紅砂が港通りに出ると、いつもに増して人だかりができていた。なんでも遠く異国から珍かな生きものが運ばれてきたのだという。 いつもは蕎麦の屋台が並ぶところに今日は小屋が建てられて、台の上では口上言いが抑揚のきいた言い回しで姿かたちを語っている。いわく、逆さにぶら下がる黒い鳥、頭のない亀、二本足で飛び回る鹿、剣山のような小形の猪……。それを何重にも取り囲むのは人の山だ。 どんと肩を突き飛ばされて振り返る。通りがかりの物を蹴飛ばしながら進む一行。紅砂は文句の一つでも言おうかと口を開きかけて、やめた。連れ立って肩をいからせ歩く後姿は壬のものだ。この辺りでああいう輩といえば丸七屋のごろつきしかいない。 以前一度絡まれたときは、見るからに筋骨隆々とした男が紅砂の隣にいたので、道場の者だというのが分かったのだろう。彼らのほうから去っていった。以来、丸七屋の前を通るときは慎重になった。彼の容貌は、遠目には変わった顔立ち程度のものでも、近寄って見れば目の色が違うことはすぐに知れるのだ。 「おい、やめろ」 「離せ。今日こそは思い知らせてやる。よそもんがでかい顔しやがって」 「馬鹿が。腐っても大店の飼い犬だ、関わんじゃねえよ」 雑踏の中に悪態を聞きながら歩く。 路地に入ったところで後ろから諍いの声が聞こえた。壬の北部の訛りだ、紅砂の耳でもすぐ分かる。厄介な連中だという認識の広がった今、その訛りは一種の威嚇なのだ。 しかしそのお陰で紅砂は、丸七屋をすんなり通り抜けて斎木の家に辿り着いた。 がらりと戸を引く。途端、隣の家から走り出てきた子供が彼の足にまともにぶつかって転んだ。じっと倒れ込んでいた小さな体がおもむろに起き上がる。 ああ駄目だ、この間は……泣く。 「あー、大丈夫か。痛かったな、よしよし」 慌てて目線までしゃがみ込み、小さな体や髪の汚れを払ってやる。四つか五つの幼い子供だった。黒髪の向こうから黒い双眸が上目遣いで紅砂をじっと見つめる。 「……お、泣かないな。偉いぞ」 頭をわしゃわしゃと撫でてやると、大きな目は彼を真っ向から見てにっと崩れ、口から白い歯が覗いた。 あ、と思う間もなく幼子は駆けていく。ひらひらと蝶のように、帯が小さな背を追っていく。 「紅砂、久しぶり。明けまして」 暁がいつの間にか戸から顔を覗かせていた。紅砂はひとまず家に上がらせてもらって茶を啜る。 彼女はここでも書き物をしていたらしく、部屋には墨の匂いが満ちていた。部屋の隅には毎年恒例、暁お手製の不気味な正月飾りが下がっている。隣の部屋から自分の座布団を持ってきて、暁も紅砂の向かいに正座する。 「今日、先生は」 「今はちょっと出ている、けど夜には帰ってくるよ。十日くらい後にはもうちょっと遠出するみたいだけど」 「十日って、でもお前もそろそろじゃないのか」 ちらと暁の腹に目を移す。彼女は腹に軽く手を重ねて置き、あたかも外界からそれを守るかのようだった。 彼女が家を出て早くもふた月。元々痩せていた体つきは今もふくよかとは言えないものの、帯の下だけは異様に盛り上がり、そこに息づくものを教えていた。 「まだ その名でさっきの幼子が頭に浮かんで、紅砂は湯呑に伸ばした手を戻す。 「そういえばさっき隣の家から出てきた女の子がいたけど」 「里さんちの子でしょう」 暁が茶を啜り、気付いたように首を振る。 「と言ってもあの人の子じゃないみたいだよ、訳あって置いているみたいで。詳しくは聞かないけど」 「ああ……。ところであの子は喉が」 「うん、話せないみたい」 紅砂は湯呑に口を付ける。あの子の目線にしゃがんで頭を撫でて、気付いたのは彼女が笑って顔を上げたときだった。あの細い首には大きな傷痕が残っていた。 