紅砂が再びやって来るまでの十日間のうちに、それは始まった。きっかけは彼が来た翌々日の夜更けのことだ。
 まず暁が飛び起きた。胸の早鐘を押さえて気を研ぎ澄まし、衝立の向こうに声をかける。
「先生、先生」
 高らかな鼾をかいていた斎木も目をこすりつつ起き上がった。
「何だどうした、産まれたか」
「目を覚ましてください先生。気付きませんか」
「気付くって何に」
 その時、きな臭い煙が彼の鼻腔をかすめた。堰を切ったように、かんかんと耳障りな鐘の音が闇を叩きまわる。どこかで戸が開いて足音がいくつも走り出てくる。
「火か……」
 斎木が呟いた。
 明け方まで続いた炎は大店一つとその周り数軒を灰にした。火の出どころは丸七屋だった。
 時を同じくして人が斬り捨てられる騒ぎが続き、港番が触書を出したのは紅砂が来る前日のことだった。

「不要不急の夜間の出歩きは禁止、理由は人心が乱れて私の争いが相次ぎ起こっているため。乾きで火が回りやすくなっており併せて用心のこと。読むか」
 紅砂に手渡された早売りにざっと目を通して暁は溜息を吐いた。他の欄にもちらりと目をやって紙を畳む。小火続き、津ヶ浜でまた要人殺し、坡城東部の都で相次いで米屋が襲われた、鰒を食べたら揃って食当たり、そんなことばかりだ。
「曇った空の下にいるみたい。良い報せも一つくらい無かったのかな」
 紅砂は苦笑して早売りを広げる。
「気付いたか、暁」
「何」
「港番はこの触書で一度も、襲われた者の符合点については語っていない。この早売りでもだ。だが実際はどうだ。あの丸七屋の火からこっち、標的にされてるのは壬や東雲、特にお前みたいな容姿の奴ばっかりだ。北の方でも何軒か小火を出した店があって、主が壬びとというところも多いらしい」
 彼女の茶色の髪は既に肩につくほど伸びていた。ひと目で分かる壬びとの印だった。
「丸七屋の人たちが、横暴な振る舞いをしていたから……」
「それだけのことじゃない。壬びとに職を奪われたのもいる。壬びとが始めた店に客や仕入れを奪われたのもいる。この三年、坡城そのものも大きく揺さぶられたんだ。もちろん大火で得をしたのもいるだろうし、鬱憤をぶつけてるだけの奴もいるだろうが……。丸七屋は「醜い壬」の象徴だったんだろうな」
 暁は表情を変えずに紙面を見下ろしていた。
「東雲の大火の後も同じことは起こったが、今回ほど急じゃなかったし、見た目だけで人を襲うなんて馬鹿げたこともなかった。いいか暁。港番はこの件に関して、私の争い以上の扱いをする気は無い。壬びとの排斥は、坡城としては無いものなんだ」
 ぱらりと茶色の髪が頬に落ちて表情を隠す。
「何か起きてお上に訴えたところで無駄骨かもしれない。できるだけ外に出るな。……誰も守ってくれないと思え」
 暁が顔を上げて小さく笑い、目を伏せた。
「異国の見世、見に行きたかった。季春座の芝居も。残念」
「またそのうち来るよ。芝居だって今日明日に終わるわけじゃない。この騒ぎも、きっとすぐ治まる。そうだ、役者絵でも買ってきてやろうか。亰の役者のは今しか売らないらしいぞ」
 あれこれ気を回してくれる紅砂に微笑む。胸がちくちくと痛むのは、今やこの街では壬びとが異国見世の珍獣にも劣る生き物であると理解したからだ。でも望んで流れ着いたわけではない。嫌がらせで職や客を奪うわけでもない。
 望んで壬びとに生まれたわけでは。
 はっと気付いて思考をかき消す。それを、お前が言うな。壬の豊川に生まれたお前がそれを。
「……黄月は何か言ってた」
「いや。あいつは災難だよな、大火よりずっと前から住んでるのに」
