襖が開いたのは、日が滑るように傾き始め、気の早いひぐらしが鳴き始めた頃だった。紅花ははっと顔を上げる。二人分の足音は、彼女が背をもたせかける襖には気付かず内廊下を通り、玄関へと進んだ。そちらを向いても見えるのは背中ばかりだった。 「じゃあ私はこれで。ひと月したらまた来るけど、何かおかしいと思ったら朝晩問わずすぐ来てちょうだい」 「ええ、その時は宜しく頼みます」 少し低く落ち着いた女の声と、黄月の声。下駄の音と衣擦れの音。がらりと戸が引かれてから少し間があった。 「送っていきますよ。あの辺りにもたちの良くないのが増えたと聞きました」 彼女は頷いたのだろう。下駄の音が二つ遠ざかっていく。 紅花はそこでようやく身を乗り出して、今の二人の出てきた襖を見つめた。襖は侵入者を拒むようにぴったり閉じており、物音一つしない。 結果は聞くまでも無かった。また来るという言葉が全て物語っていた。 紅花は何も知らされなかった。黄月が自分の姉と呼べるほど若い彼女を連れてきたのが昼過ぎ、身なりに違和を感じた紅花が後を追おうとしたが、二人は暁の部屋へ入ってぴたりと襖を閉ざしたのだ。 部屋の前で立ち尽くす彼女を呼んだのは浬だった。 ――暁が飯を残すと心配していたね。大丈夫、紅花ちゃんが気に病むことないよ。黄月の知り合いのお医者さんが来てくれたからね。 紅花の背中から首筋へ、ぞっと鳥肌が立った。 彼はなんと朗らかな顔で事の本質を覆い隠すのだ。黄月の手に負えないのなら、普通は彼の師匠である斎木の出る幕ではないか。 それを訊くと、彼はじっと紅花の目を見つめた。目を通して体の奥まで見透かされていくようだった。 ――聞くのは一瞬だけど、分かってる? 重荷になるかもしれないよ。本当にいいんだね。……そうだね、紅花ちゃんにはこれから色々助けてもらわなくちゃいけないから、知っておいてもらったほうがいいか。 ――実はね、暁は今、身籠っているかもしれないんだ。来てもらっているのは、里さんって言ったかな、黄月の知り合いの産婆さんだ。でもこれは家の内でも外でも、決して口に出しちゃいけないよ。針葉さんを動揺させかねないからね。あの夜の二の舞は御免だ。 必要があれば他へ身を寄せさせるとも言った。そこまで慎重にことを進める理由を、紅花は知っていた。 廊下を挟んだ向かい側に視線を移す。その部屋の主はここのところ、ずっと芝居小屋に入り浸っていた。冬まであとふた月。顔見世の準備で忙しいのだろう。今年は他の一座を招くという噂も、芝居好きの間では既に知られた話だった。 動揺させかねない。 「そんなの針葉だけの話じゃないでしょ……」 あの夜の二の舞は。 「自分のややができたってだけなら、怒り狂いやしないわよ……!」 紅花を満たしているのはやり切れない思いだった。虚しさに胸を締め付けられるようだ。しかしその裏では確かに、憤懣にも似たどす黒い思いがふつふつと浮かび上がっていた。 誰が憎いのだろう。行いを改めず家の者を傷つけた針葉か、好き勝手に家の秩序を破壊する暁か、家のことなど知らぬ顔で芝居に勤しむ織楽か。彼女を蚊帳の外に置いて物事を進めていく浬たちか。 幼い頃から自分を取り込んだ、家という歪な仕組みそのものかもしれなかった。 紅花は立ち上がる。彼女には夕飯を作るという役目があるのだった。家に誰かいる限り、毎日毎食欠かさず巡ってくる大役だ。家という得体の知れぬものに供え物でもしている気分になる。 紅花は厨へ歩き出した。もう暁の部屋を振り返ることはなかった。 鼻付き合わせる食事の場に暁が現れないのは、最近では珍しくもなかった。