薄暗く沈む川の表面を、舟は進んでいく。
 飛鳥へ渡ったときと同じなのはそれだけで、他の全てはまるで違う。川を吹き抜ける風がこれほどまでに心地よく感じるのは新しい発見だった。肌にぶつかったところからとろりと形を失くす、甘い風。すぐそこでちゃぷちゃぷと揺れる黒い水も、どこか柔らかく穏やかに見える。
 何より、比べ物にならないほど落ち着いていた。まるで浮足立った一日が嘘のように、暁の心はしっかりと根を生やしていた。
 背をぴんと伸ばし、真っ直ぐに前を見つめて夜を睨む。周りの黒いものたちが時にちらと振り返るが、暁が視線を動かすことはなかった。
 彼らは自ら闇に溶けるようだった。視界の端で輪郭がぼやけ、いつしか、ひとり舟に揺られているように感じた。
 何も聞こえない。あるいは声の他に話すすべを持っているのかもしれない。
 先程聞いた彼らの声に、無駄な抑揚は無かった。暁の耳には一番馴染みよい音だ。
 そして、きちんと躾けられている。――夜が落ちるほんの少し前に近付いてきた若い男を思い出す。
「瞼は下ろしていただきましょう」
 水の音のみが耳に届く生温い夕、先を行く舟から大股で移ってきた男は、彼らの中では下に位置する者だろうか。凛々しい眉と引き締まった口元が自負と気概を感じさせる。彼の手に握られた晒しにちらと一瞥を投げ、薄い色の双眸はあくまで前を見据えた。
「私は自ら向かうのだ。枷食まするも眸潰すも、慮外ならぬか」
 彼の体がぴくりと動くのが分かった。その次に待つのが何であっても、命をかすめぬ限りは痛みなど伴わない。暁は唇を固く結んで待つ。
 ……黒い目を伏せて幾度か瞬き、彼は膝、掌、そしてついには額を衝いた。
「とんだ無礼を」
 さすがに暁も、その時は小さく首を動かした。彼の背姿が一つ向こうの舟に移って、重みを失った舟の片側が揺れた。
 こちらの目を覆うというのは元々の決まりごとだったのだろう。彼のように若い者は身のすぐ周りしか見えず、与えられた命の遵行のみに囚われがちだが、この群れは末端に至るまで目に見えぬ枠組みを教えている。
 これは厄介だ。
 夜は静かに周り全てを覆い、今や瞼を閉じたのと同じだった。脇に置かれた数々の寝具のうち、すぐ近くにあった布一枚を身に巻き付けて、暁は夜の帳の手前にもう一つの幕を下ろした。

 目を開けるともう日が昇っていた。周りでは相変わらず水の音が続き、時々丈の高い草が後ろへ滑っていく。視界が開けている割に、ひと気のない場所であるようだ。起き上がって感じた違和感の理由を考え、体が痛まないのだと思い当たった。体の下に敷いた覚えのない布がある。
「お目覚めはいかがでしょう」
 眩しさに目を細めたところで、後ろから鈴を転がすような可愛らしい声がした。振り向いたそこにいたのは、声に似合った顔立ちの小柄な少女だった。歳は暁とさほど変わらないだろう。
「……昨日は顔を見なかったように思うが」
 暁のものに似た焦茶色の髪と目に視線を移すと、彼女は脇の笠を頭にかざし、また置いた。
「昨日まではこれを」
 暁も目のみで頷きを返して前を向いた。しかし目を射す朝の光が痛く、やはり顔をしかめて横を向くこととなる。
 目の前に広がるは平らかに広がる水の流れ、その向こうに光を受けて輝く緑、土手の傾斜が見えるのは随分遠くだ。
「名は」
「すずと申します」
 なんと似合いの名だ。彼女から見えぬように小さく笑い、膝を彼女に向けた。
「お前もこの人攫いの群れの一味というわけか、まだ若いのに」
あき殿もお若いではありませんか」
 会話が途切れた。暁は眉頭にぴくりと皺を寄せる。彼らが暁を呼ぶとき、その音は「あかつき」の四音ではないのだ。
