何度目かで火花が立った。右手の打ち金をそこに置いて附木に持ち替える。火口で燻る種に附木の先を押し当て、消さぬよう一定の強さで息を吹きかける。いくつ呼吸を繰り返したか、ようやく種は火の形を取り、暁はそれを短檠たんけいの中に入れた。
 ぽっと部屋が明るくなる。四辺を照らすには全く足りない幼い灯りだが、一人で過ごすには充分だった。
 縁側から出て曲がり角の隅に立て掛けられた盥を取る。玄関に戻って下駄を取り、家の裏手の井戸まで歩いた。
 見るたび、こんな高台の上からよく掘り抜いたものだと感心する。ご丁寧に簡素な屋根まで付いており、こちらは前の長の代に建てられたものだという。井戸の上面半分を覆う板には桶がちょこんと座っていた。桶は、円を真中で分かつように棒が渡され、その真ん中にがっちりと縄が結び付けられていた。
 暁は桶を落として、着水の手応えを感じたところで反対側の縄を引き下ろした。思いがけず軽く、見てみればとんと水が入っていない。やむなく桶をもう一度落とし、念入りに縄を数度引き下げてから重くなった桶を引き上げた。
 盥の半分の嵩まで水を移し、次に足を運んだのは紅花の部屋だ。鏡と布の小袋を探し当てて戻る。袋はヤソの実を搗いた粉を入れたものだった。
 井戸にほど近い浬の部屋の前の縁側に全てのものを集めた。改めて鏡を覗き込む。
 惨めな顔が力なく暁を見つめ返していた。簪を引き抜いた髪は乱れ放題で、鮮やかだった紅も今や、みすぼらしく褪せている。
 暁は鏡を伏せ、ヤソの袋を水に浸けた。水が指の隙間から白く濁る。紅花は湯の中で使っていたようだが、ただ一人の身のために湯を焚くのは骨だし、もしもということもある。風呂は諦めていた。大火を経験した暁にとって、灯り以上の火を扱うのは何より避けたいことだった。
 水の浸った袋で顔を撫でて洗い、髪を結い直す。もう一度鏡を覗くと、まだ見られる顔になった気がした。
 ようやくほっと息をつく。二度目の息は肺腑の底まで吐き出して、胸の広がる限り長く吸った。季春座から引きずり続けてきた悪いものを、今やっと流し去った気がした。暁は盥の水を捨てに行く。
 足音がしたのはそのときだった。坂道を終えて近付いてくる音が、家の表の方から聞こえる。暁ははっと身を固くした。
 自分以外で、これほど早く帰る者はいないはずだ。すると、あの足音は誰のものだ?
 嫌なことばかりが続く夜だ。鐘打つ胸をつねるように強く押さえる。乾いた唇を舐める。辺りを見回してぱっと目に付いたのは黄月の部屋だった。彼の唯一の家具とも言うべき棚の横には、薬を作るときに使う小型の石臼が鎮座している。
 技のない自分には、刃物よりも重みある武器だ。
 決心するや否や、腰を落として抱え上げ、玄関へ運んだ。
 足音は確かに近付いてきている。今夜この家が空であるとどこで聞き付けたか知らないが、誤算は自分が帰ってきていたことだ。暁は不敵に笑う。
 そう考えた後でふと独りごちた。それはつまり、自分にとっても誤算なのでは。
 ――慌てて振り払う。今更逃げられなかった。誰かの影が桟の向こうに映る。鐘の音は頂点に達した。暁は渾身の力で石臼を振り上げる。がらりと戸が引かれる。
「……、うわあああ!」
 叫び声が耳を殴りつけるようだった。侵入者は踏み入る寸前で足を止め、戸から退いていた。
 彼は暗がりの中に人影を見付けて肝を冷やし、その相手が殺意をむき出しにしていることに肝を潰し、更に言えば、せっかく帰りついた我が家でそんな目に遭うことに混乱している様子だった。低く息を殺し、戸の一歩外から暁を窺っている。
