雨の向こうに、時折空の唸り声が混ざった。
 聞こえるたび暁は、呼ばれでもしたかのように宙を見つめて身を竦めた。急須の傾きを戻し、しばらくして湯呑に目を落として、まだ半分も茶を淹れていないことに気付いた。
「……あれか?」
 部屋の中にはちらちらと小さな灯が揺れている。針葉が彼の後方の仄暗い障子を指し示したので、暁は躊躇いつつ小さく頷いた。今度こそ、飲み口から爪二つ分のところまで急須を傾けて注ぎ、彼に差し出す。彼は湯呑を取ると、ずずっと音を立てて啜った。
「合口一つで敵の陣地に乗り込んだ奴が、すっかりしおらしくなったもんだ」
「空は……截ちようがないから」
 言った後で、物騒な返しだったかと針葉に目をやったが、彼は気にしていない様子だった。
「ま、あれも二年前のことだからな。お前の髪がこんだけ伸びたんだ」
 針葉の指が、ゆるくまとめた暁の毛先をさっと弾いた。起きてすぐ髪を結うのが彼女の習慣だったので、実際よりずっと短く見えたが、解いてしまえば胸の辺りまで伸びていた。暁は避けるように身をよじった。
「いや、祭りんときにゃまだ短かったな。そうだそうだ、あんときゃ小坊主にしか見えなかった」
「切らなくなったのはその後。ちょうど一年だ」
「一年前って……何かあったかぁ?」
 針葉が訝しげに顔を突き出す。暁もそれを見て二三瞬く。
 そう言えば、東雲から帰ってきたとき針葉は遠出していたようだが……。ではひと月以上にわたる暁の失踪は、どう片付けられているのだろう。
 迎えに来た紅砂と浬は賊がどうのと言っていた。彼らが何を見たかは知りようがないが、そう誤解するに足る跡を残して、烏たちは去ったのだろう。あの邸跡にいられない何らかの理由ができて、あれほど固執していた暁を連れて行けない理由もできて、家の者が傍まで来たのを見計らって、そっと。
 だがどれほど好意的に解釈しようにも、それでは諒解しない者がこの家にはいるではないか。あの出来事に触れるのも厭わしく、暁のほうから口を開いたことはなかったが。
「そんでお前、女物着たのはあれが初めてだったな、山歩きの」
 暁が頷くと、針葉は何やら考え込んだ様子だった。ぐいと湯呑を傾けて一気に飲み干す。
「よし分かった。じゃあそれまでに、髪結い上げたり、飾り付けて外出たことがあるんだろ」
「……何それ。さっきから一体何が訊きたいの」
「や、大したことじゃないけどな」
 暁の不審を察してか、針葉はそれ以上触れようとはしなかった。湯呑を傾けて、もう無いはずの茶をもう一度流し込むような仕草を見せる。次に聞こえた声は場違いなほど明るかった。
「そうだ、お前家出してたんだな。今思い出した。ありゃ何だったんだ」
 暁の眼前に針葉の顔が現れた。低いところから覗き込む、その口元には笑みが浮かんでいた。
「俺が女と一緒にいたからか」
 暁はぐいと彼の肩を押し戻した。
「……さっきのことだけど。今だって飾り物なんか滅多に付けないのに、どうして男物を着ながら。大体、家に戻ってすぐに字書きを言い付けられたから、着飾ることなんてなかったよ。ろくに外にも出なかった。どうせあの日まで「良くて稚児」だった」
「そりゃ俺が言ったんじゃねぇよ。不細工な面すんな」
 針葉の手が、慰めるように暁の背を撫でた。
 双方黙り込むと、途端に雨音が部屋を包み込み、まるで誰もいない場所に取り残されたようだった。四方を矢のような雨音に囲まれ、その奥で確かに雲が唸っている。
 また聞こえた。暁は目を伏せる。実際のところ、音だけに怯えているわけではなかった。昔のことだ。空とは、絶え間なく移りつつも雲を運び水を与える、大いなる父だと教えられた。だが強すぎる雨はそのまま戒め声へ、唸り声は咎める声へと変わる。