「……そうか、名が似ているために間違えたのか」
「何のことです」
 すずは笑みを浮かべたままで小首を傾げる。人形のような娘だ。
「私の名はお前たちの呼ぶあきとは違う、間違えた滑稽者の顔が見てみたいものだ。そうでないならこんな大仰な舟行列があるか。どう大目に見てもおかしいじゃないか。一体何だって、ただの小間物屋の奉公者をこんな遠くまで連れてくる理由があるんだ」
「あら、人違いと仰いますの。それは大変なことを」
 彼女は両手を口に当てて目を丸くした。芝居じみた動作だ。彼女は更に、眉を八の字に寄せて暁に顔を寄せた。ぐっと抑えた声で囁くように言う。
「でもね、あき殿」
「だから私の名は……」
「ただの小間物屋の奉公者なら、まさか飛鳥へ討ち入りなどなさいませんねえ。恐ろしくって恐ろしくて」
 風が流れていく。ごくりと唾を呑む喉のすぐ傍、ほんの鼻先に、すずの笑顔があった。
 ……これは、厄介だ。
「嫌だ私ったら、余計なことをべらべらと。お赦しくださいまし」
 すずはぺこりと頭を下げて膝を後ろへ下げる。
 まだ笑顔がそこにあるかのように、暁は硬直した顔を背け、しばらくして体を前に向けた。日は今でも眩しかったが、それよりも背中に張り付いて離れない視線が、じっとりと湿った手拭いのようで気持ち悪かった。
 それだけではない。意識してみれば、前を行く舟、後ろに従う舟、びっしりと生えた目のどれもがこの身を監視しているのだ。親指の爪を人差し指の腹に食い込ませて、髪を掻き毟りたくなる衝動を抑えた。
 前に見える櫂持ちを睨む。彼らはあとどのくらい遠くまで行くつもりなのだろう。この国も通り抜ける気だろうか。
 実に厄介なことになった。



 暁が身を起こすと、空はまだ夜の青みを帯びていた。それでも舟は水を掻き分けゆっくりと進んでいる。
 昨日は小雨が降り、傘を持ったすずが昼夜傍にいた。疲れるだろうにという思いと、彼女に近寄ってほしくない思いと、混ざり混ざって結局右の肩が濡れてしまった。幸い夜には月も顔を出し、彼女は傘を畳んでくれたのだが。
 暁は舟の左側に膝を進めて、手を川の流れに浸した。
 暗みの中にぽつぽつと葉が浮いて、くるり涼しげに回りながら流れていく。澱みない水はひんやりと、触れたところから体の熱を流し取ってくれた。
 春秋ならまだしも、夏も間近なこの時期に舟の上に縛り付けられるのは、なんとも苦しいものがある。
 手を川から引き上げ、いつか袖に抱えた小藤を思い出す。何もこの時期に、と思うが、この時期だからと言えないこともない。水の流れを重んじる壬において、梅雨や夏至は要の時期である。
 そこまで考えて暁はまた横になった。かさりと懐から紙の音がする。
 梅香るころから感じてきた薄気味悪い視線が日夜纏わりつく今、少しでも彼らの前から姿を消していたかった。こうして舟の真ん中でおとなしくしていれば、彼らの視線はいくらか和らぐように感じた。
 彼らが自称するとおりの者であるならば、今、場と場を繋ぐこの道という区間こそが、何より隙のない駕籠なのだ。今考えなしに行動して警戒をあおっては、その後がやりにくい。
 彼らは暁を殺さないだろう。
 しかし、それ以外なら何でもしてみせるに違いない。
 痛むほど強く目を閉じると、ぐにゃりと頭の奥が溶けていくようだった。魂の抜けるかのごとく、驚くほど垂直に、暁は夢の底へ落ちた。



 目覚めたとき、すずの顔が高く昇った日を遮っていた。暁は凶夢でも見たかのように跳ね起きて、短い髪を整える。逆光で顔に強く影がかかっていたが、すずの顔はやはり可愛らしく微笑んだままだった。
