日はじりじりと高みを目指していた。
 彼女の覚える限り、それは繁衍はんえんすだく虫の耳障りな、うだるような日だったように思う。胸に汗ばむ感覚は未だ鮮やかだった。
 光は脇の小窓から斜めに鋭く射し込み、雄々しくそびく緑の落とした影だけが、広い板間をたゆい斑に染め分けていた。
 そう、最初に気付いたのは彼だった。前触れなどどこにも無かった。彼はつと手を上げて彼女の声を遮ると、真黒い瞳を外へ向けたのだ。
「来たか」
 何のことか分からなかった。彼の顎の輪郭は角刀で彫り込んだように鋭く、その線を上ったところにある耳は、さんざめく虫の奥の、ごく瑣末な音でさえ捉える。まるで見えぬ腕が音を捕えてくるようだ。
 彼女がそれを知ったのは、初めて彼と会ってから幾月を経たころだったか。相当な鍛錬を積まれたのですねと、掛けた声に返ってきたのは、聞こえぬふりをするほうが難しいと笑う声だった。
「来たとは、もしや先の……」
 そちらに足を向けようとした彼を見て、彼女は慌て言いさした。
「お任せください、お手を煩わせはしません」
「思い上がるな、お前の気遣いを受ける所以などどこにも無い」
「ですが」
 彼女はその先を言い淀んだ。彼は自ら動こうとする。それは軽率で、無鉄砲で……否、言い連ねる言葉は牽強に過ぎない。彼女はただ彼に当たり前の立場にいてほしかった。
 彼が戸を睨んだ。追って彼女もそちらに目をやる。板をそのまま嵌め込んだように飾り気ない戸は、昔あったものを模したのだと聞いた。
 しばらくして、ばたばたと彼女にも聞こえる足音が近付いてきた。荒々しく引き開けた音を皮切りに、波のごと押し寄せたるは虫の狂噪だった。
「音を慎め」
 彼女は一喝する。戸の向こうにいたのは十代半ばの少女だった。叱責にびくりと身を竦めるが、彼がそちらに近付いたので、縋るように足を踏み入れた。
「それが……」
「濁さず片付けたのだろうな」
 遮るように投げ付けられたるは彼女の声だ。少女は眉を歪めて唇を噛んだ。彼と彼女とを交互に見て、どうすべきかと迷う。
「いい、話せ。何があった」
 彼の言葉で、少女の顔にはほっと安らぐような色が生まれた。彼女は苦々しい思いでそれを見る。
「奴には見覚えがあります。だからまさか、あれほどまで……いえ、いいえ、手短にお伝えします。奴はガケイに会わせよと、あなたに言えば分かると」
 彼の顔が変わるのを、彼女は見た。彼の耳は四方八方を聞いても聞こえぬふり、顔を作ることには慣れているはずだった、なのに。
「ガケイと、確かにそう言ったか」
「はい」
 止める間もなく歩き出した彼が小さく呟いたのを、彼女は逃さなかった。相も変わらず狂ったように聞こえる虫の鳴き声の中、彼女の耳は彼を聞くため研ぎ澄まされていた。
「……死者が墓より舞い戻ったか」
 降り注ぐ秩序なき音の群れの中、彼は確かにそう言った。
 ――彼女は今、一人の男の後姿を飽かず見つめている。それは人々の中に容易く馴染み、ひとたび目を離せば見失ってしまいそうだった。聡き耳を追って出た先で見て、思わず息を呑んだあの姿とは、似ても似つかぬ。
 あの後彼らの間で交わされた話を、彼女は知らない。知ることが許されたのは、彼が男を屋内に招き入れ、たいそう丁重に扱ったところまでだ。
 ただ、彼はあの時確かにそう言った。死者が。墓から。そのとき彼女の首筋には粟立つものがあった。胸の間につるりと滑り落ちる汗が、いつも以上に体を冷やした。
「……屍者の、墓所より舞い戻りしか」
 すると、彼女が今見つめているのは腐れた屍なのだろうか。