初めこそ彼女は、気分が悪いとか言ってしきりに手を合わせていたが、今では冴えない顔でごめんとひと言呟くだけだ。 冷えた飯を盆に乗せて部屋まで運ぶ。 暁が針葉を恐れて閉じこもっていると思うからこそ、紅花も気を遣っていたのだ。食べ残しが多いのを見るたび、心を擦り切らせたのは紅花の方だった。実際はどうだ。暁はただ嘔吐く姿を見られぬために閉じこもったのだ。匂いが無くなるまで飯を冷ますためになかなか箸を持たなかったのだ。自分の変化に素直に従っていただけではないか。 「暁。入るわよ」 返事を待たずに襖を引いた。暁が文机に向かっているのが視界の端に見えた気がする。部屋の隅に盆を置き、紅花はさっさと立ち上がった。 「食べ終わったらすぐ持ってきてよ。することが残ってると、いつまで経っても眠れやしないんだから」 返事は無かった。そっと視線を後姿の暁に向ける。彼女はやはり机に向かって座っていた。真白い上等の紙がぴんと張って置かれており、隅をいつぞやの魚の文鎮が押さえている。ただし彼女の指に筆は無く、墨すら磨られていなかった。 「ごめん。……でも自分の茶碗くらい自分で洗うよ」 「そ、ならそうしてちょうだい。黴なんか生やさないでよ」 彼女はこくりと誰もいない畳に向かって頷いた。紅花は彼女の旋毛を見下ろす。痩せた頬の輪郭、後れ毛、白いうなじ、……帯。 いるのだろうか。 「じゃあね、おやすみ」 決別の言葉を投げるなり後ろ手で襖を閉めた。音は存外派手に響いて耳を叩いた。じっと息を殺す。あの帯の下に、本当に、いるのだろうか。 首を振る。さっさと後片付けを済ませてしまおう。 厨へ戻ろうとして、ふと目が廊下の奥に止まった。灯りのない針葉の部屋だった。 彼が先月西方から帰ってきていたと、浬から聞いたのはごく最近だった。紅花は姿を見なかった。また呼び戻しがあって西方へ向かったのだと黄月は言ったが、西方というのは果たして坡城内部か、西に接する津ヶ浜か、はたまた国境か。それが真実か否かさえ、彼以外には知る由も無い。 何をしているのかさえ紅花は知らないし知りたくもない。それでも回っていくのがこの家だった。 「まるで別人っちゃな」 敷居を踏んで隣部屋に腰を下ろす。容易いように思えてその実、本川が何も掻き分けずに腰を下ろせるというのは、奇跡もいいところだ。部屋の主である織楽は、紙の束に向けていた視線を、素っ気なく一度投げて寄越しただけだった。 「ようて聞き分けらるっちゃなったか、お前も」 「何がや」 「こん部屋に決まっとうや。やれ三味やれ笛やれ鼓て、入れ替え前の慌っただしい時ようちゃ、物置きんごと散らかって手ん付けられんかったろ」 本川は広げた腕をぐるりと部屋中に向けた。季春座役者長屋のニ階の奥に二つ連なる部屋は、平時は彼ら二人に与えられたものだった。とは言え冬の披露目舞台は一年で一番の書き入れ時、他の役者のために場所を開けておくのが習わしだった。 ところがこの年若な役者は、自分の気に入ったものは蒐集せずには済まぬたちらしく、日に日に室内は狭まる一方だったのだ。 鳴物に化粧道具、箪笥、飾りもの、天井近く張った紐には衣装の数々。それだけなら芝居に繋がるとして見過ごせようが、彼の場合はそれで終わらない。書物、絵、筆、石像、玩具、守り札、千代紙、虫籠。祭りがあるたびその痕跡。昨年の鼠騒動で私物を家に持ち帰ったのも一時のこと、今年に入ってまた物が増えつつあった。 だが本川が示したとおり、今の彼の部屋はすっきりと片付き、何も置かれていない畳さえあるくらいだった。 