そこは都から離れた小さな漁村だった。周り半分を海に囲まれた国の端で、胡麻粒一つ余分に突き出たような形をしており、辛うじて国と繋がっている道も大波のときは水の底に消えて、まるで島のように、最初から島でしかなかったかのように、ぽつんと取り残された。
 胡麻粒のほぼ中央には国を背にするように小さな山が一つ、天辺に古い社が一つ。裾野は木々に覆われ、途中からなだらかに変わって、取り囲むように家々が並ぶ。家は外周へ行くほどみすぼらしいものが多くなった。最後の一周は舟着き所の小屋で、そこから先は半分浜、もう半分は岩を積んだだけの波止である。
 雨はよく降ったが、傾斜のきつい大地では川から海にするりと逃げた。畑を作るのも難しく、青物はどこかの商い手が売りに来るのを待つばかりで、人々の多くは魚と質の悪い塩を売って糊口を凌いでいた。
 その村の内周に近い一軒にはただ一人の医者が住んでいた。妻には早くに先立たれ、娘と二人で切り盛りしていたが、それでも村の者の中ではずっと良い暮らしをしていた方だろう。
 娘は名を絹といった。
 日課は炊事に掃除洗濯、父の手伝いとして水汲みや患者の出迎え、見送り。村に父はもちろん、彼女の顔を知らぬ者もなかった。
 絹は浜辺を歩くのが好きだった。ひと目に収まりきるほどの小さな浜だったが、時に見も知らないものが流れ着いた。何も無かったところにある朝突然現れ、海と朝陽を浴びて輝くものたち。数日足を汚してやっと都に繋がるという土臭い一本道より、それは若い彼女の心をくすぐった。
 嵐の翌朝は格別だ。貝や海枝や木の実、一夜にして浜に生える別世界の生き物のような流木、どこぞの大舟から流れ出した綺麗な飾り――と幼い彼女が信じていた玻璃の欠片、岩に引っ掛かった見慣れぬ柄の布、読めない字の彫られた板きれ、舟。
 舟に乗っていたであろう、人。
 岩の向こうに傷だらけの足が見えたときも彼女は落ち着いていたし、その男に脈があり浅く息をしていると分かっても、取り乱すようなみっともない真似はしなかった。岩陰に日は射さず、土は冷たかった。土気色をした若い肌。彼の瞼がぴくりと動いて弱々しい目が覗くのを、彼女は父譲りの冷徹さでじっと見つめていた。
 彼女が驚いたのは、そう、ただ単に、彼の目や髪が自分と違う色をしていたからだった。

 絹が男を家に運び込んで甲斐甲斐しく世話を焼いたのは、驕りだったのかもしれない。
 何事もなく過ぎる毎日の中で琴線に触れた「つもの」を、都なんぞに引き渡すのが惜しかった。怪我人を介抱する口実に医者の娘という立場を使った。
 何より隠せる条件が整っていた。人の出入りの少ない端の村であるうえ、彼女の父を、彼女を、彼女の家とそれが背負うものを、疑う者もいなかった。
 唯一不安げに目を伏せたのは父だった。男が来て数日のち、取り換えた晒しを盥に入れて戻ってきた娘を見て、父は本を置き囁いた。
「彼んことは、ええと、上に言うたがええじゃなかろうかね」
「馬鹿言わぁでお父ちゃん。ちょっと色ん違わぁけ何、都にゃあやぁ人がごろごろしやぁかしれんのよ。海によう潜るもんは髪が茶ぁけてくるてん言うし……。田舎もん晒さぁで、恥よ。それに本当に外つひとでん、どやぁして帰るね。この浜からじゃろ。都ん送って見世もんじゃしやぁが、心底あれん為て思とらぁかね」
 父は一度絹がそう答えて以来、何も言う様子はない。
 だから絹は暇を見つけては彼のもとへ行った。