 空に絶えぬ雨の滴が咲いたようだった。
 ぬかるみの残る地面を踏んで、七人は騒がしい人の群れをすり抜ける。正確には六人と、渋い顔のまま引っ張り出された黄月だ。
 家から坂を下りて大通りを北上するとすぐにぶつかる細い流れ。水の中央を目指して岸から迫り出した桜の枝は、今や満開に花を開いており、所狭しと地を塞ぐ人の足にも負けず、薄紅に空の全てを覆っていた。
 涼やかな風が、時折小枝をしっとり揺らしていく。そのたびぱらぱらと滴が落ち、大きめに抜いた衣紋から忍び込んだか、喧噪を割って短い悲鳴が聞こえるのだった。
「おっどろいた。まだ夕になったばっかなのに。それに桜の河原は、向こうに大きいのがもう一つあるじゃない。何なのよ、こんな早くからどうして集まってんのよ」
「こっちも同っじゃろうが」
 わずかに空いた地は歩くのが精一杯だ。眉を吊り上げた紅花を紅砂が短くいなす。
「こら分かれんと無理やなあ。季春の奴らなら広い場所取ってるか知らんけど」
「そりゃあ恥知らずにも程がある、お前はともかく部外者が割り込むなど言語道断迷惑千万この上ない愚行に違いあるまい。だから俺は帰る」
 背を向けた黄月の首根っこは、既に織楽の手が押さえている。
 六人と一人は密の途切れを目指して上流へ足を向ける。左手に見える流れはゆったりと静かで、表面は薄く花片に覆われている。死に往くときさえ凛と美しいのだ、春に色添えるこの花は。
 時が過ぎるとともに周りから立ち上る酒の匂いも濃くなった。最初は単にほころぶ春を愛でていたのが、お役目果たしたとばかりに胃袋を満たしにかかったのだ。
 いつもは港通りに立ち並んでいる床見世も、この時ばかりは競って川沿いに見世を構え、腹を鷲掴みにする匂いを気前よく振りまいていた。
 幾つ目かの橋が見えたところで、針葉が小さく声を上げたのが暁には分かった。実際には聞こえようもないが、彼の顔がそちらを向いて同じ方向へ足を踏み出したから、きっと「おっ」とか「あれ」とか意味のない言葉を呟いたのだろう。
 橋の向こうでは面長い顔の娘が、華奢な体に似合わぬ伸びやかな声を張り上げ、見る間に次々と団子を売りさばいていた。近付いていく大柄な男は馴染み客なのだろう、彼女は満面の笑みとともに手を振り、両手に串を持ってちょいと首を傾げてみせる。
「相変わらず出来すぎた看板娘だな。おい、そろそろ腹も減る時分だろ。買ってくるか」
「待ってください」
 簾のように枝垂れる桜をはね退けた針葉を、そう言って引き留めたのは浬だった。懐を探りつつ左手を欄干に掛ける。
「僕が買ってきます。食べに行くって前に約束しちゃったんですよ」
 彼の体が橋の弧を歩んで向こう岸へと渡る。暁の後ろでは、そろそろ腰を落ち着けようと、紅花が空き場所の割り振りを話題にしていた。
 自分でも気付かぬうちに、暁の手は針葉の袖に伸びていた。
 軽く引かれた感覚に針葉が振り返る。
「別の場所に行きたい」
 囁き声でも、彼の耳には届いたようだった。
 針葉は思わず暁を見つめて次の言葉を待った。彼女は縋るような目で針葉を見つめ返し、体の全ては緊張で強ばっているように見えた。
「どこか知らないの、去年の祭りのときのような」
「周りにゃ誰もいなくて、誰からも見られず知られず二人っきりになれる場所、ってか」
 言葉を継ぐ。わざと冗談めかしたが、頷く彼女の顔は真剣そのものだった。
 針葉は顔を上げる。どちらを向いても視線とぶつかった。口の端をぐいと歪めて、妙な気まずさを振り払うように明るい声を出す。
「……とまあ、そんなわけだ。団子はまだだが……」