「特に今度の顔見世は外のもんが来っきゃぁな。恥かかんで済む。立つ鳥水濁さず、ようしたもんじゃ」 織楽は何も答えず、ぺらりと薄っぺらい紙を一枚めくって左手に持ち直した。本川は彼に一瞥をくれる。いつもきょろきょろと忙しない織楽の目は、今は紙の上に落ち、無駄口ばかり叩く口は静かに結ばれて声の一つも出てこない。 黒目がぐるりと動いて本川を見た。 「何や」 ふっと本川は笑みを漏らした。何だかんだ言っても彼は、ひと回り幼い子供ではないか。 本川は彼のすぐ前に胡坐をかいて座り直した。 「何やて」 「俺が訊きたい。何があった」 織楽はぴくりとも顔を動かさなかった。瞳も揺れない。 「こんだけ部屋が変わるなんぞ、この三年で初めてっちゃろうが。ここ来て一年目から図々しく散らかしっ放題っちゃことも、さては図々しく忘れたっちょう気か。どうせお前くらいの餓鬼、悩む相場ぁ決まってる。白状しゃぁれ」 「勝手に入って来ょった思たら、また勝手な口上だらだらと。何も無いわ」 「俺が気付かん思わぁだ甘ちょろじゃ。果枝ちょうたな、あの娘っこ最近上がって来んや。さては喧嘩か、可愛い可愛い」 本川がぐいと寄せた肩を、織楽は掴んで更に引き寄せた。本川はよろけて畳に手をつく。 「人に干渉すんのもええ加減にせぇや」 息のかかる距離だった。本川はじっと、目の前に並んだ黒い双眸を見つめた。 「織楽」 「何や」 「化粧映えするええ顔っちゃなぁて、改めて思いよる、今」 「阿呆か」 本川の額を叩いて織楽は立ち上がった。本川の部屋とは反対の位置にある隅に腰を下ろし、また紙に目を落とす。残された本川は、織楽のいた場所に胡坐をかいて笑みをこぼした。 「つれないな、もっと噛み付いてきょうっちゃ思たが」 「やかましいわ、失せろ。大体お前、話の筋全部頭に入れたんか。こっちの舞台に立てへん言われとる俺やって、こんだけ読み込んでんねんぞ」 「筋だけならな。細かいとこは向こうさんが来なすってからいっくらでも変わりょうぜ、こっちゃっていくらか入れ替えがある。俺が向こうに送られることも、無いちゃあ言えん。無駄せんようにな」 織楽が何か言いたそうな顔になったのを察知して本川は立ち上がった。自分の部屋へ退散するゆったりとした足を、しかし途中で止めて振り返る。 「そっから、干渉好っきゃお前の癖ん移ったっちゃろ」 「やかましい」 最後まで聞かずに本川は襖を閉めた。これだけ元気なら放っておいても大丈夫だろう。器用な彼は、そのうち勝手に調子を取り戻すに違いない。 隣の部屋で力任せに本を置く音がした。不機嫌な足音が本川の耳に届くほどの音で襖を閉め、部屋の前を通り過ぎていく。本川は吹き出した。 ひと仕事終えた気分だった。片桐でも誘って何か食いに出よう。昼過ぎということもあってか、廊下は静かなものだ。階段を降りると、一歩ごとに若い役者たちの騒ぎ声が大きくなった。座長が出ているからだろう。また喝を入れる時期か、本川は苦笑する。 「あ」 最後の一段を降りたところだった。ぐるりと首を巡らせて、自分たちの部屋のある辺りを見上げる。 彼の部屋へ行った元々の理由を忘れていた。座長から言伝を受けていたのだ。 顔見世の招聘で話がついたのは、西は亰の芝居小屋、織楽が昔いた吹喜座という一座だと。 黄月はぱちりと目を開いた。物音がしなくなってからどのくらい経っただろう。もう最後に襖を閉めた者でも寝静まった頃だ。 縁側へ出て夜を見上げる。随分と明るい夜だ。恐らく満月に近いのだろうが、屋根に隠れて正確な形は分からなかった。生憎、情緒などというものは持ち合わせていない。