「……驚いた」
 声の表情そのままのことを彼は言った。部屋は暗く、顔の中身までは分からなかったが、きっとそれも同じだったのだろう。
「どうして」
「もう来ないかと思ってた」
 針葉の声は低く、落ち着いたものだったが、母を待ちかねた雛鳥のような響きを帯びていた。暁がうつむき見た足元には、別人のもののように頼りない爪先があった。頭の中の何もかもを奥底に仕舞って、襖を閉めた。
 ――気が違ったとしか思えなかった。
 そうでなかったら、どうして再び彼のもとへ戻れるだろう。暗闇におめおめと肌を曝し、何事も無かったかのように、まるで初めからそうだったかのように、息を漏らし、声を上げて、この恥知らずな体は。心は。
 ざくりざくりと石に穿った穴を、急ごしらえで埋める。辺りに散らばった葉や土といった頼りないもので、平らかに均していく。
 これは罰だった。
 正しい在り方とはどういうものか。
 あの続きにあるべきものは。彼の目に見えていたものは。
 頭を置き去りに、流れを掴もうと必死でもがく。
 彼が身動きするたびに顔が歪んだ。暗闇でなければ人にはとても見せられないなどと、していることを棚に上げて思う。
 まだ苦痛が勝っていたのが、何故か暁には、唯一の救いに感じられた。





 戸を引いた紅砂は、赤く染まり始めた空に目を細めた。家を広く囲むように聳えた木々にはつやつやと青葉繁けく、見霽みはるかす遠くには葉桜が川沿いの曲線に並んでいた。
 ずっと辿って左手には海が果てまで繋がっている。港は見えない。この高さから見るには、港や大通りや間地は手前すぎた。
 間地の道場まで紅砂の急ぎ足で四半刻。目指す先がそれより近くであれば、夕餉前には帰れるだろう。
 木に囲まれた坂道を下りていく。春に次々顔を出した下草も、日々踏み固められて道の一部と化している。
 そろそろ平らな道が見えるというところで、真正面から地を照らす西陽の中に、長く伸びた影が見えた。影は頭から首へ、肩へと、順に木々の影の中へ溶け込む。紅砂は足取りを緩める。
 向こうもこちらに気付いたようだった。顔を上げて驚いたように彼の名を呼んだのは、大事そうに何かを抱えた暁だ。後ろを歩く針葉も、ひと息遅れて顔を上げる。
「今から出ていくの。道場?」
 近くまで上ったところで暁は問いを口にした。紅砂は首を振って左を指した。腕は伸ばさず、暗にすぐそこだと示す。
「夕餉までには戻る」
「そう。……今日は皆揃っていた?」
 ああ、と頷く。それ以上行き先を追及されないことに、どこか安堵していた。
 二人の肩とすれ違って更に進み、地蔵の横まで来たところで振り返る。初めは、何故あの組み合わせなのかと思った。親しげな様子が無かったので全く思い当たらなかったが、記憶の糸を辿れば、紅花があの二人について何やら言っていた気がする。見上げた坂道にはもう木々以外の何も見えず、紅砂はすぐに前へ向き直った。
 裏通りの一つ手前の通りを左に曲がる。細い小道には昔ながらの怪しげな店や狭い長屋がごみごみと連なっていた。
 あの家に住まう者の中で、元から坡城に暮らしていたのは彼と紅花の兄妹だけだ。紅砂は商家裏の長屋で両親と、紅花は小間物屋の奥で義理の両親と暮らしていた。
 東へ行ってはならなかった。あの木々に閉ざされた坂道も、今歩いている小道も、子供時分には禁じられたものだった。
 行ってはならないのは南も同じだ。港のような、目と耳にばかり煌びやかな日陰の町を、どこのまともな親が許すだろう。鋭い目付きの港番が見張りに立つ三門は、言われずとも近付くことの憚られる場所だった。
 紅砂は足を進める。道は程なくして家のある丘を囲むように左へ曲がり、長屋も見えなくなって、木々に囲まれたうら寂しい道へ続く。
 涼しく感じるのは日が傾いたせいか、それともすぐそこの岐路の左手に墓地が繋がると知っているせいか。
 紅砂は右の道を選んだ。しばらく行った先でまた右へ、しばらく歩いてまた右へ。
