若葉萌ゆる朝だった。 暁の部屋には黄月が座り、その前には十本弱の瓶が並んでいた。黄月から仕事を任されるのはこれで二度目だ。 黄月は相変わらずの無愛想ぶりで、瓶を前に早口で一度説明したきり「しくじったら次は無いぞ」と呟いて立ち去った。その後ろ姿を思い切り睨み付け、暁は耳の中におぼろげに残る音を、目の前の瓶に留められた小難しい漢字とどうにか結び付けていく。 いくつも種類がある中で二つだけ読みのあやふやなものがあった。黄月に訊きに行くか迷った挙句、浬が書いた書状をそっと開いて数を確認する。 「二本がカイカ……サン、三本が……ガイシサン、かな」 まだ書状を開けることは禁じられていた。暁は元通り畳んで懐に仕舞い、瓶を風呂敷にまとめて立ち上がった。 開いたままの障子からは暖かな風が流れ込んでくる。芽吹いた緑が目に鮮やかだ。 まず坂を下りて向かうのは小間物屋だった。先に店を開けていた葦に挨拶をして、届いた品々を棚に並べ、新たな品の値を頭に叩き込む。程なくして客の声と足音が店の中に響き始め、葦が暁を呼んだ。 「おい坊主、お買い上げだ」 「はい」 暁は品出しの手を止めてそちらへ急ぐ。客の応対が上手いのは葦だが、銭勘定は任せてもらうことが多くなっていた。葦の前にいた中年の女に一礼し、その手にある帯留めと櫛に目を留める。 「七朱に二鈍五朱で三鈍と四朱です」 「二の五ってこの櫛? 娘にと思ったけどちょっと高いねえ」 「それならそちらの櫛が似たしつらいで一鈍三朱です。物が良いのは今お持ちのほうですが」 女は暁が示した櫛と見比べてうーんと唸った。 「そうよねえ、真っ先に目に留まったのはこっちで。でも二の五、二の五ねえ」 これは値切られているのだろうか。言葉を継げず固まった暁を見て葦が助け舟を出した。 「娘さんはおいくつです」 「十四になるけど」 「そんならちょっと良いもの買ってやっても罰は当たらんでしょう。なんならこっちの櫛。世に知れた名工、待田翁の作でしてね、値は張りますが嫁入り先に持ってっても見劣りしませんよ」 「やだよぅ、嫁入りだなんて」 女は葦とひとしきり話し、結局いっとう高い櫛を手にして店を後にした。暁はそれを見送ってほうと溜息を吐いた。 「さすが」 「お客はうまく乗せるもんだ。納得いく理由さえあれば選んでもらえるからな。……お、いらっしゃい。いつもご贔屓いただいて」 葦は店に入ってきた青年のほうへ歩いていき、暁はまた品出しに戻った。 自分にはああいう機転が利かない。ここで働き始めて一年が経って、物の配置や値段は頭に入ってしまったが、あと一押しができないのだ。才が無いということなのだろう。 それでも、今は小間物屋だけではない。暁は奥の部屋に置いた風呂敷を思い出す。用意された書状と瓶を届けるだけでは小間遣いも同じだが、ゆくゆくは書状作りも任せてもらえるという。 昼が近くなったところで紅花が顔を出した。暁は入れ替わりで奥の部屋に下がり、冷や飯を茶漬けにして腹を温めた。 客が少なくなったらしい、土間から紅花と葦の声が小さく流れてくる。 「あの坊主は昼から用事かい」 「お遣いで西の大通りに行くんだって」 「お遣い?」 「荷物を届けるだけ。ま、ここに長くいてあの子に得るものとか活かせる才があるわけでもないしさ、店の売り上げが特別上がるわけでもないし。他にちょっとでも働き口が見付かるんならいいことでしょ」 葦の笑い声。「花ちゃんは手厳しい」 「別に厳しいこと言ってるつもりはないんだけど……いらっしゃいませ」 声が遠ざかる。暁ははっと茶碗の底に沈んだ飯粒を見た。