 いつも気付かぬふりをしてきたものが、音が聞こえるたび心に蘇る。この身そのものが風雨に曝されているようだった。
 知らず身を摺り寄せていたらしい。針葉の手が衿に伸びて、肩が抱き寄せられるのを感じた。
「今日は本当によく降るな」
水垂みだれ月だもの」
「明日起きたら全部水没してたりしてな。すっきりしたもんだ、この家と向こうの社だけ島になって残ってて」
「何それ」
 針葉は大真面目な顔で続ける。
「そしたらまず舟こしらえるとこからだな。お前が言ってたみたいに魚だって獲ってきてやるよ。海なら底無しだ、たんと食え」
 声はそこで途切れた。絶えず空から落ちる雨、どれだけ続けばそんな突拍子もないことが起こるだろうか。試しに思い描いた情景は、幼子の描く絵のように単純で清々しいほどだった。思い悩む必要などどこにも無い。その世界では川は消えて、水は落ちた途端に海へ還るのだ。
 暁はうつむいて笑みを隠した。感じたまま素直に顔をほころばせたり、声を上げたりできないのが、胸につかえたように苦しくて瞼を下ろした。
 肩に触れていた指の力が強くなったようだった。いいか。耳をくすぐる囁き声に、暁は瞼だけで小さく頷いた。
 遠くで割れるような音がして、どん、と低い音が続いた。とうとう雷が落ち始めたのだ。雨はますます強くなり、耳のすぐ傍で大樽をひっくり返したようだ。
 唸り声は今や獣の咆哮だった。
 針葉が立ち上がって火のほうへ歩む。暁はひと息遅れて急須や湯呑を盆に戻す。遠ざけるのも間に合わず、ふっと火が消えた。目が慣れるのを待って、そっと部屋の隅へ押しやる。戻った彼に手を伸ばす。
 闇の中で肌が触れ合う。そこに誰かがいるのを確かめるように、輪郭の差異を描き出すように、乱暴に熱を奪うように。
 暁もぎこちなく指を這わせる。腕に、肩に、背に、そして彼の左肩に額を預けた。
 空が裂けたのはそのときだった。
 外が真昼のように輝いた。ぱっと障子が照らされる。全ての音が消え去ったような錯覚と、直後、耳を殴りつける轟音。
 音が消えた後は、何事も無かったかのように雨がざあざあと降り続くだけだ。
「……近かったな」
 さしもの針葉も呆気に取られた様子で背後を振り向き、だから暁の変化には気付かなかった。
「……針葉」
 震える声に、ん、と向き直る。暁は彼の肩から顔を離して、じっと一点を見つめていた。首は右向きに固定して、ややうつむきがちに、闇に上肢を晒した針葉の、裸の左腕を。
「それ、何」
 ご丁寧に人指し指まで添えるものだから、疑いようがない、ごまかしようがない。火は消していたというのに、稲光が全て照らし出してしまったのだ。おののく彼女の目はそれを見てしまったのだ。
 針葉は彼女の指を見つめて、ゆっくりと、体を半身に構える。
「……見せて」
 言うなり暁は、齧りつくように腕を引っ掴んだ。針葉は暁の肩を押し戻そうとする。力の加減はできなかった。一つ恫喝すれば間などいくらでも稼げただろうが、そこまで頭が回らず、喉も固まって言葉を捻るには足りない。それは暁も同じことだったのだろう。
 躍起になる姿は、言葉も知らぬ子供同然だった。
 永遠に続くかに思われた攻防は、その実、鼓動一つ二つ程度の短い間だったに違いない。
 もう一度障子の外が眩むほどの白に染まり、障子の桟がくっきりと浮かび上がった。ほぼ同時に空を砕いて雷鳴が轟く。
 再び闇に戻る。もはや雨音が耳に遠く聞こえるばかりだったが、耳の中には残響が残っており、二人も、しばらく瞬きを忘れていた。
 先に我に返った針葉がぶんと腕を振り払う。暁は呆気なく剥がれて畳に手を付いたが、顔はすぐに針葉のほうを向いた。
 針葉はゆっくり呼吸する。息は細かく震えていた。目は、今投げ飛ばした彼女の表情をじっと見据えていた。
 は、と彼女の唇から息が漏れた。
