その夜、縁側には何も置かれていなかった。だから紅花は障子を開けた。
 部屋の中はすっきりとしたものだった。元々物が少なかったのが、更にがらんと人の匂いを失って、廊下を挟んだ向かい部屋とは対照的だ。
 畳の上には弱々しい灯りが一つ、畳まれた蒲団に箱膳、行李、風呂敷が二つ、そして後姿の暁がいた。彼女は紅花に気付かぬ様子で顔をうつむけており、後れ毛と白いうなじが、痛々しいほどはっきりと見えた。
 暁自ら身の回りを片付け始めたというのは、紅砂から聞いたことだった。
 前の一件以来、紅花が彼女の部屋に入ることはなかった。この頃では部屋に近付いたとて彼女の気配は乏しく、紅花から話しかけることも無かった。角に一番近い障子を開けて膳を差し入れれば、数刻のちには片付いたものが縁側にぽつりと置かれていた。
 それすら忘れて何をぼうっとしているのか。
 紅花は口を開きかけ、ぐっとこらえた。暁は先方の用意が整えば家を出て行くのだ。今、殊更がなり立てることもないだろう。
 膝を折って膳に手を掛ける。暁の影がぴくりと動いたように感じた。
「あ……」
 目が合った。
 暁は今更驚いたように口元に手を当てた。視線がつっと逸れる。紅花は彼女をじっと見つめる。
「これ持っていくけど」
「……あ、うん、ごめん、忘れてた」
 心ここに在らず、だ。紅花は膳を掴んで膝を伸ばす。その指先をかすめたものがあった。
 暁の指だった。彼女の目は縋るように紅花を追いながらも、ふと思い出したようにどこか遠くを見つめていた。途切れ途切れの言葉が続く。
「あの……今夜、できたら一緒にいて……ほしいんだけど」
「具合でも悪いの。黄月を呼ぼうか」
 暁は首を振ったものの、それ以上は何一つ説明が無かった。紅花は暁の伸ばした指をちらと見る。邪険にするのは憚られた。
「これだけ洗ってくるから、蒲団敷いて待っときな」
 箱膳を見せると暁は納得したように指を引っ込めた。

 紅花が戻ると、暁の部屋にはきちんと蒲団が敷かれていた。
 ぼうっと畳に座り込んだままの暁を尻目に、紅花はさっさと蒲団にもぐり込む。しばらくして暁の息遣い、衣擦れが聞こえた。部屋が一段階暗くなって黒い影が彼女の隣に横たわる。
 しばらくそうしていた。耳がしんと沈黙の音を捉えるころ、暁に近いほうの肌がわずかな気配を感じた。
「ごめん、居辛いだろうね。でも許して。もう出て行くから、最後のわがままと思って」
 くぐもった低い声だった。天井を見つめたまま答える。
「居辛くはないわよ。ここはあたしの家なの。生きてきた半分以上をここで過ごしてる。この部屋だって、あたしが使ってたこともあるんだから。それにあんたの家でもあるでしょ」
 蒲団の中で頷いたらしい声がした。
「……さっきの一つ訂正させて。最後の、じゃなく今年最後のわがままにして」
「図々しい」
 たった二言三言の会話でも、固まっていたものがわずかに和らいだ気がした。紅花は暁に体を寄せた。
「暁。まだ眠る気無いんでしょ。この前言ったことは、言い方はきつかったかもしんないけど、あたし謝る気はないからね」
 あの日のしこりに、これほど無造作に触れるとは思っていなかったらしい。暁が身を竦めて小さく謝罪を口にした。
「やめてよ、あたしを宥めるためだけに謝られたってむかむかする。いくら蚊帳の外ったって、この騒ぎではあたしも驚いたし傷ついた、だからそれを正直に言っただけ。間違ったことも言ったかもしれない。でもあんたの言い分なんて、あれまで全く聞こえてこなかったのよ。今あたしが何言いたいか分かる? あんただってあたしに言い返すべきだと思うの。違うことは違うってはっきり言って。今聞かなきゃ、あんたのことずっと誤解したままになる」