 暁は振り下ろす寸前で手を止め、腕に痛みを覚えて石臼を傍に置いた。闇の中に目を凝らす。
「……針葉?」
 ああ、そうだ。
 そういえば、この家にはそんな名前の長もいた。

 持ってきたのは暁のはずなのに、石臼は一度置いた後はびくりとも動かず、結局元の場所に運んだのは針葉だった。暁も提灯に火を移して後ろから付き添う。
「お前は俺に謝るべきだと思うんだ」
 まだ肝の冷えた思いが胸に燻っているか、彼の口調は控え目で引きつっていた。
「こんな遅くに来るのなんて泥棒くらいだ」
「俺が泥棒に見えたってのか」
「ちゃんと覚えたよ、夜遅くに足音が聞こえたら泥棒か針葉だ」
 彼はそれ以上何も言わなかった。腰を落としてそっと臼を置き、振り返る。
「そういや、なんで誰もいない。祭りはまだ先だろ」
「黄月と浬は明日に帰るって。いつもみたいに小難しい話でもしてるんじゃないか。紅花と紅砂と織楽は季春で、多分泊まってくると思う」
「で、お前は」
「私は……出迎え」
「嘘吐け」
 それは帰ってきて初めて聞く笑い声だった。暁も表情を和らげる。馬鹿馬鹿しいやり取りを積み重ねるたび、苦い記憶は遠くなった。
 ふと針葉は目を見開いた。恐ろしいことに気付いたという顔だった。
「待て、じゃあ……飯は」
「食べてきてないの? 紅花がいたとしても、用意してないことくらい分かっただろう」
 針葉には継ぐ言葉も無いようで、沈黙が彼の落胆を如実に物語っていた。それがあまりにも不憫に見えて、暁は慰めるように笑いかけた。
「分かった。大丈夫、私が作ってあげよう」
「いや暁、そういうことじゃない、思い直せ!」
 即答だった。懇願だった。暁の口元がぴくりと引きつる。視線を逸らす針葉に彼女は、それでも努めて穏やかに話しかけた。
「それはどういうこと」
「いや……罰当たりだろ、その。俺は、ほら、信心深いから」
「罰って何」
 視線がぶつかる。睨み付ける暁に対して、針葉はいつになく逃げ腰だった。沈黙が続く。
 緊迫を壊したのは腹の鳴る間抜けな音だった。
 ひと呼吸おいてふっと息を漏らす。暁は気持ちを切り替えるように一度頷いた。
「分かってる、去年のあれはちょっと拙かった。でも大丈夫、あれから頑張って他のものも作れるようになったから」
 邪気のない顔だった。ようやく針葉も顔をほころばせた。ちょっとどころではないと思いはしても、口に出さないくらいの節度は持っていた。
「あ……そうか、そうだよな。悪かった、俺ぁてっきり」
 いいよ、と暁は首を振る。彼女はくりやへ歩き出し、針葉もひと風呂浴びようと家の裏の薪置き場へ足を向ける。彼の耳に恐るべき言葉が聞こえたのはそのときだった。
「壬のものってあんまり坡城びとの舌に合わないみたいだからね」
 立ち止まった針葉に気付かず、彼女の足音は遠ざかっていく。軽々刀を振るってきた腕が、避けられない災禍を予感してわなわなと震え出す。
 違う暁、そういうことじゃない。壬に罪はない。
 問題はお前の舌だ。

 この家は、針葉が前の長からそっくり受け継いだものだ。前の長は相棒だったという男と他国を周ることが多く、ふらりと帰ってきては数年不在にするという、根を生やさぬ暮らしを続けていたらしい。
 旅の間、当然家に続く坂道は荒れ果てて獣道も同然だった。それは針葉が連れて来られた当時も変わらず、鬼の宿へ続く道だと近くの子供が囃し立てるのを何度聞いたか分からない。言い得て妙だったので憤りも感じなかった。
