さ、と障子が敷居を滑る音が始まり、とん、と閉まる音で終わる。
 紙を通して白い光が朧に入るほど日の昇った朝、薄ぼんやりとした頭で、鐘を随分遠くに聞いた気がする。
「起きろ」
 片目だけを開けて黄月を見上げ、針葉は身を起こす。未だ定まらぬ目のままぼうっとしている横で、黄月は二三の丸い薬入れと瓶を部屋の隅に置き、蒲団を二つに折った。
「腫れは」
 針葉は眼を何度か強くつむり、肩を大きく回す。彼が着崩れた自分の着物の左袖をめくり上げると、黄月は置いたものを持ってその傍に座り直した。その裡にあるものをじっと見る。
「……いつもより酷いんじゃないか」
「どこも変わんねぇよ」
「痛みは」
 針葉は首を振り、同じ答えを繰り返す。黄月は眉を寄せて薬入れの一つを差し出した。掌に隠れるくらい小さな、黒塗りのものだった。
「これを。数日で皮が剥がれるだろうが、くれぐれも触るな」
「何も初めてってわけじゃない、お前も知ってんだろ」
 黄月は、睨むように針葉の腕を見つめる。
「今度は一体何だ」
「んな怖い顔すんな。ひよの親父が彫ってたから、どんなもんだってんで同じ奴にやらせてみただけだ」
 そう聞いても納得しかねた顔で、黄月はしばらく真新しい傷痕に視線を置いていた。
「あの女は何だって」
「どうもこうも。飛鳥に東雲、壬も、今んとこどうしようもないし動きようもない。しばらくは稼がしちゃくれねえよ。そうだ、壬の北って昔お前が住んでたとこだろ。何の話も伝わってこないんだと。どうなってんだ一体」
「南北の間に山が並んでいるからだろう。もともと出入りの無い域だ」
「だからって、ひよをして何も実入りが無いかね」
 黄月は口を噤んだ。推量で話の進む当てもない。持ってきたものをまとめて畳を立つ。
「ってことで、しばらく俺は日銭稼ぎで繋ぐからな。宜しく頼んだぞ、秋月の」
「長とやらの影が薄くなるな」
「うるせえ」
 鼻で笑う黄月に睨みを返す。障子は光を瞼に焼き付けて閉まり、針葉はそれが消えるまで目を閉じていた。やがて蒲団を乱雑に畳み、隠しもせず部屋の隅へ押しやると、畳の縁をまたいで転がっているものに目が留まった。
 黄月の置いていった薬だった。拾い上げて蓋に指をかけたが、そこで手を止め、むき出しの蒲団の上に放り投げた。
 弧を描いた薬入れは、壁との隙間に入り込んで見えなくなった。





 団子屋の娘の言葉通り、家の周りや、そのまた周りの国々で大きな変化が起きることはなく、うだる暑さの中、日々は緩慢に過ぎていった。
 そして、それはいつからあったものか。小さな泡の粒が水面を目指すうち、集まりあって大きな波紋を起こすように、どこからか湧き上がった決意は膨らみ、暁の胸深くに根を張っていた。
 暁が針葉の部屋を訪れたのは、暦の上では秋になったばかりの、まだ暑い盛りのことだった。
「針葉、ちょっと」
 開け放たれた障子の向こうで振り返ったのは黄月だ。暁は言葉を止めたが、その隣に部屋の主を確認して畳に踏み入り、障子を閉めようとしたところで針葉が振り返った。
「閉めんなよ。暑いだろ」
「話が」
 そう言った途端、暁は顔をしかめて鼻を押さえた。
「何、この……匂い」
「アズメだよ。残念だったな、今日は余ってねぇんだ」
 部屋の隅には中型の桶が二つと、両端に窪みの入った棒が立て掛けられており、桶の中はまだかすかに湿った色が残っていた。火を通すと旨いが、鮮度が落ちると強烈な臭いを放つ魚だ。煮付けに焼きに味噌漬け、汁物に混ぜ飯。昨日まで連日続いたアズメ料理はそういう訳だったのだ。
 暁は慌てて障子を開け放ち、縁側で大きく息を吸って、改めて針葉の前に膝をつき裾を払う。胸を張って真っ向から針葉を向くと、稀に見るきっぱりとした目付きに、針葉もまた居住まいを正した。
「どうした」