 災難だというなら私だって、境の香ほづ木売りたちだって同じだ。いつここへ来ようが同じ壬びとではないか――浮かんだ言葉は、一瞬遅れて胸を突き刺した。北部の出だと蔑んだのは誰だ。外から見れば同じ壬だというのに。
 過去に黄月に対して取ってきた態度の一つ一つを思い出した。自分が同じ立場に置かれなければ分からないものらしい。
 暁はそっと早売りを畳んだ。



 家の者が来られない日は里が用を聞きに来てくれることになった。風呂敷を解いてオオネやミツベニを板間に置くその間も、彼女の口は止まらず呟き続ける。
「まず夜中に外に出るなでしょ、夜に火を使うなでしょ、その上今度は人別帳の扱いまで厳しくなるっていうのよ」
「だから何だい。お前さん、嫁入りする気なんざないくせに。浄土で婆さんが泣いてら」
「私がどうこうじゃないの。あざといのよ。皆分かってるのよ、この街全体が壬を潰しにかかってるんだもの。港番だって黙認してるも同然だし、人別帳に至っては後押しよ。いよいよ触書を後ろ盾にして堂々と追い出しにかかる気だわ」
 暁はそれを後ろに聞きながらハタネの皮を剥く。重い腹を抱えながらも包丁さばきはもう慣れたもの、くるくると透けるほど薄い橙色の皮が落ちていく。
「それは東の産だからね。トイモと一緒によく煮てごらん、ぐっと甘くなるわよ。これはおひたしにどうぞ」
 里が暁の足元にどさりとウスアカザを置いた。そのまま屈み込んで、ちらりと見れば数束ずつに分けて括り直しているらしい。暁は小さく礼を言って、邪魔せぬよう一歩左に寄る。
「里さんは、誰かと夫婦にはならないんですか」
 きょとんと暁を見上げた目がすぐに細くなった。
「何よいきなり。私のこと聞いたって面白かないわよ」
「ゆきのことも大事に育てているから……上手にやっていけるんだろうと思ったので」
 ゆきとは喉に傷跡のある子供のことだった。里は顔の片側を歪めて小さく笑った。
「子供と添うわけじゃないのよ。これでもあなたより長く生きてるけど、一緒になりたいと思うほどの人はいなかったわね、残念ながら。ゆきのことも罪滅ぼしみたいなものよ。でも私のこと随分買ってくれてるのね。意外だわ、どうもありがとう」
 皮肉な物言いだった。暁は改めてこの人が苦手だと思う。それと同時に、これほど勝気に生きている人なら並んで立てる男もそういないだろうと納得する。
 包丁を持つ手を休めて戸を開け、前掛けに落ちたハタネのくずを払う。少し歩くだけでも息切れがするようになった。
「お爺ちゃん、いつ出るの」
「日が暮れるまでには。夜に出歩いてんの見つかったら面倒だからな」
「その前にうちに寄って。握り飯くらい作っとくわ。今日はずっと雲行きが怪しいけど、日暮れまでもつかしら」
 暁はどんよりと曇った空を見上げた。おかしな風も吹いている。身震いして戸を閉めようとしたとき、ぽつりと彼女の手を打つものがあった。

 雨は程なく本降りになり、その夕は墨を垂らしたように暗かった。
 飯を終えてからも、斎木はぐずぐずと敷居の内側で雨の音を聞いていた。水を踏む音がして戸が開く。雨音と共に入ってきたのは小さな風呂敷を手にした里だった。
「やっぱりまだいた。そろそろ出ないと夜も近いわよ」
「……今出たら足が汚れる」
 里は眉根を寄せて、額に張り付いた髪を払う。
「どうせ道中汚れるでしょうよ。ぼろぼろの草履しか持ってないくせに何言ってるの」
「もうちっとしたら止んだりしないかね」
「止みやしないわよ。先方の都合もあるでしょ、駄々こねてないでさっさと行ってきなさい。ほら、荷は揃ってるんでしょう」
 飯まで持たされては後に引けず、斎木もようやく重い腰を上げた、その時だった。
