宿に戻ってきた浬の手には四つ折りにした早売りがあった。腕を組んで座っていた針葉がちらと視線を向ける。彼は字が読めないはずだった。浬は早売りを広げた。
「一番扱いが大きいのは、この辺りの芝居小屋の顔見世公演の話題です。それから年明けの縁起物の話やら、心中の話やら」
「例の店の話は無いんだな」
「どこにも」
 浬は早売りを畳んで部屋の奥に目を向けた。膝を抱えて座る暁がいる。その傍には、あの日ほたるの二階で手に入れたという刀が鎮座していた。
 針葉と浬があの書き付けにあった日付にほたるへ忍び込み、骸の山を目にしたあの夜。その直後に暁までもが忍び込み、裏の川から脱出したあの夜から、既に十日が経っていた。料亭が燃えた一件は初めこそ大いに話題になったが、丸々焼け落ちた後では単なる失火として扱われ、早売りの話題も別のものに移り変わっていた。
 暁は、あの中に小野家の側近がいたと言ったが、それに触れた早売りは一つあったのみで、続報も無かった。
「結局、何が何だか分からんうちに終わっちまったな」
 針葉の呟きに、浬は数日前のことを思い返す。
 焼失の夜が明け、針葉と浬は念のため数日身を隠したのち巴屋へ報告に上がった。矢野は二人を見て大仰に胸を撫で下ろした。
「君たちが巻き込まれたんじゃないかと心配していましたよ。いや、無事で良かった」
 針葉は矢野の顔の皺をじっと見つめた。
「あんたに言うべきか分からんが。……あれは失火じゃない。俺たちが忍んだときにはもう火が放たれてた。そのうえ、あの店にいた奴らは皆斬り殺された後だった」
「何ですって?」
「報告は以上だ。番処に突き出すのは無しだぜ」
 矢野は顎に手を当てて少し考え、首を振った。
「今言ったことは黙っておきなさい。君たちは坡城びとで、手形も無く飛鳥に逗留している。真っ先に怪しまれるのは君たちです。勿論こちらも今の話は聞かなかったことにしましょう。それで宜しいかな」
 矢野が針葉を、続いて浬を見た。是という声はなく、非とも聞こえない。矢野は一度深く頷いた。
「落ち着いた頃合いで出るといい。帰る手段は用意していますかな」
「来たときと同じように川を下って、と考えていましたが」
「それはいい。実はこちらも舟で菱屋に遣いを出すつもりでした。武芸のたしなみもある者なので同行させましょう」
 針葉と浬は顔を見合わせた。
「ということは、僕らの任も解かれるということですか。牟婁屋の件が途中ですが」
「あれはもう結構です。こちらも仕入れの算段が付きましたし、それに……偶然とはいえ、店が丸々焼け落ち、そのうえ人が殺されたなどと……。縁起が悪いにも程があるでしょう。ああ、ご心配なく。君たちの働きぶんに、帰りの路銀も含めてきちんと払います」
 元々大義があって受けた任でもない。払うべきものが払われるのなら、それ以上の口出しは不要だった。
 何とも言えぬ据わりの悪さを感じつつも、二人は矢野に見送られて暖簾の外へ出た。
「じゃあ天気にもよるが、一応五日後で。借りてたもんはそのとき持って来る」
「蝋燭や草履など、道中に入り用なものはそのままお持ちいただいても結構です」
「そいつは助かる」
 矢野はゆるりと会釈して浬に視線を向けた。目尻に皺が刻まれる。
「ちなみに、お持ちになった召し物はお体に合いましたかな」
 ――浬はあの視線を思い出す。にこやかな笑顔でわざわざ放ったあの台詞は、暁のために借りた女物のことを言っていたのだろう。そして矢野は恐らく知っていた。あれに袖を通したのが二人ではないことを。
