紅砂が妹と暁のお守りを兼ねて季春座を訪れたのは、夏も終わりに近付いたころだった。
 季春座では例年どおり、夏にはお決まりの怪談ものが演じられていたが、今年は特に受けが良いのだという。影を長く伸ばしながら夕方の裏道を行く。蝉の声も緩慢に耳を覆う、生温い日だった。
「あたし、これ見るのは今日が初めてなんだ。行こう行こうと思ってたら、織楽が今日来いって言うから」
「どういう話?」
「風鈴女が怖いんだって」
 紅花の大雑把な説明から何を想像しようとしたか、黙り込んだ暁は向かって歩いてくる者と二度もぶつかりそうになった。
 後ろを歩く紅砂はそのたびひやりとするのだが、当の本人は全くもって気にしていないらしい。
 暁が家に帰ってきてから十日足らず。どううまく立ち回ったものか、黄月でさえ文句を言うことは無くなっていた。そしてその立ち回りの大部分を演じたのは、紅砂でもなければ暁でもなかった。
 誰からも信頼を集め、誰にでも馴染む、たった一人。そのたった一人の並外れた気遣いで、不自然なほどすんなりと、彼女は再び家に溶け込んだ。
 紅砂は最悪の状況を想定していた。
 生きていた――抑える間もなく頭に浮かんだその先は、努めて思い返さぬ。暁の声が聞こえたときは安堵するよりも、肝に粟立てる方が早かった。
 ……しかし暁はひと月以上も行方不明になっていながら、多少の怯えと疲労は見せたものの、自ら紅砂の手を取ったのだ。その後も、物音一つに身を竦ませる様子はあったが、終始落ち着いていた。
 足の肉はいくらか衰えたようだが、痩せてはいなかった。髪が伸びたことを除けば、彼女の身は夏場とも思えず綺麗に整えられていた。
「白けるから詳しいことは聞いてないんだけどさ。子っこ失った母ちゃが成仏できずに、子っこの大好きだった風鈴の音を鳴らしながらね、出るんだって。こんなふうに」
 紅花がだらんと垂らした両手を暁の方へ突き出せば、暁も、顔だけはくしゃくしゃに崩しつつも気味悪がって身をよじる。仔鹿の尻尾のように小さくまとめられた茶色の髪が揺れた。そうして紅砂は頭の中から引き戻される。
 元々、突き詰めて考えるのは得意ではない。紅砂はじゃれ合う二人を真っ直ぐ歩かせようと、慣れず気を尽くすのだった。
 小間物屋の前を通り過ぎて南下するうちに、いつしか影は青みを帯びて左手に並ぶ店々を揺れ動く。
「そこ、草で見えにくいけど道があるから。そこから入って」
 紅花の示した細道は紅砂には通れず、却っていつもより遠回りすることとなった。大通りに入った途端に増えた人の波をくぐり抜け、鼠木戸に辿り着く。
 木戸番と言い争う妹の甲高い声が聞こえたので、紅砂は嫌な予感が的中したことを知った。
 日の沈んだこんな遅くから、幕が揚がるはずがないのだ。



「どういうことよ馬鹿しが」
 勢いよく引いた襖の先、織楽の部屋では、いつも畳を隠していた本や着物や小間物の代わりに人がひしめいていた。むっと息の詰まるような熱気に襲われる。
「く……」
 紅花の声は急速に威勢をひそめる。ひょいと暁が覗き込むと、右手の間仕切り襖が開け放たれて、隣の部屋と間が繋がっていた。織楽の隣の間を使っているのは、本川という季春座の花形役者であり、紅花が最も贔屓にしているのも彼なのだった。
 目を丸くしていた本川が、ふっと顔を背けて肩を揺らした。笑っているのだ。紅花の顔がぱっと染まる。
「……織楽っ」
 ひと声腹の底から絞り出すと、目をつり上げて次々人を押しのける。目指すは窓辺の織楽だ。襖から窓辺まで一直線に、まるで海でも割ったかのように見事な道ができた。
 楽々標的に辿り着いた紅花は、織楽の衿をきりきりと締め上げる。周りは囃し立てるばかりで、止める様子など微塵もない。とんだ破礼講の場に居合わせたようだ。目を丸くしていた暁と紅砂も、傍の者に勧められるまま座し、背で襖の閉まる音を聞く。
