まちが話したことだ。
 男はこの森に迷うことなく現れたのだという。
 この森をずっと行った先の、木々が大きく開けた場所。近辺に散らばる仲間は数知れずいたから、彼を含む二人の男がそこに現れたという話も、森渡る風のごと、ひと息で伝わった。だからと言って辿り着くとは思わなかった。彼女とて、男の正体を知らねばそうであっただろう。彼らが足を踏み入れたのは、こことはまるで反対側だったのだ。
 思ったとおり、もう一人の男は離れた方へ進んで行った。彼らのいる場所を考えれば当然だった。
 しかしその男は違った。途中で道を分かつと不自然に迂回して、真っ直ぐこちらへ向かった。それまでとはまるで違い、疾風のように素早く。
 その場にいた仲間の一人が怪しんで道を塞いだ。まち――聡き耳の彼を呼びに来た少女と対になって動いていた、年若い少年だった。見張り衆はともかくとして、護り衆はどうして侵入を許したのか、彼がそう呟いたのをまちが聞いていた。
 彼はさっと地を蹴ると男に走り寄った。まちはそれを止めなかった。無謀とは思わなかった。初めからそのつもりだったのだ、二手に分かれてくれたのは好都合だった。そのはずだった。
 しかし男が足を止めることはなかった。初めからそうなると知っていたかのように、ぴくりとも表情を変えず、掌に収まりそうなほどちっぽけな小刀で、
 ――すとん。
 そんな音が聞こえた気がした。あまりに呆気なく、躊躇いもなく、彼の喉には刃が突き立っていた。ぐいと男の手が動いて紙きれのように喉を引き裂く。噴き出た血が、手を伸ばしても届かない高さまで幹を汚した。
 そのとき分かりました、後にまちが言った。あの男はそうやって、護り衆の全てを黙らせてきたのでしょう。
 果たして彼女の考えたとおりだった。後に足を向けたところ、男の通った道には、胸に刃の突き立った護り衆が点々と斃れていた。澪木のようだった。全ての刃は骨の間をすり抜け、血を断ち臓腑を断ち、確実に死を貫いていたのだ。
 男は風のように進んだ。
 木の上から飛び降りた護り衆に驚くこともなかった。刀を振りかざす者がいれば懐に入り込んでぴたり心の臓を突き、得物を奪った。飛び道具で応戦する者がいれば、斃れた屍を盾にした。複数で襲いかかろうが流れるようにかわして、男の目は常に次の敵を見ていた。
 男には、動きの一切に迷いが無かった。それは戦い慣れた者、殺し慣れた者の身ごなしだった。
 とうとう男はまちのいる場所へ辿り着いた。右手に刀を持ち、血なまぐささを全身から迸らせながら。
 まちは枝を移って先回りし、さる御方と聡き耳の彼のいるこの場所を護るように、戸の真正面に立っていた。どこまで真か彼女には知る由もないが、信ずるならなんとも勇敢なことだ。
「奴の目には何の惑いもありませんでした」
 蒼白な顔で、後にまちが呟いた言葉だ。黒目がわずかに震えていた。
「屍だったのだと思います。奴の目の中で、既に私は……」
 まちはじっと男の目を睨み付けた。怯えはしても、無力であっても、決して無傷では通さない。建物の中の彼らが気付くよう派手に立ち回ろう、逃げおおせるように刻を稼ごう。細い体を流れる血が、逃亡を許さなかった。からからに乾いた唇を隠すようにしっかと口を結んだ。
 木々の影を出て一直線に戸まで歩く、その足がほんの数歩先まで近付いたとき、しかし彼女はちらと自分の胸に目を落とした。怖気づいたのではないと彼女は言った。本当は自分の胸には既に刃が突き立っているのではないか、自分は倒れて正しく死ぬべきなのではないかと、そう思ったからだと。
 胸には何も無かった。合わせた衿の隙間から汗ばむ肌がちらりと覗いただけだ。
 はっと顔を上げる。男の顔はすぐそこにあった。