そのまま端まで足を進めて障子を開いた。 まず初めに目に入ったのは箪笥だ。向かいの襖を隠すようにどんと置かれている。物置として使っている三部屋のうちでも、南東の角に位置するこの部屋には大型のものが並び、まるで要塞だった。 黄月はゆっくりと視線を落とす。 誰のものでもない角の部屋には先客がいた。彼の座る横で、蝋燭が一本頼りなげに揺れている。そちらの頬だけゆらゆらと赤く染まっていた。 黄月は敷居にまで視点を落とす。衝立、竹竿、修理前の文机。様々なものがひしめき合い、輪郭にか細い光を受けている。振り返るだけの余地も無く、黄月は後ろ手を引き戸に伸ばした。部屋を閉め切るのを待って火が行灯に入り、ほのかな橙に染まった紙が彼らを弱く照らした。 余計なものを踏まぬよう大股で一歩進み、黄月は浬の前に腰を下ろす。浬はうつむいたまま黒目だけを動かして彼を見た。 すっと暗闇に引っ込んだ手が小皿を掴んで戻ってくる。行灯のすぐ傍に音も無く置かれたそれには、灰が詰まり、小さな木片が埋もれていた。 黄月がそれを指差すと、浬はこくりと首肯した。 ……本気か。 黄月は立ち上がり、竹竿を障子の対角に掛けた。更に衝立を詰めて並べて簡単には出入りできぬようにする。抱え上げた文机は、浬が受け取って自分の背後の箪笥の隙間に詰めた。そしてそのまま襖に耳を付ける。 何の物音も聞こえなかった。せいぜい虫の音がいくつか、障子の向こうから飛び込んでくるくらいだ。 二人は改めて行灯を囲んだ。部屋の中心は掌にも満たぬ小皿が陣取っている。 黄月はそっと息をついてそれを観察した。指で摘めるほどのちっぽけな木片。側面には真っ直ぐな木目が入っている。貧相にもぽかりぽかりと虫食いのような穴が開いており、色は白――今はゆらめく火と暗闇が、乾いた断面の上でせめぎ合っているが。 互いに何の言葉も出なかった。やむなく黄月は、もう一度それを指して声をひそめる。 「これが本当にそうなのか」 「間違いない。壬北部から飛鳥、峰上の国境の山深くに自生する、香ほづ木売りの間ではタガラと呼ばれる木で、こうして虫に侵蝕されたものは特に強い芳香を発し、小藤と尊ばれるらしい。乾かすのが手間で狂いが生じやすいから、香ほづ木売りにしか人気のない木だそうだが」 黄月は首を振る。聞いたことのない名だ。 「暁がこれを使ったことは香ほづ木売りに何度も確かめたし、何より値が張りすぎて間違えようがない」 「いくらした」 「……菊にニの鈍」 「なっ」 浬は眉をひそめて顔を上げた。 「高いのは分かってるよ。でもきちんとした品を出す者となれば、あの人以外にはそうそう見付からないだろうし」 「足元を見られたに決まってる。そんな高いもの、あの女に買えるはずがない」 「値上がりしたとは言っていた。二年前からの流行り病がどうにか落ち着いて……壬の上松領が完全に飛鳥に渡ったから、取りに行くのが難しくなったって」 「上松領」 黄月はぴくりと眉を動かした。 「そんな話は聞いたことがないぞ」 「ごく最近のことだよ。話し合い自体は夏至のころから始まり、壬の五家で生き残った者と周辺諸国の者を集めて、ふた月近く続いていた。……そう聞いた。あの人たちは北の端まで行くみたいだからね」 茶色の目に行灯の四角が小さく映っていた。 「……どこまで本当だかな」 忌々しげに小皿を睨んで、黄月は行灯を遠ざけた。あまりに高値な木片のことか、かつて彼の住んでいた壬北部の併合のことか、いずれに言及したものかは定かではなかった。 「あの女もそれを使ったと認めたか」 「聞き出せたのは香ほづ木を使ったところまで。