針葉、浬、そして暁の三人が坡城に戻って数日後には年が明けた。
 頭数が揃ったのをこれ幸いと考えた紅花の下知げじのもと、新年にずれ込んだ家じゅうの掃除や補修も、ようやく終わりを迎えたところだった。
 その日、前日から続いた棚卸を片付けた紅花が家に戻ったのは昼過ぎのことだった。暁に頼んでおいた洗い物はきちんと風に揺れていた。しかし部屋の襖を開けても主の姿は無かった。
 ふと鴨居を見上げた紅花はぎょっと足を止めた。そこに打たれた釘から妙なものが下がっていたのだ。三本の枝がずたずたの縄で巻かれ、針が所々から飛び出し、それは見ることすら躊躇わせる禍々しい気を漂わせていた。
 そこへ呑気な顔で戻ってきたのは部屋の主だった。
「紅花。どうかした」
「どうかしたじゃないわよ。何あれ、どういうおまじない? 誰を呪い殺そうとしてんのよ」
「呪うって?」
 紅花の指したものを見上げて暁も首を傾げた。
「正月飾りだけど、壬の」
「飾り? あれが? 嘘言わないでよ」
「嘘だなんて。れっきとした縁起物だ。……確かに自分で作るのは初めてだったから、ちょっと下手になったけど」
 紅花は先入観を捨てて再び鴨居を見上げ、あちこちから見つめ、やはり顔をしかめて苦い顔で嘆息した。よろよろと額に手を当てる。
「せっかく障子も綺麗に直ったってのに、変なもん飾んないでよ」
 暁が来るまで物置だったこの部屋は、障子が西日に焼けたままで、本人も気付かぬうちに上方の一部がべろりとめくれていたのだ。補修も終盤に差し掛かったところで気が付き、先日ようやく張り替えが終わったところだった。
「そこまで言わなくても。来年はもっと上手に作るから」
「そのやる気は別のところに向けてちょうだいよ」
 背を向けた紅花だったが、「わざわざ文句をつけに来たの」暁の声でくるりと振り返った。
「そうよ、あの変な飾りのせいであたしまでおかしくなるとこだった。あんた季春座行かない」
「季春座? またお芝居を見に行くの」
「また、だなんて! 季春座舐めちゃいけないわよ。次から次に色んな話やってるし、面白いのは何度見ても面白いんだから。本当は顔見世に連れてってあげたかったんだけど、あんたが帰って来てすぐ終わっちゃったのよ。この前から別のが始まってるから誘いに来たの」
 まくし立てられる勢いに気圧されて暁も頷いた。
 暁が下駄を履いて表に出ると、紅花の隣には紅砂もいた。
「お待たせ」
「やだ、あんた支度してくるっていうから、てっきり着替えてくると思ったのに。その恰好で行くの?」
 紅花が大仰に眉を寄せたのは、暁が着ているのが昨年と同じ男物のままだからだ。
 飛鳥から戻り、年が明けて十日足らず。暁が女であるということは、その間の飯時に針葉がした土産話で明らかになっていた。紅砂は意外そうに暁を見つめていたが、黄月は興味無さげに箸を運ぶばかりだった。
 その後も暁は着るものを変えなかった。どうせ掃除で汚れるんなら着慣れたもののほうがいいわよね、と紅花は頷いていた。
 補修が終わってからも暁は着るものを変えなかった。家で寝起きするだけなら悪くないわよね、と紅花は頷いていた。
 しかし外へ誘い出してもこれだ。
「あんた、女物着たくないの? 着られないわけでもあるの」
「別にこれで不都合があるわけでもないから」
「あんな気持ち悪いの作ってるから帯の結び方も忘れたんじゃないの」
「おい花、そや言わぁでも」
