「今日あんた休みでしょ。昼から付き合わない」 空になった六人分の椀を重ねていた暁は、紅花を見て一度目を瞬いた。朝餉を終えた部屋には六つの箱膳と、暁と紅花、黄月の三人が残されていた。久々に雲の切れた朝、気の早い蝉がもう喚き出している。 「どこへ」 「大通り、それ以上は行ってからのお楽しみ」 暁は皿と椀を盆に六つ不安定に積み上げ、手を離そうとして考え直し、半分ずつに分ける。両手を広げても崩れ落ちる様子が無いのを見て紅花を振り返り、小さく頷いた。 「お前、この前も行ってなかったか。よく飽きねえな」 二人のやり取りを聞いていたらしい、苦笑いの針葉が縁側から現れる。こんなにのんびりしているということは、彼も今日は休みらしい。 「そりゃ情の何たるかも分かんない男は、一度行きゃもう充分なんでしょうね」 「お前みたいな小便臭い餓鬼に言われたかねえよ」 「じゃ、そういう餓鬼にいちいちちょっかい出さないでくれる。黄月はどう、今日何か用事あるの」 「先生のところに」 短く答えて立ち上がり、黄月は襖の向こうへ消えた。暁は眉を上げて肩越しにそれを見送る。彼と共に出掛けるなど想像もつかない。心の裡でほっとしていたのが実のところだった。 紅花が椀の積み上がった盆を持って腰を上げると、針葉が鴨居に片手を掛けてにっと歯を見せた。 「俺は誘わねえの」 「やぁよ、また騒ぎ起こす気?」 針葉を足で押しのけ、紅花は縁側を歩いていく。暁はもう一つの盆に茶椀を積み上げ、余った部分に湯呑みを並べると、呆れた目で針葉を見た。 「何仕出かしたんだ」 「んな顔すんなって、紅花の言うことなんて頭っから信じるもんじゃねぇぞ。酔狂はいけねぇってんで懲らしめただけだ」 「喧嘩騒ぎでも起こしたのか」 「喧嘩ってお前、言葉の使い方知らねえな。こういうのは勧善懲悪ってんだよ」 暁は適当に何度か頷くと、重くなった盆をゆっくりと持ち上げて部屋を後にした。針葉は小さく舌打ちし、分かっていないとでも言いたげに首を振った。 家の用事をまとめて片付け、紅花がたすきを外したのは昼前だった。暁も紅花の背を追って坂を下り、今日は小間物屋のある裏通りも横切って大通りに入る。そしてほんの少し進んだかと思うと、紅花の背はすぐに右手へ進路を変えた。 あの後、覚えたての言葉を繰り返すかのように勧善懲悪だと言ってしつこく厨まで付いて来た針葉も、結局二人に同行することになったのだ。 だというのに二人を残して先に出てしまったものだから、まず二人で彼を拾いに行く途中だった。 「団子屋まで迎えに来い、じゃないわよあの馬鹿。暇ならあたしらの分の団子買ってきなさいってのよ。ねえ」 暁は今日の目的地も団子屋の場所も知らないので、紅花の悪態を聞きながら歩くしかない。 程なくして川が見えた。紅花は橋を渡らず左手に曲がって川沿いを進む。木陰を歩くたびに蝉の鳴き声が耳を叩き付けたが、川を時折吹き抜ける風は涼やかだった。 「紅花は針葉にも物怖じしないね。一番年が離れているのに」 「あたしがひと桁の歳の頃から一緒だからね。それにあっちだって容赦無いじゃない。小便臭いとか、年頃の娘に向かって言う?」 紅花が年頃の娘と言っていい年齢か分からなかったので、暁は小さく笑うに留めた。 しばらく行くと川が二方向に分かれ、今いる道は丁字路となっていた。紅花が進んだのは右手の道、川を渡る橋だった。 元から大きな口を更に大きく開けて、最後の団子に噛み付き、串から引き抜く。 針葉は人が二人やっと座れるくらいの簡素な台に腰掛け、すぐ隣に空の皿を置いていた。先程まで隣にいた二人連れももう席を立ち、ここには彼一人だ。唇に残った黄粉を指で払っていると、後ろから軽やかな声が聞こえた。 「見ましたよ今の。喉突くんじゃないかと思った」 咀嚼ついでに振り返れば、左手に風呂敷包みを抱えた若い女が、面長な顔にくるりとした目を細めてくすくすと笑っている。お遣いを終えて戻ったばかりの、この店の娘だった。店の内を親指で示し、針葉はくぐもった声で返す。 「どこまで遠出してた。親父さん心配してたぞ、えらい遅いってんで」 「あら。払いの悪いお客さんから、お代を取り立てるくらいの気力は余ってますよ」 女は針葉の手から串と皿を取り上げて海老茶色の暖簾の奥に入る。再び出てきたときには腕に抱えた包みも下ろしていた。 「さては男と楽しんでやがったな。悪い娘だ、なぁ親父」 「話を逸らそうったってそうはいきません」 針葉の前に塞がるように立って、女は腕を組む。