夏至が近い。
 日は刻々長くなり、雨の降り続く日でさえ、夕に落ちても周りは明るかった。
 紫がかった鉛雲が重く覆い尽くす空の下を傘が流れていく。暁はしとしと雨垂れを聞きながら戸の向こうを眺めるが、行く人はまばら、顔をうつむけて足早に去ってしまう。
「なんっとも盛り上がらんなぁ」
 暁の後ろで障子が開き、葦が顔を出した。左手に持った算盤そろばんを一度御破算にし、板間に腰掛けて紙の束を膝に置く。ぱちぱちと幾度か弾いたところで彼はぴたりと手を止め、肩を落とした。
「ちと早いが今日はもう閉めるかね」
 促されて暁は店仕舞いを始める。ゆっくりと戸を閉める間にも、引っ切り無しに届くのは雨音だけで、細い裏通りは灰色に包まれ人の影も見えなかった。
 祭りから数日、こんな天気が続いている。重苦しい音と色、肌に触れる濁った風が、体の芯まで鈍らせてしまうようだ。心の奥にもぞわぞわと、幾千の虫の蠢くようなざわめきが居座っている。
 ――暁殿。
 一体あれはどちらだったのだろう。夢か現か、祭りの夜に自分を呼んだあの声。
「坊主、こいつを季春まで届けちゃくれんか」
 暁ははっと闇から目を逸らし、狭い通り道を抜けて暗い土間を後にした。
 葦の手にあるのは艶やかに磨かれた飴色の箱だった。彼は真ん中を結ぶ組紐を解き、そっと蓋を取る。その中では、店に置いているものより幾分華やかな櫛簪が、きちんと座を構えていた。鼈甲に蒔絵、花弁を敷き詰めたように彫られた銀からは、滴を思わせる飾りが下がってちらちらと揺れる。
「見事なもんだろ」
 見惚れたままこくりと頷くと、葦は満足げに蓋を閉めて紐を結び直した。
「座長に渡して預かり証を貰ってきてくれ。いっとう上等な品だからな、大事に扱えよ」
 暁は後を葦に任せ、飴色の箱を左腕にしっかりと抱えて澱んだ空に傘を開いた。
 じとじとと、傘紙の届かない一寸先を雨が掠めては落ちていく。針と喩えるには重く、爪先に着くときには一瞬で形を変えて砕け散る。
 所々に落ちた水たまりが雨でひっきりなしに揺れている。気配が近付いては離れていく。もう辺りの店は閉まり、誰の声も聞こえない。雨音、足音、また雨音。
 伸びてきた髪が首を覆って張り付いた。
 どろりと濁ったもろみの中を泳ぐようだと思う。視線の手前に自分の足の甲が見えるのが不思議なくらいだった。
 今、音とすれ違った。顔を上げると左手前には季春座の灯りが夜に滲んでいた。賑やかな音も篭って聞こえる。ほっと息を吐いたのと、後ろから慣れた声が聞こえたのは同時だった。
「暁」
 振り向いて傘を少し持ち上げる。たった今すれ違ったばかりの影は、水の上を跳ねるように暁に近寄り、ひょいと身を屈めて顔を覗き込んだ。織楽だった。
「やっぱそやな。もう遅いのにどうしたん」
「これ、季春座に頼まれてたって。座長さんに渡したいんだけれど」
 暁は袖で隠すように覆っていた箱をちらと見せた。織楽は眉を上げてちょいと首を傾げる。
「そんなら裏から入らんと。鼠はもう閉まったぁるし」
 連れられるまま彼を追って角を曲がり、気付かず通り過ぎてしまいそうな狭い小道に入った。雨は周りから迫り出した木々に絡め取られ、傘など要らないほどだった。
「貸してみ」
 行き止まりに来ると、織楽は闇の中に手を掛けて戸を引いた。暁が差し出した箱を、濡らさぬよう大事に胸に抱えて、身を屋根の内へ滑り込ませ、傘を畳む。
「ここで待っとり」
 それだけ言い残して、織楽もまた暗がりに溶ける。奥にかすかな灯りが四角く切り取られている他は、全くの闇だった。揺れた葉から不規則に落ちる雨は耳元で異なる音色を弾き出し、そのたび目の前にはぴんと張られた弦が浮かんだ。
