弦を一つずつ鳴らしていたら、紅花が呆れた顔で障子を開けた。ざあっと雨の音が大きくなる。
「何なのよそれ、さっきから。それで曲なの」
 いつもなら言い返す織楽だが、今回ばかりはばつの悪い表情でしばらく手を止め、また弾き始めた。紅花の顔は不機嫌さを極め、荒々しく障子を閉めると足音荒く行ってしまった。
 織楽は音の消えた先にちらと目を向ける。その一瞬、人差し指に嵌めた爪が六七の弦の間に落ちた。
 追うように溜息を落とす。
 目の前にあるは、季春座から持ち出した古い筝が一面。これが来たために、織楽の部屋の四半分には今まで散らばっていたものが掻き集められ、胸の高さまで積み上がっていた。寝惚けて蹴飛ばしでもしたら埋まってしまう。毎晩が命懸けだ。
 織楽は人差し指を舐め、爪を嵌め直す。改めて傍らに置いた紙に目を落とした。蚯蚓みみずの這ったような横線が十三、その所々に丸印を打っただけのものだ。
 痺れた足を崩し、顔をしかめて頭を掻く。最初に見たときはこれで間違いないと思ったものだが……どれだけ試しても、出てくるのは妙な音の繋がりだけだ。写し間違えたとも思えないのだが。
 紅花が苛立った様子なのも、この紙の元となった文が原因だった。あの夕、暁が簪を届けると言い残して小間物屋を出てから、既に十数日。まだ文が届かぬと湊から遣いがあり、黄月が瞼の肉を引き攣らせてもう一つ書き直したのが十日ほど前で、同じ文が投げ込まれていたからと、馬鹿丁寧にも湊が遣いを寄越したのが一昨日のことだ。
 その間、暁から一切の音沙汰は無かったのだ。
 十日あまり遅れて湊に届いたのは、確かに黄月が暁に託したものだったという。ただしそれは滴が至るところに滲み、墨が溶け出して、見るも無残な状態だった。
 預かった文を汚してしまい、自分の不手際を恥じて姿を消したが、そのままでは更に迷惑をかけると気付き、今更姿も見せずに放り込んだのだ――というのが、強引ながらも一応の説明だろうか。
 しかしそれは織楽にしてみれば一つも納得がいかない。腹這いになって頬杖をつく。
 暁が消えたあの日、雨など降っていなかった。かと言って、預かりものを汚しやすいところに仕舞うほど考えなしでもない。何より、字のいくつかを滲ませたからといって姿を眩ますには、織楽の考える暁は肝が据わりすぎている。
 これらの滲みは暁が故意に付けたものだ、というのが織楽の考えだった。あまりに芝居じみているだろうか。しかし浬も同意したからこそ、放っておけと睨む黄月を抑えて、滲みの箇所の写しを手に入れられたのだ。
 ただし織楽が筝に傾倒し始めてからは、その浬も口元を引き攣らせていたが。
 それでも織楽には――何の解決にもならずに紅花に白い目で見られるまでは――これが正しいと信ずる根拠があったのだ。
 ふと足にくすぐったい感触があった。ばっと振り向くと、いつの間にか入ってきた茶太郎が、積み上げた山の一角に、今まさに飛び移らんとしていた。
「ま、待っ……」
 伸ばす手も空しく、茶太郎は柔らかい体を活かして力の限り飛び上がる。彼の体が描きゆく弧は、ごみごみとした織楽の部屋を背景としてさえ、息を呑むほど美しかった。
 織楽の命の終焉が、すぐそこに迫っていた。





「まず初めに、私の名を認めよう。ここから先の会話は、全て豊川と烏の間のものだ。良いな」
 先の会合から十日余り。暗い室内には、柱を隔てて暁と牙の二人がいた。牙が一段下がった板間に座るや否や、暁はそう言ったのだった。畳の隅ではいつもと同じように火が揺れている。
 先日からの態度の変わりように牙は目を丸くしたが、すぐに居住まいを正し深く頭を下げた。暁はちらと見下ろしてすぐに顔を背ける。