 暁がかぶりを振ったのを見て針葉も小さく頷いた。
「じゃあな、羨ましがんじゃねえぞ」
 大小の背はすぐ人波に呑まれて見えなくなる。誰がよ、と紅花が言葉を投げ付けたが、ひょろりとした青年が一人びくりと振り返っただけだった。
 しばらくすると橋を渡って浬が戻ってきた。両手には串の積まれた皿を乗せている。
「お待たせ。あれ、針葉さんと暁は」
「知らないわよ、放っとけば」
 紅花がぶっきらぼうに言ってひと串取る。五人は足を進め、ようやく人の途切れを見付けるとそこで立ち止まった。そこにも花は咲いているが、店の灯りがまばらになる。
「これだけじゃ足りないな。何か適当に買ってこよう」
 紅砂が言い残して花片散らばる草を踏む。残り九串を分けていた浬も、振り向いて頷きを返した。



 小さな影を連れた針葉は川沿いを更に北東へ進み、途中の見世で腹の足しをいくつか買って、辿り着いたのは木立の中の、十人足らずがようやく座れるほどの狭い崖だった。歩いてきた距離からすると、家のちょうど北にあたるだろうか。
 周りには小さな崖が階段のように連なっており、花片を含んだ小川が涼やかな音を立てている。その向こうに、今まで歩いてきた地のきらびやかな様子が見降ろせた。
 見上げれば暮れて色を失った空に浮かぶ藍色の雲、その手前には春を言祝ことほぐように開き初めし花。行く水の流れは細く、わずか下流で合流する川こ呑まれて海へ注ぐ。
 ちらちらと時に花片が舞う。数少ななため下流ほど豪奢ではないが、それは可憐で、息を塞がない。
 針葉は花飯の最後のひと塊を口に放り込んだ。売り子の客引き文句によると、桜にちなんで薄紅に染められていたらしいが、日の落ちかけた中ではただの塩飯だった。
 咀嚼の音を立てるのは彼ひとりだ。ちらと横を見やる。
 暁はここに来てからずっと、透明な川の水とその向こうの喧噪を見つめ黙っていた。もはや縋る様子など微塵も見せず、思い出したようにゆったりと瞬き、呼吸は静かに一定を刻む。それが妙に癇に障った。
「あっちに戻るか」
 その一言で、彼女はようやく針葉の方を向いた。たった今彼に気付いたようでもあったが、困ったように慌てて首を振ったので、針葉の気はいくらか紛れた。箸を置いて徳利の中身を猪口に移す。
「山」
 すんでのことに声の主を探すところだった。
「……は?」
「山に来ることが多いね、そういえば。針葉はどちらかと言えば海にいそうだけど」
 暁は口の端に笑みを含ませて、視線を未だ流れゆく花片に向けている。答えに窮して鸚鵡返しに海と呟き、猪口を傾けて唇を湿すだけの間を置く。
「止める間もなく飛び込んで、四尾くらい捕まえてきそう。手掴みで」
「お前それ、アズメ売ってたってだけで言ってるだろ。海にゃ思い入れなんざ無いがな。初めて長に会ったのも山っちゃ山だったし」
 ようやく彼女は針葉のほうに顔を向けた。
「会ったって……前の長っていうのは針葉の父様じゃないのか」
「んなこといつ言った」
 暁は視線を天に向けてしばし考え込み、曖昧に頷いた。その隙に針葉は徳利を傾ける。
「じゃあ山っていうのはここ」
 ――なんと能天気な声だ。
 傾けた右手を元に戻す。気付けば酒が猪口から溢れそうになっていた。滑らかに小さな波紋を描く円い表面を見つめ、この器は擂り鉢のようだと考える。
「……いや」
「あ、それは違うのか。社のある向こうの山? それとももっと遠くの」
「呑むか」
 針葉はぐいと猪口を持った手を突き出した。
 暁はそれに視線を落とし、次に針葉の顔を窺って、首を振る。
「それより前の長の話を聞きたい。父様じゃないにしても、針葉の親代わりに等しい人なんだろう。その人は」
