さんざめく人の声、姿、色の数々。目に耳に鼻に何もかもが雪崩のごと押し寄せて、暁は目をぐっと閉じた。知らず息も殺していたらしく、耳まで閉じたように全てが一瞬遠くなった。
 目を開くと、すぐそこに織楽の顔があって、思わず身を竦めた。平気かと問う声には、曖昧な笑みとともに頷きを返す。
 彼の顔はすぐに離れた。暁は改めて辺りを見渡す。
 季春座一階の大広間、去年役者たちが寄り合いを開いていた部屋。襖が開け放たれて広々と繋がった畳の上に、所狭しと腰を下ろすのは、もちろん役者たちだった。ほとんどが昨年の騒動のときと同じ顔ぶれのようだ。
 廊下との境目には草履が何足も脱ぎ捨てられている。奥の棚には桶や薬缶、急須がいくつも置かれている。鏡台の上、もしくは畳の上じかに、様々の方向を向けて置かれた鏡がくまなく部屋を照らし、一人がその前で化粧をしているかと思えば、その後ろからもう一人が覗き込み髪を整えている。
 左手前には板を固定しただけの簡素な台が見えた。上には煙管や飾り物がごちゃごちゃと積まれ、下は下で竹が渡され、これでもかと手拭いや伊達巻が掛けられていた。どこか憐れみを誘う姿だ。
 右奥には刀や笠、傘が立て掛けられていた。
 そして畳そのものは、見えないも同然だった。紙が散らばり、着物が散らばり、人が散らかっている。
「稽古まで間ぁあるし、適当に回ってええよ。見慣れん顔があったらあんまり近付かんとき、俺の組の奴らはお前らのこと知らんから。妙なことせんかったらばれへん思うけど、もし何か言われたら俺か本川の名ぁでも出しとき」
 言い終えた織楽はひらと手を振り、廊下へ出て行ってしまった。
 紅花は素早かった。人の群れの中からすぐさま知った顔を見付け出し、目を輝かせて近寄る。紅砂がそれを追い、暁も所在なく後に続く。
 部外者が話しかけて大丈夫か、という暁の危惧は立ちどころに消えた。化粧途中だった少女は、親しげに声を掛けた紅花に、十年来の友のように満面の笑みを返した。彼女は傍に腰かけた紅砂にも、再会を喜ぶ言葉を掛けたようだった。紅砂がどう答えたかは、数歩手前で立ち止まった暁には分からない。
 間もなく周りの役者も二人に気付いて、手を振ったり衣装を見せたり風鈴を鳴らしたり、悪乗りして三味片手に猫の鳴きまねをする者まで現れて、部屋は一気に賑わいを増した。紅花は一つ一つに笑い、喜び、手を叩き、新鮮な表情を惜しみなく見せていた。
 好ましい情景だった。
 芝居好きと、役者たち。すっと無理なくしみ込む。静かに納得する。暁の目に映るものはどれも、とても鮮やかで軽やかだった。
 不意に袖を引かれた。すぐ脇に胡坐をかいていた、紅花より少し若いくらいの少女だった。しっかりした眉が少年のようだ。円いやんちゃな瞳がきゅっと細くなる。
 そこに座りなよと、そう言われたように思った。彼女の指が、わずかに見える畳を差していたからだ。そうだ、暁は単純なことを思い出す。自分も風鈴女の騒動のときにはここにいたのだ。紅花と同じく顔を覚えられているはずなのだ。紅花ほど熱を上げてはいないものの、自分も芝居が好きだ。そして今そこにいる彼女は役者なのだ。
 あちらと同じだ。
 わずかな隙間に膝をつく。少女は、正座なんて、という顔で口を大きく開けて笑った。きっと何か言葉を成していたのだろう。片っ苦しいなあとか、もっとくつろぎなよとか。暁はにわかに唇を結ぶ。
 彼女は期待に満ちた顔で暁に顔を寄せた。暁の目の前で口を開く。
 駄目だ。今は駄目だ、あまりに粘り気の強いざわめきが体を覆っている。雑音が、近すぎる。
 彼女の唇が動く。
 一旦唇の向こうに歯が見えると、それは滑らかに動き、途切れることを知らなかった。楽しそうな表情だ。頬の肉が上がり、目が細まり、眉が垂れる。だが彼女は、何を言っているのだ?