 見る間にじわじわと顔が歪んでいく。泣き出すか、もしくは怒り出すだろうと思った。突き飛ばしたも同然だった。
 彼女は手で口を覆った。肩が揺れる。息の漏れるかすかな音が聞こえるだけだ。
 次に彼女が顔を上げたとき、針葉は気付いた。彼女は笑っていた。今にも泣き出しそうに顔を歪めて、しかしその顔に見えたのは、あまりに根源的な、それでいて彼女には久しく見られなかった、笑みの表出だった。
 目を見開いたまま微動だにしない針葉に、彼女の顔からふっと起伏が流れ落ちた、ように見えた。今そこには穏やかな微笑みが浮かんでいた。いつも何かと戦うように張り詰めていた肩も、今は力が抜けて緩み、手を膝の上に投げ出している。
 外では相変わらず、雨が矢のように降り、怒り渦巻く雲が次の雷光を待ちわびている。なのに暁は目を細め、唇を柔らかく結んでいる。どこかで世界が断絶したようだ。
 暁は針葉に手を伸ばした。そっと頬に触れ、更に手を奥へ、耳の下を通ってうなじへ。針葉は目を見開いている。体が硬直している。
 暁の口が、小さく開いた。
 針葉は大きく身を反らした。
 暁がはっと、驚いたように手を引っ込めた。
 針葉は衿を肩に引き上げるなり、立ち上がって障子へ歩いた。一歩ごとに雨音は激しさを増し、地面もろとも頭を殴りつけるようだった。ふと後ろを振り返った。暁はぽかんとした顔で針葉を見上げていた。白い胸が闇に浮かんで見えた。
 もう一度、霹靂はたはた神が唸りを上げた。暁が目を閉じる。悲鳴が上がったのかもしれないが、障子を開けるとともに音が雪崩れて針葉の耳を塞いだ。障子の閉まる音も聞こえなかった。
 目の前はまるで滝だった。軒から落ちた雨水が次々に土を穿つ。地面は醜くえぐれて溶け、屋根の形に境界線でも引いたようだった。針葉は紫色に染まる空を眺めた。針のような雨は遥か遠くで一点に集約しているらしい、あの異様に明るい空の向こうで。
 雨が聞こえた。
 それ以外は何も聞こえなかった。





 恐ろしい人だった。
 あれは誰だったのだろう。目をつむって遡っていくと、うっすらと見えるような気がする。泥と藻で濁った沼に潜るような感覚だ。深く、深く、腐った泥を掻き、はびこった藻に足を掴まれながら。
 だがいつも触れる前に引き返した。火にわざわざ触れないのと同じだ。ものの道理が分かったからこそそんな危険は冒さない。道端に落ちているひと通りのものを食い、ひと通りの蛇を踏み、ひと通りの野分の真っ最中に泳いでみろ、命がいくつあっても足りないではないか。
 賢くなったのだ。
 それが長ずるということだ。

 それでも時々、頭の中身をえぐられるような思いをした。
 沼を無遠慮に探っていた枝が、突き当たってしまうのだろう。触れてはいけない底のものに。
 それは大抵、胸の悪くなる結果を引き起こした。

 例外はこの前だ、あれは小石を投げ込んだようにゆるやかな波紋を残した。すっと胸を涼やかな風が吹き抜けたようだった。ぼんやりと辿るうち、それもあの人に繋がるものだった気がした。
 だから多分あの人も、笑ったのだ。
 頭が痛い。
 確か、初めて自分があの人の名を呼んだときに。
 背筋が凍る。
 呼んではならなかった。
 唇が震える。
 それがあの人の崩壊を招いた。……何だそれは、どうしてそんなことばかり覚えているのだ。頭が痛い。あの人が誰かも分からないくせに、今作った記憶ではないのか。頭が痛い。これ以上手繰らせないために無難な話を作っているのでは。頭が。いや違う、確かに笑った、後から考えれば戦慄するような笑みだった。苦しい。あの人と自分の間にその呼び名はあってはならなかった。あの人は禁忌に触れ、自分は知らず応えてしまったのだ。頭が痛い頭が痛い頭が。あのとき彼女と自分の関係は壊れたのだ。

 ……「彼女」?