「呑め」
 語調がきつかった。暁は戸惑ったように数度瞬き、やはり首を横に振る。
 それを見て針葉は左手を自分の顔の前に戻した。
 暁がほっとしたのも束の間、ぐいと呷るや否や彼の顔が近付いて、避ける間も無かった。
 ひと通りむせた後、顔の下半分を両手で覆って針葉を睨む。コブの実にノアイソウ、サイナの蜜も混ざっているだろうか。かすめた唇からは強い芳香がした。なのに口の中は苦くて、舌の奥が痺れるようだった。通り過ぎた順に喉がかっと熱を持つ。
「コブの酒を持ってったのはお前だろ」
 針葉は事もなげに言う。
「呑めるんなら呑んでみせろ、こんな時くらい」
 暁は悔しさに唇を強く噛む。体を伸ばして、奪い取ったるは針葉の手の中の猪口だった。
 顔を逸らしたまま、ぐいと徳利に向けて器を突き出す。
「注いで」
 針葉の顔は見なかった。彼が今どれほどの仏頂面であろうと般若の相であろうと、竦む姿は断じて見せたくない。
 ふっと息の漏れる音があった。猪口が指を離れてちょろちょろと水の声を受け止める。
 姿勢を正し、膝に両手を置いて待っていると、縁までなみなみ注がれた猪口が顔の前に現れた。受け取ってひと呼吸置き、ぐいと仰いで流し込む。ごくりと喉が鳴った後、しばらくして吐いた息はわずかに上がっていた。唇には冷たかった酒が、どうして舌から逃げた途端に火を発するのだろう。
「上出来だ」
 針葉はそう言ってもう一つの猪口に酒を注ぎ、自分も呷ってみせる。それがやけに上機嫌に聞こえて、暁はまた顔を背けた。

「結局お前は何だ、花と名の付くもんが嫌いなのか」
 ゆるりと日は暮れ、互いの顔はほとんど影のようにしか見えなくなっていた。声は双方から途切れず穏やかに続いていた。その針葉の言葉を聞くまでは。
 暁は右に首を傾けて、針葉の影の目のある辺りを見た。
「どういう意味だ」
「そうだろ、去年は花火で今年は花見。どっちも花じゃねえか」
 深い溜息を吐くと、猪口の表面に細かい波が立った。暁は二杯目の酒には全く口をつけていない。
「馬鹿馬鹿しい。それじゃ紅花のことも嫌いってことになる」
「紅花? お前、なんであいつの昔の名ぁ知ってんだ」
 暁はちらと眉をひそめ、すぐに理解した。いつだったか葦が紅花をそう呼んでいた。暁が紅花の幼名を知らなかったのに対して、針葉は紅花の名に含まれる字を知らないのだろう。
「好きだよ、花火も花見もついでに紅花も。目を開けているのにそこかしこ花だらけだなんて、まるでこっちが夢みたいだ」
「安い夢もあったもんだな」
 暁は何も答えず、ほんの少し猪口を傾けて唇を湿す。
 針葉は彼女の視線の先を追う。風の音、人の波、灯り、笑い声、舞い散る花片、流れる花片、花、花、花。天と地の間を傘のように覆うは桜、そして気付けば、地面を覆っているのもまた花だった。名もなき黄や白や紫は、多くが目に留まることもなく静かに揺れ、無数の尻の下敷きとなっていた。
 彼は提灯を広げ、人形から石と金を取って打ち鳴らした。火口の種を附木に移して火袋の中に入れ、ぽうと灯った柔らかい光を枝の一つに吊るす。小さな火は、水に落とした血の滴のごとゆらりと広がり、天地に敷き詰められた春の全てを一様に揺らぎ染めた。
 針葉は猪口を取ってちらと左を見た。暁が提灯に見惚れていたので、つられて見上げる。目に入るのは底の重化じゅうけだけだ。何の変哲もない。
「あ」
 改めて左を見ると、彼女の目は既に別のものを捉えていた。針葉の左手の猪口の酒、の表面に薄い花片が浮かんでおり、小さな波紋を残している。
