春分の夜、暁は箱膳を自分の部屋に持ち込んでぴたりと障子襖を閉じ、秋分以来となる雨呼びを行った。
 雨水の滲みてしまった小藤は、家に戻ってすぐに水気を拭き取り乾かしたのだが、香りが薄く違和感を拭えなかった。変質してしまったのかもしれない。安くはない買い物だけに、暁はがっくりと肩を落とした。
 翌朝起き上がった暁が見たのは、小皿の中で少しの灰と化した木片だった。蒲団を畳んで障子を開けると既に日が昇っていた。朝晩こそ冷え込むが、この頃は随分暖かくなった。
「朝からなんて顔してんのよ」
 二つ隣の部屋の襖が開いて明るい声がした。
「おはよう紅花」
「おはよ。ご飯運ぶの手伝って」
 部屋には珍しく七つの膳が並んでいた。せっせと立ち働く紅花、ちょこちょこと手伝う紅砂に浬、そしてほとんど用意が整ったところで針葉が大きく伸びをしながら現れ、次いで黄月も眠たげな目で現れた。暁は自分の斜向かいの一つ空いた席に目をやる。
「織楽も戻っているの」
「この前見に行った芝居が昨日千秋楽だったらしくてな。お前が部屋に籠った後で戻ってきたんだ」
「あんたら昨日どんだけ夜更かししたのよ。先食べちゃっていいの?」
 紅花が非難がましく睨んだのは眠たげな針葉と黄月だ。針葉は返事もせずに箸を取り、黄月はちょいと首を傾げて手を合わせた。紅花も唇を尖らせて手を合わせ、吸い物の椀を取った、そこでようやくもう一つの足音が近付いてきた。
「おはよ。美味そやなあ」
 着崩れて髪もほつれたまま、目尻に涙を溜めて大欠伸する姿は、舞台の上の立ち姿とは程遠い。ようやく七人が揃って器の音がかちゃかちゃと賑わいだした。
 しばらくはそれぞれが好きなように食べ、談笑していたが、紅花が織楽に部屋の片付けを指示したとき、織楽がぱちんと両手を打って皆の目がそちらに集まった。
「それもええけど、な、折角全員揃ってんし花見行こ」
「花見? もう咲いてんのか」
「向こうの川沿いだったら、一昨日道場から見た限りじゃ五分咲きくらいだったが」
「ほな今はもう八分くらい開いてるやろ。こういうんは思い立ったが吉日言うてな、延ばし延ばしにしてるうちに誰か欠けたり雨が降ったりすんねんから」
 織楽は眠たげな顔から一転、上機嫌に頬を上げてそれぞれの予定を確認しだす。最後に訊かれた紅花は眉を上げて織楽を睨んだ。
「行けるけどさ。あんた花見はいいけど、片付けほったらかす口実じゃないでしょうね」
「ややわぁ紅花、一緒に花愛でたいいう純粋な思いやんか。無下にせんといてえや」
「そうね、片付けが終わったら一緒に行きましょ」
 織楽は口元を引きつらせつつ皆の方へ向き直り、「ほな夕から川向こうな」精一杯明るく言い切った。

 その日小間物屋に入ったのは暁と葦の二人だった。店に並んだ飾り物は確かに梅から桜に移り変わっている。夕方、店を閉める支度をしているところで織楽を従えた紅花が現れた。
 彼女は暁を上から下まで眺め回して溜息を吐いた。
「あんた、今日もやっぱり冴えない恰好で来たのね。せっかくの花見だってのに」
「冴えないって……」
 言い返そうにも、改めて見た自分の姿はいつもと変わらぬ男姿、それも地味な鈍色のうえ、着古してくたびれた生地だ。
 紅花は柄や色こそ落ち着いているが帯には花柄が散らされ、髪には簪が揺れている。そしてその後ろにいる織楽は四角い風呂敷包みを抱え、芝居の衣装のような華やかな羽織を肩に掛けていた。ただしその頬は朝から半日足らずでげっそりとやつれている気がしたが。
「もういいわよ、うるさく言わないからさ。こっちはあたしがやっとくから裏をお願い」
 暁は勝手口の戸締りがてら帳簿付けをしている葦に声を掛け、表に回って三人で歩き出した。
 裏通りを南下して次の通りで右に折れ、道なりに西へ進む。夕焼けがまばらに浮かんだ雲を下から照らしていた。
 大通りを横切って一つ目の橋が見える頃には人出は落ち着いた。暁は足を速めて織楽の顔を見上げた。
