針葉は障子の敷居を滑るかすかな音で目を覚ました。
 目を覆って体を起こす。障子の向こうは青みがかり、まだ明け初めし朝の色だ。
 音の主がこちらに気付かず去ってしまいそうだったので、眠気の残る声で呼び掛けた。
「暁」
 彼女は振り返り、はっと目を逸らした。
「ごめん、起こした」
 そう言うなり黙りこくる。彼女はこちらに横顔しか見せず、目を合わそうともしなかった。早く逃げ出したいが、あまりにあからさまなので動きかねている、そんな様子だった。
 軽口の一つでも叩いて笑い飛ばしたいところだったが、暁の緊張は風のように流れ来て肌を伝い、妙に気まずくなる。
「ああ、いや……。参ったな、夕べのは」
 暁の頬がぱっと紅潮した。とうとう後頭部しか見えなくなる。鳥の声が遠く間延びして聞こえる。
「……戻るね。持ち越しがきつくて、その」
 唾を飲み込む間があった。
「昨日は……呑み過ぎたみたいだから」
 言い終えるなり障子が閉まって、暁の影は右手に流れ去った。針葉は蒲団に目を落として、昨晩の闖入者にどう借りを返したものか考えていた。
 あの様子では、暁は当分こちらに寄りつきそうもない。



 黄月が彼女の部屋に来るのは、行動の逐一についての文句を並べるためか、字や文や様式の間違いを嫌味たらしく正すためか、とにかく声にも顔にも愛想の欠片もないのが常だった。
 今回もそうだと思ったから、襖の音がしても暁は黙々と筆を動かし続けた。
 彼がすぐ斜め後ろに立つのが分かった。暁は墨を含ませた筆を紙の上に運ぼうとしたが、穂先が膨らみすぎている気がして硯に戻した。入念に穂を扱いていざと構えれば、今度は落潮の形が残るくらい墨が少なすぎる。扱いては含ませ、また扱き、紙の上の字は先程から一つも増えていなかった。
 どさりと足元に何かが置かれた音がした。業を煮やしたか、それがてっとり早い。ここのところ喧嘩は少なかったが、それもそのはず、このように会話そのものを避けていたのだから。
 ちらりと横を見やると、そこにあったのはごつごつした袋だった。耳を弾いた硬質の音に、まさかと思って筆を置く。
「黄月」
 彼はもう襖を閉めようとしていた。構わず袋の中から一枚を取り出して突き付ける。
「なん……っ、この、鈍……」
 縺れた舌に口を押さえる。あまりに押し黙って字ばかり書いていたからか、見たことのない数の銭に舌が付いていかなかったか、きっと後者だった。袋の中に坐したのは、ひと目では数えきれないほどの鈍ひらだったのだ。ちらりと振り返った黄月はいつもと変わらぬ口振りで言った。
「何十に一つはどうにか金を出せるものがある。このところ小間物屋にも出ていないんだろう、取っておけ」
「……店でひと月走り回ったってこんなに貰えない」
 一日につき朱ごろ一枚、それは働き始めた二年前から変わらない。知らない黄月が怪訝な顔をしたことには気付かなかった。
 袋を持ち上げると、薄い布は容易く縦長に姿を変える。ずしりと手首を襲う重みに暁は溜息を漏らした。小藤の値は時期によって変わる。だがこれだけあれば、もう一つ安い香ほづ木を買うくらいの釣りは戻ってくるだろう。
 背後で襖の閉まる音がした。
 礼を言いそびれたと気付いて膝を立てたが、少し考えてまた腰を下ろした。袋を畳に置く。
 最初は嬉しさよりも驚きがあった。今は少し気味が悪い。小間物屋に出ていない自分の懐具合まで、あの黄月が思いやるということが。
 有か無かで用捨なく断ずるはずの彼が、「どうにか」などという物言いをしたことが。

 黄月は通りかかった襖の隙間から、滑らかな光の動きを見た。襖を滑らせてすっと踏み寄る。
「もう出るのか」
「夕には」
 後姿の針葉は驚いた様子もなく、柄を持った手をくるりと返した。一点の曇りも無い刀身に宿る光は、ぬめりある肌を持つ一つの生き物のように見えた。そうだ、ちょうど蛇が鎌首をもたげるのに似ている。
「今度は割と近くだったな」
「つっても山の向こうだがな。まあ半月そこらってとこか、大したことねぇや。どうせなら都まで行かしてくれりゃいいのによ」