 そうだ、どうして忘れていたのだろう。思い出してみれば、それ以外に肢は無かった気がする。
 あれは多分、女だった。
 恐ろしい……女だった。





 暁は暗く沈んだ廊下を歩いた。
 一歩ごとに身の穢れが落ちていくようだった。なんと重苦しい衣を纏っていたのだろう。
 踵から土踏まず、指、爪先。じわりと重みが移動する。前へ向かう。
 あの雷雨の夜が明けてから、夜の廊下を歩くのは三日ぶりだった。早く伝えに行きたかったが、針葉はあれから夕餉のころになると姿を消し、昼に見かけても黄月と気難しい顔で話をしていた。黄月は二年前、刀のことで針葉に話をしに行った際に、暁のことなど見えぬ聞こえぬで嫌がらせのように居座り続けた前例があるから、その場に乗り込んでいくのは躊躇われた。
 本当はすぐにでも伝えるべきだった。
 暁に必要なのはたったひと押しだった。それは既に与えられた、あの空の唸る晩に。
 最初に鳴神が轟いたとき、暁の目の前には彼の左腕があった。一瞬のことだし、あまりにも眩しくて思わず見間違えたのだろう。目を疑った。胸が凍り付いた。夜の海に叩き落とされたようだった。だがその場で確かめたことが、結果として幸いした。
 二度目の雷光が見せたものは、……何だったのだろう、巻き付いた蔦のような線の連なりが彼の肩から肘を覆っており、一見禍々しくもあった。だが彼のような者が洒落て彫るのだ、粋だと言われれば、そういうものかとも思う紋様だった。
 少なくともそれは、暁が恐れるものではなかった。
 最初から日の下で見ていればどうということは無かっただろう。なまじ誤解し張り詰めた後だけに、無防備に落差の中へ放り出された。それが浮遊感を生み出し、あまりに自分の思い込みが馬鹿馬鹿しくて、愚かで、止まらなくなってしまったのだ。
 だから廊下の奥へ足を運んでいる。ゆっくりと、いくつか細く漏れた光を踏みながら、歩を進める。
 手を伸ばせば奥の壁に触れるというところで、右を向いて膝をついた。そっと襖に手を掛ける。
 自分の所行に始末をつけるときだった。

 静かに敷居を滑らせて部屋を閉ざす。夜目に、彼が横たわっているのが見えた。
 かつて、こんな穏やかな気持ちでこの部屋の畳を踏んだことがあっただろうか。目をつむって天井を仰ぐと、髪が襖に触れて乾いた音がした。
 針葉の息は一定を刻んでいた。
 傍へいざる。彼の肩の横で膝を止め、顔を寄せる。息の音が近くなる。
 目が二つ、ぎょろりと暁を見た。
 小さく悲鳴を上げる。思わず飛び退いた。
「起き……てたの」
 そうだ、針葉は耳がいいのか鼻が利くのか、大抵の場合は暁が来る前から起きていた。とすると今も、暁が来るのに気付きながら狸寝入りをしていたのか。ふっと肩から力が抜ける。
「起きてると思わなかった。騙された」
 冗談めかして言う。……針葉も、いつもなら得意げな笑みを返すはずだった。今、彼は黙りこくって、今までそうしていたように目を伏せている。暁の胸にさざ波が立つ。首を傾げて笑いかけるが、対する彼の声は低く、聞き取り辛かった。
「……何しに来た」
「何って」
 今まで聞いたことのない咎め口だった。このふた月足らず、部屋に入るのにいちいち理由が要っただろうか。たとい疎ましく思いはしても、口にしただろうか。
