「なぁ杉さん、こんな曲知らん」 そう言って筝を鳴らし始めた織楽の頭を、ふた回りほど年嵩の女の腕がぱしんと叩いた。不細工な弦の音が止む。 湿った風が簾を揺らし、三味方の部屋を吹き抜ける夕涼みのころ。三味の並んだ部屋には今、織楽と女の二人がいた。織楽は頭をさすりながら女を見上げる。 「上に弾くんじゃないと、何度言ったら分かるんだ。そんなだからすぐ爪が飛ぶんだよ。大体何だ、色気づきやがって。あたしゃお前に筝を弾きなと言った覚えはないよ」 「まあとにかく聞いとってって。杉さんだけが頼りやねん」 織楽はまた弦の間に指を戻す。今度は一音一音押し付けるように、確かに弾いていく。 杉と呼ばれた女も、眉間に皺を寄せながらも腕を組んでそれを聴いた。所々でぴくりと眉根が動く。十余り弦を鳴らした織楽を、杉は手で制した。天井を眺めて片方の口元に皺を寄せる。 「何だ、聞いたことはある気がするが……どっかおっ外れてるね。分かりかけたとこでこう、妙な音が混ざってくる。織楽、お前それ、聞いて覚えたわけじゃないんだろう。お前の下手な弾き方じゃ分かりゃしないよ、譜を寄越しな」 織楽は袂から皺だらけの紙を取り出す。幾度となく開いては閉じた、十三の横線と丸印の図だった。 「何だ、それ」 「向こうから一、二、三、四で 杉は腰を屈め、鼻頭に皺を寄せて紙を取った。目の前に寄せてじっくりと睨み、音を読んでいく。 「まるで餓鬼の落書きだね。これ、本当に譜なのかい」 「……そのはずや」 元の文に付いていた三つの不自然な拇印、あれは弦を押さえる三つの指だ。暁がその三指を避けて血判を押したことは、家の者なら知っている。 では筝の繋がりで読み解けるところはないかと、文を図として解釈する。小難しい字に昏いだけ、織楽のほうが勝っていたと言えよう。滲みの散らばった行数が丁度弦と同じ十三であると気付いてからは、それのみに絞って考えてきた。 ただ一つの難点は、織楽が手慰みの筝曲しか知らないということである。 「六八に斗、斗、九……ふんふん、なるほど。……ん、何だこれ、こんなの無茶じゃないか。……いや……そうか、そうすると」 織楽の書いた譜に沿って音を吐き出していた杉は、いくつかの丸印を指で押さえた末に、ぽんと織楽の頭を叩いた。 「織楽。これ選ぶ糸の他には何も書いてないけど、本当に 平、と織楽が間抜けな声を出したので、杉は彼の横にどんと腰を下ろした。指先を舐めて三つの爪を嵌めていく。 「分からないってんなら退いときな」 織楽が脇に退いた途端、杉は慣れた手つきでいくつかの 「これ、まずは本雲井だね」 「その柱の場所? 杉さん今のんしか教えてくれんかったやん」 「莫迦、当たり前だ。平の柱もずれたまんまで弾いてるような耳なしが、どうして他の調子まで覚えられるもんかね」 最後の調弦を終えた杉は、さて、と一度肩を回した。 爪が糸を弾く。織楽の弾いていたものとはまるで違う、張りのある音が、あるべき調子に収まって波のように流れていく。しばらく筝の音色が響いた後、杉の声が朗々と重なった。 ひとめしのぶのなかなれば…… おもいはむねにみちのくの…… ゆったりとした調子で切々と歌い上げるは、詞を聞くに、恋歌であるらしかった。最後の音が終わったと思いきや、杉は間を置いて柱の位置を変え、また指を下ろす。 むかしよりいいならわせし…… 続けて始まったこちらの曲は、また華やかな詞である。松に富士に牡丹にと、これでもかと言うほど目出たい語や鮮やかな情景が、耳の中まで艶やかに染め上げる。 最後の弦を弾き、余韻を残して振り返った杉は、織楽に紙を放って寄越した。 「全く、骨だったよ。どうにもおかしい和音ばかりだと思ったら、途中から調子の違う曲がもう一つ混ざってやがる。それを書いた奴ぁ殴り飛ばしてやりたいね。わざと分かりにくくしてるとしか思えないよ」 織楽は苦笑いして杉の怒りをいなす。 「そんで、今のって何ていう曲なん」 「最初が調子と同じ名の雲井で、次が吾妻獅子。