 宿というのはある意味で的を射ていたのだと、ふた桁の歳まで長じて知った。確かその頃だったと思う、黄月が弟子入りした先は、間地の棟割りに住まう風変わりな男のもとだった。彼は名を斎木といった。針葉も何度か覗きに行ったことがある。塵だらけの薄暗くかび臭い部屋は忘れようにも忘れられるものではなく、十年経った今でも針葉は、彼が医者だというのを信じていない。
 前の長と彼は会うたび口汚く罵り合っていたが、彼らの会話から針葉は、前の長がいないとき、この家が宿として使われていたことを知ったのだった。誰があんな道を通るのだと尋ねたこともあったが、彼らはにやと笑って答えなかった。今なら容易に想像がつく。街道沿いの宿を求める者があれば、一方で人目につかない場所を求める者もいるのだ。
 だからだろう、この家は住むには妙なところが残っている。一つ一つの部屋が壁で区切られているのも、風呂があるのも、来たばかりの針葉には驚きだった。
 ばしゃばしゃと大雑把に顔を洗うと、針葉は湯から身を引き上げた。湯気が肌を追いかけてくる。目に付いたもののことを次々考えてしまうのはきっと、この後に待つものの恐怖から自分の頭を護ってやるためだった。
 体を拭って替えの衣に袖を通す。汗も汚れもすっきり落ちて気分が良かった。これで腹さえ空いていなければどれほど幸福だろう。
「……おしっ」
 両の頬をばちんと叩くと、針葉は腹を決めて歩き出した。風呂を焚いて湯浴みするだけの間に、そう量が作れるとは思えない。せいぜい褒めてやろう。腹を壊したら、そのときは……そのときだ。
 縁側を渡る風は涼やかで、火照った体をほどよく冷ましてくれた。
 卵の匂いは、黄月の部屋の向かいから流れてきていた。障子ごしに揺らぐ火が淡く漏れている。開けると、ちょうど暁が盆から膳に湯呑と皿を移したところだった。
「お上がり。ちゃんとできてるよ」
 針葉は頷く。膳の上に大皿一枚しか無いのは置いておいて、大皿の上に透き巻と出汁入りと思われる二種類の卵料理しか乗っていないのも置いておいて、匂いの面で異常はなかった。
 茶をひと口すすり、箸を横目に、出汁入りを一切れ摘まみ上げた。指で触れたところからぐにゃりと折れて皮の破れる、不恰好極まりない出来だったが、特におかしなところはない。
 口に運ぶときは、念のため暁に背を向けた。ふわりと歯を包む柔らかな弾力とほのかに焦げた香ばしい香り。出汁は妙にオビノモの味が強かったし、殻の混じっている気配もあったが、食べられないことはない。拍子抜けするほど普通だった。念のため透き巻にも手を伸ばすが、こちらも同じだ。薄く伸ばして巻かれた卵は噛むうちに解け、忍ばせた甘みが舌を通して体に染みていった。針葉は箸を取り食事を続けた。
 ふと顔を上げると、膳越しの真正面に暁の顔があった。二つの目が針葉を熟視している。針葉が神妙な顔をしていたら、鏡でも見ているかのように同じ顔をする。針葉は出汁入りの最後の一切れを取って声に出してやった。
「美味い」
 ぱっと暁の顔が明るくなった。
「上達したな、驚いた」
「今日はちゃんと味を見たんだ」
 透き巻を解こうと箸を遊ばせていた針葉は、その一言に手を止めた。得意げな口ぶりは、冗談でも何でもない思わず漏れた本音に聞こえた。
「この前は?」
「……大丈夫、次もちゃんと味見する」
 針葉は最後の透き巻を箸で挟んだ。質問と答えが食い違っている。膳の上にあったのは卵料理のみだった。卵が街じゅうに転がっている手軽なものかどうかは、一年以上小間物屋に出ていても、きっと知らなかったと言うのだろう。
 全ての違和にいちゃもんを付けることは可能だ。だがそれらは同時に、単なる変わり者、の一語に纏めることもできる。
