物を羽織り直し、裾を崩して足を拭う。その背にとん、と重みが加わった。若菜の背だった。
「ありがとう」
 真向かいの障子窓の向こうは既に暮れて真っ暗だった。いつもなら帰る頃合いだ。あまりに惜しい気がするのは、泊まると決まってしまったからだろうか。
「あんたの用は何だったんだ」
 背中の重みが消えた。
「もうちょっと色っぽい聞き方してくれたっていいじゃない」
 紅砂は閉口する。どうも、こういうことは苦手だ。道場や家でなら全く不都合ないはずなのだが。若菜は手拭いを盥に放り込んで廊下へ出た。
「寛いでてね、戻ったら蒲団敷くから」
 そう言い残して。

 戻ってきた若菜は宣言通りに火鉢や脇息を退けて蒲団を敷き、襖との間に衝立を置いた。
 一つだけ消し残した行灯を隅に持っていくと、対角の隅で微動だにせず座っている紅砂を振り返る。
「眠くないの」
「あんまり……」
 稽古で疲れ切った体が眠くならないわけはなかったが、未だに状況が呑み込めていなかった。若菜はするりと仕掛けを脱いで蒲団にもぐり込んだ。紅砂はぎょっとそちらを見る。
「でも頃合よ、とりあえずいらっしゃいな」
 やむなくそろそろと蒲団の傍に膝をつく。行灯が減ったことで部屋の中はぐっと暗くなり、否応なしに匂いや音や、視覚以外のものが近くで感じられた。
「頃合って……」
 若菜の腕が伸びて、紅砂の頭を蒲団に引きずり込んだ。間近に彼女の胸。顔を上げたところにも白い首筋。艶やかな唇が開く。
「泊まりじゃない客が帰る頃合よ。それに」
 若菜が突然声を止めた。そして次にその唇から漏れたのは吐息だった。
 紅砂は咄嗟に自分の両手を確かめる。違う。彼女には一切触れていない。
 なのに彼女の息は、押し殺したものが次第に早くなり、喉の奥から漏れるような声が混じり、嬌声へと変わっていった。目さえ閉じれば縺れ合う男女がいると誤解しただろう。だが蒲団の中にいるのは紅砂と彼女だけで、紅砂は悶える彼女を唖然と見ているだけなのだ。
 あまりの悩ましげな声に反応しそうになり、慌てて押さえる。
 そのとき廊下で物音がした。
 若菜の声は誰にも触れぬままに絶頂を迎え、速い息になり、やがて消えた。紅砂は肝を抜かれた思いで、息を整える彼女を見つめる。
「……行った?」
「な……っ、お、俺は何も」
「婆ぁよ。見回りに来てるのよ。ちゃんと致してるかどうかをね」
 紅砂はからからに乾いた唇を湿す。若菜はけろりとしたものだ。頭まで蒲団を被って紅砂に顔を寄せる。
「今日泊まってってお願いしたのは、会ってみてほしい人がいるからなの。ここ、一度見回りに来た後は手薄なのよ。三門が閉じるからね」
 それを早く言ってほしかった。出会い頭に引っぱたかれたような気分だ。蒲団を被っているのが幸いだった。
「階段を降りて裏手なの。万一見付かっても厠って言い逃れできるわ、……と」
 蒲団を撥ね退けて起き上がった若菜は、横になったままの紅砂にぐいと顔を寄せた。
「それ、楽にしてあげようか」
 紅砂は勢いよく起き上がった。彼女を睨んだのは恥じらいを隠すためだ。
「……誰なんだ、それ」
「ここの女郎の良人ってとこかしら。名前は分からないのよ。言葉が通じないの」
 紅砂がはっと目を見開く。
「目の色は少し薄くてあなたに似てる。蓮とすゆの話を聞いた後だったから、あたしもなんだか驚いちゃって」
 聞き終える前に紅砂の心は決まっていた。頷いて襖へ歩く。若菜も行灯から手燭に火を取り、掌で覆い隠して付き従った。
 紅砂はわずかな火を頼りに、足を忍ばせつつ見慣れぬ闇を行く。改めて、左右からはなんと多くの声が響いてくることか。足の裏がむず痒くなる。若菜が先程のようにあられもない声を上げたのも分かる気がする。そしてこのうちで、彼女が先程してみせたような全き偽りの喘ぎ声はいくつあるのだろう。