「……頭を上げよ、お前の旋毛が見たいのではない。それより、十年ほど前の父上のお裁きについて、お前が知ることはあるか」
 牙は両の手を衝いたまま、低く頭を上げた。
「十年、ですか。私はここ十数年の間に記されたものは全て、大火の前に目を通しておりました。烏には私より年嵩の者もおりますので、両の目で見たという者もおりましょうが、それは一体如何なお裁きか」
「枕探しとして首を斬られた男だ。壬の北の出で、姓は秋月、名は知らぬ。生業は薬師。私の知るところはこれのみだが、どうだ」
 今日はこういった形で無茶を宣うか。溜息を吐きたい思いだったが、それはすぐに諦めるには聞き覚えのある名だった。
「それは確か、北府より強き頼みのあったお裁きでございましょう」
「真か? 北府と言えば上松殿だが……」
 暁はそこで口を押さえた。
「その頃であれば、六年前にお隠れになった御尊父でありましょうな。枕探しの罪状は、あくまで民に向けたもの。その者は北にて民を煽動せしゆえ、上松先殿から遣いがあったとか。斯様な御始末は珍しきこと、よく覚えております」
 暁は肯定も否定もしなかった。牙は知っているのだろうか。
 大火のほんの数日後、その息子の継いだ上松邸――針葉や浬と会ったあの場所――はもぬけの空だったことを。穂垂るの屍の中に彼の姿があったことを。
「……枕探しではなかったが、その男の所行は死に値するものだったと、そう言うのだな」
 牙は何も返さなかった。それはつまり異論も無いということだ。
 死に値するとはどういうことなのだろう。そもそも、どれほど罪深く業深く生きれば、人は裁かるるに値するのか。
「真の枕探しは後日、赤烏の一羽が屍にして連れて参ったとか」
「……赤烏とは」
「迎えの者がみずちをお目に掛けましたかな。……いや失礼、赤の意味を解するにはこちらが易いか」
 牙は自分の左掌を暁に見せた。顔全てを覆ってしまえる大きな手だった。間をおかず彼は親指に歯を当てる。
 暁は目を見開いた。ゆっくりと下に向けて流れ出す、薄暗い中では黒ずんで見える、彼の指のそれは、紛うことなき血だ。
「烏の仔は五つ目の春を迎えたとき、皆こうして誠を立てるのですよ。その血が幾年を経て黒く染まるのが黒烏、私どもです。我らの血の流れは全てあなたの下に留まる、国守殿をお護りすることに一片の疑いも無し。対して、血が水気を帯びて真新しいのが赤烏、身が危うくなれば主すら棄てかねぬ者ども。赤い血はいつ再び流れ出すか知れぬでしょう」
 暁は、自分の左手の薬指が疼き出すのを感じていた。いつか食い破った、この指の皮。
 そうか。針葉と前の長が何故そのとき都合よく仕置き場にいたか、解せずにいた。そうか。
 ――長は本当の枕探しを連れてきたんだ。
 赤烏。

 顔を背ける。彼の血の暗赤は、壬の大火と、穂垂るで上がった火と、静かすぎる上松の邸と、様々なことを肌に蘇らせて胸がむかついた。やむなく話を変える。
「壬の刀のことだが、お前たちはどういう所以であれを持っていた」
 ようやく沈黙を破った暁の口調が存外に厳しかったので、牙は言葉に詰まったようだった。
「国守と近しい者しか知らぬというのは、先日お前が口にしたことだ。お前たちは、国守の周りにいるのは確かだが、所詮は外の者だろう」
「これは失礼いたした。おっしゃる通り、不審に思われても詮なきこと。あの刀は正確に申すならあなたの兄君、惟道これみち殿と共にあったのです。しかし惟道殿は元々お体が弱かったこともあり、大火で胸を患われ、手は尽くしたのですが……昨秋の竜胆美しきころ、眠るように身罷り給いて」
「……私には何人の兄がいるのだ」
 暁の短い言葉からは、不快がありありと感じ取れた。牙はその境遇にそっと憐れみを寄せ、同時に引っ掛かるものを感じた。兄がいたのか、ではなく、何人の?