 暁は黄月に目をやる。彼は片手に持った本に視線を落とすばかりで、動くつもりは無さそうだ。ふた呼吸ほど睨んでみたが、わざとなのか気付く気配は無い。「ん」と針葉が顔を近付けたので、暁は諦めて、選び出すようにひと言ずつ言葉を吐き出す。
「……針葉たちは壬が飛鳥に襲われた後、壬に来たね。二年前、東雲の大火のときもそうだったと、それで浬がここに来たと聞いた」
「んなこと嗅ぎ回ってどうした。探られて痛い腹なんざねぇぞ」
「私は脅しに来たわけじゃない。針葉たちになら力になってもらえると……もらえるかもしれないから、頼みたいんだ」
 針葉の目から面白がるような色が消える。暁は自分の胸が走り出すのを感じながら息を吸う。
「私が上松の邸から持ってきた刀、あれと対になる刀が豊川にはあった。今は恐らく飛鳥で、国守の小野が持っている、それを取り戻したい」
 ひと息に言い終える。針葉は口を挟まずそれを聞いていた。暁が唇を閉じたのを確認しておもむろに口を開く。
「訊きたいことは色々あるが、まずお前、手持ちはいくらだ」
 手持ち、と小さく繰り返し、暁は目を伏せた。
「紅花の店で働かせてもらって溜めた分が、少し」
「少しってのはつまり、どんだけだ。白菊と言わんにしても、褪す葉くらい持ってんのか」
「まさか。……鈍ひらが、少し」
 表情も変えずに次の紙をめくっていた黄月が、ふっと鼻で笑うのが聞こえた。暁はぐっと堪えて針葉に目を向けるが、彼も口元を歪ませて「駄賃だな」と呟いただけだった。彼は暁の前に人差し指を立てた。
「いいか、まず下調べが要る。飛鳥は壬のまだ向こうだ。ちょっとそこまでって距離じゃない。そのうえ国守つったら豊川と同職か? 面倒そうな相手だな。すぐに何か掴めたとして往復で最低半月、改めて態勢を整えて出発して、また路銀が要る。荒っぽい手を使うとして、刀を振るえんのは俺と、あとは浬くらいか。人手が足りなきゃ雇うか? さあいくらになると思う」
 立てた指がどんどん増える。暁は唇を結んで視線を落とした。甘かったのだ。必要な手順やかけるべき日数、銭の見通し、そして彼らが力を貸してくれると考えていたことも。
「そもそも何なんだ、あの刀は。売るなっつったり妙に大事に抱え込んでるが、上松家のもんなんだろ。それと対っていうと豊川家にあったってことか?」
「そ、そう」
 暁がぎこちなく頷くと、針葉は眉根を寄せて腕を組んだ。
「俺と浬は豊川領を通って北上したんだ。上松領のお前は知らんだろうが、豊川は、特に邸の周りはひどいもんだった。火事泥に荒らされたって以上に、焼け果てて何も残っちゃいなかった。刀なんて瓦礫の下か、ただの鉄くずだろうよ」
「違う、あの刀は持ち去られたんだ。この目で見た」
「見た?」針葉がぐいと身を乗り出した。「どういうことだ」
 暁はじりっと身を引き、視線を揺らして口籠った。
「私……私はそのとき豊川領にいたんだ。まだ火の回りきらない邸に、武装した者たちが何人も入り込んで……探し出した刀を、小野が高く掲げて」
「お前はどこで小野とやらの顔を知った」
 割り込んだのは黄月だった。本を畳んで脇に置き、鋭い視線で暁を見据える。増えた視線にたじろぎつつも、暁は唾を飲み込み口を開いた。
「壬と飛鳥が停戦の約を成して……和睦のため数年に一度、両者が集まる機会があったから。それもあっさり破られたわけだけど」
「両者?」
「壬からは菅谷、豊川、上松の旧三家、飛鳥からは小野と不破が」
「何故お前がそれを知っている」
 暁はじっと黄月の目を見た。「何か気になる点でも?」
「お前が刀を盗んできた上松も、大火直後にいた豊川も旧三家、壬五家の一つだ。そのうえ飛鳥との和睦? お前はそんな」吐き棄てるように、「名家の内情が手に入る立場だったのか」
「何を勘ぐっているのか知らないが、邸の近くで暮らしていればそういった話も耳に入るし、飛鳥の印を付けた行列だって目にする」