 ぽろ、ぽろん、高く低く、止まず肌を打つ。やがてそれがまばらになったころ、ようやく背後から声が掛かった。
「よし、行こか」
 左腕に傘を、右手に灯を提げた織楽は、暁の傘をくぐり、天の下に体一つを晒して歩いていく。暁は受け取った預かり証を胸に仕舞い、傘を畳んで後を追った。
 雨はほとんど止み、地面にいくつもの水たまりが残るばかりだ。じっとりとした闇を暁は行く。前に見える織楽の髪が軽やかに揺れている。
「あの箱の中身、お前も見たん」
 肩越しに織楽の横顔が見えた。暁はひと息遅れて頷く。
「あれ待田の爺ちゃんに頼んでもうたんやろ。さすがやったわ」
「そう……なのかな。詳しいことは知らないけれど、うん、綺麗だった」
「暁はあんなん付けたい思わんの」
 織楽がぐるりと振り返る。突然自分に話が飛んできて、暁は何も言えず頭に手をやった。汗と所々に落ちた雨粒で、短い髪はぺたりと丸く張り付いている。
「この頭のどこに飾るんだ」
「伸ばして飾ろう思わんの。綺麗や言うだけとちゃうて、自分もそんなん着けてみたならへんか。店にもようけ並んでるし紅花やって色々持ってるやん、羨ましない」
 ふと、祭りの夜に見た紅花のうなじを思い出した。真黒い髪によく映えた簪の赤が、目の奥で鮮やぎじわじわと広がっていく。
 彼女が眩しくなかったと言えばそれは嘘だ。あの時、自分をどこかへ隠してしまいたくなった。この身全てが鈍い痛みを感じていた。だがそれは、簪一つ揺らせば埋められるものだったのだろうか。
 心を通り過ぎていったざらつきを上手く舌に乗せることはできず、暁は目を逸らして小さく笑った。
「織楽のほうがもっとたくさんの飾り物に囲まれているけれど、妬んだことはないよ」
「そ、か」
 織楽は一言呟き、黒く沈む水たまりを飛び越える。長い黒髪がふわりと浮いた。
 軽やかな人だと暁は思う。彼なら水の上さえ、ゆるやかな波紋を残して歩けそうだ。追う暁の足は弧を描くように、同じ場所を避けて歩いた。
「な、港に東の蕎麦売りが来てるん知っとるやろ」
 暁が首を傾げると、織楽は顔をしかめて暁の鼻先に提灯を突き出した。
「そんなら何や、お前の歩くんは家と小間物屋の間だけか。あかんでぇ、もっと周り見な。あんなおっちゃんの一人や二人、軽ぅ騙して外出てみ」
 さらりと肩を滑って胸元に流れる、彼の髪の細かい動きが、灯に照らされてよく見えた。暁は提灯から顔を逸らす。
「だって、そんな……用も無いのに」
「用なんて作るもんや、この世に無駄なもんなんて一っつも無いねんで。分かるか。いつもと違う道通るやろ、いつもとちゃうもんが見えるやろ、そしたらお前はそれ見るためにその道選んでんや。な? よし決まった、明日の夕は二人で港行きやな。紅花にちゃんと言うときや」
 よくここまですらすらと舌が動くものだ。言われた全てを噛み砕いて飲み込むより早く、織楽は背を向け歩き出す。いつか見たのと同じで、衣紋は大きく抜かれてこちらへ傾いている。既に道は坂へと差し掛かっていた。
「……わざわざ行くほどの味なの」
「それ確かめたぁて行くんやん。美味かったら他誘ってまた来よか、不味かったら二度と来たらんわ、そんで十分や思わんか。蕎麦一杯にそこまで怖がらんでええて」
 何も怖がっていたわけでは、その言葉を呑み込んで歩く。
「蕎麦は冬だけのもんちゃうで」
 笑うような声が、先に坂を上って家に辿り着いた。五つ並んだ真中の部屋からは障子越しに灯りが漏れている。
