「私は近いうちに殺されるよ」
 彼はそう言った。不吉なことを口にする割に彼の顔には、冗談めいた不均等な笑みも、悲愴も浮かんでいない気がした。いつもどおりの穏やかな微笑みが、口元に湛えられているだけだった。
 不審に思って向き直る。彼は座したまま、傍らの机に置いた小さな鈴を指で弾いた。鮮やかな朱色の紐のついた鈴だ。
「主殿が怯えておられた理由がようやく分かった。私は随分と無礼なことを言ってきたのかな、はは」
 彼の左手の小窓から射し込む光は眩しく、来る夏の盛りを宣うように晴れ晴れしかった。明け方まで降り続いた雨もようやく止んで、濡れた木々や枝葉が輝く美しい日だった。
 裾を払って向かいに座る。
「あなたが太刀打ちできない相手がどれほどおりましょう。奥方様の亡霊が枕に立つとでもおっしゃいますか」
「亡霊か、亡霊ならまだいいな。斬ったところで刃も衣も汚れんし、誰も咎めん」
「では一体誰のことです」
 彼はやはり穏やかな笑みで、すっと指を斜め上に向けた。つられてそちらを見上げ、はっと息を呑む。
「尊き御方だ」
 指の先の先にあるのは、一度として目通り願ったことのない、彼らの姉君の坐す部屋だった。
「あ、あの御方が……何だというのです」
「昨日の晩、りんと小さく澄んだ音が聞こえて目が覚めた。続いて階の軋む音が聞こえたよ。赤子の歩くような覚束ない音だった。昨晩はお前も知っているとおりの封じ夜の節だ。誰も外に出てはならない。……音は近付いてきた。あまりに頼りない足音だったので、誰ぞ具合でも悪くしたかと、つい襖を開けて覗き見た」
 瞬きもできずに彼の話を聞く。
「闇だった。だが左目には影が映った。床に這いつくばるような姿勢であったので、初めは何の獣かと……いや、今のは聞かなかったことにしてくれ。音を聞いて、それは顔を上げた。垂れた長い髪に覆われて、よほど亡霊であろうかと思ったよ。髪の奥から目が覗いた。目が合ったが、女だということ以外は分からなかった。見覚えが無かった。どうなされたかと、私は声を掛けてしまった」
 彼は静かに目を閉じた。
「それはよたよたと起き上がった。笑っていた。かすかに甘い匂いがして、まるで夢の中のようだった。それが一歩足を踏み出したとき、小さくりんと音がした。その時ようやく気付いたのだ」
 彼はもう一度、机の鈴を弾いた。親指の爪ほどのそれは紐を引きずりながら濁った音を立て、不恰好に転がって、机の中央でぴたりと止まった。
(はらえ)の紐ですか。御自ら、これを断ち切って来られたと……」
「……だろう。だから私は急ぎ部屋に戻った。襖を閉ざした」
 尊き御方に触れることは、いかなる理由があろうとて死罪を免れるものではなかった。それは彼らが選ばれる前から、彼らの家が始まる前から変わらぬ掟だった。
「足音は更に近付いてきた。すぐ後ろ、襖一枚隔てた向こうから音がした。かりかりと、あれは爪を立てている音だった。私の耳の辺りから、首を通って背まで、何度も何度も音が、それに重なるように息遣いと、笑い声が……」
 息継ぎがわずかに早くなったが、彼の表情は穏やかなままだった。
「永久に続くかと思ったよ。しばらくして音は去った。私は明け方までずっと襖を押さえるしか無かった」
 しんと静まり返る。遠くから鳥の声が、続いて虫の声が聞こえた。
「兄上にしては出来の悪い怪談話ですね。いや、それらしく聞こえるだけで怪談ですらない」
「どういう意味だ」
「あの御方は気まぐれでいらしたのではありませんか。封じ夜の節だからこそ、人目を気になさる必要が無い。奥方様が身罷られてから季節も変わり、御自身の望むように動きたくなられのでは。単なる悪戯心で脅かそうとなされたにしても、触れなば死罪、しかし逆に言えば、触れさえしなければ恐るるに足らぬものでしょう」
