東雲に連れ去られた一件以来、暁が黄月から文を託されることは無くなっていた。目の前に突き付けられた、彼の長い人差し指を覚えている。
「お前がどこへ消えようと勝手だ。どこで野垂れ死んで犬の餌になろうが、俺の知ったことじゃない。だが文を持ち去られると困るんだ。そのうえ文を開け、汚すはもっての外。……何か言いたいことは」
 随分な言いようだが、暁とてあの群れの真意が分からぬ今、橋を渡りたいとは思わなかった。一分の狂いもなく滑らかに整えられた爪から、彼の顔へと視線を移す。
 せめてもの皮肉として言ったことだった。
「じゃあ開けたからこそ言えることを一つ。黄月の書く湊の字は横の棒が多い」
 きっと彼は目をつり上げて暁の口答えを責めるだろう。いつものことだ、分かりきっている。分かっていながらつい言い返してしまうのも、いつものことだった。
「暁」
 ほら始まった。……彼を見上げて、暁はぴくりと眉を寄せる。
「お前、字が分かるのか」
「……何だ、その顔」
 暁が見たのは、今まで一度として向けられたことのない表情だった。この男は嘲笑と侮蔑以外にも顔を作れたのだと、妙なところに感心する。
「俺の顔の話はいい、答えろ」
「字がどうこうなんて、今更聞くことじゃないだろう。人を何だと思ってるんだ」
 その途端、黄月はいつもの顔に戻り、暁は気分に靄がかる反面ほっとする。
「お前の話じゃ埒が明かん。待っていろ」
 そうして出て行った彼は、すぐに紙の束を腕一杯に抱えて現れた。どさりと置いた中から暁に一枚押し付け、読めと促す。訳も分からず字を追っていると、彼は不機嫌な声で、声に出して読むよう命じたのだ。

「暁、声嗄れてる」
「そりゃ、これ全部、読まされたら」
 魚の焼ける匂いが漂う秋の夕、暁を呼びに来た紅花は、紙の山に埋もれた彼女を見て興味深げに近寄ってきたのだった。山は暁を頂として裾野よろしく部屋じゅうに広がっている。崩れた紙を踏まぬよう、紅花は彼女から一畳離れたところで足を止めて膝をついた。部屋はまるで将棋崩しの様相だ。
「読まされたって誰に……って、ああごめん、言わなくていいから。分かった分かった」
 ひらひらと暁を制し、目に付いた紙の一辺を持ち上げる。蛇腹の紙はだらりと垂れて夕日に染まり、向こうの墨が透けて見えた。紅花は首を右に曲げてそれを見つめ、今度は左に倒した。
「嬉しがってたでしょ、黄月」
 暁はわずかに首を傾げる。あれは嬉しがると言うのだろうか。
 紅花は蛇腹を畳んで暁に差し出した。腕を大きく伸ばして受け取る。開いたそれには、もはや見慣れた黄月の字が並んでいた。やはり湊の字が間違っている。
 紅花は目を閉じ、眉を一度上げて立ち上がった。暁に、青みを帯びた影が重なる。
「分っかんない。仮名なんてちょっとしか無いじゃない、よく読めるわねこんなの」
 文に目を落としていたから、驚きを悟られずに済んだ。
 そうか、だから黄月は問い質したのだ。読めて当たり前だと言わんばかりの暁を睨んだのだ。
 影が離れて暁は顔を上げる。紅花の向こう側では、夕焼け空がそろそろ終わりを迎える頃だ。日に日に夜が早くなる。夏に使えなかったぶんの香ほづ木で、既に秋の雨呼びは済んでいた。
「……今日って魚だよね」
「あ、そうだ。早く来な、ハイノメが冷めちゃう。脂が乗ってて美味しいんだから」
「待って紅花、壬では」
 紙の中から身を引きずり出して、数度咳払いをする。紅花は敷居の向こうで次の言葉を待っていた。
