暁は針葉の背を追っていく。途中までは夏の祭り場までと同じ道だったが、花火の上がった川原に辿り着くまでに、彼は右へ針路を変えた。
 細い上り坂だった。人通りは少なく、時折思い出したようにすれ違う程度のものだ。
 朱や黄の散らばった葉が次々に足音を吸い取る。くるくると舞い落ちる姿に見惚れていたかったのだが、そうする間に彼の背はどんどん遠くへ行ってしまう。
「んなもんで浮かれてちゃあ肝がもたねぇぞ」
 針葉は、これがどんなに素敵な光景か分かっていないのだ。やむを得ず、目についた中で一番鮮やかな一葉を摘まんで袖の中に仕舞った。今までと違って振りが開いているから、気を付けないと落ちてしまう。
 代わりに取り出したのは、いつかの小さな簪だった。家を出る直前に仕舞ってきたのだ。
「針葉」
 足早に歩いて、振り向いた彼の手元に押し込む。
「長いこと返せなくて悪かった」
 針葉は怒りもしなければ驚きもしなかった。手の上の可愛らしいものをまじまじと見つめる。忘れて久しいものだったかと危ぶんだとき、彼はおもむろに口を開いた。
「こんなもん、簪ってお前、男に渡すもんじゃねぇだろ」
 何を誤解しているのかと呆気に取られる。針葉はすぐに言葉を繋いだ。
「俺に持たせんなよ、重くって仕方ねぇや。あっち向いてな」
 かすかな重みで暁は、繭玉のように小さくまとめた不恰好な自分の髪にそれが飾り付けられたことを知った。途端、激しい違和感に襲われる。まるで指が一本増えたようだ。
 違う、そんなつもりではない。咄嗟に頭へ手を伸ばしたが、それを遮ったのはやはり針葉の声だった。
「触んなよ。男物着てる女もさんばら髪の女も似たようなもんだ。傍に置きたいたぁ思わん」
 そして彼は、片方の眉を歪めてにやりと笑った。
「季節っ外れだが、お前にゃそんくらいで丁度いいだろ」
 言うだけ言って離れていく。いつか見た、指だけの女を思い出して、暁は自分の腕から生えたものを見下ろした。小さな手。数だけ立派に五本揃った短い指は、あのしなやかな指の記憶には似ても似つかない。
 敷き詰められた鮮やかな道を追って踏む。一歩ごとに頭がぐらぐら揺れるようだった。同じ速さで歩くので、目に見える彼の背は同じ広さのままだ。
 先程、団子屋に続く橋を渡った。東雲から帰った日以来、そこを通るのは初めてだったが、あの背と共にあると心なしか落ち着いていられた。
 道は左に大きく曲がっている。向こう側から、曲がった背に荷を負った男が現れて二人を通り過ぎた。暁は滑らないよう慎重に、早足で距離をつめた。
 腕を伸ばしても届かないぎりぎりのところを歩く。足音で気付いたか、彼はちらと顔を傾けた。ひらひらと舞う赤い葉が振り返った頬の傍の肩に乗り、すぐ払い落とされる。
「ここだ」
 合わせて立ち止まり、左手に彼の指し示したものを見る。雨垂れの穿ったものか、至るところぼこぼこと凹んだ石段が続き、木々に取り込まれてすぐ消えている。ぐいと顎を上げて見た先では、迫り出した木々の葉が自分に大きく影を落としていた。緑と朱が賑やかに混じっている。
「上った先ぁ心の底まで洗われるような絶景だ。今までの道なんざ比べ物にならん」
 暁はほうと見惚れて石段を踏む。一歩、二歩。そのとき針葉が右腕を上げた。何ごとかと顔を向けた先に、彼とよく一緒にいる顔が、三人連れで曲がり道を下りてくるのが見えた。
「おう、お前らも山歩きか」
 針葉の声を背に聞きながら、暁は石段を上り葉ずれの中に消える。呼び掛けようとした声を止め、針葉は歩み寄る三人を待った。真中の背の低い男がにやと笑って口を開く。
「こちとら色気の欠片もない仕事さ、お前さんと違ってね。それにしても――甲ちゃんとは駄目になったのか、また思い切った宗旨替えだねぇ。何とも勿体ない。あの子はほら、こっちが凄かったろ」
 細い眉を器用に動かしながら、言うなり自分の胸の前に手で椀形を作ってみせる。しかし向かって右手にいた娘にぱしんと叩かれて、すぐに腕を下ろした。
 娘は口元にふっと悪戯っぽい笑みを浮かべて首を突き出す。
「甲のことはともかく、本気ですか。今までそんな素振り一つも無かったくせに」
「馬鹿にすんな、今日はお守りみたいなもんだ。あれに手ぇ出す気なんざさらさらねぇや」