「何が何って顔しとるんね。織楽から聞いとらんっちゃあろ」
 脇から身を乗り出して話しかけてきたのは、二人よりやや年嵩の少年だった。その向こうから興味深々といった様子で顔を出すのもまた年若い少女だ。紅砂は改めて部屋を見渡す。この部屋に所狭しといるのは、どうやら若手ばかりのようだ。
「織楽には木戸御免で見せてくれるとしか。これは一体何の集まりなんだ」
「ちょい頼みごとがあってな。けど来ょったん三人だけっちゃな」
「大丈夫でしょ、あの子一人であんた三人分は動けそうだもん」
 少年の向こうから少女が茶々を入れる。あの子というのは無論、熱気の真っ只中にいる紅花のことだ。むっと顔をしかめる少年を押し退けて、少女は二人に身を乗り出した。
「実はね、ここ最近、風鈴女が出るって話で持ちきりなんだわ。でも寄り合いのときだから、あたしらには確かめようがないの」
「双葉よ、それがお得意客に対する口か」
 ざわつきの波をくぐり抜けて、耳にしみ込むように届いたのは本川の声だった。少女は肩を竦めて横目で彼を見る。
「ええと。それからおかしいことに、本川さんたちの組の人は聞いたことがないって言うの。……でございます。でもあたしは確っかにこの耳で聞いたのよ。……で、候? 誓ってもいい、嘘じゃない。……で」
 これ以上訳の分からない語が増えないうちに暁は、止めどなくぎこちなく流れる少女の話を手で制した。
「丁寧にしなくていいから。それより、風鈴女って織楽たちが出ている芝居の幽霊か何かじゃないのか」
「そう、それが出るの。この季春座で」
 だからどうにかしてちょうだい、とでも言いたげだ。実際そのために呼ばれたのだろう。
 紅花も、傍の少女になだめられて怒りを鎮めたようだった。本川が右手を上げると、今まで耳にまとわりついて離れなかった雑音がすっと引いていく。
 三人と若手役者たち、それぞれの紹介を経て、場はようやく部外者を受け入れた本来の目的を取り戻しつつあった。

 事の発端は十日前。
 季春座には上下二つの組があり、この部屋にひしめいているのは、織楽と本川を含めたごく僅か以外は下の組の役者なのだという。彼らが寄り合いと呼ばれる芝居土台を打ち合わせる場で眠気を噛み殺しているとき、それは起こった。
「どこからともなく風鈴の音がね、ちりーん……ちりーんって」
 もちろん部屋にも風鈴の一つや二つ揺れている。しかしその音は、きちんと戸締まりのしてある廊下から、襖を通して聞こえたのだ。
「あれは絶対に隙間風なんかじゃない。何てったって……近付いてきたんだから」
 聞いたのは襖近くの複数人。当然、廊下を確かめてみたくなった。しかし部屋の奥には座長や上の組の役者がいて、稽古がてら全員を見張っているのだ。
 そうこうしているうちに音は遠ざかり……やがて、聞こえなくなった。
 何かの間違いだろう、最初はそう思った。上の組の風鈴女の芝居が大当たりだから、それが頭のどこかに残っていたのだろう。
「でも次の寄り合いでも、その次も、同じことが起こったんだ」
 何かがいる。そう確信した彼らは、上の組の役者に話してみた。きっと上の組の寄り合いでも同じ音を聞いている者がいるはずだ。下の組の話だけではまともに取り合ってもらえないが、上の組も騒ぎ出せば、あるいは。
 しかし、事はそう簡単にはいかなかった。
「誰一人として首を縦に振らなかったよ。自分たちの寄り合いではそんなこと起こらないって。挙句の果てに、下の組は臆病者ばかりだなんて言われるしさ」
 だからこそ彼らは集まった。……もちろん全員ではなかったが。
 彼らの部屋では容れられぬほどの数が、風鈴女の成敗のためだけに膝を並べることとなった。……その結果、意地も捨てて上の組の二人に頭を下げ、階から遠く広々としたこの二部屋を開けてもらうこととなったが。