 すると突き当たりに、港の三門のうち東門が見える。紅砂が港へ入ることは少なくなかったが、大抵は間地と接する西門か、大通りから続く北門を通っていた。坡城で暮らして二十年近いが、ここまで来たのは数えるほどしかない。
 紅砂は東門のすぐ手前で左手に道を折れた。
 歩くたびに土と砂の混じった音がした。境目など無い。広がる地には遮るものが無い。片手を翳すだけで隠れてしまうほどの小さな堂が、左手にあるだけだ。それも鬱蒼とした林を背にしており、まるで影に寄り添うようだ。
 右手から奥にかけて、掌ほどの石ころがいくつも棄てられている。否、祀られている。
 潮の匂いが近かった。真正面には砂地が広がり、その向こうには海が広がっている。塩の混じった地からは草もあまり生えず、時々、肉厚の葉をはべらせた花が這いつくばるように群生しているだけだ。
 紅砂は石の一つを取り上げた。何か彫られていたようだが、既に目では読みようがなくなっていた。裏に付いていた土がぼろりと落ちる。掌に軽々と乗るほどのそれは、目で見えるよりずっと冷たく重い気がした。目を伏せてそっと元に戻す。
 紅砂は膝を伸ばしてぐるりと敷地を見渡した。誰の姿も無い。すぐそこの門の向こうが色と喧騒に満ち満ちているのとは対照的だった。
 ここは投げ込み寺。港に暮らす者はじめ、行き倒れた者、打ち上げられた者、縁者無き者たちの墓だった。
 昔は坊主がいたのだろうが、今は生き物の気配すら無い。命生み出す海にも、豊穣積むる山にも、享楽はびこる港にも近いこの場所には、死が渦巻いていた。
 左の袂に手をやる。取り出したのは煌びやかな櫛だった。鼈甲を削り出したものだろう、艶やかな黒の中に枝垂れる花と実と鳥が描かれている。肝心の歯は申し訳程度が真中に並ぶだけで、飾りとしての側面が大きかったのだと教えていた。
 これが誰のものかは知らされていなかった。
 だがこの櫛の持ち主の体はひと足先にここで眠っているのだろうと、それだけは予測がついた。
 好き勝手並ぶ石の、わずかな隙間の土を掴み取る。櫛を落としてその上から土をかける。美しい飾りは、瞬く間に土に隠れて見えなくなった。軽く均したところで立ち上がる。
 掌に残る土を見下ろす。この土にも、死者の欠片が含まれているのだろうか。
 目をつむる。誰ともなしに手を合わせた。

 家に戻ると、既に部屋には紅砂以外の六人が揃い、箱膳には皿が並んでいた。
 暁が、脇に置いた香ほづ木を紅花に注意され、慌てて部屋を出て行った。紅砂は自分の箱膳の前に腰を下ろして、先程抱えていたのはあれなのだろうと考えた。女姿を取るようになった彼女を、一人で境へ向かわせるのも気遣わしく、針葉も付いて行ってやったというところか。
 だとすると、親しげなる言葉の一つも交わさぬように見えたのは、紅砂の思い違いかもしれない。
 どうせ、彼が人の間の糸に気付くのは決まって最後なのだ。
 戻ってきた暁が席に着いたところでようやく夕餉の刻となった。
 紅砂の心にふと、あの櫛を託した人の顔が浮かんだ。





 それは何も考えずに取った行動だった。
 ことが済んでも熱の抜け切らぬ体が、ぐたりと前にしなだれた。それを支えたのは向かい合って傍にいた針葉の腕だった。
 暁の肩はそのとき息を求めて喘いでいた。肌に触れる夜気がひんやりとしている。瞼が灼けたように熱かった。
 彼女はそのまま針葉の耳に頬を寄せた。彼の肩は顎を収めるのに丁度良かった。
 熱いた体から汗の匂いがする。
 すっと一瞬瞼が下りて、また開く。
 気付いたのは息が整い始めた頃だった。呼吸に合わせてゆっくりと、髪から背に指の感触が流れている。暁の頭の中から靄がすっと晴れていく。――息が止まる。
 ばっと体を離した。闇が緊張するのを感じる。
「ごめん……なさい」
 彼が何か言おうとする気配があった。口の開くわずかな音、息を吸うわずかな音。
 暁は傍らに敷いていた着物を、荒々しく掴み取って身に纏った。すぐさま立ち上がって部屋を後にする。既に夜は更けていた。足の汚れるのも気にせず縁側を下りる。爪の間に、指の叉に、土が入り込む。目に映った木の裏に体を隠した。裾をたくしあげて膝を折り、幹に背中を預ける。