 織楽は縁側に上がり、下駄の鼻緒を二本の指ですくった。流れるような動きだった。どうせすぐに行儀が悪いと紅花に叱られるのに、だらしない所作さえいちいち見惚れるようなのだ。
「そしたら明日な」
 織楽の背が角を曲がって消える。暁は傘の水気を払って、いつもと同じように戸を引いた。



 この前の祭りの夜のように、期待が却って仇になることを危ぶまぬではなかった。それでも、暁が朝起きて一番に感じたのは不思議な高揚だった。嘘のようにからりと晴れた空が、心の奥まで風を運んでくる。
 夕まではなんと長いのだろう。朝も昼もまだこれからなのに、心ばかりふわふわと漂っていきそうだった。
 だからこそ、他のことを深く考えない、一番忌むべき浅はかさに浸かりきっていたのだ。
「これを湊に」
  朝、家の者の多くが飯を終えて出た後の部屋で、黄月は暁に文を差し出した。
「今回は書状だけ?」
「今後の仕入れに関する連絡だ」
 暁は黄月から差し出されるままに文を受け取り、その後ではっと唇を結んだ。
「これは今日じゃなくちゃならないの」
「早いほうが助かるが。今日に限って、わざわざそんなことを訊くほど忙しいのか」
 暁は持て余したように文を裏返し、また表に返す。
「今日、昼過ぎまでは葦さんがいないし……」
「それからでも充分だ。まだ日暮れまでたっぷりあるだろう」
 それでも、湊まで行って帰れば夕になってしまう。昨日の約束が。しかしそんなことを明かすのは、たかが一飯の約束にしろ気が引けた。
 口籠る暁を見かね、黄月は渋い顔で片方の口の端を引き上げた。
「明日も無理だと言うなら、今回はもう頼まんが」
「それ、それなら大丈夫。明日にはきっと届けるから」
 慌ててそこまで言うと、暁は文を懐に仕舞って足早に部屋を出た。おかしく思われなかっただろうか。いや、今日の自分は明らかにおかしい。坂を下る道々、今更ながらに、先約とはいえ自分の都合を押し通したことが恥ずかしくてならなかった。
 顔が熱い。口をしっかりと閉じ、その中で声無く叫びながら、しかし家を離れるごとに胸の底から湧いてくるのは浮かれた気分に他ならなかった。
 それは小間物屋に着いてからも続き、いつもそんな顔なら売り上げも伸びよろうに、と昼から店に顔を出した葦に冗談交じりで言われるほどだった。

 日が傾き始めたころ客足は一旦途絶え、葦は算盤の珠を弾き、暁は届いた品の整理と数合わせをしていた。
「それで葦さん、明日の朝は文を届ける用があるから、こちらには出られないんですが」
「ああ、行ってきな。昼から今日くらいきびきび動いてくれりゃあ文句ない」
 それを聞いて暁は思わず手を止めた。いつもと同じように振る舞い、訳も分からず浮き立つ自分をきちんと押さえているつもりだった。
 共に出歩き飯を食べに行く、それだけで、どうしてこうも落ち着かないのか。胸が騒いで何もかも手に付かない。自分はそれほど、数度口にしただけの蕎麦とやらを気に入っていたのだろうか。前に食べたときの椀に入った塊を思い出す。
 一見餅のようでありながら、ふわりと温かい香りと味、滑らかな舌触りは、他では味わえない不思議な一品だった。
「確かにあれは美味しかった……、あ」
 慌てて手を作業に戻す。せっかく働きを褒められていたのにこれではいけない。
 その直後に暁を呼んだのは葦とは違う声だった。
「お、働いてんな」
「……珍しいお客が」
 振り向いた先にいたのは針葉だった。暁は手を止めて敷居まで歩いた。彼は店の内部に積み上げられた雑多なものをぐるりと見回す。
「黄月が私の愚痴でも言っていたの。様子を見に来た?」
「は、何だそりゃ。俺の用はお前じゃなくこの店だって」
 そこで一旦言葉を切ると、針葉は眉間に皺を寄せて暁を見た。