「そう睨まないでくださいまし。急かすつもりはございませんでしたのよ」
 舟はいつの間にか動きを止めて、木々の葉に隠れる岸へ躯を横付けていた。舟の上に長くいすぎたせいか、久々の土を踏んだ途端ふわりと体が揺らいだ。地面が確かに自分の足を支えているのを見下ろして、後ろを振り向くと、昨日までの広い流れは更に手を広げて湖のような開けた溜まりを形成していた。
 所々に深い碧の影の落ちる、滑らかな場所だ。波紋すら無い。
 水草の匂いの風がさらりと額を撫でる、その時だけ、砂の流れるような滑らかな波が起こる。
 ……ああ、やはりここだ。
 曙光を浴びながら進む舟旅に、頭の中で地図を重ね、もしやと思った場所。いずれ住まうはずだった、骨を埋めるはずだった場所。
 声なく群れに促され、水の眺めを背に、木々と下草の繁茂する道を歩き出す。どこからか木漏れ日、またどこからか囀り。そういえば飛鳥へ上った暮れの道中では、季節がら鳥の声などほとんど聞かなかったのだ。踏んだ土の中へ自分が染み込んでいく。この平穏こそ我が国。この安寧こそ我が地。
 噛み締めるように思うとき、その奥にちらりと炎が舌を伸ばす。胸が縛り付けられる。
 程なくして下草と木の根だらけの歩きにくい道が開け、灰青の瓦屋根が見えた。このような林の中にあるにしては窮屈だが、記憶の中から浚ったものに比すると肩を竦めるかに見える。焼け跡は見付からないからここ数年で建て直したのか、それとも火が届かなかったのか。
 そう、奥には途切れず邸が連なっていた。急ぎ開いたのが丸分かりのこの場所は、しかし愛嬌と円やかな光と、その後ろに荒削りな暗闇を持っていた。
 現実に見えるのは、この三年間で好き放題に茂った緑だ。頭の中が無感動に書き換えられていく。
「こちらへ」
 すずの後を追って戸口とも見えぬ四角を抜け、板を踏み、階を上る。
 下駄は途中の石段に置いてきた。足の裏がひやりと冷たい。素足の吐き出す音がぺたぺたと、浅く卑しく響く。
 行き着いた先で階を下り、また上り、どうすればあの敷地をこれほど動き回れるのか不思議なくらいだった。容易には逃げられぬよう同じ場所を歩かされているのかもしれない。途中からは窓も見なくなり、今どれほどの高さにいるのかも分からなくなった。
 そのうち頭の芯がぼうっとして、ただ惰性で足を動かしているように感じた。前を行く背中に付かず離れず、一歩一歩の連なりが体をどこかへ運んでいく。
 ……幾度目かの敷居を跨いで、ようよう薄暗い中にも光の射す部屋に出た。行き止まりということは、ここが暁の居場所なのだろう。一段高い床に敷かれた若畳が足の裏を休める。
 目の前の八割を覆う板壁に扉は無い。左端の残り二割には、赤子も通れぬ間隔で格子が埋められていた。
「……なんという款待だ」
 なんとあからさまな光景だろうか。いっそ冗談と笑ってしまえたなら。あの邸の端部屋だって、ここまで酷くはなかった。
 一歩後退するが、すぐ誰かにぶつかった。後ろの扉は既に固められている。
 ふと、向かいの柱の隙間からもう一つ光が射した。その向こうは扉か何かがあり、空へ繋がっているらしい――
「こちら、かつては押籠場だったという話です。こういった場しか調えられず、誠に申し訳が立ちませぬ」
 声だけが隙間から流れてくる。扉が閉まったか、光は姿を消したが、分かる、今の声はまだ壁一枚向こうにいる。聞き覚えのある声。賽銭箱の向こうで、目に見えども初めて姿を現した男の声。
「我ら、斯様な姿を晒すことすら恥となりましょう。さぞお気落ちなされたか」
「……お前は」
 男が柱の向こうに立った。背の高い影だ。高みから射すひと筋の光のみでは、暗くて顔も掴めない。