「花酒だ」
 花片の浮かんだ酒を差して言ったらしい。いつもなら取り除いただろうが、暁がやけに羨んだ目で見ていたので、ちょいと器を差し出した。
「要るか」
 浮かんだ花片をじっと見ていたからだろう、顔を繕うのが一瞬遅れた。
「あ……ううん」
 なんと分かりにくい女だ。そのくせ瞬きせず視線を注いでいれば、この上なく分かりやすく、強情で、捻くれ者だ。
「貸してみろ」
 自分の器を傍に置き、暁の手の猪口を奪う。二杯目にはほとんど口が付けられず、なみなみと揺れる半透明の表面には火が浮かんでいた。
 針葉は夜を見る。風が肌を通り抜け、産毛をくすぐっていく。暁も口を結んでそれを見守る。彼の目にはいくつもの花片、散りゆく者どもが映っていた。
 おもむろに針葉は右腕を伸ばした。猪口の真ん中に、ふわり、今落ちてきたばかりの花片が触れて浮かんだ。
 針葉はにんまりと歯を出して笑い、自慢げに暁の方を向く。
 そのときの衝撃を、どうして忘れられるだろう。
 緊張の解けた静かな溜息の後、彼女の表情は雪が溶けるようにゆっくりと、柔らかく変化した。今までに一度として見たことがない。瞬きの間に、そこには満面の笑みが咲いていた。
「ありがとう」
 暁は猪口を受け取り、軽く口を付ける。優しさに満ちた眼差しで、見つめるは小さな薄紅ひとひらだ。酒を器の肥やしにしていた先程と、何が変わったわけでもない。それでも彼女にとってそれは特別なものなのだ。
 針葉は暁の横顔を見る。何が変わったわけでもない。分かっている、そんなことは百も承知だ。
 分かっている。
 手を伸ばして彼女の髪に触れる。昼間に見えるわずかな色の違いは、今は闇に染まり火に照らされ、針葉のものと変わらない。
 波打つ流れを指でなぞる。指先から柔らかさを感じる。昨夏から鋏の入っていない髪は、まとめても肩より長い。
 暁が器を下げて、顔を彼の方へ向けた。
 目が合った。それはきっと、思うよりわずかな間だった。
 ぐいと肩を抱き寄せる。向こう側の頬を掌で包む。内側に孕んだ熱で、合わせたところから燃え上がるようだった。どちらの体がほめいているのか分からない。
 顔を近付けた、そのときだった。
「……どこまで本気なの」
 時が止まったようだった。針葉は目の前の少女を見つめる。潤んだ双眸が真っ直ぐに彼を見つめ返していた。
 遠くの喧噪が近く聞こえる。夜の中に目はただ四つ、火は頭上で揺れるがただ一つ。
 ゆっくりと瞬く。
 針葉は暁の言わんとしたことを考える。
 もう一つ瞬く。
 針葉がおもむろに口を開くのと、暁が空を見上げるのは同時だった。
 遅れて針葉も見上げる。その額の真中をぽつりと滴が打った。それが枝葉でなく天から降ってきたことは、二滴目が頬を打ったことから明らかだった。
 さらさらと葉擦れのような音を立てて、辺りが湿り気を帯びる。細かな雨だった。見下ろす川の両脇から人と灯りが散らばっていく。
「不断の香の春霞か。惜しめども、とどまらなくに……」
 暁はそこで言葉を切って口を押さえた。
 針葉は腰を上げて提灯を取った。もう一方の手を差し出したが、彼女は幹に縋って膝を伸ばした後だった。提灯の明かりの届かないところで尻を払う音がする。
 針葉は急激に喉の渇きを覚えた。徳利に残った酒を全て呷って、振り返りもせず歩き出した。



 時にぐらつく足取りで坂を下り、川沿いを南下して大通りに差し掛かったときには、辺りの人影はかなりまばらになっていた。変わらず豪奢なのは桜だけだ。いつもの角で東に曲がったところで、針葉と暁の二人は別れた五人と一緒になった。