 針葉にそれを言ったところで、矢野が構わないなら放っておけ、とでも返ってくるのだろうが。
 針葉が立ち上がり、暁の前にしゃがんだ。暁がわずかに身を縮める。
「それ見せてみな」
 彼が指すのは暁の体の向こうにある刀だ。暁はじっと針葉を見つめ、おもむろに刀を取った。黒い石目塗りの鞘、下げ緒のみ血のような朱だ。針葉は暁と同様に両手でそれを受け取り、すっと鞘から刀身を抜いた。表に裏に返すたび刃が光を跳ね返してぎらりと光る。しばらく眺めると、彼はまた刀身を鞘に収めて暁へ返した。
「お前が持ってた刀とよく似てるな」
 暁は目を伏せて朱色を指先でいじる。
「お前が探してたのは確かにそれなんだな」
 暁の頭がかすかに下がった。針葉が深く息を吐き出して立ち上がる。
「一体何なんだろうな、この道中は」
 暁は傍らに刀を置いて顔を上げた。
「私は元々あの店を見張っていた。あそこで小野家の者が密談をしていたと聞いたから。針葉たちが持っていた書き付けにあの店の紋が入っていて、追ったのは賭けだったけれど……まさか火が放たれて、人が殺されて……」
「お前が追ってた奴らがどんぴしゃでその場にいて、刀もそこにあって?」
「……針葉たちが追っていた相手が、偶然同じ日にあの店を使ったとしか」
 針葉はその場にどっかりと胡坐をかいた。
「俺にはあの刀が、お前が来るのを待ってたみたいに見えた」
 浬は眉をひそめて暁を見た。彼は暁を見失った後、騒ぎになり始めたのに気付いて店を去り、櫂持ちと鉢合わせて舟で店の裏へ向かったのだ。二階で起きていたことを知る由は無かった。
「それは……分からない。確かに、妙に行儀よく置かれているとは思った」
 暁の唇はそう言ったきり閉じた。指で触れるのは左腕にあの日負った刀傷だ。ここも、胸の上の傷も、もう瘡蓋が取れる。あの日のことは胸の内に引っ掛かったまま、何一つ片付いていないというのに。
 針葉は眉を寄せて天井を睨み、もう一度大きく息を吐いた。
「まあいい。銭は十二分に得たし、お前も刀を手に入れた。あのおっさんたちも木から何から山ほど仕入れた。これで思い残すことは無いな」
 巴屋から借りていた荷は既に部屋の隅にまとめてある。針葉はぐいと背を反らして窓の外の空を見やった。
「雲行きも悪くない。出立は明日だ」



 翌朝は冷え込む一方でよく晴れた。荷を巴屋に運んだ針葉と浬は、十ほど年嵩の二人連れを伴って宿まで戻った。
「悪いんだが舟は一艘きりだ。あんたら二人と荷物まで乗せられるかな」
 渋い顔をした櫂持ちに、二人連れのうち髭の濃いほうが首を振って笑った。
「山底の道を通るんでしょう。その先には俺らも舟を置いてますよ。国渡りならこっちも慣れたもんでしてね」
 松川の地から滝のある山中までは一日余りを要したが、新たに加わった二人が足を引っ張ることはなく、むしろ彼らの道の知識や豊富に持っていた旅道具が道中を楽にしてくれた。
 分け入る道は深くなり、段々と滝の音が近付いてくる。針葉は後ろを歩く二人を振り返って笑った。
「あの矢野っておっさんも考えなしだな。わざわざ高い銭出して俺ら雇わなくたって、あんたら使や良かったのにな」
「はは、確かに。なんでもひと騒ぎあったんだって? だが俺らもずっと用事で出てて、最近あの店に戻ったばかりなんだよ」
「古巣に戻ったと思ったらすぐお遣いですか。矢野さんも酷ですね」
「俺らにゃたらふく美味いもん食わせてくれたけどなぁ」
 飛鳥入りしたときとは打って変わった和やかさで一行は進む。暁も、前や後ろで交わされる声を聞きながら荷を背負い直し、列に遅れぬよう必死で足を進めた。その前を歩いていた針葉が足を止め、暁も顔を上げた。
