瞼の裏も揺らいでいた。頬に冷たい風が触れ、ゆっくり目を開けると、辺りは霞がかって薄暗かった。首を伸ばして見た縁の外では、水がちゃぷちゃぷと小さな音を立てて波打っている。まだ夢の中にいるようだった。 吸い込まれるような朝靄だ。簾のごと四方を白に囲まれ、六つの影を乗せた船は滑るように進んでいく。 ぶるりと体を震わせて、暁は夜着の衿を掻き合わせた。 「起きたのか」 きょろきょろと声のした方を探し、 「お前の番はまだ先だろ、寝とけ」 「針葉こそ」 「俺は今代わってきたとこだ。思ったより難しいもんだな」 暁は首を傾げて針葉と櫂持ちの男とを見比べたが、体格としては針葉のほうが優れているように見えた。 「そんなに疲れたのか」 「いや、漕ぐだけならそうきつくないけど、やれここで曲がれ、やれ今度はこっちって面倒臭いだろ」 そう言ったそばから舟が方向を変えた。薄い靄の向こうでは香ほづ木売りが腕を持ち上げ、指で形を作って、後ろの櫂持ちとやり取りをしている。もう一本の櫂を握っているのは浬だ。 「恐らく一番人目につかない道を選んでるんだ」 「そうなんだろうな。俺もほんの端の方なら壬に入ったことあるけど、まさかここまで水が張り巡らしてあるとはな」 暁は針葉の肩の向こう、遠ざかっていく波紋に目をやった。閉じた関の手前から舟に乗り、途中で一度陸に下りて舟を変え、それからどれほど経ったのか、何度浅い夢にまどろんだか分からない。 細かく道を変えながらも北上を続け、香ほづ木売りの話では、今舟は壬中東部を通っていた。五家の邸から離れているためか、昨日食糧を調達した里で大火の影響を感じることはなく、病の流行った様子もなかった。 両側から倒れ掛かった大木が空を塞ぐ場所へ差し掛かった。香ほづ木売りの手合図に合わせて、這いつくばうように身をかがめる。舟も速度を緩める……しばらく息をひそめ、香ほづ木売りが首を突き出して辺りをきょろきょろ見回すと、また舟は進み出した。体を起こして、暁は遠くなっていく木を眺めた。 「壬にとっての水は、人にとっての血と同じなんだ。……それより、壬に来たっていうのは」 「前の長が繋がり持っててな。最初に行ったのはもう十年近く前だ、ほら黄月の親父が殺されたとき」 程なくして二つに分かれた水のうち、舟は左を選んだ。辺りの景色は緑を増し、深い山の奥へと入っていくようだった。いつの間にか靄は晴れていた。 「針葉は、そこにいたのか」 「首の落ちんのも見た。あと少しってとこで助け出せなかった」 目を伏せていた暁が、ふっと唇の形を変えた。 「何だそれ、土壇場破りでもしようとしたのか。針葉らしい」 「お前、馬鹿にすんなよ。……そりゃ今ならそうするだろうが、まだ十にもならん餓鬼だぞ。おとなしく長を待ったよ。黄月は喚いてたけどな」 低く聞こえていた水音が、少しずつ大きくなっていた。叩きつけるように、絶えることなく天から落ちてくる音だ。 「あれは間違いなく濡れ衣だった。長は本当の枕探しを連れてきたんだ」 川に沿って 軽く腹を満たすと、一行は舟をそこに残して小石の川原を歩いた。暁は川を両側から囲む岩壁を見上げる。そびえ立った崖は人を縦に十人並べてもなお足りない。水も澄んで美しく、今が飛鳥への道でなければゆったりと鑑賞して回りたいほどだった。 しかし崖に足掛かりは無く、行く手には滝壺があるばかり、ここは行き止まりだ。それでも香ほづ木売りの足は止まらない。 彼は崖を回り込み、岩の隙間に空いた洞窟に身を滑り込ませた。もう一人の香ほづ木売りと櫂持ちが続き、暁たちは顔を見合わせて針葉から足を踏み入れた。 洞窟の中に入った途端、すっと体が冷えた。冷たい手で背を撫でられたようにぞくりと身が縮む。かん、かん、と打ち金の音、薄暗い中にぱっと火花が散って、続けて息の音。息をひそめて待つと、やがて火が香ほづ木売りの顔を照らし出した。 「六人いるな。