 絹も、本当に彼のような容姿の者がそこらじゅうにいると思っていたわけではない。彼の着ているものはつくりからして絹のものとは異なり、嵐の中でぼろきれになってさえ外つものだと分かった。鳶色の髪も薄曇の空のような透き通った目も作り物を見ているようだったし、何より絹の話す言葉をまるで理解しなかった。訛りのせいかと紙に仮名を書いてもやったが、特に反応は無かった。
 不安そうに瞬きを繰り返す彼を見て、絹は彼の怪我に安堵したものだ。右も左も分からない彼は当分動けないほうがいい。
 それでも彼が何とか声を出せるようになって、絹は彼の名を求めた。互いに名を知るところから始まり、少しずつ明かしたかった。彼はどこから来てどこへ行くつもりだったのか。何をしていたのか。他に連れはいたのか。
 彼女が現れると、男は上肢を起こして出迎えた。介抱するうちに彼は、彼女にはすっかり心を許していた。慌てて枕元に寄って背を支えてやる。
 双方が座ると、絹は改めて彼の堂々たる体躯に圧倒された。広い背、がっしりとした肩。肌には赤みが戻り、弱々しいのは表情ばかりだった。
 絹は安心させるように微笑んだ。
「こんにちは、私は絹。布ん絹ね。浜辺に流れ着いとうたあんたを拾うて助けたん、覚えとうが。そんでね、あんたあんたて呼ばぁも不恰好やし、あんたん名ぁ知りたぁがやけど」
 男はさかんに瞬いて、絹には分からない言葉を早口で呟いた。一度で伝わらないことは覚悟の上だ。絹は自分の胸をぽんと叩いた。
「絹。私ん名よ。絹。き、ぬ。分かる。言うてごらん、絹」
 繰り返すうちに彼は、その二文字が彼女の名だと理解したようだったが、たったそれだけの短い響きがどう難しいものか、しばらくキンだのケンだの下手な発音しかできずにいた。ところが絹がその意味を教えようと、彼女の持つ数少ない絹布を見せて「絹」、自分を指して「絹」と伝えた途端、彼の表情はぱっと明るくなった。
「すゆ!」
 絹が無理やり真似ればそんな音になるだろう。実際は「すゆ」と「しや」の間、彼にしか出せない音だった。
「ち……違わぁや、絹て言いようじゃろ」
 慌てて否定するが、彼は首を振ってすゆと繰り返した。それがあまりに嬉しそうで、それに絹をすゆと呼ぶことは彼の出自を明かす一助になりそうな気もして、絹も最後は諦めた。
「分かった、絹がすゆで私もすゆ。そんじゃあんたは」
 絹が彼を指すと、彼は何か早口で前置きして口をはっきり開いた。
「ぐれん」
「……は?」
「ぐれん。ぐれん、ろほう」
 聞き慣れぬ音につられて夕暮れが頭に浮かび、間をおかず字が浮かんだ。紅蓮。ふっと不吉なものを感じて絹は眉を寄せる。まるで地獄の名前ではないか。
「それがあんたん名ぁかや、紅蓮て。あんた、紅蓮?」
 彼は満足げに頷いて、ぐれん、ろほうとまた言った。たとい偶然の一致であったとしても、炎を思わせる響きは良くない。ただでさえ見慣れぬ姿なのだ。
「その、ろほう言わぁは何。そんも名ぁかや」
 問うても、男は自分を示して同じことを繰り返すばかりだ。早く言うと、れん、ろう、としか聞こえない。困って黙り込んだ絹に気付いて彼も口を噤む。
 ふと気付いたように、彼は絹に手を伸ばした。まだ傷跡の残る大きな手。思わず体を竦めたが、彼の指は彼女に触れる間際で止まった。
「ろほう」
 彼が指したのは絹の唇だった。怪訝な顔に気付いたか、彼は彼女と絹布を指して「すゆ」と言い、自分と唇を指して「ろほう」と言った。途中からは彼女の頬や、彼女の着物の柄、かさぶたの張った自分の傷口さえも指して同じことを言った。