「なるほど」
 彼は怒り出すこともなく、時折頷きを挿みながら話を聞いていた。
「確かに、私もお前の立場であればそう思っただろうな。なかなか子供らしいところがあると、ほっとしたかもしれない。……だが私は、お前ならもう一つの考えに辿り着くと思ったのだがな」
「どういうことです」
「あの御方は奥方様をそっくりそのまま受け継いでいるということさ。一貫しているじゃないか。御子を殺したという噂は前にも話しただろう」
 机にばんと平手を打ち付ける。鈴が小さく鳴った。
「お止めください。以前は戯言と聞き流しましたが、それ以上おっしゃると……」
「お前は知らないだろうが、私には昔、兄上と呼ぶ人がいたのだよ。今の私たちと同じく、真なる間柄ではなかったがね。その方は私より前にこの邸に上げられた。なのにそのたった二年後、いざ私が来てみれば、私の上には誰もいなかった。誰に問うても知らぬと、そればかりだ」
 きちきちと続いていた虫の声が、次第に小さくなり聞こえなくなる。
「ここに上げられると知ったとき、私は嬉しかった。使い捨ての駒ではないのだ、誰のものでもない名を戴けるのだと、心の底から誠を尽くそうと思っていた。……違う、結局私たちは贄なのだ。主殿は私たちを盾に逃げたのだ」
「奥方様から?」
「今は御自身の息女からだな。この鈴とて、私たちの穢れとやらを避けるのではなく、あの御方を封じていたのではないかとさえ思うよ。……確かにお前の言うとおり、襖さえ閉じていれば触れようがないだろう。力で負けはしない。だが私が真に恐ろしいのは、あの御方の純然たる悪意だ。あの御方は最後に囁いた、まずお前から、と」
 喉を締め上げられるようだった。じっとりと闇に濡れた、呪いの言葉だ。
「人を殺すのは力ではないのだよ。心の刃というやつだ」
 今や彼以外に誰の声も無かった。
「私は生きたい。この安けき国に報いたい。この家を継げるのは身に余る誉れだ。お前という心強い片腕もいる。脅威は外から来るというのに、こんな忌まわしい潰し合いで終わってたまるものか。先だってお会いした姫君も、大層可愛らしい方だった。悲しませたくない。私は生きたい……」
 消えそうな声で祈るように呟くと、彼は立ち上がって小さな笑みを寄越した。いつもと同じ穏やかな眼差しだった。
「あの御方はきっと次も来るだろう。だが私は死なないよ。言っただろう、私が死んだら次に据えられるのはお前だと。お前にこんな思いをさせるほど、私は薄情者じゃない」
 彼は鈴をつまみ上げると、ぶんと小窓から放り投げた。小さな鈴の描いた軌道を、朱色の紐が忠実に辿って、色濃い緑と晴れ渡った空を鮮やかに切り取った。





 やけにうるさい足音だと思ってみれば、やはりそうだ。開いた襖の向こうにいたのは片桐だった。織楽は前髪をかき上げて汗を拭う。暦の上では秋を迎えたというのに残暑は留まるところを知らない。日が傾いてやかましさを増していた蝉の音が、更に耳障りになった気がした。
「片桐。お前そのうち床踏み抜くで」
「何だと。音はでかく聞こえても、俺ほど奥ゆかしい足の裏はねぇぞ」
 果枝が思わず噴き出したので、片桐は顔をしかめて一歩進み出た。
「それよりお前のお客だって人が下に来てるんだが、上げていいのかい」
「野郎は嫌やなぁ、暑苦しいし」
「知るかよ、自分で……おいおい、ちょっと待ったお客さん、勝手に上がられちゃ困りますよ」