「それ持ってやろうか」
 針葉が指していたのは暁が左腰に提げた例の刀だった。足場の悪い山道のうえ佩き慣れない重さが加わって、暁の姿勢は悪く、歩調も乱れがちだった。
 しかし暁は首を横に振った。刀の柄に手を掛けてぐっと握りしめ、早足で針葉を追い越していく。
「遅れないようにするから」
「相変わらず意地張るな、お前は。じゃあちょっと荷ぃ分けるか」
「いいから」
 針葉は呆れた表情で暁の後に続く。その後ろから来ていた巴屋の男がふっと笑いを漏らした。
「面倒見のいいことで」
「跳ねっ返りの弟みたいなもんだ」
 水音が一際大きくなり、木々が開けた。蔦を支えにして岩を下りると、滝から続く川を中心にして河原が広がっていた。前にこの景色を見たのはもうふた月近くも前のことだ。
 一行は足を止めて遅い昼飯を取った。暁はようやくそこで髪を覆っていた手拭いを外して額の汗を拭った。

 やがて一行は地下へと潜った。洞窟内部は風も吹かず、地上より暖かく感じるほどだった。
 かつて辿った道順を逆になぞり、滴る音と反響する足音、小さな生き物たちの気配を聞きながら、深みへと足を進める。地下水路を舟で進んだ後は上り坂だ。火を頼りに歩いて一日が経ち、飯が残り一食分となったところで、ようやく石仏の裏に出た。
 一日ぶりの地上だ。暁は滝の音を聞きながら大きく息を吸い込んだ。風の冷たさに身震いしたところで巴屋の二人も洞窟から出てきて、一行が揃った。櫂持ちがぽきぽきと首を鳴らして二人を見る。
「お二人さんは自前の舟があるって言ってたな」
「ああ、この裏手に引き上げてありますよ」
「こっちの舟はこの先だ。一緒に来るなら取ってくるかい。飯食って待ってるから」
 一行は巴屋の二人と別れて、舟を繋いだ場所まで川原を下った。櫂持ちが舟の点検を始めるのを横目に、香ほづ木売りは干し飯を噛み、暁たちも荷を下ろして腹を満たしにかかった。
 点検は程なくして終わり、香ほづ木売りはいち早く荷を積んだ。続いて針葉が立ち上がり、腰を上げた浬が暁を振り返って笑った。
「あの地下の道は疲れただろ」
 暁は足をさすっていた。はっと手を止めて立ち上がる。
「平気。浬も針葉も同じだけ持っているんだから」
「体格も体力も違うよ」
 先に舟に乗り込んでいた針葉が振り返って暁を睨んだ。
「意地でも荷は渡さんってんだから仕方ねえな、この強情者が」
「大丈夫。もう舟だから荷は下ろせるし」
 暁はきまり悪そうに横を向いた。
 香ほづ木売りたちは舳に近いほうで荷の数合わせをしていた。杭に繋がれただけの舟がゆらゆらと揺れる。浬は今来た方を振り向いた。川がゆったりと蛇行して滝へと続いている。さっと風が動いて頬をすり抜けていった。
「ま、どんな巡り合わせがあったにしろ、自分で言ったことをやり遂げたのは褒めてやるよ。よくやった」
 背後で針葉の声。暁はやはりきまりが悪いのか、少し間があって「ありがとう、一緒に来てくれて」と小さく声が聞こえた。続けて機嫌のいい針葉の声。
「稼ぎも十二分にあるし、戻ったらぱっと使いたいとこだな。どうせ家に戻ってもその日の晩飯は無いんだから、どっか連れてってやろうか。何か食いたいもんでもあるか」
「食べたいもの? いや……よく分からない。温かいものがあれば嬉しいけれど」
「温かいもんて。そりゃ分かるけど、もうちょっと何か無いのかよ」
 背後で交わされる漫才のようなやり取りを聞きながら、浬は笑いを噛み殺し、自分は何を食べに行こうと思い浮かべた。