 言葉の端々は流れ込んでくる。彼女のものらしき声と、あちこちから飛んでくる会話の切れ端と、大丈夫、耳は働いている。なのにちっとも像を結ばない。
 ……彼女の顔に不審なものが混ざる。笑顔が少しだけ歪む。しかしさすがは役者だった、そういった変化はごくさりげなく、彼女はすぐに笑顔を取り戻した。最後ににこりと笑って暁から視線を外し、鏡で自分の髪の具合を確かめる。幕が下りたのだ。
 くしけずる横顔に向かって少し笑み、暁は立ち上がった。物で溢れかえる畳の上を一歩一歩進んで、敷居に辿り着いたところで足を止める。
 右足に板がつるり冷たい。左足をささくれた藺草がちくりと刺す。
 目の前の景色は好き勝手動いている。一瞬たりとも止まらず、ごちゃり、ぐちゃり、目が回りそうだ。好き放題な音と、色と、一度に頭に詰め込むには多すぎる。
 いつしか額を天に向けていた。この広い部屋で、混沌に覆われていないのは天井くらいのものだった。
 暁はふっと目を伏せ、数歩先の階段を上った。

 襖を開ける。一年ぶりに入る部屋は、隣との仕切りが開け放たれて広々としていた。床には以前と同じく物が散らばっているのだが、下階を見た後ではすっきりしすぎて気持ち悪いくらいだった。
「なんや、こっち来たん」
 彼が振り返らずに言ってのけたのは、鏡で暁を見たからだろう。だらりと伸びた髪が、今はきっちりと結い上げられていた。暁はそろりと襖を閉める。
「お邪魔します」
 織楽は剃刀を拭ったのち、傍らの小さな盥から布の袋を取り出して絞り、その汁を顔から首筋まで丁寧に伸ばした。それが化粧の支度のように見えて、暁は首を傾げた。
「織楽は組が違うんじゃなかったの」
「祭りんときのあの芝居、兄弟が花役やいうんは知っとるやろ。三年前かな、俺も弟演ってんや。手本や手本」
「弟。じゃあもしかして兄役は」
 隣室を指した暁を織楽が笑う。
「その頃から本川は上の組やったわ。その時の兄役は武野いう奴やってんけどな、もう止めてもうたし今日は片桐が演ってくれる。片桐は知ってるか、立ち回りが巧ぁて図体でかいから、結局悪形に回されてばっかりやねんけど」
 言いながら鏡台の抽斗を開け、筆や飾り、四角い紙包み、朱の紅入れなどを次から次へ取り出す。物珍しさから顔を寄せた暁は、あ、と呟いた。
「織楽、間違えてる。弟の手本を見せるんなら飾りも紅入れも要らないよ」
「あー、いつもの癖やな。暁」
 さっと、彼の手が暁の右頬に触れた。顎を固定されて動けなくなる。暁は目を見開く。
 産毛に触れるか触れないかの距離でも、きっと動けなくなったに違いない。息が止まる。触れられたところに肌の感覚が集まっていく。爪先も指先もどこかへ消えて、残るは掌の熱さだけだ。
 覗き込む彼の目は真剣だった。紅をすくった薬指の腹が唇を優しく撫でていく。命を得たように、右から左へゆっくりと、何も無いところから形を現す唇。
 次に彼は暁に、目を閉じるよう促した。
 竦むように瞑目して強ばった頬を、とんとんと指で二度叩いたのは、きっと彼の指だった。少しずつ力を抜く。瞼や眉の上をそっと滑ったのは筆だろうか。
 触れるものが無くなってからも、彼の気配をすぐ傍に感じた。抽斗を探る音。腕がすっと回されて、髪を整えているのが分かる。
 暁は薄目を開けた。彼の着物の柄や、転がった筆、畳に落ちた影、そんなものばかりを繰り返し見ていた。
 早く終わってほしかった。まともに前を見られない。まともに息ができない。
 肌を突き破って、今にも血が噴き出しそうだ。
 このまま死んでしまいそうだ。
「手ぇ入れたら変わんなあ」
 ……いつの間にか、彼の手は動きを止めていた。満足げな顔に目を奪われる。そろりと頭の後ろに手をやると、中指の爪が硬質のものを弾いて、重みの揺れる感覚があった。