「おう、お前ら結局どこにいたんだ」
 問われた黄月は目も虚ろ、聞こえなかったかのように額を押さえてうつむいたままだ。織楽が苦笑して肩を支える。
「思た通り、季春の奴らがえぇ場所取っとってな。四方八方花の嵐やったで」
「へえ、そっち行きゃ良かったかな。待てよ、ってこたぁあいつは役者連中に呑まされたわけだな。若い奴ぁ後先無く押しやがるからな」
 裏通りを横切ってそのまま歩くと、もう一つ小さな通りとぶつかった。ここまで来れば人の姿など、通りの遥か果てにそれらしきものが一つ二つ浮かぶばかりだ。
「くさっ! あんたこそどんだけ呑んだのよ、近寄んないでよ」
 針葉はすぐさま紅花にじゃれついて息を吐きかける。背後から低く彼の名を呼ぶのは紅砂だ。静まり返った暗い道が、いっとき昼のような騒がしさを取り戻した。
 暁は一歩離れたところで六人を眺める。合流した途端に彼は、ここを離れてあちらに馴染んでしまう。自分の視界に自分がいないのは当たり前なのに、なんとなく目を逸らした。
 曲がり道に入ると木々が途端に多くなり、坂の入り口が、獲物を待つ獣の口のようにぽっかりと姿を現した。牙はあちこちから伸びてくる枝葉だ。
 いつしか雨は止んでいた。湿った風が体の熱を奪っていく。暁は頬に手の甲を当てた。歩いているうちに体の火照りは少し冷めたようだった。
「暁っ」
 突然、肩にどさりと重みがかかった。背が曲がってよろける。
「何だお前、しけた面しやがって」
 顔を向けるまでもない、針葉だ。ここへ来て一気に酔いが回ったか、彼の声は上機嫌に大きかった。うんざりして耳を覆いたくなるが、次に彼が発した声は、彼女にしか届かない小さなものだった。
「……後で俺んとこ来いよ」
 思わずまじまじと見つめ返す。彼の顔は笑みを含んで、その奥が読み取れない。自然と足を運ぶのが遅くなった。
「……どうして」
「お前を抱いてみたい」
 何を言われたか分からなかった。瞬きもできず、足を動かすのも忘れた。
「暁。ぶん殴っていいんだからね、そんな酔っ払い」
 坂の上から紅花の声がした。それを聞くと、彼はまたふらつきながら暁を離れて先を行く一団に混ざった。
 黄月は相変わらず怪しい足取りで額を押さえ、織楽は浬に何ごとか話しかけ、残り三人はごちゃごちゃと言い争う。紅花の甲高い声を聞き、暁ははっと歩くことを思い出した。
 今、自分は何を言われたのだろう。
 頬に手を当てる。おかしい。どうしてだ。どうして。
 たった今、酔いは覚めたのではなかったか。



「来たのか」
 暁はそろそろと襖を閉めて向き直る。彼の声には驚きが混ざっていた。むっと眉を寄せる。
「来いと言ったのは自分のくせに」
「それもそうだ」
 笑い声。聞き慣れたこの声。手招き。全ては闇の中だ。
 暁は躊躇いがちに足を進める。畳の軋むわずかな音。程なくして蒲団の角を踏んだ。それ以上先へ行く気にはなれず、そこに膝をつく。
「もっと寄れよ」
 蒲団の皺を見つめる。聞こえなかったことにしたかったが、声は耳から離れようとしない。散々迷った挙句、一歩ぶんの距離をいざった。
「仕方ねぇなあ」
 蒲団の中央にいた針葉が腰を上げた。暁はじっと、膝に置いた拳を睨み付ける。
 どうしてここへ来てしまったのだろう。あんな誘い方、傲慢にもほどがある。きっと酒で頭が回らなかったのだ。今ならまだ間に合う、考え直して早く帰れ。
 違う、何度も考えて納得したことだろう。先へ進むにはこれが一番なのだ。いつまでもあの場所で留まるわけにはいかない。
 でも、だからと言ってこんな。
 ――だって他に誰がいる?