盆に置いた湯呑がことりと音を立てる。 「こっちでも無事でやってるみたいだな」 暁は目を丸くすると、苦笑を浮かべて手を振った。 「無事じゃないよ。ちょっと歩いただけで息が切れるし、耳は詰まるし寝付けなくなるし」 「そうじゃなくて、お前は知らないところに飛び込むのが嫌いなように見えたから」 言われて暁は少し考え込む。紅砂の言ったことは的を射ているが、彼女の視点で言えばずれがある。 彼女自身はどんなに場に馴染みたいと願っていることか。どこにでも溶け込む紅花の背中がどんなに羨ましかったことか。なのにどれだけ努力しても、彼女の反応は相手の期待に沿えないようなのだ。どれだけ同化したように振る舞っても結局は気付かれる。自分の異質さに。そして後で思い知るのだ、周りが合わせてくれていたのだと。あまつさえ――気を遣わせてごめん、などと。 ここで肩肘張らずに過ごせているのは、一つには斎木が歳も立場も離れていること、そして家の者という共通の話題があることが大きかったのだろう。 斎木には、初めからさほど気を遣わなかったように思う。住まわせてもらっているうえ仮にも医師の立場にある者に対して何だが、そもそも彼の言葉一つ一つが滅茶苦茶なのだから、自然な会話を成立させようと意気込むこともない。 彼と初めて顔を会わせた日、彼は暁に芝居の何たるかを説いた。 その次の日には、斎木宅は雑然として見えるが断じて散らかしているのではない、むしろ劣悪な場で過ごすことで体を強めているのだと力説した。 そのまた次の日は、女形の醸し出す色気について滔々と語った。 最初は真剣に耳を傾けていた暁だが、そのうち耳が勝手に聞き流すようになった。それでも、はなから聞かずにあしらう里と比べると暁は上客であるらしい。 斎木はまた、身重の暁に対しても不必要に気を遣わなかった。家の者がしたように遠巻きに眉をひそめることもなければ、取り立てて崇めることもなかった。そこはやはり長い人生の賜物だろうか。 ここに来てから黄月に回してもらっていた書き仕事も無くなり、暁にできるのは斎木の身の回りの世話くらいになった。彼は出されたものに滅多に文句をつけなかったし、帰らないこともままあったので、料理の腕を磨く絶好の機会だった。具合のいいときは巣作りでもする気分でちょこちょこと部屋を片付けて、帰ってきた斎木に恨みがましい目で見られた。 部屋の隅まですっかり整理してしまうと、いよいよすることが無くなった。 「何か手伝います」 そう申し出たのは来てひと月が経った頃だった。珍しく患者があり、斎木が手を取られていたのだ。足に傷を負った男の血を拭いながら、彼は振り向かずに告げた。 「んじゃダイカクからテンサビンを取ってくれ」 「は」 患者の男が不安そうに暁を見た。額に脂汗が浮かんでいる。 「ヤゲンのけりゃ分かるよ、ちゃんと見てみな。ニカクやダイマルと間違えるな」 間違えるも何も、ダイカクもダイマルも何のことか分からない。あたふたしていると斎木が歩いてきて、薬をすり潰す車状の道具を横にやり、数ある薬箱のうち大型の角箱の蓋を開け、壜を一つ取り出して戻った。口の中で繰り返す、ダイカクはきっと大角、大きな角箱。 男が去った後で、暁はそろりと斎木の傍に寄った。彼の脇に置かれた盥の水は赤く染まって鉄の匂いが鼻を衝いた。 「あの……すみませんでした」 「気にするな、別に腹ぼての女にそこまで求めてない。次からすっ込んでてくれりゃあいいだけの話よ。ただでさえどっか悪くて来てる奴を、ことさら怖がらせるんでね」 かっと頬が熱くなった。少しばかり学があるから役に立てるだろうと思い上がった。いつも斎木とは気安いやり取りばかりだからと侮った。