「馬鹿ねえ」
 頬の痣の顛末を話すと、彼女はそう言って笑った。着飾り化粧を施された彼女だが、そうして声を上げて笑うとき、気取った様子は微塵も感じられない。
「黙って見てろって言うのか」
「そうじゃないわよ。どうせ手加減したんでしょ、じゃなきゃあなたがそう簡単にぶん殴られやしないわ」
 時に物騒な言葉がさらりと出てくるのも彼女の話し方だった。だからこんなところに留まるほか無かったのだと、彼女はあっけらかんと語った。
「とびきりいい顔してくれないと駄目じゃない。次までずっとその顔で覚えとくわよ」
「そりゃ勘弁。……なあ、俺の話はもういいだろ」
「前の続き? あんなのよく聞きたがるわよね、物好き。物好きせんり」
 それは彼の名をおかしいと笑った彼女に、彼自ら提案した呼び名だった。
 彼女は煙管をひと口含んで、すぼめた唇から長く煙を吐き出すと、ぽんと指で叩いて灰を落とし、盆に置いた。仕草だけは美しいが、あの煙がどんなに不味いものかよく知っているから、真似しようとは思わなかった。
「どこまで話したか忘れちゃった。もっとしょっちゅう来てくれなきゃ」
「初めからでいいよ」
「また途中までになるわよ」
 彼女は紅を引いた唇を弓の形に曲げた。煙の味のする唇だ。
「酷いとこだった。そればっかり覚えてるわ。寒かったし、食べるものも無くて、しょっちゅうお腹空かせてた。……ねえ、ここだけの話なのよ? 貧乏面して客が来るのなんて、もっと健気な顔してて、どうしようもないおつむの馬鹿だけなんだから。……肩身は狭かったわ、自分の国にいるはずなのに。ほとんど境目だったし、土地のあり方から言うんなら、北に近かったのよ。仲が悪いはずなのに、黒髪ばっかり偉そうに歩いてた」
 彼女は自分の髪をひと房すくって見つめた。豊かに波打つ髪は、背後の格子窓から射す光を受けて明るい茶色に輝いている。
「本当ならお上が許さなかったはずよ。でも住んでた頃はあたしもうんと小さかったし、そういうもんだと思ってた。だってお上のお偉いさんの家も、黒髪の奴らの家も、一つの街にあったんだから、それが普通だと思うじゃない。あれはきっと諦めてたのね。北の奴らって首から上隠してても見分けがつくのよ。背が高いし、いいもん食べてるから体そのものが大きくてね。怖かった。それに金をよく落としたから、商いびとなんか揉み手だった。そういうのって強いのよ」
「そういうの?」
「お上は掟を作るじゃない、何をどうしちゃいけません、こうしちゃいけません、黒髪と仲良くしちゃいけません。でも上から降るもんより、隣から流れてくるもんの方がよっぽど強いの。つまり黒髪どもは金払いがいいから失礼するなってこと。あんなに狭くて貧しいとこではね、一人そういう客を逃すと駄目なのよ。……もう駄目なの」
 それは彼女に近いところで、もしかすると彼女自身の家で起こったことかと思わせる口振りだった。閉じた瞼の上に、軽やかな彼女の声が降り積もる。
「黒髪も、そういうの分かってたんだと思う。だって、じゃなきゃどうしてあんなとこまで物買いに来るのよ。へーこらしてるうちに、みんな作り変えられちゃったのね、きっと。そのうち黒髪の数はどんどん増えて、その子供まで産まれるようになってね。黒髪との子供は、なんでか知らないけど大抵黒髪なの。偉ぶるのよ、そういう子供連れた女は。おっかしい」
 彼女はそこできゃらきゃら笑うと、ぴたりと口を噤んだ。
「あたしばっかり喋ってる。前もこうだったわね。何か食べる?」
「いや」
「じゃあお茶持ってくる。待ってて」
 彼女は立ち上がり、裾を引いて襖の外へ出て行った。改めて部屋の中にあるものを見る。衝立、肘置、蒲団、煙草盆。それで終わりだ。格子窓の向こうには屋根瓦が覗いている。手の届きそうな近さで、間に横たわるのは人ひとりがやっとの小道だけだった。