「壬では秋に、よく山のものを食べたんだ。カンカ、ヨタキナ、アマテにトウハノカ、実も山菜も一杯、覚えきれないほどあった。それで、調達できたら皆に振舞いたいから、その……火の加減とか、味付けの仕方を教えてほしいんだけど」
 紅花はにっと唇を結んで笑った。赤く暮れる空を背に、いいわよと、それは幾分誇らしげな口調だった。



 ぷんと墨の匂いが鼻をついて、針葉は思わず内廊下を行く足を止めた。周りを紙の束に固められた暁が、こちらに背を向けた恰好で、何やら文机に向かっている。
 ひよの店で買った最後の団子を串から引き抜き、そっと畳を踏んだ。
「何やってんだ」
 びく、と細い肩が跳ね上がった。振り向いた暁が泣きそうな顔でゆっくりと口を覆い、筆を硯の傍に置く。
「浬が来たのかと思った……」
「何だ、あいつがそんな怖がるほどの奴か?」
「あんなの猫を被った鬼だ」
 へえ、と脇の真黒い紙を退けて胡坐をかく針葉の頭には、茶太郎を頭に乗せた間抜けな浬が浮かんでいる。
「あいつに何か書けって言われてんのか」
「針葉は家を離れてたんだったね。ここのところ、朝起きて夜眠るまでこればかりだ。今までに黄月や浬が書いたのが左で、右が書き写したほう。そのうち気が違うんじゃないかと思うよ」
 針葉は首を捻って、頭の向きを暁と同じにする。
「何て書いてあんだ」
「薬の名の羅列だから聞いても面白くないよ」
 針葉は顔をしかめて周りの紙に目をやった。先程退けた黒一面の紙もよく見れば、文字を重ねに重ねたなれの果てらしい。串を口に銜え、身を乗り出して机に頬杖をつく。
「俺の名ってどう書くんだ」
 針葉を机から追い払い、お任せあれと筆に指を掛けた暁は、ふと考え込んだ。
「今更……なんだけど、葉っぱ? 松なんかの」
「そうそう、長が寒さに負けんなっつって」
 余程寒がりな子供だったか。暁は白さの残る紙を探すと、背を伸ばして筆に墨を含ませた。穂を扱いてすっと紙の上まで運ぶ。腕を下ろすのに併せて影も近付き、白の上で交わった。
 部屋は静まり返る。時折風がそよぎ、紙を揺らしていく。
 りゃくたく、伸びやかな二つの払いを最後に暁は筆を置いた。紙には上下二つに字が残る。凛と佇む冬の木々を思い描いて書いたものだった。なかなかよく書けていると、自分では思う。
 針葉は何も言わず、自分を表す二字に目を落としていた。おもむろにそれら二つを串の先で差す。
「こんだけか」
 暁はぐっと口を結んだ。
「……これで全部だけれど」
 針葉は腕組みをして、気の無い様子でふんと呟く。暁は再び口を結ぶ。この男は一体何に納得がいかないのか。
 串が下の字を差した。
「こっちは」
「葉っぱの葉」
「じゃあこっちは。冬って字か、それとも尖ったって字か」
 彼が次に示したのは、当然ながら上の字だった。
「近いね。そっちは針って字」
「梁ぃ? 梁って柱のか」
「……。……いやいやいや、算盤の梁じゃなくて針と糸の針」
「針」
「針」
 針、ともう一度確かめるように言って、針葉は串を噛んだ。彼が歯を動かすたびに、串の持ち手側がゆらゆらと空を掻く。
「ん、まあそりゃそんでいいや。この字は真ん中で縦に切れてんのか、なんっか右が頼りねえが」
「左が金で右が十だね。ひ、ふ、みの十」
「はあ!? 金が十ってそりゃ、いくら何でも聞き捨てならねえぞ」
 暁は針葉から身を逸らした。何を切欠に激高しているのか掴めない。聞いている彼女の方が混乱していた。
「大体十っつって、そりゃ朱ごろか鈍ひらか、どっちだよ」
「知らないよ。高いほうでいいんじゃないか」