 廊下に顔を戻した片桐が慌てて言う。織楽は眉をぴくりと動かし、畳に広げていた本を閉じて果枝に手渡した。
 彼が立ち上がるより、来訪者が現れるほうが早かった。織楽は長く息を吐く。
「えっらい遅かったなぁ。来る気無いんか思てたわ」
「……今帰ったんだよ。こちとら手前みたいに暇じゃねぇんだ」
 織楽は片桐に頷いて見せた。彼は戸惑いつつも頷き返して姿を消す。次に振り向いて見た果枝も、不安げに二人を見ていた。
「今からちょっと話さなあかんことあるし、一階下りとき」
「でも、あの……」
 躊躇う気持ちは分かる。織楽は和らげるように笑った。
「何も無いて。心配せんでええから、早よ行き」
 彼女は体を縮めて部屋の端を通った。おずおずと引き手に手を掛け、心残りのように狭まる隙間から部屋を覗き込んでいたが、襖は最後には静かな音を立てて閉まった。音が遠ざかる。
 部屋に残るは織楽と、彼から一瞬たりとも殺気立った視線を逸らさぬ針葉の二人となった。織楽が彼と会うのはいつぶりだろう。久しぶりに見る彼は顎の輪郭が鋭くなり、余分なもの全てを殺ぎ落としたふうだった。その上無精髭も伸ばし放しだから、まるで獣のようだ。
「まぁそこら座りぃや。遠くから帰って疲れてるとこ悪いけどな、訊きたいことあってんや」
 針葉は動こうとしなかった。禍々しいものでも見るように織楽を睨め付け、ふっと斜め後ろに目をやった。
「針葉」
「今のぁ手前の女か」
 いたぶるような口調だった。織楽は口を結ぶ。
「いい気なもんだな、え? 人の女寝取っといて、こっちじゃこっちで好き放題か。反吐が出る」
 織楽は目をつむって眉間を押さえた。深く息を吐く。
「……どこまで聞いとんのや」
「さあな、自分の恥がどの程度かくらい自分で分かってんだろうが。あの女も運が無かったな。八方美人は手前の十八番とも知らずにな」
 織楽は瞼を開いた。目が合うところまで顔を上げる。
「……何やて」
「周り全部に尻尾振って生きてきたのが手前だろうが。分かりやすく媚びやがってよ。挙句の果てにゃ人の女にまで手ぇ出すときた。……どう落とし前つけるつもりだ」
 織楽は能面のようにじっと針葉を見上げていた。
 短い舌打ち、次の瞬間には針葉の腕が伸びて織楽の衿を引っ掴んだ。
「何とか言いやがれ!」
 怒鳴り声に織楽は顔を歪める。彼の表情にもじわじわと険しさが増していた。しばらく場の膠着が続いた。
 ふ、と息の音。先に顔を崩したのは織楽だった。彼は衿をぎりぎりまで掴み上げられたまま、片頬を歪めて笑っていた。
「人の女人の女て、よう恥ずかしげもなく言うわな。一度は殺しかけといて、今やって女の匂いぷんぷんさせて」
 針葉は目を見開いた。
「えらい遅い戻りや思てたら、そうか、俺みたいに暇ちゃうか。そら結構。……港で何泊してきた」
 蝉の声が空虚に部屋を満たした。
「てっめぇ……」
 針葉の瞼がぴくぴくと痙攣していた。怒りに震える手で織楽の衿を更に締め上げる。鼻先に互いの顔が向かい合った。
「よくも……んな口が利けたもんだな。追い出されて身売りしかなかったのを拾ってやったのぁ誰だと思ってんだ」
「黄月やろ。あぁ、お前もおったかぁ?」
 織楽は間近に見える黒目の中に自分の顔を見た。きっと睨みつけて手首を掴む。
「お前、暁にもそんな言い方してたんちゃうやろな。命救ったったからどうや、拾ったったからどうや、て」
「……っどんな話してようが手前にゃ関係ねぇだろ!」
 織楽は身を反らして顔をしかめた。彼自身の目にも、猛り狂う鬼のごとき姿が映っているに違いないのだ。
「さよか……話なんてしょう思たんが間違いやったわ。呼び付けといて悪いけど帰ってくれるか」