……よし」 火を持った影が洞窟を奥へ進む。 「足元にゃ気を付けろよ」 声は狭い空間の中でいくつも反響した。暁は壁に手を付きながら小さな歩幅で針葉の後に付いていく。 「なるほど、こんな洞窟があったんですね」 反響する浬の声を聞きながら歩いていた暁は、突然針葉の背にぶつかって止まった。その背に更に浬がぶつかる。 「な、何」 針葉が身をずらした。暁が見たのは洞窟の行き止まりと、突き当たりの壁を背にこちらを向いている石仏だった。揺らめく火が、手を合わせている香ほづ木売りたちを照らし出す。やがて彼らは手を下ろした。 「あの……ここへは、ただ参詣するために?」 暁の声が反響する。ん、と振り向いた顔は火の作り出す光と陰で凄みが増している。 「だってさっきの滝も行き止まりで、この洞窟も行き止まりで、じゃあ何のために」 「ちょいと黙ってな」 松明を持った櫂持ちが一歩下がり、香ほづ木売りたちが石仏の両側に立って腰を下ろした。ふ、と力を入れると、ずずっと低い音を立てながら石仏が動き、その後ろにはぽっかりと穴が開いていた。 「どこが行き止まりだって?」 得意げに笑う香ほづ木売りに、暁は小さく頭を下げた。 穴は人一人がどうにか通れるほどの大きさだった。香ほづ木売りの一人が松明を持って先に進み、その後に暁たちも続く。道はすぐにごつごつした坂となり低い方へ続いていた。全員が下りたのを見て、櫂持ちが石仏に手を掛けた。ずず、と引きずる音とともに穴が狭まって、完全に閉じる。浬が感心したように低く唸った。 「あれは石造りじゃないんですね。騙されたな」 「よくできてるだろ」 松明の火一つを頼りにして一行は狭い道を進む。時には横から岩がせり出し、時には足元が大きく凹んでいる。足音がばらばらに反響する。 「この道はあなた方が見付けたんですか」 「俺たちの道の一つだ」 答えたのは最後尾についた櫂持ちだった。前を行く香ほづ木売りが、道々に渡された縄を伝いながら相槌を打った。 「いつからあるのか分からんし、誰が見付けたのかも分からん。誰が通ってるのかも分からんが、この縄。これも、そろそろ寿命かなと思えば、次通るときにはまた新しくなってる。人知れず語り継がれてきた道なんだろうよ」 「お喋りもいいが、足元にゃ気を付けろよ」 そう言われたちょうどそのとき、暁の足がずるっと滑った。咄嗟に針葉の背を掴み、体を支える。 「ぅわっ、と、気ぃ付けろって言われたとこだろうが」 「ごめん。ここ……地面が濡れてる?」 浬が足を止めて壁に触れ、手を振った。 「地面だけじゃないね、壁も湿ってるし、それにさっきから小さく水滴の音がする。洞窟じゅうに水が滲み出してるんだ。ここは鍾乳洞ですか」 「ご明察」 反響する音が変わり、突然洞窟が開けた。端までは見えないが、今まで通ってきたのとは比べ物にならない広さの空洞が広がっているようだ。天井の所々が地に向かって垂れ下がり、その先からぽたりぽたりと滴が落ちていた。 「こっちだ」 香ほづ木売りが縄を伝って歩いていく。彼に続きながら暁はなるほどと縄を見上げた。今まで一本道だったが、この空洞の先はいくつにも道が分かれているようだ。導なしに進むのは困難だっただろう。 空洞を縦断してまた穴の一つに入り、歩みを進める。低いところへ低いところへと道は潜っていく。時折頭に降ってくる滴。滑りやすいところでは香ほづ木売りが声を掛け、一人ずつ縄を掴んで進んだ。 いつしか声は止み、足音が反響するばかりとなっていた。その狭間に、暁の耳はさあっと何かの音を捉えた。水滴とは違う、大量の水が流れる音だ。 「川が……この近くに?」 「そう、それを目指してるんだ。もう見えるぞ」 香ほづ木売りが指したのは岩の切れ間で、そこからは水の流れが暗く見えた。 更に歩くとまた開けた場所に出た。奥は一段地面が下がっており、そこに川が流れているようだった。