「色……かや? 紅んことなん」
 絹は簪を引き抜くと、揺れる珊瑚の飾りを指して「ろほう」と言ってみた。彼は手を叩いて喜んだ。顔をほころばせ、心なしか目尻には涙も浮かんでいた。何を大袈裟なと思いつつも、よく考えれば、遭難して傷だらけで異国に打ち上げられた彼が、初めて誰かと通じ合えた瞬間なのだ。
「あんたは紅蓮、それともろほう、どっち」
 男は自分の胸を叩いてぐれんと言った。問いを変えつつよくよく聞いてみれば、いずれも名だがろほうとはいわば姓のようなものらしかった。紅が姓で蓮が名、と絹は納得する。「蓮」だけならむしろ清らかな響きだ。
「蓮て呼ばぁよ。いいね、蓮」
 蓮の村での生活が始まった日だった。

 蓮は優れた教え子だった。彼女の言葉の指すものを一つ一つ粘り強く訊き直し、聞き直し、口の中で繰り返し、自分のものにしていった。筆と紙を与えたときも、最初は持ち方すら分からぬ様子だったが、すぐに覚えて言葉の記録に役立てた。紙を縦長に置き、字を横向きに書くのも彼のお決まりだった。
 ある日覗き見た彼の覚書は、彼女には読めない字と下手な絵のようなもので埋め尽くされていた。
「これはらかさ、これはいるま、これはお金いりねろご飯らこみら、すゆん作らぁは毎日美味ぁ」
 あるところへ辿り着くと、彼の目には一片の哀しみが宿った。
「これはいばるこで、わぁが乗ってきたもん。漁をしてたいすたばびすかんど嵐が来たとらぱどのなとるめた……。すゆん父ちゃのことも書いた、医者いどとう。人を助ける、素晴らしいこと」
 まだ思い通りに話せない蓮の言葉を繋ぎ合わせると、彼の辿った経緯はこうだった。
 彼はこことはまるで違うどこかの国に住んでいた。年は絹より六つ上、親を早くに亡くし、唯一の身寄りである兄と身を寄せ合って生きてきた。稼ぎを求めて国を転々とした彼らが最終的に落ち着いたのは、別の国に属する島の港だった。「わぁの名は、じゃけ島風やが」とは蓮の弁。ある日二人で沖に出たところ潮の流れを読み誤って、道を失い流された末、嵐に遭ってこの浜辺に流れ着いた。兄の行方は分からない。帰るあてもない……。
 ひと月、ふた月。体が回復し、たどたどしいながらも言葉を覚えて、蓮は日中家を空けるようになった。体が訛るし、いつまでも絹と父の世話になってはいけないからと、漁の手伝いをすることにしたらしい。彼の肌が日に焼けて色を帯びる。
 半年経ったくらいから漁師飯を食べて帰ってくるようになり、一年経つ頃には、夜も漁仲間のところで過ごしてくるようになった。門の前には折々に桶いっぱいの魚が置かれた。だが季節が巡り魚が一巡しても彼は姿を見せなかった。
 がっしりとした体つきの彼は海に出てもよく働いたし、潮を読み複数の舟で魚を追い込むという今までに無かった漁法で大漁旗を上げ、もはや絹なしでもすっかり村に溶け込んでいた。
 元々、傷ついて行き場所のない彼を置いてやっていただけだ。そう思いつつも絹は、気付けば三つめの椀にアラ飯をよそっていた。
 シケで漁に出られなかった日のことだ。夕には風雨が止み、絹は蓮を連れ出して浜を歩いていた。
 絹は冷たい潮風に吹かれながら先を歩み、蓮がそれを追った。しばらく会わないでいたためか、どちらの口も重かった。だが絹は自分に非が無いと信じている。蓮は漁待ちで舟着き所の小屋に詰めていた。そこに現れた絹を見て、彼は事もあろうか「お嬢さん」と口走ったのだ。お嬢さん、などと!