 紅花がすたすたと歩き出す、それを見て紅砂は暁に苦笑を寄越した。
「悪いな、あれでもお前に色々着せてみたいとか言って楽しみにしてたんだ」
「ああ……私で人形遊びを」
「お前もなかなか言うな」紅砂はにやと笑い、坂の向こうに消えた妹の背を追ってゆるりと歩き出した。「あいつ、こんなとこで育ってるから女の話し相手があんまりいなくて。でも小間物扱うのは好きだから、お前が女だって堂々と言えるようになってからは、色々見繕ってたみたいだ」
 紅花は坂の先で立ち止まり、二人が歩いてくるのを待っている。暁は数日前に紅花が置いていった着物一式を思い出した。何となく気恥ずかしくて部屋の隅に押しやったままにしていた。
「遅い」
 紅花は二人を睨むとまたすたすたと歩いていった。頭の後ろで簪の飾りが揺れている。
「髪が伸びたら考えようかな。この髪じゃあどうにも」
 暁はうなじに手をやって呟いた。去年一年は髪を短くしていたので、そこに触れるのは後れ毛ではなく毛先だ。
「結えるようになれば似合うって」
「紅砂は優しいなあ」
 言葉とは裏腹に暁の表情が冴えないのは、板っきれだと笑う顔が浮かんできたからだ。
「針葉はちょっかいかけてきて嫌だ。色気の欠片もないとか、こっちに帰ってきてからも、化けれるもんなら化けてみなとか散々馬鹿にして」
「そんだけお前の変わりようを楽しみにしてるってことだろ」
「紅花のほうが触り甲斐があるって」
 つい口から出たぼやきだったが、返事が返ってこないことに気付いて暁ははっと紅砂を見た。
「あいつ、紅花をそんな目で……?」
 暁の顔が凍り付く。しまった、紅砂が妹を大事に思うさまは父親も同然なのだ。要らぬ争いの種を蒔いてしまった。
「ちょっと、遅ーい」
 折よく紅花の声が割り込み、二人はお喋りを辞めて足早に坂を下った。
 木々が途切れて地蔵の脇を通り、大通りと合流したところでどっと人出が多くなった。左へ曲がれば季春座はもうすぐだ。屋根の上に設けられた櫓が人波の向こうに覗いていた。

 今回の芝居は活劇ものだった。前回観たのがおどろおどろしい怪談ものだったので警戒していた暁だが、始まってみれば派手な立ち回りあり、淡い恋模様あり、最後は痛快な勧善懲悪で終わりを迎え、終始賑やかに盛り上がる舞台だった。
 拍手に包まれて幕は下り、三人が向かったのは芝居小屋裏手の役者長屋だ。二階の突き当たりで先頭を行く紅花が足を止めた。
「織楽、いる?」
「入ってええよー」
 襖の向こうから聞こえたのは、先程の芝居を除けば、暁には昨年ぶりとなる声だった。紅花が襖を開けて畳を踏み、紅砂が後に続く。
「観に来てくれてんな」
 派手な打掛を肩に羽織り、長い髪をまとめながらそう言った部屋の主は、未だ廊下に佇んでいる暁に目を留めて立ち上がった。
「暁ぃ! 何やお前も来てたん。ほんまに出て行ったて聞いて心配しててんで」
 途切れず話しながらすたすたと歩み寄り、彼は暁をぐっと抱き締めた。長い袖がふわりと暁の背を覆う。暁は目を白黒させて固まった。打掛からはかすかに香が薫り、やがて首元から離れた彼の顔には未だ化粧が施されたままで、眩暈のするような美しさだった。
「無事やってんな。いつ戻ってきたん」
「あ……、あの」
 暁の顔が真っ赤に染まって何も言えずにいると、部屋の中から紅花の笑い声が聞こえた。
「ちょっと織楽、近い近い。暮れにはもう戻ってたわよ」
「そうなん。ほんならもっと早よ顔見せてえや、水くさい」