なのにどうだ、壜一つ取ることすらできないではないか。 「盥、洗ってきます」 「要らん。よろけて転ばれちゃあ寝覚めが悪い」 「分かりました、ではお暇なときで結構です。部屋にあるもの全ての名を教えてください」 斎木が初めて振り向いた。眉が高く上がっている。 「全て覚えます」 斎木が薬作りの道具や薬壜の一つ一つを指差し、暁が復唱しつつ書き文字を聞いて全て書き留めたのは、その夕方だった。抽斗が数十ある棚の中身もいちいち見て覚えた。 書き留めたものを用途ごと、場所ごと、音ごとにまとめ直し、指示されたものを間違いなく持ってこられるようになったのは十日後のことだった。 暁が薬箱を眺めるようになって気付いたのは、斎木の使う薬の中に黄月の作ったものがいくつか含まれていることだった。湊だけでなく師匠の薬箱にも納めているのだろうか。尋ねると、彼は刃物を手入れする手を止めた。 「 「さきう?」 「シュバチ取ってくれ」 シュバチ、朱鉢。暁は棚の上から二段目を探って朱色の小鉢を手渡す。斎木は鉢に刃物類を放り込んで肩の力を抜いた。 「前羽ってのは腐れ縁の悪たれだよ。鬼の宿の持ち主、だからそうだな、坂の上の家の、昔の長って言ったほうが分かりやすいか。死に損ないと枕詞をつけたいとこだが、生憎死んじまったね」 その目には懐かしむような色が浮かんでいた。 「あいつというのは黄月ですか」 「隼坊な。ああすまん、チドリゴロシも取ってくれ」 チドリゴロシ、千鳥殺し。暁は立ち上がって小壜が入った深手の箱を探したが、いつもの場所には見当たらなかった。衝立の奥を見るよう言われ、ようやく二角の箱とその中の壜を取り出す。飲み競にも使われる、強いだけが取り柄の酒だ。 鉢を酒で満たすと、澄んだ色の中で刃先がぐにゃりと曲がって見えた。 「黄月ねぇ。そのおかしな名前、誰が付けたか知ってるかい。針葉だ」 にやりと上げた口の端が続ける。 「隼坊の父親は薬師だったんだと。壬の北ってのは他になく山が入り組んで、お天道さんや土の具合もあってな。知る人ぞ知る面白い土地なわけよ。珍しい木や草がわんさかあるから、あいつが学ぶにゃ絶好の地だったんだろうな。十に満たない餓鬼によく教え込んだもんだ。大した親父殿だったんだろうよ……国守に殺されちまったみたいだがね。へまやったんだろうねぇ」 「……聞きました」 「何しろ、東雲がまだ 彼の言うのは菅谷、豊川、上松の旧三家のことだ。壬を初めて治めた三兄弟がそれぞれの祖であるという旧辞まじりの話である。 長兄は菅谷。御領方の役につき、財を取り仕切り国を治めた。次兄の豊川は検断方として裁きを担い、末子の上松は北府として、東西に険しい山が連なる地理を持つ壬の北部地域を治めた。 光明を浴びる兄と、血で以て彼を支える弟たち。兄が彼らに双刀を授けたことも書かれているが、正にその――実際は後から作られたのだろうが――刀が現存していたのを知るのは、暁含めごくわずかだ。今は 「旧壬国史ですね。読みましたが、壬国史と照らし合わせると辻褄が合わないところも散見しました。あれはあくまで物語でしょう」 壬国史はより近世に書かれたもので、御領方は国統の菅谷家と蔵役の津山家に、検断方は国守の豊川家と筆方の江田家に分かれており、これに上松家を加えた五家は、暁が生きた壬の姿を正しく反映している。東の隣国の名も癸から東雲に改められている。 「やっぱり読んでたか。辻褄ねぇ、例えば何だ」 「例えば……旧史には、壬は東夷と呼ばれる東の異部族と長らく交戦したと書かれています。交戦地は今は東雲の一部……跡地と言うべきかもしれませんが、その場所です。これを土蜘蛛とも呼んで忌み嫌ったようですが、東雲公紀にそんな記述は無いし、壬が東雲と争ったこともないはずです」 「ふん、そんなこと。