どうして居合わせてしまったのかと、聞いてしまったのかと悔やむことがある。
 紅花にとってそれは、梅雨明けの久方ぶりに晴れた朝、いつもより随分早くに起き出して洗濯物を洗っているときに訪れた。
 雨降りの間に溜まった大量の洗い物を、水を張った盥に放り込み、手洗いして絞ったものを隣の盥に放り込む。水を土に還してひと息、もう一度水を汲みに家の裏へ行く。
 水を得るのもひと苦労だ。この家のような高台の地に桶を引き上げるには、ちんたらしていては埒が明かない。深呼吸して一気に、かつ辛抱強く縄を引くのがこつだった。
 数度繰り返して盥に水が溜まるころには、大抵腕が熱を持ちじんじんと痛くなった。
 紅花は井戸の前の縁側に腰を下ろす。真正面に立ち並ぶ木々の間からちらちらと光が射して、やっと顔を出した日が勢いよく空へ昇りゆく。紅花は目を細めて思い切り背伸びした。体が傾いで腿が浮き上がる。音が遠くなり、やがてまた耳の中に流れ込む。
 涼しい朝に鳥の声が重なる。
 ふと、後ろから人の囁きが聞こえた。
 きょろきょろと見回す。浬だと思った。真後ろにあったのが彼の部屋だったからだ。だが耳を近付けてみても、話し声が鮮明になったとは言い難かった。
 浬ならちょうどいい、洗濯物を干すくらいしてもらおう。確証も無いのにそう思って、彼女は声の出どころを探した。
 一つ北隣は黄月の部屋だ。だがそちらへ近付くと音は遠ざかったような気がした。それなら考えられるのは一つしかない、南東の角部屋だ。それは誰も使っていない物置部屋だった。障子越しに堆く積まれた物の影が見えた。
 耳を近付ける。
「……前はうまくいった……からまさか、こんな……」
 紅花は二三度瞬いて障子を見つめた。こんな清々しい朝にしてはどうしたことか、やけに重い声ではないか。しばし迷った末に、乗りかかった船と、縁側深くに腰掛けて更に耳を寄せた。押し殺したような声が途切れ途切れに続く。
「……前と全く同じ……、何の問題も無いとでも……」
「……から……頼んでたんじゃないか」
「……は関知しないと言ったはずだ。何の用だか知らないが、後になって悔やむくらいなら初めから断っておけ。その程度もできない奴に偉そうな口を利かれたくないな」
 声は不穏な空気を纏いながら畳みかけるように昂りを増し、今や紅花の耳にもはっきり聞こえるまでになっていた。何人いるのか分からないが、聞こえる声は二種類だ。ぴしゃりと撥ねつけられて、もう一方の声がうなだれる。
「……それまでだって、あれが起きたのは去年の暮れの一度だけだったんだ。正直、二年前は肝が冷えたよ。あれをもう一度、この耳で聞く日が来るなんて」
「紅花か」
 彼女はぎくりと耳を遠ざけた。だが障子越しの彼女に気付いたわけではないようで、声は続いていく。
「だがあいつには何も起きなかったんだろう」
「二人ともだ。あれから季節が巡るたびに、何度も……繰り返したはずだ。あの匂いは忘れない。二年前は確信が持てなかったから、大っぴらなことはできなかった。せいぜいが障子を剥がすくらいの気休めだ。だが去年はそれも張り替えられて……危ぶんでいたんだ。なのに何も起きなかった。取り越し苦労だったと思った」
「最初の三度まではな」
 沈黙が訪れる。紅花はようやく、これが聞いてはならない類の話だと気付いた。押さえた胸がどくどくと脈打っていた。
 だが、彼らは一体何の話をしているのだ? 剥がれた障子? そうだ、一昨年末の大掃除は年明けまでずれ込み、あまりに状態のひどかった障子を丸々張り替えた。指揮を執ったのは紅花自身だ。あれは確か……。
「あいつを家から離すな、一人にさせるなと言ったのはお前だ。俺は出来るだけのことはしてきたつもりだ。湊行きも控えさせた。家でできる仕事も与えた。紅花の店に入らなくて済むよう銭も渡した。お前は何をした。今までに見張りの一つもしたのか」
「分かってるよ。それは悔やんでいる。ただ……裏をかかれて、その上ここまで大きな動きがあるとは予想しえなかった。それに、きちんと因果を明らかにすべきだと思ったんだ。身に覚えが無いんだから、頭ごなしに何を言っても信じられないだろう」