 睨み合う二人に視線を行き来させ、針葉は鼻白んだ表情で頭をがりがり掻く。
「えー……それで、その刀ってのは結局何なんだ。お前の持ってたのを見たって珍しいもんでもなさそうが、名だたる家の奴らがこぞって欲しがるような何かなのか」
「あれは、壬の象徴だ」
「象徴?」
「建国神話にも記された刀だ。だから……どうして上松の邸に残っていたのか分からない。豊川のように持ち去られていてもおかしくなかったはずなのに。どうして上松家は持って逃げなかったのか、どうして飛鳥の小野は北にある上松よりも遠い豊川を先に襲ったのか」
 黄月の鼻で笑う声が暁を遮った。
「建国神話? 聞いたこともない。そんなものに価値を見出しているのはお前と、その小野くらいということだろう」
 暁はむっと黄月を睨んだ。彼はそ知らぬ顔でまた本を開き、ゆったりとした手つきで次の紙をめくった。
「その小野という者も、本当にその刀を狙っていたのか怪しいものだ。大火の混乱の中で見たものなど信じるに値しない」
「建国神話は」暁はぐいと腕を伸ばしてその本を閉じた。「旧壬国史にきちんと記され、幼子が読む絵物語にさえなっている。きちんと教えを受けた者なら誰でも知っている話だ。聞き覚えが無いのは黄月、お前が」
「山に囲まれた辺鄙な北の出で、国史の教えなんぞ受けられない身だったからと、そう言いたいわけか。なるほど」
 冷徹な目だった。言葉の先を突かれた暁は口を噤み、気まずい空気に顔を背けた。黄月が短く息を吐き、本に置かれた暁の手を振り払った。
「よく分かった。針葉、これ以上こいつの話を聞く必要はない」
 暁は弾かれたように顔を上げた。今の今まで射殺さんばかりに自分に向けられていた視線は、また本に戻って縋り付く術もない。二人の応酬に毒気を抜かれていた針葉は、突然黙った双方に視線を向けて片眉を歪ませる。
「おい、人の部屋でよく分からん喧嘩するなよ。暁、お前は結局その壬の象徴とやらを、どんな立場で手に入れて、何がしたいんだ。黄月もお前、せめてもうちょっと」
「聞いてどうする。初めにお前が言ったとおり対価は無いんだ。こいつの一方的な願いでしかない」
 自分にまで鋭い視線を向けられて、針葉は言葉を詰まらせた。黄月は更に言葉を繋ぐ。
「それなら相応の道理があるのかと思えば……。お前が今問い直したのが全ての証だ。これだけ言葉を交わしても、結局こいつがどこの誰で、どんな思いでそれを手に入れたいのか、まるで分からない。邸の近くで聞き知ったとか、象徴だから取り返したいとか、核心を語るときだけ妙に漠然としている。知られれば都合の悪いことでもあるんだろう」
 暁はなかば呆然とした面持ちでそれを眺めていた。針葉は何か考えているふうで、暁を庇う素振りも、黄月に肯定を返す様子も無かった。
「こちらには理由も無ければ得るものも無い。火中に飛び込めと言われて従う義理がどこにある」
 暁が立ち上がった。口を真横にぎりと結び、自分と似た色の黄月の髪を見下ろす。黄月は旋毛つむじを見せたままで次の文面に目を落としている。暁は腹の底まで息を吐き出した、そうでもしなければ震えて声にならなかった。
「……お前だって壬の出なんだろう。焼け果てたとはいえ、受けた恩義まで地に捨てるか。国とは親にも等しいものだろう? 親が殺されてもお前は……得るものが無いからと黙殺するのか」
「それで情に訴えたつもりか。それほどご執心だとは、お坊ちゃん、壬では余程いい思いをしてきたらしいな。思い描くに余る」
 そこまで言うと、黄月は投げ付けるように本を閉じて立ち上がった。長身の彼が背を伸ばすと、自然暁は見上げるかたちとなった。一歩後ずさったところに、黄月が長い指を突きつける。
 暁の息が止まった。
「国が逆なら良かったな。狙うのが壬の国守の首だったら、何をおいても俺はお前に賛同しただろう」