「暁……お前、真剣に考えてもの言ってんだろうな。俺の一生がかかってんだぞ! それとも白菊か、白菊なんだな」
 坡城で最上の単位である白菊なら、十枚でもいいらしい。揺さぶられるまま適当に頷いていると、ようやく針葉は落ち着いた。
 字を書いてこれほど消耗したのは初めてだ。息が切れている。……安請け合いするのではなかったと、暁は身にしみて感じていた。だが名を書くだけでこうも話が長引くと、誰に予想しえただろう。
「ところでな暁、こっから先は折り入っての頼みなんだが」
 気持ちの悪い猫撫で声が右耳に触れた。これ以上何だというのだ。何を言われても断るつもりで、暁はちらと彼を見た。
「この十って百になんねぇの」
 直後、暁が針葉を部屋から締め出したのは言うまでもない。



 短檠の火が障子の傍でゆらゆらと身を揺すっている。日はとうに落ち、黄月の部屋で暁は、襖を背に正座したまま身を固くしていた。
「よし」
 じっと目を落としていた紙から目を離すと、黄月は短く呟いた。暁が書き写した紙の束の全てに入念に目を通して、それが最後の一枚だった。
 突き返されるまま束を受け取る。墨の匂いの真新しいそれは腕にずしりと重く、丸めれば人を容易く喪神させられるだろう。
「……よし、というのは」
 おずおずと口に出す。
 今までと違うのは、黄月が暁を正当に判じようとしている点だった。一度そうと決めれば黄月は、私の情を徹底して殺す。これまでの関係の悪さを言い訳にはできない。その先の言葉に怖気づいているのは事実だった。
「まだ到底使いものにはならん」
 彼の唇に躊躇はない。じわり、束を持つ指に力をこめる。短い言葉が耳から消えた後には何の音もなく、暁は指から力を抜いて立ち上がった。
「そうか、分かった」
「誤解するな」
 振り返ると、奥の短檠の光が彼の体の線を縁取って見えた。彼は光のほうを向いたままで言葉を続ける。
「まだ、と言ったんだ。何のために浬にも面倒を見させていると思う。お前に望むのは今日明日の一じゃない、十日後の百だ」
 相も変わらぬ無愛想な声だ。百を望むなら百日待つのが道理ではないかと、ちらと頭をかすめもしたが、暁は襖にかけた手を離してぐるりと彼を向いた。
「黄月。そのうち、私がいなくては何も進まない、くらいのことは言わせてみせるから」
「どうせ大口を叩くなら、明日そうなる、くらいは言ってみせろ」
 彼の口調はいつもと変わらず、暁の意気込みをいなすように淡々としていた。
「……おやすみ!」
 どんと襖を閉めて内廊下に出る。畳が板になっただけでひやりと体が冷える気がした。もう辺りは真っ暗だ、早く自分の部屋へ帰ろう――
 違った。
 黄月の部屋は東側の五つの並びのうち、ちょうど真中にある。西側の向かい五つのうち一番北、右手の端にあるのが暁の部屋だが、そのちょうど反対の端からも、細く光が漏れているようだ。
 南東の部屋は確か……。遅くまで起きているたちでもあるまいに、どうしたことか。
 火を消し忘れたのだろうか。そっと襖を開けて覗き見た。
 更に襖を開けてずかと足を踏み入れるまで、数える間も無かった。部屋の主が目を丸くして振り向く。
「うわ、何だお前! ……ははぁ、さては前の仕返しだな。脅かそうっつってもそうはいかねえぞ」
「針葉じゃあるまいし、誰がそんなこと。それより何だ、その本は」
 部屋の主、針葉の片膝立てた周りには、蒲団や畳を覆うように、数冊の本や紙が乱雑に散らばっていた。それが滅多に灯らない行灯の光を受けて、ゆらゆらと橙に輝いているのだ。
