足を踏み出すたびに、かつんと硬い音が針葉の耳を叩く。この石段の両端に葉が厚く積もり、赤く色づいていたのが嘘のようだ。
 はらはらと音なく秋の舞い散る、あの情感溢るる初冬の絵の中で、寄せた体を鮮やかにかわされてからふた月足らず。暁との間にこれといった進展は無く、湊行きや壬との境行きは彼女の方から誘ってくる一方で、港近くの床見世巡りは断られるといった、まさに一進一退の様相を呈していた。
 暁は、着るものだけは嫋やかになったものの、口調にしろ表情にしろ昨年とまるで変わりなかった。簪を挿したのもあの一日だけだ。女姿の物珍しさは徐々に薄れて、そろそろ針葉も興味を失いかけていた。
 きっと気の迷いだったのだ。河童がいれば皿を撫でてみたくなるし、龍がいれば髭を抜いてみたくなる。突然装いを変えた変わり者の、寒風に染まった唇に目が行ったのも詮方ない。
 なのに今同じ道を上っているのは、熱を帯びた目で彼女の方から近寄ってきたためだった。
「玉串捧げずに年が始まるとでも思っているのか」
 口を開くなり針葉の十数年をばっさり切り捨てたわけだが、そう言う彼女も、昨年は自分の部屋に不気味な枝飾りを吊り下げるだけで参詣を済ませたのだ。梅雨の祭りで社を知ったからこそ、やたらと行きたがるのだろう。
「だからっつって、あの寂れた神さんでどんなあらたかな霊験があるってんだ」
 誰ともすれ違わないのは、暇潰しにと山の裏手を蛇行する道に沿ったからだろうが、表から上ったとしても大した違いはない。
 石段が途切れてでこぼこした土の道となる。
「そもそも先に行っとけたぁどういうことだ」
 舌打ちして歩き続ける。
 朝の早いたちでもないくせに、針葉が障子を開けたとき既に暁の姿は無かった。その報せすら、針葉は後ろを通りかかった紅花から受けたのだ、すなわち「社には昼に行くから待っててって言ってたけど」。
 これほど蔑ろにされたことがあっただろうか。腹立たしいのは、それでもとりあえず足を向けてしまう自分だ。
 傍の幹を蹴る。……ふっと天を仰いだが、のたり灰色の空が寒々しい枝の間を行くのが見えるだけだ。葉が落ちるにはもう遅く、雪が落ちるにはまだ早い。この時期が来るといつも感じる違和だった。
 正月の浮かれた気分の向こう、瞬きの間に、瞼の裏には白く冷たいものが映るのだが。かと言って針葉の記憶する限り、正月に雪など降った試しはない。体の芯から冷えるのは梅を目前にした一刹那のこと、ひと月は先である。
 しばらく止めていた足をまた前に出す。
 黙々と歩くうちに木々が途切れ、うらぶれた拝殿の背中が見えた。ほら、やはり物好きが一人二人いるだけだ。
 針葉は足取りを緩めて賽銭箱の前の男を注視する。
 利益など対して期待していない顔で賽銭を放り込み、柏手を打ったはいいものの銭が勿体なくなり、梯子の隙間から指を差し込むも届くはずなく、指が抜けなくなって滅茶苦茶に箱を殴り蹴り罵倒し、どうにか解放されたところで見物人に気付いて、ばつの悪い顔で足早に去っていく。針葉は鼻で笑って後ろ姿を見送った。
 誰もいなくなった境内を見渡し、ぐるりと拝殿の周りを歩いてみるが、暁の姿はない。そろそろ昼も過ぎたころではないかと顔を上げたところで、雨粒がぽとりと針葉の額を打った。
 悪いことは重なるものだ。頭突きできそうなほど低く垂れ込めた雲を睨んで、針葉は賽銭箱の向こうに腰掛けた。すぐに雨はざあと音を増し、不機嫌さも相まって、背を勢いよく後ろへもたせかけた。
 どすん。
 ……よくもまあこれほど忠実に、ふた呼吸前に浮かんだ言葉を体現できたものだ。朽ちた引き戸が敷居から外れて、同じく朽ちた床に叩き付けられる、何とも哀愁誘う音がした。埃がもわもわと立ち上って目を刺し鼻を衝く。