 暁の顔はさっと青褪め、何も言わずに立ち去った。針葉はやれやれと溜息を吐いて腕を天に伸ばす。暁の話に興味を引かれたのは事実だが、今回は黄月の言い分の勝ちだろう。動けるだけの銭が無くては話は進まないのだ。
 暁の敗因は黄月の出自に触れたこと、極めつけは彼を壬や五家に関めて話したことだ。
 黄月はまた畳に腰を下ろして本を開いた。やっと静かになったかに思えた部屋に、入れ違いに現れたのは団扇を持った紅砂だった。汗に濡れた髪が額に張り付いている。
「随分ごちゃごちゃ話してたな。喧嘩か」
「思い上がったお坊ちゃんに灸を据えただけだ」
「やっぱりお前か」
「やっぱり?」
 紅砂は呆れた表情であぐらをかいた。すれ違った暁の打ちひしがれた表情、肩の落ちた姿勢。あれほどまでに家の者を叩きのめすことは、針葉には不可能だろう。
「思い上がったって、あいつ何言ったんだ。世間知らずな感じはするけど、そう馬鹿でもないだろ」
「大した銭も払えないくせに人に働けと言うくらいには馬鹿だ」
 紅砂の顔が苦笑いで固まった。何やら妹の話をされているようで耳が痛い。
 そこに足音が近付き、襖側から顔を出したのは浬だった。
「黄月、ここにいたのか」
 彼は部屋に踏み入ったところで鼻を押さえてきょろきょろと見回し、部屋の隅の桶に目を留めて「ああ」と呟いた。針葉がそれを見てくくっと笑う。
「暁と同じ反応だな」
「坡城に来るまで魚はあまり食べませんでしたし、ましてやアズメとなると。暁もここにいたんですか」
 浬は右手に持った蛇腹折りの紙を黄月に差し出した。黄月は紙を開いて右上から目を通す。浬の問いに答えたのは紅砂だった。
「黄月が滅多斬りにしたらしい」
「へえ、同郷でも色々あるね。何だって揉めたの」
「こら、溜まり場じゃねえぞ。暑苦しい」浬まで腰を屈めたので針葉は顔をしかめた。紅砂が尻をずらして浬に場所を空ける。
「暁がもっと働けってどやしたんだと」
「えぇ? まだアズメ売ってこいって?」
「アズメの話はもういいだろ」
 針葉が手を振ったところで、黄月がぱんと音を立てて紙を畳んだ。話し声が止む。
「飛鳥の国守とやらから壬の刀を奪い返せと」
 そして浬に視線を移す。「このまま受け取っておく。とりあえずはこれで結構だが、極力癖は消してくれ」
 ああ、と呟いて浬は肩で息を吐いた。
「やっぱり今度もそれか。参ったな」
「文は極めて正確なのに、どうしてこんなに癖のある字なんだか」
「字は独学だったからね」
 二人のやり取りを聞きながら、首を傾げて話を遮ったのは紅砂だった。
「国守って何だ」
 呆気に取られた三人だったが、あぁ、と天井を見上げてまず呟いたのは針葉だった。
「そういや坡城で暮らしてりゃ関わることなんざねえもんな。職名の一つで、壬の豊川家なんかもそうなんだが……ありゃどう言やいいんだ。始末屋か? 人に限らず、国に都合の悪いもんを何でもかんでも消そうとする要職、って言い方で合ってるか」
「大袈裟に言えば、そうですね、そうなりますか」
 浬が苦笑いして返す。紅砂はふと思いついたように言った。
「ここで言う割番わりばんみたいなもんか」
「ああ、事割番処ことわりばんしょ……は似てるかな。坡城の場合は裁断だけで、国守ほど手広くやっちゃいないけど」
 そこまで言って、浬ははっと目を見開いた。
「そうだ、名前が違うんだ。飛鳥には国守職なんてありません。同じ治安維持を担っているのは小野家で、確か……終籠ついごと」
「確かに小野っつってたな。何だ、壬と飛鳥の和睦のためにいくつかの家が集まってて、それを見聞きして顔を知ったとか」
「暁がそう言ったんですか」
 黄月が不機嫌そうな顔で立ち上がった。
「人に危険を冒せと頼んでおきながら、自分は相手の職名すら間違えるとはな」
「そう言うなって。結局受けねえんだから放っとけよ」
