坂を上って家の見える平地まで来れば、傾いた日に、後ろの山並みが頂からほんのりと色づいて秋を教えていた。
 家の手前の木には縦長の板が立て掛けられ、所々に湿った布が張り付けられていた。夏を終えて解いた単物だ。その前に大きな盥を置き、紅花が残りの布を洗っていた。時々紅砂が顔を覗かせては、裏の井戸から水を汲み上げて、また戻っていく。
 風の弱い左手奥で火の番をしているのは暁だった。もうもうと立ち上がる煙に顔をしかめながらも、灰をすくい取っては傍らの桶に放り込んでいく。
 暁が織楽に気付いたのは、ちょうど桶一杯に灰を溜めて火を消したときだった。
 紅花が顔を上げて垂れた横髪を耳にかける。それでも二三本の黒髪が、はね飛んだ水で濡れた頬に張り付いていた。
「あんた帰ってくる暇あったの。もう公演でしょ」
「明日の朝から。そしたらほんまに帰って来れへんようなるし」
 織楽はすたすたと足を進めて紅花の脇をすり抜け、暁の前で立ち止まった。暁の頬には黒く煤の跡が付いていた。
「顔と手ぇ洗てき。ちょぉ話しよ」
 紅花の耳には届かない大きさの声で言うと、織楽はまた歩き出し、縁側に下駄を脱いで左端の暁の部屋に上がり込んだ。暁も桶を運ぶと、ざっと身の汚れを落として織楽を追った。閉め切っていた部屋の畳には紙や巾着袋が散らかったままだった。暁は慌ててそれを部屋の隅へ押しやり座蒲団を引っ張り出した。
「ごめん、散らかってて。お茶いる?」
 返事も待たずにぱたぱたと出て行く。織楽は座蒲団に腰を下ろし、追いやられたものに目をやった。
 暁はとぽとぽと茶を注いで織楽に勧め、もう一つの湯呑にも茶を注いだ。
「どうしたんだ。忙しいって聞いてたけど」
「お前、忘れてへんわな。豊川の刀のこと調べといたる言うたん」
「忘れちゃいないけど……、何か分かったのか」
 織楽は深く息を吐いて湯呑を脇へのけ、がばっと頭を下げた。
「悪い! 俺の力では何も分からんかった。助けたるとか偉そうなこと言うときながら、ほんまに申し訳ない」
「やめて、そんな」暁は驚いて身を乗り出した。おろおろと織楽の肩を叩き、「簡単にはいかないと分かってるから。大丈夫、他に道が無いわけじゃ……」
 織楽はすっと頭を上げた。
「俺がそう言うたら、お前は自分一人で無茶すんのやろな」
「……え」
 織楽はすっと部屋の隅を指した。そこには先程まで広げられていた地図や本、なけなしの稼ぎの入った巾着袋が積まれていた。
「一人で行くつもりやったんか。今そこにある確証なんて無いのに、大火のときの記憶だけ頼りにして、どうにかして飛鳥に渡って、ほなどうにかなるて? そもそも飛鳥までどないして行く。関は」
 頭を下げたときとは打って変わって落ち着いた声だった。暁は顎を引き、低い声で答える。
「算段は付けている」
「そら用意周到やな。でも行って、その先は。どこに住んでどないして暮らす。どないして調べる。銭が尽きて行き倒れんのが落ちやで」
 暁の声は無かった。視線を落としたまま口を噤んでいる。
 織楽も口を閉じた。肩が落ちる。もう心は決まっているのだ、自分が何を告げようとも。湯呑を取ってごくりと喉を潤す。
「……俺は何も掴めんかった。けどな、刀狂いの奴が飛鳥に人をやって小野家を調べよってん」
 暁が視線を上げた。
「殺されたらしいわ」
 織楽はまたごくりと茶を飲んで湯呑を置いた。向かい合う顔に恐怖の欠片でも転がっていることを期待したが、その表情は安らかなものだった。
「……それでも行くか」
「小野家は探られたら痛い腹があるということだろう。ありがとう、無駄足にならずに済む」
「その痛い腹をまたつつきに行くいうことやで」
「一度は諦めかけた命だから」
 今度こそ、織楽は呆れ果てて顔を覆った。苛立った声で吼える。
「あーもう、阿呆や阿呆や、阿呆がおるわ。しゃあない」
 顔から手を外した、彼の心は決まっていた。ぐいと暁の肩を引き寄せ、声をひそめる。
「殺された奴は何通か文送ってきてた。それによると、小野家の誰かが数日おきに、ほたる、いう料亭で密談しててんて。例の刀の話も出てたらしいわ」
 暁の薄い色の瞳が驚きで細かく揺れていた。その中に目をつり上げた織楽が映っている。織楽は暁の肩を放し、ふんと荒く鼻息を吐いた。暁はおずおずと視線を上げる。