 はっと思い当たった。自分はどうだった、あからさまに彼を疎んじてはいなかったか。受けた心遣いを突っぱね、背を向けて、彼を避けるためだけに字を書き続けた。
 彼は怒ったのだろうか、ここ数日話す機会が無かったのも意図されたことだったのか、だがどうして今になって。
 ……違う、許されて当たり前という、その考え方がそもそも傲慢なのだ。やはり自分の胸には慢心が巣食っている。
 暁は膝に置いた拳を握り締めた。ここで止まるな、何をしに来たのだ。心を奮い立たせて口を開く。
「話したいことがある」
「俺にはそんなもの、無い」
「……いいよ、じゃあ聞いていて」
 彼は横たわったまま身動き一つしなかった。かすかな息の音と、連動する腹の上の蒲団だけが、生きている証だった。
「まず謝りたい。最近ずっと酷い態度を取っていたと思う。酷いことを言ったし……してきた。針葉が今怒っているのもそのせいだと思う。でも謝りたいのはそれだけじゃなく、多分針葉も知らなかったことで、私がしたことを……できるだけ、話すから」
 反応は無かった。
 一度深く息をついてまた口を開く。
「どこから話したらいいかな……。……私は今までに何度か怖い思いをしたことがあって、大火もそうだけど、それ以外にも……ううん、これは後で話すね、もし聞きたいと思うなら。……それで、ちょっと色々あって去年の夏からは遠出を避けていた。冬近くになって、山へ行こうと誘ってくれたときも、怖かったよ。でも嬉しかった。あれが夏以来、最初の遠出だった。針葉と一緒にいれば、遠くへ行くのも平気なんじゃないかと思った」
 可能な限りの真実を、途切れ途切れに並べる。口に出していないこともあった。例えば、紅砂は針葉と同じくらい腕が立つだろうが、共歩きにはきっと針葉を選んだだろうこと。それは針葉との間に何も無かった去年でさえ、そうだった。長の位も何も関係なく、針葉でなければならない理由が、そこにはあった。
 だが全てを話そうとすれば、ひと晩ではとても話し尽くせない。信じてももらえないだろう。烏という群れのことも、豊川の家のことも、何もかもが絡み合っていて、どこかを意図して切り離さねばならなかった。
「だから、湊とか香ほづ木……針葉がちっぽけな木くずって言っていたあれのことだけど、それを買いに行くときとか、遠出するときはいつも頼ってしまった。そのときは全く分かっていなかったけれど、今からすると、本当に卑怯だった。私にとって針葉は、二年前にはニ度も命を救ってもらった人で、長で、……どう言えばいいだろう、こうして夜に話すような相手になりうるとは、とても思えなかった。私をからかっているだけだと思っていた」
 針葉は何も言わない。じっと死んだように目を伏せている。何の乱れもないことが却って、まだ眠りに落ちてはいないのだと思わせた。
「年明けに社へ行って、あのとき……ようやく誤りに気付いた。でも今更何も言えなくて、針葉のことを頼りにしていたのは本当だから、何か言って離れられてしまうのも恐ろしくて」
「俺が勝手に先走ってたんだと言いたいわけだな」
 暁は思わず次の言葉を呑み込んだ。存外、穏やかな口調だった。針葉は目を開いていたが、見つめているのは天井だけだった。
「それは……」
「じゃあ訊くが、花見の晩に別の場所に連れてけって言ったのも、お前の言うところの引き留め策だったわけか」
 言葉に詰まる。確かに今しただけの話では、二人きりになろうとするのはやり過ぎだ。