「部屋は片付いたの」
「畳は見えるようになったわよ」
 前を歩く紅花が胸を張って答えた。織楽は拗ねた目で唇を尖らせる。
「誰の部屋や分からんようなってもうた」
「そ、そう」
 橋を渡ったところにある団子屋は今日は閉まり、張り紙がされていた。三人は細い水路を右手に見下ろしながら間地を横切って歩いていく。
 二つ目の橋が近付く頃にはまた人の姿が多くなった。暁は顔を上げて小さく声を上げた。川向こうは堤に沿って桜が並び、こんもりと花の開いた枝を重たげに川へ伸ばしている。いくつも吊るされた提灯が堤を縁取るように浮かび上がらせ、えも言われぬ美しさだった。人のざわめきが風に乗って頬をすり抜けていく。水面には白い花片が浮かび、それを切るように客を乗せた舟が流れていく。
「花」
 人波の向こうから声がした。紅花はきょろきょろと辺りを見回し、橋の親柱にもたれた兄が腕を上げるのを見付けた。踏み出そうとしたところで危うくぶつかりかけ、何度も人を避けながらどうにか辿り着く。
「お待たせ。針葉たちは?」
「浬が場所取りで、あとの二人は飯を買いに行ってる」
 紅砂に付いていった先では浬が木々の間に筵を敷いて座っており、ちょうど針葉と黄月が弁当や徳利を抱えて戻ってきたところだった。
「よし、飯だ飯」
 針葉は各々に弁当を分けていそいそと筵に胡坐をかき、浬は茶と酒を注ぎ分ける。紅砂は湯呑や猪口を次々に取ってそれを手助けし、紅花と暁は家から持参した包みを開いて摘まみ物を広げた。黄月と織楽が腰を下ろしたところで針葉が猪口を高く掲げ、ぐいと飲み干した。束の間の宴の始まりだ。
 皆が弁当や摘まみを口に運び、湯呑を乾し、猪口を乾していく。そこここで話し声、歌い声。酔いの回った連中が肩を脱いで踊り始める、どっと笑い声が上がる。
 暁は黙々と弁当を口に運んだ。ざわめきが耳を覆って離れない。人の行き交いは絶えることなく、一滴も呑まずとも酔いそうだ。いつしか顎は上を向き、はらはらと散る花びらを眺めていた。
「暁」
 はっと横を見ると、浬が徳利を持っていた。暁は慌てて首を振る。
「私はお茶で」
「じゃあ形だけ」
 やむなく猪口を差し出すと、浬は徳利を傾けて澄んだ滴をほんの少し注いだ。端に口を付けて飲むふりをする。
「……ありがとう。浬は」
「じゃあ僕も形だけ」
 浬がわずかな滴を口の中に流し込む。暁の耳に織楽の陽気な笑い声が聞こえた。さっきまでしょげ返っていたのに、こちらも酒盛りが始まっているらしい。
 ひらひらと花びらが落ちて、暁の前髪に触れた。見上げたわずかな動きではらりと滑り落ち、それは空っぽの猪口の底で止まった。
「あ……」
 暁の唇が動いた。浬が箸を置いて湯呑に手を伸ばす。
「嬉しそうだね」
「あ、ううん。ただ少し思い出したことがあって」
「いいこと?」
 暁は答えず、静かに猪口を眺めていた。浬は空になった弁当箱に蓋をして、徳利を持って去った。
 辺りでは相変わらず喧騒が続いている。紅花は紅砂や浬と何事か盛り上がり、黄月にくだを巻く織楽は、しきりに紅花を指しているから日中の愚痴でも吐いているのか。針葉は知り合いなのか、徳利を持って近くの筵の男と笑い合っている。
 楽しげな人々、騒がしい人々。花を見上げている者などいない。背の高い女が声を張り上げて団子を売り歩いている。三味の音が流れてくる。犬の鳴き声。黙っているのは暁だけだ。
 針葉が団子屋の娘と交渉して皿一杯の団子を手に入れ、皆に配って回った。暁にも一本を持たせ、「こら、ちゃんと食ってるか」とどやしてすぐに去ってしまう。
 音が溢れすぎて、何も聞こえない。
 暁は箸を置いて空になった弁当箱に蓋をした。風が吹いて、花を重たげに纏った枝がゆっさゆっさと揺れる。過剰なほどの提灯の向こうではいつしか日が暮れていた。
 肌寒さを感じて暁が自分の腕を抱いたとき、怒鳴り声が聞こえた。