 この「からす」の群れの――躾行き届いた烏合の衆の――お前が頭か。
「道中疲憊なされたでしょう。ゆるり休息なされよ」
 ああ、もう戻れないところまで来てしまった。
 それは、坡城の橋を渡ったときから同じだったのだろう。ただ考えたくなかった。
 握りしめていた拳が解ける。指の間から力が流れ落ちていくようだった。



 目を開けても、そこにあるのは暗い板天井ばかりで、何の感動もない。起き上がった背後で灯りが二つぽっと点る。
「……今日、お前たちの長は」
 火を囲いの中へ入れたすずが、ゆっくりと顔を上げる。
「戻っております。呼んで参りますわね、しばしお待ちを」
 戸の閉まる音を残して彼女が消えると、部屋にいるのは暁ひとりとなった。このところ、動くものといえば彼女しか見ていない。どうやらすずは、暁の世話役として宛がわれたようだった。もしくは目付役と呼ぶべきか。
 そろりと立ち上がって戸に触れるが、やはり開かない。しばらく目の前の暗闇を見つめていたが、ぎいと板の軋む音がして、急ぎ格子の前へ戻った。
 四角く射す光を男の影が遮る。隙間の空はすぐに閉まり、部屋に満ちるは高みからのわずかな光と、ほろほろ揺れる頼りない背後の双火のみとなった。
 格子の前に男が座る。ちょうど向かいに暁も座る。埋め込まれた疎らな格子越しに、大小の影が対峙した。
 暁は改めて彼を見る。歳は十ばかり上というところか。存外に若い。引き締まった顔つきではあるが、あの者どもを率いている割には、眼差しには穏やかさを併せ持っている。
「よくお休みになれていますか」
「……まさか」
 真っ向から男を睨み付けるが、火を背にした暁の表情など果たして彼の目に分かるかどうか。
「それより早く教えてもらいたいな、どうしてこんな場所に連れてこられたか。かどわかすんなら大店の娘子にしないと、朱ごろ一枚だって手に入らんぞ」
「すずにもそのような冗談を仰せであったとか」
「冗談だと。何を以てそんな」
「昨年の暮れ、飛鳥におられましたな」
 この男もやはり、すずと同じことを言うのだ。どこで見知ったものか知らないが、あの時から家の者に目を付けて見張っていたのだろう。
「飛鳥に入ったから、討ち入ったから何だっていうんだ。壬びとが飛鳥びとを憎むのは至極当然だろう。お前たちが……そんな色でも壬びとだというなら、ごちゃごちゃ抜かすのはどういう料簡だ」
「身を偽るためとはいえ、汚い言葉遣いはお止めなさい。あなたに斯様な見苦しさは望まぬ」
 男の口調はあくまで淡々と静やかで、それが却って癇に障った。もっと汚い言葉を吐いてやろうかと口を開けたが、男の声が先だった。
「討ち入ったためにあなたを見分けたとは申しませんが、壬の双刀の存在を……実在を知っているのは国守殿とごく近くの御方のみのはずです」
「……結局、あれは飛鳥びとが持っていたんだ。大火から年暮れまで何日あったと思っている。噂となっていてもおかしくなど」
「その噂でしたら巡り巡って私どもの耳にも届きました。飛鳥で、坡城で」
 あまりにすんなりと認めた男の声が暁の舌を止めた。黒い目に射竦められる。
「そのいずれも、辿った先にいらしたのはあなたでした」
 男は厳しい声で言い切った。それは一切の反論を許さぬ重みを含んでいた。暁もぐっと言葉に詰まる。
 ……刀の噂が、実際に刀のあった飛鳥でさえ聞こえなかったことは、暁が一番よく知っていた。暁が見た一瞬、そして織楽から聞いた殺された男の話、それだけだ。だからこそ穂垂るであの刀を見付けたのは奇跡に近かった。
 奇跡――本当にそうだったのか?
