巴屋の矢野のもとに牟婁屋の報告が上がるのは十日に一度きりだった。顔を出すのは大抵、口の利き方を知らぬほうの年嵩の少年だ。「雇ってもらってるとこ悪いが、何の動きも無いぞ」それだけ言って湯呑を乾し、また出て行く。彼が所望したという女物の着物が気になり、跡を尾けさせたこともあったが、途中で撒かれたので深入りは止めていた。
 そして今日、蔵で品出しをしているとき、彼はまた「例の菱屋の子たちの件で」と奉公の娘から呼ばれた。
 例の少年が来てから、今日はまだ数日しか経っていない。まさか何かあったのか。
 しかし土間で彼を待っていたのは、重そうな荷を背負った人相の悪い二人連れだった。彼らの薄汚れた身形は、美しい反物が並ぶ店の中にはまるで似つかわしくない。手前の男が落ち窪んだ目で矢野を見て顔を歪めた。笑ったように見えないこともない顔だった。
「あんたがここのお偉いさんですか」
「番頭の矢野と申しますが……取り次ぎ違いでしょうかな」
「いいや、菱屋って名を出したのは俺ですよ」男が黄色い歯を見せて笑った。「そこの遣いで若い奴らが三人来たでしょう。こっちの用が済んだから合流したいんだが、どこで寝泊まりしてるか知りませんかね」
 矢野は二人をしげしげと観察してゆるりと首を振った。
「申し訳ないが、それは」
「待ってくださいよ、俺たちゃこんな形はしてるが怪しい者じゃない。あいつらとは一緒に櫂持ち雇って移動してた仲でね。えーと、何話せば信じてもらえるかな」
「そうではなく、私自身も彼らの居場所は……」
 そう言いかけて矢野は言葉を止めた。黒い目がひゅっと焦点を失って、またすぐ人相の悪い男に向けられる。矢野は片手を右奥の暖簾の向こうへ向けた。
「まあまあ、こんなところで立ち話も何です、奥でゆっくり聞きましょう。そうですね、その三人の人相や特徴を教えていただいて、合致していれば信じることとしましょう」
「おっ、それくらいならいくらでも語れるぞ」
 矢野が二人を連れて暖簾の奥へ消えた。
 店の表にはいつもどおりの賑わいが続いていた。

 数日後、巴屋に顔を出した針葉を矢野とともに出迎えたのは、ひと月前に別れた香ほづ木売り二人だった。着ているものは真新しくなり、顔色も機嫌も妙に良い様子だ。
「おっさんたち、こっちに着いてたのか」
「よう少年。お前らのお陰でいい思いさせてもらったぞ」
 黄色い歯を剥き出しにして笑う彼らから身を離し、針葉は矢野に視線を向けた。
「君たちに会いたいとのことでしたが、生憎私も場所を知らなかったものでね。数日ではあったがここにお泊まりいただいたのですよ」
「ああ、それでか」
 たらふくの飯やら酒やらを馳走になったのだろう。針葉はそっと香ほづ木売りを睨んだ。要らぬことは言っていないだろうなと、そんな目配せが通じる相手でもなかったが。
「今回は何か収穫がありましたか」
「いや、前回と同じだ。本当にあの店に妙な連中が出入りしてるのか」
「ふむ。君たちを警戒しているのかな。……まあいいでしょう。これは今回の分です」
 矢野は取り立てて何を訊くでもなく、針葉に巾着袋を手渡した。針葉は中を改めて懐に仕舞う。次の言葉を待つ。
「何か入り用ならいつもの娘に」
「ああ。……何も無けりゃ帰っていいんだな」
「おかしなことを聞きますね」