「寄り合いで座長たちは、俺らが全員集まってから入ってきて、俺らが出る前に出ていくんだ。それまでずっと埃一つ許さんってな顔で見るから、小便行きたくなっても我慢我慢の一語でさ。風鈴女を確かめるから、なんてどう考えても許してくれるわきゃない」
 それは皆同意見のようだった。座長は恐ろしい。座長は近寄りがたい。肌に深い皺が寄り、髪が灰色に染まるほどの歳であるが、背はしっかりと伸びて大柄、いついかなる時も堂々と風格のあるたたずまいを崩さない。笑うことはなく、褒めることもなく、ぎらりと鋭い目は何を見張っているか分かったものではない。
「次の寄り合いは明日の夜。下の階にある大きめの部屋だからすぐ分かる。どうか頼む」

 話が終わると、今までの騒ぎはどこへやら、彼らは息をひそめるように部屋を去っていった。彼らは大部屋住まいだから、階を下って遅い眠りにつくのだろう。
「上階は俺らの組の奴らが多いし、そこで寝泊まりしとんのもおるからな。見付かったらえらいこっちゃろ」
 闇に彼らの背を見送って、紅花は襖を閉め、畳に向き直る。
 人がいなくなった部屋は、目を見張るほど広い。昨年来たときは部屋に所狭しと散らばっていた物が、今年はどこかへ消えてしまっている。何しろ行灯の光を遮るものが無いのだ。
「織楽、あんた家に運び込んでるでしょ。道理で最近物が増えたと思ったら」
「いや、ここに置いとくと木戸小僧がな」
 言い訳じみた織楽の言には耳を貸さず、紅花は渋い顔を突き出す。
「大体、あの子らが調べらんないっていうなら、あんたが調べたらどうなのよ」
「言うてるやん、次の朝早いねんて。それに」
「悪いね、内輪ごとに巻き込んで」
 助け舟を出したのは、隣の部屋で蒲団を敷き終えた本川だった。彼の言葉に紅花は表情を和らげたものの、すぐ織楽に冷たい目を向ける。
「しゃあない、次の芝居でいっとうええ席取ったろ。それから」
 彼は紅花を抱き込むように肩に手を回し、他に背を向けて何事か囁いた。紅砂が眉間に皺を寄せる前に彼女は解放されて、暁たちを振り返る。
 その顔は磨き上げた玻璃より輝いていた。
「張り切っていくわよ! 紅砂! 暁!」
 紅砂は呆然と仁王立ちの妹を見上げ、暁は既にうとうとと目をしょぼつかせている。
「とにかく今日はもう休んだらいい。お兄さんはこっち、俺の部屋に一緒でいいだろ。そっちの子は……」
「暁と紅花は俺んとこ使い」
 暁の振り分けに迷った本川の声を、織楽が繋いだ。紅花は暁を揺り起こして、本川の運んできた蒲団を広げる。暁は枕も無いところにこてんと横になり、すやすやと寝息を立て始めた。
「そんじゃおやすみ」
 織楽が間仕切り襖を閉める。――閉まる寸前で、それを止めたのは紅花だった。
「ちょっと待って織楽。なんっであんたがこっちにいるのよ」
「そら俺の部屋やし」
 もう一度肩を抱こうとした織楽が紅花に脛を蹴られ、紅砂に首根っこを掴まれて本川の部屋に消えた後、ようやく襖は閉まり、しめやかに夜が落ちた。



「いい、必ずひっ捕らえるわよ」
 次の夕、織楽の部屋にいた三人に、昨日の役者の一人が寄り合いの始まりを伝えに来た。それで三人は今、訝しくも階段近くの通路陰に潜んで、寄り合いの行われている部屋を見張っているのだった。
 この階に住まう者のほとんどがその部屋に集まっているものだから、廊下にはひと気が無い。襖から漏れる細い灯の他には光すらない。
「準備はいいわね? 気合いは充分ね?」
 紅砂と暁の二人は、出どころの分からない紅花の熱意にあてられているのが実状だった。闇に溶けた紅花の真黒い髪の、旋毛のあたりに声を落とす。
「散らばった方がいいんじゃないか。風鈴女を捕らえる前に俺たちが捕えられかねない」
「紅砂が向こうに行って、挟みうちにすれば捕まえやすいと思うんだけど」