一粒ずつ箸の先で摘まんで口に運ぶ、ぬるくふやけた粒は口の中で歯ごたえなく溶けていく。 「ごちそうさまでした」 茶碗や箸を厨の洗い場に浸けて流していく。温んだ水でも指には心地よかった。茶碗の手触りを確かめながら暁は今の会話を思い出す。 重たいものが胸にぶつかってきたようだった。だが落ち込んではいない。傷つく必要などない。だって紅花は正しい。 それに既に自覚していたことだ、自分に客商売は向いていない。 なのに今自分の動きが鈍くなっているのは、動き出す先が開けていないからだ。 物を届けるだけのお遣い。ゆくゆくは他にも任せてもらえる、でもそれを判断するのは自分ではない。その日に向けて何を磨くべきかも示されない。自分の手足を自分で動かせないもどかしさで息が詰まりそうだ。 暁は洗い終わったものを伏せて手を拭った。 今は目の前にあることを着実にこなさなくては。 畳の上に戻って重い風呂敷を持ち上げると、瓶が動いてがちゃりと鳴った。暁はそれを丁寧に抱えると、裏戸から外へ出た。 針葉は開いた帳面とその下の紙から顔を上げた。 通い慣れたこの店。今彼がいる口入れ屋や長暖簾で仕切られた質屋で客応対をしているのは見慣れた顔だ。しかし奥の暖簾の向こうから感じる気配は今までより多かった。 「爪印は押してくれたかい」 針葉が見ていたその暖簾を分けて、いつもの中年女が現れる。針葉は帳面の下から紙を抜き取って女に差し出した。 「はいはい、確かに。それなら早速明日から行ってもらおうか」 「菱屋はえらく儲かってるらしいな」 ん、と女が紙から目を離した。針葉が暖簾の奥を指す。 「人が増えただろ」 「何だかんだと人の移動は多いねえ。新しく雇ったんじゃなく他の店から移ってきたらしいけどね」 「同じことだ、儲かってなきゃ人は集められん。人の稼ぎの上前はねて雇い人を増やすなんて、菱屋も阿漕な商いだな」 「何言ってんだい。でかい口叩く前に一丁前に稼いでくれないと、はねる上前も無いんだよ」 互いに軽口を叩きながら仕事の説明を受け、針葉は菱屋を出た。日は既に暮れかけて涼やかな風が吹いている。しばらく道を南下して東に折れたところで、人影の向こう、前を歩く小さな影に目を留めた。 「暁」 振り返った顔はやはりそうだった。浬の着古しのくたびれた着物に飾り気のない短い髪。折り畳んだ布を胸に抱え、薄い色の瞳で針葉が近付くのを見ている。 「今帰り?」 「北に行ったとこの口入れ屋に、ちょっとな。お前こそ、もう日ぃ暮れんぞ。何だその風呂敷」 暁は今来た方角をつっと指した。 「湊屋っていう店があるの知ってる? そこに黄月が草とか実とか木の皮とかを干したものを納めていて、その手伝い」 「人を使うなんてあいつも偉くなったもんだな。瓶入りのやつだろ、よく持てたな」 「重かったけれど、それくらいしないと」 二人は夕焼けに背を向けて歩き出した。西の大通りから離れると人の姿は急に少なくなり、あの花見の夜の人出が嘘のようだった。葉桜の向こうに一つ目の橋が見えたところで暁が首を傾げた。 「口入れ屋って?」 「働き口の仲介屋だ」 「あ。アズメを売ったり虫を売ったりばらばらな仕事をしてると思ったけれど、そこを介してたのか」 「石も彫ったし舟で沖に出たこともある。明日からは山入りだ。木ぃ伐ってくる」 桜の木の下にはちらほらと実が落ち、いくつかは潰れて赤紫色の汁を吐き出していた。明日には虫が群がり、次に通るときには跡形も無くなっているのだろう。 額を撫でる涼しさに暁は目を閉じた。吹き抜ける風には草と土の濃い匂いが混じっていた。 