 溜息の間があった。
「何かに憑かれたよう、か。結論づけるは易いが、本当にその何とかって儀礼のせいなのか。都合が良すぎやしないか。ただ乗り換えたかったとは考えないのか」
「あの匂いがしたのは事実だ。それは去年の末もそうだったし、五年前も……。あれが人を狂わせるとしか思えない。あれしか符合するものがないんだ」
「五年前なんて、国も違えば人も違うだろう。単なる偶然じゃないのか」
「確証がある。あの時も、……あれが使われる日だった」
「燃やしたら同衾したくなる木か? とんだ効能もあったもんだ。街で売り出したら大儲けだな。世も乱れ放題だ」
「そうは言ってないだろ。ただ……あれは多分、判断がつかなくなるんだよ。一過性の気狂い……いや、やめよう。泥酔だ。そう考えたほうがいい」
 霧が晴れるように少しずつ、話の輪郭が見え始めていた。離れたほうがいい。これ以上聞いても、きっと何の得も無い。紅花はそっと体を離して地に足を下ろす。最後の声が耳に入ったのはその時だった。
「とにかく現物を持ってこい。判断がつこうがつくまいが、あの女が織楽の部屋にいたのは事実なんだろう」
 ……聞いたところで何が変わったわけでもなかった。紅花は努めて冷静にその場を離れると、盥の水を一滴もこぼさず家の表へ歩んだ。残った着物やら手拭いやらを全てその中に放り込んで、ぐちゃぐちゃと力任せに擦り合わせる。既に辺りは明るく、虫がしゃわしゃわと鳴き始めている。汗が背を伝う。腕が痛くなったことに気付いて力を抜いた。
 あの女。紅花でないからには、暁だ。織楽の部屋に。同衾。儀礼。木を燃やす。狂う。障子を剥がす。そんな昔から彼は何を。
 紅花は口を押さえた。訳が分からない。暁が……まさか。
 がつんと殴られたような衝撃が、後からじわじわと襲ってくる。呆然と顔を上げて、裏手に続く細い道を見た。
 浬と黄月。あの二人は一体何を知っているのだ? 他の者にはこそこそと、何をしているのだ?



 我ながら気丈なたちだと思う。
 午後になり、紅花は乾いた洗い物全てを暁の部屋へ運んだ。表向きは彼女に添うてやるためだ。周りに取り込んだものを並べて一つ一つ畳みながら、ちらちらと暁の横顔を見やる。彼女は今日も筆を執っていた。時々思い悩むように顔をしかめる他は、何も変わらず、落ち着いた様子で手を進めていく。髪はまたまとめられて、首元がすっきりと覗いていた。
 一体それはいつのことなのだろう。……「匂い」?
「暁」
「ん、……何」
 字を書き終えるまでのちょっとした間があった。筆を置く音がする。紅花は視線をそらしたまま、手拭いの角をきちんと合わせることにばかり目を使う。
「あんた、今年もあれやったの。何て言ったっけ、あの、部屋をぐるぐる歩き回る。こういうちっちゃい茶碗みたいなの持って」
 できるだけ、儀礼だとか木を燃やすだとか匂いだとか、耳に残った言葉は使いたくなかった。
「ああ、雨呼び。もちろん。一年に四度あるけれど、夏至の雨呼びが一番の要だから」
「そう……そうよね、うん、そんなこと言ってたっけね。それで、その夜に何か変わったことって無かったっけ」
「え?」
「何だろ、街で火でも上がったのかな。すごーくうるさい日があったのよ。あんまり耳障りだから、何だろうと思って縁側に出たんだけどさ、その時あんたの部屋から、あのいい匂いが……した気がして。だから多分その日なんだけど、覚えてない?」
 苦しい言い訳だ。思い付くまま言葉を並べていくのは不得手ではなかったが、香りのことを口にした途端、鼻腔に二年前の花に似た甘い香りが蘇り、耳には「気狂い」という浬の物騒な言葉まで蘇り、口元が引きつった。記憶の中からあの妖しい煙が追ってくるようだった。
「そんなことあったっけ? 覚えてないよ。それに言ったか分からないけれど、雨呼びの日って日入り後すぐに部屋を閉め切るし、朝まで明けないから……。ずっと眠っていたんじゃないかな」
 暁は何か考えるように額に手をやった。眉根にかすかな皺が寄って、すぐに消える。