「そうだ、じゃあ戻ったら港に連れてってやるよ。どうせ筆下ろしもまだなんだろ」
「筆? 字を書くのか」
「そうそう、気に入った奴にお前の名をでかでかと刻んでやりゃいい」
 浬は二人の声を聞きながら片頬を歪めた。この会話の行く末を聞き届けたい気持ちが半分、しかしこのままでは噛み合わぬうちに暁が頷いてしまいそうだ。彼は暁の肩に手を掛けた。そろそろ黙っておくべき時期は過ぎただろう。
「針葉さん。暁は女の子ですよ」
 暁ははっと眉を上げたが否定しなかった。やはり知っていたのかと諦めるような表情で、肩に置かれた手に視線を向けた。
 それに対して針葉は、上機嫌な表情のまま顔が固まり、二の句を告げずにいた。人差し指が浬と暁の間をうろうろと往復する。
「は。女……って、え?」
「女の子です」
 針葉は次第に呆気に取られた表情になり、暁に顔を向けた。じろじろと舐めるような視線を受け、暁は居心地悪そうに顔を背けた。はっと鼻で笑う声。
「冗談きついな」
「……浬の言ってることは本当だ」
「嘘だな」
 浬は押し問答を続ける二人の間に割り込んだ。
「針葉さん。本人が認めてるじゃないですか。何がそんなに気に入らないんですか」
「気に入らねえとかそういう話じゃなくてだな」針葉は苛立たしげに唾を飛ばして反論する。「女? こいつが? どこが。色気の欠片もねえのに」
「いや、色気とかそういう問題は……ええと、そんなこと言っても無いものは仕方ないでしょう!」
「浬、庇ってるのか貶してるのかどっちなんだ」
「あー、うるせえうるせえ、まだるっこい」
 針葉の手が暁に伸び、当たり前のように、その胸をむんずと掴んだ。
「ほら、こんなもん板っきれじゃねえか。紅花のほうがまだ触り甲斐あるぞ」
 場が硬直する。暁の頭の中は真っ白になり、咄嗟に声も出せなかった。ひと呼吸おいて、
「うわあぁぁっ!」
 やっと出た大声とともに針葉の頬をばちんと張り倒した。浬が目を丸くして「お見事」と呟く。櫂持ちや香ほづ木売りたちも、何事かと目を丸くして振り返った。
「……ってぇ、何すんだこの野郎」
 頬を押さえて起き上がった針葉の目に映ったのは、衿をぐいと合わせてわなわなと震える暁だった。刀を取り戻すと意気込んでいたときの威勢の良さは微塵もない。
「おい」
 針葉が近付いたぶんだけ暁は怯えた表情で後ろへ下がり、浬の背に隠れた。
「何なんだよその態度は!」
「針葉さん」
 浬は腕を広げて背後の暁を庇い、やんわりと針葉をたしなめる。荷の向こうで香ほづ木売りが笑った。
「おいおい坊主。いくら女日照りだからって、んな毛も生えてない餓鬼に手ぇ出すのはやめとけよ」
「手なんぞ出すか!」
 針葉は唾を飛ばして否定し、ぐるりと暁に向き直った。暁がぎゅっと身を竦める。
「あのおっさんたちも、お前は女にゃ見えないってよ」
「餓鬼と言われただけで、男だとはひと言も……」
 反論しかけたところで舳の向こうにもう一艘の小舟が見えた。その上には巴屋の二人連れが乗って櫂を握り、こちらに腕を振っていた。櫂持ちが杭から縄を外して舟が動き出すと、馬鹿げた口論は一旦終わりとなった。



 どこかで鐘が鳴っている。視界はまた夜霧の中で、まるで北へ向かったあの日を繰り返しているようだ。川の上は強く弱くひっきりなしに風が通り、触れたそばから熱を奪っていく。暁はぼんやりとした頭のまま夜着を引き上げた。
 霧の向こうに火が揺らめいている。影が二つ、櫂持ちと、あと一人は誰だろう。
 暁はゆっくりと体を起こした。