 箸の先を口の中に放り込む。咀嚼途中に箸を置いて手を合わせた。
「ご馳走さん」
 暁も満足げに頷き、針葉が盆を取ったのを見て立ち上がった。
「私もお湯使わせてもらうね」
「暁」
 彼女は襖に手を掛けたところだった。針葉も膳を部屋の隅に寄せて立ち上がる。
「今日はどうする」
 暁は首を傾げる。今日、と唇だけで問い返す。訝しむ顔だった。食事は終えたし湯も沸いている、これ以上何を選ぶことがあったかと、自分の思考を何も疑っていない顔だった。
「来るか」
 数歩離れたところからでも、彼女が息を呑むのが分かった。



 暁は指先を見つめる。あれほど赤く色づいていたのに、今は爪が少しばかり染まっているだけだ。縁側に出てどれほど経っただろう。
 ちらと縁側の先を見る。左手に暗く沈んだ障子が並んでいる。繋がる部屋は五つ、一番手前が自分のもので、次は紅花、その次は空き部屋で、先程皿を運んだ場所だ。その次は紅砂。
 その隣の、一番奥に見える障子に視線を向けた。
 心が震えているのが分かった。足元がおぼつかない。
 ……いつかの紅花の言葉を思い出す。いつか、この目で見た情景を思い出す。桜を見た帰り道、この耳で聞いた彼の言葉を思い出す。
 大丈夫。
 衿の合わせに手をやる。その下には目では分からぬほどの細い古傷があった。右手を見る。いつか刃物を持ったこの手。牙との会話。どれほど罪深く業深く生きれば、人は裁かるるに値するのか。
 大丈夫。
 先へ進まねばならないのだ。
 暁は足を進めた。自分の部屋の前は足早に、その先はゆっくりと、奥の障子が近付いてくる。息が震える。胸が苦しくなる。
 障子の前に膝をついた。桟に手を掛ける。そこでまた体が止まってしまう。膝に置いた左手が汗で滲んでいた。裾で執拗に拭い、息を落ち着ける。そっと敷居を滑らせた。
 細く闇が開く。
「起きてる……?」
 小さく呼び掛けた。部屋の中には音も光もない。床に張り付いた塊が彼の寝姿であろうか。
 肩からほっと力が抜けた。眠っているのならそれでいい、また今度だ。自分は確かに今日、覚悟を決めてここに来たのだから。状況が許さなかっただけで、先へ進もうとしたのだから。息を吐いて障子を閉めようとした、そのときだった。
 黒い塊が蒲団を除けてむくりと起き上がった。
「……今起きた」
 暁は身が凍りつくのを感じた。口の中がからからに乾涸びたようだった。何を言うべきか分からず、膝に置いた手をぐっと握り締める。
「ごめん、寝てると思わなくて、その……」
 顔を上げられなかった。敷居を見つめる。どうしよう、どうやって切り抜けよう。頭の中が散らかって、何も考えられなかった。
「えっと、も……戻るね」
「来いよ」
 笑みを含んだ、しかし隙を与えぬ声だった。はっと暁の息が詰まる。続く彼の声はあくまでも穏やかだった。
「俺を起こすために来たわけじゃあるまい」
 暁はうつむいていた。ほんの一瞬前を思い返す。自分は確かに後悔していた。早く閉めていればよかった、自分の部屋へ帰ればよかった。彼が眠りこけていればよかった。――結局自分は逃げたかったのだと思い知った。
 顔を上げる。暗闇の中の彼と目が合った気がした。
 石臼をぶつけようとした自分はどこだ。飯がないと子供のように駄々をこねた彼はどこだ。軽口を叩き合っていた自分たちは、一体どこへ行ったのだ。
 両の指を膝の前につく。ゆっくりと額衝く。与えられた最後のひと時は、あまりに呆気ないものだった。
 暁は立ち上がり、彼のもとへ歩む。もし彼がもっと乱暴だったなら、迷いなく逃げ出せたのだろう。ふとそんなことを思った。