今は口も利いてもらえない有様だ」 浬は笑い交じりに言う。 昨夜は秋分だった。彼は日が落ちる前から暁の部屋の片隅に居座り、不寝番をしていたのだった。見張る相手は他でもない彼女自身だった。 ――どんな手を使ってでも決して次の式は行わせない。 「凄い顔で睨まれたよ。いくら分かっていても、ああいう目は嫌なものだね。それでも出て行かないのが暁らしいと言えばらしい」 「その何とやらを、今日改めて行うつもりじゃないのか」 「暁みたいに型に固執する場合、それは考えにくいよ。……いや、実はさっき様子を窺ってみたんだ。穏やかなものだったよ。何より、香ほづ木なんてどこにも無かったし、買い物を頼まれた者だって今度はいなかった。そもそも買えるだけの銭を渡していない、だろう?」 黄月は眉間をぴくりと動かした。金払いを渋っているかのように言われては心外だ。小間物屋に出させるなと浬が言えばこそ、家でできる仕事を多く与えてやったのだから。銭が欲しければ物乞いでもするか、どこへなりとも働きに行くが良いのだ。 「さっさと始めよう。いきなり火を移していいのか」 浬が頷くと、黄月は早速行灯の火を取り出した。蝋燭を傾けたところで、しかしそれを制したのは浬だった。 「先に僕の腕を」 黄月の眉間に皺が寄った。 浬の提案はこうだった。自分が小藤の煙を吸ってみる、きっと錯乱状態に陥ることだろう、訳の分からないことを言いながらそこらじゅうを徘徊するだろう。黄月も同席して家の者に有りのままを伝えてほしい。家中を起こして彼の姿を見せても構わない。 馬鹿馬鹿しい。だが黄月が芯からそう思っているからこそ、浬はそんなことを言い出したのだ。 蝋がぽとりと落ちた。 「ああ、そうだったな」 襖の箪笥の上から三段目。黄月は縄を取り出してどうにか結び目を解く。振り向くと、浬は既に両手を後ろに回して待っていた。 「簡単には解けないほうがいい」 黄月の鼻頭に更に皺が寄る。彼が選んだのは港の漁師たちが好む結び方だった。 浬の正面に戻る。彼の顔は欠片も歪まず、ひたすらに小皿を見つめていた。 「煙の毒とやらは体に残るものじゃないのか」 「それどころか、実際に使った者の様子からすれば、目覚めた明日明後日の朝にはさっぱり忘れているだろうね」 黄月はもう一度灰に埋まった木片に目をやった。木片。紛うことなき木片である。阿芙蓉と間違えているのかと思ったが、いざ見てみればまるで別物だ。 黄月の父は薬師だった。彼自身も幼い時分から山に連れられ、様々な薬草を見聞きして育った。前の長に拾われて坡城へ来てからは、長の古縁の斎木なる医者のもとで学びもした。それでも、こんな木片が人を変えるという話は一度として聞いたことが無かった。 好きにするがいい。 思う存分やってみるがいい。 火を傾ける。小皿から煙が立ち上った。所々で揺れながら捩じれながら、か細い白は迷いなく天井へ向かって見えなくなる。 立ち上がって一瞥を投げる。 黄月は衝立をまたぎ、竹竿を外して縁側へ出た。光に慣れた目には、月浮かぶはずの秋夜も一段と暗く感じられた。 浬を拾ったのは黄月だ。 浬の祖国である東雲が焼け果てたのは四年前の花咲き初めし春のこと。風の強い夜だったという。南西の湖を中心とする都に放たれた火は、乾いた風に煽られ、芽吹いた緑を舐めるように広がった。 赤い空の果てを黄月も見た。 焼け出された人々は瞬く間に東部もしくは隣国の壬と坡城へ流れ込み、国境は一時混乱を極めた。充分な報せも入らぬうちから境は封鎖され、長らく機能していなかった関の高柵は閉ざされて、煤だらけの人々が、境と名付けられたたった一歩向こうの地に留め置かれた。 