 一番左手にいた男が片方の眉を上げ、肩からずり落ちそうになった荷を背負い直した。丸太のような腕を持つ、針葉でも見上げるような大男だ。
「見失うぞ。お守りだっていうならちゃんと傍にいてやりな」
「だな、じゃ精々色気のねぇ仕事を頑張ってくれや。そのうちまた顔出すから親父さんによろしくな」
 最後の言葉は娘に宛てたものだった。つけは許しませんよとか何とか愛想のない声が聞こえた気がしたが、きっと空耳だろう。
 石段を二段飛ばしに駆け上って、先に行った彼女を探す。数段上ると周りは全て冬待ちの色に包まれた。どう棲み分けたものか、石段の初めとこの辺りとではがらりと眺めが変わる。秋から冬へ、幾昼夜を飛び越えたかのようだった。重なった葉に滑りそうになりながら、似た色の衣の背が見えるのを待つ。
 針葉が足を止めたのは、そろそろ焦れ始めたころだった。葉の間から裾が覗いて、足を止め、ふっと体に残った息を吐く。
 石の道は気付かぬほど緩やかに曲がり、背を覆っている。頭上にも枝が伸び葉が重なり、今やどこに目を向けても鮮やかに燃える彩りばかりだ。
 暁はじっと耳を澄ませ心を研いで、溢れる色に浸っているのだろう。二つの踵はぴくりとも動こうとしなかった。一段一段、音を立てぬよう近付いていく。もはや腕を伸ばせば簪に触れられる距離だった。
「暁」
 びくりと肩が動いた。振り向いた暁はほんの少し下に顔の向きを正し、口元をゆっくりと手で覆う。
「驚いたか」
「少し」
 言いながら、ちょいと首を伸ばして針葉の後ろに誰もいないことを確認し、ほっと息をつく。針葉の目に苦い色があったことは気付かず終いだ。
「さっきのは褒められたもんじゃねぇぞ。山なんて逃げるもんでもねぇし、挨拶くらいしたらどうだ」
「ん……ごめん、気付かなくて。それにあんまり綺麗だったから」
 暁の後ろでくるくると弱い風に転げていた葉が、ついに枝を離れた。ひらり。暁はじっと視線を逸らさず針葉を見る。常の丈で見合ったなら茶の双眸は、あの上目遣いの、どこか居心地の悪そうな表情を作っただろう。わずかに見下ろされた今、彼女の眼差しはいつもより穏やかに感じられた。
「そんなに俺と二人きりが良かったか」
「あの場に留まるくらいなら……ずっと」
 からかうつもりで言ったのだが、帰ってきたのは何だかよく分からない答えだった。ふいと視線を逸らした彼女は、ぼうっとまた色彩に見入る。
 石段を一つ上ると、彼女とほぼ並ぶ丈になった。
「気に入ったか」
 今度は口元に浮かんだ笑みで、はっきりと答えが分かった。
「よし、そんなら来い」
 針葉の足は石段を離れて柔らかに敷き詰められた地を進んだ。踏み出すたびに、ぎしり、ぱしり、それぞれの葉が異なった声を上げる。茶に痩せ細った葉は乾いた音を、端に緑の残るしなやかな葉は湿った音を。
「今の石段の向こうは」
「行っても散々歩いた末、あの寂れた社の裏に出るだけだ。こっち来てみろ、もっと面白いもん見せてやる」
 それだけ言うとくるりと前を向き、道なき道をずんずん進んでいく。葉を踏みしめる音が聞こえたので、彼女が追って来ていると分かる。
 足元から一歩ごとに音、縫うように背後からも音。時折吹き抜ける風はぴりりと冷たく、山眠る寸前なのだと思い知らされる。暦からすれば、今この瞬間に全ての木々が葉を振り落としても不思議ではないのだ。
 あ、と声がして背後の足音が止まった。
「水……」
 さすがに耳が聡い。針葉はにやと笑うと暁を手招きし、更に先へ進む。暁も歩を速めて針葉のすぐ後ろにつき、時にきょろきょろと辺りを探り、時に目を伏せて耳の後ろに手を添える。
 透明な膜でも抜け出したかのようだった。突然水音が明瞭に耳を打ち、暁はその場に立ち尽くす。針葉が右肩越しに振り返り、腕を上げたところにある枝を掴んで身を乗り出した。
「一年前のに比べたら迫力はねぇが、お前ならこんなしめやかなのも好きだろ。しおりだの細みだの言うじゃねぇか」
 針葉の言葉どおり、それは滝と呼ぶにはあまりにも頼りない流れだった。
 二人の足場は針葉の爪先で数歩途切れ、見上げたところには赤みがかった枝葉に取り巻かれた小岩が突き出ている。細い流れはそこから透き通った水を落とし、ひと一人分の丈を経て、折り重なった紅染む葉を震わせ、弾かれて細かな粒となる。しとどに濡れた葉の先からは止めどなく雫が落ち、下の葉へ下の葉へと連なって、やがて苔の中に浮かぶ平岩を打つのだ。