 針葉は目を逸らして香ほづ木売りの背を押した。「ほらおっさん、行くぞ」
「お前らの用事が済むまで、俺らはここで暮らしたっていいんだがなぁ」
「いい大人が甘えたこと言ってんじゃねえよ」
 巴屋から離れたところで針葉は後ろを振り返った。店から誰かが追ってくる様子はない。針葉は色つやの良くなった香ほづ木売りに険しい目を向けた。
「おっさんたち、要らんこと喋ってないだろうな」
「要らんことぉ?」
「つまり……あの小っちゃい奴はついでに連れて来ただけなんだよ。まるで関わりのない奴にも銭が流れてると知っちゃ、あの矢野っておっさんもいい気はしないだろ。それにあの見た目だし」
 香ほづ木売り二人は顔を見合わせ、ひゅっと針葉から目を逸らした。
「ま、まあ、さっきの感じじゃどうってこと無いだろ。こっちからすると、初めに約してたのはあの餓鬼んちょだから、お前ら二人のほうがついでなんだがな」
「そうだそうだ」
「分かったって。行くぞ」
 針葉は二人をどやしつけながら自分たちの暮らす宿まで歩いた。浬は牟婁屋の見張り、暁は自分の用で出ていて、部屋に残っていたのは櫂持ちだけだった。



 暁が例の料亭の在り処を突き止めて十余日、足を運ぶのはもう何度目か覚えていなかったが、収穫は芳しくなかった。
 店は切絵図によると間口に対して奥行きは広く、裏は川に面しているようだ。しかし肝心の建物は暖簾の掛かった門の奥に佇んでおり、迂闊には近付けない。女物の動きにくい着物で屋根に上がって盗み聞きできるわけもなく、夜に出歩いて見過ごされるほどの大人でもない。かと言って、迷い込んだという出まかせが通用するほどの子供でもなかった。
 人に紛れて何度となく行き来し、日暮れまで粘って何とか掴めたのは、二階は大きな広間となっていることくらいだった。
 一度、帰り際に数人の影と行き合ったことがある。何か胸騒ぎを感じて振り向くと、今の今まで暁が張っていたその門の内へ吸い込まれていった。
 しかしそれが小野の邸の者だったのかは分からない。顔も見えなかった。再び現れる日を待っていたが、あれから数日、未だにその機会は訪れていなかった。
 それでもあの通りを目指して足を運ぶ、暁の袖を誰かが掴んだ。
 はっと身を竦める。そこに立っていたのは見覚えのある青年だった。汚れて着崩れた格好、肩に担いだ材木、彼はにっと人の好い笑みを寄越した。
「ああ、やっぱりあんときの嬢ちゃん」
「あ……、先日は失礼を!」
 暁を料亭まで案内してくれた青年だった。暁はばっと頭を下げた。茶色の髪を隠した手拭いに、快活な笑い声が降ってくる。
「いいっていいって。それより嬢ちゃん、もしかしてお忍びの姫さんか何か? それともお尋ねもんだったり?」
「はっ」
 眉を寄せた暁に、彼は一歩近付いて声をひそめた。
「ちょっと前、嬢ちゃんみたいな身形の子を探してるって奴がいたらしくてさ。俺の仲間が、例の店を探してた子じゃないかって教えちまったみたいなんだ。ま、ただの人違いかもしれないけど、心当たりとかある?」
「いえ……」
 薄く開いた唇でそう呟きながらも、暁の耳に蘇ったのは織楽の声だった。
 ――殺されたらしいわ。
 例の料亭を嗅ぎ回っていたから怪しまれた? あのとき妙な影とすれ違ったから、振り返ってしまったから? 気付かれた?