 何重にも蜘蛛の巣の張った天井を眺めて針葉は確信する、神はいない。特にこの社の神とやらは、昔々に夜逃げでもしたに違いない。
「あー、畜っ生めが」
 ぶんと体を起こし、くたばった戸を取りに陰気な社の中へ足を踏み入れた。ふわりと、出来そこないの雪でも踏んだような感触があった。
 振り返ったそこには、積もった埃の中に自分の足跡がはっきり残っている。雨漏りの垂れる部分は埃筵の代わりに腐った床がたわみ、ひょろりと生っ白い茸の笠が覗いていた。
「ひっでぇな、こりゃ。うちの厠の方がよっぽど有難みがある」
 ちらちら舞う埃を手で払って戸を持つ。その向こうの暗闇に別の物があるのが目に止まった。
 壊れた石だ。元々は神使の像だろうが、これも埃が積もっていて一体いつ放り込まれたものか分からない。やはり神も使わしめも、畏き尻に帆を掛けてすたこら逐電ちくてんした後なのだ。
 ふと針葉は目を凝らす。割れた石を合わせたところで、それは狐にも狛犬にもならない。
「蛇……だな」
 鼻がむずむずと痒くなり、盛大にくしゃみを放った。こんなところに長くいるものではない。針葉はそそくさと場を離れると戸を乱暴に嵌め込み、賽銭箱の前に腰を下ろした。
 いつしか雨は小振りになっていた。
 首を伸ばして見ると丁度、鳥居の足元から朱色の傘が姿を現すところだった。急いで上って来たらしい、遠く聞こえる暁の息が早い。針葉は賽銭箱の裏から手を突き出してひらと振った。下駄の音が近付いてくる。
「今までどこ行ってたんだ」
 針葉は腰を屈めた暁に問う。不機嫌の抜け切らぬ声だったが、暁は言い開きの一つもせず眉をひそめた。
「家だけど」
「俺の言ってんのはその前だ。いや待て、お前一度家に戻ったのか。なら先に行っとけなんて言うこたねぇだろ」
「何言ってる。そっちこそ、一人で出るならそう言ってくれたら良かったのに。それなら探しもしなかった。結局、浬もこっちに用があったみたいだけど……」
 暁は傘を傾けて空を眺め、畳んで滴を払った。その横顔を見つめるうち、ふと針葉の耳に紅花の言葉が蘇った。「社には昼に行くから待ってて」、待ってて……家で?
 一気に針葉の肩の力が抜けた。馬鹿馬鹿しい勘違いだった。「社で」待つようにと針葉は受け取ったが、暁は「家で」待つよう伝えたのだ。
 何も知らない暁はくるりと彼に向き直り、眉を八の字に寄せた。
「針葉こそ何してたんだ、正月早々埃臭いったらない」
「うるせえ、小難しい本と同じ匂いだろ。有難がれ」
 暁は、眉を高く上げると針葉に傘を預けて、白く染まった髪や肩を払った。そっぽを向いたままの針葉には頓着せず、最後に自分の手を払って小さくくしゃみをする。
「放っとけよ、埃臭いのと歩きたかねぇだろ」
「もう埃は払った。悪かったよ、でも」
 針葉が振り向く素振りはなかった。
 途中で言葉を切り、じっと旋毛を見下ろしていた暁は、ふっと目を逸らして彼から離れた。
「一緒に来てほしかったから誘ったのに」
 針葉は顔を上げた。立ち去るかに思われた彼女の足は賽銭箱の前で止まり、銭を投げ込んで柏手を打った。……当たり前だ、そのために来たのだから。
 彼女は打ち棄てられた神を一心に拝んでいた。針葉は拝殿に背を向けたまま、時に彼女の瞼が震えるのをじっと見つめた。
 ――騙されるな。
 あれは皿だ。髭だ。お前の思うような面白いものではないし芳しい果実でもない。ましてやあの奥にあるものなど決して――
 さっと風が吹いて、暁は空を見た。翳した手を二粒目の雨が打ち、暁は拝殿の軒下に逃げ込んだ。
「また降り出したね」
 瞬く間にさあっと雨脚が強くなった。針葉が尻をずらしてできた隙間に暁は腰掛けた。頬杖で鈍色の空を見上げる暁の横顔に、針葉はちらと目をやる。