 盆に湯呑を一つ乗せて彼女が戻ってきた。膝をつく前から口を開く。
「そんな酷いとこだから、逃げ出す人はそりゃもういっぱいいたわ。どっちに逃げてもほとんど捕まっちゃうんだけどね。ああ、でも隣里のお医者先生が首だけで戻ってきたときは、さすがに逃げる人も減ったかな」
「戻ってきたってことは、その人も逃げたのか」
「居辛かったんじゃない。本当だか知らないけど、骸を掘り出して切り刻んだとか、腹を開いたなんて噂もあったからね。それが確か、あたしが九つになったばっかりの時で、その後は……もっと酷かったなぁ」
 少しずつ、彼女の話し方からは取って付けたような女臭さが消えていった。湯呑を差し出す彼女の手は色が抜けてか細かった。
「ねえ、こんなの聞いて面白いの」
 彼女がそう言ったときは、ちょうど茶を啜っている最中だった。ごくりと喉を潤して、彼女の方がよほど飲むべきだと思う。
「おかしいか」
「あなたは最初からずっとおかしいわよ。ここの料理をあんな美味しそうに食べる人、初めて見たわ」
「……あれは不味いもんなのか」
「料理だけを目当てにされたのは間違いなく初めてよ」
 怒ったように言ってしまってから、彼女は堪え切れなくなったように吹き出した。くるくる変わる表情もまた、彼女を特徴づけるものだった。
「もういいわよ、あなたがどんな変わり者かよく分かってるから。それより、ねえ、前に渡した櫛は」
「きちんとしておいた。安心していい」
 彼女は笑って、頬に垂れた薄い色の髪を耳にかけた。
「良かった。別にさ、何か憑いてるわけじゃないんだけど、この前、おつむの足りないのが勝手に盗って使っててね。あんまり頭に来てぶん殴っちゃったのよ。あたしも使うには重いし、もう土に還してあげたくってね」
「やっぱり亡くなった人なのか」
「どうなのかしらね。婆ぁは何も吐かないもの。今ここにいないのは確かよ」
 ちらと彼女の袖に目をやる。覗いた指先の奥に繋がるのは枝のように細い腕だ。
「手は容易く上げるもんじゃない」
「あなただってしたくせに」
「焦眉のときは別だ」
「難しい言葉使わないでよ。易い言葉で易いことしか話せないのは馬鹿だけど、難しい言葉でしか難しいことを話せないのは、偉ぶった馬鹿なのよ」
 彼女は煙管に手を伸ばす。きちんと畳んでいた足がしどけなく斜めに崩れた。
「身が危ないとき、身を守るためにだけ。それが俺の教えられたことだよ」
「ああ」彼女は煙管を口から離した。「あたしを助けてくれた時みたいに」
 その時、小さな可愛らしい声が襖越しに彼女を呼んだ。彼女は眉を寄せて振り返る。声がもう一度聞こえたので、「分かってる」と苛立った声を放り投げた。
「もうそんなに経ったか」
「みたいね」
 彼女の横顔が見える。なめらかな輪郭、丸い唇、目は伏せがちだ。彼女は体途中まで向き直って、煙草盆に灰を落とした。
「指一本触れずに帰るのね、今日も」
 その声は淡々としていた。
「馬鹿ねえ」
 返せる言葉は無かった。
「ねえ、目ぇ見せて」
 うべなうのを待たず彼女の手が伸びて、彼の髪を分けた。
「海の色ね」
 睫毛に指が当たって、彼は目を閉じる。瞼越しに彼女が近付いてくるのが見えるようだった。
 ――ああ、煙の味のする唇だ。
 瞼からしっとりとした重みが消える。目を開けると、彼女の顔に浮かんでいるのはいつもどおりの表情だった。
「次はあなたの昔話でも聞かせてちょうだい。あなたがどんなに口下手だって、昔話なら話しやすいものね。それに聞きやすい。あたしに昔の話をさせるのも、そういうことなんでしょ」
 彼女は悪戯っぽく笑う。
 彼女の説と同様に、もしくはそれ以上に、彼は彼女の声を聞くのが好きだった。それに、この一瞬を共にするより、辿ってきた幾千の足跡を共有するほうが、どれほど贅沢であろうか。