 港の夜とはさぼん玉のようなものだと思う。ほんのひと時虹色に輝いたと思えば、すぐに弾けて跡形もなく消える。
 階段から先は若菜が先導した。足元に気を付けて進み、途中何度か角を曲がって、どことなくじめじめした場所に至った。左手には窓、その目と鼻の先に黒ずんだ壁。右手に連なるのは襖ではなく開いた錠の下がった板戸だ。
「ここよ」
 若菜が声をひそめて、閉め切られた戸の一つを軽く押した。
「山吹。開けて」
 しばらくして音もなく戸が開いた。中は灯り一つ見えない暗闇である。若菜が灯をかざしてやっと、蒲団や調度品が一面山積みにされていることが分かる。
「入って」
 押し殺した声が戸の陰から聞こえた。山吹という女だろう。紅砂が足を踏み入れたところで、また音もなく戸が閉まる。
 日中ほとんど閉ざされているのだろう、部屋の中には埃臭さとかび臭さが同居していた。若菜の手にあった蝋燭が、違う手に渡ってその顔を照らす。
 不健康そうな女だった。あるいは弱々しい灯に照らされているからそう思ったのかもしれない。べたりと塗られた紅ばかりが目に残る。女は火を近付けて紅砂の顔を照らし出した。
「来てくれてありがとね。……へえ、目の色もちょっと薄いみたいね。彫りが深いところばっかり見てたけど。これで島生まれなんて落ちじゃないでしょうね」
「親の代から生まれは陸続きだよ。ただし祖父は海の外から来たと聞いてる」
「ふうん、それなら……。ねえ、ねえ」
 山吹が物の山に呼び掛けた。言葉が分からないと言ったが名前すら知らないのだろうか。紅砂が訝しんだとき、蒲団の山の向こうにすっくと背の高い影が現れた。紅砂は山吹から手燭を預かり、躊躇しつつもそろりと近寄る。
 紅砂より年嵩の男だった。着ているものこそ袷長着だが、顔立ちや色は、暗がりで見える限りでも確かにかけ離れている。この男と比べるなら紅砂だって十二分に坡城びとだ。
 男は、女郎でない者が現れたことに驚き、怯えているように見えた。
「山吹って言ったか。あんたの言葉はまるで通じなかったのか」
「その人、あたしに分かる言葉もちょっとは知ってるけど、まるで話にならないわ。いくら言葉が分からなくたって、指突き付けられたら名を聞かれてるって分かりそうなもんじゃない。なのに姐さん姐さんってそればかり」
 紅砂は崩れている蒲団を押し退けて胡坐をかいた。ちょいと手で示すと、男も出てきて素直に膝を折る。彼がちらちらと紅砂に視線を寄越すのが分かった。紅砂は意を決しておぼろげな記憶を頼りに口に出してみる。
俺は紅砂というがそやれはんどろあんたはいとぅえれす……」
 男の顔色は変わらず、むしろ困惑が増していくようだった。紅砂がほっとしたのは、これが祖父の母語だからだ。紅砂はほんの少し、父が戯れに教えてくれたのを知るだけで、通じたとしても会話には到底足りない。
 彼が知る言葉は残り一つだった。これが通じなければ、もう手が無い。
俺は紅砂というがあむせんり、えゆ……」
 それだけで充分だった。男は目を見開き、はっと息を吐いた。はは、と笑みが漏れる。
良い名だぐねい守護者だないみんずがーりあだずに俺はネイサンうぇらいねいさんネイトでいいばらいれざごばねい
 それで訳が分かった。紅砂は目を丸くしたままの山吹を振り返る。
「姐さんっていうのはこの男の名らしいぞ」
「あんた……分かったの、その人の言うことが」
 山吹は姐さんだなんておかしな名前と笑った。嬉しさの隠しきれない声だった。