「惟道殿お一人ですが」
「嘘を吐くな! そんなはずはない……その惟道という名の兄上は、一体いくつの歳でお眠りになったのだ」
 今日はよくよく面食らうことの多い日である。暁が何を意図しているか、牙は図りかねていた。
「二十と七のはずですが」
 暁は首を横に振るだけだった。ふと、牙の脳裏にあることが思い浮かんだ。
「あなたのおっしゃるのは、他に兄君を御存知ということですか。きっと私よりも歳若き方を」
 その途端、暁の動きが止まった。じっと柱に体を寄せて、見開いた目で牙を見つめる。
「牙……お前、やはり知っているのではないか」
「とんでもない。あの方は確かに豊川大殿の御子ではあったが、母君は槙野殿ではござらぬ。その方、名を惟直これなお殿といいますが、豊川を名乗ることは決して許されなかった。彼の命はあくまで、あなたがお産まれになるまでのものです」
 暁はそれでも動こうとしなかった。目の茶色だけがわずかに震えている。
「壬に必要だったのはあなたでした。旭家に入り、東雲を見張ることができるのは、あなたしかいなかった」
「つまりそれは」
 牙は口を閉じてその次を待つ。暁は言葉を選ぶように幾度か瞬き、睫毛を伏せたまま呟いた。
「そうか、混じりものに目を閉じて妾を取ってみたが結果思わしからず……すると母上は随分お歳を召されていたのだな……そういうことか」
 いよいよ暁の考えていることが分からなかった。ただ一人残った豊川の命は、幼きひと、まるで少年のようなひと、小さなひと。今はどこか不気味ですらある。
 暁はうつむく。……笑い声が漏れる。肩が小さく揺れていた。
「何とも古めかしいことだ、初めから行き先の決まった命とは」
「初めから、と?」
「東を向くに、これほど相応しい名もあるまい。私が産まれるより遥かな昔から、あの輿入れは決まっていたのだ。私の理由はそれで終わり、母上の理由はそれで終わる。何と……」
 最後の言葉はかすれて聞き取れなかった。少し伸びた髪が垂れて顔を覆っている。
「……あき殿」
「触るな」
 柱を越えたのは指のみだった。それでも牙は動きを止め、膝に拳を戻した。暁の肩が、息を吸ってわずかに上がる。
「出て行け」
 言葉は返さなかった。深く辞儀だけして、牙は暗い部屋を後にする。
 外では小雨が降っているらしい、道理で射す光が弱々しいわけだ。暁は一人、冷たい畳の上で息を吐く。すぐに立ち上がって背後の壁の戸を押さえた。間をおかず、外から開けようとする力が加わった。隙間から漏れてくる光を必死で押し留める。困惑したすずの声が聞こえた。
 ここから出す気など無いくせに、一人にもさせない気なのだ。
 引き裂かれる思いだった。一体何様のつもりだろう。
 この身を裁けるのはお前たちではないのに。
 ふ、と戸にかかっていた力が消える。暁は押さえる手を離さず、じっと待つ。やがて目を閉じ項垂れた。
 頭の中がごちゃついている。がらくただらけだ。何か思い出そうとすると、先程の牙の指が、どろりと流れる血が、自分の体を埋め尽くしていくような錯覚に襲われた。吐き気がする。
 重い血が刻々と体を繋ぐ、この身を裁けるのは、血が爪先から溜まって、あの先には何が、どろりと重い、その所行は死に値し、血が。
 血が。
 ……雲が切れたか、ひと筋の光が射して畳を弱く照らした。

 次にすずが戸を引いたとき、それは抵抗なくするりと敷居を滑り、細長い闇を覗かせた。
「……すず」
 その声は、覗き込んだ真下から聞こえた。どきりと胸を縮ませると同時に、何事も無かったのだと安心した。後ろで成り行きを見守る仲間二人に目配せし、すずは体を滑り込ませる。
「どうなさいましたの、あき殿」

 すずが出てきたとき、そこには二人に加えて牙までもが待っていた。すずは眉を上げて肩をすくめる。