「そんならただの人違いだな。呼び止めて悪かった、じゃあな」
 青年は材木を軽々担いだまま行ってしまった。取り残された通りで立ち止まっているのは暁だけだ。冷たい風が吹き抜けて、ぶるりと体が震えた。

 松川の宿に戻った暁が襖を開けると、針葉と浬がこちらに背中を向けて話し込んでいた。声は聞こえない。暁はそっと襖を閉める。隅に畳んでおいた着物を取ってその後ろを通るとき、二人の体の隙間から焦げ目のある書き付けがちらと見えた。浬が顔を上げる。
「お帰り。どう、収穫はあったの」
「うん……」
「聞いてやるなって」針葉の笑い声が重なる。「どうだ暁、自分で体張るってのは思った以上に大変だろ」
「確かにそうだね」暁はそう答えるに留め、二人に背を向けて着物を羽織った。その内側でしゅるしゅると帯を解いて手早く着替えていく。
「そっちは何か収穫があったみたいだね」
「おうよ、今の今まで何の音沙汰も無かったのが、ここにきて突然だ」
 針葉が自慢げに書き付けをひらひらと振って見せる。所々が焦げて虫食いのようになっていた。
「焦がしたのか」
「俺がじゃねえよ。張ってたとこから出てきた奴がいてな、浬をそこに置いといて、俺がそっちを追ったんだ。そしたらこれを懐から捨ててどっか行っちまってよ、火が着いてたから慌てて消した。焼いて始末したつもりだろうよ」
「とりあえず報告を上げておきますか。日が迫っていますし」
「だな」
 針葉が浬を振り返る、そのわずかな間、彼の手が止まった。暁は書き付けに素早く目を通す。所々が抜け落ちた墨文字を次々に頭の中で補いながら、次の行へ、その次へ。
「じゃあこれから……ああ、暁、お前これ見たことあるか。屋号か何かだと思うんだが」
 暁は書き付けから視線を外して針葉を見た。彼が指しているのは書き付けに描かれた紋だった。鈴なりに実を付けた植物が重たげに身をたわませ、頭を下げている様が、単純な丸と線で表されている。そこだけは焦げもなく綺麗に残っていた。暁は首を振った。
「分からない」
「そっか。まあおっさんに聞きゃ分かるだろ。行ってくる」
「お気を付けて」
 襖の向こうで足音が遠ざかる。暁はさっと腰を上げて隣の部屋へ歩んだ。そこでは香ほづ木売りたちが荷を整理し、櫂持ちが買い集めた切絵図を並べているところだった。
「どうした」
 暁は先程の書き付けの内容を頭の中に呼び起こした。くらくらと眩暈がしそうになり瞼を下ろす。何の偶然か、それとも。
 ゆっくりと瞼を上げ、後ろ手に襖を閉めてその場に膝を揃えた。手を付いて頭を下げる。
「どうか、お願いしたいことが」



 夜の水は暗く、水草が突き出るほど浅いと分かっていても、まるで底のない深淵のように思われた。
 寒空はどこまでも高く澄み、その頂に弓張りの月が輝いている。ちょうど下の水面にももう一つ同じ形の光が、こちらはゆらゆらと輪郭を移ろわせながら浮かんでいた。
 暁はそれを見つめながら息を忍ばせていた。今日は衿抜きの女物ではなく坡城を出た日の服を着ており、小舟にはもう一人、櫂持ちが乗っていた。
 針葉と浬は、あれから四日後の昼過ぎに宿を出た。書き付けにあったのと同じ日だ。
 あれは密談の予定を記した紙だった。日時と場所だけで、そこに集う者や議題には一切触れていない。それでも暁が釘付けになったのは、あの紋が描かれていたからだった。
 針葉は巴屋へ行ってあの紋が何を指すか知ったのだろう。そして今日、あれが示す場所へ赴いたに違いない。
 あの紋を暁は知っていた。あれは暁がこのひと月近く、ずっと見張っていた場所だった。