「認めんのか」
「何を」
「人の遠出をいいことに、人の女に手ぇ出したことだ!」
 織楽はゆっくりと瞬いた。針葉の顔をじっと観察する。今まで横に並んで馬鹿騒ぎをしたことは数知れずあったが、真正面から睨み合ったことがあっただろうか。
 目を閉じる。それはとても残念なことだった。
 目を開く。彼の顔は相変わらず鼻先にあって、親の仇でも見るように織楽を見据えていた。
「否定したろか? ええよ、俺は暁と何も無かったし、声交わす以上のことは一切してへん」
 針葉の顔の皺がわずかに薄らいだようだった。だがそれも次の言葉を聞くまでだった。
「で、俺がこんなん言うたとこで何が変わんのや? 早速家帰って仲直りでもするんか。あいつの潔白信じたれんのか。手ぇ上げて悪かった言うて謝れんのか。ちゃうわなぁ、又聞きで血相変えて怒鳴り込んでくるくらいやもんなぁ。しかも青筋立てて怒鳴り散らす割に、自分はちゃっかり他で楽しんでくるいうお笑い種な。結局お前はあいつのこと一っつも信じとらへんのや」
 虫が喚いている。雪崩れた音が言葉の途切れた隙に耳へ飛び込んでくる。
「言うだけやったら易いもんや、いっくらでも言うたるわ。暁とは何も無かった。俺は暁なんて知らん。女抱いたことなんて今まで生きてきて一っ度も無いわ。これで満足か? ちゃうやろ。お前は」
 最後まで聞かずに、針葉はぶんと腕を払った。畳に叩きつけられた織楽は額をさすって起き上がる。
 針葉は身を構えて待っていた。握りしめた右拳を、耐え兼ねたようにぶるぶる震わせて、歯を食いしばり、今にも殴りかからんとしていた。
「……っ」
 だが何か呑み込むように口を閉じると、くるりと踵を返した。早足で畳を踏み、襖を叩き付けるように開けて、そのまま彼の背は見えなくなった。
 織楽は額に手をやった。少し痛みがあるが血は出ていない。衿を整えて大きく息を吐く。
 胸に重いものがつかえているような気分だ。自分で選んだ道だというのに、こんなにやり切れない思いに足を取られている。何をしているのだ……今までも、これからも。
 振り切るように顔を背ける。襖を閉めに座を立った。
 つっと背を汗が伝った。
「……果枝」
 襖の裏には、盆に湯呑を乗せた彼女が顔をうつむけて立っていた。織楽は襖に手を掛けたまま、目を瞠って動けなくなる。
 いつから、などと訊くまでもなかった。ニ客の湯呑に湯気は立っておらず、茶葉は黄色い茶の湯の底に円く沈んでいるのだ。
「何ですか、今の話」
 織楽は盆から湯呑を取った。ひと口飲んだそれは香り薄く、渋みばかりが際立っていた。元々は美味く淹れてくれていただろうにと申し訳なくなる。
 どう答える。何でもない、つい煽っただけだ。何でもない、ついそれらしく話す癖が出て。何でもない、つい。
 ――八方美人は手前の十八番とも知らずにな。
 もうひと口湯呑を傾ける。
「何か言ってください」
「……何でもない。心配することちゃう」
「それも、言うだけだったら易い、ですか?」
 果枝が顔を上げた。真っ向から投げかける瞳は今までになく激しかった。
「台詞覚えんの得意になったなぁ」
「はぐらかさないでください」
 じっとりと湿った空気は体を覆って離れない。冬ならとうに日暮れとなっている刻限だろうに。織楽は盆に湯呑を戻す。果枝は視線を逸らさない。
「さっき言ってたこと……少なくとも二つ嘘がありましたよね。本当はいくつですか? 全部ですか?」
 ゆっくり瞬く。何度そうしても目の前に横たわるものは変わらなかった。天井近くに目がついて自分たちを見下ろしているようだ。ここは舞台ではないのに、未だに全て芝居じみて感じている。