分からんぞ、実は戦があったのかもしれん。ついつい盛り上げたくて筆が滑ったのかもしれん」 「先生じゃあるまいし」 「何だと」 笑いまじりの声で言うと、斎木は小鉢を竈まで運んだ。秤とジメイタン用意してくれ、と障子の向こうからしゃがれ声が聞こえて立ち上がる。秤はいつもどおり棚の上だが、ジメイタンの壜が見付からない。 「秤しかありません」 「本当か。二角の中に仕舞ったと思ったが。二角はさっき見ただろ」 暁ははっと衝立の奥、チドリゴロシが入っていた箱を探り、鈍色の丸薬がいくつも入った壜を掴んだ。 「ま、そんなわけであいつは儂の知らんもんも作りよる。元来器用なんだろうな。儂に作れるもんでも買ってやってるが、まあ頼まれてるからな」 黄月が頼み込んだのかと驚いたが、彼は首を横に振って答えなかった。 「できることならあいつの親父殿に会ってみたかったがな」 ――それは確か、北府より強き頼みのあったお裁きでございましょう。 いつか聞いた牙の声が蘇る。枕探しの罪状は、あくまで民に向けたもの。その者は北にて民を煽動せしゆえ―― 「黄月のお父上は、どうして壬の南にいらしたのでしょう」 「坡城への道中だったらしいが」 「北から逃げていらしたのでしょうか」 「さあなぁ」 今となっては知りようもない、その当時の壬北部のことなど分からないのだ。暁は秤の埃を乾布で拭った。 腹の中のものがきちんと形になったら何が必要になるのだろう。ふと思いついたのは、年の暮れも近くなった頃だった。 産衣、 眉を寄せる。何より困るのは、他に何か要ったところで暁には仕事が無いことだった。 字書きの仕事を回してもらっていたのは黄月の温情だったと、これは既に知った。そのとき溜めた金にも限りがある。 冬至に雨呼びをしようなどという気は起こらなかった。小藤ひと欠けぶんの銭で、一体何膳ぶんの食糧を買えることか。しかも情勢の変化で、境のものが総じて高騰しているようなのだ。 今まで考えたことがなかった。暁はただ決められたわずかな額を家に納めればよかった。食べるものは誰かが買い、いつの間にか火を通って膳に並んでいた。部屋は与えられた。衣は紅花に貰い、いつの間にかほつれも汚れも無くなって返ってきた。櫛も鏡も借りものだ。 それら全てを本当に自分でまかなうなら、一体どれだけ必要だったのか。暁が一日に食い潰す銭は、一体どれだけ働けば得られるものだったのか。 「先生」 暁が膝を揃えて座すると、斎木は面食らったように口の端を曲げた。 「何だ何だ、改まって」 「もし何か、私にできることがあれば教えていただきたいのです」 「また暇にでもなったか? 心配せんでもお前さんはよくやってるよ。飯も食えんほどじゃないし、ぼろも繕ってもらったし、家の中がすっきりしすぎて落ち着かんが、よく考えりゃ咳が減った」 斎木が手をひらひらと振って横を向く。暁はすかさずその正面に膝を揃える。 「そうでなくて。勿論ここに置いてもらえるのですから家のことをするのは当然ですが、それ以外に、少し難しくても、その、銭の貰えるような仕事が……あれば」 徐々に声が小さくなった。臆面もなく銭が欲しいと言えるほどの何かを、自分は持っているのか。対する斎木の声はいつものごとく軽い。 「なんだ、銭が入り用なのかい」 「だって、何で要るようになるか分からないでしょう。家に……戻れるかも分からないし、戻れたとしても今までのように甘えるわけには」 「銭なんて無きゃたかりゃあいい。あの家の奴らならほいほい出してくれるだろうさ、人質だってもうすぐ産まれる」 「私は真面目に話しているんです」 語気を荒げる暁を、斎木はしげしげと眺めた。 