 頭を下げた稲穂の紋。穂垂る――ほたる。そこで今夜、人が集まる。何かが起こる。
 針葉たちの張っていた相手がそれを掴んでいた、もしくは小野の密談の相手方だった? あるいは、ただ単に同じ料亭に用があったのか。いずれにしても、数多店がある中で同じ場所へ行きつくとは、どういった巡り合わせなのだろう。
 とは言え、今その符合に気付いているのは暁だけだ。だから針葉たちには気付かれぬよう、櫂持ちに頼んでこっそりと後を追ってきた。
 今舟が停まっているのは料亭の近くを流れる川のほとりだった。時折、荷を乗せた舟が通り過ぎていく。暁の足元に重ねられたヨゼリの大葉と茎紐も、舟商人から買った蒸し飯の成れの果てだ。
 月が傾いていく。遠くで鐘の音。記された刻限まであと少し。握った拳は汗で濡れていた。
「そう固くなりなさんな。いざってときに動けなくなる」
 櫂持ちが蒸し飯を頬張りながら言った。暁は小さく頷いて唇を湿す。口の中が乾いていた。
 暁は足元に置いた夜着を引っ張り上げて肩を覆った。息が白い。歯が鳴りそうになるのをこらえて天を見上げる。
 月はまた傾いたようだ。もう少しで刻限となる――
 暁はそのまま立ち上がった。今の今まで縮まっていた体が、すっと伸びていた。舟が揺れ、足元にばさりと夜着が落ちる。
「どうした」
 櫂持ちが暁を見上げて短く問う。暁が振り向くことはなかった。ほたるが建つほうを瞬きもせず見つめている。櫂持ちはいよいよ眉をひそめて腰を上げかけた。そのとき暁の唇から白い息が漏れた。
「一年前と同じだ」
「何だって?」
 暁は舟の縁を蹴り、川原へ降り立った。舟が大きく揺れて波紋が広がる。
「おい坊主……」
「行ってきます!」
 止める間もなく、小さな影は川原を上って消えた。舟を離れるわけにはいかず、取り残された櫂持ちは訳も分からぬまま低く舌打ちした。
 彼の鼻にくすんだ匂いの風が届いたのは、そのときだった。

 暁は肩で息をする。提灯の明かりの並ぶ店の波を抜けて、ようやく辿り着いた料亭、ほたる。間近で見るのはこれが初めてのことだった
 暁の立っているその場所から、黒い塀は柱を挟んで背の低い竹垣に変わる。柱は瓦葺きを支えており、その内に渡した竹から暖簾が下がっていた。門そのものは両側から灯りに照らされているだけで、他の店々に比べるとむしろ質素だった。
 暁は胸に手をやった。薄い肌の下で心臓がどくどくと破裂しそうに喚いている。指先が凍てつくように冷えている。
 体の内だけ火照って熱い。喉の奥が灼けるようだった。息を吸えど、そのたび流れ込むかすかな煙の匂いに全て吐き出したくなる。
 一年前と同じ、この匂い。どこかで火が上がっているのだ。
 息が落ち着くのを待った。時を置くほど歯が鳴りそうになるのは、澄んで冷たい夜のせいか、それとも怯えているのか。
 静かだ。誰が出てくる様子もない。
 暁は歯をぐっと食いしばって暖簾をくぐり、門の内に踏み入った。敷石の傍にはメギの木が植わっていた。赤い実は幾百の、瞼を無くした目のようだ。足を進める。
 建物は二階建てで、格子窓の細い隙間からは灯りが漏れていた。
 開け放たれたままの戸を通ると、廊下は奥へ伸びるものと左右の三手に分かれていた。まず左手を選んで、草履のまま進む。
 自分が物音を立てるたび静けさに耳が痛み、何か起きたのだと確信を深めた。そうでなければ、こうして易々と侵入できているのがおかしい。針葉たちは既にここにいるのだろうか。