赤子の泣き声、懇願、怒号、爛れた火傷の臭い、汚物、吐瀉物、果てなく続く波頭のように人の頭が累々並ぶ、濁った目が累々並ぶ、見世物も同然だった。後から後から人は続いた。なけなしの荷を負った者が襲われることも珍しくなかった。 それほど厚い壁が築かれたのは後にも先にもそれが初めてだった。それも三日と持たなかった。 小さな命が力尽きたらしい。人々の怒りは頂点に達し、柵は壊され番人が襲われた。境番は迷わず応戦した。境に集められていた番人衆が関を何重にも囲んだ。港番の幾人かも投入されたと聞く。 縫い目が綻ぶようにして始まった騒乱は、東雲を襲った火のごとく地を這い広がり、坡城をも侵した。境目から遠い地にてぽつぽつと飛び火のように騒ぎが起きたのも、元はと言えば番人衆が境に集中して、他の地域が手薄になったためだった。 かくして両国間には再び道が生まれた――たといそこを通るのが火よりも赤い血に塗れることになるとしても。 黄月と織楽はその時の混乱に乗じて、人の流れを逆流し、東雲の山を登ったのだった。 東雲は小さな部族が集合した国だと、これは後に浬から聞いた話だ。だから黄月たちが都だと思っていた、山に囲まれ湖を囲むその土地も、明確に都と定められたと言うよりは、由緒ある一族と権力を持つ一族が流れを一つにして腰を下ろした地が偶然そこだったということらしい。 彼らが歩いたのはひと気のない山道で、先を行ったのは身軽な織楽だった。最後の急な坂道を上り切った彼は足を止めた。お喋りな彼はその時、縫われたように口を閉ざしていた。背に行李を負った黄月もようやく追い付いて彼の横に並んだ。 遠く見える景色はくすんでいた。 これが、と呟いた。その後に続けられる言葉は無かった。 それまで入ったこともなかった国の、見たこともなかった都。誰かが見て触れて初めて言葉は姿を持つ。形を得る。彼らが見た東雲という国は初めから焼け野原だった。 鼻に流れる風が、早くここを離れろと言っていた。 彼らは都の側へ下りることなく、国境と平行に尾根を進んだ。道は緩やかに低くなり、くすんだ色も煙も景色も遠くなった。木々に囲まれた道には鳥の声が響いていた。風上であったか火の手は及ばず、枝はよくしなり、草は露に濡れていた。 何たる安寧か。黄月はその時の不思議な苛立ちを覚えている。山一つ向こうが墨を塗りたくったように焼け果てているというのに、なんと鮮やかに春を誇るものか。 浬を拾ったのは山の麓だ。 桜が咲いていた。 先に見付けたのは織楽だ。浬は春の大樹の下に佇んでいた。柔らかな桃色の陽光に照らされながら、肩にも可憐な花びらを乗せながら、彼の服は極限まで血を吸い込んで黒々と染まり、異様な匂いを放っていた。 彼は名の他には何も語らなかった。東雲に何が起こったか、どうやって逃げてきたか、彼らに会うまでの数日をどこでどう過ごしてきたか。彼の服が吸ったのは誰の血か。得物はどこへ消えたか。彼の体に一つとして傷が付いていなかったのは何故か。 今黄月が呼んでいる変わった響きのその名すら、本物かどうかは判じえないのだ。 それでも彼は浬と名乗ったその少年を家に連れ帰った。 黄月と対等に建設的な会話をできるから。経緯はどうあれ焼け果てた地を無傷で生き延びたから。家に不足している気質の持ち主だから。今となっては色々に理由も並べられようが、そのときはただ、珍しい東雲びとに食指が動いただけだった。 果たして浬を連れて来たのは、通して見てみれば当たりだった。頭も切れれば腕も立ち、角立てぬ穏やかな気性を持つ。