 はっと目を開いた。ひと回り大きな手が、固く握った拳を隠している。針葉はいつの間にか、すぐ傍にいた。
「そんな見つめてちゃあ穴が空く」
 場を和らげようとしたのだろうが、とても笑う気分にはなれなかった。緊張が伝わったか、針葉まで黙り込む。
 すっと頬に手が伸びた。ほどいて長さの増した暁の髪をくぐって、耳朶に触れる。彼の体はまだ熱を持っていた。熱い指先が耳を弄ぶ。
 顔を上げると、針葉の息がかかるのが分かった。酒臭い、でもそれは分かりきったことだ。既に知っている事柄が、どうして恐怖を掻き立てようか。
 ぎこちなく目を閉じる。
 唇が触れた。最初は軽く、次はもっと奥へ、更にその奥まで。
 ぞわり、首の後ろが粟立つ。
「……っ」
 後ろに倒れそうになった背を針葉の腕が支えた。逃げ場なく暁は、常より高い彼の体温を受け入れ続ける。
 唇の離れる瞬きの間。細く息を吸った口に、用捨なく割り込むものがある。離れようと肩を押したが無駄だった。休む隙すら与えてくれない。胸が苦しい。
 喪神しそうな頭の片隅で、耳から指が離れるのを感じた。次の瞬間には、胸の押される感触を。
 ようやく針葉の顔が離れた。暁はこの時とばかりに、顔を背けて存分に呼吸する。
「おい」
 まだ息が荒い。返事せずにいると、針葉の両手が暁の衿を掴んでひと息に開いた。
「ぎゃっ」
 色気のない声を上げて針葉の胸を突き飛ばす。彼はびくともせず、反対に暁が倒れそうになる始末だった。どうにか肘で支えて、急ぎ衿を掻き合わせる。
「ぎゃ、じゃねえ。そんなぎっちぎちにしやがって」
 針葉の言葉通り、暁の肩から下は全て晒しで固められていた。しかし暁にとっては上衣が無ければ裸も同然だ。衿をぎゅっと握り締めて身を起こす。ついでに半歩後ずさる。
「だって、針葉が触……ったりするから、去年」
「あぁ? つったって加減があるだろ、馬鹿かお前は。んな簀巻きみたいな恰好してっから、いつまで経っても板っき」
 針葉は口を押さえた。……まずい、口が動くのに任せて喋りすぎた。
 ちらと暁を見る。彼女は両手で胸の前を押さえたまま、うつむいてぴくりともしない。
 まただ。また面倒なことになった。きっとまた臍を曲げて可愛げのない面で際限なく文句を。
「板っきれじゃ……ないよ」
 目を丸くして暁を見る。彼女は何かに耐えるように唇を噛んで、針葉を見上げていた。
「見なきゃ正も否も言えんな」
 それは意地悪い返しだっただろうか?