 どん、と戸が震えた。斎木が戸を見つめる。どん、ともう一度。空気が凍りつく。里が暁に目配せして、身振り手振りで奥へ行けと示した。
「誰だい」
 暁が身を隠したのを見届けて斎木が声を掛ける。答えは無い。暁は自分の手がじっとりと湿り気を帯びるのを感じた。袖で何度も拭う。板間の冷たさも感じなかった。何だ。何なのだ。
 どん、苛立ちをぶつけるかのように戸が鳴る。
 まさか、と嫌な思いが頭をよぎる。相次いで襲われる壬びと。だがここへ来てから、銭湯と厠を除いてほとんど外へは出なかったはずだ。なのに。
 どん。
 それが最後だった。ばちゃばちゃと水を撥ねて駆け去る音が遠ざかり、後にはざあざあと雨が叫ぶのみ。
 斎木と里が顔を見合わせる。先に動いたのは里だった。土間に降りると、そろりと戸に手を掛けて思い切り開く。どっと雨音が流れ込む。
 里が小さく叫んだ。
 暁は弾かれたように顔を上げた。静まらぬ胸を押さえながら、硬直しきった体をじわりと伸ばして背後の様子を窺う。
 戸は開いたままで、矢のように雨が地を突くさまが見えた。斎木と里は土間にしゃがみ込んで、何かを引っ張り上げようとしていた。
 暁は呆然とそれを見ていた。
 時が止まったようだった。
 ざんざ降りの雨の中、斎木の家の前で倒れていたのは、針葉だった。



 ゆきの小さな寝息を聞きながら、暁は何度目かの寝返りを打った。急き立てられているかのように胸がざわつき、眠るどころではなかった。だが斎木の家を追い出された以上、彼女にできたのはおとなしく待つことだけだった。
 雨は変わらず降り続けている。
 彼の姿を見た途端に言葉の波がどっと押し寄せた。この街にいたのか。いつ戻ってきたのか。どうしてここへ来たのか。どうして倒れているのか。
 疑問の半分は、彼の姿を見れば自ずと知れた。雨に洗われたものの、彼の着物には血が染み込み、一部は切り裂かれてずたずただった。斎木が手際よく衣をはぎ取る。血の気のない肌の上には、大小の傷が散らばっていた。
「どうして……壬びとじゃないのに」
 かちかちと歯を鳴らして呟いた暁に、その時初めて気付いたように里は顔を上げた。厳しい表情で口の前に人差し指を立てると、暁の手を引いて自分の家まで連れて行った。
「ま、待ってください。私も何か」
「あなた、どうしてこの家に間借りしてるか忘れたの。斎木と私で充分よ。余計な手を取らせないで」
 暁は眉を寄せて里の顔を見つめ返したが、すぐに目を逸らしてうつむいた。実際のところ、身動きの取りにくくなった彼女にできることなど限られていた。
「ゆきのお守りをしておいて。あの子は喋れないだけで耳は聞こえる。さっきの物音で怯えているかもしれない」
 小さく頷いて里に背を向ける。背後でがらりと戸の閉まる音、が途中で止まった。
「壬びとじゃないのにって言ったわね。違うわ、あれは今さっき付けられた傷じゃない。さっきの音の主が遠路はるばるあの子を運んできたのよ」
 そう言うなり戸がぴしゃりと閉まり、足音は隣へ帰って行った。
 ゆきは蒲団の中で縮こまっていたが、髪を撫でてやると安心した様子で眠りについた。
 暁は暗い天井を眺めてまた寝返りを打つ。いつの間にか雨の音も聞こえなくなっていた。
 そうしてどのくらい経っただろう。遠くで控えめに戸が開く音がした。うとうとしかけていた目がはっと開く。しばらく待つとこちらの家の戸も開き、上がってきたのは里だった。枕元に腰を下ろすとふっと溜息を漏らす。
「……起きてたの」
 暁の瞼が動いたのを目ざとく見付け、里は声をひそめた。
「休みなさい。今できるだけの手当てはしてきたから」
「先生は」
「さっき発った。さ、もうお喋りは無し。私も眠るわ」