 海に出て一体何を学んできたのだ。
「蓮、あんたがここん来て三年経たぁね」
「もうそやぁ経ちますか。あん時は本当に世話んなりました。お嬢さんが見付けてくれやぁだ、わぁここん居りません。どやぁ感謝しちゃしきれん」
 彼の言葉は驚くほど滑らかだ。まるで彼女が見付けたときの蓮ではないようだ。
 それだけではない、彼はこれほど逞しかっただろうか。今彼女が彼を背にして歩くのは、それも一因だった。
「あんた漁師うちでも評判ええてね。もちろん人づてん聞いただけやが、あんたはまるで戻ぅて来んし」
「や、本当に……あの頃んこたぁ恥ずかしい限りで。毎日毎日世話受けて、美味いもん食わしてもろうて、漁出るやぁなって知りました、先生がどやぁ皆から有難がられとうか」
 そんな言葉は要らなかった。海の果てでは灰色の雲が、暗い水と接する間際まで垂れ込めている。絹は足を止めた。ひと息遅れて彼の足音も消える。
「漁は辛なぁか」
「ここん来る前も、わぁ海ん居ったがです。幸い皆、こやぁ身形ん違うとるわぁにも優しい。恵まれとうがです」
「あんた、ずぅとここで暮らそう思とるん。故郷は」
「……どや戻ろうも分からぁし、元々兄ん他に身寄りん無ぁ身ですけ」
 絹はくるりと振り返った。もはや蓮の顔も見分けられないくらいに日が暮れていた。
「妻や子は」
「ですんで身寄りは……」
 絹はしっとりと湿った砂を踏んで彼に歩み寄る。浜に彼女の足跡だけが増える。
「だら私と身寄りんならぁかや」
 蓮は息を呑み、彼しか知らない懐かしい呼び方で彼女の名を呟いた。
「そうでんせんと、あんたまた嵐ん日にどこでん行きそうやが。どこぞで、どうせ身寄りん無ぁけここでもええて、そう言わぁじゃろ。ここん訛りも何も忘れよろうが」
 蓮は「でも」で始まる言葉を一頻り投げかけ、絹は一歩も引かなかった。とうとう蓮は困ったように笑って彼女の手を取った。冷たくなった彼女の頬と唇に、紅色を示した時とは全く違う優しさを以て、そっと触れた。
 絹は蓮を手に入れた。碇のように彼を繋ぎとめておくことに成功した。ただ一つ誤算だったのは、当然父を継ぐだろうと思っていた彼が、夫となってからも海に出続けたことだった。



 まだ夫は帰って来ない。
 泣き出した幼子をあやしながら絹は溜息を吐く。
 蓮との間に産まれたこの男児は、顔立ちは夫に似ており、髪や目の色は絹のものを受け継いでいた。
 この子が寝返りを打ったときも、初めて歩いたときも、喃語を話すようになったときも、彼は傍にいなかった。したことといえば何だ、時々魚を獲ってきて、時々青物を買ってきて、時々彼女の傍にいる。
 たまに帰ってきても詫びるわけでもない、彼女の機嫌を取るわけでもない。漁の途中、ちょっと都近くの港に舟を着けて、綺麗なべべを買ってくるわけでもない。
 子の名だって、彼はいくつか候補を出したにすぎなかった。彼は話すだけなら支障ないが字の読み書きはできない。彼が例によって横向きに書き出したよく分からない文字を、一つ一つ声に出してもらって、一番字にしやすかったものを彼女が選んだのだ。
 だから幼子は名を樹という。じゅ、である。それだけではあまりに格好がつかないので、夫以外の前では紅樹(こうじゅ)と呼んでいる。紅とは久しく忘れていた夫の姓だった。
 彼女自身は夫に姓をもらうこともなく、父から受け継いだものを今も使っている。