 暁の右肩がびくりと震えて軒を見上げた。針葉もつられて見ると、軒の一部が朽ちており、そこから垂れた雨が彼女の肩を打ったようだった。
「濡れるだろ。こっちに」
 針葉は暁の肩を抱き寄せた。暁は身を固くして、隣に座る男と自分の肩に回された手とに視線をうろつかせた。
 雨に閉じ込められたまま、暁は身動きできず、押し付けられた広い胸の鼓動を聞く。畳んだままの傘に目をやるが、今や辺りは白く烟るほどで、二人で歩くには足りない。
 針葉の手が、暁の頬に伸びる。
 耳にかかった髪に、耳にと、指が伸びて弄ぶ。
 茶色の瞳を縁取る細い睫毛が戸惑いながら上下瞼の間を往復し、ゆっくりと視線を針葉に向けた。
 かすかに戸惑いと怯えを孕んだ目。
 縋るような表情が針葉の心に爪を立てた。両腕で抱き寄せる。ただでさえ細い肩が更に縮こまる。針葉の顎の下で、くぐもった声が彼の名を呼んだ。
「誰か、いるの」
 強ばった声だった。針葉は唇を緩ませる。忘我せず周りの目を気にするとは、らしいと言えば、らしい。
「誰も」
 腕の力を緩める。ほっと息を吐いて身を離した暁の、うなじから耳の後ろに手を回して、針葉は身を屈めた。
 暁は、目を逸らさなかった。
「……どうして」
 その後には言葉が続かない。彼女は何か言おうとして、そのたび忙しなく瞬きし、言葉は白い喉の奥に浮き沈みするばかりだ。
 たとい何を言われても答えなど与えられなかっただろう。急き立てられたとしか言いようがない。彼女の方が、こちらの目をこじ開けて飛び込んできたのだ。
 皿、否。髭、否。
 針葉は顔を寄せる。もう一度、何の変哲もない唇を吸いたかった。
 しかし瞬きの後、眼前を覆っていたのは暁の掌だった。どうにか状況を解するため二つ瞬きを追加して、針葉は屈めた身を元に戻す。
 暁は口を覆ったまま、眉をこれ以上ないほど寄せて首を横に振った。
「駄目」
 うつむき、体を捩って腕から逃げる。雨に濡れないぎりぎりのところまで体を離す。
「ここでは駄目」
 はっと気付く。針葉の背後には拝殿が、そして山のどこかには本殿があるのだった。たとい雨に閉じ込められ、賽銭箱に隠れても、誰もいなくても神が見ている、境内でふしだらな行為に及ぶなどもっての外、云々。言わずとも分かる。
 しくじった。ただでさえ決まりごとにはうるさそうな暁だ。
 今、針葉に見えるのは怯えた横顔だけだった。何か考えるように数度地面へ瞬きした後、小降りになったと見ると、さっと腰を上げて早足で歩き出す。彼女の体は来た道を引き返して、鳥居とその向こうに伸びる石段を目指していた。
「分かった分かった、言いたいことは承知した」
 針葉は傘を取って追いかけるが、返ってきたのは「離れて」の一語だけだった。気を遣うべき箇所と気を遣わずにいられる箇所が、今までの女とまるで逆だ。妙な奴に近付いたものだと晴れかけた天を仰ぐが、来たときのような苛立ちはなかった。
 ここで駄目なら家に帰ればいい。
 家には拝殿も本殿もありやしないのだ。



「もう面っ白いの。あたしが行くなり、目ぇ丸くして駆け出して来てね。こっちも身構えるじゃない、そしたらさ。花ちゃあん、あの坊主は初めっから女の子だったんかい、それとも」
 紅花はぐいと浬の衿を引いて耳元で囁く。しばらく彼の反応を窺うように押し黙っていた彼女だが、とうとう我慢できなくなったように肩を震わせ、突っ伏して畳に拳を叩きつけた。浬は口元を引きつらせて笑い、畳に同情の視線を向ける。
「言われてみりゃ、字ばっか書いてて店には入ってなかったのよね、最近。髪まとめ出した頃から数えても何回? でも……だからって何もあんな、ねえ? あんな顔、しなく、っても……ふふふふふ」