 はっと向いたそこは隣の筵だった。声を荒らげているのは三十手前か、後ろに女を連れた男だ。そして彼が指を突き付けた先にいるのは胡坐をかいた針葉だった。
「何だ、酔っ払い?」
 訳も分からず暁が問うが、紅花も首を傾げるばかりだ。
「いきなり騒ぎ出したみたいね」
 女は男を落ち着かせようと腕を引くが、男の勢いは止まらず何度も針葉を指して喚き続けた。流れていた人々の足が止まり、小さく人だかりができる。とうとう針葉も顔をしかめて立ち上がった。
 人だかりの中から中年の男が進み出て仲裁に入るが、男はその手を振り払ってまた怒鳴った。
「るっせえよ、この小僧が人の女房に色目使ったんだ」
「さっきからごちゃごちゃうるせえよ。こっちはいい気分で呑んでただけだ。色目使ったってんならお前の女房だろうよ」
「んだとぉ!?」
 互いに煽り合うばかりで仲裁のしようもない。向かい合った男二人は一触即発、どちらが先に手を出してもおかしくなかった。
「ったくもう、まともにやり合うことないのに。黄月、止めてきて――」紅花が振り向いた先の黄月は、膝に顔を突っ伏していた。紅花が寄って揺すっても低く唸るばかりだ。隣にいた織楽が片手を顔の前に上げた。
「ごめん、潰したかも」
 彼の尻の影には数本の徳利が転がっていた。
「ちょ……なんでこんなときにっ」
 暁は辺りを見回すが、紅砂と浬は何を買いに行ったか姿が見当たらない。おろおろと周りに目をやる。徳利、筵、白く落ちた桜の花びら。……駄目だ、何一つ役立ちそうなものはない。
「と、とにかく行ってくる」
「あんたが行って何になるのよ」
「でも」
 言い合う二人をよそに、羽織を手にすっと立ち上がったのは織楽だった。いつの間にか髪をきちんとまとめ、着崩れていた着物もきちんと直っている。
「あんたもやめときなさいよ。喧嘩なんてからっきしでしょうが」
「喧嘩なんてせえへんて」織楽の指が紅花の髪に伸びて簪を抜き取り、「顔に傷付かへんよう祈っといてぇ」
 気の抜けた声を残して彼は人だかりをすり抜け、暁と紅花が見つめる中、未だ舌戦を続ける二人に近付いていった。
 男が大声で喚いて針葉に掴みかかった。針葉がその手首を捻って突き飛ばす。よろけた男がぶつかったのは華やかな羽織の背中だった。
「あ……っ」
 大袈裟によろめいた織楽の体は、取り巻いて見ていた数人に支えられた。
「こら兄ちゃん、人を巻き込むんじゃねえよ」
「大丈夫か姉ちゃん」
 周りから上がった声に男は更に顔を赤くした。「るっせえ!」唾を飛ばして周りを怒鳴り付け、織楽を睨み付ける。
「お前もとろとろ歩いてんじゃ、ねえ……よ?」
 声が萎み、怒りにつり上がっていた目がみるみるうちに丸くなる。織楽は怯えるように身をすくめ、おずおずと男に頭を下げた。後ろでまとめた豊かな髪がさらりと肩から流れる。
「失礼、いたしました……。お怪我はございませんか」
「あ、えっと……」男の頬が上気しているのは、今や怒りのためではなかった。「お、俺なんかより、姉ちゃんこそ怪我してないか。ほらその足、捻ったんじゃないの。ちょっと見せてみなよ」
 織楽の前にしゃがみ込もうとした男に大股で歩み寄ったのは、近くではらはらと成り行きを見守っていた彼の女房だった。
「ちょっとあんた、なぁに鼻の下伸ばしてんの」
「はっ、いやいや何言ってんだ馬鹿が。俺はただこの人が足傷めてやないかと思って」
「とか言ってやらしい手で触ろうとしてんじゃないか、この助平亭主が!」
 暁と紅花が茫然と見守る中、今にも掴み合い殴り合いに発展しそうだった喧嘩騒ぎは、単なる夫婦喧嘩になろうとしていた。人だかりがちらほらと去っていく。
「何だあれ、こんなとこで夫婦喧嘩か」
「酔っ払いかな」
 呆れ声の主は、いつの間にか戻っていた紅砂と浬だった。紅花が眉を寄せて拳を握り締めた。
「ちょっと、どこ行っとうたが!」
「どこって、弁当箱やら何やら返しに」