 暁が蒲団の端に膝をつくと、針葉は立ち上がって障子の方へ歩んだ。暁の背後で障子の閉まる音がした。退路が断たれたのだと、まだそんなことを考える自分を心の奥に封じ込める。
 すぐ後ろから気配がした。肩からすっと腕が回されて、暁は身を固くする。うなじを覆っていた髪が左右に分けられ、たぶん唇が、押し付けられるのを感じた。しばらくは髪や腕に撫でるような彼の指を感じるだけだった。それは少し、心地よかった。
 突然、手が衿の内に滑り込んだ。暁は弾かれたように、びくりと体をくの字に折り曲げた。胸を覆って守ろうにも、彼の手はそれより内側にあった。
「暁」
 耳元で声がする。
「今日、晒しは」
 そんなことを訊く前に手を離してほしい。暁は首を振る。どうしてこんな状況で話せると思っているのだ。
 しかし彼が指を止めることはなかった。暁は口を覆って息を殺す。やはり晒しを巻いてくればよかった。固結びにしてくればよかった。
「暁」
 今度は何だ。右肩ごしに彼を振り返る。彼はにやりと笑って衿から手を抜き、人差し指と親指を近付けてみせた。
「板っきれよりちぃっとましってとこか」
 殴ってやろうかと思った。
 彼の手はそのまま暁の頬に伸びた。顔を押さえられる。親指が閉じた唇に割り込む。
 顔が近付く。目を閉じる。
 酒臭さがないだけ、全てが生々しかった。音も匂いも、味も、唇の丸み、くすぐるような吐息、時にぞわりと背を走る寒気も。
 少しずつ彼に向き直る。体が離れて、また近付く。
 唇に一度。その次は首筋に落ちた。暁はくすぐったくて顔を背ける。彼の唇は鎖骨のくぼみを目指す。逃れようとして体を反らせ、傾いた上肢を、支えたのは彼の腕だった。もう一方の腕で用捨なく衿が開かれる。裸の胸が闇に晒されるのを、暁は見た。
 必死で顔を背けた。耐えられない。彼の手も、唇も、好きなように肌の上を動いていた。力の強さは時に痛みを与え、そのたび暁は顔をしかめた。
 目をつむっていても耳を塞いでいても、感覚だけは何より正直に肌をなぞって這い上ってきた。闇の中にありながら、行われている逐一が頭の中にまざまざしく流れ込んでくる。
 暁は片手で自分の口を覆い、片手で体を支えた。
 短い彼の髪が肌にむず痒い。広い掌が爪の先まで熱い。指が肌の先を弾く。
 がくりと腕の力が抜ける。慌てて肘をつく。
 針葉は暁の背に腕を回した。軽く支えたのち、そっと横たえる。
 自然、彼は伸し掛かる恰好になった。暁から見えるのは暗い天井と、黒い影だけだ。息苦しさの中でまた口を塞ぐ。今や上肢はほとんど晒され、衣が覆っているのは肘と臍から下だけだった。
 対する彼は、まだ肩まで衣を着ていた。それが立場を強調しているようで、暁はまた顔を背ける。
 ――目を見開く。
 彼の指が、帯に掛かっている。蝶結びの端を引いて解こうとしている。
 ぞっと全身が怖気立った。
「……や!」
 暁は咄嗟に針葉の手首を掴んだ。荒い息の音に合わせて胸が上下する。流れを遮られた針葉が、戸惑った声を上げた。
「何だ」
「な……何するの」
「俺が訊いてるんだ」
「どうして帯を解くの!」
 互いが言葉を畳みかけ、突如喧嘩でも始まったようだった。悲鳴じみた暁の声に面食らい、思わず針葉の言葉に苛立ちが混じる。
「じゃあお前は何しに来たんだ」
 まだ何か言おうとしていた暁は、その途端、喉が凍りついたように黙り込んだ。
 気を抜いたら歯が鳴りそうだった。浅いままの呼吸がまだ治まらない。黒い影の目がある辺りを彼女は、怯え混じりにじっと睨みつける。
 何をしに来た、だと。
 ――そんなこと、私が一番知りたい。
「……暁」