 黄月がすたすたと部屋を去る。浬はそれを見送りながらじっと考え込んでいた。



 蝉の声がわんわんと響く。暁は坂道を足早に下りながら、ぐちゃぐちゃの胸の中を片付けようとしていた。
 自分の見通しが甘かったのは確かだ。しかし、最後に突き付けられたあの指。敵意を隠そうともせず黄月は言った。狙うのが壬の国守の首だったら――
「何なんだ、あいつは……」
 地蔵が見えた。坂の終わりが近い。木々が開けて日が差し込んでいる。
 その日を遮って人影が現れ、暁は足を止めた。
「うわ、ひっどい顔」
 織楽だった。これほど蒸し暑い日だというのに、彼は長い髪を後ろでまとめただけで妙に涼しげだ。
「何ぃな、いびられて逃げ出すとこ? お兄さんが慰めたろか」
 織楽は芝居がかった仕草で腕を広げたが、ぐっと結んだ暁の唇が震え出すのを見て、さすがにうろたえ始めた。
「え、何なに、ほんまに? どしたん」
「……黄月」
「うん?」
「何なんだ、あいつは!」
 織楽は目を丸くし、暁のもとへ歩み寄ると、その背を叩いて坂道から移動させた。
 彼が暁を連れて行ったのは、山沿いに北へ進んだ木陰だった。一旦離れて戻った彼の手には菓子の袋があった。むすっとした顔を膝にうずめて夏草の野を睨んでいた暁だが、織楽にしつこく菓子を勧められてとうとう一つを受け取った。
「黄月と何かあったん」
 暁は小さな干菓子をくるくると回して眺めた。淡い黄色で花を象ってあるようだ。織楽は袋から一つ取り出して口に放り込む。
「遣り込められた? あいつはやるときは徹底して責め立てるからなぁ」
「織楽はあいつと仲良いの」
 織楽は袋に入れた手を止めてにっと笑った。
「もっちろん。俺を拾てくれたんあいつやからなぁ。あ、でも寂しがらんといてや、暁のこともちゃぁんと好っきゃからな」
「私は好きになれそうにない」暁は織楽の表情が固まったのを見て、慌てて「黄月のことだよ」と付け足した。
 さっと風が吹く。織楽の長い髪を揺らし、暁の短い髪を揺らし、丈の高い夏草を揺らしていく。
 暁は干菓子を口に運んだ。ふわりとした甘みがさらさら溶けていく。口の中からそれが消えるのを待って、暁は針葉の部屋であった話をぽつぽつと語り始めた。
 話が終わるまで、織楽は菓子の袋に手を伸ばすこともなく、じっと暁を見ていた。そしておもむろに、腕を枕に後ろへ倒れ込む。
「なるほどなぁ」
「見合う銭が無い以上、元から無理な話だったとは思うけれど、それでも針葉は聞こうとしてくれた。黄月は違った、奴は明らかに壬を嫌っていた。壬の国守であれば……喜んで討つと」
「そら食い違うわな」
 暁が振り返ると、織楽はごろりと肘枕で暁を見た。
「暁は自分の国が好きやねんな。俺も嫌な思い出はあるけど、懐かしい思うこともあるよ。黄月も、壬自体はそうなんちゃうかな。何言うたって、両の親と暮らしてた頃やもん」
「じゃあ国守だけを目の敵にしていると? 馬鹿な、何の関係があって。第一、奴は北の出であって国守の治める地域とは何の関わりも」
「あいつの一家は無実の罪で追われて北を出たらしいで。他の領地に助けを求めようとしたけどどうもならんで、結局は父親を国守に殺されてんて」
 言い返そうと口を開けて待っていた暁は、そのまま表情を凍らせた。目を泳がせて幾度が唇を噛み、瞬きを繰り返す。
「でも……でも五家から追われて国守に処刑されてって、余程のことでないと。そんなの無実であるはずが……。国に仇なすことをしておいて、それは……ただの逆恨みだ」
 強い言葉を選べど、語気が弱まっていくのは隠しようがなかった。ざあっと風が流れて葉の揺れる音がする。
「さあ、そっから先は俺も実際そこにいたわけちゃうしな。人の数だけ言い分があるてことだけ覚えとき。お前の道理は誰にでも当てはまるもんとちゃう。今偶然同じとこで暮らしてるいうだけで、産まれも育ちもまるで別やねんから」