 もたげた頭がずきんと強く痛む。すぐ傍で気配が動いた。
「まだ寝ときな」
 浬の声だった。彼は揺れる舟の上でゆっくりと立ち上がると、夜着をまとったまま荷を跨いで霧の向こうへ消えた。入れ替わりに戻ってきたのは針葉だ。目が合う。彼は床に置いていた夜着を羽織って暁の隣に腰を下ろした。
「お前は眠りが浅いな。疲れも取れねえぞ」
「こんな寒いところじゃうまく眠れない。揺れるし体も痛いし。どのみちあと数日で坡城に戻れるはずだろう」
 舟を出すとき櫂持ちは言った、「水の流れに沿うから帰りは楽だ。何もなけりゃ五日もせずに着けるはずだ」。その言葉どおり舟はすいすいと進み、時に停まっては近くの里で食糧を調達してまた進み、もう壬の南部まで来ているはずだった。
「我儘言わずに目ぇつむっとけ。手ぇ出そうとする奴がいたらとっちめてやるから」
 針葉なりの優しさなのかもしれないが、胸をまさぐっておいて、自分が一番警戒されているとは夢にも思わぬらしい。暁が睨んで身を離すと、「何だよ」と針葉も睨み返してきた。
 川の蛇行に合わせて舟もゆっくりと向きを変える。
「お前、何だってそんな面倒くさいことした。壬にいたときからそんな恰好してたわけじゃないんだろ」
「……大火の後のあんな滅茶苦茶な状態じゃ、何があってもおかしくないから」
「何があってもって。自害しようとしたくせに?」
 暁は眉を寄せて思い出す。紅花に女だと知られたときも同じようなやり取りがあった。だが人を殺すとは、命を絶つことだけを指すのか。死してなお、いや、命を奪うことすらせずとも、殺すより残忍な方法で人を踏みにじることはできるのではないか?
 白い息が流れる。
「分からんじゃないが……坡城に来てから偽る必要なんか無かっただろ」
 暁は針葉の目を見つめてゆっくりと首を振った。
「最初からそうだと知っていたら、そもそも家に連れて行ってくれた? こうして一緒に来てくれた? 私は、違うと思う。もしそうなら、決してこちらには関われなかったはずだ」
 国を渡り、山を越え、洞窟を抜けて、異郷の地で髪を隠してうろつき、挙句の果てには刀を突き付けられ火に巻かれ。
「紅花が同じことを言ったら断っただろう」
「そりゃあ……。まああいつの場合、紅砂が許しやしないけどよ。しかし、そのために一年もなぁ」
 針葉の口から呆れ混じりの吐息が白く流れる。
「浬には教えてたのか」
「私から明かしたことはないけれど、坡城を出る前から疑われていたみたい。紅花は家で暮らし始めた頃に知られて色々助けてもらった。あとは……はっきり言われたわけじゃないけど、織楽が感付いていると思う」
 また風が吹き抜け、暁は夜着の衿を強く掻き合わせた。針葉もぶるりと体を震わせて舟の縁に体をもたせ掛けた。ふっと笑い声。
「今までお前のことはおかしな餓鬼だと思ってたが、途轍もなくおかしな女に格上げだな」
「格上げ?」
 それは格下げと言うのでは。じろりと睨みつけた暁を待ち受けていたのは、挑発するような強い視線だった。
「女だと知ったら家に連れ帰らなかったって、お前そう言ったな。おかしな餓鬼だから連れてってもらえたと思ってたのか」
「おかしな、は余計……」
 言い返そうとしたところに針葉の手が伸びて、暁はぎゅっと身を竦めた。
 そっと目を開けると、彼の人差し指が真っ直ぐに暁の茶色い目を指していた。
「俺はお前が気に入ったから連れて来たんだ。特にこの、負けん気の強い生意気な目がな」
 言い終わると同時に眉間を弾かれ、暁は小さな悲鳴を上げた。顔を覆った手を恐る恐る外すと、針葉は頬まで夜着を引き上げて座り直したところだった。