 針葉はやがて一つの仮定に行き着いた。息が触れるほど近くまで顔を寄せる。暁は気圧されたように顔を逸らしたが、針葉は彼女の頬に手を当てて引き戻した。闇の中で視線がかち合う。
「お前、新鉢か」
 これほど近ければ、互いの双眸の場所もよく分かる。暁はそれをじっと見つめた。困ったように目をしばたたかせながら、是も非も言わなかった。
 それで充分だった。針葉は体を起こす。答えなかったのは言葉の意味を知らなかったためだろうが、怯えた態度が何もかも語っていた。
 徴候はいくらでもあった。なのにはっきりそう思わなかったのは、と針葉は皮肉交じりに思う。これまでの自分の経験が大きいのだろう。
 さて、どうしたものか。
「暁」
 彼はもう一度彼女の名を呼んだ。手首を掴まれ、暁は肩を縮める。引き戻そうとしても、彼の指の力は緩む気配を見せない。
 次に彼が行った説明は、至極簡単なものだった。
 これを、ここに。
 ……腕を解放される。暁は魚のようにぱくぱくと口を動かした。言葉はない。喉はまだ凍ったまま、頭の中も、今までに学んだ言葉全てが吹き飛ばされて真っ白だった。
 正確に呑み込んだとは言い難かった。分かったのは、得体の知れない恐ろしいことが進みつつあるという、それだけだった。
「解くぞ。いいな」
 嫌だと言えば彼は手を止めるのだろうか?
 思う間にしゅると帯は解け、小さく笑う声がした。暁はわずかに身を起こす。
「安心した。お前なら褌締めかねねぇもんな」
 よくそんな悪ふざけじみたことを言えるものだ。唇を噛んで、耳の横に放り出した右手を見つめた。彼が掴んだ方の手だ。暁はゆっくりと眉を寄せ、彼の言葉を思い返すまいとする。あれは出まかせだ。でなければ、どうしてそんな――おぞましいことが。
 晒しのときとは違い、針葉は湯文字の解き方を尋ねなかった。慣れた手つきだった。丁寧な指だった。
 次に彼が掌を置いたのは膝だった。太腿を通って付け根の近くまで撫で上げる。ぞぞと背筋を蛇が這い回るような寒気が暁を襲った。爪先まで粟立つようだった。
「暁。脚開いて」
 ぶんぶんと首を振った。髪が汗ばんだ額に張り付いた。
 いい、もういい、もう分かった。もう充分だ。
 もう、それ以上は、どうか。
「怖いか」
 ぴたりと動きを止めた暁が、畏怖の表情で針葉を見据えた。火達磨に向かって熱いかと問う、雪降り積む荒屋に向かって寒いかと問う、そんな馬鹿馬鹿しさと恐ろしさ。
「怖くても我慢しろ。するこたしとかねぇと、ずっと痛む。らしいぞ」
 彼の手は半ば強引に膝を割った。ひ、と暁の喉から息が漏れる。歯が鳴る。脚が震える。
 両手で顔を覆う。彼の目は防げないから、せめて自分を塞ぐしかなかった。
 不規則に息が揺れる。
 膝を合わせることはできなかった。彼の手がそれを許さなかった。
 死んだ方がましだとさえ思った。
 ……突然、彼の動きを見失った。小さな衣擦れの音に、暁はそっと手をずらす。
 彼は、今度は自分の帯を解きにかかっていた。見てはいけないものを見た気がして、慌てて壁に視線を移した。気が遠くなる。平らかなはずの壁が、ぶよぶよと蠢いて見える。本当にするつもりなのだ。今から、本当に、言ったとおりのことを。
 彼の肩の輪郭の向こうに障子が見えた。墨をぶちまけたような視界の中、そこだけ仄白い。救いはそちらから来る気がした。
 視界を遮ったのは彼の腕だった。障子との対比で真黒く染まって見える。彼女の両肩のすぐ外に置かれた、それはさながら檻だった。
 光を削り取ったかのような荒々しい輪郭に、しばし見とれた。息はか細く震えていたし、胸は破裂しそうだった。それでも心のどこかですんなりと理解した。