「まあま、仰々しいのはお控えなさって。騒ぐことじゃあございません」
 ひそめた声で言うと、彼女は牙の横を素早くすり抜けて階へ続く襖を開けた。こういった物言いは彼女には珍しいことではなかったが、牙の後方にいた一人がたしなめるように彼女の名を呼んだ。もう一方も顔の険を濃くしている。中に立つ牙だけが顔の色を変えなかった。
「御様子は」
「……ですので騒ぎ立てるには及びません。煩いは過ぎたるもの、私が全てお世話致します」
 そこで言葉を切ったものの、これでは腕一本は免れぬかと頭を過ぎり、次の一歩を踏み出す前に彼女はまた振り向いた。
「むしろ慶んでくださいな。豊かなる流れの環が始まりましたのよ」





 しばらく途切れていた筝の音が、また離れた部屋から始まった。ようやく部屋の片付けが終わったらしい。よくよく飽きないことだ、いつもは目移りばかりしている者が。
 とは言えこちらも行き詰っている。
 浬はふっと短く息を吐いて、手にした紙を元通り畳み、凝り固まった肩を解した。
 暁の持っていた黄月の文が遅れて湊屋に届いた、今確かなのはここまでなのだ。その中身が滲んでいるからといって、それがいつ、誰によるものなのか、更に言うなら故意かどうかすら定かではない。
 それを、暁が助けを求めて残した標などというのは、明らけき早計だ。
 仮に信じたとして、滲んだ文字やその前後の文字をどう並び替えても、どう組み合わせても、全く意味を為さないのだ。そもそも肝心の滲みが文字二つに跨っていたりと、図らず起きたのではとの考えを否めない。
 一字一句間違いないかと問うたところ、黄月はさっと文面に目を通して相違ないとだけ吐き捨てた。つまり暁が新たに書き加えたものは無いということだ。
 この文に、暁の意思は何一つ宿っていない。
 自身の考えでここを出て行ったのではないか。暁らしき人影が舟に乗り込むのを見た、という話さえある。しかし初めにそれを口にしたとき、すぐさま否定したのは織楽だった。自分と蕎麦を食べに行くと決めていた、店を離れるときもすぐ戻ると言っていた、と。
 では、連れて行かれたとすればどうだ。随分前になるが暁は、飛鳥びとの気配を感じると怯えていた。飛鳥びとなら一番に気付くのは自分だと、浬には自負があったから、暁の言は疑わしいものだと気にも留めなかったのだが。
「浬」
 声と同時に襖が開いて、入ってきた針葉は浬の前にどかりと腰を下ろした。汚される前に、浬はそっと文を折り畳む。当の針葉は文には目もくれず、眉間に皺を寄せて何やら居た堪らないような顔をしていた。
 悪いものでも食べたのではないか、と口に出すわけにもいかず、浬はひとまず針葉に向けて座り直す。しばらくして針葉は重い口を開いた。
「暁な、もしかすると自分で出て行ったのかもしれねぇんだ。俺のせいで」
「……何ですか、今更」
 思わず目を見開く。思いがけない言葉が、思いがけないところから出てきたものだ。
「待ってください、だって暁とは店で会ったきりだって言ってたじゃないですか。どうして針葉さんが」
「実を言うとだな、ん、まあその、何だ、その後に一回見てんだよ、暁のこと」
 ……この人は。
 暁は針葉を探しに行ったのではないかと、織楽が言っていた。しかし針葉は以前、確かにそれを否定したのだ。
「それが本当なら、どうして今まで黙っていたんですか。どうして嘘なんか」
「あれっくらいで姿消すなんて誰が思うかよ。大体あいつ何しに来たわけでもねえ、ぼーっと覗いてやがっただけだ。畜生、何だ、親のねや見た餓鬼みたいな顔しやがって」
「……は?」
 針葉は構わず、唾を飛ばす勢いで話し続ける。逢引の最中に暁が現れたが、何を言うでもなかったこと。一言からかったら、いつの間にか消えていたこと。そのたび意気込んだ浬の肩は下がっていく。
