助けてやろうか、そう暁に大口を叩いた織楽がまず行ったのは、暁の言う刀について調べることだった。 本を読むことは苦ではない。意気揚々と壬の史料を集めた彼は、しかしいきなり行き詰まっていた。暁の言う刀は、確かに旧壬国史には記載がある。いわく「壬国を築いた長兄たる菅谷が次兄豊川と末弟上松に双刀を与えた」、そしてそれを噛み砕いた幼子向けの絵物語も、読み古されたものを手に入れた。 それで終わりだ。以降の国史に刀が登場することはなかった。刀の話は壬びとにとって神話に過ぎないのだ。 では次は人の口から聞き出すしかない。そう思って彼が向かったのは芝居小屋の裏にある役者長屋だった。夏は季春座の閑散期であり、長屋も人の気配が少なかったが、自分が使っている部屋の隣からはいくつかの声が漏れ聞こえていた。 「本川、ええか」 返事を待たずに開けると、中にいた数人が振り返った。部屋の主である本川、そして同じ組の役者数名が円になり、それぞれ絵札を持っている。ひょいひょいと手招いたのは片桐という荒事の役者だった。 「ちょうどいいとこに来たな。お前も混ざれ」 「えー、やや。賭け札なんてやったことないもん。鴨にされるんが落ちやん」 「だからいいんじゃねえか。ちゃあんと余さず食ってやるからよ」 織楽は眉を上げただけで取り合わず、本川の後ろに腰を下ろした。 「仕方ねえ、とりあえず今日は見とくだけで許してやらぁ」 「しつっこいなぁ」 本川は場に出された札と手札とを見比べ、出す札を決めてちらと織楽に視線を投げた。「用か」 「お前、壬の出やんなぁ」 「むかーしな。二、五」 「刀の話って有名なん。誰もが欲しがる垂涎の品やったり?」 「刀? 何の」 親である向かいの役者が勝って全ての札を回収し、本川は顔をしかめた。 「壬の旧三家てあるんやろ。菅谷、豊川、上松。菅谷が豊川と上松に双子の刀授けたいう話、有名ちゃうん」 「知るか。俺が暮らしょうたんは菅谷だが、そんなもん初耳だ」 「おい本川」 片桐にせっつかれ、本川は慌てて札を選ぶ。 「え、嘘やろ。老若男女誰でも知ってる話とちゃうん。その刀手に入れたら壬を手中に収めたも同然とか、そういう謂れは」 「知らん」 「でも国史にもその刀のこと書いたあるで」 「知らん。お前は亰とか坡城の史書を読んだことがあるのか」 織楽はぐっと詰まった。あるわけがないし、仮にそこに国を象徴する刀とやらの神話が記されていたとして、食い付きはしなかっただろう。壬びとに当たるのは彼が一人目だったが、皆その程度の認識なのだろうか。 だとすると見通しは暗い。 「なんだ、刀に興味が出てきたのか」 場に札を出した片桐がにやと笑った。織楽は首の汗を拭って張り付いた後れ毛を払う。 「興味いうか……壬の刀のことで、ちょっと」 「詳しい奴呼んでやろうか」 織楽はあからさまに顔をしかめた。「お前に引き合わせられる奴はろくなんがおらんねん」 「あぁ? 生意気言うな、片桐様の人脈で助けてやろうってのに」 織楽は渋い顔で考えた。大口を叩いた以上、何かしらの糸口が欲しいところだ。 「妙な奴ちゃうやろな」 「安心しろ、男にゃ興味ない奴だ」ほっとしたのも束の間、「三度の飯より刀って奴だからな」付け足された言葉で織楽は更に表情を渋くした。 かくして引き合わされたのは土井という小柄な中年男だった。片桐が好んで居場所にしている三階の板間に座蒲団を並べて、男と織楽は膝を突き合わせ、片桐も窓辺で立ち会う。部屋は天井が低いため暑苦しく、皆して団扇を煽ぎながらの話となった。 土井は湯呑の茶をずずっと啜り、前評判とは違う穏やかな表情でにこりと笑った。 「片桐くんから刀のことで話があるって聞いてたけど、売り買いのことかな。