「私もそういうところで働き口を探したほうがいいのかな」 このままの暮らしで生きていけないこともない、でもそこには常に少しだけ息苦しさが付きまとう。ぽろりと零れた呟きに対する針葉の声は明るかった。 「紅花の店にゃ今も行ってんだろ。そんなに暇なのか」 「暇ってわけじゃ」 「じゃあ欲しいもんでもあるのか。どうせ紅花がろくに払わねえんだろ」 針葉の笑い声を隣に聞きながら、暁は風に揺れる緑を遠く眺めた。坡城に戻った後、針葉からは巴屋の稼ぎを少し分け与えられているし、暁の銭の使いどころなど雨呼びで燃す小藤くらいだ。生きていくのに不自由はしていない。寝て起きて、飯を腹に入れて、また床に就くだけなら。ただ。 「胸を張ってできることがあればと思ったんだ」 抑揚のない声に針葉はちらりと隣を見た。 「……お前が何したいのか知らんが、口入れ屋なんか行っても、結局お前くらいの女じゃ奉公くらいしか口はねえだろうよ。紅花の店と同じだ。それとも男だっつって行くか? 虫うじゃうじゃ増やして売り歩いてみるか?」 暁が顔をしかめたのを見て、針葉は声を上げて笑った。 「根詰めず気楽に考えりゃいい。お前、壬じゃいいとこで暮らしてたっつったけど手習いとかしてなかったのか」 暁は過去に教わった数々を思い浮かべた。読み書き算盤、繕い物、花に歌詠み、筝の琴に唄――そして首を振る。 「皆が当たり前にやっているものばかりで、誇れるようなものじゃない」 「そんなら掃除洗濯じゃ右に出る者はないとか、美味いもん作れるとか」 今度こそ暁はぶんぶんと首を振った。 「厨になんか入ったこともなかった。包丁を握らせてもらったのもこの前が初めてで」 針葉はぴくりと眉を歪めて暮れゆく空を睨み、ぐいと暁に顔を寄せた。 「そういやお前が何か作ってんの見たことないな」 「だって……作ったことがなかったから」 暁は体を反らせて距離を取る。針葉はその返答に大袈裟なほど肩を落とした。 「お前なあ。ありもしない胸張りたいとか言う前に、まずそっちだろ。包丁も触ったことない奴が刀欲しがんな。お前の親は何考えてんだ」 暁はかっと頬を紅潮させ、風呂敷を抱えた腕に力を込めた。 「私の胸は関係ない!」 通り過ぎた人影が何事かと振り返りつつ去っていく。針葉は口の端でにやと笑って暁の鼻先に指を突き付けた。 「お前、こんな単純なことが分からねえのか」 「単純な……?」 「体つきは貧相、身形にも気ぃ使わん、そのうえ飯も作れん。そんな女に誰が引っ掛かる。お前だって惚れた男の一人や二人いるんだろ、落としたいならちっとはやる気出してみろ」 針葉はまた歩き出す。そろそろ団子屋が左手に見えてくる頃だ。足音が聞こえないことに気付いて振り返る。 「あか……」 暁の表情は静かなものだった。散々煽ったにもかかわらず期待した怒りは読み取れない。 その足が動き出し、針葉を追い越した。針葉も小さな背を追って歩き出す。 「おい、今言ったことちゃんと聞いてたか」 「きちんと聞こえたし、よく分かった」 どこまで本当だか。針葉は首を捻りつつ二つ目の橋を渡る。 季春座のある大通りが近付くとまた人通りは多くなった。暁は混雑を避けるため通りを突っ切り、一本先の裏通りで左へ曲がった。針葉と暁の肩が隣に並ぶ。 「女らしい体つきで、身形も綺麗で、ご飯が美味しくて」 「あ?」 「そういう相手だったんだ? 花見のときの人は」 針葉は口をあんぐりと開けて暁を見下ろした。薄茶色の瞳に嫌味の色はない。ただ確認しただけと言わんばかりだ。 「……んな話、今蒸し返すか」 「あのときは話に付いていけなかったから。やっぱりそうなんだ」 「別れた奴の顔なんざ一々覚えてねえよ」 針葉は不機嫌な声で吐き棄て、大股で通りを歩いていった。