「あなたがご覧になったとおり、あの刀は一度小野の手に渡りました。しかし壬を出る前に私どもの一羽が取り戻し、あの夜まで私どもと共にあったのですよ」
「そんなことは……だってあの刀は穂垂るで!」
「あなたは深入りなさりすぎた。頭を冷やしてお戻りいただくには、あれしかなかったのです」
 もう耐えられない。暁は目を閉じてうつむく。一体いつから見られていたのか。一体いつから、操られていたのか。
 彼の言葉を信じるなら、あの場所へ刀を置き去りにしたのは――それだけではない、暁がそこにいたことを知っているのだから、あの、煙、炎、赫い赫い、血溜まり、生温かい骸、そこらじゅうに転がる死。
 あの全てが。
「小野が上松と手を結んでいることは調べを付けておりました。ただ、一人見逃していたのは全きこちらの手落ち。あなたに傷を負わせたことは悔やんでも悔やみきれぬ。私めの頭を下げてお気の鎮まろうとも思わぬが、どうか、お赦しを」
 そう言うと彼は、額を板張りの床に衝いた。虚ろに顔を上げた暁からは彼の旋毛が見える。
 赦すも赦さぬも、あの時の傷などとうに塞がってしまっている。真に彼らの罪と呼ぶべきは、今更現われて、空を知った体を再び暗闇に閉じ込めることではないか。
「……もういい、下がれ」
 もはや言葉を繕うことも忘れていた。男の口からさらりと語られた数々は、頭から振り払うにはあまりに重い。
 彼はしばらく頭を下げていたが、十数の呼吸を数えるころ、ようやく顔を上げた。
「然あらば、今日はこれにて失礼仕る」
 彼の背を見送り、柱の向こうの戸が開く――ところで、暁は慌てて呼び掛けた。
「どうせ私をここから出す気など無いのだろう。だが私もお前と同じ、自分の務めは投げ捨てたくない。これだけでも届けてくれ」
 暁が懐から取り出したのは黄月が遣わせた文だった。柱からぐいと腕を突き出すと、男も戻って恭しくそれを手に取った。
「怪しむなら中を改めるも結構。好きなだけ確かめるといい」
 男は一度文を頭上にかかげ、丁寧な手付きで開いた。蛇腹に折られた紙は横に伸び、たちまち男の肩幅ほどに広がった。
 高みからの光を頼りに文面を追っていくが、すぐに彼は眉を寄せた。
 書き手は余程の偏屈者らしい。まるで愛想のない文である。小難しい字ばかりが十数行に渡って書き連ねてあるが、そのほとんどが判読しがたい字もしくは見覚えのない語ばかりだ。散だの丹だの見えるからには薬の名か。最後には拇印のつもりか、薄墨の印が複数押されているし、うちいくつかは明らかに親指ですらない。
「これを、どの者へ届けよと?」
「坡城の、川向こうの団子屋は分かるだろう。その道をずっと西へ行けば店並びの中に湊という薬問屋がある。隼の文と言えば必ず分かる」
「所々滲んでおりますな」
「幾昼夜舟の上にいたと思っている。周りは水の途、雨も落ちた。これ以上駄目にならぬよう、今託すのだ」
 男は再び目を紙に戻す。今度は滲みのある字のみを拾ってみるが、逆から読んでも左右に読んでも、どう繋げても意味を為さない。いや待て、それぞれ次の文字を拾ってみればどうか――
「……薬師にも見せますので、今日明日とは約せませぬが」
「結構。滲みがどうのと言うなら書き直しても構わないが、字は全て正確に写すように。何しろ薬だ、別のものとなっては取り返しがつかない」
 男は更に眉間の皺を深くした。無茶を言う。これほど見覚えのない字の羅列の上に、滲みが加わっているのだ。そこまでするくらいならいっそ、揉み消すほうを選ぶ。
「……お預かりいたします」
 逡巡を悟られるのは気が引けた。短くそれだけ言うと背を向けるが、暁の声はまた彼を追った。
「お前のことは何と呼べばいい」
 文を手に振り向いた彼は今度は戸から離れずに、少しだけ口元を弛めた、ように暁には映った。
「私ども烏は群れで一つ、親より下りし名などありませぬ。先のすずも所詮見分けるためのもの、息絶えれば他の者へ流れゆくのです。それでも良いのであれば……私のことは牙とお呼びなさい」
 また面妖な。暁は片眉を上げ、改めて彼の若い容貌を眺めた。
「私の知る牙に面差しが似ているな。父の名を受け継いだか」
 牙と名乗った彼は一礼だけを返して、四角い光の中へ消えた。四角の横幅が狭くなってぴたりと閉じてから、暁は目を閉じ息を深く吐いて、すずが背後の戸を引くまでの束の間、ぐったりと壁に身をもたせかけた。