もっともあたしゃ、吾妻は三味の方が好きだけどね」 息が止まるようだった。やはりそうだ、あの文のあの滲みは場所を示していた。これで合っていたのだ。 「それはそうと織楽。お前これで気が済んだだろ、早く戻って本の中身叩き込んどきな」 この鼓動を前にしては、杉の言葉も遠く聞こえる――などと語りを入れていたら、また頭に衝撃があった。痛みと音から察するに、今度は拳骨だろう。 それは夏も深まった日だった。 その日は低く垂れ込めた雲が急ぎ足で空を行くのが、高みにある小さな四角から見えた。部屋の中は暗く、振り返ってそこにいるすずの顔も、にわかには判別しがたい。 心は静かだった。 「すず、灯を近くへ」 部屋の戸に近い二隅にある灯りに目をやって、すずは軽く頭を下げた。一旦中の火を吹き消して、行灯を運び、戸の近くに膝をついて何事か囁く。 今だ。 腰を落とした姿勢から大きく一歩踏み出し、すずのいる場所へ向かう。さすが烏の一羽と言うべきか、暁が袖を翻すよりも、すずが振り返るのは早かった。 大きな目が暁を捉える。目くらましも効き目なく、彼女はその奥の暁の姿を確かに見ていた。 しかし躊躇した。 その一瞬に暁の肘はすずの側頭を打ちすえ、目の端で眺めるだけだった戸を今、がらりと開けた。 その向こうにあるは、来たその日にちらと見たのと変わりない部屋、こちらも奥に一つ火が揺れる以外はじっとりとした闇に沈んでいる。人影が一つ二つ見えたが、すずと見間違えたか、彼らが動くまでの間に暁は向かいの襖まで走り抜けた。 迷いはない。 躊躇したほうの負けだった。 襖を引くが開かない。やむなく勢いをつけて体当たりすると、二度目でひしゃげた道が開けた。同時に追手の声が耳を塞ぐ。袖を引かれる感覚があった。 足を踏み出す。袖はあっさりと誰かの手を離れた。無我夢中で階を下る。足がもつれて踏み外しそうになる。指笛。怒声。胸の中で何か暴れている。苦しくてたまらないのに、気を抜くと笑い出しそうだった。 ああ。 ――どこまでが現でどこからが夢なのだ? 立ちはだかるものは、すぐ目の前に現れた。階を下りきって右手の襖を開けたそこには牙がおり、見開いた目で暁を見下ろしていた。思わず襖を閉めようとしたが遅い。力で押し切られ、為すすべなく一本道の階段を二歩、上階へ向けて後ずさる。 わずかに目線の高くなった暁を、しかし牙は見上げるだけだった。 けたたましく上階から追手が来て、暁の五六段上で足を止める。これで全ての行き道は断たれた。 牙がすっと手を差し出した。 「無駄なことはお止めなさい。多少には目も瞑ろうが、あなたは少々動きすぎた」 手。以前どろりと血を流していた手。禍々しい手。きっと睨み付けると、暁は腹の底から声を張り上げた。 「触れるな。……今この瞬間、私は舌を噛み切ることさえできる。烏の仔よ、どちらがお前の望みだ」 「……献言は因より導かれる掟でございます。即ち、あなたは生きねばならぬ、我らはあなたを護らねばならぬ」 彼の動きに躊躇いは無かった。さっと踏み寄り、暁の肩を壁に押さえ付ける。 触れるな――放たんとした言葉も途切れる。 あの指は今口の中、歯の間にあった。 「命を絶つと言うのなら、まずこの指を噛み切りなさい」 指先が舌の付け根に触れて、思わず吐き出しそうになる。 「ここを出ると言うのなら、この体を流れる全ての血を抜き取りなさい」 周りは静まり返っている。牙の言葉だけが響いて、消えた。 暁は視線を上げ、彼の顔を見る。彼の体から伸びた腕が、手が、指が、自分の体に繋がるさまを、怖々見る。 指の味が不快だ。開いた口の中に唾が溜まる。早く口を閉じなくては、顎に力を入れて、思いきり、早く早く、早く。 歯を下ろす。食い込ませる。その奥の骨を感じる。鉄の匂い、血の味。また目を上げる。 牙は眉一つ動かさずにそれを見ていた。 顎の力が弱まる。歯が緩んで噛み痕から浮く。 暁は――迷った。 視界の端で、牙が手拭いを受け取るのが見えた。