それとも役作りのため講釈をお望みで?」 ぱたぱたと団扇の音。彼の巻きのきつい髪は、団扇程度の風では揺れる様子も無い。織楽は湯呑を置いて膝に手を置いた。 「講釈も面白そやけど、またの機会で。おっちゃん壬の刀のことて知ってはります?」 「壬というと神話に描かれた刀かな」 さすがの知識だ。織楽の表情に満足したらしく、土井は頬を緩めた。 「国を興した三兄弟のうち、民率いる者として光明を浴びたのは菅谷だった。しかしそれは豊川と上松が血を流して支えればこそ。菅谷は弟たちを讃えるため双刀を授け、また背に浴びた血から目を背けないよう、自分は鏡を持ったとされているね。まあ鏡はどうでもいいとして、件の刀は今も二家に分けて保管されているという話だ」 「よぉ知ったはるわぁ。菅谷の生まれの奴なんか、なぁんも知らんかったのに」 「五家くらいの大きな家か、私みたいに刀剣をこよなく愛する者でなきゃ、実在するってこともなかなか知らないだろうね。世に伝わるのはあくまで神話だし、史書といっても旧史の一番古いところだから」 土井はそこで言葉を区切り、切ない表情を浮かべた。 「惜しむらくは大火だね。豊川の邸は焼け落ちて跡形も無いって言うし、上松も、被害は少なかったらしいけど刀の行方は聞こえてこないな。このまま永遠に失われてしまうんだろうか」 「そこで、やねんけど。壬に火ぃ放ったんは停戦中やった飛鳥やて話がありますやん」 「一番有力な説だね」 土井はまた湯呑を取って啜る。 「飛鳥がその刀奪ったいうんは、どう思います」 「有り得るね」 さらりと答えると、彼は湯呑を置いて団扇に持ち替えた。 「有り得ますか」 「双刀の話は壬の五家じゃ当然の知識だし、旧三家が旧三家たる所以みたいなものだからね。火を放ったのが本当に飛鳥で、壬の吸収が国としての考えなら、まずはそこを狙うだろうな。刀剣をこよなく愛する私としても、あれを一度手に取ってみたくなる気持ちはよく分かるよ」 土井の目がうっとりと宙を漂う。退屈そうに聞いていた片桐が、そこでようやく口を挟んだ。 「それで織楽よ、お前なんだってそんなこと調べてんだ。荒事役になって刀振るってみたいのか」 「ち、ち、ち、無粋だな片桐くん。彼はただ純粋に刀剣に魅せられているんだよ。私のようにね」 織楽は苦笑いして胸元を煽いだ。 「そんなんちゃいますて。ただ、豊川の刀手に入れたいいう知り合いがおって」 「物好きもいたもんだな」 「その気持ち分かるなあ。一昼夜語り合ってみたいものだよ」 「そんで大火んとき、飛鳥の小野家ってあるんかな、そいつに奪われたかもなーって言うもんやから。こんなんも有り得ますか」 冗談めかして言ったつもりだったが、土井に食い入るように見つめられ、織楽は思わず煽ぐ手を止めた。 「な……何だそれ、それは確かなのか」 「い、いや、燃えてる中でちらっと見ただけや思いますし、確かなもんかどうかは」 「見たんだ! 見たんだね、豊川の刀を!」 掴みかからんばかりに詰め寄られ、織楽の口元が引きつる。土井は上気した顔で身を戻し、うんうんと忙しなく頷いた。 「あるよ、有り得るよ。そうか、刀は無事だったのか、そして小野家の元にある……ああ、どうしよう、何てことだろう!」 「いや、本気にせんといてくださいよ。話半分で……」 「そのお知り合いと話をさせてもらえないかなぁ!?」 昂ぶった勢いで手首を掴まれ、鼻息のかかる距離まで詰め寄られて、織楽はぞっと身を反らせた。 「おっ……お断りします」 「そこをなんとか! 大丈夫、危害は加えないからさ!」 「断りますて!」 ぶんと手を振り払って、湯呑も団扇もそのままに狭い階段を駆け下りる。