 見覚えのある顔だった。いつか見て、呆れるほど血が似合わないと思った彼は、今は当たり前のように血を滴らせていた。
 いざ男を目の前にすると、まちの体は固まって動かなくなった。彼女はそのときのことを自嘲気味に語った。
「恥ずべきことですが、私はあれで命拾いしたのです」
 凍りついた少女に対して、男が右手を動かすことはなかった。顔の向きはそのままに、目だけを彼女に合わせた。
「話を聞かないのはいけない」
 諭すような口調だった。彼は不意に左手をぶんと斜め上へ向かって突き出した。びくりとまちが肩を震わせ、同時にくぐもった声、続いてどさりと地の震える音がした。
 恐る恐る目だけをそちらへ向ける。木の根元に仰向けに倒れているそれは、少女が兄のように慕っていた仲間の一人だった。胸に突き立った得物は墓標のようだった。
「さもなくば痛い目を見る」
 はっと目を戻す。男の顔は何事も無かったかのように彼女を見下ろしていた。まちが震えを隠すように唇を噛み締めると、彼の目はわずかに緩んだ。
「お前たちは余程血の気が多いらしい、この恰好では帰れない」
 そしてまた、射抜くように彼女を見据えた。
「ガケイに会わせよ」
「が……?」
「同じ言葉を頂に立つ者に伝えよ。行け」
 ――そこまでが、まちの知る全てであった。

 広い部屋の真中に彼女は一人座している。まちと呼ばれる少女を呼び出した日のことを、彼女は思い返していた。射し込む日は眩しく澄み、静謐な部屋に蠢く闇を際立たせる。
 あの日、森に潜んでいた者の半数近くが命を落とした。脳裡に眠る地獄絵図に迷い込んだようで、彼女は思わず口元を覆った。聡き耳の彼は、散った命を惜しむことはあっても嘆きはしなかった。
「得難きものを手に入れた」
 あの男を指した言葉だ。
「これより先は、旧きならいのとおりに」
 あの男が何者か聞かされても、彼女の心の隅には靄がかかって晴れなかった。だから見張り続けたのだ、あの山道でも、あの喧噪の夜も、慣いを守りながら。





 暁は、針葉のことは極力避けていたつもりだった。
 あれから数日経った夕方、紙の束を抱えて廊下で鉢合わせたときは、ろくに目も合わせられなかった。何を言われたかも覚えていないが、顔を背けて返事にもならない返事をした。彼の言葉にはろくに耳を貸さず、とにかく否とばかり答えた。
 何を勘違いしたか、彼は突然何か思いついたように言葉を止め、短く謝罪して足早に立ち去った。
 その次は更に数日後だった。ふた月み月に一度の流れが腹にずしりと重く、白く照らされた障子と真向かいの文机の上には、硯でも筆でもなく自分自身の頭を乗せていた。
「どうした」
 笑い声は後ろから聞こえた。顔を上げるのも億劫で、横目でちらと見ただけだった。彼の姿を確認してからも、否と言うことさえ面倒で、暁はずっと紅花の部屋に続く壁を眺めていた。気を紛らわすために飯の内容を遡っていたら、更に顔色が蒼褪めた。
「何だ、悪いもんでも食ったか」
 これだけ愛想なく接しているにも関わらず、彼は彼女のすぐ後ろに胡坐をかいた。暁は顔をしかめて目だけそちらへ動かす。構ってやる余裕など無いと分かるだろうに、なんと気が利かないのか。
「……出て行って。近寄らないで」
 耳で聞いた彼女自身の声は意図したより低く、不機嫌が際立っていた。だが彼は意に介した様子もなく、毒茸でも見分けるような顔で暁を覗き込んだ。苛立ちが腹に響き、彼女は反対側の壁を向いた。ずっと下にしていた右頬は不細工に平たく赤らんでいるのだろう、彼はそれを馬鹿にするだろう、それでも構わなかった。幻滅してさっさと出て行けばいいのだ。
「産後の猫みてぇ」
 笑い混じりに呟く声が聞こえた。