「……どうして教えてくれるんだ」
「言うても言わんでも行くんやろ。意趣返しのはずが行き倒れやなんて恰好つかんわ」
 ふて腐れた表情だった。しかし彼はそれをふっと歪めた。
「なあ暁、命を捨てるんは美徳とちゃうで。勝ち目のないとこに一人で突っ込んで、誰が喝采浴びせてくれる」
「私は芝居をやってるわけじゃない」
「芝居ならまだ救いがあるわ、誰かが見ててくれんねんから。舞台の外ではな、死んだらそこで終わりや。……行くな言うても行く気なら、せめて上手くやり」
 織楽はすっと立ち上がって縁側へ戻り、脱ぎ捨てた下駄をすくい上げた。暁が追って視線を向ける。
「上手く?」
「針葉でも誰でもええから、折見てもっかい頼んでみ。前より銭も溜まったんやろ」そこまで言って織楽は視線を逸らした。「ここまで言っといて悪いけど俺は行けへん。明日からは日がな一日芝居や」
 暁は目を閉じて首を振った。「充分すぎるくらいだ。ありがとう。……頑張って」
「また絶対観に来いや」
 織楽は下駄を土の上に置き直して爪先を通し、後姿で手を振った。
 暁は西日に目を細めながらその背を見送った。彼の姿は木々に阻まれてすぐに見えなくなった。



 時節柄、秋分を過ぎた頃に虫の仕入れは終わりとなり、十三夜の月見の直前に最後の一匹が売れて、針葉の仕事は終いとなった。
 針葉はその足で西の大通りへ歩き、菱の形に染め抜かれた暖簾をくぐった。畳に腰掛けて先客の用が終わるのを待ち、文机の前が空いたところで下駄を脱ぐ。文机の向こうに座っていた女が眉を上げた。
「あぁ、あんたかい」
「ちっとばかし虫が死んじまったが、他は皆売れた。屋台は虫問屋の奴に返して良かったんだよな」
「それでいいよ。今日は次の働き口をお探しかい」
「頼む。できれば次は、もうちょっと長いこと働けて稼げるのがいい」
 女は帳面をぱらぱらとめくりながら鼻で笑う。「んな都合のいいのがありゃ、皆飛び付いてるさ……」その手がはたと止まった。
「そうだ、あんたが来たら声掛けろって言われてたんだ」
「俺? 誰に」
「橘さんだよ。悪い話じゃないさ、ちょっと座って待っときな」
 聞き覚えのない名だった。針葉は首を傾げて女の戻りを待つ。しばらくして現れた女の後ろには、刀を査定した初老の男の姿があった。
「久しぶりだね」
「橘っておっさんのことか。俺に用って何だ」
 女が二人を残して奥へ下がり、橘と呼ばれた男は文机を挟んで針葉の向かいに腰を下ろした。その目が素早く、針葉の背後の暖簾、そして質屋との間仕切りをする長暖簾に向き、また針葉に戻った。
「以前会ったとき、手が必要になれば声を掛けると話したのを覚えているかな」
「今がその時ってことか。でもまだ関は閉じてるだろ。下手にゃ動けないって話も聞いたが」
「関を通る必要は無かろう。道は問わない。君に赴いてほしいのは飛鳥だ」
 橘が懐から取り出したのは所々に印の付いた地図だった。針葉のほうを向けて広げ、坡城の北の北にあるその国を指す。
「飛鳥……そんな遠くへ?」
「壬や東雲の大火に乗じて妙な動きがあるようだ。それを探ってもらいたい」
 針葉は食い入るように地図を見て顔をしかめた。
「いやに漠然としてるな。つまりどこで何をしろって?」
「とりあえずは遣いがてら向こうの取引先に文を届けてもらおうか。そこでまた指示を受けるといい」
 橘は紙を一枚取って筆の穂先に墨を含ませた。
「悪いが、俺は字はあんまり……」首を振った針葉だが、橘が描いたのは紋様だった。尾を引いた丸が三つ組み合わさって円を成している。
「巴屋という。看板にこの紋があるから分かるだろう。場所はここ、飛鳥の都に程近い松川の地だ」
 橘が指したのは、壬と飛鳥の国境沿いにそのまま北上し、わずかに東へ入った場所だった。針葉が暮らす街からはほぼ真っ直ぐ北に位置する。そこにも一つ印が付いていた。
「こんなとこに都があるのか」
「飛鳥の富は南、つまりこれまで戦火を繰り広げてきた地に集中しているからね。二つ大きな街があって、ここと、少し東に行ったこちらだ。この国境近くは小野家、東の街には不破家の邸がある」