「うん、夢見の悪かった日だと思う。そのせいでひどく寝坊したんだ」
 あっけらかんとした答え方は、間違いなくいつもの暁だった。紅花はほっと息をつく。
 そうだ。二年前の夏至の夜、紅花は暁と同衾したと言えなくもない。だがその時何か起きたか? 先に目を覚ましたのは朝仕事に慣れた紅花だった。暁は日が昇りきるまですやすやと眠りこけていたではないか。その時彼女の部屋は閉め切られていたにも関わらずだ。
 肩の力が抜けた。結局あの二人が、壬の見慣れぬ儀式を目の当たりにして面食らったというだけのことなのだ。愚かしくも、白蛇を祟りと忌み嫌ったり、神に祀り上げたりするようなものだ。
「そうだった? じゃあ勘違いかも、気にしないで」
 分かってみれば単純なことだった。織楽のことだって、彼が騙されやすい浬をからかったのだ。いつものことなのに、動転して気付かなかったのが悔やまれた。これでは自分まで織楽に一杯食わされたも同然ではないか。
 あまりに口惜しくて、浬は障子紙を剥がす以外にどんな馬鹿馬鹿しい邪魔をしていたのだろうと、紅花は軽い気持ちでそれを訊いた。
「あ、じゃあそれまでに、あのちっちゃな木に変わったことって」
「……え?」
 今度の声は、明らかに先程とは違った。着物を畳む紅花の指が強ばる。
「紅花、何か知っているの」
 棘を押し隠した声だった。今までの無防備な物言いが嘘のようだ。紅花は広げた着物の衿を大袈裟な動きで合わせつつ、横目でちらりと彼女を見た。
 ……暁は射るような眼差しを紅花に向けていた。
 ぞっと鳥肌が立って、咄嗟に目を戻した。瞬きのたびに浮かぶ、一度として見たことのない険しい顔。家に来て間も無い頃だって、あんな鬼気迫る表情はしていなかった。
「え、あ……何かって、何?」
 何だ。何なのだ。どうして洗い物を畳むだけのことで、こうも追い詰められねばならないのだ。
 その一着だけは段違いに美しく畳み上がった。彼女の視線を背中に感じながらそれを脇に置いたとき、ようやく息の音が聞こえた。
「そうか、紅砂に聞いたの」
「そ、そうそう」
「そうなの」
 畳の踏まれた音。暁は立ち上がったらしい、次の声は上方から落ちてきた。
「誰にも言わないでって言ったのに……」
 紅花の顔が、またしても引きつった。彼女は心の中で兄に、滅多に下げない頭を下げる。
 暁は紅花のすぐ隣に腰を下ろした。そろりと振り向く。彼女の顔には今度は、いつもと同じ慎ましやかな笑みしか浮かんでいなかった。あの恐ろしい形相を盗み見していなければ、思わず笑い返したくなる穏やかな表情だった。薄い茶色の目が、探るように紅花を覗き込む。
「紅花。どうか信じさせてね」
 それはむしろ、紅花の方こそ言いたい台詞だった。「あんたなんて家に来た時から、男女の別さえ嘘っぱちだったくせに」。そんなことは、睨み合いを降りた今の彼女に言えるはずもなかったが。
 この家は、彼女が気付かぬうちにどこへ舵を向けてしまったのだろう。こんな面倒は御免だと、彼女だけは声を大にしてずっと言ってきたではないか。





 中途半端に開いた障子窓からぬるい風がもたもたと流れ込んでくる。織楽は話を止めて障子を片方に寄せたが、蝉の声が大きくなっただけだった。二階にある彼の部屋から間近に見えるのは、ぎらり日を照り返す瓦屋根の波ばかりなのだが、まったくこの大合唱はどこから来るのだろう。
 織楽は蝉探しを諦めて、傍らの少女に向き直った。果枝という名の彼女は、正座の膝に紙の束を乗せていた。薄青の単衣に、黒い髪を耳の後ろでまとめた姿は涼しげだが、彼女の首にも汗が光っていた。
「でも、何ですか?」
「ん」
「今言いかけたでしょう。でもなぁって」
「ああ。そやし、お前の話聞くたんびに、芝居の世界もえらい変わってくんやなぁて驚くいう話」
「そうですか? そうかなぁ……。どの辺りがですか」
 果枝は得心いかぬ様子で首を傾げた。変化とは得てしてそういうものだろう。真っ只中にいる者には何も見えず、奔流に目を丸くするのは、逆らってひとところに留まろうとする者ばかりなのだ。