 いよいよ苛立ちも募り、こちらが出て行くしかないと顔を上げたときだった。
「蒲団敷いてやるから横になっとけ」
 暁は虚を突かれて振り向いた。彼は返事も聞かずに襖近くの衝立を除けると、蒲団を抱えて戻ってきた。両手が塞がっているから、足で追い払うような仕草をする。
「退いた退いた」
 ……頼んだわけではなかった。余計なお世話だった。だが口に出すのは憚られた。
 埃に追い立てられた暁は、うつむき縁側へ出る。思い出したように厠へ立つ。しばらくして戻ると、文机は端に寄せられ、広げられた蒲団が昼の光の下でへばっていた。襖は閉まり、既にそこに彼の姿は無かった。
「……頼んだわけじゃない」
 言い訳じみていた。暁は蒲団の端を持ち上げて三つに折り、文机を元通り障子の前に置いた。硯と墨を用意し、浬に預かっていた文の草稿を広げた。淡々と部屋を戻した。時を戻した。胸が痛んだ。気付かぬふりをして、手間だけ増やされたのだと心の中で強く念じた。
 誰が覗きに来ることもなかったが、夕に落ちて紅花が呼びに来るまで、胸に絶えず冷たい風が吹き付けられているようで、全く落ち着かなかった。

 そして今、書を見直す暁の背後には針葉がいた。
 刻々と影の伸びる夕暮れに現れて、何を言うでもなく、気配だけがある。いやに物静かにしているものだから、追い出すに追い出せなかった。
 暁は字を追う目を止めて、そっと肩越しに見る。彼は、暁が浬から預かっていた文の綴りを胡坐の足に乗せてぱらぱらとめくっていた。言い回しの手本にと渡されたもので、絵の一つもない。読んでいるふうではなく、実際、彼女でさえ途中で目がつかえることのあるそれを、彼が読めるはずもないだろう。
 唐突に彼は本を閉じた。暁はびくりと肩を揺らして前に向き直る。
 畳を踏む音が近付き、文机の横から回り込んで、障子との隙間に腰を下ろした。暁は目の前に紙を立てて、その四角の内に視線を留めるよう気を配る。
 視界の端に彼が見える。体は右手の壁に向かっていたが、首から上は真っ直ぐに彼女を見ているのが分かった。彼の視線はまるで、紙を貫いて肌を突き刺すようだった。
 目の前に手が伸びてきて、暁は身を竦めた。紙が机に倒される。あっけなく盾を無くして、暁はそろそろと目を上げた。
 すぐに視線がぶつかった。
 逸らしかけて、少しずつ戻す。彼の目に苛立ちは見えなかった。
「お前、俺のこと避けてるよな」
「そんな……こと」
 最後までは言わなかった。言うまでもなく避けている。至近距離で明らかな嘘を吐けるほど器用ではなかった。
 針葉はしげしげと彼女を眺めると、体の向きに従って暁から視線を外した。顎を小さくつまむような仕草は、細かく伸びた髭を弄っているのだろう。夕焼けに照らされて暗さを帯びた彼の横顔が、暁にはまるで別人のものに見えた。
 今の彼を、鼻血が出るくらい殴り付けることはできないだろう。石臼を投げ付けることなど、きっと思いも寄らない。
 締め付けられるような思いが、ひたひたと音もなく胸を湿していく。
「今まで仲良くなったのは色のある女が多かった」
 唐突な声は針葉のものだった。彼は取り繕うように暁のほうを向き、「誤解すんなよ」と付け加えた。
 暁は仏頂顔で彼を見る。何を指して誤解と言ったのか、真意は何なのか、全く掴めない。それでも、もしかしたら、と考えた。
「お前みたいなのはよく分からん。扱い慣れてねぇんだ」
 暁の視線が徐々に落ちる。心に靄がかかる一方で、愁眉を開く心地でもあった。
 彼は愛想を尽かし、離れていく。これで良かったのだ。ようやく全てが終わるのだ。
 針葉が机に手を掛けた。暁はそれをじっと見つめる。手の甲に浮き出た骨が橙に染まっている。紅花の言葉。いつか小道の草むらの向こうで見た、広い背、しなやかな指。そして桜の帰り道。分かっていた、だから望んだ。