 息は今、細く震えていた。
 あれから何度か夜を共にした。だがこんな失態を犯したことが一度としてあったか。
 針葉を見誤ったのは暁だ、だから彼の見たであろう筋を壊さぬよう努めてきた。
 全ては今ある流れに沿うため、何も傷つけぬため、穏やかに終わるため。そこに暁の意思は存在しえない。そのはずだった。
「……嘘だ」
 あってはならない。そこに苦痛以外の何も抱いてはならない。
 そうでなければ――あの苦しみは一体何だったのだ。何のために彼すら利用したのだ。
 見てはならぬ聞いてはならぬ、疼き始めたこの声を、胸に満ちるものを。
「……っ」
 膝に顔をうずめる。押さえていた裾は緩んだ指から滑り落ちて、弧を描いて土に落ち、汚れた。

「お前、笑わなくなったな」
 そう言われたのはいつだっただろう。そのとき自分が何をしていたかすら暁は覚えない。
 字を書いているところに彼が忍んできたのかもしれない。あるいは境か湊か、川の向こうへ行った帰りだったかもしれない。その言葉だけが耳に残って、あまりに痛みを伴いすぎて、何度も反芻しているうちに、そこだけ蒸発を忘れてしまった。
 笑うとは、まるで遠い昔の言葉のようだ。そんな行為は軽口を叩き合う関係においてのみ成り立つものだろう。
「私はそんなにへらへらしていたっけ」
 耳で聞いた自分の声は冷たいものだった。いつかのように笑みを交わしたい葛藤と、許されざることだと戒める心。彼の顔は見なかった。暁の背後にいて見えなかったのだろう。彼はいつも字を書く暁の背後にいたし、外にあっても、どういうわけか彼女が先を歩くことが多かったのだ。さっと心が冷えたことだけを覚えている。彼の溜息が聞こえたのだろう。
 耐えがたく目を閉じた自分を、消してしまいたかった。彼の目の前から。頭の中から。
 穏やかに終わるまでと、そう考えていた。望んではならないと。これは罰なのだと。
 だが、終わりとは何なのだ? この身が消えるわけではない。元通りになるわけもない。さようなら、そうして一つ区切りがついたところで、その先には長々と変わらぬ道が横たわっているのではないか。

 夢想することがあった。
 今までの狂言をかなぐり捨てて、新しい道を築けないか。全てが受け入れられるとは思わないし、暁自身、全てを打ち明けられるとも思えない。それでも、心の底から笑えて軽口も叩ける、同じ石を均すなら、そんな間柄を作れないか。
 祈りにも似た望みだった。そんなものを思い描くこと自体、過去の自分を貶め、彼への裏切りを認めたも同然だった。
 それでも思ったのだ――いつまであの一日に縛られているつもりだ。壬が焼け果て、血と煙の匂いに包まれた、あの日。傷を受けた、刃を手にした、あの悪夢のような日。
 もう裁きは済んだはずだ。元々彼女が作った掟なのに、これ以上の義理を誰に対して立てるというのだ。
 もう……前を見てもいいはずだ。
 一挙手一投足に動機を求めるとは、なんたる愚か者。それでも今暁が必要としているのは、ほんのひと押し、赤子でも踏めるはずのたった一歩だった。





 襖を開けて、最後に手元に残った一着を放り込む。出て行こうと踵を返したところで、紅花はなんとなく後ろ髪を引かれて立ち止まった。
 振り返った暁の部屋には相変わらず何も無かった。すっきり片付いているのとは違う、こういうのは「がらんとしている」と言うのだ。織楽のように四隅まで律儀に散らかせとは言わないが、来て二年以上経っているのだから、もう少し何かあってもいいと思うのだが。
 部屋の隅には文机とか筆とか蒲団とか、そういうものも確かにある。着物もいくつか重ねられている。だがそうではないのだ。彼女が選んだ彼女だけのものが、寛ぐためのものが何もない。文机はじめ書き物に関わる諸々は浬と共用だったし、着物は紅花が譲ったものだ。
 黄月の部屋も、蒲団と棚と薬作りの器具しか無い点では似たようなものだったが、彼の場合は本当に必要としていないのだ。無駄を許さぬあの性分は、紅花が思うに一種の病だ。