「お前、親おる言うてたやん、それも芝居から離れたとこに。俺やったら一生カンカ育てて暮らすわぁ。そもそも女が舞台に立ついうんも肝抜かれたし」
「西国の芝居小屋の話ですか。前にいたっていう」
「そやそや」
 それは織楽が亰にいたころ、住み込んでいた芝居小屋だった。そこでは男役者しか許されず、女といえば三味方や鳴物方、化粧方の子供が親を継ぐくらいのもので、それも大っぴらに知られれば、お咎めを免れるかは怪しいものだった。
 季春座も七年前、織楽が入るほんのニ年前までは同じだったらしい。今は上下に分かれた組のうち、織楽が属する上の組だけが女形を抱えている。転身をやむなくされた女形や上客の激しい反発も、既に昔の話だった。
「こっちに来て、正直なところどう思いました。嫌でした?」
「おまんまの食い上げや思た」
 果枝はくしゃりと破顔した。そうすると、元々童顔である彼女は更にあどけなく見えた。

 坡城は東西に長い国である。中央から北部にかけてなだらかに広がる山に分かたれた国土は、一年を通して温暖な気候に恵まれ、雪もほんのわずかが初春の名残にちらつく程度のものだ。
 緩やかな山々は、国を北上して東雲に入ったところで険しくなり、飛鳥の東側の国境を形作って、遥か北の海まで続いているという。だからこそ東西を行く人々にとって、坡城は必ず通る道だった。
 都の置かれた東は人の流れに恵まれ、国境は東国との交易の要として、山境は西国に入る前の宿場町として、華やかに栄えた。一方の西は豊かな漁港を持ち、壬、東雲、飛鳥の三国に程近い、荒々しくも活気ある地として賑わいだ。
 果枝はそのどちらでもない、西寄りの山腹にある小さな集落の出だった。彼女の足では、東西の大脈路を東へ四日、峠分かれで北へ分け入ってニ日で、ようやく辿り着けるという。
 彼女が季春座に来たのは今から四年前、十ニの冬だ。日照に恵まれた彼女の集落では美味いものが取れると評判で、集落を含む地域一帯の名を冠した果物は、大通りでも高値で取り引きされていた。
 彼女の家も例にもれず、小さなカンカ畑を持って生計を立てているらしい。母方の祖父母は、春から夏にかけては木彫りの細工師も兼ねるという。地元で開かれる秋祭りで舞い手を務めた彼女が、ミツベニの初物目当てで行った唄師の藤に見出されたという逸話は、織楽も耳にしたことがあった。
 もっともそれも、彼が二年前に彼女と初めて言葉を交わしたときには、藤はかくしてカンカを安く手に入れるに至った、という落ちまで付けられている始末だったが。
 それまで芝居などまともに見たことのなかった彼女は、周りに溶け込み作法を覚えるだけでひと苦労で、当時は郷里へ帰ることも考えていたという。藤に最後の挨拶をと思って惨めな顔で開けた部屋が、廊下の真反対に位置する織楽の部屋だった。
「まだはっきり覚えてるわ。いっきなり襖が開いた思たら、捨て犬の顔が般若に変わって、あなた誰ですか! 何してるんですか! 人呼びますよ! お前が誰や言いたかったわ」
 声まで真似すると、彼女は慌てて織楽の口を塞いだ。
「頭がぐちゃぐちゃして、部屋が違うなんて分からなかったんです! それにニ階なんて滅多に来ないし……」
「ぱっと見たら唄師の部屋やないことくらい分かるやろ」
「あんな鳴物だらけの役者部屋なんて他に見たことありません。それに、笛、鉦、鼓、おまけに筝三味も勝手に持ち出してたのは本当じゃないですか」
 一時の昂りでやめようと考えたことは、役者としての片鱗を示すようになった今となっては、忘れ去りたい過去らしい。
 分かっているから織楽も、この話は二人きりのときにしか口に出さなかったのだ。

 果枝は体を伸ばして、彼が片側に寄せた障子を中央に動かした。
「この方が風が通りますよ」
「ほんまに。でも今日はどっちみちそんな変わらんて」
 相変わらず後ろからは、風の代わりに騒がしい虫の声しか流れてこない。後れ毛さえちらとも揺れないのだ。
 織楽は果枝の膝に積まれた紙を一枚めくり、また元に戻した。