 村に彼女の顔を知らぬ者はいないが、やはり父の姓を名乗るほうが体が引き締まる。村に一つしかない医者の家の者なのだと誇らしい気分になるのだ。この村の者の命を預かっているという自負が、子に付きっきりの母となった今も彼女を支えていた――彼女自身が治療を施すことはできないにしろ。
 彼女は漁師の妻でも緑児の母でもなく、医者の娘だった。
「先生んとこも男ん子が生まれんさって安泰じゃぁね。婿もよう働くし」
 がらりと戸が開く音がして足音が去る。二軒隣のおばぁだ。冗談ではない。日がな一日波に揺られているような男が婿で、何が安泰か。
 あやす腕が止まっていた。子がまた声を上げる。絹は立ち上がって子を揺すり、途切れ途切れに子守唄を歌う。
 父も若くない。いつまで患者を診られるか分からない。やはり戻ってきたら彼にきちんと話そう、あなたの家はここなのだ、ここにいてもらわなくては困る。この子だってなかなか顔を覚えないではないか……。
 絹は時々考える、何故彼を選んだのだろう。思えば彼女は、自分が外つものに過剰な願いをかけすぎていた気がした。
 そもそもこの村には彼女の夫となるべき者がいなかった。彼女の家に近い数軒は、海近くに並ぶ家々より少しはましな門を構えている。それでも駄目だ。この家を継ぐには年が離れすぎていたり、学が足りなかったりした。
 では読み書きのできない彼が彼女の期待に添えたのかと言われれば、それも疑問ではある。だが彼は自国の文字はすらすらと書いたし、言葉の覚えも早かった。新しい漁法を広める要領の良さも人付き合いも巧さも持っており、素養があるように見えた。
 何より……この村の男特有の(へつら)いや泥臭さが無かったのだ。
 蓮を拾ってから、彼に言葉を教えて、彼が家を出て行くまでの短い期間、絹は幸せだった。何がどうとはっきり言えないが、珍かな外つものを連れ、それでいて咎められない権威を感じ、右も左も分からぬ彼にあれこれと指示を出す。そんな日々に彼女は満足していた。
 そんな漠然とした幸せが戻ってくると思った。なのに彼女は思い通りにならない緑児に振り回され、疲れた顔で夫を待っている。
 都へ続く道は、土臭くて嫌いだった。浜辺に流れ着くものが好きだった。それは自ら歩いていくこともできず、父や祖父が長年かけて育て上げた家の名にしがみ付き、気を晴らすものが舞い降りてくるのを待つ、彼女自身の縮図だった。
 自分で認めようが、認めまいが。



 結び髪からほつれたひと束が、彼女の頬に張り付いていた。
 空は重い紫、海が唸る、風が雨雲を呼ぶ。激しい水の音がすぐそこに聞こえる。濁った色、渦を巻く、濁った音。
 彼女は見た、大地が動くのを。土が崩れて木が震えながら倒れゆくのを。そしてその幹の下には、父が。
 ――初めはただの雨漏りだった。屋根を打つ土砂降りの雨と、不気味な音を立てながらどんどん嵩を増していく雨受け桶の水。四つになった紅樹は震えてばかりいる。夫は一昨日海に出てから帰って来ないし、父も、具合を悪くした老人の家に出掛けている。
 悲鳴のようなものが聞こえた。裏戸を開けて見ると、川が濁流となって流れ落ちていた。山を登っていく複数の後姿。
 絹は戸をぴたりと閉めて子を抱き寄せた。この家は大丈夫。海から離れているし、ちょっと雨漏りしたところで壊れやしない。
 次に聞こえたのは表戸を激しく叩く音だった。絹の父を呼んでいる。紅樹を置いて戸に駆け寄ると、隙間から皺深く日焼けした男の顔が覗いた。髪が頭の形にべったりと張り付き、顔じゅうに水の流れた跡がある。