 織楽に背を押されて暁も部屋の中に入り、織楽が襖を閉めた。
「掃除やら何やらで忙しかったのよ。あんたもそうやって気軽に抱き付くのやめなさいよ」
「紅花はつれないなぁ。でも本川に抱き付かれるなら大歓迎なんやろ」
「な……っ」
 今度は紅花が赤くなる番だ。彼女の目ははっと隣の部屋との仕切り襖に注がれる。
「ま、まさかその向こうに、い、い、いらっしゃるんじゃないでしょうね」
「えー、どやったかなぁ。おーい、もとか」
「や、や、やめてやめてまだ心の準備が!」
「おい花、本川いわぁは誰やが」
「今それどころやなぁて……て紅砂、役者さんの名も知らぁで観とうたが」
 混乱する兄妹に、肩を揺らす織楽。暁が呆れ顔でそれを見ていると、織楽がついと視線を寄越した。
「結局どないやったん。どこまで行けた?」
「飛鳥まで行ったよ」
「そうか、ちゃんと辿り着いてんな。針葉と浬が一緒やってんて? 一人で突っ走らんで良かったやろ。危ない目ぇ遭わんかったか」
 暁はふっと左腕に目をやった。ここにあった傷ももう塞がっていた。心配そうな織楽に向かって頷いて見せる。
「大丈夫だよ。そうだ、教えてくれた料亭の名が役立ったんだ。織楽のお陰だ、ありがとう」
「やめてえや、俺はただ聞いたこと言うただけやし」織楽が苦笑してひらと手を振る、その指のしなりが止まる。「お陰て……お前まさかほんまに」
 暁は微笑んで首肯した。ほんのり赤く縁取られた織楽の目が丸くなる。
「え、ほんまに? 嘘やん、芝居ちゃうねんで!? お前……そうかぁ、ようやったなぁ」
 織楽が破顔して暁の肩を叩く。襖が開いて隣の部屋の本川が顔を出す。「おい織楽、さっきから騒々し――ああ、お客人か、失礼」、唐突かつ満を持しての贔屓役者の登場に、紅花の昂奮が最高潮に達する。
 役者長屋までもが賑やかな一年の始まりだった。
 やがて辞去するときには早くも外が赤らみ始めていた。織楽に送られて、老若の役者とすれ違いながら廊下を行く。
 途中、暁はふっと天井を見上げた。かたかたと小さな足音、そして鳴き声。洞窟の中で聞いた生き物の声に似ている。しかしこんなところに住むはずもない。
 織楽も足を止めて耳を澄ませ、困り顔で首を振った。
「ああ、最近出るねんかぁ。色々齧られて参るわぁ」
 暁はその言葉で納得する、飛ばないほうだ。
 戸で織楽と別れて三人は赤く暮れた街を行く。傍を走り抜けていく風は冷たく、身を縮めて足早に歩いた。
 明日から紅花の店が開く。暁も初日から店番に入ることになっていた。昨年秋から飛鳥に逗留していたため、坡城銭にはしばらく触れていない。床に就く前にもう一度おさらいをしておこうと、暁は手に息を吐きかけながら考えた。



 空には重たげな雲がのたりのたりと蠢いていた。
 縁側に出た浬はちらとそれを見上げ、すぐ隣にある黄月の部屋の障子を開けた。中にいた黄月は腰を上げようとしたところで、また膝を折った。
「出掛けるの」
「いや、まだ大丈夫だ。何か用か」
 浬が懐から取り出したのは折り畳んだ紙だ。
「終わったよ。確認よろしく」
 黄月は無言で受け取ってさっと目を通し、小さく頷いた。
「ついでで悪いが、届けるのも頼まれてくれるか。もうまとめてあるんだが」
 黄月が部屋の隅の風呂敷包みを指す。再び戻された紙を受け取って浬は首を傾げた。
「構わないけど……今から出ようとしてたんじゃないの」
間地あわいじにな」