「昔話か……。それなら、港町の蓮とすゆの話をしようか」
「海の出てくる話?」
 彼が頷くのを見て、彼女は目を細めた。立ち上がった彼の背に回って着物を整える。
「あたし、海が好きよ。生まれたとこは大嫌い。ここも大嫌い。でもこっちのほうがまだまし、だって潮の匂いがするもの。知ってる? 海って限りが無いんだって。どこまでも続く山は行く手を塞ぐけど、どこまでも続く海は、どこへでも行けるって思わない」
 彼は低い天井を仰いだ。板目が間近に見える。彼の背丈なら、軽く手を伸ばしただけで容易に届くだろう。あまりにも限りが近すぎる、狭すぎるこの部屋。
 ふと背中に重みと温かさを感じた。
「若菜」
 この部屋では、溜息のように呼び掛けた声も、ずっと燻って消えやしない。



 紅砂は大通りに入り、北門を通ってそのまま北上した。日に日に昼は長くなって、日差しは和らいだものの、まだ空は青みを帯びていた。
 川を渡って、向かう先は壬との境目だった。
 左の頬に触れる。あれから既に十日が経ち、腫れはほとんど引いているはずだった。
 暗い心で思い出す――あの夜は初めからおかしかった。
 紅砂の部屋は針葉の部屋と隣り合っている。針葉が使っているのは南西の端部屋で、内廊下を挟んだ向かいは空き部屋となっており、だからこそ紅砂が最初に気付いたのだろう。
 紅砂はいつもから、隣の物音には努めて耳を貸さぬようにしてきたし、隣は隣で気を遣っているようだった。それが、あの夜はずっと話し声が聞こえていた。時に言い合う声らしきものも響き、壁越しの輪郭を成さぬ音は、いやに耳についた。蒲団を耳まで被る。それでも、少しずつうとうとしていた時だった。
 突然声が途切れて、紅砂ははっと目を覚ました。
 やっと痴話喧嘩が終わったと思った矢先、物音が続いた。どん、どん、と古い畳では吸い切れなかった音が、かすかな振動を伴って流れてきた。回を増すごとにそれは、狂ったような色を帯びた。
 ただ事ではない。
 しかし、まさか。
 思い淀む間に、ぷつりと物音が途絶えた。
 気付けば、蒲団をはね退けて隣の襖へ駆けていた。
「針葉」
 抑えた声で中へ呼び掛ける。それでも針葉なら、こちらの襖が開いた音で既に起きているはずだった。返答できないはずがない。
「針葉。……暁」
 しんと静まり返った夜に彼の声だけが響いて、足元に落ちる。
 焦りがつのっていく。思わず引き手に指を掛けた。
 何を馬鹿な。だが自分一人が恥をかいて終わるなら、何を躊躇うことがある。
「いないのか。開けるぞ」
 いないはずがない。胸走りで気分が悪くなりそうだった。そっと襖を引く。
 最初は二人がどこにいるのか分からなかった。暗い部屋に蒲団だけが明るく見える。だがそれは、自分の部屋と同じようにはね退けられた後だった。
 ……気配を感じて下を見た。
 そこに、いた。
 黒い塊のようだった。目を凝らす。小さな体が仰向いていた。振り乱した長い髪は、畳の上で波打ち、紅砂の足元にまで至っていた。それがきっと暁で、彼女を組み敷き、細い首に指をかけているのが、きっと――
 ぞっと背すじを悪寒が走った。紅砂は襖を乱暴に開けて音を響かせた。
 その後のことは、実を言えばあまり覚えていない。必死だった。人を呼ぶためだけに大声でよく分からないことを叫び、彼の着物を引っ張り上げて殴り付けた。紅砂に気付いてすらいなかったように、彼はあっけなく吹っ飛んだ。そして起き上がるが早いか、猛然と殴りかかってきた。……はずだ。
 気付けば部屋には火が灯され、傍には黄月の足があった。紅砂は「彼」を羽交い絞めにして畳に膝をついていた。息の音。汗の匂い。埃。紅砂から顔の見えない彼は、足を前に投げ出していた。暁の姿は既に無い。妹もいないことを確認して、紅砂は息を吐く。左の頬がじんじんと痺れて熱を帯びていた。いつ殴られたか、そちら側の口の中も切れて血の味がした。