 彼女がねえねえと呼び掛けていたのも当たりだったわけだ。もちろんそれは、呼び方を試しているうちに偶然効き目のあるものを見付けたのだろうが……。
 紅砂はごくりと唾を呑む。この言葉を交わすのは父に次いで二人目だ。実に七年ぶりのことで、どこまで通じるかが肝だった。
あんた、どうしてはうかん……どうやって坡城に来たんだはうりゆかんひ
驚くこたない、ハマグニさなさぷらいずぃん、ふらあまぐにひと山当てたくなってねとぅめいかふぁすばつってもお前さんも同じくちだろうやとぅあいげすどうやってそんな達者にこの国の言葉を仕込んだ?かざやふーえやぱに、おーまさめいずだ 何にせよ天の救いってやつだえにわるびあがせん俺にも運が巡ってきたなすぃむざらかたーらうんどうだ紅砂、手を組まないかへい、せんり、かるじょいみ
 一気に耳が追い付かなくなって紅砂は手で制した。ハマグニというのは津ヶ浜だろうか。あそこは島々との交易を盛んに行っているから、そのどれかに異国の者が逗留していたとしても外からは分からない。ちょうど祖父が西国で匿われたように。
 ああ、それに港にはおあつらえ向きのものが来ていたではないか。異国の珍かな生き物を大量に運んで、大船が。
 それにしても、ひと山当てるために言葉の分からぬところへ飛び込んでくるとは。気弱そうな顔も今はいずこ、にやにや笑いの奥に小狡い笑みが見え隠れしていた。
 一体これはどこの言葉なのだろう。彼は一体どこから来たのだろう。
 紅砂は何度も躊躇い、おずおずと口を開く。
「なあ……あんたは」
焦らすなよどんきーみんさぺんお前さん夜陰を探しに来たんだろあいのうやけいんひさーちよないしぇい
 何だと?
 何を探しているのだと?
「夜陰……?」
 ネイトははっと口を噤んだ。自分が興奮にまかせて喋りすぎたとようやく悟ったらしい。沈黙した二人に山吹が眉をひそめて近寄る。
「何を言ってるのよ……ちょっと、ちゃんと分かるように言いなさいよ」
 紅砂は咄嗟に彼の襟を掴んでいた。
それは何だわだずりみん
い、いや、忘れてくれな、な、じゃふぉげり
 どれほど睨んでもネイトは吐かず、二人は山吹に引き離された。彼女に庇われ、ネイトは最初の気弱そうな表情に戻っていた。だがその裏にある野心を紅砂は知っている。
 暗闇の中でネイトが首を振る。山吹には言うなということだろう。彼のような者が都合いい隠れ家を手放すはずがなかった。
 彼を庇う気など無かったが、聞いたことを口に出すのは躊躇われた。何よりここには若菜がいる。彼女にこれ以上無用な心配をさせたくなかった。
「……すまないが、俺の知る言葉は二代前のもので、聞き取れたのは名前くらいだったよ」
「何よ、殴りかかろうとしといて。さすがは若菜の良人だわね。もういい、出て行って。大丈夫? 怪我してない、ねえ?」
 紅砂は二人のもとを離れて若菜が立ち尽くす板戸へ向かう。若菜は怯えた顔で口元を押さえていたが、紅砂の袖を掴んで最後の虚勢を張ってみせた。
「ふざっけんじゃないわよ、駄目で元々だから連れて来てって言ったのはあんたのくせに」
「若菜、行こう」
 子供っぽく舌を出した彼女を促して、紅砂は廊下へ出る。
 戸を閉めてようやく息を吐き出した。これでいい。これでお互いに関わろうとはしないだろう。何もなかったのだ。今夜ここで、何も。
 暗い廊下を歩きながら紅砂は思った、ネイトは近いうちに姿を消すだろうと。その行方を知りたくもあり、それが怖くもあった。
 夜陰。
 祖父から受け継いだ限りの言葉しか使えぬ紅砂に、その真の意味を知るすべは無い。だが異国から人を呼び寄せるほどの甘美な匂いは到底感じられず、そこにあるのは、いくら目を凝らしても先の知れない、訳の分からない重苦しさだけだった。