どこか遠くでごうごうと音が聞こえるが、見える流れは緩やかだ。香ほづ木売りが足を止め、先頭に立ったのは櫂持ちだった。 彼が岩陰に指し示したのは小舟だった。香ほづ木売りの一人と針葉が手を貸し、慎重に川に浮かべる。 「滲み出た水はどんどん溜まって落ちて、川になり、更に深くへ落ちてく。そのほんの一部分を借りようってことだ」 全員が乗り込んだのを確認して櫂持ちは舟を出した。暁は上を仰ぐ。暗い天井からは岩が手のように伸びていた。 随分と長いこと歩いてきた。この川は今、どれほど深くを流れているのだろう。 辺りが湿っているためか、体を包む闇はどこまでも重く、押し潰されそうだ。暁は首を振ってしっかりと前を向いた。先へ、ひたすらその先へ。 暗い水の中を舟は進む。櫂持ちの腕一本を頼りにして。 さあっと遠くで水の音が聞こえ、近付き、また遠ざかる。流れは早くなり遅くなり、別れては合流し、櫂持ちはそのたびに細かく櫂を操った。天井の岩は徐々に低くなり、櫂持ちの号令に合わせて全員が身を屈め、ひときわ低い岩の下を通り過ぎると、ようやくまた天井が高くなった。辺りはぽっかりと空洞になっているようだ。 「そろそろ降りるぞ。用意はいいか」 櫂持ちは縄で輪を作ると、地面から突き出した石の杭に引っ掛けた。ひょいひょいと一行が降り、空になった舟を皆で引き上げて岩陰に隠した。 そこからはまた松明を持った香ほづ木売りが先頭に立ち、縄を伝って穴の一つへ進んだ。足元が緩やかな上り坂となっていることに暁は気付いた。ここからは地上へ向かう道かもしれない。ずるずると足が滑りそうになるのを堪えて、一歩一歩を踏みしめる。 しばらく進んだところで香ほづ木売りが後ろを振り返った。 「そろそろ広いとこに出る。腹も減っただろ、一旦休んで続きは明日にするか」 「地下だからよく分からんが、もう日暮れどきなのか」 「もう日は沈んでるはずだ」 彼の言葉どおり、狭い道を抜けた先にはまた空洞が広がっていた。三本目となった松明を石にくくり付け、六人はその周りに腰を下ろして腹を満たした。 「地下を歩くのなんてそうそう無いだろ。どうだ」 香ほづ木売りがひひっと笑った。虚勢を張るべきかと言い淀んだ暁の隣で口を開いたのは針葉だった。 「結構堪えるもんだな。涼しいのはいいが、妙に重苦しい」 「だろ。遠くまで見渡せないってのはなかなか辛いもんなんだ。先達なしに迷い込んだら三日で気が触れるって言われてる」 この暗さ、この狭さ、足場の悪さ、遠く近く響く水滴の音、川の流れる音。幾筋にも分かれた通り道、正確に櫂を使わねば通れない黒い川の道。ここまでの行程を思い返せば、気が触れるという話にも充分に納得がいった。 「こんなに広いのに、生き物は住んでいないんですね」 お陰で獣に怯えることはなかった――と思った暁に返ってきたのは意味深な笑い声だった。 「見えないほうが幸せってこともあるからな」 暁は胸騒ぎを感じて辺りを見回した。天井も壁も遠すぎて火は届かず、闇に沈んでいる。じっと目を凝らしても何も見えない。笑い声。不穏な沈黙が流れる。 き、き、きゅい、きゅい……そのとき聞こえたのは甲高い泣き声だった。暁はほっと胸を撫で下ろす。 「あ、ああ……なんだ、鼠か」 「そう、飛ぶほうのな」 ぎょっと香ほづ木売りを見た、その耳にぱさぱさと音が近付いて、小さな塊が一行のすぐ上を飛び抜けた。その後に続いて、二羽、三羽、ばさばさと頭の上を掠めていく。 咄嗟に覆った頭を恐る恐る上げて、暁はもう一度辺りを見回した。闇は再び沈黙して何も答えない。 「鳥……?」 「カワホリってやつだ。大抵の洞窟にゃ棲み付いてるし、そいつの糞や死骸を狙って色んな虫がうじゃうじゃと」 「ここを出てからにしてください」 浬の声もこわばっていた。そこに重ねて反響する笑い声。暁はそっと鳥肌の立った自分の腕を抱いた。地上に出たところで、帰りも同じ道を通るはずなのだ。 