見慣れた二階の廊下に出て、ようやく織楽は腕をさすった。 「やっぱりろくな奴ちゃうかったやんか……」 暁は既に、本人曰く上松の刀を持っているが、口に出さなくて良かった。本物が手の届くところにあると知られれば、今度こそあの男は止められない。 背後からどすどすと足音が下りてきて、織楽は慌てて振り返る。板戸を開けて姿を見せたのは片桐だった。階上にくいっと親指を向ける。 「しょげてやがる。ああなると面倒なんだ」 「知るか」 「まあいい、これで貸しが一つだな。明日も本川んとこで集まるから待ってるぜ、鴨ちゃんよ」 肩をぽんと叩かれ、織楽ははっと顔を上げた。 「え、いや、ちょ、片桐、俺まだ調べもんが」 「遊び方覚えとくのも無駄にゃならねえぜ」 片桐はまた板戸の向こうに消えた。豪快な足音が上っていくのを聞きながら、織楽は頭を抱えていた。 昼の暑さを残しながらも蝉の泣き声が変わる頃、針葉が足を向けたのは西の大通りだった。その腕には刀を五振りばかりまとめて抱えている。 やがてその足が止まったのは外れにある大店の前だった。字の読めない彼でも、立て看板や暖簾に描かれた菱型で屋号が分かる。左右にかかった色違いの暖簾のうち左を分けて入ると、中でばたばたと歩いていた女の一人が足を止めた。 「おや、いらっしゃい」 「これを買い取ってもらいたいんだが」 「質屋なら隣だよ」 針葉が掲げた刀を一瞥して、女が指したのは店を二つに分けた右側だ。床まで届きそうな長暖簾で仕切られてはいるが、足音とともに布がめくれ上がり、ばたばたと忙しそうに立ち働く姿が見えた。 「あっちは待たされるだろ。それに俺も何か働き口が無いかと思ってよ。アズメもそろそろ終わりだろ」 「そんならちょっと待っとくれ」 女が刀を抱えて奥へ下がる。針葉は下駄を脱いで畳に上がり、文机の前に胡坐をかいて女を待った。隣の賑わいと比べるとこちらは落ち着いている。隣からはざわめきと足音に混じって男の話し声が流れてきていた。 算盤と帳面を持って戻ってきた女に、針葉は顎でしゃくって隣を示した。 「随分お喋りな刀剣商だな」 「ああ、またあの人か。目利きなのはいいけど、扱うもんに思い入れが強すぎるのが玉に瑕だね」 隣では人の出入りは落ち着いたようだが、男の声だけはなおも続いている。暖簾を分けて隣から入ってきた初老の男が、針葉の刀の束を畳に置いて見分を始めた。その横で女は帳面をめくる。隣の声はどんどん上ずり昂ぶっていく。 「――何だと思いますか。そう、豊川の刀ですよ! なんと飛鳥の二大巨頭である――」 一際大きくなった声に針葉は目を丸くした。 「豊川の刀ってのは、そんな有名な代物なのか」 「んん?」女は帳面から視線を上げ、「神話で語られる謂れのある品だからね。うちにも時々そういう品を持ち込むお客がいるけど、まぁ大抵は嘘っぱちさぁ」 「じゃあやっぱり、飛鳥のお偉いさんが持ってったってのも有り得る話なんだろうな」 がちゃり、音がした。鑑定役の男が刀を鞘に収めたところだった。 「どこで聞きなさった」 「ん。いや、隣の奴がさっきから」 「やっぱり、と言いなすったな。以前にどこかで?」 針葉は苦笑して腕を組んだ。 「んな細かいとこによく気付くな。ちょっとそんな話を耳に挟んだもんで」 「大きな家に一大事があれば、その財産に関しても色んな噂が飛び交うもんさ。焼け出されて手っ取り早く坡城の銭を得たいって輩もいるからね。二年前の東雲のときだって、偽の品持ち込むお客が山ほど来て、何度追い返したことか」 女は鼻で笑い、帳面を開いて針葉に見せた。針葉もそちらに膝を寄せて覗き込む。 「そう馬鹿にしたもんでもない。