 暁は違う。鏡も櫛もヤソ袋も、いちいち紅花に借りに来る。それが勘定高さから来るのでないことは、先日の一件から分かっていた。
 二十日ほど前になるだろうか。
 その日、暁は筆を手にし、紅花は左横でそれを見ていた。何を書いているのかは読めずとも、さらさらと紙を埋めていく様々な文字は、眺めているだけで飽きなかった。浬の書く、今にも滑り落ちそうな字に比べると、彼女の字は一枚の絵のように心地よく見ていられた。
 暁は筆を止めると、書き終えた横長の紙を机の向こうに下ろし、困ったように左右を見た。その次に彼女の取った行動は、字の作法を知らぬ紅花でも目を丸くするようなものだった。
 彼女は墨の入った硯をそっと持ち上げ、紙の右端に置いたのだ。もう一端には本を置いて押さえる。紙が動かなくなったのを確かめた後は、平然と次の紙を下敷きの上に置いて筆を取った。
 穂の墨が足りなくなるたび机の向こうに体を伸ばす姿は、初めこそ滑稽だったが、次第に笑うこともできなくなった。彼女が全く真剣であると気付いたからだ。
「ねえ、なんでそんなことしてんの」
 暁は呆けたような顔で紅花を見た。机の向こうの紙を指してやると、やっと訊かれたことが分かったようだった。
「だって吹き飛ばされるから」
「じゃなくて、なんで硯とか本で押さえんのよ。不便でしょ。見ててはらはらするわよ。文鎮は?」
「浬は机の外で乾かすほど物を書かなかったみたいで、これしか」
 暁は机の上のひと組を指で示した。
「じゃあ買えばいいじゃない。うちの店にだって、可愛いのはいくらでもあるわよ」
 疲れ気味に瞼の下がっていた目が、みるみる大きくなった。彼女は驚いていた。
「……いいのかな」
「なんで悪いと思うのよ。浬に遠慮してんの? 今だってほとんどあんたが使ってるし、あって困るもんじゃないでしょ」
 多分彼女が義理立てしていたのは、浬にではなく、目に見えない何かに対してだった。借りたものはそっくりそのままにしなければならないという、誰が囁いたか知らない掟が、彼女をずっと縛っていた。
 間もなく、書き終えた紙を押さえるのは硯から魚の文鎮に変わった。前から欲しかったのだと暁は顔を綻ばせていた。紅花が可愛いと言った中にそれは含まれていなかったのだが、それはひとまず置いておこう。
 紅花は改めて暁の部屋を見渡した。全てそれで得心がいく、彼女は今あるものをそのまま保とうとするのだ。そのやり方は文鎮を買った後も変わっていないらしい。鏡を買うよう言えば、暁はすんなり承知するだろう。これが欲しかったとか、自分のものがあるといいねとか、目を細めるだろう。だからと言って彼女は、自分好みの櫛を買うことまでは思い至らないのだ。
 もう出ようと膝立ちで襖を振り返る途中、何かが目に止まった。部屋の隅にある、あれは何だろう。
 近づいた紅花はすぐに納得した。何とかという芳香を放つ木片を包んだものだ。滅多に物を買わない暁だが、そうだ、これだけは例外だった。
 それにしても、まだ夏至までひと月近くある。今年は随分早くに買ってきたものだ。
 ぎし、と板の鳴る音。顔を上げた紅花は、襖の向こうの影と目が合った。
「針葉」
「違っ、猫が……」
「暁ならいないわよ」
 針葉は口を歪めた。咄嗟に口走った言い訳のあまりの稚拙さに、深く恥じ入っている様子だった。
「残念だったわね」
 揶揄と皮肉を交えた言葉だったが、彼は一度かぶりを振っただけだった。紅花の前に腰を下ろして、見せた表情はどこか物憂げだ。
 いつ戻るか知れぬ部屋の主を待つために、わざわざ入ってきたのではないだろう。紅花も拍子抜けして彼を見つめた。彼がこんな顔をするなど、思いも寄らなかった。

 そもそも針葉に対する紅花の印象は最初から悪かった。四つ年嵩の彼のことを、軽んじていたと言っても過言ではない。
 紅花が兄とともに家に来たのは九つを迎えたばかりの年明けで、先に暮らしていたのは前の長と針葉、黄月の三人だった。