 答えは無かった。しばらくして、部屋からはざわめきの上に三味の音が流れてくる。
「暁、指やめて。あたしの背中は筝じゃないわよ」
「鼻歌もだ」
「……ごめん。何もしてないと退屈で」
 いくらかすると音も止んで、話し声が潮騒のように引いては返した。
 紅花はひょいと顔を突き出す。寄り合い部屋の光の横たわる廊下は、暗闇にすいと伸びて先が見えない。その向こうは、いつか暁が簪を届けに来たという裏口まで繋がっているらしいが、あの闇に飛び込むことを思うとどうにも肝が冷える。
「顔戻せ。誰でん出てきたら丸分かりぞ」
「じゃで誰ぇも出てこんや、さっすが。あ、紅砂は座長ん顔見とらぁがやろ。勿体なぁね、ほんに迫力あったけ。見るっからに鬼じゃや鬼」
「見付こうてからじゃ仕様んなかろ。役者は出てこんでも、座長はいつ出てきゃぁじゃ分からぁぞ」
 二人に挟まれて暁は徐々に顔を強張らせた。……意味が分からない。どこの訛りかも掴めない。耳が曲がりそうだ。
「やっぱり私、向こうで見張ってくる」
「な、何で。待ちなさいよ何でよ」
 三歩も歩かぬうちに袖を引かれて立ち止まる。闇の中で、縋るように紅花の目が訴えかけてきた。
「ひょっとして紅花、怖いの」
「ばっ……馬鹿言わないでよ、怖いもんですか。そんなこと言うならあんたの方がどんだけ怖がり」
 ぎぃ。近くで音がした。三人ははっと身を強ばらせ、音が近付いてくるのを確かめると陰に身を縮めた。
 階段を下りてきたのは役者のようだった。ふぁと間抜けな欠伸を漏らして三人とは反対側に歩いていく。
「……俺が悪かった。いいか、三人固まるのでもばらけるのでも、騒々しいのは無しにしよう」
 紅砂の声で、ようやく場は落ち着きを取り戻した。

 先程の役者も階段を上り、もう一度三味の音色が一巡して、三人のひそむ影にはいよいよ熱気ならぬ眠気が漂っていた。
「暁、起きてる?」
「うん。……寄り合いはまだ続いてるの」
「やっぱり寝てんじゃない。続いてるわよ、よく頑張るわねあの子ら」
 人の音も消えて久しい。夜はとうに暮れて、寄り合い部屋と三人を除き、辺りは静まり返っていた。
「本当に今日来やぁて思わぁか。その風鈴女とやらが」
「思わぁだら、誰がこや遅うに、こや阿呆しょうかね。前も、その前も来とうがよ」
「やぁ言うても今日がそんに続こう確証は無ぁぞ」
「二人ともうるさい」
 ぴしゃりと投げ付けられた暁の声が、また静寂を連れ戻す。しかしその後彼女は舟を漕ぎ出したので、紅花が額に平手を食らわせた。
 三人が黙り込むと、部屋から漏れるざわめきが彩りを増す気がする。襖の内では今、何が行われているのだろう。くぐもった音が聞こえるだけで、その裡はとんと窺い知れない。
「紅花はあの組で贔屓にしてる人っていないの」
「あっちの組ってあんまり見ないからね。三味方や化粧けわい方以外で女の子が当たり前にいるのにはたまげたわ」
 暁は首を傾げたが、そういえば織楽の組で女役者を見かけたことはない。だからこそ織楽は女形を生業としているのだ。
「さっき呼びに来た子もそうでしょ。なんて言ったっけ」
「あぁ、昨日お前と織楽との仲裁役になってた」
「果枝、さん」
 紅花は感心したように暁を振り向いた。
「そうだっけ、よく覚えてるわね」
「お前はどうせ、あの本川たぁいう役者っしか見とらぁじゃろ」
「やが、何ぞ悪いん」
 紅砂は答える言葉を濁した。役者にうつつを抜かす妹は見ていて苦い気持ちになるが、少なくとも紅花は役者と懇ろになろうとしているわけではない。そう考えれば無難な楽しみなのかもしれない。
 また、三味の音。紅砂にはどれも同じに聞こえたので、暁がいちいち「これは初めて聴く」だの「これは三度目」だの呟くのに驚いた。
「全部知ってるのか」
「まさか。芝居のために書いてるんじゃないのか」
 そのとき、紅花が腕を上げた。二人は口を噤んで彼女の動きに注視する。