豊川の邸のすぐ傍で小野って奴の顔を拝んだらしいぞ。どこまで本当か知らんがな」 「誰が」 割り込んだのは鑑定役の男の声だった。針葉は文机に傾けた体を戻してそちらを向く。男は最後のひと振りを鞘から抜いて見分していた。 「ちょっとした知り合いってだけだが」 「壬びとですか」 「そりゃあ……大火のときそこにいたくらいだから」 「お若い人ですか。男? 女?」針葉が見つめる中、男は鋭い視線を上げた。「会わせてもらえますかね」 針葉はふんと鼻で笑って片手をひらと振った。 「今どこにいるのか知らねえよ。俺も別の店で会って立ち話したっきりだ。耄碌した爺ぃだったから、もしかすると夢の話だったのかもな」 じっと針葉を見据えていた男は、ふっと顔から力を抜いた。がちゃりと最後の刀を鞘に収め、算盤を取る。 「失礼、私も刀の話となると熱くなってしまう性で」 ぱちぱちと算盤の珠の音を聞きながら、針葉は思う。熱いというより、どこまでも冷徹な視線だった。妙に食らいついてくるので咄嗟にごまかしてはみたが……。 「これでいかがかな」 男が差し出した算盤の珠を、針葉は一つずつ指差して数える。「二、と、六……」 「二の菊、六葉、三鈍、以上です」 「まぁ悪かねえけど、もうちっと上がんねぇかな。ものは良いだろ」 そこに女がぐいと身を乗り出して帳面を突き付けた。 「銭が欲しけりゃ汗水垂らして働きなよ。ほら、網引きに灰買い、乗り子なんてのもあるよ。学は無くとも体は丈夫なんだろ」 「おばちゃん、今は刀の話してんだからちょっと待ってくれ。それに学が無いは余計だ」 「では手入れの手間賃を加味に加味して二の菊、七葉。宜しいかな」 男はそう言うと算盤をちゃっと御破算にし、針葉の返答も待たずにすたすたと奥へ下がってしまった。再び出てきたその手には無地の袋が握られている。針葉は中を改めて紐でぐるぐると口を縛った。 「確かに」 そこにずずいと女が帳面を突き付ける。 「ほら、あんた前に石工はやったことあっただろう。いや、あれはすぐに音を上げちまったんだったか。じゃあ虫売りは。そろそろ月見だしやりやすいだろ」 「あー、もうそれでいいや」 女が紙を取り出したのを横目に男は立ち上がった。 「君は赤だったかな」 ぽつりと呟いた声は、ともするとそのまま聞き流してしまいそうだった。針葉は顔を上げる。 「ああ」 「稼ぎたいなら、手が必要になれば声を掛けよう」 男はそれだけ言い残して店の奥へ去った。閉まった戸を見つめていた針葉だったが、女が紙を読み上げて指で示したので、そちらに視線を移して筆を持った。いつしか隣の刀剣商の声も止んでいた。 ――戸の向こうで鑑定役の男は足を止めた。勝手口の戸が開け放たれ、汗まみれの少年が茶を飲んでいるところだった。彼は男の姿を認めると湯呑を置いて会釈し、懐から書状を取り出した。 「急ぎの文みたいですよ」 「ご苦労。そこの水を使っていいから足を洗いなさい」 「はいよっと。盥も借りますね」 少年が出て行き、男はおもむろに書状を広げた。最初の数行を読み進めて目を見開く。 「身罷られたか……。大火を生き延びられたというのに」 最後まで読み進めてゆっくりと息を吐き出し、元通り書状を畳んだ。その足で文机に向かう。さらさらと筆を進め、墨が乾くのを待って折り畳んだところで、盥を立て掛ける音がして少年が戻ってきた。 「どうも。あと、この辺で草鞋売ってるとこってありますか。もうぼろぼろで」 「この通りを南に行きなさい。それから、これで腹の足しになるものでも買うといい」男は少年に銭を持たせた。少年の目がきらきらと輝き出す。 「うわ、こんなに貰っていいんすか」 「その代わり頼まれてほしい。