あくまで笑顔のまま、そこを動く気配は見せなかった。 「だから、花見んときにちゃんと客連れて来ただろ。差し引き無しだ、んなもん」 「花見って一体いつの話ですか。もう夏も終わりますよ」 「暑いうちは夏だろ。ならあとふた月は夏だ」 「そんな駄々っ子みたいなこと言って、困ったお客さんですね」 女が笑い声を止めると辺りは静かになった。人影も無い。針葉は目だけを素早く左右に動かし、もう一度女を見た。顔からは笑みが薄れている。 「……それぞれ様子は」 「北は境目を書き換えたくて仕方ない様子。しかし土地を侵すも山の向こうに留まり、南は未だ手付かず。東は相変わらずの混沌。西の影響でひと悶着あるかもしれない。西。火の手の薄かった域には人が戻りつつあるが、病広まり国としては混乱の治まる気配なし。他は、南北が分かたれたくらいか。うち北の様子は杳として知れず、今は動かぬが善」 風のように話すと、女の口は閉じて、いつもと同じ笑みを作り出した。 「ご苦労さん。さて、そんじゃ芝居でも観てくるかな」 「あら、羨ましい。今日はどこの奥方を誑かしたんですか」 「馬鹿言うな、子守りだよ」 針葉は肩を回して立ち上がり、暖簾を掻き分けて出てきた老爺にいくらかの銭を渡す。看板娘の父と呼ぶには歳の離れすぎた彼は、短いながらもしゃんと伸びた背に、たすき掛けの腕が涼しげだった。一瞥をくれて、針葉は片鼻に皺を寄せる。 「年甲斐もねぇなあ」 「ああ、これな。どうだ、いいと思わんか」 老爺は肘を持ち上げて、腕の裏に彫られた艶やかな女姿を見せた。 「分かってねぇな、そりゃ袖の内に仕舞っとくもんだ。そう簡単に見せちゃあ面白みに欠ける」 女が老爺の手から銭をもぎ取って店の中に入ったとき、ようやく紅花と暁の姿が橋の向こうに見えた。 季春座。そう呼ばれる芝居小屋が、終日人で賑わう大通りの真ん中に間口の広い建物を構えている。今、三人は木戸をくぐってその中にいた。 薄暗い小屋の中は、それ自体が生き物であるかのように、ざわつきと熱気と汗の匂いに満ちていた。 左右の上下に桟敷が並び、正面の席は四角く区切られて人が埋め尽くす。奥の舞台にまだ人の姿は無く、途切れ途切れに弦を弾く音だけが、雑音の底から流れてくる。天井や桟敷席の上にはいくつも紋の入った提灯が浮かび、喧騒に色を添えていた。 三人がいたのは右後ろ寄りの桝席で、前の二席を暁と紅花に譲り、針葉は後ろで他の客を物色していた。辺りを見渡し、見知った顔があれば腕を振り上げ、その合間に見目いい女を目で追う。その隣には知らぬ顔の男が座り、弁当をかき込んでいる。 紅花は弁当に箸を運びながら、落ち着かない様子の暁に目をやった。 「やっぱりあんた、まだ来たことなかったんだ」 周りに負けぬよう、紅花は暁の耳に口を寄せて声を張り上げる。暁は驚いた様子で耳を覆い、首を振った。 「こんな人出、見たことない」 「これでもいつもより少ないほうよ。夏芝居だもん。顔見世とか年明けとかはこんなもんじゃないんだから」 「これより多いのか」暁は度肝を抜かれた表情で、「こんなに人がいるとも思ってなかったし、こんなにうるさいとも知らなかったし、こんなに暑いとも」 「分かったから早く食べちゃいなさいよ。もう始まるわよ」 暁は目をうろうろと動かしながら箸に手を伸ばす。 本当はもっと見ていたかった。初めて大通りの真ん中で立ち止まって見上げた櫓、濃紫の幟。ずらり並んだ役者絵。誰もが魅せられ足を向ける、こんな場所に、自分が入れるとは思わなかった。実際、こうして連れて来られなかったら、一人では足を向けることなど無かっただろう。 弁当は、薄暗い中では何が入っているのかもよく分からなかったが、空き腹を満たすには充分だった。 「もっと早く連れて来てあげれば良かったわね。あんた、壬にいたときは芝居観に行かなかったの」 「芝居小屋なんてあったのかな」 「嘘、無いわけないでしょ。壬って言ったら文芸の国じゃないの」 音とも言えない、がなり立てるような話し声の群れが、追い立てられるように急激に鳴りをひそめた。暁も何事かと口を開けたまま待つ。 我先にとかき消える声の中から、忍ぶようなひそやかな人の音が流れ出る。 か細く、しかし途切れることはない。悲しみと憎しみを混ぜ合わせた、それはすすり泣きの声だった。 ぞわ、と怖気立つ。流れた汗が冷えていく。