 だが、あの二人がいたとして、それではこの煙は何なのだ。廊下を歩いている今、それは舟の上で嗅いだものよりずっと濃く、一年前の不吉な記憶を呼び覚まそうとしていた。
 突き当たりと、その右の壁に襖が見えた。少し開いて光が覗いている。知らず早足になった。
 ――違う。
 びくりと足を止めた。どこから聞こえた声か分からなかった。何がそう告げたのか。
 ――見てはいけない。この先へ行ってはいけない。
 どうしてそう感じたのだろう。一度は落ち着いた心臓が、また動きを速めている。
 ――分からないか、この匂いが。
 この匂い、一年前と同じ匂いだ。煙に巻かれた、そう煙だ、あの嫌な匂い。しかしそのすぐ向こう、いくつか襖を隔てただけの部屋では何が起きていた。
 恐る恐る襖に手を伸ばす。取っ手に指が掛かるか掛からないか、そのときだった。
 音は無かった。隙間から廊下に漏れていた光、そこに、ゆっくりと流れ出すものがあった。
 暁は口を押さえて後ずさった。
「違う……」
 煙だけではない、それに紛れてこの体は何を吸い込んだ。血の匂い、肉と髪の焼ける匂い、べとべとと張り付くように重い風、喉の奥から胃液が上がって、その匂いにまた吐き気を催した。体中に、あの匂いが染みついていた。
 暁は喘ぐように息を吸って、来た道を振り返った。戸からどれほど歩いて来たのか、馬鹿のように呆けて何を忘れていたのか。
 喉をかすめた酸っぱさを、どうにか飲み込む。
 どうして気付かなかった、この死の匂いに。

 浬は襖の傍に身を寄せた。耳に入る音はなく、気配もない。取っ手に指をかけ、一息に空ける。
 そこに広がっていたのも、今までと一つも変わらぬ光景だった。動くものはない、散らかった様子もない。膳は人数分きちんと並び、所々の猪口には酒が注がれている。きわめて真っ当な宴の様子なのだ、血の海に客の体が沈んでいるほかは。
 口を覆う。血に酔いそうだ。
 次の部屋へ行こうと廊下を向く。その最後の一瞬、視界の端で動くものがあった。全身がぞわと粟立つ。
 向き直るより早く帯に差した刀を抜き、構える。
「浬……」
 向かい側の襖を不用心に開けて現れたのは暁だった。浬の形相にびくりと体を震わせ、立ち止まる。
 浬は刀を下ろそうとはしなかった。
「どうして来た」
「どうしてって……ここは私がずっと見張っていた場所だったんだ。それに煙の匂いが」
 そう言いかけ、暁は部屋の中身にぐるりと目をやって唾を飲み込んだ。
「浬たちが火を放ったのか。巴屋の指示で? 女将たちまで殺したのも……?」
「今すぐ戻れ」
 暁は、血の気の失せた唇を震わせて浬の右手の得物を見た。襖と襖、たった畳数枚の距離を隔てて、空気が硬直していた。浬がぶんと首を振る。
「僕らじゃない。僕らが来たときはもう血の海だった。だから言っているんだ。戻れ」
 暁はぱっと目を見開く。そして襖を叩きつけるように閉めた。
「暁!」
 骸を避けてそちらへ走る。しかし襖の向こうに既に暁の姿はなく、どちらへ行ったのかも分からず仕舞いだった。浬は右手の刀を鞘に納めた。
 ふと、表で人の騒ぎ声が聞こえた。浬は来た道を戻り、格子の影からそっと外を覗き見た。

 暁は奥へと走った。煙が徐々に濃くなる。口を覆って体を屈め、なおも走る。
 途中通った襖のほとんどは開いていた。首を突っ込んで覗き込むまでもなく、鮮やかな赤のほうが自ら目に飛び込んでくる。それでも部屋へ踏み入り、むせ返るような血の匂いと息苦しさの中、見覚えのある顔を探した。