 言ってしまったことは消せない。あのとき暁を責め立て何も弁解させなかったのは彼女だ。これは彼女の考える、正しい歩み寄りのかたちだった。
 しばらく考えたのちに暁は頷いた。紅花はほっと次の言葉を待つ。
 だがいつまで経っても暁が口を開かず、焦れて先に口を開いたのも紅花らしいところだった。
「ねえ、あたしが何言ったか覚えてる?」
「……あんまり」
「あーもう、これだからあんたは! 分かったわよ、じゃああたしが訊いてくから」
 暁が神妙に頷くが、微妙に笑いを堪えているのが分かった。紅花だって分かっている、この流れは暁が来たばかりのときとまるで同じなのだ。
「あたしのやり方は分かってるでしょ、悪いけど核心から訊くわよ。まず……織楽のことはどうなの」
「身に覚えがない」
 きっぱりとした声だった。紅花は思わず言葉に詰まる。暁を責め立てた言葉の大半は織楽に関することだった。
「そう。……でも、じゃあ浬が嘘を吐いたってことになるけど」
「私にそこまでは分からない。私が浬について知っているのは、雨呼びや、それを行う私を心の底から憎んでいること。随分長いこと騙されてきた」
「針葉が季春に乗り込んで騒いだっていうのは? 疾しいことが無いなら、いくら織楽が悪乗り好きの馬鹿だからってそこまでさせないはずよ」
「分からない」
「じゃあ……ううん、もういい、はっきり訊く。あんた織楽のことどう思ってた」
 暁がはっと息を呑んだ。
「仮に、仮によ。浬の言うように朦朧としてたとして、間違っても黄月に会いに行きやしないでしょ。でも織楽ならどう。あいつの部屋に入るかもしれないと、思う?」
 暁は目を伏せて心の裡に目を向ける。最初に彼の顔を見たのは家だったと思う。だが彼と初めて出会ったと言えるのは、それから数月後の季春座の楽屋ではないだろうか。圧倒された。華やぎに包まれた世界、ごてごてと物に満ちた畳の上、軽口、人懐こい笑顔、それでいていち早く暁の目論見を察する勘の良さ。
 向こう側の人。
 軽やかな人。
 暁とはまるで対極にいた。
 憧れていた。
 風鈴女の一件があったときには、自覚は無いにしろ芽生えていたはずだ。だからこそ若手役者がずらり並ぶ中で「彼女」に気が付いた。すっと体が冷えた感覚は今なおまざまざしい。輪郭すらない想いは砕けて心には虚が残る。
 なのに彼は不用意に近付いてくるのをやめなかった。じゃれついたり、冷やかしだったり、その一つ一つがどんなに暁を揺さぶるか考えもせず。
 そしてその結果、知った。全ては彼の崇高な思いやりであり慈悲であり、暁はただ手が掛かり目を離せないだけの不具者だった。
 それがどれほど惨めなものか思い至らぬものらしい、彼の察しの良さを以てしても。対極にいるから惹かれたくせに、それを思い知らされたとき、残ったのはむしろ。
 むかし、と虚ろな唇が動く。
「好きだった」
 紅花が目をみはる。
「でも昔のこと。今は……むしろ避けているかもしれない」
「どうして」
「あの人は器用すぎて……」
 それ以上なんと説明したものか分からなかった。紅花の手がごそごそと蒲団の中で動いて暁の肩を抱く。
「でも、だからって安直なことを考えないで。あの夜のことで覚えているのは雨呼びをしたことと、前にも言ったとおり、夢見が酷かったってことだけ。もう何を見たかも思い出せないけれど……恐ろしくてたまらなかった。もう見たくない。もう、嫌」
「分かった」
 紅花の掌が強ばった暁の肩を撫で続ける。伏せ目の暁に紅花は長い溜息をつく。