「針葉」
 彼の前に立って紅砂たちを見下ろしていた黄月が、すっと膝を折った。ああ、やはりこれは針葉なのだ、と紅砂は眉根を寄せて瞑目する。
「お前は何をした」
 針葉の肩が突然暴れた。黄月が彼の足を押さえ付け、紅砂はぐいと脇を締める。針葉は首をわずかに後ろへ回した。
「……っ放しゃあがれ! 殺すぞてめえ!」
「紅砂、耳を貸すな」
 針葉は低く息をしていたが、突然頭を前に振った。頭突きされる。紅砂は顔を歪めた。だがその前に黄月が彼の頭をがっちりと押さえて、鼻を突きつけた。
「もう一度訊く、何をした」
 針葉が血の混じった唾を吐きかけた。黄月は眉をぴくりと寄せて頬を拭う。直後、ぴしゃりといい音がして、それは黄月が針葉を叩いたのだった。拳でなく平手打ちなところはやはり黄月だと、紅砂は妙なところで納得した。
 針葉は一瞬言葉を失った様子だが、すぐに我に返って身を乗り出した。歯だけ飛び出して噛み付きかねない剣幕で、話し合いなどできないのは目に見えていた。黄月はまた手を振り上げた。
 それから数度、もしかすると十数度、派手な音を聞いたところで背後の障子の滑る音がした。
 紅砂は視線を動かす。針葉の視界のすぐ外まで歩み寄った浬は、神妙な顔で小さく頷いた。暁は無事だったのだ。

 針葉はそれからも一切弁明することはなく、閉め切った空き部屋に転がされていた。話をしに行くのは決まって黄月だった。最初の数日は飯にも手をつけなかったらしく、黄月の肩越しにちらと見た彼の顔は、頬が痩けて髭が伸びる一方で、隈のできた目ばかりがぎらぎらと輝いていた。
 針葉は四日前には坡城西方へ行く用があるらしく、そのためその前々日からは常どおりの暮らしが許された。あの夜の、憑かれたような昂りは治まり、手足を解かれた途端に暁の部屋へ駆けることもなければ、紅砂を殺しに来ることもなかった。
 暁はと言うと、こちらは自ら部屋に閉じこもり、髪を結うこともせず、ぼうっとした様子で自分の膝を眺めていた。彼女もあの夜のことについては何も語らぬままだった。それどころか針葉への恨みごとも、恐怖すら忘れたかに見えた。
 針葉が自由になったことと、家を離れたこと、そのどちらを聞いても、暁にこれと言った反応は無かった。
 だが昨日暁の部屋へ入ったときのことを紅砂は覚えている。昼間の陽気に耐えかねたような、いかにも眠そうな表情でありながら、彼女は確かにびくりと肩を縮めたのだ。
 紅砂の姿を見た彼女は、口元だけで弱く微笑んだ。そして紅砂を手招きすると、そっと彼に耳打ちした――

「小藤とやらを売ってくれないか」
 辿り着いた境の地で紅砂がそう言うと、香ほづ木売りの緩んだ顔が見る間に険しくなった。機嫌よく上げていた手も、いつの間にやら拳に変わっている。
「あぁん? 兄ちゃんが小藤ねえ……」
 まったく、高いものを買え買えとうるさいくせに、いざ一番値の張る品を示すとこれだ。
「心配しなくても、いつものあいつが使うんだ。無くしたんだと。銭も預かってる」
「あぁ、なるほど。そうだよなぁ、兄ちゃんに雨呼びなんざ分かるわけないなぁ。ちっくしょう、兄ちゃんもやっとこの深さに目覚めたと思ったんだがなぁ。それにしてもあの坊主、嬢ちゃんだったんだな。この前もまぁめかし込んでよ、後ろに何とかって兄ちゃん連れて、へへ。あんな女姿で来られちゃ目の毒だ」
 彼は意外と器用であるらしく、口と手は全く別に動いている。手際よく欠片を取り出して大きな葉で包み、紅砂に手渡した。
「そうだそうだ、前来たときは妙だと思ってたんだよ。ありゃ付き添ってやってたんだな、ようやくすっきりした。そんなら確かにな」