「これの色違い」
 織楽が差し出したのは、紺の蜻蛉玉のついた小さな簪だった。透かしの入った細長い銀色の薄片が二枚、先から垂れて涼しげに揺れている。
「よう似合ってんで」
 必要以上に瞬いて、暁は簪に目を落とす。発せられる言葉が頭の中に見当たらず、思いついた情景に必死で話題を飛ばした。
「さっきの、港の、裏路地を思い出す。こんなのがそこかしこに吊り下げられてて、本当に綺麗だった。……あ、流行りはまず港から始まるって紅砂が言ってた、紅花の小間物屋でも飾ってみたらどうだろう、ああやって網に入れて」
「そんでお前と紅花は逃げとくんか。客来ても迎えんのはあのおっちゃんだけ、そら傑作やな」
「逃げる?」
 自分から話を逸らしたくせに、あっさりと話題が変わってしまって拍子抜けしたのも事実だった。
 織楽は簪の、蜻蛉玉の付いた部分だけをつまんだ。
「蜻蛉玉はただの見立てや。ほんまにあっこに下がるべきなんはな、魚の目ん玉」
 魚、と暁が呟くと、彼は皮肉っぽく笑って簪を畳に戻した。ぽいと放り出すようなぞんざいな手付きだった。続けて抽斗から平たく丸い入れ物を取り出し、中にあった焦茶色の塊を筆でさっと撫でる。鏡で眉の形を確かめながら、彼は話を続けた。
「港通りの赤い漆喰は見たな。あれはまだましな方や。座敷までに下積みせなあかんから、そこらの客よりかずっと礼儀も頭も持っとるし、三味や舞いの腕も持っとる。客は誘う手順も覚えなあかん。港番もあん中の騒動には敏感で、店に肩入れした立場や。言うたら高嶺の花やな」
 それは赤い壁の内側にいる女が、ということなのだろう。暁は、港通りで見たきらびやかな女を思い出す。
「表向き、遊び場はあの壁ん中にしか無いことになってる。けどそんなわけないわな。下積みの間は客が取れへん、けど服は着るし飯も食う。銭がかかる。よっぽど見込み無かったら養わんわ。その価値のない女もおる。ぱっとせんかったり、ひどい田舎から売られてきたりな。年増になって追い出されるのんやっておる。そういう奴らがおるんが、ああいう小道の店や」
 暁は、口の中に溜まっていた唾をごくりと飲み込む。自分は今、遠いどこかの話を聞いているのだろうか。それともこれは、遥か遠い昔の話なのか。
 織楽の手は止まらず、鏡の中の顔をどんどん作り上げていく。彼の口調は芝居の一節でも語るように軽く滑らかで、思わず耳からこぼれ落ちそうだった。とても悲惨な話を聞いているはずなのに。
「きちんとした店とちゃうから決まりごとも無い。やっと二桁になったばっかりの子供が出てきたり、皺くちゃやったり、……客さえ取れるんなら女とは限らんわな。で、港ことばで女を買うのは陸揚げやろ。大っぴらにはできんから、港番には金握らせて、客相手にはああやって魚の目ん玉に似た蜻蛉玉下げとくねん」
 織楽が口を閉じる。暁は鏡の中の彼を見る。いつも舞台で見るのとは違う、凛々しい男顔だ。鏡ごしに目が合っていると気付くまでしばらくかかった。
「詳しいね」
 暁は織楽に合わせて日和の話でもするように言った。晴れているね、雨だね、暑いね寒いね。随分詳しいね、あの奇怪な域について。
「頭のおかしい医者が、まぁ知り合いでな。港を庭かなんかや思っとる」
 頭がおかしいというのが女狂いの喩えか、本当に気狂いなのか、問題はそこだ。どちらにしても自分は黄月で充分だと暁は思う。
 織楽が立ち上がって手を差し伸べた。刻限なのだろう。女のもののような美しい指先を見つめ、暁はそろりと自分の指を重ねた。