 冬の入れ替え早々に行う芝居は、季春座には珍しく、数年前に起きた身分違いの駆け落ち騒動をもとに書かれることになっていた。それとともに、何十年も前に坡城の東で起きたという、今は無き有力家の家督争いに端を発する謀殺事件とやらも絡めて、御宮入りとなった結末にも一定の落ちをつけるというから、本書きの森宮の意気込みようは並大抵ではない。徹底して新しいことに挑むつもりらしい。
 その芝居のためにはもう一つ新しい計画が練られていた。他の一座を招いて合同で芝居を作ろうというのだ。
 それは巡業を主にする一座から三年前に来た男が、当初から声高に提案していたことだった。一昨年去年と見送られていたが、とうとう座長を口説き落としたらしく、今は方々に声を掛けているところだという。
「さっきからこれしか見てへんみたいやけど、ちゃんと読んでるん」
 彼女の膝に乗っているのは、当時街じゅうにばらまかれたという、駆け落ち騒動の筋を伝える早売りである。森宮がどこかで集めてきて、役者間で回し読みされる旅の途中だった。寄り添う男女の絵が、面白おかしく誇張された文章に囲まれて、ひと目で引き寄せられるつくりになっていた。
「よっ、読んでます。字はちゃんと習いましたから。えーっと、そうだ、最近だと、津ヶ浜の大きい家の人が相次いで襲われて、すごく騒がれてました、よね」
「聞いた聞いた。何や、早売りも読んでんのやん。感心やな」
 織楽は言うと、同じところを何度もなぞる仕草をして見せた。彼女の真似だ。
「か、噛み締めながら読んでるんです」
「分かった分かった。いくら本上がってへん言うても、話くらい掴んどきや。侮られんようにな」
 果枝は字をなぞる指を止めて顔を上げた。
「侮るってお客さんがですか、今更?」
「ちゃうちゃう、問題は遥々来る役者や。前に飛鳥行ったことあんねんけどな、季春の名ぁは知らんでも、女の役者がおることは知っててん。新しいことしてると、良い悪い関係なく目立つもんや。一つでもへま仕出かしたら、すぐそっちに結び付けて語られる」
 ふうん、と分かったような分からないような声が返ってきた。
「そんな変なこと言い出さない人が来たらいいですね」
 果枝はまた紙に目を落とした。古びて黄ばんだ紙の上の乱雑な字を追って、瞼が細かく震えている。
 風がうなじにそよぐ。
 織楽は畳に目をやったまま彼女の名を呼んだ。視界の端で、彼女が紙から目を離して振り向いた。
 唇を舐める。どう切り出そうかと迷うのは、彼には珍しいことだった。
「軽い気持ちで聞いてな。もし、もしもやで、お前の集落に火事でも大水でも起こったとして、もしそのとき」
「何ですか、それ。起こりませんよ」
 目が合った。いつしか風は止んでいた。
「いや、もしもの話や言うてるやん。そんでもしお前の近しい奴が」
「もしもしって何なんですか。そんな変な喩え話、嫌です」
 彼女の眉根には珍しく皺が寄っていた。織楽は今自分が口にしたことを思い返して、彼女がそう言うのも当然だと頷く。口にしようとしたことを反芻するたび、何たる物騒な話か、何たる救いの無さかと、芝居でも評するかのような言葉が脳裡をかすめる。
 こちら側と、あまりにかけ離れているのだ。
 織楽は彼女の肩を抱き寄せた。肌の熱と汗の匂いが近くなる。
「な……何ですか。ちょっと……暑いです、放してください!」
 ひと息遅れて彼女はもがき出した。織楽は笑って更にじゃれつく。
 彼女は影を持たない。幼く、知らないことが多すぎる。だからこうして寛ぎ、心安らぎ、他愛もない話ばかりしていられる。満たされるのだ、思うままに。
 卑怯だろうか。
「ねえ、聞いてるんですか?」
 こうして人を選ぶのは、残酷なのだろうか。
 階段を上る軋んだ足音が聞こえたので、織楽は腕を放した。果枝は眉根を寄せて頬を膨らませると、ぷいと背を向けて、また早売りの紙の中に舞い戻ってしまった。なぞる人差し指の動きを信じるなら、つまずくことなく読み進んで、そろそろ情死した二人が打ち上げられた辺りだろうか。
 足音は遠くの襖を開けて消えた。織楽は彼女のほつれた髪を見て苦笑する。
 睨まれたくらいで済むなら、放さなければ良かった。