「子を理由になんてできません。物乞いにするために産むんじゃない。自分があの家でどう思われているかくらい分かっています、だからこそ付け込むような真似はしたくないんです」 言い切ると、暁はきまりの悪い顔でうつむいた。斎木は頬を掻く。 「ああ……まぁその何だ、ふざけすぎたよ。悪かった。お前さんの決心はよく分かった」 水気の無い手が暁の肩をぽんと叩いて顔を上げさせた。 「今までは何をしてたんだ」 「黄月に字書きの仕事を回してもらったり、湊に文を届けたり、他には紅花の小間物屋で客相手や帳簿つけをしたり……それだけです」 「その中で満足にこなせたのは」 「どれも温情でさせてもらっていたので、満足にできていたかは……。ただ書に関しては、自ら学んでより良いものを仕上げられると自負しています」 「そうだな、お前さんにゃ客相手は向いてない」 会話の波が途切れた。暁が言葉を詰まらせたのだ。 「確かに不得手でしたが……分かるんですか」 売り上げに貢献したとまでは思わないが、働きぶりを見たことのない彼にまで断言されると、いささか落ち込むのも事実だった。 「そりゃそうだ、お前さん耳が悪いだろ」 暁は目をぱちくりさせて両の耳たぶを引っ張った。 「ちゃんと聞こえています。筝も習いましたから耳は悪くないはずです。おかしなことを言わないでください」 「そうじゃない。聞こえたことをここで」斎木はこめかみを指でとんとんと叩き、「考えるのが苦手なんだ」 暁が首を傾げたのを見て、斎木は傍らの夜着を彼女の肩に掛けた。暁は訳の分からぬまま袖を通す。 「ちっと長くなるからな。これからお前さん自身のことを考えてみよう」 皺だらけの顔がにっと笑った。 斎木が暁に手渡したのは、彼女が以前作った帳面の一つだった。斎木の口から出るであろう道具類、薬類の単語がいろは順に分けてまとめられている。小口には既に手垢がついていた。 「お前さんは三冊作ったが、最後に作ったこれが一番活躍してるみたいだな。よっぽど聞き慣れた言葉でもない限りは、まずこれで字を確かめる。正しい字さえ浮かべば、場所は覚えてるんだな、間違いなく持ってくる」 暁は一つ一つに頷きを返す。いたって真っ当なことを言われているとしか思えない。 「最初の二冊だけのときは大変だったな。何か一つでも聞き慣れんもんがあると、鸚鵡返しでぴくりとも動かなくなる」 「当然です。がむしゃらに動いても何にもなりません」 斎木はぺらぺらと帳面をめくっていたが、ぱたりと閉じて次に暁の目を覗き込んだ。 「読んでるな」 「……は」 「お前さんは、聞いたことを字にして目で読む。読んで噛み砕く。それから自分の返しを、これまた字で浮かべて読み上げる。違うかな」 暁は唇を舐める。斎木が見つめるその前で、彼女の目の焦点が合わなくなった。どう理解してどう応答するかなんて、それこそ瞬く間に進むことだ。いちいち言葉にしない。思い出せ、どうだった、読んでるな、聞いたことを字にして……。 「人がごちゃごちゃいる場所は嫌いじゃないか」 「……苦手です」 暁は顔を背けた。自分がひどくわがままなことを言っているように思えた。 「それから、そうだな、初対面の相手と話すのも避けるだろう。何故そう思うか。お前さん、一度覚えきったことを引き出すのは大の得意だが、相手の望むことを咄嗟に判じて臨機応変に対処するのは不得手だからだ。儂が二角の箱を動かしたときでさえお前さんは混乱した。箱が動いたら中身も動いて当然なのに、頭の中をぱっと書き換えられんのだ」 老人の目は、獲物を見付けた蛇のように彼女を貫いていた。違うと言いたかった、ただ人見知りするだけで、ただ混乱しただけで。