 途中から紅花は肩を震わせて前屈し、まともに話ができる状態ではなかった。
 彼女の脳裡にはきっと、浬が見たらたちまち痙攣し、泡を吹いて喪神するほどの腹捩れる光景が刻まれているのだろう。それは分かる、分かるのだが、生憎浬は無力であり、どれほど望んでも紅花の頭の内側までは覗けないのだ。
 ……などとは、いかなる正論であろうと決して口に出してはいけない。ただ彼女の話に耳を傾ける、それこそが彼女の望むことなのだから。
 正月気分も薄れた夕餉の席、箸を置いて早々紅花に捕まった浬は別として、皆思い思いに緩慢な時を過ごしていた。
 浬の口元は引きつったまま戻らない。早々に部屋へ戻って昨年の帳簿つけを終えてしまいたかった。黄月からも散々急かされていたことだった。だがこの分では、今日中に書き入れるのは無理だろう。全て計算を終えねば、今後一年間、各々の稼ぎから家に入れる割合も弾き出せないのだが。
 ちらちらと後ろへ視線を向けるが無駄だった。いつもは妹の身辺に目を光らせている紅砂でさえも、今ばかりは、小憎らしいことにまるで素知らぬふりだ。
 紅花の笑い声が未だ小さく聞こえる。
 そっぽを向いてすり身団子の汁物を飲んでいた暁が、がちゃりと音を立てて器と箸を置いた。
「紅花黙って。その笑い声、気持ち悪い」
 不機嫌な声だった。
「気持ち悪いは言い過ぎだ」
「何よ、あんたの話じゃない。自分で騙してたくせに何言ってんのよ、葦さんかわいそう、でしょ、……ふふふ」
 まずは紅砂をたっぷり睨んで、暁は再び紅花に口を尖らせた。
「誰も騙してなんかない」
「言うたら悪いけど暁、その姿でなるったけ肌隠して男もん着ててみ。良うて稚児やろ」
 にやりと口を挟んだのは織楽だった。紅花に対して構えていた暁は勢いのやり場を失い、複雑な顔で口を噤んだ。
「……稚児は良いほうなの」
 捨てるように呟いて周りの箱膳を集め始める。織楽の膳を取ったとき、彼は暁の衿をちょいと引いた。二年弱にわたって意固地に男ものを着続けた彼女も、今はきちんと衣紋を抜いており、拳一つ奥には後れ毛に隠れてうなじが覗いていた。
「そんな顔しなや、相応にしてれば相応に見えるて。似合てるよ。可愛いもんやん、なぁ針葉」
 それは明らかに揶揄を込めた呼び掛けだった。ところが襖近くに座る長は左手に椀を持ったまま、彼には珍しく半眼で物思いに耽っており、自分の名が出たことすら気付いていないようだった。
「おい針――
「織楽、もういいから!」
 そこでようやく針葉ははっと自分を取り戻して声の方へ首を向けた。
「ああ……いや、暁、お前そんなに外出てなかったのか」
「どこまで話を戻す気だ」
 暁は苦々しい顔で針葉の膳を他六つともども一箇所にまとめ、椀ごとに重ね直す。四つ目に取った椀は、わずかに残ったつゆが底で丸く揺れていたので、一番上の椀に全て流し入れて下に重ねた。
 針葉の左手からも椀をもぎ取るが、中にはまだ飯粒が残っていた。艶が褪せており、きっと冷めて固まっているのだろう。それでも彼は乱暴な手つきでそれを奪い返し、残りを黙々口へ運んだ。
「知らなかったんだよ。丁度、俺が長く戻らなかった頃だろ」
「いちいち覚えてない」
 暁は愛想なく返すと、彼の椀を待たずに廊下へ出た。慣れた道を足に任せて進み、少しずつ肩の力を抜く。途中でぴたりと足を止め、しんと静まる闇の中に立ち尽くした。遥か遠くの背後から、声の交わりが解けない塊となって通り過ぎるのが聞こえるだけだ。
 腹の底まで息を吸って、細く長く吐き出した。
 自分がどうしたいのか分からない。どうありたいのか。
 どちらつかずの状態ではもういられない。飾り立てたいとは思わずとも、褒められれば嬉しくもなる。