「俺が読んで何がおかしいんだよ」
 似合わない……驚くほど似合わない。この一年半、彼の部屋に一番しっくりきていたのは魚の匂いを振りまく桶である。次点が褌で、その次がようやく刀だ。
「誰に借りたの」
「本は大抵紅花で、他には坂の下の奴らに押し付けられたのがいくつか。そうだ暁、お前ちっと来い」
 手招きされても暁は行くのを渋った。数日前、十を百にしろだのもっと見端いい字に変えろだの無理難題を畳みかけられ、安請け合いするまいと誓ったばかりだった。
「なに突っ立ってんだ。……なあ、読めねえ字があるんだよ。教えてくれや、師匠」
「浬に頼めば」
「誰があんな奴に頼るか」
 彼が言うと至極もっともに聞こえてしまう。麻痺している。
 ……読むだけなら文句を言われることもないだろうか。うるさくなったら眠気にかこつけて逃げればいい。何より、身に付けたことを頼られるのは心がくすぐったいような感覚だった。
 そっと襖を閉めて隅に紙束を置き、針葉から一歩離れた右隣に座る。
「どれ。見せてごらんな」
「いや、ここに書くから」
 手習いの師匠よろしくすっと差し出した暁の手には目もくれず、針葉は畳を指で擦った。暁は彼をたっぷり睨んで、畳に目を落とす。
「……いと、たば? あずま……? ああ、一つの字かな。じゃあ練だ。練る」
「練る……ああ何だ、そういうことか。じゃあこれはどうだ」
「手に、……弓、いや弱か。それは搦めるって字」
「からめ……ふん、なるほどな」
 跡の残らぬ、順もでたらめな指の動きが、頭の中でようようして文字となる。しょっちゅう紙をめくる音が聞こえるからには、大方の字には仮名が振ってあり、仮名のない題字のみ読みを尋ねているといったところか。続けて二三の字を解し、暁は針葉の左掌の奥へ首を伸ばした。
「何読んでるんだ」
 すぐに押し戻される。
「それはいいから。じゃあこれは」
 ちらと目をやるが、彼の手は大きく、薄い本の大半を覆ってしまっていた。矢継ぎ早な問いにどうにか答えを返し、字から読み取れる話の流れをいくつか頭の中で組み立てていく。……何か、妙ではないか? どうしてここで冬鳥の名が。どうして上巳の節句が。
「じゃあ次、これ」
こざとに……今に、云う……ちょっと待て。本当に何なんだ、それ」
「うるせ、寄って来んなって、おいこら……このっ」
 押し返す手をすり抜け、ぐいと身を乗り出して手を伸ばす。針葉は素早くその本を奥へ押しやる。近付く。離れる。息もつかせぬ攻防が続く。
「……っ、蛸はどうでもいいんだ蛸は!」
 一喝したのは針葉だった。暁が怯んだ隙に、更に奥へと本を蹴飛ばす。
 畳の上を滑って暁の腕が届かなくなったところに、どんと他の本を積み重ね、並び替え、これでもうどれかは分からない。
 しばらく、どちらも動かなかった。暁は肩で息をする。
「……蛸?」
「いいっつっただろ。よし、次はこいつな。頼むぞ師匠」
 これ見よがしに広げてみせる、それは挿絵が大部分を占める本だった。所々に振ってある仮名は、紅花が書いたものらしい。
「もち。……むしこ。……やなぎ」
 今度は頭を働かせる必要もなく、見えた字をそのまま読んだ。針葉は文字をなぞりながらそれを聞き、一行が終わるごとに声に出した。今聞いたとは思えないほど間違いだらけの文を、その都度直してやる。
 四行目で暁は腕をさすって身震いした。足もとにあった蒲団を引き寄せて背に被る。
「寝るなよ」
「寝ないよ」
 残りは一行を残すのみ。だが道は険しく、読み直すほどに読み損ないは増える一方だった。