 暁はおずおずと拳を膝の上に戻し、はっと思い出したように衿に手を掛けて、沈黙の中に呼吸を十回、たっぷり迷った末にするりと肩から落とした。
 闇の中でも肌の白さが分かった。肩の丸みが滑らかに、暗く沈む襖から彼女の輪郭を切り取る。
 針葉は、自分のすぐ前の蒲団をぽんと叩いた。暁は戸惑った様子で数度瞬き、そちらへいざる。
 膝を付いたまま躊躇する上肢を、腕が掻き寄せた。肩を回って背へかいがねへ、感触を確かめるように指を這わせて、首から鎖骨、肋骨へと、骨を隠す薄い肌に口づける。
「どっから外す、これ」
 これだけ肌を寄せているからやっと聞こえる、ささやかな声だった。酒のせいか少しかすれている。
 暁は、今夜初めて酒を呑まされたときのように、頭の中がぐらぐら揺れるのを感じていた。この体のどこまでが自分なのだろう。今見ているこの情景のどこまでが現なのだろう。もたつく手つきで折り込んだ晒しの端を取り出す。
 針葉は、重い瞼の奥でそれを聞いた。膝に落ちた白布のかすかな音が、彼女の、是という声に聞こえた。
 うつむく彼女の恥じらいをよそに、するすると晒しを解いていく。彼女の周りに木綿が積もっていく。
 暁は胸の前を両腕で隠す。
 解き終わる。針葉は布を脇にやって、いつもより華奢に見える体を横たえる。
 暁は、眉間に皺が寄るほど固く目を閉じていた。目だけではない、両腕も錠前のようにしっかと体を閉じている。手を重ねると彼女は薄く目を開けた。一年前と同じ、今にも泣き出しそうな顔だった。
「……あ」
 片腕ずつ、脇に退ける。
 両方押さえて、ようやく、あらわになった胸に口づけようとした。

「おっはようさん!!」
 背後でがらりと障子が開く、と同時に夜に似合わぬ陽気な声が降ってきた。直後、ぴしゃりと障子の閉まる音。
 嘘だ。
 まさか、ここまで来て。
 滑らかな膨らみを目前に針葉は、信じられない面持ちで身を起こす。暁と目が合う。無言で視線を交わした後、待っておけと掌で制す。
 背後からは障子越しに、同じ陽気な声と、諌める声が続いていた。立ち上がった途端に体がよろける。回る視界を睨みながら、どうにか障子まで辿り着く。
「織楽、浬! てめぇらっ」
 障子を開けたそこに、既に姿は無かった。ぬかるんだ地面に足跡が残っているだけだ。
「……っ」
 叩き付けるように障子を閉めて振り返る。同時に針葉は、全身から力が抜けるのを感じた。
 暁は既に頭まで蒲団を被って横になり、ひと束の毛先が隙間から覗いているだけだった。晒しすら無くなっている。巻き直したとは思えないから、抱きかかえてでもいるのか。
「暁」
 縺れそうな足で迂回して傍に寄る。耳があると思われるところにもう一度呼び掛けるが応答は無かった。
 芋虫の一語が頭をよぎり、自分で辿ったはずの連想に心が萎えた。そういえば小便もしたい気がする。そう思ったが最後だった。ああ畜生、何なのだこれは、何もかも駄目だ、畜生。
 先程よりもぐらつきながら障子へ向かう彼の耳に、かすかに届くのは寝息ではなく震える吐息だ。それが更に針葉を気落ちさせた。

 浬は顔を引きつらせて縁側に上がる。
 隣の男はまだ笑い転げていた。今ここから突き落とせば、頭でも打ってもう少し利巧になってくれないだろうか。
 帰り道、幸せを裾分けしてもらいに行こうと誘われた時点で察するべきだった。それが冷やかしだと知った時にはもう遅い。「平気平気、土の上通ったら音せんて」――それを信じ、彼に慎重な行動を期待した浬が愚かだった。
 所詮こちらも酔っ払いだったのだ。
 溜息を吐く。そこに用捨なく笑い声が重なって、さすがに噛み付きたくなった。
「あーもう、うるさいな。あんな堂々と出て行って、明日どうなると思ってるんだ」
「えぇー? 泣いて感謝されるんちゃうかなあ。浬ぃぃお前のお陰やあぁぁぁ――っひゃひゃ、気色悪っ」
「何が感謝だよ」
 きっと睨み付けたが、織楽の目元は上機嫌に赤らむばかりで、反省の色の一つも無かった。目がきゅっと細まって浬に近付く。
「あんなよろけて、障子開けるまで気付かんでて言うたら、役に立つわけないやん。用成さんわ。恥かくんが関の山やろ」
 何のことか問い返そうとして、やめた。お前もそうだろと呟いたが、ひゃひゃひゃと絶えぬ笑いに掻き消された。