これを牙殿のもとへ」 男が手渡したのは、今書き終えたばかりの書状だった。「急ぎで」と付け加える。 「とんぼ返りかぁ。まあいいや、走ってこそ俺ってね。行ってきます」 少年は手を振ると、跳ねるように土間に下りて飛び出していった。男は戸を閉めて店の表に目をやる。 刀を売りに来たあの少年も、もう店を去ったようだった。 このところ朝夕は随分と涼しくなった。虫の声を聞きながら十五夜の月見をしたのが数日前のことだった。 その朝、浬は洗濯物を干す紅花を手伝っていた。途中、暁の背中が坂へ消えるのを見送り、また盥の中から湿った洗い物を引っ張り出して、ふと紅花に尋ねた。 「暁、小間物屋は続いてるの」 「まあね。でもあんまり似合ってないけど」 「っていうのは?」 「客相手に上手に話できるたちじゃないじゃない。だから自分に合ったことすればいいわよって言ってるんだけど、それはしないみたい」 紅花が引っ張り出した着物をぱんと強く振って浬に渡し、浬はそれを物干し竿に通す。 「そういえば、昨日の夜は暁の膳が無かったね。外に出てたのかな」 「浬は遅かったから知らないのね。昨日は暁、自分の部屋に持ってって食べてたのよ」 手拭いを引っ張り出した浬は、えぇ、と眉を寄せて苦笑いした。 「どうしてわざわざ。また黄月と喧嘩?」 「違うわよ。喧嘩するも何も、あの二人が口きいてんのなんてほとんど見ないし。秋分だったからでしょ」 浬はぴくりと瞼を上げた。 「秋分が何か」 「雨呼びよ。よく分かんないけど」 「……本当によく分からないな。何それ、雨乞いでもしてたの」 首を傾げる浬を見て、紅花はきゃらきゃらと笑い転げた。 「そう思うわよね! でも暁にそれ言っちゃ駄目よ、怒るからね」 「はいはい。それで結局それは何なの」 「あたしが一回見たやつはさ、こう、お皿の中でちっちゃい木を燃やして部屋中を歩き回るの。煙がふわーって広がってね、それがまたいい匂いなのよ」 紅花は両手で器の形をつくり、天に掲げて見せた。それを浬が食い入るように見つめる。その口が開いた、そのとき。 「浬、代わる」 背後から現れた紅砂に肩を押されて体がよろけた。紅砂は平然とした顔で浬がいた場所に収まり、盥から洗濯物を引っ張り出した。 「紅砂、今日は道場行かぁの」 「これが終わったら行く」 「じゃあわざわざ代わってもらわなくても……」浬が盥に近付いた瞬間、ぎろりと紅砂の睨みが飛んできた。 はっと呆れたように息を吐き、彼はてきぱきと竿を埋めていく。 「手も動かさず遊んでるみたいだったから、さっさと終わらせてやろうってだけだ」 「紅砂は手際ええけなぁ」 紅花は自分の作業が減ってほくほく顔だ。浬は頬を引きつらせつつ思う、それは大いなる誤解だ。紅砂は作業の遅さが気に食わないのでも、紅花の手助けをしたかったのでもない。妹を大事に囲い込むあまり、他の男と二人きりでいるのが許せないのだ。彼女が男だらけのこの家で誰にも手を出されずにいるのは、ひとえに兄の存在あってのことだろう。 瞬く間に盥は空になり、全ての洗い物が竿で揺れた。 「さっすが紅砂!」 紅花はぱちぱちと手を叩いて喜び、膠着状態の二人を置いてどこかへ消えてしまった。それでも紅砂の視線は緩まない。浬はやむなく弁解を試みる。 「誤解しないでほしいんだけど、紅花ちゃんを誑かそうとしたとかそういうわけじゃなくて」 「何言ってる、ただ干すのを代わっただけだろ」そう言いながらも彼は溢れる敵意を隠そうとしなかった。 浬はやむなく自分の部屋へ引っ込み、紅砂が消えたのを見計らって紅花を探した。彼女は坂を下りていたらしく、再びその姿を見かけたのは昼過ぎのことだった。 書き物をしていた浬ははっと筆を止めた。 