 同じところで間違うたびに、針葉の顔は苛つきを増し、暁の顔は疲れを増す。ようやく最初の頁の最後の字を読み終えた。
「よし、待てよ、初めっから読んでみるから」
 針葉の声が勢いづく。うん、と意思の無い声が返ってくる。
 夜はとうに更けていた。時にうとうととしながらも、一つ一つ字を潰していく。この、すすきのすぐ隣にある字は確か、池だ。じめとした池の周りに、いざなわんとす手のごとくにゆらりゆらりと……ええと、ほら水っぽい木だ……柳、が揺れている。
 小僧は……一つを手にして……これは提灯だな、絵を見れば分かる。そこにふと吹きしは……そう、ここで確か風が吹いたんだ。
 字というよりは話を覚える遣り口で、針葉はどうにか言葉を繋いだ。
「こぞうそこで……うでのふろしき、ぎちと……つかみ、た、り。よしっ。おい聞いてたか、全部合ってただろ」
 拳を握って右を見る。そこにあったのは、伸ばした腕を枕にすやすやと寝息を立てる師の姿だった。肩に入っていた力がしゅるしゅると抜けていく。一つも直されなかったのは、とうに寝入っていたためらしい。
「起きろ暁。おい、起きろって」
 揺すっても叩いてもその気配はない。そうこうしているうちに、ふっと灯りが落ちた。芯が尽きたのだ。暗闇に舌打ちが一つ響いて、すぐ消える。
「風邪引いても知らねえぞ」
 吐き捨てるように言うと、暁の背から蒲団を取って広げた。周りにあった本を押しのけて自分も横になる。閉じた瞼の裏がずきずきと重く痛んだ。

 次に目を開けたとき、痛みは頭に宿っていた。体じゅうに気だるさが広がっている。ほんの一瞬目をつむったつもりだったが、障子の向こうは既に明るい。
 まるで疲れが抜けていない。起き上がると、鉛玉でも転がったかのようにがんと頭が痛んだ。背をぞくりと寒気が這い上り、思わず肩をさする。
 そこでようやく気付いた。蒲団がない。どこにもない。冬も間近な夜もすがら、衣一枚で過ごしたということだ。
 ふと、左方にある塊に目が止まった。あれは何だ。
「師しょ……」
 違う、何が師匠だ。あんなもの蒲団泥棒に他ならない。
 針葉の左手では暁が、簀巻よろしく体じゅうに蒲団を巻き付けて、未だすやすやと眠りこけているのだった。
「この野郎……」
 たゆい体で立ち上がったところへ、また寒気が上る。全く恰好がつかない。針葉は、寝息に合わせてゆっくりと膨張し縮小する蒲団の塊を、冷え切った爪先で突いた。
「こら暁、いい加減起きろ。蒲団返せ」
 返答はない。文字通りぬくぬくと世界を手放す寝姿は、なんとも幸せそうだ。針葉が寒さで震えているのとはまるで逆である。
「いーい覚悟だ」
 傍に膝をつき、蒲団の端を掴む。三つ数えた後、天井に向けて大きく腕を振り上げ、盗品を引っ剥がしにかかった。暁の体はわずかに浮き上がり、ごろり、その場で一回転する。
 負けじと、暁も眉を寄せて蒲団を引く。声にならない声がくぐもって聞こえる。それでもまだ目を開けないのが憎らしい。
「いいっ加減に、しゃあがれ!」
 抵抗する腕を押さえ付けた、その時だった。針葉の背後で障子がさっと開いた。
「針葉、この前の菱屋の話だが」
 黄月の言葉は、針葉を見下ろして止まった。振り向いた針葉に対し、彼は目を細めただけで、表情には大きな変化を見せなかった。
「朝っぱらから悪食なことだ」
 ぽつりと言うと、障子は開けた時と同じ速さで閉まり、黄月の影も遠ざかった。
 呆気に取られていた針葉は、そこでやっと身を起こした。今のは一体。