 あれほど散らかっていた畳の広間も今は片付き、役者も四辺に正座で並んで、全ては乱れなく整えられていた。暁はてっきり、彼らも長々と化粧をし衣装を合わせていたのだと思ったが、既に稽古は終わった後らしい。きらびやかな衣装や道具はどこかへ消え、熱気の跡が残るばかりだ。
 数人ごとに灯りが置かれ、部屋は存外明るい。上手側の手前には座長の姿もある。舞台奥並ぶ役者の前に座を揃えている者たちは一様に齢が高く、手に三味や笛を持っていた。
 四角く囲まれた中には役の経験者らしき者が数人おり、その中の一人は大柄で厳めしい顔つきをしていて、なるほど彼が片桐だろうと思わせる。
 下手側手前の襖のところにいた役者が身をずらして織楽のために道を作った。塞がる前に暁も膝を滑り込ませ、一歩下がったところに腰を下ろした。
 何の道具もない畳の舞台で、役者たちには全てが見えているようだった。さっと立ち位置を合わせた後はしんと静まり返る。
 ぱん、座長が一度掌を打った。
 笛の音が響いた。最初は一つの音色、ほどなくもう一つ。高く低く、たなびく雲のごと途切れぬ音は、否応なしに見る者の心を掻き立てた。三味の音がとん、てん、と混じる。
 絡まる音が盛り上がりを見せたところで、役者が動き始めた。
 暁がこの芝居をきちんと見るのは初めてだった。舞台はツクモなる架空の地。中心となるのは、蛇に喩えられる西国の冷徹な暴君に父を殺された兄弟と、その絆だ。兄は厳しい道に真正面から挑みかかる勇悍ようかんで一本気な者として、弟は長い道のりを着実にこなしていく忍び強い者として描かれていた。
 季春座の芝居は演目ごとに書き下ろすのだと聞いたことがあったが、これは例外らしく、台詞の端々から古典であることが窺えた。昨年ちらりと覗いたのは最後の場面だったらしい。「ヒクラビ懐かし彼岸の彼方、オトゴ懐かし此岸の彼方」祭りのときに針葉が言っていた台詞だった。運命に翻弄された兄弟が、意趣討ちという同じ目的のため、涙ながらに道を分けて旅立つところで芝居は終わった。
 終わってみれば短い話だった。祭りの中で行き交う人々を引き付けるには、このくらいが丁度いいのだろう。骨太な筋の運びと、兄弟に襲いかかる激流の運命、負けぬ二人の強さは、まるで一昼夜続く芝居を見たような感慨を与えた。
 笛と三味の音が止んだ後には、座長が手を打っただけだった。一切の拍手は無い。舞台正面にあたる一番良い席に、今にも両手を打ち鳴らそうとしたまま呆気に取られている紅花の姿があった。
「よし」
 短い言葉だけを残して彼は、昨年より眉間の皺の増した気難しい顔のまま出て行った。相変わらず寡黙で通しているらしい。演じ終えた役者たちが手を鳴らすまで、場は止まったままだった。
「終わり終わり。お疲れさん」
 そう言う織楽の額にも首にも汗が光っている。彼は肌を拭い、共に畳の舞台にいた役者たちと笑みを交わした。同じ世界を作った者だからこその絆が感じられて、暁には眩しかった。
 そのときだった。もう一度ばちんと、大きな音が聞こえた。耳を引っぱたく豪快な音はまるで鞭のようで、手を打ち鳴らしたのだとすぐには気付かなかった。
 片桐という男だった。彼はにっと笑うと廊下へ出ていく。程なくして戻ってきたとき、後ろには大型の半切りを抱えた数人を従えていた。畳の上が次々に飯で埋まっていく。わっと役者たちから歓声が上がった。
 下の組の役者が祭りで古典劇を演ずるのが慣習なら、以前演じたことのある者が手本を見せるのも慣習らしい。そしてその後、銭の無い下の組の役者に上の組の者が椀飯おうばん振る舞いをするのも、また慣習なのだろう。
「景気づけだよ、皆遠慮なく食って呑みな」
 暴君に親を殺されたと嘆いていたはずの女も、今は歯を見せて笑い、徳利を持てるだけ高く掲げて、人が変わったように楽しげだった。