 小野家。それはいつか聞いた名だ。針葉は今まで橘が指していた印を指で示す。
「つまりこれが巴屋ってとこで、俺が向かうべき場所。そのすぐ近くに小野の邸があるってことだな」
「そのとおり」
 橘は一度立ち上がり、算盤を取って戻った。
「いつ発てるかね」
「国を跨ぐなら支度が要るな。……下旬には」
「結構。まずは向こうまでの路銀を出そう」
 ぱちぱちと弾く指を見て、針葉ははっと気付く。「待ってくれ、他に組む奴は無いのか。俺一人で?」
 橘は指を止めず、ちゃっと弾いて算盤を針葉に向けた。針葉は指差しながらそれを数える。途中、桁を間違えたのかと思い再度数え直した。
「最初は白菊だ」
「白菊? 片道ぶんにしちゃ妙に多いな」
 針葉は半信半疑で算盤の珠に視線を落とした。自分がざっと概算した額の三倍はありそうだ。
「君一人のぶんじゃない。悪いが、君が今言ったとおり、この度の混乱でこちらも人が減っていてね。誰と組むかは君に一任したい」
「自分で見繕えってか」
「心当たりは無いかね」
「無い、わけじゃないが……」
 文を届けるだけなら自分一人で充分だが、その先を考えると刀を使える者、そして素性の知れた者がいい。針葉の頭にまず浮かんだのは浬だった。細身の優男に見える彼だが、東雲にいた頃は意外にも武芸を習っていたらしく、刀が扱える。壬の上松領まで涼しい顔で付いてくるだけの体力もある。何より、彼ならうるさい詮索もしないだろう。
 針葉は改めて算盤の珠を見つめる。
 この店に通うようになった初めは、生前の先代の長に連れられたことだった。もう何年も前のことだ。以来いくつもの仕事を斡旋してもらった。棒手振りから石工、網引き、そして今回のように闇を探るものまで。
 命の保証が無いのはこれまでと同じだ。しかし今回はどこか気味悪さが拭えなかった。知らぬ間に足場が崩されてどこかへ埋もれてしまいそうな。
「では宜しいかな」
 針葉ははっと顔を上げた。瞳の奥の奥を覗き込む、黒々とした橘の目がそこにあった。
 今更怖気づいて何になる。
 針葉は腹にぐっと力を入れた。
「ああ」
 橘の目は、針葉の心の揺れすら呑み込んで満足げに頷いた。
 店の外から足音が近付いて、針葉の背後で年配の男のしゃがれ声がした。「菱屋さんよ、また一つ世話してほしいんだが」
「はいよ、ちょっとそこで待っとくれ」奥に引っ込んだ女が声を上げる。
 針葉の背から汗が噴き出た。随分長いこと居座っていた気がしたが、目の前の男と二人きりで話したのは、客が途切れたほんのわずかな間だったに違いない。
 橘が針葉に顔を寄せて声をひそめた。
「関の件では難儀するだろう。途中まで舟を出せるから、支度が整ったら供の者を連れて顔を出しなさい。文もそのとき託そう」
「人が減ってるって割に、舟は都合できるんだな」
「商売柄ね」
 前金として橘が算盤で示したのと寸分違わぬ額の路銀を預かり、針葉は帰路についた。
 空は暮れかけ、円い月が東の空から昇り始めていた。



 一際美しい月が昇った翌朝、暁は南西の部屋に刀の手入れをする針葉の姿を見付けた。そういえば、彼は最近は虫売りをしていたと聞いた。息を落ち着けて畳に踏み入ると、そのわずかな音を捉えて、針葉は鯉口に切っ先を当てたまま振り向いた。
「あの」念のため部屋の左右にも視線を向ける。黄月の姿は無い。「虫売りはもう終わった? もし今仕事が途切れているなら、この前の話をもう一度考えてほしくて」
「暁か」
 針葉はそれだけ呟いて刀に向き直り、ゆっくりと鞘に収めた。暁は慌てて言葉を継ぐ。
「路銀のことなら、私も少しは手持ちが増えたし、それに関も――
「ちょうどいい、俺もお前に話があった」
 暁が問い返す前に、針葉は眉を寄せて再び振り返った。「けどな、順番が違う」
「順番?」
「お前は後だ。付いてこい」
 針葉は刀を隅に立て掛けると、困惑した表情の暁を従えて廊下へ出た。その足が向かうのは斜向かいの浬の部屋だ。襖を開けながら「邪魔するぞ」と声を掛ける。中にいた浬は目を丸くしつつも文机を脇にずらした。
「針葉さん……と、暁。どうしました」
「お前、ひと月ふた月ばかり家を空けられるか」
「はい?」