 檻だ。
 自分がいるのは坡城ではない。家でもなく、彼の部屋ですらない。与えられたのは薄っぺらい蒲団の上の、この狭い腕の間だけだ。
 救いは無い。
 誰も来ない。
 この流れを遮る者は、誰も現れない。
 開いた脚の間に、誰かがいる。顔は見えない。あるのは闇ばかりだ。
 誰かの顔が近付いて、軽く口づけた。何か囁いたようだった。聞き取れず、わずかに眉を寄せて聞き返そうとした。それと同時だった。
 脚の付け根に、何かが宛がわれるのを、感じた。
 ちょうど暁が浅く息を吸ったところだった。呼吸が止まる。
「力、抜いて」
 静かな声だった。
 もし彼がもっと乱暴だったなら、迷いなく逃げ出せたのだろう。何をしてでも、どんな手を使ってでも。
 ……ふとそんなことを思った。



 針葉が体を離した。暁はゆっくりと爪先を下ろす。
 息の乱れる音。肌に汗が浮いていた。うっすらと浮かぶ天井が、呼吸のたびにぶれて見えた。天井板など、立ち上がって手を伸ばしても彼女には届きやしないくせに、時折、鼻先にあるように感じられた。頭が馬鹿になっているのかもしれなかった。
 針葉が戻ってくる。拭われたそこは、まだ痺れたように熱かった。
「平気か」
 暁は答えずに、彼のいない方へ膝を倒して起き上がった。衣を取って肩に掛ける。一つ一つの動きがひどく緩慢で気怠げだった。よたよたと立ち上がり、障子へ向かって歩む。
「体……流してくる」
 声を出すことすら物憂げで、行き先を問われるのが面倒だから先に告げたという様子だった。
「やってやろうか」
 針葉の言葉にも、彼女は後姿で首を振っただけだった。
 障子が開いて閉まる。針葉は突如として襲ってきた眠気に耐えながら、闇の中に彼女の姿が戻ってくるのを待った。

 暁はぼうっとした頭で縁側を進んだ。体が重い。足を踏み出すことさえ億劫だ。まどろみそうな体の中で、鈍い痛みだけが確かだった。
 縁側を下りる。先程運んだ下駄もあったが、暁は素足で土を踏んだ。井戸の傍には水の入った桶と盥が残っていた。全て盥に移して、震える腕で抱え上げ、頭から水を被る。
 水は既に温んでいた。足元に小さく水溜まりができる。暁は伏し目がちに目の前のものを眺める。何も頭に入らなかった。流れる滴とともに、全身から力が抜けていく。
 盥が指から離れて小さな音を立てた。
 目をつむって静かに開ける。
 衣を一度肘まで落として、衿を合わせた。部屋に戻ったらすぐに衣を替えよう。
 何があったかよく思い出せない。思い出さなくてもいい気がした。瞼の重さに負け、力なく目を閉じた。
 ――目を開けた。
 腿の内側をゆっくりと伝うものがあった。
 裾に手を差し入れてそっと拭う。恐る恐る目を落とす。
 ぞっと総毛立った。吐き気が込み上げた。
 その場にくずおれて咳き込む。目の前が滲む。喉の奥につんと酸っぱい味が広がった。それでも吐き出すことはできず、開いたままの唇から長く涎が垂れて、水溜まりに混ざった。
 肩を上下させて深く息をする。忘れてなどいない。忘れてなるものか。
 ようやく先へ進んだ。ようやく知った。あのおぞましい出来事。忌まわしい記憶。大きな手。胸の傷。冷たい刃。肉の裂ける感覚。骨の砕ける感覚。
「大丈夫……」
 大丈夫。大丈夫。震える唇で呟く。言い聞かせる相手は彼女自身だ。
 あの先に待っていたのは悪夢でしかなかった。醜悪極まりない果ての姿が、そこにあった。だから――
「大丈夫……」
 私は彼を憎んで良かったのだ。
 殺して……良かったのだ。