肩を怒らせた後姿を眺め、暁はとぼとぼとその後を付いていく。 惚れたはれたは今の自分には必要ない。それでも。 「外で働き口を探すばかりがやり方じゃないってことだ」 暁はまっすぐ前に顔を向けたまま、誰にともなく言った。 小間物屋は既に店仕舞いをしており、二人はそのまま家に続く坂を上った。 数日後、夕飯前に家に戻って摘まむ物を探していた針葉は、足を踏み入れた厨で暁を見た。袖を襷でまとめ、まな板に向かって小気味いい包丁の音を響かせているのは紅花だ。暁は青物の泥を落としているに過ぎない。そして身形はくたびれた男物のまま、当然のことながら体つきも変わらない。 「ちょっと待ってよ、もうちょっとでできるから」 紅花が鍋の蓋を取ってかき混ぜながら言う。その声に暁は手を止めて顔を上げた。視線がかち合い、針葉は腕を組んで顎を上げた。 「菜っ葉洗っただけで飯作ったとは認めねえぞ」 「菜っ葉の一つも洗わない男が何言ってんのよ」 紅花が暁の手からウスアカザを取り上げて煮立った湯の中に沈めた。暁は立ち上がって手を拭い、ウゴマ磨りにかかる。針葉はうるさい腹をなだめながら厨を出た。 後ろからは味噌と飯の炊ける香りが追い掛けてきていた。 夏至が近い。 暁が厨で紅花の補助をするようになってひと月、その間にはこれまでどおり小間物屋に通い、黄月の遣いにも二度出ていた。 雨が上がったその日、昼から紅花に任せて小間物屋を出た暁は、小藤を手に入れに境の地へ足を向けた。以前行ったのはもう三月も前だ。あのときは梅が咲き雨が降っていた。梅は今、小ぶりな実をいくつも実らせ、それは雨が降るたび青から黄へと色を変えていく。 境の地は今日、どこか浮足立っていた。 何かあったのかと問う暁に香ほづ木売りは、いつもより大きな小藤の欠片を取り出して秤に乗せ、笑った。 「港のほうで祭りがあるんだってよ。知らないのかい、坊主の家の近くだろ」 カゾの葉の包みを抱えた暁は途中の橋で足を止めた。以前、この場所で何者かの気配を感じたことを思い出したのだ。しかしそれを感じたのはほんの数回のことで、今思えば幻だったような気もする。 暁は足を踏み出す。橋はぎしっと鳴って重みを受け止めた。 坂を上りきると紅花、続いて紅砂に浬が家から出てきたところだった。 「お帰り。あんたお祭りに行ったんじゃなかったの」 「いや、境に……。今日は祭りがあるんだってね、そこで聞いて初めて知って」 「あんた知らなかったの? お客だって周りの店だってそんな話ばっかりしてるじゃない、いつも何聞いてたのよ。昼間っからいなくなっちゃうから、よっぽど楽しみにしてるんだと思ってたのに」 暁は立ち尽くし、紅花の笑い声を聞く。周りと自分とでは見えるもの聞こえるものが違うのだろうか。 「あ、だから家のご飯は無いよ。暁も一緒に来る?」 暁は浬に視線を移し、またカゾの葉を握り締めた。 「どうしよう……かな」 「迷うことないでしょ、今日は夏至じゃないんだし。来なさいよ。去年も来れば良かったって思わせたげるから」 紅花ががっちりと暁の肩を掴んだのは、雨呼びに巻き込まれて昨年の祭りを逃したからだろう。脅しを含んだ声にたじろぎつつも、紅砂に促されて、暁は小藤を置きに部屋へ戻る。廊下へ出たところで鉢合わせたのは針葉だった。 「何だお前、めかし込んで祭りに出掛けたんじゃねえのかよ」 「今さっき境から戻ったところだけど。誰がそんなこと」 「紅花がきゃっきゃ言ってたぞ。男と待ち合わせて昼から出店巡りするに違いないって」 勝手なことを。