一人一人と声が絶え、暁も夜着を羽織って体を休めた。 浅い眠りから覚めた後はまた歩きだ。朝夜の感覚も方向も分からぬまま、ただ足を進める。確かなのは地上へ近付きつつあるということだ。延々と続く足場の悪い坂道に、涼しい中でも汗が滲む。 「あとどんぐらいだ」 針葉の問いを受け、香ほづ木売りが肩越しに振り返った。 「心配しなくても、昼飯はお日さんの下で食べられるさ」 それは針葉の後ろを歩く暁にとっても大きな励みになった。 空洞と狭い道を繰り返し、腹の減りを感じ始めた頃、洞窟の先がほのかに明らみ始めた。一歩進むごとに光が増す。暁は眩しさに目を覆った。 やがて出たところは山深い崖の中だった。冷たい風が吹き抜け、すぐ脇には川も流れている。その奥にあるのは小さな滝だ。暁は目を瞬いた。同じところへ出たのかと錯覚したが、崖は低いうえ蔦も這っており、容易く登れそうだ。 「丸一日ぶりの地上だな」 針葉は腕を広げて深く息を吸い込む。その後ろで浬は荷の中から地図を取り出して広げた。 「昨日まで辿っていたのはこの川でしたよね。今はどの辺りにいるんですか」 「このへんかな」櫂持ちが指したのは壬と飛鳥の国境線のすぐ上だった。指を地図から離して崖の左右に向け、「あっちの山の奥に進めば上松領の北っ側、こっち側に下れば飛鳥だ」 もうそんなところまで。暁は改めて辺りを見回した。針葉がひゅっと口笛を吹く。 「ってことは黄月の奴、こんなとこに住んでたのか」 「壬の北に知り合いがいたのか? だとすれば、里はもっと山奥だ。あと一日はかかる」 「嘘だろ、どんな辺境だよ」 一行は河原で最後の飯を広げ、崖を上った。香ほづ木売り二人は壬北部に商いの用があるのだと言い、ここで別れることとなった。彼らの用はひと月もせずに済み、その後は暁たちを追って飛鳥の巴屋に足を運ぶという。もしそれより先に針葉たちの用が済めば、櫂持ちが香ほづ木売りの巣へ案内することになっていた。 「相手のとこへ向かう場合、一旦ここに戻って何か刻んどいてくれ。行き違いを避けるためにもな」 香ほづ木売りが滝の傍にある大岩を指差し、皆が頷きを返した。 「じゃ、ひとまずここでさらばだ。達者でやれよ」 「おっさんたちもな。世話んなった」 「ありがとうございました」 二人がひらと片手を振る。暁が頭を上げたとき、もうその姿は山の中に消えていた。櫂持ちの男がふいと逆方向の崖へ向かう。 「それじゃこっちも進もうか。行き先は松川だったな」 「川以外の道も分かるんですか」 「壬で舟乗りだけやって暮らせる身分じゃなくなったし、あいつらみたいな得意先も増えたんでね。貰った分の働きはするさ」 蔦を支えにして階段状に積み重なった岩を上り、そこから先は延々と山道だった。暁の肩よりも丈の高い草が、両側から頭を垂れて道を塞いでいた。前を歩く櫂持ちに倣って掻き分けつつ進むが、足元の草は踏み固められており、ここが壬と飛鳥を繋ぐ密やかな道となっていることを示していた。 まだ日は高いはずなのに、ひょろりと高く伸びた木に遮られて時々木漏れ日が落ちてくるだけだ。 道は続く。足場がごろごろと安定しない上に傾斜がきつく、暁は木々の幹を支えにしながらどうにか付いて歩く。鳥肌の立つような季節だというのに汗が止まらなかった。 櫂持ちが立ち止まって、針葉、浬の脇をすり抜け、一番後ろにいる暁を待った。 「無事かい、初めて歩くには骨だろ」 にやりと口の端で笑う彼は息を切らしてさえいない。足を止めて振り返った針葉も、浬も同じだ。暁は汚れた手で額を拭った。 「平気です」 「まあ無理はするな。日暮れまでには小さな里に出るから、飯を調達して休もう」 そしてまた歩き出す。落ちた葉は柔らかく朽ちて黒い土へと変わりつつあった。暁は、前を行く浬がちらちらと後ろを気にしていることに気付いていた。彼らの歩みは先程までより遅くなったようだ。暁はぐっと唇を結んでまた足を踏み出す。 