「ああ、お嬢さん、御無事で」
 彼は身を乗り出した。じゅくじゅくに湿った肌や髪や衣から水が散る。絹は一歩身を引く。
「父は出掛けとうがです」
「そやお嬢さんだけでん逃げやぁ。浜のもんは皆、山ん上っさん逃げとう。ほ、天辺に社さんあろうが」
 馬鹿な。まるでこの家では駄目とでも言いたげだ。海からこれだけ離れたこの家の何が危なかろう。
「うちじゃて、家ないもんを休ませるくらいの間ぁありますけ。誰ぞここん逃げてきょうたらどやぁします」
「じゃで」
「父は私と息子がここん居るて思とりますけ。父が戻ぅてくるまでは、こん家守らぁは私です。気にせんで社でん何でんお行きなさい」
 絹は戸をぴたりと閉める。子を抱き閉める。どこかの隙間から唸り声のように吹きくる風。がつんと壁に当たる物音、衝撃。湿って重い足音がいくつも家の前を過ぎていく。何かが倒れるけたたましい音。自分が言ったことを噛み締める。大丈夫、間違っていない。もう雨は止む。
 ひやりと足に冷たいものが触れて、絹は小さな悲鳴を上げた。見れば桶の水が溢れ出して板間を濡らしている。もはや雨漏りも、数珠繋がりとなって途切れることなく降り、それと同じ量が桶の縁からこぼれていた。
 子を抱きかかえて部屋の隅に身を縮める。水がにじり寄ってくる。浅く息をする。
 この子だけでも連れて行ってもらえば良かった。
「絹! 紅樹!」
 再び戸を開けたのは父だった。彼の顔にも無数の水跡が流れている。
「何しとうじゃ、なぁて逃げん」
「じゃで……こん家さん逃げよう人も居るかしれんし」
「阿呆が、もう皆社さん逃げとうわ。早う出るぞ。紅樹、爺ちゃに負ぶさるか」
「こん家捨てるがか!?」
 絹、と父は彼女を呼ぶ。
「お前は何学んだがじゃ。家より命惜しめ。家はまた建てたらええ。そんに、覚悟んありゃどこでん生きらるぅもんじゃ」
 束の間の沈黙。壁一枚向こうではごうごうと水、風。彼女は唇を噛んで頷いた。
 息子を預けて身軽になった絹は、戸に踏み出しかけて立ち止まった。待ってとひと声、彼女が向かったのは父の部屋だった。若くない体に孫を背負い、彼女の父はよたよたとそれを追う。自分の部屋で彼が見たのは、ずぶ濡れになった風呂敷に書物や薬をせっせと詰め込む娘の姿だった。
「絹!」
「待って、もうちょっと」
「やめんか……!」
 彼は孫の尻を支えていないほうの手で、不器用に娘の手を捻り上げて頬を叩いた。
「まだ惜しいもんがあるか! 吾子や我が身より他に何が要りよう!」
 ばしゃり、水の中に手をついて娘が起き上がる。その目は涙に濡れながらも、炎のように猛っていた。
「お父ちゃんはお医者やが! 怪我人は山ほどおるじゃろし、熱出すもんもおるじゃろ。病も流行るかしれんのよ! 私にゃこれしかできんの。こんくらいさせて、こん村に……」
 お医者はお父ちゃんしかおらんの。
 ざあざあと雨、どうどうと水。
 押し黙っていた彼は孫を下ろすと、彼女を押し退けて座った。
「紅樹連れて先ん行け。三軒右隣から奥道ん入ってひたすら上じゃ。川にゃ近寄るな。橋も渡るな」
「お父ちゃん……は」
「後から必ず追う! 早う行かんか!」
 彼女は弾かれたように息子を抱え上げた。

 社へ走る途中だった。振り返った彼女は、大地が動くのを見た。結び髪からほつれたひと束が、彼女の頬に張り付いていた。
 父譲りの冷徹な目は、彼女の父が倒れた幹に挟まれ、土に呑まれる様を映し続けた。
 彼女の足元がぐらりと傾いたのもその直後だった。