「先生のところ?」
「子守りだ」
 ああ、と浬は眉を上げた。坂を下りた先、二つの川に挟まれた地域は間地と呼ばれており、そこにずらりと並んだ長屋の一つが彼の師である医者の家だった。そしてその隣には、昔からの馴染みだという産婆が住んでいると聞いていた。
「律儀だね」
「乗りかかった舟だからな。自分の子みたいなものだ」
 ふうん、と浬は紙を広げて自分が書いた文字を読み返す。上半分を占めているのは馴染みのない羅列だ。湊屋という薬種問屋に黄月が納める薬の一覧だった。
「そうだ。これ、次から暁にさせてもいいかな」
「あいつに? ……まあ行って戻るくらいならできるだろうが」
 そう言いつつも黄月は腕を組み、どこか癪に障る様子だ。浬は風呂敷包みを解いて中を確認し、また結んだ。
「読み書き算盤は一通りできるみたいだよ。小間物屋で燻らせとくよりいいんじゃないか。客相手より性に合ってそうだ」
「読み書きと一括りに言ってもな。いろはが書けるだけじゃ話にならん」
「もちろん当面は僕が書くけど」
 黄月は立ち上がって羽織を取った。「今回はやけに手放したがるな」
「僕も案外忙しくてね。暮れまでしばらく遠くにいたから帳簿つけがまだ終わらないんだよ」
 七人が暮らすこの家で、各々の稼ぎと食費ほか必要な物品を書き入れ、計算し、毎月の収支を合わせるのは浬が引き受けていた。年が明けるとそれに加え、前年一年分の帳簿をまとめ、これからの一年で各々が家に入れる額も弾き出さねばならないのだ。
 黄月は肩を竦めて「分かった」と呟いた。浬が小さく笑う。
「黄月は知ってた? 暁のこと」
 彼はちらと振り返っただけで何も言わず羽織に袖を通した。
「男か女かなんて気にするほどあいつに関心が無い」
 無愛想に言いはするが、つまり気付かなかったということだ。浬は笑いを噛み殺して風呂敷包みを腕に抱えた。
「じゃあ僕も出ようかな。暁見なかった? 試しに連れて行こうと思うんだけど」
「確か、昼から境に行くって話してた」
 黄月が廊下に消えて、浬は物の極端に少ない部屋で一人になった。境、と言えば目的は例の木片だろう。いつか紅花が話していた。
 もう春分が近いのだ。
 浬は縁側に出て暗い空を見上げた。重たげな雲から、ぽつりとひと粒雨が落ちたところだった。

 しとしとと絹のような雨が落ちて、節くれだった枝からまばらに息継ぐ小さな白梅の花弁を打つ。傘をひょいと傾けると、川の向こうの裸の枝には、けぶるように赤がぼやけていた。はち切れんばかりに膨らんだ桜の蕾が、今か今かと開くときを待っているのだろう。
 暁は布包みを抱えて歩く。解いた中には小ぶりなカゾの葉があり、そのまた中には半欠けの小藤が包まれている。どれだけ励んでも半端な銭しか持たぬ暁に、香ほづ木売りが用意してくれたものだ。年が明けてひと月が経ち、春分まではあと半月。坡城へ来てから三度目の雨呼びの準備だった。
 香ほづ木売りのいる境の地も、最初行った頃に比べると少しは落ち着いてきたように思う。血や吐物の匂いを嗅ぐことは免れなかったが、要るのは香ほづ木だけだと決めていれば、うろつく範囲は最小限で済む。巻き込まれないようにするのは難しくない。
 人の行いが醸し出す腐臭という一面に、少しは慣れたのかもしれなかった。
 それを諦めと呼ぶのだろうか。傘の隙間から、馥郁ふくいくたる香と品よく並んだ五枚の花弁が見えた。