櫂持ちが小さく笑うのが聞こえた。 「後ろのお坊っちゃんも一緒だって聞かされたときは何かと思ったよ。蓋を開けてみりゃ三人に増えてるしな。前の二人は坡城びとかい」 「いえ、僕は東雲です」 答えたのは浬だった。ふん、と櫂持ちが肩越しに振り返る。 「東雲にゃ昔一度行ったっきりだな。通れん道が多すぎて商いにならん」 「いくつもの部族が暮らしていて、それぞれが国みたいなものですからね」 「表だって繋がりがあるのも壬だけだしな。あそこはよく分からん」 「決して排他的というわけじゃないんですけどね」 櫂持ちは苦笑いして首を振り、また前を向いた。 やがて道は下り一色となる。いつの間にか木漏れ日も消え、辺りに沈むは冷たい風ばかりだった。やがて櫂持ちは足を止め、眼下に小さく見下ろせる家々を指した。 「もう着くぞ。お待ちかねの夕飯だ」 「あの。ここはもう飛鳥の領内なんですね」声を上げたのは暁だった。「飛鳥びとの容貌は皆、黒目に黒髪というのは本当ですか。坡城びとと同じように」 ん、と訝しげに振り返った櫂持ちは、暁の姿を一瞥して低く唸った。 「言われてみりゃお前さんは目立つかもな。壬びとの中でも色が薄いほうだろ」 「特別そうだと思ったことは無かったんですが……」 「食べ物は僕らが調達してくるから、暁はここで待ってる?」 浬の提案に暁の瞳が揺れる。針葉はそれを見て片頬を歪め、荷から手拭いを引っ張り出した。 「これでも被っとけ」 投げられた手拭いが暁の手にふわりと落ちる。暁はぱちくりと瞬いて針葉を見た。 「お前はこれから飛鳥の街中に行くんだろ。人と会わないなんてできるわけない。髪だけ隠して堂々としとけ」 「あ……、分かった。針葉の言うとおりだ」 暁はこくりと頷くと手拭いを額に当て、首を傾げて後頭部に当て、また首を傾げた。 「もしかして暁、結び方が分からない?」 気まずく表情を固める暁の手から、針葉は手拭いを奪い取った。「こんなもん適当でいいんだよ、ほら」頭頂部から覆い始め、端をねじって後ろでまとめると、完成したのは喧嘩被りだ。しかし真正面からそれを見て針葉は首をひねった。 「似合わねえな」 浬と櫂持ちも暁を見て次々に頷く。「似合いませんね」「確かに」 自分の姿が見えない暁は顔を赤くし、眉間に皺を寄せてぐしゃりと手拭いを掴んだ。 「何なんだ、皆して似合わない似合わないって。針葉、わざとおかしな結び方にしただろう」 「馬鹿言うな、それ狙うんなら初めから鼻の下で結んでやるって」 「馬鹿言ってるのはどっちだ!」 針葉は暁の手から再び手拭いを奪い取り、「俺が思うにだな、お前はこっちのほうが似合ってる」そう言いながら衿元に緩く結び目を作った。塵除け被りだ。 「何? どうなってるんだ」 「ほら、似合うだろ」 不安げに頭に手をやる暁の前で針葉は得意げに胸を張った。 「ああ、似合ってます……けど」 「はは、これじゃ坊ちゃんじゃなく嬢ちゃんだ」 「あ、それいいな。暁、お前きっと女の恰好してたほうが目立たねえぞ。探りも入れやすいだろ」 盛り上がる三人をよそに、暁は居心地悪く視線を逸らして歩き出した。 次の日の日暮れ前には松川の地に入って宿を取り、暁と櫂持ちの二人を残して、針葉と浬の二人は巴屋へ赴いた。 松川の人出は坡城の港の大通りよりも幾分落ち着いていた。道を尋ねながら着いた先は、菱屋の半分ほどの間口で、隣に蔵を従えた店だった。浬が指した看板を見て針葉も頷く。長暖簾や看板には確かに、橘が描いたものと同じ紋があった。 「問屋みたいですね」 長暖簾を分けて入った先は土間からすぐに畳の間となり、ちらほらと人の姿、その間に布がいくつか広げられていた。左から奥の壁にぴたりと付けられた棚は腰の高さまであり、幾巻きも並んでいる。その上に吊り下げられているのも反物だ。右奥の土間から出てきた若い女が二人に目を留めたが、番頭らしき年配の男から客が離れたので、針葉はそちらへ足を向けた。 