「聞いて。風鈴じゃない、これ」
 続いて紅砂が目をつむり、頷いた。暁は廊下に手を差し出す。
「風がある」
「何よ、じゃあやっぱり隙間風のせいだっていうの」
「でも戸締まりは座長がしてるはずだし……やっぱり変だ。行ってみよう」
 暁はそろりと足音を忍ばせ、闇の中へ歩きだす。すぐに紅砂が追い付いて、暁の先に立った。暁の肩に手を掛けてぴったり付いてくるのは、きっと紅花だ。そうに違いない。それでなくては困る。振り返って風鈴女がいたら失神してしまう。
 板の冷たさを足裏に感じながら、いくつもの通路を横切って進む。闇は、足を踏み入れたところから表情を和らげて三人を受け容れる。……もしくは、甘い顔を見せて呑み込む。
 ぴりぴりと、沈黙が肌に痛い。
 やがて、闇の向こうが姿を現す。
 ――ようやく辿り着いた通路の終わりには、裏戸が無愛想に身をさらしているはずだった。しかし実際、戸は掌ほどの隙間を見せていたのだ。
 紅花が暁の後ろから顔だけを出す。
「……どういうこと。座長が戸締まりした後に、誰かが開けたってこと? でも、開けたまんまじゃ忍び込んだの丸分かりじゃない」
「忍び込んだんじゃなくて、季春座の誰かが出て行ったのかも」
「同じことよ。開けてれば気付かれて、また閉められるんじゃない。わざわざ開けてるほうが戻ってくるのに不都合よ」
 外の風を吸ったのが契機となったか、二人とも声をひそめることを忘れている。紅砂は口の前に人差し指を立ててみせて、すぐにしゃがみ込んだ。土の上にあるものを摘まみ上げ、目を凝らして、眉をひそめ、投げ捨てて手を払う。
 再び背を伸ばした彼を、紅花は不安げに見上げた。兄の口が開くのを恐れている。
「……風鈴女の正体は、人やなぁかもしれん」
「ゆ、幽霊じゃ言わぁかや!? やだ紅砂まで、嘘やが、冗談言わぁでや、やだ」
「そやなぁで――
 し、と暁が鋭い音で二人の声を止めた。
「音が……戻ってくる」
 彼女の言葉は、隙間風の悪戯という最後の考えの綱を切り捨てるものだった。紅花はぴたりと暁にすり寄り、ついでに紅砂を自分の前に並べる。
 その頃には紅花の耳にも聞こえていた。りん、ちりん、廊下の低いところを這うように進む、不吉な鈴の音が。
 ……紅花は眉をひそめる。
「鈴? 風鈴やなぁで?」
 紅砂がぱっと紅花の前から消えた。それがまるで吸い込まれたように見えて、紅花はひゃ、と身を竦める。
 屈めた彼の腕が、ひょいと何かを掬い上げた。りん、と鈴の音が浮き上がった。
 「風でなぁ人でなぁ、幽霊でんなぁが。風鈴女ぁこいつじゃ」
 みゃあ。首に鈴を付けた黒猫が、紅砂の腕の中でひと声鳴いた。 



 その後は散々だった。
 いつの間に寄り合いが終わっていたのか、座長が裏戸を見に来たのだ。闇からぬっと現れた鬼のごとき面相は、どの怪談話にも劣るまい。三人は見付かるなり捕われ、つい今まで寄り合いのあった部屋へと引きずられた。
 腕組みをした座長と対峙するは、説教を待つ悪戯坊主のようにきっちりと正座した三人。座長は無言のまま、ぎょろりと一つ一つの顔を睨め回した。まるで獲物の品定めだ。
「端のお嬢さん、あんたの顔はよく知っておる。他のお二方も織楽の面倒を見てくれてるってことで、礼だけは言っとこう。……だがそれとこれとは別だなあ。お忍びってのはいただけん」
 しゃがれた声が届くたびに、びくりと体が震える。
「まさかこんな夜半に迷い込んだなんてふざけたことは言わんな。三文芝居にもならん言い開きなら、口に出さんほうがましだ」
 形勢が逆転したのは、風鈴女と猫の話題が出たところだった。暁が出来る限りの丁寧な言葉を選びながら、包み隠さず説明していく。
「この芝居小屋の誰かが猫を飼っているのです。寄り合いで一階からひと気が消える、そのときに猫を放っていた。先程あなたが戸締まりなさいましたね、その後に戸を開けた人が、この騒動の引き金です」