暁はくらくらする頭を抱えながら玄関へ戻る。草履を履いていると後ろから付いてきたのは針葉で、暁をすいと追い越して表へ出てしまった。紅花が腕を振り上げて顔をしかめる。 「針葉、遅い」 「餓鬼のお守りなんざ怠くてやってられるか」 「とか言って、今一緒に行く人いないんでしょ。誘ってあげたんだから感謝してよ」 「お前こそ、いつもお決まりの男二人侍らせて悲しくねえのかよ」 わあわあと賑やかな声を追って暁も歩き出す。坂を下りながらも続く舌戦の仲裁に入ったのは浬だが、今度は二人の矛先が彼に向き、暁の前では紅砂が小さく肩を揺らした。 暁は五人の一番後ろを歩く。針葉や紅砂の頭を見下ろすのはまたとないことだった。 ようやく前の言い合いが収まったところで紅砂が暁を振り向いた。 「騒々しくて悪いな」 「ううん……。今日、織楽と黄月は」 「黄月は間地だ。知り合いの子が風邪引いたとかでお守りらしい。織楽は季春座の奴らと先に回ってるんじゃないかな」 「そう」 前ではまた仕様のない言い合いが始まっていた。暁は唇を緩く結んで最後尾を行く。 「楽しそうだな」 振り返った紅砂に指摘され、暁ははっと頬に手をやった。自分は今どんな顔をしていたのだろう。祭りとはどんなものだろう。指で確かめたそこには、どこか浮き立った気分で足取りの軽い自分がいた。 昨日までの雨が途切れた夕べは、蒸し暑さの中にも時折涼しい風が吹く。日は長くなり、見上げればよく茂った葉が梅鼠色の空を縁取っていた。 家の一行は裏通りを横切り、いつも以上に賑わう大通りを南に下って、右手に橋が見えたところで道を折れた。次第に足が遅くなるのは人の数が増えてきたからだった。 暁は幾つも並んだ背と、その上に乗った頭を眺める。ほとんどが黒で、うねるような波の中からちらほらと焦茶がかった色が覗く。 向かいの道と合流したところで、とうとう人と触れずには歩けないようになった。波に呑まれながら足を進めると、右手の道から囃子の音が聞こえてきた。どん、どん、と低い音が地面を伝って腹に響き、軽快な笛の音が絡み合うように踊る。 ふっと人の群れから抜けた。 提灯の明々と並ぶ下、露天商が道の脇に座って所狭しと品を広げている。それだけ見れば境の地とも似ているが、そちらとは違い、一目で何と分かりやすい品、子供向けの品が多かった。何より、売る者にも買う者にも明るさが漂っている。 「あっちは花火見るのに一番なの。でももうちょっと暗くなってからでいいでしょ」 紅花が今くぐり抜けてきた人の塊を指し、近くの見世へ歩き出した。 それから見た一つ一つは小さな胸には収まりきらない。獣の面、小さな笛、風車に飴袋、泳ぎ回る鮮やかな朱にすくい網。人だかりの中には芸を見せる者がいる。人形廻しに皿回し、籠抜け、手妻、歌唄い。店ごとにがらりと売りが変わり、目まぐるしいほどだった。どこで摘んだか、秋咲きのノアイソウを並べる者まである。 器用に音を操る者たちがいた。季春座の見世も出ており、分かたれた兄弟の悲哀と旅立ちの決意を演ずる場も覗いた。 紅花は次々に見世を指して歩いていく。紅砂や浬もゆったりと歩きながら見世を楽しんでいる。暁は声の渦に呑まれぬよう必死で後を追う。 行く道々で人の袖が触れた。夫婦連れ、幼い兄弟、父親に肩車されて、ぐっと高くなった視界に歓声を上げる娘。 どれも皆、賑わいの中にあった。彼らの姿は騒がしい音と灯に混ざり馴染み、祭りの情景の一つと変わっていた。 暁は一つ息を吐いて、吊るされた提灯に目をやった。薄紙の中で橙色がちらちらと動いている。奥の木立は今や影と沈み、はぐれた幼子が迷い込まぬよう、風に妖しく身を揺すっているかに見えた。 