「本日はどのようなお品を」 「菱屋からの遣いだ」 下げた目尻をぴくりと動かし、番頭が若い女に目配せした。女は彼の代わりに店に入り、番頭は土間に下りると二人を連れて奥へ下がった。 暖簾の先は、反物の並んだ華やかな表から一転、静かな板間に続いていた。男が足を止めて振り返る。 「遠くから遥々ご苦労様。無事に着かれたようで何より。私は番頭を務める矢野と申します。では文を」 「これだ」 矢野は針葉から受け取った紙を丁寧に広げた。その表情は何も語ることなく、目だけが上から下へ、右から左へと動いていく。そしてまた丁寧に折り畳んだ。 「結構。ちなみにお連れはその少年だけですか」 柔和な笑みが向けられ、浬は小さく頭を下げた。 「僕らと、あと櫂持ちが一人です」 「左様で。いえ、ここでも色々と頼みたいことがありますし、滞在に必要なものは調達できるのでね」 「それについちゃこっちも大まかにしか聞いてないんだが、何かを探れって?」 矢野はゆったりと頭を下げ、奥の箪笥から畳まれた紙を取り出した。切絵図だ。水気の無い指がその中の一つを指す。 「今指しているのがここ、巴屋です。そしてあなた方に頼みたいのは」その指がつっと動いて離れた場所を指し、「ここに逗留している者たちを探ることです」 「牟婁屋。大きいですね。逗留ということは旅籠ですか」 「問屋仲間なのですがね。ここに、恐らくこの秋頃から数名、見知らぬ顔が暮らしているようです。どのようなことでも結構、洗えるだけ洗っていただきたい。ただし手出しは無用、こちらが探っていることは決して知られぬように願います」 切絵図に書かれた字は浬に任せ、針葉は高いところから全体の位置を頭に叩き込む。自分たちの宿は図の中には無いが、辿った道なら覚えている。大きな通り、家や店の並び、川や橋、田畑。 「期限はありますか」 「年の暮れまで、ですがそれまでに何か動きがあると踏んでいます」 「あんたらとはどういう関係だ」 矢野は目尻を下げたまま首を振った。 「商売敵とでも思っていただければ結構。大火の影響で東雲の糸や壬の染物の仕入れが困難になりましてね、色々と動向を探っておきたいのですよ。国と国との争いでも、結局火の粉が降りかかるのは手前のような名もなき者たち。参ったものです」 大火に乗じた妙な動き。針葉が菱屋から聞かされた話はやけに不穏な匂いをはらんでいたが、蓋を開ければこんなものだ。わざわざ坡城から人を呼ぶほどでも無いだろうに。針葉は眉を上げて浬に視線を寄越した。 矢野は、先ほどの若い女が奥へ戻ってきたのを見付けて手招いた。 「調達したいものがあればこの者にお申し付けを。報告は動きが有れば随時、無くとも十日おきには願いたい。では」 彼は切絵図を懐に仕舞うとその場を後にした。 再び店に出た矢野は、客の応対をする横目で二人の少年が去るのを見た。もう外は暮れ始めていた。人が切れたのを見計らって店仕舞いを言い付け、奥に引き返して先の女を呼び止める。 「何をご所望だったかね」 「はあ、うちに置いている物ばかりだったので渡してしまいましたが」 女が懐から出した書き付けに視線を落とし、彼は小さく溜息を吐いた。着替えや手拭い、下駄に草履、蝋燭、松川や隣町の切絵図。何の変哲もない。 しかし最後の一行に彼の視線は止まった。 「女物の着物……?」 「あれば、ということでしたが。若いほうの子が化けてみせるんでしょうかねぇ。ふふ、ここで着て見せてほしいくらいでした」 矢野は物腰柔らかな少年を思い返す。十五六だろうか、細身で優しげな顔立ちをしていた。彼なら化けられないこともない、かもしれない。だが。 乾いた指が懐を押さえた。その奥に仕舞われているのは、受け取ったばかりの菱屋からの文だった。 切絵図を片手に小野の邸のある隣町に通うこと数日、暁は迷わず行って帰れるようになった。