「それよりお前、今日は昼から湊屋じゃなかったのか」
「それは明日の朝。今日はその……、この後でちょっと用事があって」
 針葉は興味無さげに頷くと、暁を押し退けるようにして奥へ踏み入った。彼はきょろきょろと辺りを見回すばかりで、暁には何が目的か見当も付かなかった。
「何をお探しですか」
 後について歩きながら声を掛ける。
「ん、何が置いてあるんだった」
「それはもう、御姫がたには華やぐ飾りに流行り染め、刷毛に柘植櫛、鶯の糠。御殿がたには煙細工に銀細工、目貫、根付に塩磨き、鳥の鳴き声、夜の花」
「よく覚えた。そんじゃ、次はその意味まできちんと聞いとくこったな」
 からかうように言うと、針葉は脇に吊るされていた笠をちょっと手に取って戻し、その先の扇子をぱっと広げては同じ場所に戻した。何かごまかしている素振りだ。彼がそれを数度繰り返したところで、暁も足を止めて自分の作業に戻った。
 暁が離れたと見ると、案の定、彼はすぐに品を手に取って葦のいる奥の間の戸を開けた。
「おっさん、勘定頼む」
 ぱちぱちと算盤の音が続いていた。そちらへ歩く途中で、暁は自分を呼ぶ葦の声を聞いた。
「お勘定はこちらで」
 針葉の手のものを取ってみると、それは可愛らしい簪だった。先に橙と赤の小花が三つ四つ下がって揺れている。この時期咲くものを模しているようだ。
「六朱いただきます」
 受け取った朱ごろ六枚を葦に渡して戻ると、針葉はまだ店に留まっていた。右奥の一番人の寄りつかない域で何か手に取っていた彼は、暁に気付いて上から下まで無遠慮に眺め回した。
「……何か」
「いや。そういやお前、紅花みたいに口煩くねえもんな」
 今度こそ暁は眉をひそめる。針葉は手をひらと振って店を出た。
 針葉の通った道の品を並べ直し、続いて現れた二人の客を捌く。ふと外を見ると、空の青さの中に夕が見え隠れしていた。西に面した小間物屋からは、日は既に向かいの長屋に隠れて見えない。
「暁」
 右手の道から織楽の声がした。ゆったり歩いてきた彼は、昨夜は下ろしていた髪を、輪でも作るように一つにまとめていた。
 暁の胸が跳ねる、忘れられてはいなかった。だがその後ろには怖気づく心も見える。今から出掛ける、二人きりで。何を大仰な、ただ夕飯を食べに行くだけで、しかもこちらは冴えない男姿で、化粧っ気の欠片もなく、むしろ華があるのは誰が見ても織楽のほうなのに。
 一瞬のうちに暁の頭の中を流れていった思いなど知る由もなく、織楽はにっと目を細めた。
「どや、そろそろ終わるか」
「もう少しかかるから中で待っていて」
 待つことさえ楽しそうな様子で、彼は店の中をうろつき始めた。置かれたものを手に取っては身にまとい、自分の髪に添えてみる。針葉がごまかしに魅かれたふりをしていたのとはまるで逆だった。
 そろそろ片付ける準備をしてもいいだろうか。暁は葦のいるほうを振り返る。
 ――左耳に触れるものがあった。ぞ、と肩が震える。ぱっと身をよじると、織楽が暁の髪に簪を当てていたのだった。くすぐったさが残っている気がして、暁は何度も左耳を擦り、眉を寄せる。
「だから私はそういうものは……」
 目の前で揺れる鮮やかな色の花は、どこか見覚えがある。まじまじと見つめ、暁は目を丸くした。針葉が買ったものと同じだ。
「織楽、それどこで」
 彼が指したのは、つい先程まで針葉がいた場所だった。
「あんな可愛げのない物ばっか置いたぁるとこに、これは無いやろ。戻しとこか。それか置き忘れかな」
「ここに来る途中で針葉見なかった?」
 暁は織楽の手からそれを取り、袖で二重に包んだ。