「……針葉のことは、じゃあその揺り戻しみたいなもんだったのね。あたしの言葉なんか耳に入らないわけだわ。十分に痛い目見たでしょ。……辛かったわね」
 じっと身を固めていた暁が、ぴくりと動いて紅花は手を止めた。闇の中で二つの目が射るように紅花を見ていた。
「それはどういうこと」
「だから……自棄になってたんでしょ、そこを丸め込まれて」
「何を言ってるの」
 暁の顔がぐしゃりと歪んだ。
「紅花は誤解してる。針葉のほうが余程真剣だった。あの人が怒った原因は全て私にある、私が……」
 裏切った。
 暁の耳に蘇った声があった。まだ体を合わせていた頃、穏やかに過ごした最後の夜。とぽとぽと茶の湯の湯気が立ち上る、静かな宵の入りだった。
 ――何か欲しいもんはあるか。何でもいい、今一番欲しいもん言ってみろ。
 べべや飾りのことを言っていたのだろう。だが暁は少し考えて答えた。
 ――何者にも脅かされず、ここで当たり前に暮らしていけるのが一番だ。
 この髪が、目が、体がある限り、暁はよそ者だった。大火で流れ込んだ壬びとには貧しい者も、未だ職にあり付けない者も多い。その一部が騒ぎを起こせば、数日は幾重もの視線に否応なしに晒された。そのうえ烏たちも、あからさまな気配は謹んでいるもののつかず離れず見張っている。忘れかけたころ肌がちりちりと痛む。
 壬びと、豊川の者としての立場は血に深く刻まれており捨てられようものではない。それでも時に思った、坡城びととして生まれていれば安らかに暮らせたのではと。黒い髪と目を持って町に生まれ、小間物屋で客を捌き、たまに季春座へ、たまに港の屋台へ、まるで見も知らぬ誰かのように、華やかな櫛簪を楽しんで、いつか想い人を見付けて。
 ――よし、分かった。
 その時の彼は、なんと優しい顔をしていたことか。
 叶うはずのない望みとすぐ我に返る。しかし強気に笑う眼差しは、生い立ちも血もどうにかなるのではないかと一瞬でも思わせてくれた。彼となら、壬びとのまま、豊川の娘のまま、歩いていけるのでは。
 もともと夢想だ、叶う叶わないではない。嬉しかったのはその姿勢だ。ひねくれた答えを真っ向から受け容れてくれた彼をこれ以上裏切れるものか――
 噴飯ものだ。もともと騙すところから始まったくせに。
「ちょ……ちょっと待ってよ、落ち着いて考えて」
「落ち着いてる」
「ないわよ。あんた、自分がどんだけあいつに都合のいいこと言ってるか分かってる。馬鹿な女も大概にして。そんなんだとまた付け込まれるわよ。ちょっと優しいこと言ってほだして、何かあると激昂して突き放して、それの繰り返し。あいつはいつもそうなの。何度も教えたじゃない、なんで分かんないのよ」
 暁は何も言い返さない。目だけがぎらぎらと輝いて同じ言葉を繰り返していた――紅花は誤解している、と。冗談ではない。
 だが、ここで熱くなれば暁の心はますます遠のくばかりだろう。紅花はすっと冷たい闇を吸い込んで息を整える。
「あたしは、あんな騒ぎはもう懲り懲りなの。考えてみて。おかしいでしょ、真剣に大事にしようって相手を……殺そうとするなんて」
 ふっと、緊迫した空気が壊れた。暁の息の音だった。
「なんて?」
「だから……そりゃ結局は助かったわけだけど、でも」
「殺すって何のこと」
「ど……っ」
 どこまで馬鹿なのだ。怒鳴りたくなる衝動をどうにかやり過ごす。そうして苛立ちを抑え込んでいるうちに暁が口を開いた。
「……正直なところ針葉に会うのは怖い。あの夜のことは……あまり覚えてないけれど……針葉は怒ったんだ。それで当たり前なのに、私は浅ましすぎて、まだ受け止めきれていない。この期に及んで。……皆が私を案じてくれているのは分かるけれど、私と針葉が仲違いしたからって、針葉のことばかり悪し様に言うのは正しくないよ。私は針葉を貶めたいわけじゃないもの」