しかし暁は惑う、どうしてたったふた月暮らしただけの男に、これほど言い当てられるのか。それも、今まで自分を苦しめてきた核心を。 どうしてあちら側に行けないのか。 「ま、そんなのはお前さんのずれが生む結果に過ぎないんであって、数え出したらきりがないぞ。どういう向きで世の中を見るにしろ、わずかずつ、あらゆる面で軋みは起こりうる」 「それは、やっぱり私だけなんですか。先生や家の皆は。……私は壬の、いわゆる良家に生まれました。幼い頃から年嵩の人に囲まれて育ったので、他愛もない話というのに、正直なところ慣れていません。だからだと思っていました。でも、やっぱり違うんです」 「つまり?」 「……私には、周りの皆がとても滑らかに動いて見えます。次に何が起きるか全て知っているんじゃないかと思うくらい。でも私は違う、うまく動けません。役も無いのに舞台に上がってしまったような……何を話せばいいのかすら見当がつかなくなるんです」 だからいつも升席から出ないよう心掛けた。暁に見える世界は彼女抜きでもすんなり回った。全ては滞りなく進むのだ、彼女さえ黙って芝居を眺めていれば。 きっと昔からそうだった。単に気付く切っ掛けが無かったのだ。壬で彼女に与えられていた役割は正にそれ――物言わぬ人形だったのだから。 斎木は暁を落ち着かせるようにひと呼吸置いて、厳かに両腕を組んだ。 「まず初めに、儂はお前さんになったことはないし、多分お前さんとは物の見方が違う。だから断言はしづらいのが正直なところだ。間違ってもいいなら言おう、お前さんは少しばかり生きにくいたちだ」 暁は目を見開く。不思議な感覚だった。刑を言い渡されるに等しい言葉でありながら、すっと心が凪いだのだ。 「だがお前さんばかりじゃない。儂は今までに何人か似たような奴を見てる。ここで診たこともあるし、よくよく耳を澄ましゃ町にもいる。驚くな、町医者にも怪しいのは多いぞ。特にここに連れてこられたのの大半はお前さんより厄介だ。門外漢でも気付くってことは余程だからな。それまで散々奇人扱いされてきただろう」 「ただ単に厄介な性分では、ないんですか」 「お前さんがそれを言うかね。……さあなぁ、何しろ産まれたときからずっと診てるわけじゃないもんで。ま、結局はどちらでもいいんだよ。周りと本人さえ良けりゃあな」 暁はじっと斎木の顔を見つめる。彼の言葉をどうにか聞き取って、瞬時に真名と仮名に書き分けて、読み取る。 「だがお前さんはそうじゃないんだろ。自分が厄介な性分だって思い込もうとして、でもどう治したらいいか皆目見当がつかんで」 斎木の目。 「……辛かったんだろ」 その言葉は、読み取るより先に彼の目から伝わった。 暁の視界がぼやけていく。そうかもしれない、不具な自分を認められなかった。間違いを正そうにも、どこで間違ったか分からず途方に暮れていた。 欲しかったのは憐れみではない。どれだけ足掻いても、どれほど情けをかけられてもあちら側へ行けないのなら、彼女が望むのは、どうしようもない辛さを代弁してくれる誰かだった。 「泣くな泣くな。儂の前で泣いていいのは若衆だけだ。慰めちゃやらんぞ」 肩を叩く手に何度も頷いて、暁は鼻をすすった。私、と涙まじりの声がかすれる。 「ん」 「先生がもうちょっとまともな人だったら、惚れていたかも」 「褒めながら貶すなよ」 暁もつられて笑い、目尻を拭って顔を上げた。 「分かってるかお嬢、お前さんはその分優れた目を持ってるんだ。耳を補って余りあるぞ。それにちっとは学もあるし物覚えもいい。心配するな、身入りのいい仕事はすぐ見つかる」 そしてつい数日前のことだ、彼は暁に一冊の分厚い書物を手渡した。