「馬鹿話は終わりだ。休んどけ」
 そう言うなり目を閉じ、程なくして彼の呼吸は深く遅くなった。暁はひりひりと痛む眉間を押さえてまた針葉を睨む。しかしその視線は徐々に弱まり、溜息とともに落ちた。
 一度は諦めかけた命だと、ずっと思っていた。死ぬ覚悟ならあの大火の後に済ませたはずだった。しかし煙の匂いに巻かれ、血まみれの男と対峙して、再び命の終焉が眼前に迫ったとき、小さな胸の中で暁は叫んだ。
 死にたくないと。
 生きていたいと。
 呼応するかのように現れ、救ってくれたのは針葉だった。
「……ありがとう」
 冷たい唇からぽつりと転がり落ちた言葉は、風に攫われて霧の中へ溶けてしまう。
 暁は目を閉じた。
 生きたいと願い、生きようと腹を据えた途端、目の前に立ちはだかったのは眩暈のするような自らの命だった。茫漠なときが横たわり、進みうる道も無限だ。頭がくらくらする。それでもここに立ち、足を踏み出すのだ。生きるのなら。
 私は生きることを選んだ。死ぬ理由を棄てた。では向かい合わねばならない。
 殺す理由はどこにあった?
 どれほど罪深く業深く生きれば、人は裁かるるに値するのか?
 舟が揺れている。寝息が聞こえる。この先に待つのは慣れた土地に顔、風呂に寝床だ。うっすらと白に包まれた明け方を流れのまま進む舟旅は、なんと安らかであることか。
 暁はそっと目を開けまた閉じた。しっとりと濡れた瞼が重い。霧は更に濃くなり、全てを覆い隠していくようだった。



 坡城に入ったのはそれから三日後の昼過ぎのことだった。境の地を過ぎたところで香ほづ木売りたちは重たげな荷とともに舟を下り、団子屋がすぐそこに見える橋の下で巴屋の舟も停まった。
「僕たちもこの辺りで下りましょうか」
 針葉が重く膨らんだ紙入れを取り出した。出立前、余っていた飛鳥銭は巴屋で全て坡城銭に換えてもらっていた。針葉が支払いを終えても紙入れは十二分に膨らんだままだ。
「じゃあな」
 櫂持ちは疲れも見せずにすいと舟を操り、やがて見えなくなる。川原を上りきった針葉は腕を大きく回し、浬はぐいと伸びをし、暁は両手で大欠伸を隠した。
「近くで飯調達して帰るか」
「惜しかったですね。もうちょっと早ければ紅花ちゃんのご飯にありつけたんですが」
 浬が仰いだ空は既に日が傾き始めていた。追って見上げた暁は、自分の息が染まらないことに気付いた。そんな些細なことで実感する、坡城へ戻ってきたのだと。
「お前ら、これで好きなもん買ってこい。次の鐘が鳴るまでに戻ってこいよ」
 針葉が摘まみ出した紙銭は褪す葉だ。暁は手を差し出した。気前の良さが続いているうちにありがたく頂戴しておく。
「どこ回ろうかな。暁、付いてくる?」
 浬に続いて踏み出した暁は目を丸くして自分の左足を見下ろした。重い。ここ数日は舟に揺られるばかりで、用を足したり飯を調達するのに数回土を踏む程度だった。改めて佩いた刀の存在感に圧倒される思いだ。
 浬が振り向いて暁の腰のものに視線を送った。彼が手を差し伸べることはなく、眼差しは静かだった。
 暁はぐっと柄を握り締めた。
「……行こう」
 唇を結んで歩き出す。その足取りが確かなのを認めて、浬も背を向けた。
 風が吹く。茶色の髪がなびく。しっかりと前を向いて進む。
 暮れの街には人が溢れ、掛け声が溢れていた。一時たりとも止まることなく、それは寄せては返す波のようだ。誰もかもが黒い目に黒い髪だった。
 暁は浬の後を追ってその中へ歩いていった。





          二ノ年