「ああ、んーと……季春近うの小道に入ってったんは見たけど……」
「ごめん、届けてくる。すぐ戻るから!」
 言うなり暁は店を飛び出した。
 いつになく歯切れの悪い織楽も気にならなかったし、針葉の言動の意味するところも気付かなかった。葦に許しも取らなかったし、家で渡せばいいのだと、思い付きさえしなかった。その日は全て、何か軸となるものが外れていたのだ。

 慣れた通りの中で、裏道にもならない小道を探す。
 昨夜織楽と共に進んだ芝居小屋の裏口への道には、さすがに誰の姿もなかった。戻って反対側の小道に入る。
 そちら側も狭く、足首はしょっちゅう草に引っ掻かれるし、頭はやはり木に覆われて、好きこのんで行くべき場所とは到底思えなかった。
 それでも足を進めたのは、引き返そうとしたその時、角の向こうで人の声が低く聞こえたからだった。
 暁はそろりと草を踏んだ。
「針葉……?」
 たとい人違いでも退散できるよう、小さく呼んでそっと身を乗り出す。
 果たして、その向こうに見えたのは間違いなく針葉の背中だった。朝餉の席で見たのと同じ、暗い小間物屋の中で見たのと同じ背中が、奥の壁に、身をやや屈めるようにして立っている。ただ一つ違うのは、着物を向こう側から握り締める綺麗な指があることだった。
 自分が何を見ているのか分からず、何をしにここまで来たのかも忘れ、ただその白い指に吸い寄せられるように、暁の足は動きを止めていた。
 ふと、その指が針葉の服を引っ張った。針葉の背と、その向こうの指の持ち主が、何ごとか囁いてわずかに体を離す。ゆっくりと針葉が振り向き、暁を見た。いつもと何ら変わらない、見慣れた顔、見慣れた表情だ。
「ったく、野暮だな。……何だ」
 聞き慣れた声、聞き慣れた抑揚。それは確かに針葉なのだった。
 暁の喉がまだ融けきらぬうちに、白い指がまた彼の着物を引いた。人差し指が暁に向く。誰なのと尋ねたのか、針葉の顔がそちらを向き、また低く囁いた。
 暁の足に、指に、じわじわと感覚が戻ってくる。ここへ来た理由を指先で思い出す。
 袖に包んだものを、どうすれば良かったのだろう。あの白い指から腕に、肩に、首に、そして頭にと、見慣れた背の向こうに続くのはそういった見知らぬものなのだ。そこに飾り付けられるべきだった小花の簪は、可愛らしい戯れなど似合わなくなった今、どこへ行くべきものなのだろう。
 針葉がまた、暁を振り向いた。
「意地でもそこにいるってんなら、いっそ交ざるか」
 その途端、向かい合った肩を包むように優しく丸まっていた指が、ぴんと伸びて針葉の脇腹を叩いた。その音が、暁の周りにも流れを作り出したようなものだった。にやと笑う横顔が見えなくなる前に、暁は踵を返してそこから離れた。
 夢中だった。季春座の櫓も見えないところまで通りを行く。人にぶつかってよろけても構わなかった。体中を覆っているのは怒りでも恐れでも恥じらいでもない、そんな簡単な名前を付けて仕舞っておけるものではない。
 あの白い指は、なんと自由に形を変えるのだろう。人差し指のみ伸ばすこともできれば、景気いい音を立てるほど全体を張ることもできる。そして甘えた仕草を……きっとあれは甘えると呼ぶべきものなのだ、相手の体にぴたりと張り付くように丸めることもできる。
 あのしなやかな動きと、その他の全てを隠してしまっていた広い背。
 見慣れた背、見知らぬ指、ただの男女の睦び事だ、ただの――なのに。
 ただただ吐き気がした。
 何が気に入らないのか分からなかった。いや、気に入らないという、それだけが理由なのか。この震えが止まらないのも?