 紅花の口の中にわだかまっていた言葉は、今や形を失くしていた。
 暁は冗談を言っているふうではない。混乱しているのでもない。ただ純粋に信じ込んでいた。
 一つ思い当たったことがある。
 あの夜以来、暁はしばらく髪を結わずに過ごした。夏至の前の蒸し暑いときだというのに彼女の首には髪が纏わりついていた。あれは首の痕を隠すためだったのでは。家の者と、何より彼女自身の目から。
 紅花が投げ付けた言葉を思い出せずにいるのも、物事の大小はあるにしろ、根は同じものではないか。
「暁、あんた……」
「ねえ」
 かすれた声がかき消される。
「私はずっと後ろ向きだった。あの里さんって人が来たときも、ほとんど何も聞かないようにしていた。抱えきれなかったの。どうしていいか分からなくて、怖くてたまらなかった」
 瞬き一つ、二つ。三度目で暁はそのまま瞼を閉じた。蒲団の中で彼女の掌は、少し目立つようになった自分の腹をさすっていた。
「今日……初めて動いたの」
 紅花はじっと彼女を見つめ、肩を抱いた。それが正しいことかは分からなかった。
 互いにその後はひと言も口にせず、闇の中に寝息が混ざったのは夜が更けてからだった。



 息を呑むのが聞こえた。暁を見て浬は躊躇した様子だった。横目にそれを見て暁は風呂敷の端を結びにかかった。
「随分思い切ったもんだね」
 言いながら足音が近付いて暁の後ろに座る。それはきっと、うなじが出るほど短く切った彼女の髪のことを言っているのだろう。結び終えたものを隙間なく寄せていく。
「まあいい、煩わしさが減るのは今後のためだ。発つのは明日の夕。荷物は今日のうちにまとめて廊下に出しときな」
 焼け果てた壬の地で髪を切ったのは女である自分を失くそうとしたからだ。今同じようにしたのは、髪どころではない性的なしるしが腹に宿って離れないのを受け容れたからだが、浬に言わせれば単なる厄介払いらしい。
 理解されたいわけでもない。せめての抵抗として答えは返さずにいた。
「暁、雨呼びについてだけど」
 手が止まる。
「何も答えることはない」
「そう言うのは分かってるよ。だから壬南部の風習についてはこっちで勝手に調べさせてもらっている」
 暁は振り返って浬を睨みつけた。彼の方は対照的に、世間話でもするかのように穏やかな顔つきだ。
「僕が知りたいのは風習と異なる部分だ。暁は本当に、小藤とやらを燃やして東西南北を歩き回り、日が昇るまで部屋を閉ざす、それのみを雨呼びと呼んでいるの? 二年前に紅花ちゃんの前でして見せたのと、去年の冬やこの夏に行ったのは、違うんじゃないか」
「……言っただろう、答えることはない」
 浬はしばらく燃えるような暁の目を眺めていたが、ふっと視線を逸らして腰を上げた。
「そうか……残念だ。もう行くよ、言い争って具合でも悪くされたら困る。じゃあまた明日」
「浬、お前は黒烏なのか」
 一瞬の間があった。浬は再び腰を下ろす。面白いものでも見付けたかのように暁の顔をしげしげと眺め、小さく首を傾げた。
「聞き違えたかと思ったよ。単刀直入だね、もう騙し合いは飽きた?」
「答えろ」
「違うよ」
 暁は虚を突かれたように目を見開いた。じわじわと眉間に皺が寄る。
「下手な嘘を……」
「嘘じゃないよ。黒烏とは豊川に忠誠を誓う者のことなんだろう、どうして東雲生まれの僕が。……とまあ、これだけじゃ、僕の生まれが嘘だなんて言われたらお仕舞いだね」
 僕がここに来たのは暁より二年も前なんだけどね。ぶつぶつ言いつつ浬は暁に左腕を差し出した。