「弁解さえしてくれないんですね」
 果枝はふいと背を向けて廊下を歩いていった。織楽はゆるやかな眩暈を感じて目を覆った。
 追いかけようともしなかった。目を閉じれば全て振り出しから始められるとでも思っているのだ、読みかけた本を閉じるように。焦りや後悔すら、舞台に飛んでくる野次同然で、彼の体を動かしはしなかった。



 障子を開けて見た暁はいつもどおり机の前に正座していたが、筆は硯の傍に置かれたままで、両肘をついてうつむいていた。額をがっちりと押さえているため表情は見えず、大きく動く肩に、深いところで呼吸する音が聞こえた。
 浬は戸惑いつつも障子を閉める。机を挟んだ向かいに座ったところで、彼女はちらと視線を向けた。ほつれた髪が汗で額や頬に張り付いていた。少し痩せたようだ。青ざめた顔色も相まって、それは病的な印象を与えた。
「どうしたの。気分悪い?」
「少し。……何かあった?」
 唇を湿すわずかな間、浬は黙って考えた。針葉が帰ってきたことを、この状態の彼女に話してもいいものだろうか。
 つい今しがたのことだ。

 ――木々と木漏れ日に囲まれたあの上り坂の入り口で、彼は足を止めた。振り向いてじっと見つめていると、西陽の中に姿を現したのは針葉だった。
 傾斜を踏んで近付いてくる彼の容貌は鋭さを増していたが、反面心は落ち着いているように見えた。きっと昨日一昨日には港入りしていたのだろうと見当がついた。どこかで洗い流し鎮めてきたのだ。
「おう」
 呼びかける声も、少しかすれている以外はいつもどおりだった。あの騒動など無かったかのように。
「変わりは無かったか」
「……いえ、何も」
 針葉は大股で歩み寄るなり、ばしんと勢いよく浬の背を叩いた。よろけた浬の目には袋を提げた針葉の右手が映る。手加減をする余裕もあるらしい。
 浬が体勢を整えるのを待って針葉は言葉を続けた。
「んな嫌な顔すんな。……この前のことは、お前らにも迷惑掛けたと思ってる。俺が」
 息を吸うわずかな間。
「悪かった」
 振り向き見た彼はきまり悪そうに空を眺め、浬を目を合わせようとしなかった。
「……嫌な顔と言われても、元々こういう顔なので」
「元々陰気な顔か、そんならいい。あいつはいるのか」
 針葉は一歩踏み出した。
 浬は彼の背中を見つめる。針葉が振り返る。
「暁だ。いるんだろ」
 わずかな視線の揺れに、彼は気付いたのだろうか。浬の答えを待たずに声が続いた。
「暁は」
「ああ……それより、話したいことがあるから季春座に来てほしいって織楽が言ってましたよ」
 息を吸う音がやけに近く聞こえた。ぱき、と小枝の折れる音。彼の姿は影となり、険しい表情を浮き上がらせた。
「なんで奴の名が出てくる。俺が訊いたのは暁のことだろうが」
 声がまるで違った。
「言え、何があった」
 浬は顔を背ける。
「おい」
 彼の腕がむんずと浬の衿を掴み、引き寄せる。
「浬」
 蝉の声はしゃわしゃわと、天気雨のように降り注いでいた。
 ……こうなることは分かっていたではないか。どういう事情であの夜の騒動が起こったにしろ、たといその結果、針葉と暁が決別していたとしても、これほど近い範囲であれば彼の気を逆撫でするだけだ。なのにどうして織楽は彼を呼べなどと言ったのだろう。
 あの夜の暁は憑かれたようだったはずだ。それに気付かぬ男でもあるまいに。
 事態は浬の手を大きく逸れて動いていくのだ。
 針葉は坂を下って去った。浬は衿を整え、どさりと地面に落ちた袋を拾って、道の向こうを見上げた。彼女に会う必要があった。