 笑い声とともにするり、刀身は鞘の中に粗相なく収まり、最後にかちんと小さな音を立てた。
「あの女からだったか」
「それが、花見からこっち顔見えねぇんだ。親父が寂しがって今にも入水しそうだよ。だから今回は菱屋だ」
 そう言って針葉は振り返った。
「俺がいない間、頼んだぞ」
 何とも恰好のついた台詞ではないか。黄月は片方の唇を歪めて笑った。いない間どころか、いる間じゅうも頼まれているようなものだ。
「心配いらん、火点ほとぼしの刻から飯粒の数まで、お前がいるときと同じようにしておこう。望むならあの女の動向さえ」
「暁か? あいつぁなかなか手強いぞ。頭じゃ計れん」
 針葉は冗談と受け取ったようだった。笑い混じりに周りの拭い紙を片付け始める。
 黄月は腕組みしたままじっとそれを観察した。頭の中に先程の暁とのやり取りが蘇る。あの女の言葉など覚える気はないが、紅花に比べると彼女の話には無駄な言葉が省かれており、そこだけは買っていた。字を書く者にはあるべき素養だ。
 あの声は確かこう言った、小間物屋ではこれほど貰えないと。ひと月云々というのは……きっと言い間違いだろう。
 つまりあれだけの旨味を知った今、あの女がわざわざ坂を下りて通りに出る意味は無いということだ。





「蕎麦よ!」
 障子を開けるなり、紅花が両の手をばちんと打ち鳴らした。
「蕎麦」
 暁はびくりと肩を竦め、そろそろと筆を置いた。集中していて気付かなかったが、既に昼を随分過ぎていた。見上げた紅花の背後からは白く光が射している。はて、坡城では蚊のことを蕎麦と呼ぶのだったか。
 紅花は意気揚揚と畳を踏み、暁の手を掴んで立ち上がらせた。
「出るわよ、蕎麦よ」
「もう蕎麦が出たのか。刺されなかったか」
「は」
 紅花がぴくりと眉を寄せる。その次に浮かんだ思案顔は一瞬で元の顔に切り替わった。考えても埒が明かないと判断したのだ。
「とにかく、今日は蕎麦だから。あんたもう出られるの。墨で汚れてない?」
 そこでようやく暁も理解した。どうやら聞こえたまま、食べる蕎麦のことを言っているらしい。それなら手を叩かずとも分かるのに。
「蕎麦って港の」
「よく知ってんじゃない。あんた食べたことあるの」
 暁は首を横に振った。話には聞いていたが食べたことはない。一年前が蘇る。
 雨の、心に重い夜だった。美しい簪を手に、髪は短く衿は細く、この身は焼け果てたときのままだった。傘の下にいても足元が泥で汚れていく、気の滅入るような暗い道で、一緒に食べに行こうと彼は言った。明日、一緒に行こうと。
 引き寄せればこれほどすんなりと思い出す。なのにこの一年、一度として思い返したことはなかった。
 ……東雲から帰って間もなく、風鈴女の騒動があったからだ。
「行くぞ」
 紅砂が顔を覗かせた。暁はちらと紙を見下ろす。あと数行書けば終わりだが、今でも区切りの良いところまでは書ききっていた。
「待って、硯だけ洗って行くから」
「じゃあ表にいるね」
 そうして程なく合流した玄関先には、やはり紅花と紅砂がいた。言い換えればその二人の姿しか無かった。
 暁が来るのを見ると、紅砂はふいと背中を見せて歩き始めた。暁は家を振り返る。
「他の三人は」
「織楽は季春座だし、黄月と浬はさっき出てったわよ。今日は帰らないってさ、どうせおいしいもん食べてくるんでしょ」
 紅花はつんと鼻を空に向けて暁の隣に並んだ。どうやら虫の居所が悪いらしい、と思いきや、首をちょいと傾げて暁に見せたのは、花開いたような鮮やかな笑みだった。
「だからあたしが外に出られんのよ。さすがに五人もいちゃあ、食べに行こうなんて言えないもんね」
 暁は、坡城へ来て初めて海というものを知った。湖とは違う色、匂い、視界を埋める巨大な体、枯渇を知らぬ尊い姿、なのに飲んではならないその水。紅花の目は海によく似ていた。
 彼女の目を見つめて小さく頷く。紅花はもう一度にっと口端を上げると、腕を天向けて突き上げ、大きく伸びをする。
 瞬きを忘れていた。暁は前に向き直って目をしばたたく。睫毛の隙間から木々の暗い青と紅砂の広い背が見えた。