「紅花ちゃん」 廊下を行き過ぎた紅花が足を戻して浬の部屋を覗き込む。 「何、どしたの」 「朝の話の続きだけど、紅花ちゃんはそのとき雨呼びとやらを一緒に見たの」 「浬もああいうの好きなの? そうよ、見せてもらった。その代わり次の日になるまで部屋から出してもらえなかったけど。夏至って何の日か覚えてる、お祭りよ。そのせいであたし行けなかったんだから」 思い出して憤慨する紅花に、浬は小さく頷いた。祭りのとき彼女の姿を見なかったのはそういうわけか。 「じゃあ、暁とひと晩一緒にいたわけだね」 紅花ははっと気付いたように赤くなり、畳を踏んで浬に詰め寄った。 「やっ……何よ、そういう言い方しないでよ」 「あ、別に勘繰ってるわけじゃ」 「暁と同じ蒲団で寝たからって何も起こんないわよ。あ、でも紅砂には内緒ね。後がうるさいから」 この言い方は、やはり。浬が紅花のむくれた唇を見ながら考えていたとき、がらりと音がした。 「噂をすれば。多分暁よ」 紅花は浬の反応も待たずに廊下へ出ると、暁の腕を引っ張ってまた戻ってきた。暁はきょときょとと視線をうろつかせて浬に困惑の表情を向ける。 「浬が雨呼びのこと知りたいって」 「雨呼び? 別にそんな不思議なものでも……」 浬はじっと暁の姿を観察した。細い肩、小柄な背丈、白い肌。そして筆を置いた。 「率直に訊くけど、暁は巫女の家系なの」 「はっ!?」 声を上げたのは紅花のほうだった。ぎこちなく笑いながら暁の背をばしばし叩く。 「やだ浬、この平べったい体のどこが女の子に見えるのよ。女の子ってのはあたしみたいにね」 「紅花」 「何よ、文句あんの」 二人のやり取りを眺め、浬はふっと口元を緩めた。 「東雲では、そういう儀式を行うのは 「そう。壬と東雲では事情が異なるみたいだね」 堅い表情ながら、暁はきっぱりと言い切った。二人が去り、部屋にはまた浬一人となる。浬は、紙の中ほどでぷつりと途切れた文字を見ながら考え込んだ。 墨は既に乾いていた。 季春座の一年は霜月の顔見世公演で始まる。そのふた月前には役振りが行われ、秋公演を行いながら読み合わせが始まるのだ。 座長の部屋から出て、織楽は肩を落とした。名付きの役が貰えたことは喜ぶべきなのだが、結局大見得を切った暁との約束については何も分からず終いだった。休みの間に得たものといえば、彼に意外と博打の才があると判明したことくらいだ。 かくなる上は、賭け札で巻き上げた金で美味いものでも買ってごまかすか。 最奥にある自分の部屋の襖を開けると、中にいた少女が顔を上げて会釈した。 「来てたん。そっちは役振り終わった?」 「まだです。私はあんまり期待してないですけど。それよりさっき片桐さんって人が来て、部屋にいるから上がってきてほしいって」 「片桐?」 織楽は首を傾げて廊下に出た。狭い階段を上って天井の梁も剥き出しな片桐の部屋に入る。 「お、来たな」 窓辺に座った片桐が手を上げた。織楽は左右に目をやる。思ったとおりだ、向かって右側には例の刀好きの男が座っていた。その正面に空の座蒲団が置かれている。 「何」 織楽は土井から座蒲団を離した。あれからひと月半が経ってさすがに興奮も冷めたらしい、土井は落ち着いた表情で正座しており、飛び掛かってくる様子もなかった。いや、その顔はどこかこわばっているような。 土井の口が重々しく開いた。 「君に忠告しておこうと思ってね」 「はい?」 腰を下ろそうとした中途半端な姿勢で織楽の体が止まる。 「豊川の刀のことを調べていただろう。あれはもう止めたほうがいいよ」 「……なんでです? どっちか言うと土井さんのほうが知りたがってたみたいやったけど」 織楽が腰を下ろすのを待って、土井は深く頷いた。 