 まだ蒲団の外は、特にこんな雨降りの日は指先爪先が冷え込んだが、匂い立つ季節が近付いているのだと肌で感じる。
 たった一輪の寂しさも、切り枝の痛々しさもない。四方で始まる鮮やかな色の移り変わりは、目に痛いほどだった。
 去年の今頃はまだ坡城で暮らし始めて間もない頃で、日々の暮らしを送るだけで精一杯だった。そしてその前の年はどうだっただろう。こうして吸う息から、肌に触れる風から、季節の移ろいを感じたことがあっただろうか。足を止めて目を閉じれば傘で跳ねる雨音が耳を覆い、どこか見知らぬ場所にいるようだった。
 人の足音が近付いてきて、暁ははっと目を開け足を進めた。
 昼過ぎには家を出たのに、帰る頃にはもう日が傾き、鈍色の空は闇の紗をまとう。
 水の浸みた地にまた雨粒が落ち、ぴちゃぴちゃと盛んに音を立てていた。ぬかるみに足を取られぬようにと足元を見て歩く。吐いた息は暗がりに薄白く残る。
 あとどのくらいで帰り着くだろうか。一人きりで歩く暗い道、果て無く続く雨音、いつの間にか心が焦れていた。
 やはり誰かに付いてきてもらえば良かった。
 肩を落としたところで、道が斜めに折れた。ほっと心が軽くなる。このまま歩けばすぐ橋に差し掛かり、その向こうは大通りだ。
 包みを抱え直して歩を速める。
 そのとき風が動いた。水気を含んで重く、冷たく、肌から熱をかすめ取ってしまう。木の葉のざわりとさざめく音、その向こうに高く鳴く声、空耳か――
 ぞわりと腕に鳥肌が立つ。寒い、それ以上に、何なのだこの怖気は。
 橋の手前で暁の足が止まった。その向こうには見慣れた風景が雨に沈んでいる、行かなければ、自分を説き伏せて足を踏み出す。
 誰かいる。
 背筋が凍った。
 どこにも見えない、いやどこかにいる、密やかな息を……感じる。
 背中が重い。胸が詰まって息ができない。包みを握る指に爪を立てて、まだ無事だと言い聞かせる。とにかく歩かなければ。進まなければ逃げ場はない。
 橋を渡りきり、また雨の浸みた柔らかな地の感触が戻ってくる。途端ふっと、体に纏わりついていた重苦しさが消えた。橋の下で渦巻く濁った川の音が耳に流れ込む。何も起きない。数歩進んだところで暁は足を止め、どくどくと胸の音を聞きながら、意を決して後ろを振り向いた。
 傘から振り落とされた滴が斜めに視界を横切る。
 その向こうには誰もいなかった。
「嘘……」
 信じられずしばらく見つめていたが、気配の一つも感じられず、ふいと前に向き直って灯りの並ぶほうへ走った。
 ひと気のない大通り、まるで夜の底に紛れ込んだようだ。暁はばしゃばしゃと泥水を跳ね上げながら、ぶつかり来る雨を浴びながら、途中で左に曲がり、木々に閉ざされた急な坂道の入口で足を止めた。肩を大きく上下させながら胸を強く押さえる。吐き出し、吸い込む。
 傘の意味も無いくらい濡れてしまった。暁は傘を畳んで額に張り付いた前髪を分けた。頬を伝った滴を拭い、見上げたところには枝葉が層になり雨を遮っていた。
「暁。今戻ったの」
 振り返ったところにいたのは傘を差した浬だった。もう片方の手には提灯を下げている。
「惜しかったな、もうちょっと早ければ連れて出たんだけど。今、黄月の用事で湊屋って店に行ってきたんだけどね、次は暁も一緒に来ると……どうしてそんなに濡れてるのさ」
 近付いてくる途中で暁の濡れように気付いたらしい、浬はふっと笑って暁の上に傘を傾けた。
「なんだ、傘持ってるじゃないか。差さなかったの」