 紅花はいつも家にいる、当たり前のように帰りを待っている。それは何故か。その代償は。……どこが当たり前なものか。見えているのに気付けないものが、この世には多すぎる。
 道の先に光が見えた。もう下り坂は終わりだ。右手には変わらず小さな地蔵が佇み、足元には花でなく綿毛が供えられていた。
「紅花は母親みたいだ。あの家の、全ての」
 思わず喉から溢れた言葉は、褒めるのでも嘲るのでもなく、言うなれば自分を悔いるような色を含んでいた。暁は真剣そのものだったのだが、自分より年嵩の子供なんていらない、と一蹴されただけだった。

 三人は大通りまで道を直進し、人がどっと増えたところで足を南へ向けた。季春座を横目に行き、湊行きの橋が見える横道も横切る。その向こうに見えるのは二階建ての大きな建物と、それを取り囲む長い壁だ。
 暁がこちらへ歩くとき、その目的地は決まって季春座か湊行きの道で、あの建物が何か気にしたことなどなかった。これでは周りを見ろと窘められるはずだった。
「あれは港番の詰所だ。港がどういう場所かは聞いたことくらいあるだろう」
 それも、あったような無かったようなという程度だ。無論足を踏み入れたことは一度としてない。
 水路を挟んだ右手には二、三階建ての建物がいくつか雑居しているのが見えた。こちらから見えるのは裏手らしい。どれもこれも、黒い細板を延々と繋いだ壁に隙間なく守られている。
 人とぶつかりそうになって暁は顔を戻した。あ、と呟いて目の前に聳えるものを指差す。
「あれは門か」
 突き当たりに見えた瓦屋根の下に壁は無く、向こうの景色が四角く見えた。人波と建物に切り取られた空には雲が多く、大半が灰青で、右端だけがわずかに晴れている。
「三門の一つだ。騒ぎを起こさない限り、身構えるもんでもない」
 大通りは一番の繁華を抜けて少しずつ狭まっていたが、それでも七八人が並んで立てるほどの幅は保っていた。門はそれよりも広く、つまりそこを通らずに中には入れないということだ。
 紅砂を追って門を通った。門の足の脇にはたおやかな木が植えられ、枝葉がさらさらと風にそよいでいる。その手前に二人、冷たい目付きの男が控えていた。暁と紅花の二人には目もくれない。騒ぎを起こせば彼らが飛んでくるのだろう。
 門をくぐり抜けても突然町並みが変わることはなかった。すれ違う者の多くが男になっただけだ。軒先の提灯の数は増えたようだが、閉まっている店さえちらほら見られる。三人は水路に架かった橋を渡った。
「蕎麦の屋台はいくつもあるが、目当ては去年来たやつだろう。いつも端にいる。次の大きな通りを右に曲がって、その次を左だ」
「詳しいね」
 何の気なしの暁の言葉に、紅砂はぎょっと表情を止めた。
「紅砂の行ってる道場は間地あわいじにあるから、よく通るんでしょ。おかしかないわよ」
 紅花の口調は、そんなことよりこの域の探索だと言わんばかりだった。彼女の視線はきょろきょろと物珍しげに街じゅうを跳ねまわっており、兄の表情には気付かなかったのだろう。間地は二本の川に挟まれた域の、特に海に近い範囲を指す。そこへ行くのであれば、確かに港を通っても不思議ではない。
「ここが港通りだ」
 紅砂が示したのは広い通りだった。右に曲がると教えられていたが、暁は目を丸くしてしばし立ち尽くした。
 赤い通りだった。
 傾き始めた陽の赤だけではない。人波の向こうにずらり並んだ壁は果てまで朱に塗られ、そこらじゅうに吊るされた提灯が揺らぎ燃え、まるで目の中に血が溜まったようだ。暁はぐっと目を閉じ、また開ける。
 見上げれば、日はまだ西の空高くに浮かんでいる。なのに煌々と照らす灯りに目が騙されて、この通りだけが夜に落ちたようなのだ。夜の通りに輪郭を与えるは、妖しく灯る赤光だけだ。
 どこかから三味の音が落ちてきて、左右を見渡す。変哲ない茶店に見える建物もあれば、早々と格子を見せる建物もある。
 すぐ脇にいた男が突然後ずさって暁とぶつかりそうになった。彼は振り返ろうともしなかった。うっとりと注がれる視線の先を見やると、ごてごてと着飾ったすまし顔の女が歩いてくるところだった。表情が無いのか、それとも顔の肉の動きを消す化粧をしているのか、彼女の顔は能面のようだった。