 織楽はひょいと起き上がって袋を漁り、一つを口に放り込んだ。甘い欠片を舌で転がしながら、ちらと黙りこくった暁を見る。
「俺な、あとふた月くらいは暇やねんか」
 暁は暗い目のまま織楽を見る。
「そんで何や、神話の刀やとか意趣返しやとか? そういう芝居にうってつけの話も大好きやねん」
 眉を寄せた暁に、織楽はにっと笑って鼻を寄せた。
「どんだけできるか分からんけど、聞き回っといたろか」
「……どうして」
 織楽は身を離して袋を漁り、暁の掌に一つを乗せて袋の口を縛った。
「なるほどそういう布石か、て繋がってんもん。ようやく面白なってきたとこやん。それにこれも言うたはずやで、助けたろかて」
 織楽が腰を上げたので、暁もあたふたと干菓子を放り込んで立ち上がる。
「あっ、あの……ありが、」
「えぇ何? 口ん中は空にしてから喋り」
 彼の笑い声を追って、また坂道の入口へ至る。干菓子は口の中の水気を余すとこなく吸い取り、茶が飲みたくなった頃合いだった。



 夜、自分の部屋に戻った浬は寝る支度を先に済ませ、短檠たんけいの火を頼りに、部屋の隅に積み重なった文箱のうち一つを抜き出して蓋を開けた。
 中に入っているのは四半分に折り畳まれた紙の束だ。早売りと呼ばれる新報の一枚刷りだった。
 家の誰かが買ってきた分は回し読みの末にここへ流れ着く。浬がこの家で暮らし始めてから二年半で、溜めた分は箱から溢れんばかりとなっていた。抜けもあるだろうが、ほとんど網羅しているはずだ。
 一つの紙に載る報せは一つから多くて三つ。浬はさらさらと素早く目を通していく。箱の中の山はみるみるうちに少なくなり、彼の膝の左側で山を築く。そして彼の手は箱の底に触れた。
 無い。
 浬はふっと息を吐いて早売りの束を整え、文箱の中に戻した。
 壬の旧三家と飛鳥の二家が和睦のため数年おきに集まっていた、暁はそう言ったらしい。邸の傍に住んでいてそれを見聞きしたと。
 浬自身も東雲にいた頃、それを聞いたことがある。しかしそれは、それほど容易く表に出る話だったのか?
 少なくともこの二年のうちに早売りで取り上げられた形跡は無く、またこの家でそれを知る者も他にはいなかった。
 暁。その名を口の中で呟く。
「……僕より二つ年下で、住んでいたのは上松領でなく豊川領……」
 じじっと火の音。浬が目を向けると、小さな蛾が一匹、狂ったように光の周りを飛んでいた。
 思い返せばあの痩せっぽちの少年は、見付けたときからおかしなことが多すぎた。針葉が気にも留めていなかった一つ一つを、浬は黙って思い返す。
 大火から十日経って、未だ焼け果てた上松領にいたこと。
 残党や野盗から逃げ切るにはあまりに華奢な体格なのに、ただ一人、傷というほどの傷もなく生き延びていたこと。
 腹を空かせていたとはいえ、あの飢えようはそこ一日二日のものだ。
 そして不揃いに切った髪。
 不似合いな大刀。
 十日永らえた命を、飛鳥びとと思われる者を前にした途端に投げ出そうとしたこと。
 あのとき浬たちは上松の邸の一階しか周らなかった。建物が焼けて危なげだったこともあるが、決め手は「荒らされて刀しか無かった」という暁の言葉だ。何と言っていた? 「あの家は昨日まで寝床にしていた」。本当にそれだけか。隈なく探し回っていたら他に何か見付かったのではないか。
 暁を、あの日まで生き延びさせた何かが。
 しかし壬の流行り病は終息する兆しが見えず、関は閉じたままだ。もうあの地まで足を伸ばすことはできない。
 浬は文箱を元通り積み上げた。
「一体僕らは、焼け野原で何を拾ってきたんだろうな」
 そう独り言ちた後で苦笑したのは、彼自身が過去に黄月から同じことを言われたからだ。
「得体知れずの拾いもの、か」
 違いない。浬は口元を歪め、さっと蛾を払って火を吹き消した。