 ごそごそと動く音で首を元に戻す。暁が隙をついて蒲団の中にもぐり込むところだった。散々闘ったため、髪も裾も乱れに乱れている。白い脛に目が止まって、ぶんと顔を背けた。
 そうか、そうだった。あまりにも平らだから、あまりにも匂いが無いから、気にもしていなかった。
「如何物食いって……俺がかよ」
 腹立たしいような、惑うような、妙な気分だった。誰に弁解していいか分からない。頭の痛みは酷くなる一方だ。
 遣る方なく、顔を歪めてしっかと蒲団を掴んだ。今度こそは平安のときと体温を取り戻すのだ。



 黄月が坂を上るころには日も昇り切っていた。明け方の風に冷え切っていた耳朶も、いくらか溶けてきたようだ。
 戸を引いたところで、内廊下から出てきた浬と出会った。手には紙の束を抱えている。
「おはよう。斎木先生のところ?」
 黄月は答える代わりに袖を軽く振った。じゃらりと音がする。
「お前は。そんなものを持ってどこへ」
「そうそう、黄月、暁を見なかった。昨日渡したものが間違ってたんだけど、部屋にいないみたいで」
 黄月は軽く頷き、草履を脱ぐ。ぴたりと隅に寄せて揃える。浬を振り向いて、彼はようやく口を開いた。
「針葉の部屋で寝てたな。さっき針葉が組み敷いてたから後にしてやったらどうだ」
 呟くように言うと、浬の横をすり抜けて内廊下へ消える。浬は目を丸くしてそれを見送った。
 ……しばらくして、唖然とした自分の顔が戻っていないことに気付く。待て待て、今何を聞いた。黄月は何と言った。
 自分も草履を履いて外に出る。ぼうっと目を閉じていると、ひやりとした風が額に触れて心地よい。
 不意に、冷たいものが顔に飛んでくる。開けた目のすぐ前には紅花が立っていた。今のは指で水を弾いたものらしい。彼女はにっと笑うと、井戸の傍の盥に戻った。盥の中には水が張られており、彼女は朝早くから洗いものに精を出しているようだった。指先が寒風と水に赤く染まっている。
「おはよ。どうしたのよ変な顔して」
「おはよう。張り切るね」
「昨日は空が真っ赤だったでしょ。そこ、暇なら干して」
 もう一つ紅花の傍にある乾いた盥には、解いた薄物や手拭いが絞られ、山と積み上げられていた。浬はそのうちの一つを手に取って広げる。
「紅花ちゃん」
「何よ」
 紅花は手を止めて浬を見上げた。浬はどう言ったものか考えたが、結局は手短な言葉を選んだ。
「知ってた、針葉さんと暁のこと」
 紅花は眉間に大きく皺を寄せて、話が長引きそうだと判断したのだろう、背を伸ばし縁側に腰掛けた。
「あの二人がどうかしたの」
「だよね。紅花ちゃんも知らなかったよね!」
 手に持った手拭いをぐしゃりと握りしめ、浬は紅花に歩み寄った。いささか興奮した様子で同意を求める彼を見て、紅花は後ろにもたれかかり溜息を吐いた。
「あーあ始まった。まぁた何か吹き込まれたんでしょ。あのね浬、これで一体何度目よ。軽々しく信じるなっていっつも言ってるじゃない」
「そうじゃないよ。いや、いつもは確かにそうかもしれないけど今日は違うんだって」
 もどかしい会話にうんざりしたように、紅花は目を閉じて首を傾ける。
「どうせ出どころは織楽でしょ。分かってんのよ、いつものことだもん」
「黄月だよ」
 紅花が目を開けた。風でも起こしそうに豊かな睫毛で二三度瞬きし、視線で次を促す。
「針葉さんの部屋で眠ってて、それでさっきも、その、ええと、何というか……事に及んでたって」
 とうとう紅花は吹き出した。半分は奇想天外な話の展開に対して、もう半分はあまりにまどろっこしい物言いに対してである。