「……ごめん、言い忘れたことがあった。私は川に近付きたくなかったんだ。川にはちょっと嫌な思い出があって……壬びとなのにおかしいね。遠出と言ったのも全て、川の向こうのことで……あのとき針葉は橋を渡ろうとしたけれど、花見のようにこちら側で済ませられるものなら、そうしてほしかった」
 本当のことだった。少なくとも半分は。
「なるほどな、湊に境に社に……橋の向こうか。確かにな」
 針葉は目を閉じると一度嘆息し、蒲団を退けて起き上がった。暁は顎を上げて背すじを伸ばす。
「その晩ここに来たのも、酔ってたで済ませるのか」
 暁は目を伏せた。様々なことが頭の中で氾濫して、そろそろ片付けが追い付かなくなってきた。静かに呼吸して胸を落ち着ける。
 桜の晩のことだ、思い出せ。……脳裡にあの日見た情景が浮かんだ。そのとき感じたことが、合間合間に胸をかすめていく。そう、酔ってはいたが、判断は鈍っていなかった。そんな言い逃れはしない。暁は顔を上げる。
「違う。針葉が帰ってきた夜だって、私はここへ来たでしょう」
 ……彼の纏う空気が和らいだ気がした。それに気付いて暁は口を押さえた。気ばかりが急く。
「ま……待って、とにかく聞いていて。きっと針葉は誤解している、私がここに来た理由は」
「理由?」
 呟き声さえ暁の気を逆立てた。何か聞こえるたびに、言おうと積み上げていたものが崩れそうになる。黙っていてくれた最初のほうが、息は詰まれどよほど話しやすかった。
「ずっと止められていたんだ、針葉とは、その、やめておけって。針葉は私とは似ても似つかない人が好きで、そぐわないって、それに」
 次々相手を取り換える、いい加減な付き合いしかできないって。
 ……呑み込む。言うべきではない。そんな人ではなかったと、思い知ったのは自分ではないか。
「それで良かった。私はただ教えてほしかったんだ。だからまさか、これほど長く続くとは思っていなかった。きっとすぐに終わりになるだろうと」
「暁」
 彼の声が闇を抜けて、暁を止めた。
「お前は、何を言ってるんだ」
 ほのかに明るい障子を背に、彼の輪郭が浮かび上がる。胸が詰まって言葉にならない。
「聞こえのいいことばかり……表面ばかり取り繕って、強引に話を進めようとしてないか。誤解? 良かったってどういうことだ。教えるってのは……一体何のことだ」
「あ……あの」
「聞いとけって言うわりにゃ言いたいことが何も分からん。お前は最初、自分の意思でここに来たんだ。そう言ったな。その後のことだってお前の意思だ。いきなり不機嫌になったのも、またこの部屋に来るようになったのも、俺がお前にどうこう言ったわけじゃない。そうだろ」
 問い詰めるような言葉でありながら、縋るような響きがあった。いつか聞いたのと同じだ。
「……そうだろ」
 暁は忙しなく瞬いて、頭の奥を覗き込む。否定するつもりは無かった。彼はいつも急かさず傍にいてくれた。暁が望むものとはいつも、ほんの少しずれていたが、暁には返しようのない心尽くしを与えてくれた。それはもう、苦しくなるほどの精一杯を。
 ひと呼吸遅れて小さく頷く。それから、何だっただろう。その前に彼は、一体何と言ったのだろう。こめかみを押さえて必死に手繰り寄せる。早く、早く。「教えるってのはどういうことだ」。どういうことだ?