 ――暁の手は、あれとは別物なのだ。
 針葉は身を乗り出す。躊躇うように口を開く。
 暁は目を閉じて、彼が切り出す言葉を待った。
「痛い思いさせちまったか」
 目を開けると、そこには相変わらず彼の手が見えた。目を瞬いて、どうしてこんな別れ言葉を口にしたのかと考えた。まるで問い掛けるような調子だった……。
 ぱっと顔を上げる。目が合う。とても真剣な眼差しだった。暁は口を覆う。
「な……っ」
 顔が熱を帯びていくのが分かった。
 意味が違う。意味が違う。
 触れられるよりあらわな言葉だった。おかしい、全てがおかしい。どうして彼は恥ずかしげもなくそんなことを口にできるのだ。おかしい。全くおかしい。
 背後で襖の揺れる音がした。はっと視線を逸らす。
「暁。夕餉よ」
 突き放したような紅花の声は襖越しに聞こえた。ぎぃと板の軋む音が部屋の並びの奥へ去っていく。
「腹減ったな」
 何事も無かったかのように針葉が言った。彼は立ち上がって障子を開ける。暁も立ち上がって襖へ歩む。
 彼の足音が止まった気がして、暁はわずかに足取りを緩めた。すぐに速める。何も気付きたくない。そんなことを考えてはいけない。足が縺れそうになった。恐ろしい。胸に手を当てて自分を支えてやる。
 まともに息をつけたのは、廊下に出て襖を閉めた後だった。体じゅうの熱が立ち止まった爪先めがけて落ちていく。眩暈に襲われて鼻を上向けた。
 そう、何事も無かったのだ。彼の苛立ちも、疑いも、別れ話すら。



「浬っ」
 不機嫌な声に続いて、家を揺るがすほどの音がした。
 これほど荒々しい襖の開け方もない。浬は苦笑して振り向く。
「どうしたの」
「夕餉よ」
「そうじゃなくて」
 彼の声の輪郭は柔らかく、ゆったりとした穏やかな口調は紅花の肩から力を抜いてしまう。一度思いきり顔をしかめ、彼女は浬に歩み寄った。どかりと隣に腰を下ろすと、親の仇でも見るような表情で畳を見る。
「もう、いい加減に嫌んなるわよ。なんで気ぃ遣ってやんなきゃなんないの」
「誰に」
 紅花はじろりと浬を睨み付けた。浬の顔が微笑んだまま固まる。なるべくなら彼女を刺激したくなかったのだ。しばらくそうしたのち、紅花はおもむろに唇を突き出した。
「分かるでしょ、あの二人よ。暁と針葉。去年あんたが言ってたことじゃない」
「ああ、驚いたねえ」
「呑気なこと言わないで」
 紅花はぴしゃりと言い放つ。
「何っなのよあれ、四六時中べたべたべったべた。餅なの、餅のつもり? 襖開けるのも、声掛けるのも、いちいち迷わなきゃなんないのよ。肩が凝るったらない。あたしはこんな面倒臭いのは嫌なの、ぎこちないのなんて真っ平御免なのよ」
「そう教えてあげればいいんじゃない」
「あたしに言えっていうの。信じらんない、自分で言えば」
「えっ」
 浬の口元が引きつる。紅花は気乗り薄な顔でふっと息を吐き出した。
「黄月だってそうだったわよ、でもあんなの何年も昔のことだもん。あの大馬鹿男は、なんでいい年して分かんないのよ」
 浬としては黄月の色恋話を詳しく聞いてみたいところだったが、紅花が愛想よく話すとも思えなかったので口には出さなかった。それは多分賢い選択だった。
 なだめるように笑う。
 この少女には家の姿がよく見えている。意図して隠された部分を除いて、たとい言葉を知らなかったとしても、その奥にあるものをきちんと受け取っている。
 しかし口には出さない。あまりに無力だ。
 一年前、飛鳥から帰る舟の上で聞いた言葉を思い出す。「最初から女だと知っていたら、決してこちらには関われなかった」。それはこの少女そのものではないか。いくら長じても決して許されぬ壁がある。