 針葉は浬の前にどっかりと胡坐をかき、暁も訳が分からぬままその斜め後ろに正座した。
「飛鳥まで付いて来い」
 浬だけでなく暁も、ぽかんと口を開けた。浬が暁に視線を寄越す。
「ええと……暁も行くんですか。例の話を受ける気に?」
「別件で飛鳥に渡る必要が出た。とりあえずは文を届けるだけだが、その後は面倒があるかもしれん。刀を使える奴が欲しい」針葉はひと息に言って暁を振り向いた。「行き先が小野の邸のすぐ近くらしい。お荷物にならんと誓えるなら連れてってやらんでもない」
 突然降って湧いた話に暁はごくりと唾を呑み込んで、縋る視線を浬に向けた。
 浬は少し考えて顔を上げた。
「飛鳥というと壬を通るんですか、それとも東雲を? どちらにせよ数日は歩きどおしですし、関を通らないとなると険しい道になりますが」
「途中まで舟を出すと言われてる」
「舟、ですか。うまく関を通れたとしても水の道は入り組んでますし、大火のときですら所々涸れてましたが。本当に大丈夫でしょうか」
 改めて問われて針葉は口を噤んだ。確かに道そのものが不確かな今、堅いのは陸路だ。だがそうすると。
 暁のもとに二人の視線が集まった。
「陸路を取るなら、足手まといになった時点で切り捨てることになるが」
 暁はぐっと唇を結んでそれを受け止める。切り札は既に持っていた。
「舟で行きたい。櫂持ちに知り合いがいる」
「櫂持ちって、本当に?」
 暁は浬に頷く。それは水の道の張り巡らされた壬特有の技能職だった。
 紅砂に連れられて初めて境の地へ行ったのは、まだ初夏の頃だった。小藤を買おうとする暁を単なるかぶれと断じ、あの香ほづ木売りは矜持を語ったのだ。
 ――こんな汚いなりはしてても、扱うもんにゃ一切甘えは許してないつもりだ。関が閉じてからだって飛鳥近くまで川を上って、今までと同じ質のもんを出してる。命懸けだ。
 彼が怒り任せに放った台詞を、暁は忘れていなかった。
 香ほづ木売りの男とは、その後も境の地へ行くたび言葉を交わした。彼は、喧嘩腰の彼に怯むことなく小藤選びの腕試しに乗り、見事本物を選び出した暁を気に入っている様子だった。同舟の交渉をしたのは先月、秋分の雨呼びを数日後に控えて香ほづ木を買いに行ったときだった。
「正確には知り合いの知り合いだけど、関が閉じた後でも、川を上って飛鳥や上松領に渡ったことがあるらしい。そこでしか取れないものがあるからって。次に北上するときは乗せてもらう約束も取り付けてある」
「約束ってお前、勝手に……。俺がこの話振らなかったらどうするつもりだったんだ」
「一人で行くつもりだった」
 浬がぴくりと眉根を寄せ、針葉は大仰に顔をしかめて天井を仰いだ。
「お前の命は軽いな。折角拾ってやったってのに」
「命を棄てに行くわけじゃない。刀を取り戻しに行くんだ」
「それが甘いつってんだ」
「まあまあ」浬が慌てて二人の間に入った。「結局一人きりで行くことは無くなったんですから。それで暁、いつが出立なの」
 浬に取り成され、暁もしかめっ面をぐっと呑み込んだ。
「来月頭にと聞いた」
「来月か。今月の下旬って言っちまってたな。舟のこともあるし、一度断り入れとくか」
 浬はふと視線を宙に向けた。
「舟は元々、その文の送り主……が用意すると言っていたわけですね」
「ああ、舟は都合するから一緒に行く奴を連れて来いとさ。でも暁の話のほうが堅いだろ、実際に関抜けしたってんだから。文だけ受け取ってくる」
「誰かと共に向かうというのも、依頼のうちですか」
「人が足りないんだと。だから路銀はたんまり貰ってる」
 浬が文机に右手を置き、人差し指を打ち付けた。かつん、かつん、……かつん。
「舟のことはひとまず置いておいて、支度が遅れることだけ伝えてみては。そしてこちらの出立の目途が立ったら、その足で文だけ取りに行く」
「それでもいいが、どうして」
「いえ……」
 浬は言葉を濁して首を振った。言葉にするには確証が足りないが、何か危ういものを感じる。飛鳥の小野家のお膝元へ向かえという依頼、路銀は十二分、連れも自由、そして舟まで都合しようという。これほどすんなりと進むものか。これではまるで、誘い込まれているような。
 しかし、誰に? どこへ?