「好きに調べればいいよ」
 暁は腕と浬の顔とを見比べていたが、心を決めたように彼の手を取り、そろりと袖を捲った。細身の腕。無駄のない肉が骨を覆っている。肘が覗き肩が覗く。優顔に似合わぬ古傷がいくつか見られたが、彼の腕は女のそれのように概ね滑らかだった。
「無い……」
みずち、だっけね。黒烏は五つの春に血判を押し、十の春には左の上腕にひと巻きの龍を彫る。それで正しいかな?」
 暁は浬の右腕を掴んだ。乱暴に袖を捲り上げるが、そちらにも滑らかな肌が続くばかりだ。小さく息を呑む声。
「気が済んだ? ……大体、僕が黒烏なら暁をこの家に帰しやしないよ」
 暁の薄い色の瞳が、じっと遠いところを見つめて細かく揺れている。
「……去年、私が烏に攫われたとき、助けに来たのは浬と紅砂だったね。三人の賊が逃げた、なんておかしなことを言ったのも浬だった。あれよりずっと前に辿り着いていたのか。そして素知らぬふりで……」
「酷い言い草だな。僕があの後どれだけ立ち回ったか分かってるの。暁は自分の立場を知られるのは嫌だったんだろう、だから気を遣ったっていうのに」
 暁の指が緩んだのを見計らって浬は袖を下ろす。
「あのとき何があったんだ。烏たちはどうして引き下がった」
「別に何も。家できちんと面倒を見るからと話しただけだよ」
 そんなことで烏が退くわけがない。明らかな嘘だった。暁は震える唇を噛んだ。烏であるほうが余程ましだった、少なくとも彼らの意図は明らかなのだ。
「浬……お前は何者だ」
「言ってもいいんだよ、僕は必要な場で出し惜しみする気は無い。ただし暁がさっきの問いに答えるのならね」
 暁の顔色が変わった。それを見て浬は小さく笑う。予想していたと言わんばかりだ。
「安心しな。僕は豊川あきを護るためにいる。暁が僕の言動をどれほど疎ましく思おうが、それは譲らないよ」
 翌夕の出立を言い含めて浬は去った。暁は彼の足音が消えるまでじっとそれを見送っていた。



 笠を深く被いた影が二つ、灰青に沈んだ空の下を進む。吐く息が綿のように視界を遮っては散った。浬の後を行く暁は首に巻いた手拭いを口元まで引き上げたが、流れる息は頬をしっとりと濡らし、却って肌を冷やすようだった。
 暁の持つ荷は胸に抱えた一つ、その他は浬たちが昨日のうちに運んでくれたということだった。
 坂を下って紅花の小間物屋の前を通る。相変わらず物に溢れた棚の間に、若い女が慣れた様子で客の相手をしているのが見えた。溌剌とした声、物怖じせぬ受け答えが耳に刺さる。いつから雇われているものか、少なくとも自分が店に入るよりは売り上げが望めそうだと暁は思う。
 浬は北門から港に入った。宵を迎えた港はようやっと目を覚ましたところで、競い合うようにどぎつく煌めき音を掻きならして、無尽蔵に闇を食い荒らしていた。喧騒に追い立てられるように西門を通って川を渡り間地に入る。
 踏み入る一瞬、暁は身を固くした。だが何も起こらなかった。振り向くと橋がすぐそこにあった。
「足を止めるな」
 押し殺した浬の声に促されて後へ続く。
 間地は高さの揃わぬ家屋が立ち並ぶごちゃごちゃとした域だった。闇に紛れていてさえそうなのだから、昼になればこの比ではないだろう。人出は多い。紅砂の行く道場もこの域にあるということだった。
 自分一人では気付かぬほどの狭い路地へ入る。すぐ脇には水路が走っていたので慎重に浬の通ったところを踏んで歩く。
 角を曲がって暁はぎょっと立ち止まった。
 間口の広い店が一つ辺りに光をまき散らし、、その周りには男が数人たむろしていた。客には見えない。きちんとしたものを着ているのとは対照的に、漏れ聞こえる話し方や姿勢が柄悪く思われた。