 あっという間に場が整えられ、畳の上にいくつか半切りを囲んだ人の輪ができる。暁が膝立てて辺りを見回すと、紅花は右奥の塊に混ざっていた。その近くにいる頭半分丈高の男は、どう見ても紅砂だ。
 あちらへ行こうか迷う。自分のいる輪には見知った顔もいくつかあるが、――先程の彼女を思い出した。少年のような悪戯っぽい笑みの彼女。限りなく思いやりに満ちた、最後のあの表情が、心に焼き付いて離れなかった。
 行こうか、ここにいようか、それともいっそ帰ろうか。
「座った座った」
 ぽんと背中を叩く手があった。織楽だ。そのまま右に腰を下ろした彼は、まだ弟役の衣装を纏っていた。
 ひと息遅れて暁も座る。織楽に注がれた視線は、隣の彼女をもちらちらと掠めていくようで、目立たぬよう精一杯肩を縮めた。順繰りに回ってきた徳利が織楽に渡り、彼は手を傾けて猪口を満たす。
「早瀬、お前きちんと見とったんか。えっらい眠そうな顔しゃぁがって、舟漕いどったん分かったぞ」
「ええっ。いや誤解ですよ、やだなあ」
「それから双葉、お前がそない片桐のこと好きゃったなんて知らんかったわ。お前が演るんはお千ちゃうかったか」
「ごっ……ごめんなさい」
 彼は猪口をそっと置き、徳利を暁に渡した。暁は形ばかり注いですぐ隣の青年に渡す。自分まで叱られている気分だった。織楽は言葉を続ける。
「ま、息抜きの場で何言うても退屈やろけどな、どんな手使てもええもん作れ、言いたいことはそんだけや。俺らの芝居を真似ろとも目指せとも思っとらん。そやろ、前と全く同じもん見に来るお客がどんだけおる。盗んで、削ぎ落として、より良うしていくんがお前らの役目や。……任せた」
 暁はふっと右を向いた。彼は猪口を持った手を上げて、ぐいとひと息に飲み乾すところだった。
 それを皮切りに、他の役者たちも次々と口をつける。既に彼らの顔からは不満の色が消えていた。今の彼らが纏うは誇りと意気込みだ。
 半切りの中は魚のものが多かった。四方から次々と指や箸が伸び、ぎっちり詰まっていた料理はたちまち隙間だらけになった。
 空気がほぐれて雑談が始まる。他の塊にひと足遅れて、暁のいる輪も鮮やかな彩りを得たようだった。
 芝居談義から織楽と同組の役者の噂、裏通りで見付けた掘り出し物から安くて美味い魚料理の作り方まで、話の広がりは留まるところを知らなかった。時には暁に混ざれる話題もあって、話の流れを切らぬよう気を付けながら、ふた言み言参加する。
 あるときは、向かいの少女が反応を見せた。またあるときは、三つ右隣の少年が身を乗り出して続きをせがんだ。
 体が熱を帯びるのが分かった。
 猪口の酒は、注いだときと同じ嵩が残っている。それでも頬に当てた手の甲は、燃え盛るような熱を感じた。
 自分は今、視界の中と同じところにいる。
 右寄りの向かいにいる青年がとぼけたことを言って、笑いの渦が起きる。暁も目を細める。口を覆う。体を折り曲げる。
 二つ左隣の女がひどい紛いものの品をつかまされた話を始める。眉を寄せ、心を込めた表情で頷きを返す。
 姿の見えない空気のようなもの、人々が絶えず吸い、吐き出して、刻々と形を変える吐息の塊のようなもの。その中に溶けていくように感じた。
 しばらくして話の途切れる瞬間があった。汗ばんだ額に張り付いた前髪を、暁は左で分ける。
 左隣の青年が暁に耳打ちしたのはそのときだった。
「君、名前は」
 数度瞬いたのち、暁です、と短く返す。しかし彼は実際、そんなものに関心など抱いていない様子だった。
「そう。それで君は何、若いけど織楽さんと同じ組の役者なの」
 驚いて彼を見つめる。君などという気取った口調も似合う、優顔の青年である。歳は暁より少し上か。言葉のたびに眉が上がるのが癖らしい。目や肌の色が薄く、壬か東雲の血が入っているのだと思わせる。彼はあの風鈴女の騒動の後に一座入りしたのだろうか。