 一歩踏み、針葉の右に並ぶ。ゆるゆると左腕を伸ばす。鮮やかな振りが周りと一体化する。もう一歩踏み出そうとし、体重をかける前に半歩戻る。指が力を失って丸まる。
 針葉の手が肩を掴んだ。
 支えを得た指先が、再びぴんと伸びて流れに近付く。
 絵のように静かに連なっていた水が小さく弾けた。びくりと震えが肩にまで伝わる。
 腕を戻して指から雫の滴るさまを見つめ、暁はおもむろに薬指を唇へ運んだ。
「冷たい」
 ぐっと目を閉じて肩を縮める。触れただけで分かりそうなものだと、針葉は片眉を上げて腕を枝に戻した。
 それでも彼女の顔には静かな笑みが浮かんでいた。
「冷たくて、少し甘い」
 今にも泣き出しそうな笑みだった。
 訝しげな視線に気付いた暁は、今更のように一歩離れて紅の天を見上げた。まとめた髪が衿に押し潰されて、簪飾りが衣の内に入り込むほど、真っ直ぐに葉の向こうの空を仰ぐ。
「凄いね」
 針葉も顎を上げる。返事はしなかった。確かに見事ではあろうが、暁の反応は不自然に過剰な気がした。これではまるで初めて海を見た山の娘だ。
 ざ、と風が木の葉を揺らしていく。目の前の赤が揺れ動く。地の上の全てを一とする生き物がどよめき蠢いているようだ。
「錦、水くくる、雨のごとくなんて……見て、聞いて」
 言葉を選ぶ間に、暁は二度瞬きする。
「知ったつもりになっていた。……こんなに爪の痛むことも、風に散るざわめきも、埋もれた葉を踏み行く音も、目の前が、目を開けていてもこんなに鮮やかなんて、それすら」
 目を閉じたとき眉間に浅く皺を寄せていたから、彼女の表情が示すのはやはり苦しみだ。だが息を深く吸い込み、長く吐き出したとき、それは清められたとでも言うべき穏やかな顔に変わっていた。
 目を細めて針葉に向き直る。
「針葉の方がずっと物知りだ」
 それだけ言うと、彼女はさっさと来た方へ歩き出した。目で追っていた針葉も、思い出したようにそれを追う。
「ったり前だ、伊達にお前より三つも多く生きてるんじゃねぇぞ」
 そう言うのがやっとだった。細い肩が小さく揺れて、笑ったように見えた。
 分からない女だ。まったく調子が狂って仕方ない。
 思ったより長居してしまったようで、腹がそろそろ物寂しかった。
 そういえば暁は最近、何とかという木片を買うついでに壬の青物を手に入れて皆に振舞ったことがあった。瑞々しい広菜に細い赤根、爪の大きさの殻つきの実、ほのかに甘い葉、期待に皆の目は輝いていた。――どこをどう間違えてあのような悲惨な末路を遂げたか、謎は未だに謎のままだ。あの一回きりで終わったのが幸いだ。
 針葉が暁を呼び止めたのは、あと数歩で石段が見えようかという落ち葉の中だった。
 あれほど馬鹿な味見しかできない舌の主の言う、水の甘さ、とやらがどこまで確かか、試してみたくなったのだ。





 あれは恐ろしい女だった。
 慎ましやかな女だった。添うた男を立て、よく仕えた。一歩下がったところで頭を垂れ、口元にはいつも静かな笑みを湛えていた。
 斯様な地にあれほど美しい女がいたのかと、何かの折に見掛けるたび思ったものだ。そうは言っても、なかなか目通りのかなう相手ではなかったが。
 女はいつも襖の奥の奥に坐した。声を聞くことはなかった。
 いつの間にか産まれていた赤子も、女の隣でひっそりと育てられた。存在を知らぬ者さえあったほどだ。
 いつしか、あの男が出入りするようになった。目の利く男であった。それまでも同じような商い手が出入りすることはあったが、あくまで夫の意に沿うためであり、女自ら望むことはなかった。
 女は新しい商い手を待ち望んだ。周りの者は訝しんだ。夫との仲悪しくなったようにも思えぬし、その商い手は一度見れば忘れられぬ醜男であったからだ。
 実は女には人に言うのも憚られる病があって、あの男は医者なのだとか、いやいや実は獣のごとき卑しい顔こそが好みなのだとか、人の噂は好き放題だった。
 女は頭がおかしくなったのではないかと、そのような口を広める者まで現れる始末だった。
 誰に読みえただろう。