 一歩踏み出すごとにしゃらしゃらと、風をくすぐるような音が耳を誘う。見惚れる者たちの溜息に包まれ、女は通りの真中を静やかに通り過ぎた。後ろに青年を従え、雨でもないのに傘を差してもらっている。その傘紙も目が眩むほどの鮮やかな朱色だ。ざわめきの中、彼らのためだけに道が開かれ、後姿はすぐ人波に呑まれる。
 ぽかんと口を開けて艶やかな女を見送ると、暁は早足で二人のもとへ向かった。女が見えなくなったところから人が散り、すでに通りは今の興奮を忘れつつある。
「ここは、その、花街という」
「陸揚げに限らず賭場、見世物、似非物、あらゆる猥雑なものの溜まり場だ。かと思えばここで流行った恰好が周りに広がったりもするし、新しいもの、珍かなものは大抵はまずここに入ってくる」
「見世物って、季春座がすぐそこにあるのに」
「少なくとも織楽は、蛇を食いやしないだろ」
 ここがどういう類の場所か飲み込むには、それだけで足りた。暁は口を押さえて必死に思い描くまいとする。さすがの紅花も眉間に皺を寄せていた。
「……飯前に言うことじゃなかった」
 ふと見れば、話題を出した紅砂までもが顔をしかめていた。彼はきっと両の目で見たことがあるのだろう、聞くもおぞましい蛇食いとやらを。
 通りを横切って小道に入る。両側に並ぶのは、裏通りにもよくあるような質素な佇まいの店だ。細く開いた扉の向こうは暗くて窺い知れなかったが、朱塗りの壁も無ければ、格子の向こうから笑みを寄越す毒々しい唇も無い。網に入った蜻蛉玉が吊られているのは、小間物屋という印だろうか。ほっと息をついて歩く。
「こういうところもあるんだね。裏通りみたいで落ち着く」
 聞こえなかったか、紅砂は返事を寄越さなかった。紅花につつかれてそちらを向くが、彼女は何も言わずに首を振っただけだった。
 程なくして道が開け、小さな屋台が多く集まる場所に出る。ぷんと潮の匂いがした。海まで連なる安っぽい板屋根は畝のようだ。まだ日が落ちるまで暇があるからか、暁が思ったほどの人出ではなかった。いくつか屋台を抜けて見付けた目当ての蕎麦屋も、客の後姿が一つ見えるだけだ。
 客が椀を返して振り向いた。
「げ」
 客が苦々しい心中を遺憾なく表現する。
「随分な態度だな」
 対する紅砂も、今にも面倒だと言わんばかりの顔をした――織楽に向けて。
 足を止めた紅砂の後ろから紅花が口を尖らせる。
「何よ、あたしらが食べに来たら悪いって言うの」
 織楽は唇を結んだ渋い顔のままそっぽを向く。
「そやないけど、四人も揃たら恥ずかしいやん。一年遅れの流行りに飛び付く、粋気取りの野暮みたいちゃう」
「悪かったわね、こっちはとっくに三人揃ってるわよ」
「お前らはええよ、港で男一人に女二人やったら案内したってるて分かるし。けど男二人は揃ったあかんわ」
 言い合う二人を横目に、紅砂は蕎麦売りに三つ指を立てた。あいよ、と気持ちの良い声が返ってくる。蕎麦売りは日焼けした四十手前の男で、顔は四角く、頭の毛を綺麗に剃り落としていた。
 とぷとぷと音がして間もなくひょいと椀が突き出された。紅砂が取り、暁が取り、紅花はまだ戦の真っ最中だったので最後の一つも暁が取った。両手を塞がれたまま、そろりと椀の中を覗き込む。
「紅花、蕎麦が細長い」
 そこで、ようやく紅花も口を閉じて椀を受け取った。
「……糸みたい。何これ、本当に蕎麦?」
「嬢ちゃん方、とにかく一口食ってみなさいよ。姿に驚くのも味に驚くのも、それからで十分間に合うってもんでしょ」
 厳つい容姿と裏腹に男の口ぶりは優しかった。箸を受け取ると二人は、怖々糸状の蕎麦をすくう。それは途中で切れることもなく、隙間につゆを含んで何とも美味そうだった。
 あ、と紅花が咀嚼する口元を押さえた。しばらくもぐもぐやって飲み込み、改めて器の中を覗き込む。
「本当に蕎麦」
「だけじゃない。練りとは一味違うでしょ、分かるかい」
「コブか」
 暁の言葉に、男はにやりと口の片方を上げた。