 今日浮き立っていた自分は何なのだろう。何を期待していたのだろう。織楽は暁に言った、簪や飾り物を身に着けたくはないかと。暁は身を躱してその話題から逃れた。そうしながらもくすぐったさを感じていた。
 いっそ交ざるか。
 針葉が冗談交じりに放ったひと言が、暁に突き付けた。広い背、しなやかな指、暁も結局そのどちらかに当てはめられるしかないのだ。髪を短くして男物に身を包んでいても、結局。
 今日の夕方を待っていた。街歩きに誘われたことに心が弾んだ。中途半端な自分の姿に気後れもした。
 では、その果てに自分が望んでいたのはあれなのか? あの指になろうと?
 暁はぶんぶんと首を振り、畳んだ袖を広げて小さな簪を取り出した。それはあくまで愛らしく慎ましく、袖の外で暁が見聞きしたものなどこれっぽちも知らないと言わんばかりだった。
 暁はそれを袖の中に落とし、代わりに懐の文を取り出した。空は少しずつ色を失い、湊まで行って帰れば、飯時分をはずすことができるだろう。
 後で織楽に謝らなければ。
 それでも今、何を腹に入れられるとも思えなかった。

 その日は朝からおかしかった、全てはそうして片付けるしかない。
 橋を渡るのがどんな意味を持つかさえ頭が回らなかった。湊行きは西行きの道、そこまでの地面は道にすぎないと、愚かにも考えていた。
 ふと見下ろせば、昨日まで降り続いた雨が川を深く変えていた。
 坡城には幾分珍しい、櫂持ちを乗せた舟が向こうからゆっくりと流れてくる。――御名を抱く我らが途にてお待ち申し上げるゆえ。唐突に賽銭箱の裏で聞いた声が蘇り、暁は歩みを緩めつつ目で追う。櫂持ちは笠を取って汗を拭い、こちらに気付くことなく橋の下を流れていく。
 御名を抱く我らが途。
 私の名とは。
 この足の下に横たわるは――
 まさか。
 ふ、と思い至って欄干を離れる。背が誰かにぶつかった。振り向くと、いつの間にかそこにいた二人も、向かいの欄干の傍からこちらを見やる数人も、漆黒を身に持っていた。
 彼らは自ら触れようとはしない、代わりに橋と一体になったように足はぴくりとも動かさなかった。通れるだけの隙間がない。逃げ道がない。
 暁に動かせるのは目だけだ、周りにある黒い髪、黒い目、ほんの一年少し前まで何より遠くにあった色。戸惑いはやがて敵意となって、ひと組きりの茶色の目に宿る。
「飛鳥びとか」
 反応はない。短く息を吸う間に暁はぐるりと視線を巡らせた。
「これだけ……人を引き連れて、大層なことだ。今までこちらを泳がせていたのか、それともあの火や屍の山すらもお前たちが……? この茶番はいつから始まっていた」
「いえ」
 その声は遠くから聞こえた。ぶる、と暁の身が震える。
「我らの全てはあなたに副い、あなたの全ては我らに副う。流れは普遍のものなれば、あるべきところへ還るのが筋というもの」
 この声には聞き覚えがある。暁の前にいた二人が身をずらし、その後ろに立つ黒髪の者を見せた。
 つ、とその指が持ち上がってもう一方の袖を引く。するすると肘が覗き肩が覗き、そこにあったものは――紛れもなく。
「ただ一つ赦しを乞いたきは、これほどまでに迎えの時が遅くなった、それのみでございます」
 声が一歩近くなり、思わず後ずさった。背後の道は、無情にも欄干が遮っている。
 逃げ道はどこだ。ここは坡城、そこここに見知った者がいた地だ。一年以上も歩き回り、働き、移ろいを見た、何もかも知った土地のはずではないか。
「お待ち申し上げておりました」
 なのに逃げ道がない。
あき殿」
 どこにもない。