 一方で、神社でのあの一件。自分には関わりないと思っていた渦へ、突然突き落とされたようだった。
 知らないふりをしていた。そのままでいられる気がしていた。しかし心のどこかで納得してもいた。
 ああ、こうなるのか。
 彼は私に期待したのか。
 違う、彼が勝手に誤解したのだ。
 きっと、ただ私が手頃だっただけだ。
 私が、ではない。彼が私を利用しているのだ。
 言い聞かせて、暁はまた歩き出す。しんと冷たい闇の中へ。





 拳一つ分開いた障子からは、陽気の中にもたまに冷たい風が吹き込んでいた。黄月に頼まれた書き物を仕上げ、暁は肩越しに後ろを見た。
 針葉がそこに寝転がっているのは気付いていた。知らないふりをしていただけだ。互いに声は掛けなかった。
 そもそも、外歩きに誘うことはあっても、家の中で二人きりになることは少なかった。何を話せばいいのか、彼が何をしに来たのか、――ふとあの神社でのことが蘇って、暁は慌てて首を振った。
 筆や硯を片付け始めた暁を見て、針葉はやおら立ち上がり、暁が書き終えた紙を取った。
「……読めるの」
「いいや。でも見てて胸のすく字だ。多分お前、上手いんだろ。浬のと違うのは分かる」
 字の読めない者に褒められても。暁は与えられた賛辞を頭の中で打ち消し、筆に残った墨を拭う。
「……何しにここへ?」
 ああ、と針葉は思い出したように、紙を文机に置いて障子を閉めた。障子を背に向き直った彼の表情におどけたところはなく、暁はじわりと拳を握る。
「触っていい?」
「……は」
 唐突な問いだった。二の句が継げず固まっていた暁は、針葉が近付くのを見て座布団から後ろに尻をずらした。
「待って。何なんだ、いきなり」
「いきなり、じゃないよな。お前神社で言っただろ、ここでは駄目だって」
 そんなつもりでは。弁解しようとした矢先に針葉はまた一歩近付いた。暁は慌てて口を開く。
「どうして私に」
「どうしてって、……なんか気になるから」
「そんなあやふやな……」
 針葉は文机の前で立ち止まり、膝を衝いた。文机を挟んで向かい合う。針葉はぐいと身を乗り出した。
「こっちからも訊かせてもらうが、お前は何とも思ってない男を何度も外歩きに誘うのか」
 とうとう切り込まれた。暁はぐっと喉を詰まらせ、眉を寄せてうつむいた。曖昧なまま、重ねていけると思っていたところに。
 沈黙が続く。障子の向こうが翳り、また晴れる。鳥の声が遠くから聞こえる。隙間風の音、かたかたと障子が揺れる音。
 重苦しい表情で固まった暁に、針葉は鼻白んだ様子で身を引いた。墨痕鮮やかな紙を摘まみ、ひらひらとそよがせる。墨の香りが濃くなる。
「責め立てようってわけじゃないんだけどな。ただ、お前がどういうつもりで……」
「何が、したいの」
 針葉は指を止めて暁に視線を戻した。誘っているかのような言葉とは裏腹に、彼女の表情は裁きを待つ囚人のごとく硬い。吹っ掛けてみようか、と脳裏にちらついたが、暁の場合、間違えたら取返しがつかなくなる気がした。
「それ、俺が決めていいのか」
「いや……、待って、ちょっと待って」
 突き出された両手が暁の顔を隠してしまう。
 またこれだ。針葉は、神社のときにも見た掌を眺め、ふと自分の右手を触れ合わないぎりぎりのところに翳した。針葉のものより関節一つ分小さな手だった。
 改めて、目の前にいる暁を見る。
 図々しい物言いや態度を一枚めくってみれば、そこにいるのは、抱き締めれば腕の中にすっぽり隠れてしまうほどの華奢な女なのだ。
 暁がようやく掌を下ろした。視線が合わないまま、唇が小さく開く。
「……この前と同じこと、までなら」