「当たり。早実の肉を使ってるから後味がすきっとしてるでしょ。この坡城、蕎麦売りはいくつもあれど、こんな風流なのはうちだけじゃないかねえ。いつでも懐かしく新しい味、が売りだからね」
 出汁のきいたつゆは後味にほのかな酸味が香り、いくらでも箸が進んだ。三人をにやにやと見つめる蕎麦売りが口を開くまでは。
「お兄さん、相変わらずの色男ぶり。浮気はうまくやらなきゃいけないよ」
 織楽もまだ近くにいたが、男の顔の向きからして紅砂に発せられた台詞だというのは明らかだった。
 紅砂は全く動じた様子なく、箸を休めて紅花を示す。
「前に話した妹だよ」
「いやいやそれは分かってます。私の言ってるのはそっちの子ですよ、北の方の色の」
 紅砂は暁を見て二三度瞬いた。面倒なので今から分かりやすい嘘を吐きます、と宣言したようなものだった。
「……こっちも遠い妹だ」
「またまた。まあそう思っといてあげますよ」
「おっちゃんおっちゃん」
 織楽だった。蕎麦売りと屋根ぶんの距離を隔てて身をぐいと乗り出す。まるで密談でも始めるように、彼は口元に手を当てた。
「あの黒髪の子ぉが妹や思てて、それで浮気や言うんなら、あの朴念仁が誰か他の女連れてたいうこと」
 動作はこそこそしているくせに声の大きさはいつもと同じだった。男も眉を上げて笑い、同じように丸めた手を頬に当てた。
「よっくぞ聞いてくれました。去年の暮れだったと思うけどね、これがまたえらい別嬪さんでねえ」
「親爺!」
「うへえ、怖い怖い。ま、浮気だって言うのは取り消しますよ。あのお兄さんは、狼藉者に絡まれてた別嬪さんを助けてやってただけですからね。いやあもう、思い出しても手に汗握る立ち回り、鮮やかな身のこなし。季春も真っ青だよ。おたく役者さんだったっけね、あれを芝居にしたら間違いなく売れるよ」
 織楽は歯を見せて笑い、顔の前で手を振る。
「あかんあかん。まるっきり芝居じみた話、芝居に持ち込んでも何も受けへんわ。そんなん大体どっちかが死んでお涙頂戴で終わりやろ。飽きた飽きた、死に飽きた」
「そういうもんかねえ」
 暁は箸をつゆに差し入れて糸の蕎麦をすくう。するりと箸に絡む桜鼠色は、少し持ち上げたところで切れはしない。口に運ぶことなく、箸を上げ下げして見慣れぬ不思議を楽しむ。
 北と呼ばれたのは初めてだった。坡城から見て壬は北なのだし、灰積む台地を越え国境を越え山を越えて遥々東から来たとかいう蕎麦売りからすれば、おかしいことなど何も無いに違いない。それでも耳は鋭敏にそれを捉えた。真っ当な域に住まう大部分の壬びとにとって北と言えば、山の果ての胡乱な域を指した。
 その語は単に方角を指すに留まらない。その語は含みを持って話に上る。それは、蔑称だった。
「織楽。男二人は揃っちゃいけないんでしょ。無駄口叩いてる間にさっさとどっか行けば」
 紅花が目も合わせず言う。彼女の蕎麦は言葉の前のひと啜りで無くなったようだった。食べ終わっていた紅砂が紅花の器を取り、蕎麦売りへ返した。暁は、つゆの滴り落ちた後の蕎麦を再度器に沈める。口に運ぶ。
「すげないなぁ。俺はお前ら待ってんにゃで」
「待ってる?」
「どうせ今から家帰るだけやろ。季春来ぃや。祭りの芝居の稽古、間近で見せたるし。去年の礼がまだやったもんな。下の組の奴らは、ほら、前の花見んときも割とお前らの顔覚えとったやろ。あいつらにも気合い入れたってぇや」
 暁は最後のひと塊をすくい上げて口に運ぶ。喉を通って胸の中ほどに落ちるのを感じる。顔を上げて一番に目に入ったのは、きらきら輝く紅花の眩しい笑顔だった。現金なものだ。
 一つ頷き、蕎麦売りに椀を返した。
「ご馳走さま」
 また来なよ、待ってるよ。威勢いい声に追い出されて海を背にする。日の歩みは遅く、西の空はようやく茜色に染まり始めたところだった。傾いた橙の光に目を刺され、暁は左手で顔を覆う。右目で織楽の背を見付け、追って、増えてきた人波をすり抜けた。
 もう一度、蜻蛉玉があちこちに吊り下げられた狭い道に戻る。暁は翳した左手を下ろして、ちらちら光を跳ね返す飾りだらけの道に目を細めた。
 四人の背後では、屋台が賑わいを見せ始めていた。