「まあいい。よし、とりあえずは解散だ。それぞれ身支度を整えとけ」
 針葉はぱんと手を打って立ち上がった。それを見送った暁も、はっと思い出したように腰を上げた。
「しまった、お店! さっきの鐘いくつだった?」
「五つ」
「もう行かなくちゃ。浬、戻ったら支度のことで相談させてほしい」
 呼び止める間もなく暁は去り、浬は文机を元に戻した。真白い紙をそこに置き、文鎮で押さえ、また人差し指を打って考え込んだ。



「明日から俺と浬、暁がしばらく留守にする」
 月が替わって出立を明日に控えた夜、織楽を除く六膳が並んだ夕餉の席で、針葉は紅花に告げた。吸い物の椀を口に運んでいた紅花は眉を上げただけだった。
「そうなの? 急ね、それに変な取り合わせ。戻りの日はまだ分かんないのね」
「ああ」
「お昼過ぎまでに帰ってこないなら、その日の夜は自分たちで何とかしてよ」
 紅花は椀を膳に戻して飯を口に運ぶ。呆気ないものだった。暁もほっと煮魚に箸を伸ばした、そのとき。
「どこへ行く。まさかとは思うが、そいつの馬鹿げた話に乗るんじゃないだろうな」
 冷たい声だった。暁が顔を上げると、黄月が箸の先を自分に向けていた。
「いや、菱屋から遣いを頼まれた。行くのが同じ方面だから連れてってやるだけだ。そのくらい構わねえだろ」
「連れて行って何の役に立つ。銭はかかるし、足手まといになるだけだろう」
「そう言うなって。そいつの知り合いの舟に乗せてもらうってのに、そいつ一人除け者にゃできないだろ。それに割のいい仕事だ、路銀は余るほどある」
 黄月の視線が針葉から暁へ移動する。
「知り合いの舟。それほどお前の顔が広いとは思わなかったな」
 答える義理は無い。暁は刺すような視線から目を逸らした。その耳にがちゃりと箸を置く音が聞こえた。暁が視線を戻すと、黄月が湯呑をゆったりと口に運んで置くところだった。
「ところで針葉に浬、こいつが来たその日に告げたことは覚えているな。死に急ぐ奴に構ってお前たちが傷を受けるな。手出しは介錯のみだ。命は自ら生きるためにある。棄てたい奴は勝手に死なせておけ」
 暁は目を見開いた。背すじがびりびりとちぎり取られるように痛んだ。あのときと同じ声だった。出会ったばかりの彼から眼前に死を突き付けられた、あのときと。
 薄い色の瞳がつっと動いて暁を見た。
「暁、お前もだ。自分の勝手で危ないところへ飛び込む以上、よもや守ってもらえるなんて勘違いはしていないだろうな」
 重苦しい沈黙に支配される。それを打ち破ったのはがしゃんと叩き付けるように箸を置く音だった。紅花だ。
「あーもう、何なのよ。今は食べるときでしょ。そういうの止めてくれる、ご飯がまずくなるじゃない。全員無事で帰ってくること。いい?」
「死にたがってる奴はどうでもいい」
「黄月!」
 紅花の一喝で話し声は止み、再びかちゃかちゃと器の音が始まった。暁はいち早く最後のひと口を終えると、茶碗をまとめて立ち上がり、黄月の前を通りすぎるところで足を止めた。
「……自分の身は自分で守る」
 黄月はそ知らぬ顔で咀嚼していた。暁は廊下へ出て行き、足音が遠ざかった。
 やがて一人一人と夕飯を終え、箱膳を積み上げる紅花を残して黄月も廊下に出た。すぐ向かいにあるのが彼の部屋だ。しかし引手に手を掛けようとしたところで彼を呼ぶ声があった。黄月はぐるりと視線を巡らせる。そこにいたのは紅砂だった。