「ないない。あんた、針葉がどんな人と付き合ってきたか知ってんの。見間違いか、そうでなきゃからかわれてんのよ」
「黄月に限ってそんなことあると思う」
 そう、今の返しが通用するのはあくまで織楽が言った場合なのだ。紅花はぐっと詰まり口を噤む。それを納得と取ったか、浬は握りしめていた手拭いをぱんと広げて、南側の物干しに掛けた。
 紅花はそっと左後ろを振り返る。向かって右端には渦中の長の部屋があるのだった。

 いつもより遅い朝餉に、珍しく七人が揃った。浬は襖側の一席について箸を取る。向かい側の一席には針葉が、その三つ隣には暁が座っていた。
 視線だけを二人に向ける。そういう目で見ていると、暁の何気ない欠伸も、針葉が顔をしかめて関節を鳴らすのも、全てそう見えてしまう。向かいの紅花がちらと目配せしてくるが、こちらは否定側だ。彼女は時に眉を寄せ、小さく首を振る。
 結局、朝のうちに二人が言葉を交わすことはなく、食事を終えて人はまばらになった。
 浬は湯呑を唇に運ぶ。とうとう最後まで残っているのは自分一人だ。二人に気を取られていたためと主張したいところだが、同じ条件の紅花はとうに食べ終わって片付けを始めていた。
 ず、と茶を啜る。熱い茶が嬉しい季節だが、生憎湯呑の中は温い。葉は底に円く沈んでしまっていた。
 ……背後からゆっくりと、畳の沈む音。浬は湯呑を傾ける手を止める。これで足を忍ばせているつもりか。
「よっ」
 ばしんと浬の背を叩いたのは織楽だった。
「わっ、吃驚させるなよ。お茶飲んでるんだから危ないだろ」
 湯呑を膳に戻す間もなく肩を引き寄せられる。
「そんなんよりお前のほうがよっぽど吃驚やわ。いつの間に紅花たぶらかしょったんや、この色男が」
 今度こそ茶を吹くところだった。数度咳き込み、口を押さえて織楽を見る。
「ま……待って、何だそれ。違う、断じて違う」
「恥ずかしがらんでもええて。分かる分かる、どうせお前が尻に敷かれてんのやろ。どや紅花の尻は!」
 織楽は何も分かっていない。睨み付けると、彼は悪びれもせず笑って返した。ここでまともに相手をしてはいけない。
「違うって僕ははっきり言ったからね。冗談でも紅花ちゃんに言わないように。殴られるよ」
「掛けまくも畏き紅砂兄ちゃんに言うほうがどんだけ怖いか」
 ……織楽はよく分かっている。
「そうかぁ、おもんな。したら家の女に手ぇ出した不届きもんは針葉のほうか」
 幾度浬の顔を強ばらせれば気が済むのだろう。紅花の話が一段落してひと息ついたところにこれだ。慌てて何のことだか分からないふうを装ったが、織楽は笑みを強めただけだった。これはまずい。非常にまずい。
「……本人に確かめようなんて考えるなよ」
「俺、針葉と仲悪ないし、いびられても俺ちゃうしぃ。……嘘嘘、安心せって、針葉にはなんも訊かんわ。代わりにお前が教えてくれんのやろ」
 じっと睨むが織楽の顔は変わらない。いつもと同じ満面の笑みだ。何か与えなければ、がっちり掴んだ浬の肩を放しはしないだろう。
 浬は嘆息する。
「黄月が言ったんだよ、二人が一緒に寝てたって。それだけだよ本当に。多分それも何かの間違いだよ」
 織楽は眉を上げ、浬に寄せていた体を離した。
「なーんや。したら季春行ってくるわな。忙しぃて茶ぁ啜る暇もないわ。じゃあな!」
 一人でまくし立てて思い切り浬の背中を叩き、織楽は軽い足取りで出て行く。浬は気楽な姿を睨みつつ見送って、ようやく冷めきった茶を啜った。