 あ、と暁は筵の上を見回した。確かに散らばっていた弁当箱や箸が姿を消していた。
「ちょっと混んでてね。……うわ、奥さん強いね。素手であれだよ。わ、また決まった。紅砂勝てる?」
「手合わせは嫌だな」
「他人事みたいに言わぁでや、こっちは大変やったが!」
「何が?」
「それより黄月、平気? 生きてる?」
 ごちゃごちゃと会話が絡まってきたところで針葉と織楽が姿を見せた。
「悪いがとっとと帰るぞ。誰かが番人呼んだらしい。全部食って飲んだか」
 針葉と紅砂が黄月の腕を自分の肩に回して担ぎ起こし、残りの面々で筵やその上に残っていたものを片付けて、足早にその場を去った。後ろではまだ夫婦の格闘が続いており、助平心を出した亭主をとっちめる女房という図式に、群衆は心置きなく盛り上がっていた。
 七人が橋へ差し掛かったところで、向かいから来た人相の悪い男たちとすれ違った。暁は肩越しに振り返り、あれが番人とやらか、と人波に消えていく背を見送った。
 間地も中ほどまで来ると、人の姿も灯も少なくなった。酔っ払い半分の集団はわずかな提灯でゆっくりと暗い道を行く。
「あー、はらはらした」
 紅花が腹の底から安堵の声を漏らすと、事情を知らない浬と紅砂が笑った。
「そんなに? 紅花ちゃんは入り込むねえ」
「季春座にとっちゃいい客だよ」
「だから、大変だったんだってば!」
「何が?」
 笑い声が夜の道に響く。暁は黄月を抱えながら歩く針葉たちの足元を提灯で照らしながら歩いた。
「変なのに絡まれたね。全く知らない人?」
「助平亭主のほうは知らねえな」
 ずり下がりそうになった黄月の腕を再び引き上げて針葉が嘯いた。前を行く紅花が振り返る。
「まさかとは思ったけど、やっぱりそうなの。最低。身から出た錆じゃないのよ」
「だから今日は俺は何もしてねえって。あっちがしつこいんだ」
「まあ、あんだけ嫉妬すんのやったら元の鞘やろ」
 暁は訳の分からぬまま自分をすり抜けていく会話を聞いた。
 涼やかな風が吹き抜けて、暁は身を縮めた。そこへばさりと羽織が掛けられる。自分の肩に乗ったのは夜闇に紛れてなお華やかな柄だ。
「寒いんやろ。着とき」
「あ……ありがとう」
 提灯を持ち替えて腕を通そうとすると、織楽の手が提灯を攫って、ゆらゆらと往復する火の光が暁の瞼の裏に焼き付いた。そこに嘲り笑いを寄越したのは針葉だ。
「こら織楽、似合いもしないもん着せてやるなよ。不憫だろ」
「えぇー、似合てるやん。節穴やなぁ」
「織楽、あたしも寒いんだけど」
「ほんま? よし、抱き締めたろ」
 そして紅砂から追い払われるまでが一連の流れだ。笑い声が暁の体をすり抜けて辺りに散らばる。
 暁は羽織の衿を合わせて光の届かない一番後ろを歩いた。的を射ているのは、きっと針葉の言葉だ。似合わない、この薄っぺらな体も、ざんばらの短髪も、この華やかな着物には。
 それでも温かい。
 織楽の頭の後ろでは、紅花から奪った簪の飾りが揺れている。
 一行は小間物屋のある裏通りを北上して右手に曲がり、ようやく坂へ差し掛かるところだった。



 桜の花が散って葉が青々と繁りだす頃、黄月からまた依頼を受けた浬は、暁を伴って坂を下りていた。
 たった半月前に川原を彩っていた、ほのかな紅を散りばめた白い花弁の敷き道は、今や土に混じって茶を帯びていた。それを踏み、斜めに射す木漏れ日をくぐり抜けて、暁と浬の二人は歩を進める。
「途中まではこの前と一緒だから分かるだろ。この先の大通りで曲がるがら、それだけ間違えないようにね」
 浬が肩越しに言う。その背にくくり付けた風呂敷には瓶がいくつも入っており、足を踏み出すたびかちかちと澄んだ音を立てた。
 今歩いているのは花見のとき通ったのと同じ、大通りを横切り川を二つ越えて行く西行きの道だ。きょろきょろと辺りを見回す暁の手には皺の寄った紙がある。浬がしたためた送り状だ。
「どうして私を呼んだの」