 里はどこからか運んできた蒲団に包まったかと思うと、すやすやと寝息を立て始めた。それを聞きながら暁もまどろみ、起きたときにはもう日が上っていた。空はからりと晴れ、陽光が起き抜けの目を突き刺した。
 ぼさぼさの髪を手櫛で整える。隣の部屋ではゆきが既に茶碗を空にしていた。口の周りに飯粒をつけたままで笑いかけてくる。
「おはよう、ゆき」
 半分寝惚けたままで家の中を歩き回り、また同じ場所へ戻る。
「里さんは?」
 小さな指が示したのは板間の隅で、そこには折り畳んだ紙が置かれていた。
 用が入ったので出てくる、遅くなるかもしれないのでゆきの飯の世話をしてほしい。針葉の朝の処置は終わった、まだ気を失ったままなので心配無用。自分が素人であることを心得て差し出がましい真似は慎むよう。
 いかにも里らしい、飾り気の無い文章だった。私も他人のことは言えないが、と頭の中で付け添える。
 ゆきが暁の袖を引いた。紙を脇に置くと、ゆきは表を指してにっと笑ってみせた。
「ああ……ゆき、まず口を漱いできなさい。それから昼には一度帰ってくること」
 元気いっぱいに頷くや否やゆきは家を飛び出した。暁は苦笑してそれを見送り、彼女の茶碗をまとめて自分の飯の支度にかかる。と言っても飯は里が既に炊いてくれているようだし、これに昨日の煮物とおひたしの残りを合わせれば終いだ。
 惣菜を取りに斎木の家へ向かう。そっと戸を引くと、光の中にちらちらと埃が浮いて見えた。斎木が留守にするときはいつも家ががらんとして、まるで廃墟のように感じた。今日は衝立が全て取り払われ、大部屋となった板間に蒲団が敷かれていて、かすかに息が聞こえる。
 ごくりと唾を呑み込み、息を整えて土間を踏む。余り物の器を抱えてまた振り返ったが、針葉が目を覚ました様子は無かった。里の家に戻って朝飯と洗い物を済ませても、まだまだ昼までには間があった。
 もう一度、斎木の家に戻ってもいいだろうか。
 書き仕事をしようにも、道具一式はあちらに置いたままだった。
 唇を結んで小さく頷き、隣へ向かう。惣菜を取りに来たときとは違い、戸を閉めて、草履を脱ぎ、板間へ上がる。
 針葉は相変わらず眠っていた。眠っている、のだと思う。彼の目の上も晒しが覆っており、根拠はといえば呼吸の感覚が広いことだけだった。
 筆や紙や本を取りに来たつもりだった。なのに気付けば彼の傍に膝を折っていた。
 蒲団からはみ出た部分だけでもいくつか傷が見える。昨日ちらと見た限りでは、脇腹に一つ、腕にも一つ大きな傷跡があったはずだ。
 里は、どこか遠くで傷を負って運ばれてきたのだと言った。
 どうして。どうして彼が、こんな。
 目を伏せ、閉じる。あまりの変わり果てた姿に涙がにじむ。
 だが、それが流れ落ちることはなかった。
 暁は静かに目を開ける。戸惑ったふりはもうよそう。
 私は知っていた。彼が遠出するとき何をしているか。
 家の前の長――斎木が前羽と呼んだ男――は赤烏だ。八年前、北府で煽動者とされた黄月の父が豊川の仕置き場で首を刎ねられたとき、そこにいた男。本当の枕探しを連れてきた男。その実の子ではないにしろ、彼を親代わりにして育った針葉もまた赤烏であるのは、自明のことだった。
 知っていた。何故彼が遠出から帰るとき、かすかな汗や埃やわざとらしい女の匂いはしても、不自然なほど他の匂いを洗い流してくるのか。
 知っていた。だから川の向こうの共歩きに彼を選んだ。赤烏である針葉は、決して黒烏にはなり得ない。近くに黒烏らしき者がいるのを感じていた暁にとって、それがいかほど心強かったか。雷に照らされた彼の左腕に驚いたのも、彫り物を黒烏の印であるみずちと勘違いしたからだった。