 黄月は襖を開けたまま部屋に入り、その後に紅砂が続いた。長居するつもりはないらしく、紅砂は襖を開けたまま柱にもたれかかって腕を組んだ。
「どうしてあんなこと言った」
「何が」
「わざわざ脅すようなこと言わなくてもいいだろ。後押ししろとは言わないが、黙って送り出すくらい」
 黄月は倦んだ表情で首を振り、衝立をどけて蒲団を敷き始めた。紅砂の顔が険しさを増す。
「黄月」
「一人で行くならまだしも、針葉と浬が一緒なんだ。足手まといは誰だ? いざというときに判断が鈍ると困る。それにあいつ自身も」
 黄月はそこで振り返り、視線を部屋の隅に向けた。その向こうには廊下があり、更に向こうには暁の部屋がある。
「自害すると言ったのはその一度きりらしいが、そこから完全に脱したように見えるか。俺はそうは思わない。繰り言のように刀刀と言うのも、ここに来るまでのことを詳しく明かさないのもそうだ。一つ踏み外せば、易々と命を差し出しそうな危うさがある。あいつからは覚悟を感じない。中途半端な考えしか持たないから、無理やりにでもこちらが促してやる必要がある」
「覚悟? ……でも意気込みなら充分に」
「生きる覚悟だ」
 会話はそこでふつと途切れた。黄月は上掛けをふわりと広げた。紅砂の足元にも風が起こり、それが通り過ぎた後にはじわりと冷たさが這い上る。
「突っ立ってるならそこ閉めてくれ」
 黄月の声で思い出したように、紅砂は組んだ腕を解いた。「邪魔した」ぽつりと呟いて部屋を去る。黄月は閉まった襖に目をくれ、喋りすぎたことを恥じるようにふいと背けた。

 翌朝、飯だけ平らげて針葉率いる三人は坂道を下りた。針葉は大通りで二人と別れて西へ進み、暁と浬は右折して境の地へ向かった。
 香ほづ木売りは途中の橋で待っていた。連れられて下りた川には一艘の舟が杭に繋がれて揺れており、既に男が二人乗り込んでいた。
「あっちが櫂持ち、手前のは俺と同じ香ほづ木売りだ」
 互いに短い挨拶を交わし、二人も舟に乗り込む。杭から縄を外そうとした櫂持ちを浬が手で制した。
「すみません、あと一人」
「そう長くは待てんぞ」
「何も無ければそろそろ戻ってくるはずなんですが」
 浬はちらちらと堤を見上げて舟から降りようとした、そこへ足音が近付いてきて通り過ぎ、また戻ってひょいと橋の下を覗き込んだ。
「ここか」
「針葉さん。大丈夫でしたか」
 針葉は懐から文をちらと出し、「よろしく」と一行を見回して舟に乗り込んだ。櫂持ちが縄を外し、舟はすいと水を切って進み出した。
「特に何も言われませんでしたか」
「俺に話持ってきたおっさんが留守でな」
 浬は針葉の衿元から覗く文にちらと目を留めた。うまく運びすぎているように思ったのは単なる思い過ごしだったのだろうか。それでも、敷かれた道を外れて自らを頼んだことは間違いではないはずだ。
「こら餓鬼ども、無駄話してられんのも今のうちだぞ。昼時になったらお前らにも櫂持たせるからな」
 香ほづ木売りが三人を振り返って言った。それが彼の出した同舟の条件だった。
 暁は舟の行く先を見つめた。あと数日のうちには飛鳥へ入れる。ぞわぞわと、恐れとも期待ともつかぬものが胸を走り抜けた。
 冷たい風が頬を包んで流れていった。