どん、と肩に当たるものがあった。一歩よろけてそちらを見る。しかし大勢が一度にうごめく中、口をついた言葉も誰にかけるべきものか分からなかった。 ぼうっとしていると、また同じことの繰り返しだ。暁は紅砂の背を見付けて走り寄り、ぴったりと後に付いて歩いた。 息を殺す。理由も分からず。 いつしかうつむきがちになっていた。 「あっ、忘れてた。もう花火じゃない」 紅花がそう言ったのは、どこかから太鼓の音が聞こえたときだった。賑わっていた人の波がぞろぞろと一方向へ流れていく。 あの人の群れの中へもう一度行くつもりなのだ。暁が唾を飲み込むより早く、紅花は歩き出していた。いつも通りきっちりまとめ上げられた彼女の黒髪には今、新しい簪が揺れている。汗ばんだうなじには後れ毛が張り付いており、人波に消えた後でもそれが暁の目に焼き付いていた。 追わなくては。 浅く息を吸う。 そのときすぐ近くから声が降ってきた。 「気分でも悪いか」 すぐ前には、まだ紅砂がいたのだ。見上げるまでの一瞬の間では顔を取り繕うことも能わず、彼はすぐ眉間に皺を寄せた。 「顔色が」 「何ともない!」 咄嗟に顔を逸らした。それ以上紅砂の声は聞こえない。だが彼の足が動いた様子もない。暁はじっと睨むように地面を見て、ゆっくりと呼吸をする。 坂道を下っている間の、胸の高鳴りは何だったのだろう。どうしてあちら側へは行けないのだろう。こうして優しく声を掛けてもらいながら、どうして今、はぐれれば良かったとさえ思っているのだ。 罰当たりめ。 「なに口説いてんだ」 ……最悪だ。もう一度顔を上げるまでもない、聞こえたのは針葉の声だった。 「どうやったらそう見える」 「冗談だって。休ませとくからお前は紅花んとこ行ってやんな、あいつ浬と二人っきりだぞ」 なおも顔をしかめていた紅砂だが、最後の一言に押されて人の中へ行ってしまった。 二人の傍からさざめきが去る。しばらくしてひゅうと甲高い音が聞こえた。その次は、喚声にも負けぬ音で地面が震える。どん、どん……そのたび足跡まみれの砂利道がぱっと白く輝いては闇に沈む。樹影の向こうで空が瞬いているのを、暁は視界の端で捉える。 人が地獄の釜底のように寄り集まって騒いでいるのはすぐそこだ。なのに向こう岸のことのように遠く思えた。 「ほら来い、歩けんだろ」 針葉が先に歩き出して暁を振り返った。暁はぶんと一度首を振る。 「何ともないと言ったはずだ」 「ああそうか、じゃあ俺が休みたいんだ。付き合え」 そう言うなり針葉に腕を掴まれ、暁は否応なしに後を追うこととなった。 ちらほら残る人の間をすり抜ける。行く傍では、気の早い露天商が既に品を片付け始めていた。道が少しずつ広くなっていく。 針葉は途中で道を左に折れた。木立に囲まれて鬱蒼と暗い中に、断る間もなく暁も引き込まれる。 「ま……待って、どこに」 転びそうになって大きく足を踏み出す。そこで口を噤んだのは、目の前に石段が見えたからだった。 「上った先に社がある」 その先は黙々と歩くのみだった。時々足が遅れ、腕が伸びきる。息が震える。掌にべっとりと汗をかいていた。足を早めてどうにか追い付き、上へ上へと二人進む。 最後の一段を終えた先に見えたのは、社と呼ぶにはみすぼらしい板壁と屋根だけの粗末な建物と、その前に鎮座する、こちらは大きな賽銭箱だった。喧騒が遠い。閉ざされた地へ迷い込んだかのようだ。 「ここなら誰もいねぇだろ」 暁ははっと我に返り針葉の手を振り払った。ずっと掴まれていた手首を袖の中に隠し、後ずさる。その態度に針葉が怒り出すことはなかった。