 改めて彼女に目をやる。額に脂汗をにじませた彼女を追い詰めるのは本意ではなかったが、今この時を逃せば、いつ激昂した針葉が飛び込んでくるか分からないのだ。その前に自身の置かれた状況だけでも教えておかねばならない。
 浬は膝を正した。
「針葉さんが帰ってきたよ」
「……そう。自分の部屋?」
「今は季春座だろうね。ひと悶着あったかもしれない。どうしてか分かる?」
 暁はようやく顔を上げた。
「また……あれでしょう、他の客と喧嘩騒ぎでも起こして。懲りない人だから」
「暁のことだよ」
 浬をじっと見つめる茶色の目は潤んでおり、熱でもあるのかもしれなかった。
「……意味が分からない。はっきり言って」
「そうさせてもらうよ。暁、この前の夏至の夜にどこにいたか覚えてる? 覚えてないだろうね」
「何? 何の話……」
「暁は雨呼びを行った後、織楽の部屋へ行き、織楽の隣で眠っていた。朝になって僕が探しに行くまでずっとだ」
「浬」
 不機嫌な声だった。
「やめて。何を言い出すかと思えば……。浬がそんな人だとは思わなかった。出て行って。これ以上馬鹿げた話に付き合っていられない」
「馬鹿げた? じゃあ言ってごらん、部屋じゅう覆った煙の元はどこに消えたか。あの儀式は戸を閉め切って行い、朝まで決して外には出ないんだったね。なのに目が覚めたら小皿も灰もどこにも無かった。蒲団だって暁が敷いた覚えは無いはずだ。違う?」
「それは……きっと誰かが忍び込んで」
「誰が」
 暁は机に掌を下ろした。ばん、と木の震える音がする。
「確かに誰かいるんだ! それに、もしそんな……そんなことがあったなら、たったふた月足らずで忘れるはずがない」
「忘れるはずのないことを、暁は忘れたんだ。身を以て知っただろう、雨呼びとは神憑かみがかりの式だ」
「……っ、壬を貶めるつもりか。どうして浬にそんなことが言える」
「昨年の冬至もそうだった。あの匂いを纏ったまま、ふらふらと縁側を歩いていたよ。暁は覚えていないだろうけどね。これ以外にも理由がいる?」
 暁は血の気の引いた顔で浬をじっと睨んでいた。彼女の指がおもむろに、色みの薄い唇に伸びて、紅、と呟いた。
「季春座で……織楽に紅を引いてもらったことがある。夏至の晩にその夢を見たことは、おぼろげながら覚えている。それ以外にもいくつも……いくつも、あの夜は夢見が悪かった。この目が開いていたら見ようのないものばかり、いくつも……。私が眠っていたことの証だ」
「夢じゃない。暁は織楽に会いに行ったんだ」
 苦々しい思いだった。化粧を施されるまでにどんな経緯があったか。飾られることに慣れていない彼女が、どんな想いを抱いたか。暁が織楽を訪ねたのは、彼の部屋が向かいにあったというだけの理由ではないのだろう。朦朧とした意識の中にありながら、そこには彼女の意思が介在していた。
 あの朝。夏至の翌朝、浬は坂を駆け上って戻るなり暁の名を呼んだ。部屋はもぬけの殻だった。蒲団さえ敷かれていなかった。障子が開け放たれていたから、もう起き出したのかもしれないとわずかな期待を抱いた。
 答えたのは織楽だった。物憂い様子で障子の隙間から顔を出し、口元に人差し指を当てて見せた。
 ――何や、そんな騒いで。
 ――悪かったよ。でも暁がどこにも。
 ――ここにおる。起きる気配も無いし、もう部屋運ぶわな。
 まさかと障子に手をかけた。織楽の肩の向こうに、波打つ彼女の髪が畳にこぼれているのが見えた、と思ったところで浬は目を覆われた。
 ――あんま見んといたって。
 どうしてお決まりの冗談交じりの口が、あの時は無かったのだ。どうして沈痛な面持ちでいたのだ。