 果たしてそのどこにも見知った顔は無かった。襖は右手に残り二部屋を残すまでとなっていた。突き当たりの左手には二階へ続く階段がある。
 襖を半分ほど開けた、そのとき背後で軋む音がした。
 浬か針葉だろうと思った。今まで見てきた襖の内のどこにも、他の誰の気配も無かったのだ。しかし振り向く一瞬の間に不安を感じたのは、息の音に混ざって聞こえる声がざらりと耳に触れたからだ。
 振り返ったそこにいたのは、衣を血で染めた見知らぬ男だった。二人よりふた回りは年上だろう、同じなのは髪と目が黒いことくらいだった。
 彼が襲われた側だというのは、暁を見たときに浮かんだ怯えの色で瞭然だった。左腕や足にも大きな傷がある。彼は侵入者をどうにかやり過ごし、階を下ってきたらしい。暁は声を掛けようとして、どう言うべきか惑った。無事だったかと? 助けに来たのだとでも? いや何があったか訊くのが先か――
 彼の喉仏が動き、ごくりと鳴る。最初に言葉を発したのは彼だった。
「奴らの、仲間か」
 頭の中に思い描いていた言葉は、その一言で消し飛んだ。暁は一歩そちらへ踏み出す。
「奴らって、一体誰に」
「寄るな! そうか、壬びと……あの家だったのか……お前を見てようやく分かった……。は、はは、お前らはどこまでも汚い……狂ってやがる……」
 声が段々小さくなっていく。男は暁を凝視したまま、無事なほうの足を軸に立ち上がり、壁を背にして距離を取った。
 誤解だ。彼の言葉を理解することはできなかったが、彼が暁を侵入者の一味だと思っていることは分かった。そしてそれが、容易に解けないだろうということも。
 ――怯えている。彼はきっと、あの日の私と同じなのだ。聞き入れはしないだろう。
 暁を見る、血走った目。聞こえる声がかすれていた。
「生きて……返すものか」
 憎しみに満ちた声だった。暁の体が表面から冷え、一語一句にえぐり取られていく。彼を凝視したまま、暁は動けなくなる。
 足元も定まらぬ、死に近付いた彼は、自身が生き長らえるよりも、ここにいる私ただ一人の死を願っている。
 私の死だけを。
 暁は震えを噛み殺した。右の手でぐっと袂を押さえる。
 男が右腕を振りかざした。今まで体の影になっていたその腕に、白いものが握られていた。
 暁は目を閉じなかった、額を左の腕でかばう。刀が易々と袖を切り裂き、皮を破り、しかし肉にめり込む前に、何かに当たって刃が止まる。
 目の前を通り過ぎた刀を、男がもう一度構えなおすまでに間があった。
 弾かれた体勢を左足で支え、暁は破けた袖から手を差し入れる、縛り付けていた合口を抜く、男の懐へ飛び込み刃を滑らせる。軌跡は闇に弧を描き、確かに手応えがあった。
 血が飛ぶ。呻き声が聞こえる。それでも男の腕に一すじの傷を入れただけだった。
 すぐそこに血だらけの体があった、次を間違えれば命がない。
 視界の右端に翻った袖と、男の刀が見えた。
 迷いはなかった。
 男の右腿に刃を突き立てる。しゃがみ込むように体重をかけて、一息に、深く。
 耳に流れてくる音が一瞬遠くなった。
 襖の内へ飛びのいた、すぐそこに、右から左へ切っ先が流れた。衿が一文字に裂ける。薄い肌に残ったのは、痛みよりも灼け付くような熱さだった。
 男が薙ぎ払った刀が襖にめり込む、場の動きが一瞬止まる。
 合口は男の足に突き立ったままで、暁は今や丸腰だった。少しでも離れようと気がはやった。
 もう一歩後ろへと足を浮かせた、しかし踵が踏んだのは畳ではなかった。ごり、と嫌な感触があって、暁はそのまま後ろへ倒れ込んだ。天井が流れていく。まだ生温かさの残る骸が、暁の背骨の下で小さく撥ねた。