「違います。私はただ織楽と同じ」
 家に、と言いかけて口を噤んだ。これでは誤解を招きかねない。彼はちょっと首を傾げ、また暁に口を寄せた。
「もしかして織楽さんのいい人ってやつ」
 暁は目を見開いた。一体この男は何を言い出すのか。浅く息を吸うのと、後ろから肩を抱き寄せられるのは同時だった。織楽が暁の右肩に顎を乗せる。
「諏訪やったっけ、話すん初めてやなぁ。何、俺らそんな仲良う見える」
 三人のいる輪だけ話し声が無くなる。彼は明らかにたじろいでいた。目を逸らして、はぁ、とよく分からない返事をする。
「見えるねんて、どうする暁ぃ。……ま、詮索好きも程々にしときや。入って早々やろ」
 そこには突き放すような響きが含まれていた。優顔の彼は忙しなく瞬き、早口で小さく謝罪したきり口を閉じた。かと思うと、席を立ってどこかへ行ってしまった。あの調子ではもう戻ってこないだろう。暁は残された猪口に目を落とす。
「……良かったの。私なら大丈夫だったのに」
「ええ。暁が役者ちゃう言うた時点で、お前に阿呆な口きいたあかんのや」
 そういえば、と思い出す。昨年の騒動のときも、本川が役者の口のきき方を戒めていた。暁には分からねど、客と役者の間には明確な線引きがあるのだろう。
「じゃあ織楽が、風鈴女を見付けろなんて言い出したのはいいの」
「俺は、紅花が本川の女かなんて訊かんかったやろ」
 織楽は澄まし顔だ。暁は小さく笑う。そんなことを言われたら、紅花は却って喜んだのではないだろうか。
 固唾を呑んで事の成り行きを見守っていた役者たちも、今は各々の話に戻っていた。織楽は半切りから白身魚の締めものを一つつまんだ。もぐもぐと口を動かしつつ、暁の箸を指し示す。
「それよりお前、ちゃんと食うてるか。しっかり腹膨らましときや」
「あ……うん。なんだか申し訳ない、食事まで御馳走になってしまって」
「来て当たりやったやろ」
 猪口に映る自分と目が合った。
「本当に。誘ってくれてありがとう」
 織楽が満足げに笑ったので、暁は彼のいない方へ顔を向けた。そのまま視線を巡らせる。
「織楽はいいの、あの人のところに行かなくて。待ってるんじゃないの」
「ええねんて、気にせんとき」
 暁はもう一度猪口に目を落とす。忘れているわけではないと、分かっていた。暁が口に出したところで、「そうだった」と突然去るはずもない。「教えてくれて有難う」などと、まさか。
 分かっていて言った。
 畳の縁に目を移す。飛んだ醤油、酒のこぼれた跡。半切りに箸を伸ばす。何も考えなくていい。自分に向けて何をさらけ出すこともない。今の言葉だけ反芻していよう。
 今の言葉だけ。
「暁、楽しんでるか」
 それは何の前触れもなく暁の右耳に飛び込んだ。唐突な言葉だと思った。どきりとして織楽を向き、数度瞬く。
「うん、もちろん。……どうして」
「いや、そんならええ。ほら、箸付けたんやったら早よ食いて」
 織楽が相好を崩す。それを見て暁もほっと顔の力を緩めた。二人の周りでは雑談が続いており、誰もこちらの話など気にしていない様子だった。既に皆の箸は止まり、酒の匂いと何十もの声が飛び交い重なるばかりだ。
 咀嚼、嚥下。水気の無くなった魚の身は口に貼り付くようで、暁はようやく喉の渇きを感じて猪口に手を伸ばした。
 暁を見つめ返す顔が、吐息で崩れて見えなくなった。
「……ごめんな」
 その言葉はやはり右の耳に届いた。何を言われたか分からず、そちらの頬に、小さく粟立つような気持ち悪さを覚える。
 顔を上げる。織楽は困ったような笑みを零していた。優しい顔だった。
「え?」