「知らなくちゃ……いけなかった。何をされそうになったか、あの日、どんな、酷いことを」
「な……っ、冗談じゃねぇぞ! 花見の晩だってお前が自分で選んで来たんだろうが!」
 違う。かぶりを振る。そうじゃない。暁の言うそれは、花見の日よりずっと前のことだ。
 できれば過去は撫でる程度にして、耳に優しい結論だけ言って、前向きに夜を終えたかった。彼を傷つけたくなかった。自分が傷つきたくなかった。だがそれでは収拾がつきそうにない。暁が思うよりずっと彼は真剣で、事態は絡まっていた。
 はっきり言わねば彼は納得しないに違いない。思い出さねばならないのだ、そしてそれを口に出さねば。
 暗闇の中では目に入るものが少なかったから、頭を覗き込むのは容易かった。紙に墨を落としたように、一滴ぽとり、じわりと広がっていく。空気が乾いて喉が痛かったこと。ぽとり。腹が減って頭がふらついたこと。ぽとり。歩きどおしの足が痛んだこと。冷たい風が容赦なく体の熱を奪っていったこと。
 ぼとり。落ちた墨は瞬く間に広がり、筆の影も届かぬ遠くへ目を運んでいく。突然暁は、喉がひきつれるのを感じた。覚えている。あの気の狂いそうな血と煙の匂い、耳を刺した藺草のささくれ、燃えるような夕焼けの光を天井に見て、……蛇が、蛇が、這い上ってくる。
 ぞっと総毛立った。吐き気がする。口を押さえて唾を呑み込む。駄目だ。目を逸らせ。治まれ。治まれ。
「何が、違う」
 押し殺したような声が、暁の顎を上げた。明かりの下であれば彼からも、暁が涙ぐんでいるのが見えただろう。
 針葉は暁の衿をぐいと掴んだ。
「何が違う!」
 突然の大声に暁は、びくりと肩を縮めて耳を押さえた。息が唇を震わせながら、細く細く体を通り抜けていく。
 こんなはずではなかった。この説明は頭の中で幾度も話し、聞き、推敲したものだった。……暁の頭の中で、彼女の話に口を挟む者はいなかった。暁の想定しえない問いは聞こえなかったし、胸をかき乱す声も無かった。針葉は、どこにもいなかったのだ。
 彼が口を開くのが間近に見えた。駄目だ。形を取り戻し始めた思考が、崩れてしまう。
「待って、黙って! 何も言わないで!」
 暁は咄嗟に叫んだ。臓腑をえぐって絞り出したような声だった。だが彼の顔には何の変化も無いようだったし、衿を掴んだ彼の手は緩まず、互いの顔はそれまでと変わらぬ近くにあった。
「……これ以上の御託はいい。結論だけ言え。お前は何をしに来た。訳の分からんことをくどくど並べ立てて、結局……言いたいことは何だ」
 低く落ち着いた声だった。
 暁は息を吸った。固まった肺腑で浅い呼吸を繰り返す。何を言っても彼は怒るのではないか、そう思いはしても、多分これは彼女に与えられた最後の機会だった。
 だが、自分は何をしに来たのだ? 怒鳴られるのが怖くて逃げるのか。臆病を始末すべく来たのではないか。筋道を正し、先へ進むべく来たのではないか。
 たとい彼を失ったとしても。
 息を落ち着かせる。数度咳払いしてから、暁はそっと針葉に視線を合わせた。
「こうしてあなたに会いに来るのは、これで終わりにしたい。こんなうやむやなままの惰性で続けていくなんて、そんなこと……。……だけど、もし、あなたが」
 暁はそこで言葉を切った。針葉はいつの間にか彼女の衿から手を離していた。梅雨も近いこの夜に寒気でもするのか、彼はしきりに片腕をさすっていた。
「……針葉?」
「お前もか」
 ぞっとするような声だった。肝にまで鳥肌が立つようだった。
「え?」
 彼は何を言っているのだろう。暁の言うことが分からないと腹を立てながら、自分は一体何を。
「お前も……同じか」
 それきり彼の息の音が全く聞こえなくなった。体の輪郭も、おぼろげに見える顔の中身も、全く動かない。暁の息がまた浅くなっていくのとは反対だ。