 答えは明白ではないか。
 なのに、どうしてだ。
 ――もし針葉が戻ったら、季春に来るよう言うてくれるか。必ずや。あいつの……暁のことで話しとかなあかんことがある。
 何故なのだ。

 暁は眉間に皺寄せて目を閉じ、口に手を当てていた。どうにか情動を抑えようとしているようだった。
「どうしてそんな訳の分からない話を……今になってするんだ。夏至とか冬至とか今更、こちらの記憶がすっかり薄れてから、実はどうだった、こうだった……卑怯だ」
 指の間から覗く彼女の唇が、ぶるぶると震えていた。
「大体、ここに来てから何度雨呼びをしたと思っている。そのたび狐憑きのようになって、誰にも気付かれずそこ辺りをうろついていたと言うつもりか。紅花が部屋にいた最初の夏至も……香ほづ木が手に入らなかったこの春分はともかく」
「香ほづ木が手に入らない? 下手な嘘を」
 彼女が指の奥で唇を結んだのが、見えた。ゆっくりと浬の方を見る、壬を示す茶色い双眸は、限りまで見開かれていた。
「お前か」
 瞬き一つ無い。血走った目に突き刺されるようだった。
「……何が」
 暁はゆらりと体の向きを変える。憑かれたかのような、熱を帯びた眼差しだった。
「確かに嘘だ。家にいなかった去年の夏至を除けば、私はいつも香ほづ木を持っていた。だが何故お前がそれを知っている」
 血の気の引いた唇が、ゆっくりと。
「香ほづ木をニ度もすり替えたのは、浬、お前か」
 浬が唇を結ぶ番だった。暁の指が震えながら彼の衿を掴む。浬は白い彼女の手を一瞥する。
「……すり替えた?」
「この春分の香ほづ木は、見た目ばかりはよく似ていたが、木も包み葉もまるで違った。……すり替えられたんだ。壬に仇なす者がいる。お前か」
「さあね。それを言ったところで何が変わるんだ」
 浬は暁の手首を掴んだ。暁がびくりと身を引く。
「壬の儀式がどうであれ同じことだ。どんな手を使ってでも、決して次の式は行わせない」
 瞬きが聞こえるほどの至近にありながら、互いの呼吸はしんと静まり返っていた。
 幾分おとなしくなった蝉の声、にゃあ、とどこかで猫の鳴き声。もう夕暮れに近付き、かすかに魚の焼ける匂いが漂っていた。浬はふっと視線を逸らしてまた戻す。
「……暁?」
 うつむく彼女の顔からはまるで血の気が引いていた。畳みかけて話しすぎたか。しっかり口を押さえる姿に、思わず浬は指の力を緩めた。
 途端、彼女は浬を突き飛ばすようにして縁側へ走り、下駄を履くのももどかしく、木立の中へ駆け込んだ。慌てて浬も後を追う。
 何が起きているのか、正確には掴めていなかった。夕焼けの赤を突っ切って草むらを進む。
「暁」
 彼女は木の根元にしゃがみ込み、幹に添えた片手で体を支えていた。肩がぜえぜえと大きく揺れている。つんと鼻を刺す匂いがした。
「吐いたの? ……ごめん、具合が悪かったんだったね」
 絶えぬ息の音だけが答えだった。彼女の背中はあまりに頼りない。さすってやろうとして伸ばした手が、しかし途中で止まった。
「暁。……」
 浬の頭の中で、少しずつ糸が撚り合わさっていく。
 彼は暁に背を向けた。
「そのまま休んでな。水を汲んでくる」
 精一杯優しく言って、小走りに木立を戻る。額に風が当たって髪がそよいだ。夕日に染まる家を横目に、ぐるりと回って井戸へ向かう。心だけが寒々としていた。
 何ということだ。どうして今まで思い当たらなかったのだ。
 縄を掴む。引き下ろす。滑車が回る。ぎしぎしと軋む麻の音。桶が揺れる闇の底から姿を現す。浬は静かに目を閉じた。
 暁は、多分、身籠っていた。