 いつしか笑いは口元に留まるのみとなり、黒い双眸が真っ直ぐに彼女を見つめていた。
「そういうことを、家の外では言うの? 小間物屋の人とか、芝居小屋の人とか」
「言うわけないじゃない、こんなこと。内と外の違いくらい分かってる。馬鹿にしないでよ」
 まだぶつぶつ呟いていた紅花は、一瞬表情を止めた後で迷惑そうに言い捨てた。浬は静かに目を細める。
「そうだね、ごめんね」
 彼女の肩がわずかに上がる。短く名を呼ぶ。目線を合わせる。彼女の肩が止まり、吸気が呼気に切り替わる。
「内と外とは違う。その通りだね」
 まるで詠ずるような、ゆっくりとした言葉だ。息を吸う。
「家の外では当たり障りのないことを言っておけばいい。……例えば日和。例えば行事。例えば祭事」
 紅花は、浬が立てた三本の指を見つめる。息を吸う。
「その代わり、愚痴を言いたくなったらここにおいで」
 瞬きが遅くなる。また、息を。
「僕が何でも聞くからね。……分かった?」
 紅花は浬をじっと見返したまま、こくりと小さく頷く。随分落ち着きを取り戻したようだった。浬は指を一つずつ折っていく。
 最後に、ぱんと手を打ち鳴らす乾いた音が紅花の耳を打った。息の音すら密やかだった部屋が、突然息を吹き返したようだ。
「さ、食べに行こうか。今日は魚かな」
「あ……テンカゴ。昨日大漁だったって、安かったの」
 紅花は浬を追って立ち上がる。廊下に出ると、途端に魚の焼ける匂いが強くなった。
「骨で喉突かないよう気を付けなくちゃね」
 笑い混じりに言う。夕暮れに蒼く沈んだ畳を一瞥して、浬はそっと襖を閉めた。



 暁は襖をちらと見て、何も言わず首を戻した。日の落ちた部屋には既に火が点っており、文机は今、障子の右手の壁に面して置かれていた。
 小さく開いた障子の隙間からは、夜と、温みを増した風が流れ込む。それは墨の匂いと混ざって部屋をぐるぐる回り、いつまでも肌を覆うようだった。
 右後方で畳の沈む音がする。針葉が胡坐をかいたのだろう。手にいつぞやの小僧の怪談話を持っていたことからすると、また居座るつもりらしい。暁は見よかしに歎息する。
 彼がこの部屋へ来るのは何度目か。家にいつつ来なかった日を数えるほうが早い。目に余るほどだ。彼は他の者の目が気にならないのだろうか、ましてや闇に沈んでから来るなどと。
 穂に墨を含ませて紙の上へ運ぶ。今書いているのは、黄月から頼まれていた湊への文だ。薬の名は小難しく、何かしら見覚えのない字が含まれているのが常だった。それでも暁は腕の動きを止めなかった。紙をめくる右後ろの気配も努めて気に掛けなかった。言葉でも交わそうものなら、どう誤解されるか分かったものではない。
 字を置く。上から下へ、右から左へ。墨を磨る。墨床が鳴る。水滴を傾けて水を足す。
 虫の鳴く声が聞こえる。
 文に区切りがつく。机の前に広げた布にそっと紙を置いて、小型の文鎮で押さえる。魚を模したそれは小間物屋で見付けたもので、鱗が一つ一つ浮き彫りにされていた。
 すぐさま正座に戻り、新しい紙を置く。次は浬から頼まれたものだ。彼があらかじめ作った骨組みを、言い回しを直しつつ清書する。癖の強い彼の字にもそろそろ慣れていた。穂の形を整える。
 ふと、背後の針葉が何か呟いているのに気付いた。暁に宛てたものではない。所々つかえているあれは……彼が持ってきた本だ。
 関係ない。暁は筆を持ち直して紙の上を滑らせる。見てはならない、聞いてはならない。彼がいると思ってはならない。
 しかし取り掛かりの一文が終わると、否応なしに言葉が耳に滑り込んだ。暁の頭に闇の情景が浮かんだ。すすきが揺れ柳が揺れ、七八ばかりの小僧が提灯と風呂敷を手に立ち尽くしている。針葉の声がつかえるたび、小僧はつまずきそうになる。