 針葉と同い年の黄月はあまりに大人びていた。薬のみならず全てにおいて彼が見せた豊富な知識は、紅花を魅了して止まなかった。だからといって一時期憧れていたのは、幼かったからとしか言いようがないが。
 対する針葉は、図体だけは大きく見えたものの作法の一つも成っておらず、それは確かに前の長も同じだったのだが、針葉は長の言動の表面ばかりを忠実に真似しただけで、中身は何一つ伴っていなかった。
 連れて来られた紅花にまず与えられた務めは家の諸々を覚えることで、その間はろくに外にも出してもらえなかった。やっと半人前にこなせるようになった頃には季節が一つ二つ巡っており、その次に言い付けられたのが言葉を直すことだった。それまでの言葉が訛りだったと初めて知った紅花にとって、それは並大抵の苦労ではなかった。
 この点に関しては、針葉が優れていたと言わざるを得ない。使わねば覚えないと言って、彼は紅花を坂の下へ連れ出した。
 道をいくつも折れた先に辿り着いたのは狭い長屋で、若い女が暮らしていた。女は紅花を見て柔和に笑った。紅花はそのまま女の家に預けられ、夕暮れになるまで彼女たちのもとで働いた。
 男所帯に辟易していた紅花にとって、それは救いだった。彼女たちは母よりずっと若かったはずだが、それに似た慕情も寄せていたと思う。
 彼女たちは大抵口数が多く、言葉を正すには打ってつけだった。紅花は彼女たちの手伝いをしつつ、日常の細々とした言い回しを覚え、調子の違いを正していった。
 彼女「たち」と言うのには理由がある。奉公先は、短い休みを挟んで頻繁に変わったのだ。
 彼女たちとの付き合いは長くてふた月、短いときは二十日と持たなかった。
 一人住まいのこともあった。赤子が一緒にいることもあったし、夫と思われる男が帰ってくることもあった。紅花は何も疑わず言ったものだ、紅花です、お手伝いをしに参りました。
 前の女の家には、決して行ってはならなかった。
 その意味を知ったのは織楽が来てからだった。素直な習い子だった紅花は、冬が巡るのを待たずに流暢な言葉を手に入れ、長が亡くなって年長二人が留守にしたときを境に、女の家への出入りを無くした。既に小間物屋に出ても、難なく客を捌けるようになっていた。
 織楽と共に店番をしていた次の夏か、秋か、蒸し暑い日だった。店に現れたその女の、望みの品を聞いていたのは織楽だったが、紅花は声ですぐ気付いた。ほど近くに住む女だ。彼女は三人目か四人目の師匠だった。気が強い一方でこぼす笑みは温かく、お伽話を語ってくれたり、歌を教えてくれたり、時には菓子もくれたので、ずっと別れがたく感じていたのだ。
 紅花が出て行って笑いかけると、しかし彼女の顔は凍りついた。
 何を言われたか覚えていない。浮かんでくるのは、幼い彼女を庇うように立っていた織楽の背だけだ。
 最後に棚のものを乱暴に投げ付けて、彼女は去って行った。
 その後、織楽は噛み砕いて紅花に説いた。彼女や、その他の彼女たちがどういう人で、針葉とどういう間柄にあったのか、想像も交えながら。あの罵声からよくここまでと思わせるほど、彼の話と紅花の見てきた世界には齟齬が無かった。
 ただ一つ引っ掛かったのは織楽の語り口だった。それまで家の中で、これほど彼女を理解してくれる者はいなかった。兄でさえ見過ごす機微をも、彼は掬い上げてくれた。なのに彼はとある一点だけは決して譲らなかった。彼は誰も貶さなかったのだ。
 分かったりぃな、言わんといたり、最後にはそう括られた。
 紅花は、たとい口先ばかりであっても、針葉に対して抱いた激しい嫌悪を共有してほしかったのだが。

 とにかくそんなわけで紅花は、最悪の形で針葉の爛れきった一面を知るに至ったのだ。
 暁には何度も伝えていたはずだった。彼の好みがどれほど彼女とかけ離れていて、どれほど勝手な付き合いしかできないか。それでも近付こうというのだから、それ以上は紅花の知ったことではない。
 いずれ泣き付いてくるか、あの時の女のように怒り狂うことになるだろう。そのとき掛ける言葉も決めていた、「だから散々言ったでしょ」。悔やむ様子を見せたなら、紅花も鬼ではない、そのときは寄り添って慰めてやるのだ。そのはずだった。