「……とまあ、そんだけだ。にしてもまさか、あんだけの冗談で二十日近く家出するとはなぁ。思いきりのいい奴だとは思ってたが」
 それは違う、多分。きっと。浬は心の中で密かに断言する。
 言うだけ言って針葉は出て行った。後の襖をきっちり閉めて浬は深く息を吐く。……あの人は放っておこう。
 もう一度文を広げたところで、背後の障子が開いた。思わず畳みかけたが、今度入ってきたのは黄月だった。
「浬、昨日の菱屋からの文だが」
 その目は真っ直ぐに浬の手元の文へ向かう。途端、元々切れ長の目が鋭さを増した。
「まだそんなものを置いているのか。捨てろと言っただろう」
 黄月は、暁が自ら出て行ったとの説を採っている。しかしそれは針葉の理由とはかけ離れ、暁に手を割くのが面倒臭いというのが実のところだ。
 黄月の不機嫌は今日に始まったことではない。浬は文を横に置いた。黄月は口を結んだまま浬の前に座り、ちらと文を睨む。
 そのまま仕事の話が始まるのかと思った。だが黄月は眉をぴくりと動かすと、文をぐるりと自分に向けて回し、秋月の名の入った部分にじっと視線を落とした。
 何事かと浬が身を乗り出すと、黄月は心底嫌なものでも見たような顔で文を押し戻した。
「まさか名にまで辱めを受けているとはな。汚い遣り口だ。あいつは跡濁す鳥だったな」
 浬は改めて文の最後に目をやる。日付に黄月の本名、紋、重ねるように爪印が三つ。どれも墨が流れて薄らいでいる。
「辱めってこの印のことか」
「……俺が書いていたのは名のみだ。分かったらさっさと仕舞え」
 浬は黄月の目を長く見つめ、文に一瞬目を移すと、さっと畳んで自分の後方へ滑らせた。
 瞬きするたび目の奥では文の左端が蘇る。仲八日、秋月隼太、冊と皿の字を合わせたような紋に、指の跡。
 今まで気にしていなかった。黄月の文を見るのはこれが初めてだったし、相違ないという彼の言葉は文全てに当てはまるものだと思ったのだ。
 手は加えられていた。それなら滲みも、織楽の言うとおり故意に与えられたものだったのか? それを行ったのは暁と言えるのか?
 黄月が話し出す。浬は相槌を打ちながら聞き、二三疑問を述べ、意見を出す。
 その合間に考えた。三つの爪印のうち一番右、これは左手の親指だ。あとの二つは素直に考えるなら人差し指と中指だが――





 彼女は名を豊川暁とよかわ あきといった。
 水の流れを尊む壬の国、南の有力家である国守豊川家に唯一の娘として生まれ、近く東の隣国東雲の旭家に輿入れするため、常に邸の厚い羽の下で護られた。彼女の命は、ある点では豊川次期当主と同等に重かった。
 壬は南北で大きく性格が異なり、それは間に険しい山が横たわっているためだと言われる。百年近く前にはまだ東の平地から回り込む手があったのが、北に隣接する飛鳥の国に削り取られるうちに山越え以外の行き道を無くし、言葉も豊かさも、全てがかけ離れたという。
 先の戦で約を成して数十年、飛鳥は表面では波紋も立てぬ澄まし顔をしていたものの、水面下では不穏な動きを続けていた。壬北部にて流説を流している、壬北部の者を取り込もうとしていると、北に置いた者から幾度となく話が流れた。
 そのたび豊川大殿は北部における人や物の流れを規制、乱れとなるものに目を光らせた。
 背いた者、壬から逃げた者には重罰を。特に煽動、謀叛の類には厳罰が処された。
 ただでさえ力なき北の者に、それは何よりの威力となった。その一方で、如何にかして流れ出ようと企む者が消えることもなかった。
 いつ再び始まるか知れぬ飛鳥の脅威。一度始まれば、旧い取り決めなど瞬く間に灰と化すだろう。ものを語るのは篤実に生きた髑髏ではない、親や子を売ってでも永らえた命なのだ。
 苦肉の対抗策の一つが、東雲との絆を深めることだった。