 知っていた。知っていて知らないふりをした。彼が家の者から見えないところでどれほど血に塗れているか。彼が見せたくないのなら見ずにいるべきだと。それが彼のためなのだと。
 結局知りたくなかったのだ。烏を操る国守が、彼女が生まれ育った豊川の家が、どれほど血みどろの大地に根を張っていたのかを。
 赤烏は風向き次第で主を変えられる。彼が今誰の命で動いているかは知るよしもないが、西へ向かったという彼の言葉を信じるなら、符合する出来事が昨年の夏から続いているではないか。坡城と隣接する津ヶ浜の要人が次々と襲われ、殺された。
 そして昨夏といえば、大火以来の流行り病が落ち着いて、五家の生き残りと周辺国で壬の割譲談義が始まった時期でもある。
 暁は針葉の覆われた目元に視線を落とした。痩けた頬、汗と泥でべたべたの髪、伸び散らかした髭、土気色の肌。一定の調子を保って聞こえる、静かな息の音。
 戸を叩いたのは共に行動していた赤烏だろうか。斎木は前の長の代からこうして、表立っては見せられない傷の治療を担っていたのだろうか。
 この目は一体何を見てきたのだろう。
 胸が締め付けられるように痛くなった。その時だった。
「う……」
 針葉の唇が歪み、呻き声が漏れた。右腕がじわじわと動き、蒲団を鷲掴んで皺にした。暁は息を呑む。それは大きな傷のあった箇所だった。
 静かだった息が乱れる。歯を食いしばるのが見える。
 とにかくここを離れなくては。
 暁は慌てて辺りを見回し、そろりと膝を立てる。音は立てなかった。
「……っ」
 だが針葉の顔は、的確に暁のいる方を睨んでいた。晒しの向こうの目に射竦められたように動けなくなる。針葉が口を開けた。
「……誰だ」
 久しく聞いていなかった声に胸が詰まった。
 だが今は何より離れることだ。追い付いてはこられないはずだった。なのにその場を離れられなくなったのは、彼の顔に浮かんだ脂汗を見たからだった。
「ここは……」
 続けようとして、また顔が歪む。痛いのだ。痛くてたまらないのだ。その上彼は血を大量に失っており、雨に打たれて体力も落ちている。今は視界も奪われている。不安で仕方ないはずだった。
「そこに……誰かいるな。答えろ……」
 浅い息を挟みつつ、血を吐くようにかろうじて絞り出した声。それはまるで命を絞り出しているかのようだった。暁は口を押さえる。そうしなければ声が漏れてしまいそうだった。
 どうしよう。声に出せば、いくら何でも気付くはずだ。何か方法は。何か。
「……答えろ……!」
 暁は針葉の手を取った。ひやり、氷のようだ。途端、針葉が腕を振り払いにかかる。手負いの獣のように猛然と。暁はそれを押さえ、掌をこじ開けて、最初の一文字を書いた。
 針葉の抵抗が弱まった。
「な……?」
 その隙に、もう一度最初の文字から続けて書いていく。
『さ い き』
 針葉の顔は呆然と、暁のいる方へ向いていた。
「さいき……斎木って書いたか、今……。間地に……いるのか。帰って、きたのか」
『そう』
 浅い息が少しずつ落ち着き、深い溜息に変わる。
『さいきはそと てあてしてある おちついて』
「お前は……」
 おとなしく掌を差し出していた針葉は、一瞬のうちに暁の手首を掴んでいた。指がめり込むほどの痛みに顔を歪めながら、どうにか声を殺す。
「産婆の女じゃ、ないな。……誰だ」
 何か書こうにも右手は捻り上げられていた。生来ぱっと機転の利くたちでもなく、長すぎる沈黙が場を支配した。
 さすがに不審に思ったか、痛々しいほどに晒しを巻かれた左腕が、ぎこちなく自分の目の晒しに伸びた。
 ――駄目だ。
 咄嗟に、暁は右手を腹に押し付けていた。我に返ったときにはもう遅く、針葉が息を呑む音がやけに大きく聞こえた。