 雨夜のざんざ降りの中――噂どおり気の触れた女が――産まれたばかりの子を――ためらいもなく。
 まだ軟らかい頭は、原形を留めていなかった。産婆は取り上げたばかりの子の変わり果てた姿に、三日三晩袖を濡らしたという。
 後に聞くところによると、何故かと問われて女は掠れた声でぽつり、こう答えたそうだ。要らぬゆえ。愚かであった。この目で見て思い至った。
 十月十日胎の内で温めたはずの命は、そうしてただの一言で終わった。
 片付けたのはごく内輪の者だった。話が外に漏れることはなかった。
 それから一年、五年、十年。その家に新しい命の芽吹くことは、もうなかった。



 お前には特別に、いいことを教えておいてやろう。
 一言で言おう、この家の主は奥方様なのさ。主殿? あんなの腑抜けもいいところだ。いやいや、私が言ったなんて誰にも言うのじゃないぞ。
 まあ、今の主殿は腑抜けそのものだが、その前だってずっとそうさ。奥方様が可愛らしい童のころからここにいて、主殿は後から転がり込んだに過ぎない。平たく言えば体裁と、御子を成すためだな。
 だが気を付けろ。
 奥方様は御子を殺したことがあるそうだ。産まれて間もないのを、こう、ぐちゃりとな。勿論私が見たわけじゃない、随分前の話のようだからな。
 御世継ぎはいるからもう充分ということらしい。そう、あの御方だ。
 とにかく気に入らないのさ、あの御方の他には許そうとする気配がない。御家が分かれるのを恐れているなんて、そんなものじゃないと思うな、私は。そんな計算ずくなら、もっと綺麗な遣り方があるだろう。
 例えば、そうだ、六本指や尻尾つきがいたらぎょっとするだろう。子供なんて私にはまだいないが、自分の子がそれだったら、そりゃあ肝も冷えるのじゃないか。
 え? 嫌なことを言うな、私は断じてそんな理由で殺したりしない。仮にも吾子だぞ。
 信じがたいのも分かるが、私がそう考えるのには訳があってだな、つまり殺された御子には符合する点があったそうなんだ。
 ん、そうそう、御一人ではなかったわけだ。産まれるたびに潰し、潰し、主殿も縮み上がって寝所を別にしただなんて、噂には言われているがな。
 で、殺された御子の符合というのがだな、…………、な、恐いだろ。
 それに御家のことなら、奥方様はこれっぽちも頓着してやいない。だってそうだろ、考えてもみろ。何のために私がいるのだ。
 さて、どうして私がこんなことをお前に話したと思う。何も床につく前の怪談話ってわけじゃない。
 子を成す前に私が死んだら、次に据えられるのは、きっとお前だからさ。





 皆、その家を恐れていた。
 小さな里の対極に位置する二つの家。一つは確かな恐怖と憎しみ、幼き頃から耳にした憤怒。もう一つは水に沈む泥のごと、輪郭なき不気味な異質。
 閉塞している。
 だってほら、峠は空まで伸びて、ここはさながら擂り鉢であろう。どこに道があるのだ。
 声も心も足元に溜まり、出口を失って蠢いている。鉢の縁から溢れ出るまで待つほかないと、父は言う。
 数十年前から怒りは煮えたぎり、鎮まるところを知らない。繰り言である。親から隣から斜向かいから、会う者全てから伝え聞く。しかしそれが形を見せたのはごくわずかだ。この耳で聞いたことがあったかどうか。
 腹が空く。
 風が冷たい。
 人を失った家々。
 色を変えてゆく赤子。
 掟はどこぞ知らぬ天より下るもの。
 肌に感じる畏れは横から流れてくるものだ。
 親のない野良犬どもがここ最近鳴りを潜めていた。きっと縁を越えて外へ出たのだろうと人は言った。これで清々する。悪餓鬼どもが。そ上の目を逃れられようか、すぐに裁きが下ろうぞ。そう吐き捨てる目のどれもに羨みが滲んでいた。
 憎々しげに見上げていたものを、この時ばかりは掌返して褒めそやし、それで自分の身がどう変わろうはずもないのに。
 なんと醜いものか。
 あんな奴を逃がしちゃならん。引っ捕まえて皮剥がにゃならん、八つ裂きにして見せしめにせにゃならん。誰も真似なんぞできんように、真似しょうと思わんように。
 出て行きたいのは自分のくせに。許されるなら女房も子供も置いて、我勝ちに逃げ出すくせに。
 疑え。見張れ。捕えよ。逃がすな。殺せ。殺せ、殺せ殺せ、殺せ!