手早く暁の口に噛ませ、血と唾液で汚れた指を抜き取る。目を覆われ、腕の自由をも奪われ、階を下り、板間を歩いてまた階を下る。その時の彼女はもう、命に足が生えただけの生き物だった。 躊躇したほうの負けだと、知っているはずだった。だからあの冬の日、穂垂るでの夜だって。その前だって。 ……ああ、そうか。 ふっと眩暈がして歯を食いしばった。今ようやく気付いた。 どこかで甘えていたのだ。彼らが自分を殺さないと初めから知っていた。強みとも思えるそれこそが、何より大きな弱みだった。 今までとの違いは、暁に死の恐怖が全く欠けていたことだった。 腑甲斐なさに反吐が出そうだ。 視界が戻る。愛想の欠片もなく、頑丈だけが取り柄であろう板戸が、振り向いたところにあった。力ない体が辿り着いたのは、三方を壁に囲まれた暗く寒々しい部屋だった。 次の日は絶えず雨が降っていた。空の震える音に、すずが笑う。 「 暁の世話役は相変わらず彼女が担っていた。したたかに殴られてなお態度を変えない彼女は、根性が据わっているものだと思う。 「烏の嘴が主の目を突き出さんとせしゆえ、ではなくか」 「まあ、ご冗談を」 部屋は上方に小さく窓があるものの、廂のせいで空も緑も見えない。せいぜい音が聞こえるだけだ。この部屋は外と完全に隔絶されていた。前の部屋はどうにか押籠場の体裁を保っていたが、こちらは牢以外に呼び名が無いだろう。 既に体には自由が戻っている。なのに膝から下はぺたりと床に張り付いて動かない。 あの日舟に乗ってから、一体幾日が経ったのだろう。最初のうちは覚えていたが、いつしか数えることを忘れてしまった。 前髪は今や、目を覆うほどに伸びていた。 「おう、兄ちゃんたち久しいな」 人の波の奥で、香ほづ木売りがひょいと左手を上げた。昨日まで降り続いた雨は土を穿ち、水溜まりとしてそこらじゅうに残っている。それでも境の域は大通りとは異質な賑わいに満ちていた。 紅砂は目礼して彼に近付いた。境を始めて訪れる浬は興味ありげに周りを見回していたが、ぺこりと頭を下げて紅砂の後に続いた。 「……商い中に失礼」 「なんだ、今日はあの坊主はいないのか。とりあえずそこ座んな。つっても筵もありゃしねぇがな、はは。ほら何にする」 「いや、今日は櫂持ちとしてのあんたに聞きたいことが」 「何を買う」 間があった。紅砂は小さく息を吸い込む。 「あの」 「何買うかって聞いてるんだ」 紅砂は口の片方を歪めた。話が進まない。助けを求めて振り返るが、狡猾にも浬は一歩離れたところで奥の器売りに目をやっている。やむなくしゃがみ込んで懐を探った。 「……それじゃ一番安いのを」 「遠慮すんな、金は溜めても勝手に増えちゃくれんぞ。ぱっと使えぱっと」 そう言いながらも彼は、左方の木片を慣れた手付きで葉に包んだ。外見だけは暁の買ったものとよく似ている。受け取ったはいいもののどう始末すべきか、紅砂は途方に暮れた。 「それで何の用だ、水路だったか? 俺ぁ今機嫌がいいんだ、一つくらいなら答えてやってもいいぞ」 「そのことですが」 浬は紅砂の右手からすいと現れ、懐から文を取り出して広げた。黄月の名の下に書き加えられた紋――五本の縦線に、上端を繋ぐ横線。それはちょうど皿の字の最後の一画を、間違えて縦に付け加えたようだった。 「こんなふうに、五つに分かれる水の道を知りませんか」 男はふんと鼻から息を噴き出した。顔の片方だけを歪めて笑う。 「おいおい、そいつぁいくらなんでも無茶ってもんじゃないか。大体、水はどこまでも流れるだろうが。どこの国の話だ。坡城か」 浬が目を伏せると、男はもう一度笑って頭をぼりぼりと掻いた。 「ま、んなこと聞かんでも、一度に五つに分かれるなんて本当にありゃあ、いくら遠くでも知ってるだろうがな。おい兄ちゃんよ、そいつはあの坊主の書いたもんか」 「多分そうだと思いますが」 「そんなら その言葉はあまりに唐突で、紅砂はひと時、二人が今まで何の話をしていたのか忘れかけた。 