 蓮がやっとの思いで帰り着いたとき、そこは見知らぬ土地のようだった。まず彼を迎えたのは濁った海に浮かぶ瓦礫の数々。打ち上げられてがらくたと化した舟。変わり果てた村の姿はもちろんのこと、敬愛する義父は既に帰らぬ人となっていた。川が氾濫して木の根元から地が崩れ、家を押し潰したらしい。
 そして妻は。
 案内されて、蓮はだだっ広い社の大間を奥に進む。空元気で薄い増水を炊く者も、寝込む者も、亡骸も一緒くただ。
 妻は壁を背にうずくまり、傍らに眠る息子を撫でていた。蓮の姿を見付けて彼女の顔にわずかに安堵の表情が浮かぶ。蓮はゆっくりと歩む。疲れ切った絹の目に涙がにじむ。歩む。絹は彼の腕が抱えるものを見て目を見開く。
 そして目の前に立ったとき、彼女は全てを諦めたような顔になっていた。たった十数歩で、彼女は十年分も老けたように見えた。ぽつりと呟く。
「なぁて今なん」
 はらりと耳にかけた髪が頬に落ちる。
「遅いわ……」
 彼女の足はもう動かなかった。

 連れ帰った女児について彼は多くを語らなかった。幼いその子はまだ三つばかりか、絹と同じ黒目黒髪でありながら目鼻立ちはくっきりとして、それは紅樹にも見られた特徴だった。
 育てたいとだけ蓮は言った。別の地で子を作れる男ではない。彼の真意を知るのは遅くなかった。女児は口がきけなかったのだ。音には反応したが発語が無いので、どこの言葉を――つまりは黒髪黒目の親の言葉とはっきりした顔立ちの親の言葉、いずれを解すかは分からなかった。
 だから蓮は、捨てられたか親とはぐれたか、身寄りの無かったその子を連れ帰った。
 なんと篤い情けよ。
 絹は反対しなかった。口数そのものが減った。女児の名は紅樹のときと同じく、蓮がいくつか挙げたものを彼女に選ばせた。自分で好きなように付ければいいのにと目を背けた彼女に、蓮は言った。名は体に染み込み足を通って土に還るもの、この地に合うものを付けてやりたいと。それにお前は、自分にも蓮という呼び名をくれたではないかと。
 四人が揃う場で彼はことさら明るく振る舞った。くれあと名付けた女児を、妻が心から受け容れていないのを感じ取っていたのだろう。
 その後、蓮は海から離れて暮らした。出歩けなくなった彼女に寄り添い、たとい笑顔が見られずとも、たとい稼ぎが減ろうとも。
 絹が病で息を引き取ったのは、あの嵐から十年が過ぎた、よく晴れた日のことだった。
 最期のとき、彼女は息子を呼び寄せた。
 お前の父は、言葉ばかり達者になって読み書きは下手なままだった。だから気付かなかったのだろうよ。親しく言葉こそ交わさなかったが、私はとうにあの子を受け容れている。ごらん、あの子の名の響きは紅葉(くれは)とも書けるだろう。お前が教えておやり。
 色々に悔やんできたものだよ。それでも私は幸せだった。歩けなくなってからかもしれないね、本当にそれを知ったのは。横たわれば空だってほら、こんなに広い。





「呼びに来たわ」
 若菜が体を離すと、ほどなくして襖の向こうから呼び声がした。終わりの刻だ。
「……さよならね」
 目を伏せて笑い、いつもと同じように彼を送り出す。彼の生きる娑婆(うつしよ)へ一歩一歩。
 爪先が外に出ただけで夕空の肌寒さが身にしみた。衣に残った体温がほろほろと剥がれるように冷えていく。袖に手が触れてしまったのだろう、彼が振り返った。
「ねえ、あなたの名はじゃあ、砂のひと文字ってわけ」
「そう、(せんり)だ」