「元々は僕が黄月から任されてたことなんだけどね、これからは暁に引き継いでもらおうと思って。とりあえず今回は湊屋までの道、今後は折を見て納品準備や送り状の書き方も覚えてもらおうと思ってる。小間物屋ばかりもつまらないだろ」
「あの黄月が、よく私に任せることを承諾したね」
 暁は「あの」に力を入れて顔を歪めた。同郷ながらほとんど言葉を交わすことのない二人だが、その表情が関係の悪さを物語っているようで、浬は苦笑して目を逸らした。
「僕も飛鳥にいた間の仕事が溜まってるからね。よろしく頼むよ」
 暁は釈然としない様子で送り状の表裏を眺めていたが、一度口の端を上げて頷いてからは、それ以上の不満や疑問を口にしなかった。
「よし。何であれ浬の代わりってことだ、きちんと務め上げなくちゃ」
 そしてそれから暁は汗が滲むほどしっかりと送り状を握りしめ、見知った道のはずなのに生真面目に周りに視線を配りながら歩いた。
 先日紅砂と待ち合わせたとき人で溢れていた橋は、今はちらほら影が見えるばかりだ。渡って程なく木々が途切れ、広く騒がしい通りにぶつかった。間口の広い店がずらりと並び、行き交う人々は店に吸い込まれ、吐き出され、休みなく動いている。左手に曲がった二人が辿り着いたのは、威勢いい声の飛び交う大店だった。
 暁は手前で足を止めて店をぐるりと見た。右脇に吊り下げられた桧皮ひわだ色の大布には見たこともない組み合わせの字が並び、そのすぐ隣には看板が揺れている。左脇には樽がどっしりと構えていた。
「暁、行くよ」
 浬を追って丸の中に湊と染め抜かれた暖簾をくぐると、箪笥に葛籠に笊にと雑多なものが目に入った。わずかに余った通路を忙しなく人が行き来している。ふと顎を上へ向けると、天井から白い袋がいくつもぶら下がっていた。ざわつきが波のように耳を包み込み、息をするのも忘れそうになった。
「おいで、紹介するから」
 連れられるまま人の脇をすり抜け奥へ向かう。浬に倣ってすれ違う人に辞儀をし、板間に上がって障子の向こうを覗く。
 そちらでも、土間より少ないが人が動き回っていた。壁には同じように箪笥が並び、その他にも秤や筒、削り器に似た角形の箱と、用途の分からないものがごちゃごちゃ置かれている。左手奥から出てきた老爺が浬を見てゆっくり口を開いた。
「御苦労さん、隼坊のお遣いだね」
 髪も眉も真っ白だ。顔じゅうの皮が下に垂れているから、表情を変えなくても笑っているように見えた。浬もぺこりと頭を下げ、ぽかんと部屋を見ていた暁の頭を一緒に下げた。
「以後この者が参りますので。今日はこちらをお届けに、ほら暁」
 暁は促されるまま送り状を老爺に手渡す。その横で浬は風呂敷を背から下ろして瓶を一つずつ並べた。老爺は送り状にざっと目を通すと、軽く手を上げて奥へ引っ込んでしまった。
 障子を開けたときにはこちらを見ていた人々も、今は自分の作業に戻っている。瓶を並べ終わった浬に倣い、暁もその隣に座る。
「ここへ来たらさっきの人を探せばいいよ」
 こくりと頷きつつも、暁は眉をひそめて浬を見た。
「はやぼう?」
「ああ、それ。黄月のことだよ。秋……何だっけな、秋何とか隼太」
 秋月、と笑いを帯びた声で誰かが怒鳴った。どうも、と浬も大声で返す。
「黄月って本当の名じゃないのか」
「そう呼んでるのは家の皆だけだし、黄月自身も秋月を名乗ってるよ。名が二つあるなんて珍しいことじゃない。……暁だってそうだろう、その名は」
 暁が顔を上げる。見つめる浬の目はどこまでも黒かった。
「つくりものだろう」
「……どうして」
 ざわめきが、吸い取られたように耳の中から消える。目を逸らせなかった。瞬きすらできない。
 ざわり、暁の心に黒いものが押し寄せた、そのとき浬がくくっと相好を崩した。
「驚きすぎ。女の子の名にしては妙だと思っただけだよ。当たってた?」