客らしき男が背後に現れたので二人は左右に退いた。彼が用命した右方の木片を、香ほづ木売りは丁寧に葉で包む。紅砂の十倍は金を落として、男は何事も無かったかのように立ち去った。つくづく分からない世界だ。彼の背を見送って紅砂が向き直ると、男はのみで大きめの欠片を割っていた。 「手習いっていうのは、この字がその程度ってことか」 ん、と大儀そうに男は顔を上げる。まだいたのかと言わんばかりの表情だった。 「あのなあ兄ちゃん、俺ぁ悪いが字でどうこう言えるほど利巧じゃないんだ。だいたい今ここで何の商いをしてると思う。俺が手師に見えるってのか。こいつぁ墨じゃないぞ」 「そういうわけじゃ……なら手習いっていうのは」 「いづれの御時にか、で始まる長ったらしい話の五十三番目だよ。組香つってな、五種の香ほづ木合わせを聞き比べる遊びがあるんだ。五種を五つずつ、つまり全部で、えーと……まぁそん中から五つ取り出してだな、同じ香りのものがあれば縦棒の上をこう、横棒で繋ぐ」 彼は浬の持った文を自分の方へ引き、紋を指差した。 「その組み合わせを話の名に準えたわけだ。つまりこいつは上の端が全部くっついてるから、五つとも同じ香ってことだな。百に一つか千に一つか、めったにゃお目にかかれない」 「一万と少しに一つあるかないかですね」 紅砂は感心して何度も頷いた。五五の掛け算も覚えぬ男が五桁の概算も可能な浬に、雅やかな知をさらりと引き出して与える。何とも分からない世界だ。 「……で?」 「は」 「五十三番目、五つとも同じ、それ以外に何か意味は無いのか。何かこう、場所を示すような」 また怒り出すかと思いきや、男はぐいと顔を寄せて口に手を添えた。 「何だ、兄ちゃんたち宝探しでもしてるのか。こんなとこで話してちゃ危ないぞ。……いや、でもあの坊主が書いたんなら宝なんざ」 開きかけた紅砂の口をさっと浬が覆う。 「いえいえいえそんな大層なものじゃ。あ、じゃあこの日付、仲八日が香に関係あるってことは」 「あぁ? そりゃ十八ってそう読むのか? 知らん知らん、俺は手師じゃない」 紅砂が浬を見る。浬は難しい顔で額に手を当てていた。手習、五つの一致、五十三番目。知識多い彼の頭でも、ここで得た数少ない語にぴたり合致するものは無いのだろう。 立ち上がった浬に続いて紅砂も背を伸ばす。 香割作業に戻っていた男は、二人を見上げてにやと笑った。 「まぁまた来い。香ほづ木は、兄ちゃんたちが思ってるよりずっと面白いもんだ」 「ああ、はい、五十四も組み合わせがあるとは思いませんでした。驚きました」 この場を切り上げるために褒めてみたのだが、男は片眉をぴくりと不機嫌な方向に動かしただけだった。 「そういうことじゃないんだがなぁ。何でも数で考えんのは無粋だろうが。兄ちゃん女にもててるか」 大きなお世話だ。数以外に、浬の知る世界と共通点が無いというだけだ。おがくずまで残さず集めて、男はようやくのみを仕舞った。 「ついでにもう一つ。どう頑張ったって五十二より多くは組み合わせられねぇのよ、これがな」 立ち去ろうとしたところだった。雑音と気にせず歩き出してもおかしくない、風のような一言だった。それでも二人は足を止めて、油っ毛のない男の髪を見下ろした。 「あの話は五十四まであったんじゃないですか。そもそも五十三番目だと言ったのはあなただ」 「だが組み合わせは五十二、こりゃ困った。そんなわけで一つ目と五十四番目にゃ香図が無いのさ。五十二と一と一で、間違いなく五十四だろ」 そこでまた客が現れた。浬は瞬き多くそれを見つめる。 付け加えるように言った言葉にこれほど驚かされるとは、よくよく世界が違うらしい。客からじゃらじゃらと銭を受け取って、男はまた二人を見上げた。 「つまり手習ってのは終わりなのさ。収束って言うのか? 男は縦線を五つ空に描く。それが五十二の始まりなのだろう。 「辿り着く……先」 どちらともなく呟く。それは、五つに分かれるという初めの考えとはまるで逆だった。 