「それから、ミズカケの商い人はこの界隈にいないか」
 男がひらりと手を振ったところですかさず言うと、彼は虚を衝かれたように視線を空へ向けた。
「ミズカケ……って言や秋だろ。そりゃちぃっと早いんじゃないか」
「去年のこの時期にはノアイソウだって出回ってたんだが。このでかい葉だって、ここいらじゃ見かけないもんだろ。境で手に入れたんじゃないのか」
「や、やらねえぞ。こりゃお前、俺が北で必死になって採ってきたもんだ。一緒にしてくれんなよ。ま、そういうことなら二つ先の角を右に曲がって、小太りの髭面を探してみるんだな」
 紅砂は短く礼を言うと、その場を立ち去った。空は少し色褪せていたが、日は顔を上げたところに浮かんでいた。さすがこの日と言うべきか。

 紅砂が坂を上りきって振り返ったときも、まだ日は空の低いところに浮かんでいた。日の回りだけ染めたように赤い。
 下駄を脱いですぐに向かったのは暁の部屋だった。
「暁」
 彼女は書き物をしている最中だったらしい。座して向かう机の左右に横長い紙が垂れている。そっと襖を開けたのだが、やはり彼女は細い肩を振るわせた。気付かぬふりをして紅砂は葉に包まれた木片を手渡した。
 そろりと葉を開いて中を確認してから、暁はやっと目を細めた。
「有難う。ごめん、こんなことを頼んでしまって」
「気にすることない。それより今日は夕餉に出てこられるか。針……あいつと浬以外は全員揃ってるし、今みたいな顔を見せてやったらどうだ」
 彼女の目がふっと泳いで、紅砂は口を結ぶ。
「そんな……気を遣ってくれなくても……」
 口ごもるようにしていたが、彼女は途中できっぱりと表情を変えた。
「ううん、ごめん。行くよ、折角だもんね。ただ、今日は早く食べ終えなくちゃいけないから、皆驚くかもしれない。こんなに早食いできるなら心配して損したって」
 それを聞いて紅砂も小さく笑った。取り繕えるくらいには快復しているらしい。そして暁は、香ほづ木買いを頼んだときのように小さく手招きした。紅砂が寄せた耳に、彼女が片手を添えて声をひそめる。
「紅砂に境に行ってもらったこと、誰にも言わないでね。壬の儀式のためのものなのに、無くしたなんて恥ずかしいから」
 安心させるように、一度だけ大きく頷く。彼女の手が満足げに葉を折り直した。





 ふっと密やかな気配を感じて織楽は後ろを向いた。月のない夜、部屋の光源は傍で揺れるさし燭が一つ。火は敷いた蒲団の半分程度しか照らさず、部屋の隅に置かれた箪笥も本の山も暗く沈んでいる。
 彼は本を横に置くと、ひょいと腰を上げてそちらへ歩んだ。さっと襖を引く。
 目の前に、暁がいた。
「お」
 織楽は思わず一歩退いた。彼女は敷居すれすれに立っており、もしかすると前髪や衣の一部は、襖で擦ってしまったかもしれなかった。
 彼女は真っ直ぐに前を見ていた。まるで絵のように、しばらくじっとそのままの姿勢で、織楽が首を傾げたとき、ようやく億劫そうに瞬いて彼へ目を向けた。彼女の目には何の色も見えず、逆に織楽に問い掛けているようだった。
「眠れへんか?」
 彼女は何も答えなかった。虚ろな目で、畳に刺さった小さな灯りと、開いた障子の向こうに広がる闇とを見比べる。
 彼女の足が暗い廊下へ一歩踏み出した。その途端、ぐらりと体が傾いだ。慌てて彼女を支える。織楽がふわりと立ち上る花の香りを感じたのはその時だった。
 暁は織楽の腕の中でゆらりと向きを変えた。足の位置を正し、摺るようにして織楽の部屋の敷居を跨ぐ。
 織楽も付き添ってゆっくり歩く。縁側に腰を下ろすまでのたった十数歩で、彼女は数度足を縺れさせた。
 織楽は開いたままの襖を振り返った。畳の上には蒲団まで敷いてある。息を吐いて彼女の顔を覗き込み、言いそびれた言葉を喉の奥から連れ戻す。