 暁の手首を掴んでいた手がするりと解けて、怖々、膨れた腹を触る。
 暁も震えに耐えながら、彼の手が自分の腹を――彼の子を包んではち切れんばかりに膨らんだ腹を撫でるさまを、じっと見つめる。
 まるで永遠にも感じられる、布越しの逢瀬だった。
「……あんた、声が出ないのか」
『はい』
 そうしておいた方が都合が良いと思ってのことだった。針葉はそれ以上深くは聞かず、名残惜しげに腹の曲線に指を這わせた。
「産み月か」
『はい』
 そこまで読み取って、針葉は腕を床に戻した。
「悪いが……水、くれるか。あと飯も……」

 里の家に戻ると、ちょうどゆきが帰ってきていた。彼女を再び送り出して斎木の家に戻る。
 横になったままの彼の唇に少しずつ水を流し込み、飯を運ぶ。やはり食欲は落ちているようで、茶碗に半分以上を残して針葉は首を振った。
「爺さんは……いつ帰る」
『あさってには』
「そうか……。坡城も殺しが続いてるんだろ、身重にゃ辛いな」
 何と答えたものか迷ったが、針葉は気に留めず掠れた声で話を続けた。
「今までが静かすぎたのかもな。……自分の身に何か起こるまでは平安なんだ。壬の奴らだって、三年前の大火が始まりだと思ってやがる……盲どもめが……」
 針葉の顔が歪み、蒲団を掴む。呻き声。しばらくして息が戻り、うわ言のように彼の声は続いた。
「その前の年から菅谷は……壬の東部は空だった……。上松に至っちゃ数十年来……停戦からこっち飛鳥の傀儡だ。まともに動いてたのは豊川だけだ……平安を偽って、大国を気取って……はは、そんで狙い撃ちにされちゃ様ぁねぇな」
『すがやけは どうして』
 そこまで書いてしまって、はっと身を引く。だが幸い針葉は唇を湿しただけで言葉を繋いだ。朦朧としているのかもしれなかった。
「菅谷……菅谷は……東雲割譲の交渉の後に、当主が急死して……」
 確かにある時期から、まだ若い菅谷の息子がやたらと表に出るようになった。だが当主が死んだ?
 もっと。もっと知らなくては。赤烏として豊川から距離を置いたところにいた者は、あの大火の前に何を見た。
 だが針葉はもう喋らなかった。薄く開いた唇から細かな息が漏れている。土気色をしていた肌はわずかに赤みが差し、熱を帯びて見えた。
 暁は頭に上った血がすっと下りるのを感じた。豊川の娘が、かつて寝所を共にした男を見つめるただの女に変わった瞬間だった。
 手拭いを水に浸して戻り、彼の額に乗せる。ぐちゃぐちゃに皺の寄った蒲団を整える。
 針葉が目覚めたのは日が傾いて夕暮れも近付いた頃だった。既に手拭いを三度取り換え、四度目を絞ったときに彼が呻いたのだ。
 蒲団の中から掌を取る。
『ゆうけをつくります』
『ここをはなれます ねつがでているので あんせいに』
「なあ。俺は……何か、口走ったか」
 彼の掌は火照り、汗が滲んでいた。五本の指はどれもぐったりと弛緩しきっている。暁は少し考えて答えを記す。
『いいえ』
「そうか。……あんたは隣の、産婆の客人だろ」
 気怠そうな声だ。唇を動かすのさえ億劫なようだった。
「こっちに来んのは、ろくな奴じゃない……俺も含めて。身重の女がいる場所じゃない。……もう、来るな」
 暁は固く絞った手拭いを見つめる。赤く暮れていく睦月のとき。手拭いを細長く畳んで針葉の額の上に置き、彼女は立ち上がった。
 物音で察したらしい、針葉は小さく礼を呟いた。
「元気な赤子産めよ」
 腹の底から衝動が湧き上がった。泣き叫びたかったのかもしれないし、抱き付いて喚きたかったのかもしれない。
 しかし冷たい夕陽を浴びた途端に気持ちは静まり、戸が閉まる音も背中で聞いた。