 目を瞬いた、そこに男が現れる。もう一度瞬くと、今度は刀を暁の腹に向けて振り下ろすところだった。
 ようやく、煙が目に沁みて痛むのだと気付いた。
 今度瞼を閉じたら、その次は来るのだろうか。
 ――「一度は諦めかけた命だから」、
 何を格好つけたことを、
 嫌だ、
 死にたくない。

 願いが頭の中で弾けたそのとき、見開いた目に映ったのは、自分の背後から伸びた腕と刀、その切っ先が嘘のように滑らかに男の額へと吸い込まれる様だった。
 額が割れて、男はそのままくずおれ、暁の視界から消えた。
 しばらくそのまま動けなかった。視界は朝靄に似て白く濁り、そこに針葉の後姿が現れる。恐る恐る起き上がると、針葉が男の首に小刀を振り下ろすところだった。……思わず目をつむる。目の奥につんと痛みが走り、次に目を開けるまでたっぷり三呼吸を数えた。
 針葉が刀の血を払っている。暁がまだ荒く鐘を打つ胸に手をやると、掌にべとりと触れるものがあった。血か汗か、そういえば左腕の傷も今になって疼き出したようだ。
 でも、まだ。
 暁は立ち上がり、針葉と男の骸をすり抜けて走った。後ろで怒鳴り声が聞こえる。でもまだ止まれない、ごめんなさい、ごめんなさい。
 火の出どころは二階のようだった。むっと煙が濃くなり、熱い空気が立ち込めている。できるだけ背を低くして先程の男の血の跡を辿った。
 あちこちから手を伸ばす火に炙られながら、行き着いた先は一番奥にある半開きの襖だった。咳き込みながら、意を決して中へ入る。
 そこにあったのは今まで飽くほど見てきた地獄絵図、しかし違っていたのはその顔ぶれだった。
「暁!」
 追い付いてきた針葉が後ろから呼ぶ。ぐいと腕を引かれると、暁は自分の芯を失ったようにぐにゃりと体を崩した。もう一度針葉に呼ばれ、震える指で転がった骸の一つを示す。
「小野の懐刀だった男だ。……見たことがある」
 針葉が眉をひそめ、暁の傍を離れて骸を見分する。暁は顔を伏せて自分の近くに転がった骸に目を留めた。
 かさついた唇を開く。
「上松、殿……」
 喉の奥の声は、煙にかすれて針葉には届かない。
 ぎこちなく視線を巡らせた暁は、程近くに刀が置かれているのに気付いた。部屋のちょうど中央、畳の目に平行に、この荒れた部屋に似つかわしくない行儀の良さは、食事の後の一膳の箸を思わせた。ゆっくりと手に取り、抱き寄せる。
 ぱちぱちと爆ぜる音が周りを覆って、両の目に映ったものが重なり混じり合い――ここはどこなのだ。早く逃げなければ、どこまでも追ってくる、どこまででも追ってくる。彼が来る。
 しかし体が動かない。恐怖に浸かりきっているくせに、肌の表面だけは引き攣れたように硬直している。
 腕を強く引かれてそちらを見上げると、針葉が火の色を背に、険しい顔で立っていた。
「ぼーっとすんな、離れるぞ。こっち来い!」
 彼が向かったのは一階への階段ではなく、部屋の壁に掛かった簾だった。火と煙を振りまくそれを斬って落とすと、月見台にでもなっているらしい、張り出した板が現れた。針葉についてそちらへ渡り、眼下を見ると、川には小舟が浮かんでいた。
「おあつらえ向きってやつだな」
 後ろで物が崩れ落ちる音。暁は、ぐい、ともう一度、足場のない場所へ腕を引かれるのを感じた。冷たい夜の底へ落ちていく。

 浬と櫂持ちの目の前にどぶんと水柱が上がり、小さな舟が大きく揺れた。
 大小の影が、ずぶ濡れの体に瘤をこしらえて水の中から現れたのは、そのすぐ後のことだった。