 浬の影に寄り添うようにして歩く。
「おい、そこの」
 聞こえぬように同じ調子で進んでいたが、一直線に向かってくる彼らの足音に、とうとう浬が足を止めた。
「宵に紛れて逢引かい。場合によっちゃ面倒ぜ」
「斎木殿に頼んでいた薬を取りに行くだけですよ」
「へ、どうだかな」
 浬は翳された提灯から目を覆い、もう一方の腕を広げて暁をかばうように立った。暁は胸の風呂敷を強く抱いてうつむく。あと少し、ほんの少しのはずなのに。
 暁の笠がぐいと引き上げられた。あっと見上げた目に灯りが刺さる。無精髭の歪んだ口元が間近に見えた。
「……壬の女か」
 舌打ちが聞こえた。暁の容貌と腹を見比べて、笠をぽいと放り出す。
 灯りが遠ざかっていった。去り際の一人が甲高く笑いながら浬の足を蹴飛ばした他は、二人の身には何も起こらなかった。
 浬は立ち上がって裾をはたく。暁が無事を問うより先に、行くよ、と短く促された。背中に彼らの笑い声を聞きつつ角を曲がる。ほんの先に繋がる小ぢんまりとした長屋の中に、目的地はあった。
 薄っぺらい板戸は立て付けが悪くなっているらしく、何度かがたがたと揺れてようやく開く。中は真っ暗だ。先方と都合を合わせたはずだが、斎木とやらの気配はどこにも無い。急患でも出たのか。湿っぽい空気の中に、預けた行李が辛うじて見えるだけだ。
「さっきの……」
 浬が振り向く。
「壬びとばかりだった」
「主が壬びとなんだよ。そこ閉めて」
 四苦八苦しつつ戸を閉めると、浬が闇に消え、やがてどこからか提灯を下げて現れた。ぽうと暖かい橙を見つめて、突然ぶるりと遅い身震いに襲われる。指先が冷えきっていた。
「あれは丸七屋。元々は壬のものを売る卸で、今は都や津ヶ浜、峰上の珍かなものも扱っている。間地のほかにも店を持つかなりの大店なんだけどね、大火より前に雇っていた坡城びとは大半追い出されたって話だ。その上あの態度だろう。正直なところ、間地では居心地を期待しないほうがいいよ、その容貌ではね」
「……分かってる」
 境では今も荒んだ目をした者たちが、雨すら凌げぬぼろを纏ってうずくまっている。盗み盗まれ、その一端を担う年端のいかぬ子供たち。土に落ちた血の跡、喧嘩騒ぎも絶えない。港の蜻蛉玉。死んで濁った魚の目玉。安い遊び場には壬の女が多いと聞く。坡城びとは彼らを蔑み、事が起こればその原因を壬びとに求める。
 その一方で、坡城に根を張った壬びとが坡城びとを蹂躙するさま。あの目。暁の顔と腹とを見比べていた、茶色の目。暁が坡城びとであったなら、浬を蹴飛ばしたあの足は一体どこへ向かっていたのか。
 頭が焦げ付きそうだ。
 衝立の奥には埃っぽい蒲団が敷かれたままになっていた。当然そこにも斎木の姿は無い。暁がそこを拝借し、浬が衝立を隔てて土間側で休むことになった。
 壁が薄いのか、夜も深いというのに絶えずどこからか音が流れてきた。人の声、物音、犬の鳴き声。夜着を着ても床を這って忍び寄る冷たさ。家を離れたのだと、肌で感じる一つ一つに思い知らされる。
 振り向くと、闇でざらついた視界の中には変わらず影があった。
「浬。さっきのを……見せるためにあの道を通ったの」
「そこまで深読みしないでいいよ。同じ川を渡るにしても、餅や団子を食べる気分じゃないだろ」
 浬は多分知っているのだ、暁を始終見張っていた烏のことを。ふと花見の日を思い出す。そうだ、あの日を境にしてあの女は。
 黙った暁に何を思ってか、彼は口早に言葉を繋いだ。
「危ない目に遭わせて悪かったよ」
「危ないって、私が? それともあの人たちが?」