 息苦しい。この場所に留まってはいけないと、耳の中で告げる声を振り払う。なんと臆病で薄情な心だ。
 暁は胸に手を当てた。肌をぐっと強く、震える心臓ごと抑え付けて、精一杯笑ってみせた。大したことではない、大丈夫、何でもない。
 まだ間に合うと、そのときは思っていた。どんなに辛い思いでも、願えば解り合えると。寄り添えば救えると。
「お前もって、何が? 誰の話をしているの」
 答える声は無かった。暁は更に声を和らげた。
「何も言わないでって私が言ったから? あれは……ごめん、取り消すよ」
 何も聞こえない。彼の手はもう一方の腕を掴んだまま止まっている。暁は一歩ぶん距離を縮めて、自分の膝を蒲団に乗せる。
「どうしたの。……寒いの?」
 彼の腕に右手を伸ばした。
 指先がかすめた、その時だった。彼はびくりと体を震わせた。あっと思った時にはもう、暁の手首は捕まっていた。
 締め付ける指の力がぎりぎりと強くなっていく。冗談でここまでできるものではない。暁は今になって表情を変える。このまま彼が手首を捻りでもすれば、骨など容易く折れてしまう。
「い……っ」
 食いしばった歯の奥から声が漏れる。耐えかねて、自由なほうの手で針葉の体を突いた。
 針葉の指の力が弱まる。次の瞬間、彼は暁の腕を突き放した。
 頭から後ろに倒れ込む。畳がわずかに沈み、衝撃そのものは小さかった。
 起き上がろうとする間もなく、暁の目の前に大きな影が現れた。膝を押さえるのは彼の脛か。身を捩ってもびくともしない。
 無理やり開かれるのだと、最初は思った。彼の指は暁の耳の下から、顎の輪郭線を通って下を目指した。
 だがそれは、暁の首でぴたりと止まった。
 ――嘘だ。
 針葉の両の手が、あの大きな掌ががっちりと喉を覆う。重みが加わる。沼地に置いた丸太のように指がめり込んでいくのを、暁は肌で感じた。急激に息が苦しくなる。
 足を動かそうともがく。彼の手首を掴む。何も変わらなかった。彼の指は力を増し、暁の頭には血が上っていく。顔が一気に火照りを帯びる。目に涙が浮き出る。
 彼の腕に爪を食い込ませ、肘まで渾身の力で引っ掻く。絡み付いた指と自分の喉の間に爪を入れて、どうにか引き剥がそうとする。
 指の力がひときわ強くなる。
 上肢をばたつかせる。畳を数度叩いたはずだが、耳のすぐ傍で聞こえるのは、どんどん大きくなっていく鼓動だけだった。
 びくりと体が痙攣する。一度。ニ度。
 ……わずかののち、ふっと気が遠くなった。

 ――あんた本気なの。あいつはやめといたほうがいいわよ。

 こんな終わりが待っていようと、誰が思うだろう?





 ……目の前には天井があった。遠いところで水の落ちる涼やかな音がする。もう朝になったのだろうか。左に目を動かして見付けた、紅花の顔がぼやけている。
 冷たいものが頬に触れた。小さく呻くと、絞った手拭いらしきそれは離れて、紅花の指が暁の前髪を分けた。
「目が……覚めたの」
 彼女の声は震えていた。何かを堪えるように唇を噛み締め、眉間に幾重も皺を寄せたかと思うと、彼女は暁に覆いかぶさってきた。暁の視界の下方が黒髪で埋め尽くされる。しゃくり上げるような息の音が聞こえる。大丈夫だからねと繰り返す声。ああ、海が溢れてしまう。
 為すすべなく暁は、揺れる彼女の背を撫でた。ふと、自分の爪の間に何か詰まっているのに気付いた。
 血に染まったそれは、削ぎへずった彼の腕と、自分の首だった。
 ひりつく痛みが体の奥から湧き上がる。何もかも夢ではなかったのだ。天井に目を向ける。ゆらゆら揺れる橙色は、周りが未だ闇に包まれていることを示していた。
 暁は目を閉じた。
 朝はまだ、気が遠くなるほど遠かった。