 彼女の命は初めからそのために創られたのだった。

 冷めかけた山菜汁を飲み干し、蓋をして盆の上に置いた。すずが微笑んで、いくつも皿や椀の乗った盆を部屋の外まで運んでいく。戻ったときには一回り小さな盆に、急須と湯呑を乗せていた。
「近頃は朝晩空にしてくだすって、つむぎも喜んでおりました。坡城ではどういったものをお召しでしたの」
「何というわけでも……いや、港だったので潮のいをが多かったか」
「まあま、潮の魚。そうするとやはり、壬のものは懐かしゅうございますね」
 ここへ来た当初の数日こそ、この暮らしを認めるものかと意地でも口を付けなかったが、一旦箸を持ってしまえば、食の進むのが実際のところだった。
 今日はよく晴れている。ざわざわと葉擦れが耳にそよいだ。外から射した光が、揺れるすずの髪をぱっと染める。こうして見ると、暁のものより幾分色が濃いようだ。
 暁は身を誰にも触らせない。烏の群れも触れようとはしない。だから刃物のないこの部屋では爪切りさえすず任せで、彼女の髪はいつしか肩に届くほど伸びてしまっていた。
「すず、お前は壬なのだな」
「黒烏は皆、壬の流れを宿しております」
「目や髪が飛鳥のように黒くてもか。あの中にいるお前は、まるで異端ではないか」
 すずは微笑んだまま小首をちょいと傾げた。
「おっしゃるとおり、あれは壬の色じゃあございませんが、烏にはそれが要るのです。考えてもご覧なせ、烏の飛ぶのは壬の空のみでない、却って飛鳥や坡城の方が多いのですから」
「では他の国の者の血を……」
「時に坡城、時に壬、東雲。私はこの色ですから、主に壬の内で動いておりました」
 暁は黙り込んだ。一歩離れてみれば、上澄み選びはこれほど違って聞こえるらしい。気付きたくもない驕り、我儘、浅ましさ。思考を無理やり断ち切って唇を噛む。
 すずは急須を手に取り、ゆっくりと湯呑に注ぎ入れた。ふわりと湯気が上がる。
「お前たちは、あれほど手間を掛けて私一人ここへ連れて来て、何をするつもりだ。何を企んでいる」
 すずの顔から笑みが薄れた。目を丸くして動きを止める。
「まだ……勘違いしてらっしゃるのね」
「勘違い?」
「何をする、何を企む、だなんて。旭の泰孝やすたか殿がご存命であらせられるならともかくとして、私ども、一つ二つのちっぽけな目的のためにあなたをお探ししたわけじゃありませんのよ」
「では何だ。三つか。四つか。何の考えも無しに行動を起こしたのでもあるまい」
 知らず早口になる。すずは困ったように笑い、急須を盆に戻した。托子に湯呑を置いて暁に差し出す。
「あなたのお力で何をしようとも思いません。目的と呼べるものがあるとするなら、あなたをお迎えする行為そのものです。だってそうでございましょ、主のいない群れは烏合に過ぎません。豊川家の重みとは」
 すずの玻璃玉のような目が、真っ直ぐに暁を見る。
「あなたの持つ流れそのものでしょう」
 丸い目、疑いなき目。今にも二つ、ごろりと零れ落ちて眼窩を覗かせそうだ。
 雲がかかったか、射す光が陰った。
「……では、どうして今なのだ」
「大火のときでなく、ですか。それは本当に申し訳なく思っております。本当なら、あなたに坡城での苦労などさせるはずもなく」
 すずは眉で八の字を描く。睫毛が簾のように白目を覆った。
「見知らぬ土地で見知らぬ者に囲まれ、慣れぬことまでさせられて、さぞやお辛かったでしょう。いいえ言い訳など致しませぬ、お責めになる気持ちはよく分かっておりますから」
 悲愴な面持ちのすずを眺めながら、暁は胸の裡が透き通っていくのを感じた。恨みつらみ、縋る弱さ、払っても払っても思い通りにならぬ靄に似た思いが、さっと晴れていくようだった。
 湯呑に手を伸ばす。それはもう、ほとんど冷めてしまっていたが。