 今度黙ったのは浬のほうだった。犬の遠吠え。すきま風の音。浬が口を開く。
「どうして川の向こうなんだ、烏たちが留まるのは」
「聞いてしまえば何てことでもないよ。豊川の敷地の中には邸を囲むように川が作られていて、私が歩いていいのはその内側だけだった。生まれたときからそうだったから、何も疑問には思わなかった。……一度橋を渡ろうとしたことがあった。多分、毬が弾んだか何かで」
 唇を湿して続ける。
「橋に足を掛ける間も無かった。私一人だと思っていたのに、どこからか現れた大人に連れ戻された。それから先は川が檻に見えた。動ける範囲はそれまでと変わらないのに、窮屈で、息が詰まって堪らなかった」
 浬は何も言わなかった。
「彼らは掟を侵さない。攫われた私が彼らを信じているのも変な話だけど、これは豊川との掟だから、絶対なんだと思う」
「……よく分かったよ。ありがとう、答えてくれて」
 暁は目を閉じた。針葉にも同じように説明できたら、同じような言葉が聞けただろうか。だが豊川も烏も暁の足元から絡み付いていた。豊川の娘、烏に護られた娘。その前提無しに伝わる話ではない。
 言えない。
 結局はそこで思考が止まるのだ。



 目を開けると朝だった。ひやりとした風に頬を撫でられて、暁は眠い頭で蒲団を引き寄せた。浬はもう起きているらしい。黄月の声もする……。
「おはよう、隼くんもいるなら話は早いわ。お爺ちゃん引き取りに来てちょうだい」
 そこに全く別の声が現れて、暁は水を浴びせられたように目を開けた。気配が去ったところでそっと衝立から顔を出す。戸は開き放たれたままで誰の姿も見えない。
 じっと見つめていると、引きずるような足音が戻ってきて暁は顔を引っ込めた。ほぼ同時に、板間にどんと何かが落ちるような音。
「ーっと、御苦労、諸君。だが頭とケツが割れそうだぞ。もうちょい丁寧にできんか」
 しわがれた声だった。呆れたような諦めたような黄月の声が重なる。
「いい加減にしてください先生。昨晩に人が来ると伝えてあったでしょう」
「人ぉ? 知らんぞ」
「言いましたよ、忘れたんですか」
「知らん。言ったというならお前の言い方が悪い。こんな猫の額に二人住まわせようなんてみみっちいこと考えるのがそもそも駄目だ。家建てて師匠に恩返ししようって可愛げがお前には足りない」
「誰が来ようが来るまいが、べろんべろんになって人の家に上がり込んで良いわけないわね、お爺ちゃん」
 凛とした声は里という産婆のものだ。再び覗き見ると、打ち上げられた白髪混じりの男を取り囲むように三人が座っているのが見えた。黄月の横顔はがっくりと額を押さえ、里らしき後姿はまるで説教でもするように腰に手を当てている。
 暁はそっと衝立の陰で蒲団を畳み、身なりを整える。そこに顔を出したのは里だった。暁より十近く年上の、化粧っ気はないが眼差しの強い女だ。口元だけで笑って彼女は早口で告げる。
「おはよう。早速だけど、すぐに使うものとそうでないものを分けてちょうだい」
 行李からいくつか荷を取り出して蓋をすると、里はひょいと腰を折ってそれを抱えた。暁は斎木の背に小さく頭を下げて彼女の後を追った。
 衝立をいくつかすり抜けて、里が行李を仕舞ったのは箪笥の陰だった。すぐ傍にはいつから動かしていないのか、埃の積もった風呂敷や棚や器具が積み上げられている。
「ヤソとか櫛とか、必要なものがあれば言って。何かあれば私か斎木に訊いてもらえばいいけど、それがしにくければ隼くんに言いなさい。それから斎木のものには勝手に触らないこと」
 暁は頷いて目の前の埃を払った。ふと気付く、里の黒い目が真っ直ぐに彼女を見据えている。髪をきっちりとまとめ上げた彼女は、どこか黄月に似た潔癖さを感じさせた。