「面白い話だったわ。……じゃあね」
 それきり彼は振り返らず、若菜も何も言わない。また来てねと言い、また来るよと言われたところで、それが何になろう。体温に続いて表情が流れ落ち、体も気怠さを増す。彼の姿が消えると、若菜はくるりと背を向けて軋む階段を上った。恋はしない。この身がもたない。
 襖を開けて、しかし彼女はぎりと唇を結んだ。
「まあ綺麗な蒲団だこと。可愛い旦那ね、若菜」
 蒲団の端にちょいと腰掛けていたのは山吹という女郎だった。わざとらしいほどしっかり形を取った眉と唇が、青白い顔の中で浮いて見える。毒々しい赤から吐き出される煙、ああ厭だ、この女が吸うだけでなんて不味そう、まるで蛇の舌のよう。
「まさかあんたのこと、おぼこだと思ってるんじゃないの。それとも役に立たないのかしらね。ねえどっちに賭ける」
「出ていきな」
「冷たいわね。用くらい訊いてくれたっていいじゃない」
「またぶん殴られたいの、櫛のときみたいに」
 不満げに唇を尖らせていた山吹は、若菜が拳を振り上げるのを見て頬を引きつらせた。慌てて蒲団から離れる。
「や……やめてよ、怖い女。違うのよ、面白い拾いものしたの、あんたの旦那に見せたいのよ」
「知ったことじゃないわ」
「聞いてよ。あんただってひと目見れば分かるわ。あんたの旦那じゃないと駄目なのよ」
 若菜は見定めるように山吹の顔を眺めた。いつも突っ掛かる物言いをするくせに、今日の彼女には懇願の姿勢が感じられたのだ。

 山吹を追い、鳥屋を過ぎて狭い廊下を行く。この辺りの部屋は見世の裏にあたり、窓を開けても裏の見世の汚い壁がすぐそこにあるから、昼でも薄暗いうえ湿ってかび臭い。好んで足を向けたい場所ではなかった。どうせ物置になっているか、昔押し込められた折檻部屋があるくらいだ。
「山吹。あんた、まさか騙してやいないだろうね」
「違うわよ。静かにして」
 先を行く彼女が開けたのは奥から二つ目の部屋だった。若菜は念のため部屋には踏み入れず、肩越しに中を窺い見る。山吹が小さく声を掛けた。
 蒲団の山が動いた。
 息を呑む。奥からもぞもぞと現れたのは、もはやほとんど影しか見えないが男の背丈だった。
 若菜は悟った、山吹は男を匿っているのだ。お尋ね者か金の無い良人かは知らないが、いずれにせよ許されることではなかった。
「あっ……あんた、なに馬鹿なこと……。し、知らないわよ、あたしは戻るからね」
「待ってよ、やだ、ねえ、聞いてってば。あんたしか頼れないのよ」
「今まで好き勝手してきて、何が頼れないよ。あんたに頼られたかないわ。離しな、大声出すよ」
 後ずさった若菜の腕を山吹が掴む。もみ合っているうち、蒲団の山に棲んでいた男が二人に近付いていた。
 低い声が聞こえた。はっとそちらを向く。屈んだ男の顔が眼前にあった。若菜は目を閉じられなくなる。
 男の声がゆっくりと何か繰り返す。若菜が固まったままでいるのを見て、彼は悲しげな溜息ひとつ、腰を伸ばした。
 既に、山吹に掴みかかった指からは力が抜けていた。ようやっと分かったのだ、どうして山吹が仲の悪い若菜を頼ってきたか。どうして「若菜の男」のことを気にしていたか。
 山吹の匿う男は、聞き取れない言葉を話し、紅砂に似た色の目を持っていた。ちょうど、先程の話で絹が匿った蓮のように。
 思えば、このとき砂漏はひっくり返ったのだ。彼女自身が気付かぬうちに、さらさらと、音もなく砂は零れ始めていた。
 




三ノ年