 暁は明るく笑みを返す。謝られることなど何も無かったはずだ。
 織楽は笑っている。慰めの表情だ。
 ――恐ろしい。
 それはあの役者と同じ顔だった。限りなく温かい、慈悲に満ちた顔だった。
「ごめんな、気ぃ遣わして」
 ……彼は何を言うのだろう。
 細めていた目が元に戻る。引き上げた頬の肉が弛緩して、視界が広くなる。口角だけが、不自然に引き上げた形のまま残った。
 さっと全身が冷めていく。
 暁があの少女のことを口にしたからではない。ましてやあの優顔の青年に声を掛けられたせいでもない。
 それは驚くほどすんなりと頭の中に入ってきた。
 彼が指したのはきっと、暁の行動全てだ。
 ……全身から力が抜けていく。表情を取り繕うことすら能わなかった。視界がぐらつく。立ち上がれたのが不思議なくらいだ。
「涼んでくる」
 言葉を返す間さえ与えず、暁は襖を開けて廊下へ出た。無駄な動きは一切しなかった。下駄を取って裏戸へ向かう。鍵は開いていた。戸を引く。
「きゃっ」
 戸のすぐ外には提灯を下げた少女がいた。もう一つの手で、徳利を二本胸に抱えている。
「あ……お帰りですか。外はもう暗いですよ。坂道は危ないし、誰かに送らせましょうか」
 暁は彼女をじっと見つめた。歳は暁と同じくらいだろう。伸ばした黒髪を首の下で纏めている。大きな円い目をした、可愛らしい少女だった。笑顔のとても似合う、優しげな眼差しの少女だった。
 暁は簪を引き抜いた。差し出すと、彼女は提灯を徳利の手に器用に持ち替えて受け取った。
「織楽に伝えてください、暁は帰ると」
「はぁ」
 戸惑った顔の彼女を押し退けて、暁は鼻緒に爪先を通す。
「それから、織楽を叱っておいてください。日も落ちたのに、大事な人を一人で買い出しに行かせるなんて信じられない」
 彼女は不思議そうな顔をしていた。暁は戸を引いて、彼女と自分とを分かつ。
 暗がりに沈む質素な戸を見つめていたのは、ほんのわずかな間だった。暁は目をつむり、振り切って歩き出した。

 暗い道など怖くなかった。烏に怯えることもない。何故かは知らない、それでも分かっていた。何度も自分の行動を思い返して見付けた法則だ。烏は決して今、家路についた暁を攫わない。
 商家の並ぶ大通りは、今は静まり返っている。風のない夜だ。長屋が多いぶん裏通りのほうが明るいくらいだ。
 浅い息を繰り返す。唾を飲み込む。
 胸が潰れそうだった。
 織楽は優しい。先程の言葉も思いやりから出たものだ。分かっている。
 それでも、彼の言葉は鋭く暁の慢心をえぐった。
 ――勘違いするな。
 お前は決して場に馴染めない。
 お前は決して視界の中に入れない。
 あちら側へは、決して行けないのだ。
 無理して笑うな。顔を作るな。話を合わせるな。全て無駄だ。全て筒抜けだ。滑稽なだけだ。
 馴染んだつもりでいるのはお前だけだ。
 思い上がるな。
 ――織楽が暁の傍にいたのはそのためだ。彼は全て見抜いていた。人一倍察しの良い彼は、優しい彼は、想い人を差し置いてまで暁に寄り添ってくれた。慈悲を垂れる、ただそれだけのために。
 暗い空を見上げる。心の中の醜いものを押し殺して、顔が歪んだ。
 織楽は馬鹿だ。気を遣っていたのは一体どっちだ。
 ……去り際にすれ違った彼女を思い出す。風に揺れる花のごと、可憐な少女だった。最初に見たのは昨年の騒動のときだ。いきり立つ紅花をなだめている姿で、あのときから彼女は彼の近くにいた。暁が知った、あのときから既に。
「果枝……さん」
 名前は確か、そう言った。
 織楽の隣に並んだら、さぞかし似合うことだろう。
 坂道に差し掛かる。もはや見上げても空すら見えなかった。灯りのない家へ向かう、彼女は一人だった。