 あの、と暁が言い掛けるのと、里が口を開いたのは同時だった。
「その子の父親が隼くんといつも一緒にいる男の子って本当?」
 少し遅れて、腹の中のことを言われているのだと気付く。里からすれば黄月も針葉も年若い男の子なのだろう。
「あなたがここに来た理由は聞いてるし、口止めされてるのも分かってるわ。ただ、それが本当なら物好きねって言おうと思ったのよ。よく許したわね、あんな血の気の多そうな子に……」
 どう答えようか迷って曖昧な笑いを浮かべたが、淡々と言う里の眉間にかすかに皺が寄ったのを見た気がして、暁は唇を結んだ。
「それが若いってことかしらね。ねえ、あなた流すことは考えなかったの?」
 流す、と暁は口の中で繰り返す。慣れぬ訛りでも聞いたようだ。
 それが殺すという意味だと思い至って、暁ははっと腹に手をやった。
「流すだなんて今まで考えたことも……。戸惑ったのは事実ですが、産むのを躊躇ったことはありません」
「考えなかったんじゃなくて考えられなかったのよね? そういう道があることさえ知らなかったでしょう」
 畳みかけられる言葉はあくまで平坦で、流れる水のようだった。したためられたものを読み上げているようだ。
「いい、私は子供が子供を産むのには反対なの。産んで終わりじゃないのよ。どれだけ手間も銭もかかるものか調べたことがあるの。そもそもあなたに知識があれば、月のものが止まったことの意味にだってもっと早く気付いたはずよ。その時ならまだ間に合ったかもしれないのに」
 暁は言葉を失っていた。数度顔を合わせただけの彼女がここまで言うことに驚いてもいたが、同時に自分の甘さに気付かされたことが大きかった。
 家の者は誰も子を持たない。誰も里のような――宿った命を疑うような――聞き方をしない。彼女の言葉は残酷であり、しかし一方では誰より真摯に先を見据えていた。暁自身よりずっと。
 末子であり一人離れて育てられた暁は、子を持つことの意味をまだ知らない。「誰もまだ教えてくれていない」。
「不幸にだけはしないでちょうだい。その子も、あなた自身も」
 立ち去った里の足音が聞こえなくなって暁は腰を上げた。冷えた爪先が痛む。板間に戻ると斎木が、先程まで暁の使っていた蒲団にもぐり込んでニ度寝を決め込んでいた。他には黄月の姿が土間にあるだけだ。彼は薬缶を火にかけていた。
「丸七屋の話は聞いただろう」
 鼻息に揺れる灰色の髭を見ていた暁は、唐突に言われて振り向いた。
「そこの、ごろつきを飼ってる卸だ。お前はあまり外に出るな。十日に一度は顔を出すようにするから、用事はまとめておけ」
 暁は小さく返事すると荷の中から半纏を広げて羽織った。赤い地に黒襟をつけた紅花のお下がりだ。再び名を呼ばれた暁は、指先に息を吐きかけつつ黄月を見る。
「俺は浬の言うこともお前の言うことも鵜呑みにはしない。お前が誰と寝ようが誰の子を孕もうが勝手だ」
 彼がこの一件で暁に言葉を掛けるのは初めてだった。彼には目の敵にされていると思っていたから、思いがけない公平な言い方に暁は瞬いた。逆に言えば突き放されているのだろうが……。
「ただし、宿した以上その子の命はお前にかかっている。産むと決めたのなら、その生涯も然りだ。同じくお前の生き方も大きく変わることになる。覚悟を決めろ」
 清らかなお題目だ。生臭さが無い。暁は彼の焦茶の目を見つめる。やはり子というのは家の者にとっては、特に男にとっては神域なのだろうかと、そんなことを考えながら。
「体を大事にな」
 薬缶の口から蒸気が溢れていた。
 




          四ノ年