衿当ての付いた女物に手拭いを被った姿は下働きの娘にしか見えないらしく、誰に見咎められることもなかった。この時ばかりは強引な針葉に感謝した。 小野の邸は堂々とした構えで、建物の遥か手前に塀が並び、門には番人がいて、出入りを見張れるような代物ではなかった。通りがかりを装って行き過ぎるのがやっとだ。織楽が話していた者はよほどの手練れだったのだろうか。 次に探したのはその者が探し当てたという料亭だ。ほたるというその店は切絵図では分からず、道をうろついてひたすらに探す。きょろきょろと辺りを見回しながら歩く暁に目を留める者もあったが、暁のほうが先に顔を逸らして足早に通り過ぎた。 見慣れぬ町並み、道行く人々は思ったとおり黒目黒髪だらけだ。大丈夫、坡城と同じ、そう言い聞かせても、ここは壬の宿敵たる飛鳥なのだ、刀を奪った小野の膝元なのだと、自分の声が頭の中でこだまする。 しかし、闇雲に歩き回るばかりで日が経過していた。これでは埒が明かない。 暁は足を止めた。不安がるばかりが自分の声ではないはずだ。 「一度は諦めかけた命だ」 言い聞かせるように呟いて、すっと息を吸い込む。再び足を踏み出したとき、その顔は真っ直ぐ前を向いていた。 暁はきょろきょろと料亭らしき店の看板を眺めながら歩く。自分に近付く影に気付いて、今度はそちらを見た。目が合ったのは右肩に荷を担いだ三十手前の男だった。 「お嬢ちゃん、ずーっと歩き回ってんな。お遣いかい。道に迷った?」 「あ……っ、あの、ほたるという料亭を探していて。うちの店から届け物があって」 ただの切絵図に過ぎない紙の隅を懐からちらと見せると、男は連れの者を振り返った。 「ほたる、ほたる。知ってるかい」 「料亭なんて縁がねぇや」 「だよな」 二人して大口を開けて笑い始める。ぺこりと頭を下げて立ち去ろうとした暁の腕を、しかし男は掴んだ。 「まあ待てって。おーい、ほたるって料亭聞いたことあるか」 「ほたる?」 答えたのは道の向こうにいた職人らしき男だ。職人同士で何事か声を掛け合い、道を横切って近付いてくる。大事になりそうな気配に暁は思わずたじろいだ。 「あ、あの、結構です、もう自分で……」 「何だ、ほたるに用があるのはこの子か。誰か知ってるかー」 「俺、この前屋根直しに行きましたよ」 「ちょっと抜けていいから連れてってやんな」 「はいよっ」 断る間もなく年若い青年に手を引かれて暁は歩き出した。その顔から血の気が引く。まずい、届け物など無いのに。何より、顔を覚えられてしまえば忍ぶどころではなくなる。 「ほら、あの角曲がったらすぐだ」 青年が指した看板だけ目に焼き付けて、暁はぶんと腕を振り払った。 「ご、ご親切にどうも! ここから先は一人で充分ですのでっ」 「あ、ちょっと」 たたっと角を曲がって横道に身を隠し、胸に手を当てて息を落ち着けた。彼が追ってくる様子はなかった。親身になってもらっただけに気まずいことこの上ない。しばらくあの道は避けねば。 暁はそろりと通りに出てまた看板を見回した。角を曲がればすぐと言っていたが、どれがその店なのだろう。 まだ日が高いぶん、料亭ばかりの並ぶ道は人通りが少なく、暁は一つ一つの看板や暖簾をじっくりと見分した。字が書いてあるもの、絵だけのもの、両方書かれているもの。それらしき字は無いから、絵だけの看板だろうか。行き過ぎた道をゆっくりと戻る。物の絵、虫の絵、鳥の絵、植物の絵。 暁ははっと足を止めた。 「これ……?」 戸ががらりと開く音が聞こえて、暁は慌てて足を進めた。男を振り切った角を戻って、道を折れ、ひと気の無いところまで急ぎ歩む。横道に入ったところでしゃがみ込み、弾んだ胸もそのままに、広げた切絵図をくるくると回して今しがた辿った道を確かめた。裏手に川の流れる店の並びの中、震える指でその名を確認し、呟く。 「……これだ」 飛鳥に入って十日が経った日のことだった。 戻 扉 進 |