ぱらぱらと中を眺めると、見たことのない字と見慣れた字がずらりと羅列されている。 「白菊一枚につきひと月貸してやろう」 「……分かりやすい押し売りですね」 「いやいやいや、最後まで聞け。お前さんがそれとそっくり同じものを書き写したら、十冊までは菊一枚で買い取る。そこから先は、品が出回るほど値打ちが下がるのが世の常だからな、八掛けってとこだ」 暁は改めて中を眺める。上下左右がほぼ見覚えのない字で埋め尽くされている。一体何の本だろう。 初めは見たことのない文字の山に圧倒されたが、目が慣れるとともに、出てくる文字が限られていることに気付いた。ふた月で副本を作ったとすれば菊二枚の借りを負うが、その後原本を返して副本を映していけば、三冊目からは純益になる。悪い話ではない。 「お前さんが黒い髪なら港番の下職にでも口添えしてやるんだが、まあこっちのほうが向いてるだろう。どうだ、やってみるかい」 暁は頷いて本を閉じた。そういえば、年明けてから港が騒がしかったことを思い出す。 「先生、この本はもしかして――」 「暁、お前何を書いてるんだ」 隣の部屋を覗いていた紅砂が青ざめた顔で言った。 「見た? 驚いたでしょう。あれ、異国の言葉を言い直したものなんだって。先生が港で手に入れたみたい」 暁が本を持ってきて彼に手渡す。紅砂ははっと表情を和らげて中を開いたが、その目は紙より遥か遠くを彷徨っていた。 「異国って、どの……」 「え?」 ぱたんと本を閉じる音。いや、と呟いて紅砂は立ち上がった。 「もう帰るよ。この辺も物騒だから戸締まりはしておけよ」 不思議そうな顔の暁に見送られて紅砂は路地を曲がった。 紅砂の母は物言えぬ人だった。実の親とはぐれたか捨てられたかは定かではないが、祖父が身を寄せた港で、幼い彼女は一人ぽっちだった。 西国の訛りでも祖父の郷言葉でも首を傾げるばかりだったが、幸い祖父が過去にいた異国の島の言葉は通じたので、以来祖父は父と母に対して、異国語である島言葉と、西国の訛りとを併せて話しかけていたようだ。そしてそれは祖父没後の両親が坡城へ移り、紅花が小間物屋の養子に出されてからも同じだった。 ……我に返って首を振る。浅はかな、何を今更知りたがるのだ。 ふと紅砂は前方の人だかりに気付いた。先程の見世ではない。人が取り囲むざわめきの奥の奥から、殴りつける音、骨の軋み、呻き声。 「何の騒ぎだ」 群れの外周にいた男の腕を掴む。彼はにやりと笑って喧嘩だよと短く答えた。 「喧嘩……?」 違う、音だけでも明らかだ。どちらかが一方的に殴り付けているのだ。脳裡に浮かんだのはいつか見た境での光景だった。違うのは、周りがそれほど熱を帯びていないことだけで、それすら異様だ。 「とにかく港番を……」 走り去ろうとした紅砂の腕を、同じ男が掴んだ。睨めつけるように低く。 「ただの喧嘩だっつってるだろ」 「だとしても」 「港番にゃさっき誰かが行ったはずだ」 横から口を出したのは別の男だった。口々にそうだと声が集まる。紅砂が動けずにいるうちに音は止み、結び目が解けるように人だかりが散った。 後に残ったのは土の上に横たわるぼろきれのような姿と、周りに飛び散った血の跡だった。踏まれて土に埋もれた、あれは歯か。髪の茶色が夕日の下でやけに鮮やかに映った。 「しょうがないよな、壬なんだもん」 声変わりもしていない子供の声が通り過ぎていった。紅砂の肌が粟立つ。これは仕方のないことなのか。壬びとが、ただ出自だけを理由に受忍すべきものだというのか。 港番が向こうからのろのろとやって来るのが見えた。 東雲の大火から六年、壬の大火から四年。逃げる人々を受け容れ続けてきたこの国が鈍い軋みを上げるのを、紅砂は聞いた気がした。 戻 扉 進 |