暁は手の汗を拭い、地面に視線を落とす。 「……こうやって気を遣われるのは、好きじゃない」 「誰がお前のためだっつった。あんな人だらけの中なんざ息が詰まってやってられるか」 「嘘だ。花見だ何だと、いつも出払っているくせに」 針葉は暁に背を向けて社のほうへ歩いていく。 「嘘を吐いてまで、庇われたくない」 そしてそれ以上に、あの熱気の中でひとり醒めている自分を知られたくなかった。 針葉は賽銭箱の奥の石段に腰掛け、草履を脱いで砂を払う。両足とも履き直して、彼はようやく暁を見た。 「花見と祭りは違うだろ。……とにかく、祭りが好きじゃねえってのは本心だ。これ以上詮索すんな。お前だって詮索されたかないだろ」 何を言うべきか分からず、暁は唇を結んだまま針葉のいる石段まで歩いて、そろそろと反対側の端に座った。所々に苔むした石はひんやりと冷たい。 空にはまだ花火が上がっていた。見事な光の花だ。こうして静かな場でなら、いくらでも愛でられるのに。 「この社の祭りじゃないの。随分古くて縁もありそうなのに、こんなに寂れているなんて」 「ヒクラビ懐かし、彼岸の彼方、つってな。ここにゃ何も関わりないはずだ」 「ひくらび?」 暁の問いに針葉も首を傾げる。何を祀っているかなど知らないと、以前紅花が言っていたのを思い出す。伝承のもとは消えて形ばかりが残っているのだ。針葉は立ち上がり、上ってきた石段に向かって歩き出した。 「水餅買ってくる。そこで待っとけ」 彼の背は葉に隠れてすぐ消えてしまう。暁は足を伸ばし、自分の草履からも砂を払った。 いつの間にか、人ごみの中で感じていた惨めったらしい気持ちが消えていた。胸の奥まで夜の風を吸い込んで、これでやっと今まで通り、この体を息が通るだろう。 石段を登る下駄の音が遠く聞こえた。暁は慌てて手に残る砂を払い、草履を履いた。そこではたと気付く、針葉はさっき何を履いていた? 足音はもうすぐそこまで来ていた。暁は思わず賽銭箱の後ろに身を縮めた。 からん、下駄の音が石段の最後を踏み、砂の道に入る。足音は暁の隠れている賽銭箱までまっすぐ近付いてくるようだった。 がたん、ちゃりん。頭のすぐ傍で硬いもののぶつかる音がして、暁はびくりと肩をすくめた。下駄を履いた誰かが銭を投げ入れたらしい。こんな寂れた社に物好きなものだ。 ……しかし、いつまで経ってもその誰かの遠ざかる足音は聞こえないままだった。聞き逃したのだろうか、と膝を抱える腕を緩めたときだった。 「迎えの用意が相整い申した。御名を抱く我らが途にてお待ち申し上げるゆえ」 聞き覚えのない男の声。願掛けにしてはいささか奇妙だった。長く忘れていたあの感じ、嫌な気配が指先から蘇る。 「そのときまで、どうぞ御身大事になされよ。…… 目を見開く。耳の奥で、胸がどくんと打つのを聞いた。 今何と言った? 何と呼んだ? あき。 暁は弾かれたように立ち上がった。 声を聞いたのはたった今のはずだった、なのに声の持ち主はどこにも見当たらなかった。ひと呼吸遅れて、賽銭箱にぶつけた膝がじんと痛んだ。 また石段を上がる音がする。拳を握って身構えたが、それは小さな椀を両手に持った針葉だった。 「なんだ、そんな待ち遠しかったか」 走り寄る暁に渡すまいと腕を上げて、針葉が意地悪く笑う。そんな戯れに付き合うのももどかしく、暁は彼の衿を引っ張った。 「ここに来るまでに誰かとすれ違っただろう、その人は」 「すれ違った?」 その表情と、声の調子。それが示すものを知って、暁は掴んだ衿を放した。 まだ続く膝の痛みだけが、この夜が夢ではないと告げていた。 戻 扉 進 |