 だからまさか針葉に寄り添うことになろうとは、地が裂けても思わなかった。
 今や、地はおろか天まで裂けてしまったらしい。
「世の中ってのは広いな、紅花」
「……そうね」
「分からんことだらけだ」
「全くだわ」
 紅花が洗濯物を取り込んだのは昼下がりだったが、緩々と日は傾き、今や長い昼が夕に変わろうとしている。暁の部屋は西向きだから、ほんのりと色づいていく障子で時の経過がよく分かった。
 針葉は暁が部屋の隅に立て掛けていた刀の片方を胡坐の膝に乗せ、手慰みに柄紐を弄っていた。紅花は彼の横顔が見える位置にいたが、腑抜けた表情は直視するに堪えず、大半顔を背けていた。
 彼は暁のことには何一つ言及しなかったが、それが暁との仲に行き詰った末の言葉であることは明白だった。でなければどうして二人は、この部屋でのたのたと実のない話を続けているのだ。
 これほど煮え切らない針葉も初めてだったが、それを面白がる段階はとうに過ぎた。
「なんかぐちゃぐちゃ言ってるけどさ、つまりうまくいってないわけでしょ、暁と。で、さっきからそれを何っの関わりも無いあたしに愚痴ってる。一体あたしにどうしてほしいの、あんたらの仲でも取り持てって言いたいの」
「……んなこた言ってねぇだろ」
 反応するまでに間があった、ように紅花には聞こえた。針葉の親指がしきりに紐を弾いている。
「大体、暁のことなんていつ話に出した。生憎こちとら仲が良すぎてお前の出しゃばる幕なんざねぇよ。毎晩寝足りんくらいだ」
「へえ、ああそう、そりゃ悪かったわね。そうよね暁なんてひとっ言も言わなかったわね、ここは暁の部屋だけどね。そんだけ偉そうなこと言うんなら、後で泣き付いてきても知らないからね」
「んなこと誰が。今だってな、ここで堂々暮らしていけるようにって段取りつけてるとこだよ」
「そりゃ御立派だわね。罰当たりばっかりしてきたくせに、ここにきて律儀じゃない。日向もん気取って祝言でも挙げる気なの」
「お前こそえらく噛み付くな。自分に相手がいないのがそんな悔しいか」
 声が途切れた。互いに睨み合ったまま肩でぜえぜえと息をする。障子が赤みを増す。
 やがて口を開いたのは紅花だった。
「一つ訊いていい。あんたいつから好み変わったわけ」
「好み?」
「わざわざ訊き返さないでよ。暁みたいなのと付き合ったこと無かったでしょって言ってんの」
 針葉が吹き出した。からかう目付きで紅花を上から下まで舐め回す。直に触れられているように感じて、紅花はわずかに身を引いた。
「あんな平べったくて餓鬼っぽい女よりあたしを見てよってか。言うようになったじゃねぇか」
「ふ……っざけてんじゃ」
 振り上げた右腕は容易く掴まれた。彼は腕にちょうど拮抗する力しか加えず、紅花の手はどれだけ頑張っても空中で小刻みに震えるだけだった、ので左手で頬を叩いた。
 ぴしゃりといい音がした。針葉は苦笑いして腕を放す。
 紅花は赤く残った痕を左手でさすった。この男はまったく、少しは学んだかと思いきや何も変わっていないのだ。
「冗談だよ。お前ぁ俺にとっても妹みたいなもんだ、寝小便の数も知った奴なんてぞっとする」
「一回だってしたことないわよ!」
「そうだったか? じゃあ喩えだ、喩え」
 針葉は悪びれた様子もなく立ち上がった。彼も紅花につられたように片方の腕をさすっていた。
「そうだな、そう考えるんなら、今までに言い寄られた中でも遠慮したい相手の筆頭か、次点にゃ食い込むな」
「自惚れんのもいい加減にしなさいよ、誰が言い寄ったってのよ!」
 紅花がいきり立つのを愉快そうに見て、彼は襖の向こうへ歩いて行った。来たときとは比べ物にならない薄っぺらい顔つきだったが、理不尽なものだ、紅花の腹にはその倍は怒りが溜まっていた。
 やがて紅花も立ち上がり、主なき部屋をどすどすと威勢よく立ち去った。
 彼との会話に引っ掛かる箇所があったような気もしたが、怒りが鎮まる頃には綺麗さっぱり忘れていた。