 ――何ということだ。
 暁は硯に筆を戻して顔をしかめた。彼の読んでいる箇所は昨年の秋からちっとも進んでいない。単なる話の種に持ってきただけということか。そう思うと猛烈に腹が立った。
 彼がいると思ってはならない、否、あの男はここにはいない。
 それ以上は何も考えなかった。ただただ腕を動かす。真白き紙がたちまち右から埋まっていく。一心不乱に、まるで逃げゆく者を、字の刃で追い詰めるかのように。
 見知った字ばかりなだけあって、筆はよどみなく進んだ。
 いつしか肩に力が入っていた。瞬きを忘れていた。周りから一切の音が消えていた。それを知ったのは、ひと区切りついてほっと息を吐いたときだった。
 机の右を見る。ついさっき書き始めたと思ったのに、紙の端は畳の上の、座ったまま手を伸ばしても届かない遠くにあった。遠目に見ればさながら虫の集まり、しかし暁にとっては一字一画が命を持っていた。書き上がったものはすぐに自分の手を離れてしまう。だから墨の匂いの乾かぬ一つ一つを、この時ばかりと瞼の奥に刻んだ。
 熱気が剥がれ落ちる、心地よいときだった。
「息してたか」
 はっと我に返る。からかうような声だった。
「……当たり前だ」
「随分書いたな」
 声が近付いてくる。暁は咄嗟に紙を机の向こうへ置いて、次の紙を引き寄せた。まだだ、まだ終わってはいない。彼がいる限り、この部屋から墨の匂いが消えることはない。消してはならない。
 針葉は、部屋の隅に畳み置かれた紙を取った。書き損じた紙を書き慣れぬ字の練習台としたもので、広げて見ても所々に余白が残るだけだ。
「貸してみろ」
 彼は暁の右に腰を下ろすと、彼女の筆を取り上げた。べたりと墨を含ませて紙へ下ろす。案の定、重く膨らんだ穂から途中で墨が落ちたが、頓着の欠片も見せずに腕を動かす。
 暁は身動きせず、視線だけを彼の手元に投げやった。
「よし、どうだ」
 ぱたんとその場に筆を置き、紙を暁の目の前に持ち上げる。暁の目は黒と白の駆け巡る面の上で、水気を帯びた字を見付けた。
 きっと彼自身の名を書きたかったのだろう。蚯蚓の這ったような字が二つ縦に並んでいた。軸が大きく歪み、今にもばたりと倒れそうだ。ある部分は右下に、ある部分は右上に傾いている。文字の大きさも形も蔑ろだ。画と画が妙なところで繋がっているのは、筆順を理解せず目だけで覚えた結果だろう。次の画へ移る途中の、穂先が流れる部分すら、べったりと同じ力で線が引かれている。あまりにお粗末な筆蹟だった。
「ずっと前に私が書いたものを?」
 針葉は自慢げに頷くが、生憎暁はこのような妙な字を教えた覚えなど無かった。そう、と呟いて無造作に転がった筆を取り戻す。穂は根元からねじ曲がり、筆鋒は無惨にばらけて、力任せに書いたのが丸分かりだった。硯の陸で軽く穂先を整える。
 今度こそ真白き紙を置こうとしたが、彼の手はそれより早く、今の紙をぐるりと回して暁の手元に余白を差し出した。
「……何の真似」
「分かるだろ。このとおり、俺の名はもう極めた。次はお前の名だ」
 暁は眉間を押さえた。もう何から正せばいいのか分からない。
 穂を墨に浸すと、彼女は余白に自分の名を示す文字を書いた。彼には真似できないよう、周りの字と触れるほど大きく、限りなく崩した一筆書きで。
 筆を離し、まだ乾ききらぬ紙を彼に突き出す。
「たったこんだけで暁って読むのか」
 視界の端に見えた彼の目は、輝いていた。
「俺の字より恰好いいな。鷲みたいだ」
 字を知る暁には、彼の発言はとんと理解できなかった。少なくとも字面は全く似ていないはずだ。荒々しいと言いたいのだろうか、だとするとそれは単に彼女の内面の問題だ。