「見当は」 紅砂の問いに、浬は瞬き一つで踵を返した。すれ違いざまに見た彼は口元を固く結び、柔和の欠片もなかった。 「ほんの少し戻りが遅くなりますが、お気になさらずに。ご用は他の者が承ります」 この牢に移って六日目。それは、すずと数十日過ごしてきて初めて聞く言葉だった。 「……どうかしたのか」 「 言葉少なにすずは立ち去る。それも滅多にないことだった。思わず戸に寄ったが彼女の足音は聞こえず、また近付いてくる足音も無かった。 戸に頭をもたせかけて何らかの音を待つ。暗闇に射すわずかな光、舞う埃。頭のどこかで、何かがおかしいと感じていたのだろう。向かいの壁の汚れに視線を落ち着けて、いつしか息を殺していた。 ……どれほど経っただろうか。 その音は戸の向こうではなく、窓の向こうから聞こえたようだった。じっと動きを殺して耳を澄ます。 「……っ」 また聞こえた。窓のある左の壁に駆け寄る。窓は壁の一番上に開いており、腕を伸ばしても届かない。 鳥肌が立った。この部屋は、暁が思っていたよりずっと下階にあったらしい。確かにこの隙間から落ちてきたのだ、足音と聞き覚えのある懐かしい声が。 だがその名を口に出すのは恐ろしかった。口を開けては言いかね、また唇を湿す。木目を見つめる。…… ぱっと顔を上げた。音が離れてしまう。 「紅砂!」 ぴたりと音が止んだ。うろうろと歩き回り、それは明らかに暁の声を探していた。 「ここ、足元にいる!」 少し間があって廂ががたがたと動き、射す光が陰った。声だけが流れてくる。 「暁、そこにいるのか」 あかつき。なんと懐かしい呼び名だろう。じんと胸が熱くなる。 紅砂が遠くへ呼び掛ける声が聞こえた。その名はやはり浬のものだ。もし助けが来るとすれば、それは彼だろうと思っていた。この地は坡城の北東に位置する東雲の国、三年前に焼け果てた彼の郷里なのだから。 「下だな。待ってろ、すぐそっちに行くから」 はっと気が付いた。自分一人浮かれている場合ではない。 「駄目だ紅砂、危ない! 傍にいるのは浬だけだろう、二人じゃとても」 「賊なら安心しろ。三人とも逃げたのを、浬が見てる。もう大丈夫だ。それとも、そいつら以外に誰かいるのか」 三人? ……逃げた? 頭の中が混乱して、それ以上の声を受け付けなかった。訳が分からない。あれほど暁に固執していた烏が、彼女を置いて逃げた? 「何、見付けたの。ああ、やっぱりその中にいたのか」 「この下から声がするから、どこかに隠し階段があったんだろうな」 会話を聞くに、二人は既に一度この建物に入っているらしい。それでも烏が襲いかからないとは、やはりいないのだろうか。……胸がざわついた。 おかしい。何もかも解せない。目をつむって眩暈をやり過ごす――どこまでが現でどこからが。 この数十日が、全て夢だとでもいうのか? 「暁、大丈夫? 怪我はしてない?」 声の主が浬に替わり、はっと目を開ける。おっとりした話し方に、刺々しかった心が和らいでいく気がした。 「うん、何ともない……酷く疲れているけれど。……よく見付けてくれたね、有難う」 「まったく、文を届けてくれるような律儀な賊で良かったよ。礼なら織楽と香ほづ木売りの人に言いな。東雲の名と、海のないこの国で水の終わる場所。この場所を突き止めたのはあの二人だ」 遠くで足音が聞こえた。思わず身を固くするが、それは紅砂だったらしい。大声で名を呼ばれ、暁も戸の近くへ寄って呼び返す。 「……暁こそ、よくここが東雲だって分かったね」 その言葉は、窓から離れ、戸の傍らにいた暁の耳には届かなかった。 程なくして近付く足音とともに戸が引かれ、紅砂が現れた。髪の伸びた暁を見て彼は呆気にとられたが、すぐ表情を戻し、彼女に手を伸ばした。 無骨な彼の手はその時、まるで腫れ物でも触るかのように慎重だった。 彼の腕に支えられて脱出を図る。 浬にも手を借りて、暁が日の光を全身で浴びたのは、それから間もなくのことだった。 戻 扉 進 |