「そうだよ。人は誰しも、死ぬまでにこれだけは見たい、訪れたい、やっておきたいと憧れるものがあるだろう。私にとって壬の双刀はその一つでね。一度は見てみたいと思っていたから、飛鳥に遣いをやって調べさせていたんだ」 「はっ!?」 素っ頓狂な声を上げた織楽に、片桐は土井を指し示して言った。「こいつは刀剣で商いをやってやがるから」 「はぁ、さいですか……趣味と実益と道楽を兼ねたええ商売で」 土井の顔は晴れない。彼は大きく息を吐き出して瞑目した。 「連絡が途絶えてね」 「はあ」 「死んだとのことだった。殺しだそうだ」 織楽だけでなく片桐までもが目を丸くした。 「土井さんよ、そいつは本当か」 「こんなことで嘘なんか吐かないよ。……刀は美しいものだ。そこに物語が加われば、更に妖しく魅せられる。私はただそれを一目拝みたかっただけなのに、まさか命を奪われるとは……」 「いや、でも……」痛々しい表情の土井が恨めしげな視線を織楽に向ける。「それ、ほんまに刀の話を嗅ぎ回ってただけで? ほら、なんや変な連中に絡まれたとか、色々ありますやん」 「どう思ってもらってもいいけど、こちらに寄越す文がどんどん危なっかしくなっていったからね。私は殺しだと思っている」 土井が懐から紙の束を出した。織楽は小さく頭を下げて一つを手に取る。 そこには、飛鳥の小野邸近くに宿を借りて調べものをする男の暮らしが描かれていた。始まりはひと月ほど前だ。宿の者や出掛けた店でそれとなく聞き回るが、何の収穫も無い日が続く。 それが変わったのは半月ほど前。小野の邸を張っていたところ、夜の町へ忍ぶ影を見た。それが小野本人なのかも、その行き先も分からぬまま、やっと掴んだ手掛かりに彼は縋り付いた。 夜ごと邸を見張る暮らしが続く。影が現れるのは数日に一度、しかしその行き先が料亭の並ぶ道のどこかだと分かるのと同時に、彼自身が妙な気配に悩まされるようになる。そして。 織楽は最後の文を手に取る。 「ほたるにて会合 刀ノ話あり まどよりぬすみ聞く 次ハ 五日后」 書き殴ったような字は、墨の擦れや汚れも酷かった。乾かぬうちに誰かに託したらしい。 織楽は黙って文を折り畳み、土井に返した。土井も無言で懐に仕舞う。 「そういうわけだ。君ももう、この件からは手を引いたほうがいい。豊川の刀を見たっていう誰かさんもね」 土井は腰を上げて片桐の部屋を去った。足音が完全に消えるまで、織楽も片桐も何も言えなかった。 「なあ、今のはどこまで本当の話だ」 場を和ませるように、片桐が笑い混じりに問う。織楽は何も答えられず首を振った。 収穫はあった。小野の邸の者が数日おきに「ほたる」という料亭に通い、誰かと密談をしていたこと。その中に例の刀の話も出ていたこと。小野の手の者かは不明だが、深入りする彼を良く思わぬ者がいたということ。 織楽が知らぬうちに、蒔いた種は根を張り芽を出し、しかし無残にも刈り取られたのは調べていた彼自身だった。 織楽は瞑目する。名も顔も知らぬ男に。 片桐の手が織楽の肩をぐいと掴んだ。 「おい。分かってると思うが、これ以上妙なことに足突っ込むなよ」 「分かってる。もう秋公演も始まるし、何もやってる暇無いわ」 織楽はその手を払いのけて立ち上がった。自分と土井の分、二枚の座蒲団を端へ投げやり、階段を下りて自分の部屋へ向かう。もう先程の少女の姿は無かったが、物だらけの部屋は簡単に片付けられていた。織楽はその隅に、たったふた月前に意気込んで集めたばかりの本を見付けた。 土の下には未だ蠢くものがある。腹に重いものを感じながら、織楽はまた表紙を開け、字を追い、ぱたんと閉じた。 戻 扉 進 |