 針葉は依然として、彼女の名を表すたった一字を手放しで褒めていた。暁は口を結んで顔を背けた。心を研ぐ。見てはならない、聞いてはならない。心を研ぐ。
 伏せた彼女の目は、傍に引き寄せていた紙を捉えた。手を伸ばす。
「……まだ続けんのか」
 呆れたような声が耳の後ろで聞こえた。血を嗅ぎ付けた鱶さながら、雛の呼び声を聞いた親鳥さながら、びくりと体が動き、言葉の方が先に口をついていた。
「このくらいで終われるわけ……!」
 思考が追い付いたとき、障子の向こうから、小さな虫の声が歌うように聞こえた。風の動く音、草の揺れる音。それ以外何も無かった。夜は深く、火が照らし出すはこの狭い一室のみだった。
 振り向き見た彼の顔に、苛立ちは見付けられなかった。彼は驚き、少し戸惑っていた。
 すっと体が冷めていく。
「わ、私……私は、幾許かでもこれで銭を貰っているんだ。遊びじゃない。戯れに名を書くのとは違う。すべきことは、まだ山ほど残っている。針葉のことだって……私が呼んだわけじゃない」
 言葉を繋ぎながら暁は、どうして目を合わせられないのかと考えた。目は彼を逸れて、机の上を睨んでいる。
 耳に聞こえる自分の言葉が途切れて、暁はもう一度紙に手を掛けた。机の上に広げて筆を取る。穂先に墨を含ませて紙の上へ運ぶ。書き出しは慣れたものだった。手の動くままに字を進める。今暁が使っているのは、頭ではなく目だった。
 途中で字を間違えたが構わず続けた。どうせ針葉には分からないのだ。今必要なのは、忙しいという形だった。彼を見る間も聞く間もないという大義名分だった。
 ふっと息の漏れるのが聞こえた。ほんのわずかな風が髪を揺らし、しかし暁の手を止めるには充分だった。
 筆を紙から持ち上げたまま、硯にも向かえず、次の行にも移れず、暁はじっと白を見つめていた。
 彼の近くの肌がちりちりと痛んだ。
「お前は根性あるな」
 ……何を言われたか分からなかった。瞬いても瞬いても、目の前には白い紙しか見えない。彼の声は感心したような、幾分誇らしげな色を含んで、暁の耳を包む。
「誇り高いのは見てて清々しい。お前のいいところだ」
 息は多分、していなかった。
「でも限のいいところで止めとけよ。こんな遅くまで、息抜きの一つもしねぇでって、んな根詰めてちゃあ体壊す」
 指が震えていないのが不思議だった。きっと視界全てが震えていて、目では分からなかったのだろう。
「邪魔したな。悪かった。……おやすみ」
 彼の足音が離れていく。ふと暁は、凝り固まった考えが解けていくのを感じた。
 単純なことだった。彼ばかりここに来るのは、暁がここから外へ出ないからだ。たまに席を立ってもすぐに戻る。彼と鉢合わせたくないから、自分の陣地を守るため、いつも彼女はここにいた。
 がた、と襖が敷居の途中でつまづく音がした。
 右を向く。狭まりゆく暗い隙間から彼の服がうっすらと見えた。
「し……」
 身を乗り出していた。はっと口を塞ぐ。今更何を言おうというのだ……今更、今更!
 そっと立ち上がり、足を忍ばせて閉じた襖へ向かう。音がしないよう、引き手をこころもち持ち上げながら隙間を作り、廊下の右手に目をやる。
 全ては闇の中だった。誰の姿もなく、何の物音も聞こえない。
 襖を閉じて振り返る。文机と紙、硯、墨床と墨、筆に水滴。文机の奥に、横長の紙が二枚と、文鎮。少し離れて短檠に、刀がニ口ふたふり。それっきりだ。抜け殻のような部屋だった。
 暁はその場に膝をついた。
 胸に手をやる。体で自分の呼吸を聞く。この誤算は大きすぎた、自分にとっても、彼にとっても。
 震える瞼を下ろす。歯を食いしばる。
 掌では触れられない、肌のずっと奥が、しくしくと痛んで止まらなかった。