 ああ――閉塞している。
 屍となった野良犬どもが山の中で見付かったのは、昨日の明け方のことだった。





 恐ろしい。
 恐ろしい、女だ。
 仰向けの目に見えるのは暗い天井と、視界の下方にうずくまる黒い塊だ。その視界すら、濡れた髪で縞のように覆われている。
 凍った喉から浅い息が漏れる。震えを隠すように歯を食いしばる。
 息が苦しい。
 駄目だ。手を上げてはならない。駄目だ。
 ……じっと耐えていると、おもむろにそれは顔を上げた。全て暗闇だ。顔の中身も溶け出したように真っ黒だ。
「つまらぬ」
 想像したより低い声だった。かと思えば次に発した声は裏返っていた。
「お前は面白うない。前の方がずうと良かったわ。……ふふ」
 耳の中の隅々を、呂律も怪しく、ふわふわと定まらぬ声が、ぴちゃぴちゃと執拗に舐め回していく。顔を背ける。瞼の裏に様々なものが浮かんでは消える。
 ふふ、ふふふ……くすくす。
 笑い声。眼を閉じても耳は塞げない。
 駄目だ。
 耐えろ。

 目を開ける。相変わらずの夜の底だが、先程とは天井の高さが違うようだ。
 起き上がり、一度身震いする。女はいない。あの冷たい髪はどこにもない。
 夢……夢だ。大丈夫だ、落ち着け。
 落ち着け。
 ふっと息を吐き胸に手を当てる。
 気付けば、目の前の障子が仄かに月灯りを映し出していた。以前とさして変わらぬ半月だろうが、瞼裏の闇にいたせいか滅法明るく感じられた。目を開けたとき、たといそれが夜であっても目の前は闇ばかりではない。
 怯えることはないのだ、もう案ずることなど何もない。自分も、彼女も、きっと護れるだろう。
 策はいくつも打ったし、それは現実に功を奏しているのだ。
 大丈夫。

 ――くすくす。

 ああ――駄目だ。
 障子の向こうに黒い影が映っていた。目を疑う。同じだ。ふらりふらりと、かすかに輪郭が揺れている。何をしに来たのか分からない。じっと見つめるうちに、ふっと部屋が暗転するように黒で包まれた。
 月が翳ったか。
 雲が流れ、光が戻ったとき、既に影は消えていた。息を殺して待つがいくら待っても気配はない。どくりどくり、鐘のようにさかんに胸が鳴っている。血が全身から噴き出しそうだ。
 夢……夢であってほしい。どうか。
 しかしそれは叶わぬことだ。
 目を閉じても逃げられない。姿消えてなお残る香りは明らかに、今までここに誰かがいたことを――誰がいたのかさえ、指し示していた。
 ぞくり、背が震える。
 駄目だった。
 あれではまだ足りなかったのだ……!
 腕を抱く。震えが止まらない。寒い。寒い。
 一心に夜明けを願う。だが昨日より明日より今日の夜は長く、仄白い月灯りがいつまでも障子を照らしては、朝とうそぶくだけなのだ。
 




          三ノ年