「なあ暁、やんちゃしとった時ならともかくな、今になって……ここ来たあかんで。そや、何か話したいんなら明日の昼来ぃや。な」
 出来る限りひそめた彼の声に、彼女は何も返さなかった。視線は先程と同じように、何も無い暗闇を見つめて細かく動いている。垂らした膝の下がゆらゆら揺れている。腰を下ろしているのに、頭も時折揺らいでいる。
「あぁ……そんなら茶ぁ飲むか。温かいもん飲んで、体落ち着かして早よ」
 暁の首が織楽の方を向いて、彼の言葉を止めた。
「飲んだよ……さっき、まだ、残ってる……」
 かすれた、呂律の回らない声だった。とりあえず彼の言葉は聞こえているようだ。織楽は立ち上がる。
「そしたら持ってくるし、待っとり。火ぃ貰うで」
 廊下に出て気付いた、彼女の部屋の襖も開け放たれたままだったのだ。廊下は今やほのかな甘みある香に包まれている。……何となく手で払って、織楽は彼女の部屋に踏み入った。
 部屋は霞んでいた。織楽はまず障子を開け放って畳の上に火を差し出した。目立ったものは見えない。飯を食ってすぐ、まだ日も沈まぬうちから自分の部屋に戻ったくせに、衝立の向こうの蒲団は動かされた形跡すら無かった。
 頭は眠ったままで歩き回る子供の話を、間地の医者から聞いたことがあった。しかしこんな煙たい部屋で眠れるものだろうか。文机も脇に寄せられており、うたた寝をしていたとも思えない。
 織楽は部屋の壁際に、急須と湯呑を乗せた盆を見付けた。確かに急須の中でちゃぷちゃぷと水の揺れる音がする。
 廊下に出て足を止める。……逡巡の末に織楽は、彼女と自分の部屋、両の襖を閉めた。襖を背にして盆を持ったまま、髪に隠れた彼女の背をじっと見る。夜闇の一点を見つめて揺れる肩、時々くすぐったがるように身を捩るさま。耳の隠れた辺りの髪をしきりに手で覆う。背後に気付く気配はない。
 十日前起きたことを、織楽も聞き知っていた。その後、思い出すのを拒むように、彼女の行動全てが鈍麻したことも。
 もし何か思い出して、縋る思いでここへ来たのだとしたら。夜はまだ深くなる途中だ。彼女一人では心細いだろうし、織楽の部屋は針葉の部屋から一番遠いところにあった。
「暁。ほら、持ってきたったし飲み」
 表情を切り替えると、織楽は彼女の左隣に腰掛けた。盆を彼女との間に置いて、さし燭は念のため、彼女の手の届かないところに刺しておく。
 彼女はゆっくり視線を巡らせて盆を見た。今度はしきりに瞬き、時に長く目を瞑った。
「眠いか」
「……眩しい」
 目を覆う仕草も緩慢だった。何も無い目の前の空間を、彼女の指が執拗に掻きむしる。織楽は火を自分の影になるところに遠ざけ、ふと彼女の顔を押さえた。ぐいと覗き込む。
「目ぇどうかしたん。猫やな」
 彼女は言われたことの意味が分からなかったようで、紅、とだけ呟いた。その意味は反対に、織楽には分からない。
「あれ、お前酒呑んだん。これ茶ぁちゃうんか」
 彼女の吐息に酒の匂いが混じっているように感じて、織楽は急須を傾けた。とぷとぷと湯呑に溜まっていく茶褐色の液体は、既に冷めているらしく湯気は立たない。
「んー、コブ酒……ちゃうか、この色は。貰ってええな」
 遅い返事を待たずにひと口流し込む。途端、織楽は背を丸めてむせた。しばらくして湯呑を戻し、苦い顔で舌を出す。
「な……んやこれ、まずっ。お前、また変なもん作ったやろ」
 暁はあどけない稚児のように、首を傾げて小さく笑った。細い肩が揺れていた。おもむろに湯呑に腕を伸ばし、指先すら届かないうちから掴む仕草を繰り返す。織楽はひょいと湯呑を取り上げると、勢いよく土の上に撒いた。
「こんなん飲んだあかんて。冷めてるし、もうええやろ。飲みたかったら俺がいっくらでも美味いの淹れてきたるわ」
 彼女は急須だけになった盆にしつこく指を伸ばした。その手首を織楽が掴む。