 それまでも十分に険しい顔をしていた座長は、聞くなり更に苦味を増した顔で彼女をじっと見た。暁もじっと見返す。座長の頭から床柱が生えているように見えて、目を逸らすより却って緊張が紛れた。
 紅花がちらりと逸らした視線を暁に投げる。体中を締め付ける重苦しさに耐えられなくなったようだ。
 暁はしきりに瞬きしつつ、真正面をじっと見る。眠気も相まって、柱を生やした男を見ているのか、男に寄生した柱を見ているのか、そもそも二つの違いは何なのか、分からなくなってきた。
 お前は一体何なのだ。鬼か柱か猫か杓子か。
 もたもたしているうちに、目の前の彼がゆらりと左右に分裂する。ええい小癪な真似を……どちらが本物だ……
「……儂だ」
 はっと座長に焦点を合わせる。
「……はい?」
「三毛を飼っているのは、儂だ」
 暁はじめ三人、そして襖の向こうで様子を窺っていた役者たちは、言葉を失った。
「三毛……」
「猫だ」
「黒猫でしたが」
「三毛猫の三毛を襲名した。どちらも鼠捕りの才がある。このところ鼠が増えて頭を抱えていた」
 もう一度言葉を失う。暁もそろそろ聞きづらくなってきた。
「ええと……失礼、それならどういった仔細で、こそこそ飼ったりなどなさるのです」
「ここは芝居小屋だ」
「はい」
「芝居小屋には三味方がいる。……三味方が猫を見るときの目を知っておるか。三毛が三味にされてしまったらと思うと、儂は……儂は」
 飼い主も分からぬ今の方が、よほど三味に皮一重、もとい紙一重の生活を送っている。……とは口に出さなかった。鬼はきっと泣いてしまう。
 今だって水気ない唇を震わせているのだ。ただでさえ言葉少なになった彼を、これ以上責め立てる気にもなれなかった。
 解放され、おずおずと外に出た三人を、昨晩の役者が取り囲んだ。
「よくやってくれたよ、あんたら」
「風鈴女が猫だったなんてなぁ。言われてみりゃ最近、木戸小僧の噂を聞かなくなったや。あ、木戸小僧ってのはもちろん鼠な」
「上の組の人らが聞いたことなかったのは、寄り合いが上階で開かれてたからなんだな。何だ、臆病だなんて言い……おっしゃいやがって」
 そして驚いたことに、座長の株は下がるどころか上がる気配すら見せていた。
「怖いだけの人だと思ったら、まさか、だよ。木戸小僧に手を焼いてるのも分かってくれてたし」
 聞いた三人は顔を見合わせた。まるで芝居だ。まさか、これほど丸い終わりが待っていようとは。

 裏戸を引き、草に隠れた鼠の死骸を踏まぬように下駄を履く。もう空の彼方は明るく、朝が来るのは間近だった。
 目をしきりに瞬かせながら、重い体を抱えて三人は帰路につく。箒で店前を掃いている丁稚の他に、人の姿はどこにもない。軽い眩暈も手伝って、夜と朝の狭間を漂う気分だ。
「……な、あたし思うんやがね。本川さんも織楽も風鈴女の正体知っとうたんやなぁがて」
「ん」
「裏戸のすぐ上って、昨日あたしらがおった部屋やが。鈴やら鳴き声やら、気付かぁだじゃいうんもおかしかろ」
 前を歩く暁に、紅砂の表情は見えない。
「丸く収めやぁで、季春の外の俺らを呼んだか。有り得んこともなぁな。次会うたら問い詰みゃあや」
「そやことは口にせんの、それが粋いうもんやが」
 二人の会話を後ろに聞く。
 糸のようにか細い月が今、陽より一足早く身を起こすところだ。白んでいく空が目に痛い。
 暁は何も言わない。
 密やかに撚り合わせた糸を、胸の中から芥一つ残さず洗い流すには、言葉も息もどうしようもなく足りないらしい。
 早く横になりたい、眠りたい、何も考えず時を過ごしたい。それ以外にこの身は忘れる術を知らない。
 楽には抱えられないものだと、今初めて思い当たって、彼女は今、眠い頭で、少し途方に暮れていた。