どこに置いてもするりと馴染み、絵に描いたように使い勝手が良い。まるで作られたようだった。彼は他者との境界を容易に溶かした。 だからこそ、あまりに歪な面があることがにわかに信じ難かったのだ。 何事にも多角的な視野を持ち、根拠を積み重ねて徐々に歩みを進める彼のやり方は、この一点でのみ崩れた。すなわち香ほづ木。すなわち雨呼び。壬のごく上層の者の間にしか明かされぬらしい風習を、彼は過剰なまでに毛嫌いした。 冷静を欠き猪突猛進、誰の意見も容れぬ姿勢は盲目的でもあった。 黄月がそれを知ったとき、浬は既にいくつも行動を起こした後だった。紅花からの又聞きで暁を訝しみ、しかし暁の行うそれが彼の恐れるそれと断定できぬうちは、煙が籠らぬよう障子紙に細工した。去年の冬至に夜を歩き回る暁の幻――幻以外の何であろう――を見てからは、木片をすり替えた。 紅花が煙の中で暁と共寝したことはお構いなしだ。障子紙の細工ごときで煙を全て排除できるなどお笑い種。そもそもあのちっぽけな木片で人がおかしくなる裏付けすら取っていない。 ことこれに関しては、彼の行動全てがでたらめだった。 何かに怯えているのか。 ――思いこそすれ、訊くことはしない。その道理も無い。好きなように泳げば頭が冷えて目も覚めるだろう。 浬のように頭が切れる者には、一度こうしてとことんまで付き合ってやって、己の間違いを思い知らせるべきなのだ。 黄月は振り向く。花に似た香りが隙間から漏れ出ていた。そろそろ充分だろう。 そっと障子を滑らせた。 むっと芳香に覆われて黄月は顔の前で煽ぐ。靄がかかったようだった。 白く暗い部屋の中には浬がいた。正座し後ろ手を縛られた、障子を閉めたその時のままの姿勢で、血走った目は灰の入った小皿を凝視していた。 「どうだ、徘徊したくなったか」 彼は放心したかのようだった。唇を噛んだから、黄月の声が届いてはいるのだろう。 「それとも同衾してやろうか」 はっと顔を上げて、すぐまた小皿を睨む。浬は青ざめていた。何か言おうとしたのだろう、彼は大きく息を吸ったが、まともに煙を吸って咳き込んだ。上肢が傾いで倒れそうになるのを黄月が支える。背に回って縄を解こうとすると、浬は嫌がるように身を捩った。 「ち……違う、失敗だ。そうだ失敗だ。秋分は昨日だし、それに、そうだ、忘れていた。紅花ちゃんの話では、東西南北をぐるぐる歩き回るということだった。それが神憑りの作法か何かで、そうすれば……やり直せばきっと」 「歩き回れば気が狂うか。それほど命は暗愚なものか」 元々解けにくい結びをしたうえに、目の前が霞んで見えにくかった。黄月は、自分の姿勢はそのままに浬の手首をぐいと持ち上げる。う、と噛み殺した声が聞こえた。 「馬鹿にするな。生きる者どもはお前が思うよりずっと強靭だ。人も獣も魚も鳥も、膝頭も小指の先だって等しく同じことだ。いくらあの女が馬鹿者だろうがそれは変わらない。生きる者の中に息づく、見えぬ聞こえぬ数えきれぬ「生きる者ども」は、たまたま主を担ったお前や俺の」 黄月の手が浬の頭を掴んで揺さぶる。 「ちっぽけなおつむをついでに生かしてくれる。全力でな。それは理だ、自らを全と見誤る卑小なる差配者ごときに逆らえるものじゃない。だからな」 彼の手は、もう一度浬の手首を持ち上げた。 「お前が今言ったようなことを本気で信じているなら、安心しろ、とっくにお前は気狂いだ」 花の煙が執拗に部屋を覆って、手間取った黄月の手がどうにか縄を解き終えたときも、絶えず彼らの肺腑へ甘い香りを巡らせていた。 戻 扉 進 |