「あかん言うてるやろ。……なあ、そんなんやったらもう戻り」
 彼女の目が闇の中を散々彷徨った末に、織楽を見た。見つめ返せたのはわずかな間だった。「追い出すのか腰抜け」、「追い出さずにどうする」。
「あいつ当分戻らんわ、少なくとも今夜はな。何も怖いことない。高いびきかいて寝とったらええわ」
 彼女の肩が揺れた。まるで見当違いだと言われたような気がした。根拠のない彼の話を軽くあしらったようでもあった。織楽は引き上げた両足を組む。
「あんな、絶対どっかで間違うてんねんて。あいつはそら短気やけど、簡単に女に手ぇ上げるような奴ちゃうで。今まで仲良うやっとったやないか。何かあったんやろ」
 何の返事も無い。彼女は時々思い出したようにくすくす笑い、瞬きの多い目で緩慢に畳を探る。視線がふわふわと泳ぐ。織楽の向こうに置かれた湯呑にも今更気付いたようだった。手が伸びる。体が追い付けずに大きく傾ぐ。
 織楽の背後で畳の軋む音がした。あえて支えることはしなかった。いたわってやりたいと思う一方で、焦りや苛立ちがあるのは否めない。何もかも綯い交ぜになり、今は無力感が勝っていた。
「眠いか。分かった、そしたら運んでったろ」
 振り返った彼女は仰向けに横たわったままだった。髪が顔を覆って、見えるのは鼻と唇だけだ。そしてそこから繋がるあらわな首。胸の膨らみ。赤子のように投げ出された腕。ひと束の髪が蒲団の上で波打っている。
 これは一体誰なのだろう。
 ――何を馬鹿なことを。
 頭の隅からひたひたと忍び寄るものがある。
「……暁」
 口の中で呟く。彼自身に聞こえていれば充分だった。
 織楽は彼女の肩の下に右腕を滑り込ませて細い上肢を支えた。弛緩しきった体は見た目に反してずしりと重い。
 彼女の頭がぐらりと揺れて長い髪が畳に垂れた。横たえられていた腕が息を吹き返したかのように、じわりと動いて闇の粘りを拭い、その先にいる彼を捕えた。
 するりと絡んだ指が瞬く間に彼の腕を覚える。もう一方の手は頬に伸びて、……それは冷たい指先だった。触れたところから凍りつくようだ。吹き込まれた吐息すら、氷の欠片のように体の内を冷やした。
 ……織楽は彼女を見つめた。虚ろな目が、縺れた舌が、乾いた唇が、その時ばかりは毒を持ったように見えた。
「慈悲だけは一人前に垂れるくせに」
「な」
「……焚き付けるばかりで、省みたことはなかったのでしょう」
 ごくりと唾を呑む音。
「残酷なひと」
 ぞくり、背すじを駆け抜けたものは何だ。笑顔が引きつりそうになるのをごまかす。
「何やて、暁……」
 彼女はそれ以上何も言わなかった。表情がさらさらと砂のように細かく砕け散っていく。指の力が徐々に弱まりずり落ちていく。もはや肩も揺れない。時々思い出したように瞬くだけだ。
 気付けば彼女はまた畳の上にいた。織楽は言葉を失って、これまでの諸々に思いを巡らせた。
 ――省みたことはなかったのでしょう?
 それは彼には思い付くはずのないことだった。彼はいつも離れたところから全体を見回して、歯車がうまく回るようにと、そのため自分を動かしていた。書き手が演じ手の一人を担っていただけのことだ。何が悪い? 全体の幸せを願っただけだ。それで何を読み違えたというのだ。
 ――焚き付けるばかりで。
 まさか。嘘だ。有り得ない、あってはならない。……しかし、もしそうなら、……なんて。
 あの夜以来ずっと彼女の体に纏わりつき彼女を覆い隠していた髪は、今は背に敷かれていた。その肌は目を背けることを許さない。
 蝋燭がじじっと音を立てた。
「暁……起きや。早よ戻り」
 駄目だ。
「暁」
 何故だ?
「……」
 ――何故なのだ?

 彼女は目を閉じた。耳の傍で聞こえる鼓動と、髪を撫でる感触に、満たされたように。