「ちが、差してたんだけど途中で走って……」
「傘があるのに急いでたの」
 暁はぱくぱくと口を動かし、結局何も言えずに噤んだ。何も無かったのだ。誰もいなかった。一人で勝手に怯えて逃げてきただけだ。
「ちょっと……走りたくなって」
「ええ?」
 浬の笑い声に重ねて、暁もぎこちなく笑ってみる。そこへばちゃばちゃと水たまりを撥ね上げて足音が迫り、針葉が姿を現した。
「何だお前ら」
 針葉は立ち止まった二人に目を留め、頭上を見上げてぶるぶると頭や手足を振った。滴が散る。
「傘持たなかったんですか」
「家出たときは降ってなかったんだ。すぐ止むと思ったらこれだ」
 浬は小さく頷いて針葉から視線を外し、はっとまた戻した。
「針葉さん、ここ」
「あ?」
 浬がするように自分の口の脇を指で拭った針葉は、げっと顔をしかめた。紅の跡だ。こんな分かりやすい真似をする馬鹿な相手とは思わなかった。
 ちらと目をやった暁は、傘を持っているくせに全身が濡れそぼったまま呆けており、針葉の顔を見る素振りも無かった。こういうことに口うるさい紅花とは対照的だ。針葉は口元を手首でごしごしと擦った。
「帰るぞ。差さないんなら貸せ」
 暁の手から傘を奪って針葉は坂を上っていく。暁も浬の傘を借りながら後を追った。濡れた体がぞくりと震えを取り戻す頃、ようやく家の灯りが幹の向こうに覗いた。
「お帰り。遅いからどうしたのかと思った」
 戸の向こうでは紅花が針葉の脱ぎ捨てた下駄を揃えていた。いつもと変わらぬ家、いつもと変わらぬ声、いつもと変わらぬ温かさ、鼻をくすぐる夕餉の匂い。ふっと膝から力が抜けて、暁は板間にへたり込んだ。
「何よあんた、濡れ鼠じゃない。傘持ってかなかったの」
「持って行ったんだけど……」
「じゃあ何でこんなに濡れるのよ。穴でも空いてた?」
 きゃらきゃらと笑う声が胸に滲みた。戸の向こうで傘の水気を払っていた浬が戸を開けて入ってくる。
「何でもいいけどさ。ご飯できてるから早く着替えて来なさいよ。そのままじゃ風邪引くわよ」
「悪いけど紅花ちゃん、お湯も貰えるかな」
「はいはい」
 紅花が去り、暁は改めて板間に腰掛けた。足は雨に濡れて冷え固まり、泥に汚れて見るも無様だった。
「買ったものは無事?」
 暁は今気付いたように胸に抱えていた布包みを膝に置いた。一見しただけでじっとりと濡れているのが分かる。開いてみても、カゾの葉の包みもぐにゃりと濡れ、小藤も水が滲みて所々色が変わっていた。
「それ使える?」
「多分……でもこっちは諦めようかな」
 暁はカゾの葉を摘まんで除いた。勿体ないが仕方ない。玄関の隅に重ねられた手拭いで丁寧に香ほづ木を拭き、髪や手を拭う。
 浬が消えるのと入れ替わりに紅花が現れて湯気の立つ盥を置いていった。足を浸すとじんわりと温もりが上り、爪先から緊張が流れ出していくのを感じた。壁の向こうからくぐもった賑わいが聞こえる。何やら魚の焼ける匂いが漂って、暁の腹が情けない音を立てた。
 盥の湯を表に返してようやく廊下に上がり、暗い部屋でごそごそと着物を替える。話し声、器の音、人の気配。
 早くあちらへ行きたい。
 自分がこれほど家を恋うるのがおかしかった。帰るという言葉には、甘い響きさえ潜んでいるように感じられた。
 壬に家はあったが、帰ったことが何度あっただろうか。
 暁は目を伏せて立ち上がると、包みを部屋の隅に仕舞って二つ隣の部屋へ歩んだ。





一ノ年