 浬は指で目頭を押さえる。怒ればいいのか笑えばいいのか、置いてけぼりを食らった気分でいた暁だが、あまりに浬が笑い続けるので腕組みで彼を睨み付けた。
「そういう浬の二つ名は?」
「僕にはこの名しか無いからね、披露できなくて残念だよ」
「ずるい、自分ばかり!」
「そんなこと言われても」
 そうこうしているうちに老爺が店の者を連れて戻り、名の話はそこで終いとなった。

 二人と二人で送り状と瓶とを確認したのち、老爺が受領の旨の文を書いて送り状とその文にまたがるように店の印を押した。それを受け取ってようやく浬と暁は湊屋を辞した。
 いくら日が長くなったとはいえ、影の長くなる頃には冷たい風が飛び回る。暁は受け取った文を袖の中に落とし、両の手で衿を首まで押さえて歩いた。
「流れは掴めた?」
「大体は。送り状の用意と瓶の確認がこの前に加わるってことだね。あの瓶の中身は何なんだ」
「薬のもとになる草や実や根を干したものだって」
「そんなもの、いつ取りに行ってるんだ」
 黄月が長く家を空けることはなかったし、そもそもひょろりとした彼が山の中を行く姿など思い描けない。
「家の周りでよく見るホコエだって薬になるらしいよ。葉も花も使えるんだって。それ以外は境で苗を仕入れたり、間地で育てたりしてるみたいだけど」
 暁は神妙な顔でそれを聞いた。
 嫌味ばかり投げ付けてくる黄月だが、家の者の治療は彼に任せきりのようだし、大店相手に作ったものを卸して一人前に身を立てている。偉そうに物を言うだけのことはあるのだ。
 対する自分は、坡城で暮らして一年が経った今でも、紅花の店で駄賃程度の銭を得ているだけだ。
 いつか紅花に言われたことだ。「別の仕事見付けたっていいのよ。織楽も浬も最初はここで働いて、そのうち自分に合ったことやり始めたんだから」。自分に合ったこと。これがその足掛かりになるだろうか。
 暁は袖の中に落とした文を手で探り、浬の背を追って歩き続ける。西の橋を渡ったところで浬が振り向いた。
「そういえば暁、ほたるでのことだけど」
「ほたる?」
 暁は足を速めて浬のすぐ後ろについた。飛鳥から遠く坡城へ戻っても、未だに緊張を誘う名だった。幸い間地に入り、辺りには人影も少ない。
「僕は暁と別れてすぐ外に出たから二階には上がらなかったんだけど。暁は二階で例の刀を見付けたんだってね」
「う、うん」
「ってことはお目当ての小野家の何某が二階にはいたんだね」
 暁はしっと唇の前に人差し指を立て、小さく頷いた。「その家に仕えていた男の骸があった」
「早売りでは何も触れられてなかったけど、伏せられてたってことか」
「銭を積んでも書き手の筆は止められないって言うし……単にあの焼け跡からは何も出なかったんだと思う。それで、あの家も口を噤んで」
 なるほどね、と浬は前を向いたまま呟いた。これで話は終わりか。暁がほっと息を吐いたところで、前を行く彼はまた口を開いた。
「あの家と、それから?」
「え……」
「密談ってことは相手がいたはずだろ。見なかったの」
 瞼の裏に浮かび上がったのは火に巻かれたあの座敷だった。骸はいくつもあった、どれもがろくに抵抗した跡もなく一薙ぎで落命したように見えた。血は赤々と限界まで畳に染み込んでいた。
 倒れていたのは小野家の者が数人、そしてそこに集った相手方の名を、暁はあのときうっかり口走った。
 暁が視線を上げると、浬は足を止めて振り返り、暁の表情をじっと見つめていた。暁も立ち止まり、その目を真っ向から見て答えた。
「分からない。他の部屋の人たちとごちゃごちゃで」
「そう。まああの家が刀を持っていくような相手ってことだね」
 浬がすたすたと歩き出し、暁も後に付き従った。互いに無言だが、暁の頭の中では浬の言葉がぐるぐる回っていた。そう、小野家の男はあの日ほたるに刀を持って行った。あの刀は実戦にも耐えうるが、壬旧三家の象徴という価値を知りながら、小野家があえてそうするとも思えない。では何らかの取引のため?