 針葉は立ち上がり、文机を回り込んで暁の隣に腰を下ろした。背中に手を伸ばす。しかし指先が触れるか触れないかのところで、暁はびくりと身を竦めて顔を背けた。やはり視線は合わない。針葉は片眉をひそめて手を止めた。受け容れるようなことを言った割には、この態度はまるで。
 ふわりと不安がまとわりついた、そのとき、暁は覚悟を決めたように針葉を見据え、目を閉じた。
 唇が重なる。
 柔らかさを何度か味わって、針葉はうなじに添えた手を下ろした。慣れぬものでも見る心持ちで、馴染みある顔を間近に見る。ここまで手順を踏まねばならぬものだろうか。あまりに初心で、それでいて果たし合いのような。
 目を開けた暁は手の甲で唇を拭い、針葉を見上げた。
「……外歩きに誘うのは、次からは控えるようにするから」
「は?」
 暁のこの言葉が、また針葉を混乱に陥れることになる。





 火を点けると、薄闇にぽうと二つ目の光が生まれた。間もなくふわりと甘酸っぱい香りが立ち上る。
 薬缶に手をかざして十分に熱をもったのを確認し、急須の蓋を開けて半分ほど注ぎ入れる。中の千切り葉を躍らせながら、コブの実漬けの薄酒は急須の形になじみ、強い芳香の湯気を天に放った。
 蓋をして軽く揺する。しばらくして取っ手を傾け、湯呑に注いだとき、紅緋色だった酒は濃い褐色に姿を変えていた。
 残りの湯を注ぎ足して葉をくぐらせ、同じように湯呑に移す。
 暁はそこで火を落とした。残るは手元の頼りない蝋燭だけだ。
 急須の中の葉を捨て、薬缶とともに濯ぐ。右手に蝋燭を、左手に湯呑を乗せた小盆を持ち、向かうは自分の部屋だった。
 内廊下の暗がりに左右の壁からぽつりぽつりと光の漏れる、あれは紅砂と黄月か。他の部屋はすっかり寝静まっている。
 開けておいた襖の隙間から体を滑り込ませ、畳に盆を置いて襖を閉めに戻った。
 ぶるりと体を震わせる。年が明けてからふた月が経とうとしているのに依然寒さは根強い。向き直った障子の向こうは闇だ。日入りから随分経ってしまった。
 み月後はこうはいかない。体裁だけでもきちんと整えねば、家でもなく、国でもなく、受け継がれたこの流れに申し訳が立たない。
 隅に置いていた小皿を引き寄せ、ぐいと湯呑を乾した。ごくりと喉が鳴る。
 ……鴨居を眺めたまま体が固まった。何かおかしい。
 まさか、そんなことは。
 何かの間違いだ。
 まさか。
 蝋燭の火を小皿の中の灰に移す。焦って手が縺れた。程なくして小皿の内からうっすらと、芳香を含んだ煙が立ち始める。
 気のせいだ。混乱しているのだ。そんなはずは……まさか、まさか。
「まさか……」
 震える指で口を覆う。
 自分が? 彼が? どちらも考えがたい。だがこうして、部屋は冬とは似ても似つかぬ様相を呈している。
 ぼうっとしているうちに灰の量が増えてしまう。慌てて西の角に膝を下ろした。今から手に入れるのはどちらにせよ無理なのだ。
 胸のもやつきが取れぬまま畳を踏んで、見えぬものに額衝く。慣れに任せて最後に北へ腕を掲げたとき、ふっと最後の煙が天へ逃げた。するりと視線も追い付かず、それはまるで龍鯉りょうりだった。
 暗がりの中に立ち尽くす。腕を下ろしてじっと小皿の中を見つめた。
 今回はまだ申し訳も立とう。だが次はこうはいかない。
 昨年もその前も、一度として落ち度ない式を上げられたためしは無いのだ。
 爪先から寒気が這い上る。それは幾百の虫の蠢きにも似て、ぞぞと体の芯が粟立った。
「次は……」
 冷えた灰と湯呑を小盆に乗せて部屋の隅へ追いやる。煙も湯気も一つ残らず吐き出した後だ。
「夏こそは必ず……」
 喉の近くで浅く呼吸する。遠慮知らずに甘ったるい匂いは、振り払わんとする手扇も空しく、べとべとと執拗に体じゅうを覆っていた。
 




二ノ年