 あの地獄絵図を描いた何者か、山のような骸を築き火を放って姿を消した何者かは、その刀を奪うどころか行儀よく置いていった。
 それはまるで、暁が来ることを知っているかのような。
 そしてあの傷だらけの男が口走った言葉は。
 ぶつぶつと考えながら浬の背に五歩ほど遅れて従い、そろそろ東の川が見える地点まで来たところだった。
 暁の足が止まった。目を見開き、衿を掴んだ指に力がこもる。
 まただ、梅の季節にも体を駆け抜けた、背すじを這いのぼるような気味悪さ。
 近くに誰かがいる。
 数歩先で浬が振り返った。暁の名を呼んでいる、しかしどうやってそこまで歩けばいいのだろう。何者かに足首を掴まれているような重苦しさ、つっと冷や汗が流れる。浬はとうとう暁のところへ戻ろうと歩き始めた。見つめる暁の喉はからからだった。
 駄目だ、ここへ来てはいけない。
 どうして浬は気付かないのだ。
 また一歩、浬の足が暁へ近付く。
 暁は腹に力を入れて、ひと息に振り向いた。
「きゃっ」
 短く声が聞こえた。店の並びと水路を背に、目を丸くして、包みを抱えた背の高い女が立っている。
「……あれ」
 暁はそっと首を伸ばして女の後ろを見たが、やはり何もいない。いつの間にか、背中に感じていた重苦しさが消えていた。目も耳も手足も、霧が晴れるようにさっと動きを取り戻す。
「びっくりした。あなた花見のときの子でしょう。どうしたの、恐い顔して」
 そう話しかけられて、暁は改めて女の顔を見た。面長の輪郭、黒い艶やかな髪に黒い目。そうだ、確か針葉と一緒にいた人だった。彼女が団子を売る声は、花見客の賑わいの中でもよく通った。
「あの……今、誰かに見られているような感じがありませんでしたか」
「誰かって?」
 問い返されてもうまく答えられなかった。はっきり見たわけでも聞いたわけでもないのだ。自分一人がおかしいのではと思い悩むうち、浬がぽんと暁の肩を叩いた。女が微笑んでひらひらと手を振る。
「あら、浬ちゃんも久しぶり。最近食べに来てくれないじゃない、どうして」
「すみません、食べに行きたいのはやまやまなんですが、財布の紐が絡まってて解けないんですよ」
「持ってらっしゃいな、お姉さんが解いてあげましょう」
 そのうち、と言葉を濁して、浬は暁の背を押しそこから離れた。
 団子屋の暖簾を横目に橋を渡り、大通りで左に折れて芝居小屋の前を通り過ぎる。坂道まで差し掛かったところで、暁はようやく口を開いた。
「飛鳥びとだと思ったんだ」
 浬は立ち止まって次の言葉を待った。
「飛鳥にいたときも、ここへ戻ってきてからも、何ともないと思っていたのに……最近になって急に、どこかおかしくなったみたいに、嫌な感じがして足が動かなくなる。怯えているんだろうか。あのときだって私は何もできなかったのに……!」
 浬には掛けるべき言葉が見当たらなかった。本人の言葉どおり、恐れる相手が幻なら、退治できるのは暁自身しかいないのだ。一歩近寄り、そっと細い肩に触れた。
「帰ろう、何も考えずゆっくり休みな。時が過ぎるのを待つしかないよ」
 そして暁はその日から、確かにあの気配を感じることは無くなったのだった。