気味の悪い声に、暁は他の音を探そうとするが、あれほど騒がしかった周りは今や静まり返り、ただ一つの恨めしい声に食らいついている。紅花までもが魅せられたように身を乗り出していた。 「針葉」 斜め後ろに振り返った途端、紅花に腕を抓られた。針葉は苦笑して口に人差し指を当てる。泣き声以外に無音の中では、囁き声も耳元で聞こえるようだった。 「もう始まってる。前見てみな」 一つ、弦の音が響く。暁が前に向き直ったときには、いつ舞台に上がったのか、裾を長く引きずったうつむきがちの女が、勿体ぶったように上手からゆっくりと歩を進めるところだった。顔の様子は長く伸びた黒髪に隠れて見えない。左の袖が腕に遅れてゆらりと揺れるので、どうにか時が流れていると分かった。 いつの間にかすすり泣きは止んでいた。それなのに、顔を隠した女から流れてくる恨めしさはどうしたことか。 細く揺らぎを含んだ笛の音がどこからともなく聞こえる。それに合わせて先程の音よりも低く、弦の音が響く。 髪が揺れて、女が顔を上げた。 暁は青い顔で、鳥肌立った自分の腕をさすりながら歩く。芝居が始まるまでの暑さが嘘のようだ。 三幕構成の話は既に終わり、芝居小屋裏手の縁側から見える空はほのかに赤く染まっていた。 「夏は怪談って相場が決まってるじゃない」 紅花が呆れ顔で言うと、すかさず「聞いてない」と睨み返す。 日が傾くまで逃げられもせず滔々と演じられた話は、とある娘が道ならぬ恋に落ちた男を謀殺され、妖の力を借りて仇の者たちを呪い殺していく、という筋立てだった。初めは匂い立つように美しかった娘が、一人、また一人と殺めるうちに、憑かれたかのように形相を変え、底知れぬ恨みの中で自らも妖へと変わっていく。幕引きの直前に見せた壮絶な表情、声、そして救いを求めるように伸ばされた手は、生ける者が演じているとはとても思えなかった。 紅花は、女の側に立って胸のすくような懲悪ものと見たか、愛しい者を想って怨讐の中に生きる情愛ものとして見たか。唐突に引き込まれた暁には怨念渦巻く怪談もの以外の何物でもなかった。 収集のつかない言い争いに顔を背け、暁は今歩いている板張りの廊下に視線を落とす。二人が歩いているのは、先ほどまでいた芝居小屋のすぐ裏手にある建物だった。 「……ここ、我が物顔で歩いているけど、いいの。季春座の建物なんじゃ」 「黙ってりゃ分かるから」 あまりの堂々とした歩きぶりで、すれ違う者たちに見咎められることもなく、階段を上った廊下の突き当たりで紅花はようやく足を止めた。今までに通り過ぎた部屋と何ら変わりない。襖はきっちり閉まり、招かれざる侵入者を拒んでいるように見える。 しかし紅花は迷いなく中に向かって呼びかけた。 「入っていい?」 間があって、襖越しにくぐもった応答が聞こえた。紅花は怪訝そうな暁には目もくれず襖を細く開き、大仰に肩を落とした。 「あー、やっぱりもう落としてた。残念」 「何ぃな、誰か怖がらせに行くん」 「暁よ暁」 親しげなやり取り、この声、この訛り。暁は隙間から中を覗き込む。その先にいたのは。 「織楽?」 「はあい」 いつかと同じ満面の笑みが跳ね返ってくる。そこにいたのは確かに、家で唯一顔を見ないあの男だ。 彼は長い髪を後ろでまとめ、着流しの衣紋を不自然に大きく抜いた気楽な格好で、奥の窓辺にもたれていた。部屋自体はそう広くもなく、手前と向かって右の二方を襖に囲まれている。しかし問題は畳の上だった。 積み重なった紙の山に机に鏡、雑多な飾り道具にと、一人部屋とは思えないほど散らかっている。左手の床の間と思しき場所に三味線が立て掛けられているのも見えた。部屋の高くに紐を張って着物を掛けているから、どうにか歩く隙間が保たれているのだった。 「こんなところで何を……」口をついたとき、ふと彼と葦の会話が蘇った。「季春はどうだい」、あれはもしや単なる街の話題というわけではなく。 織楽は立ち上がり、暁が暖簾のように掻き分けているものを掴み取った。ふわりと起こした風で足元のがらくたを盛大に散らかしながらも、優雅に、あくまでしなやかに自分の身に纏う。形の良い唇から聞こえたのは、今までの軽い口ぶりとはまるで似つかない、張りのある声だった。 「あな恨めしや。今其方がたの何をせんとも、我が殿は帰らぬ」 それは疑いようもなく、今の今まで怯えていた女の姿だった。暁は、あんぐりと開けていた口をはっと手で覆う。 「び……っくりした。全然分からなかった」 「俺は今までお前が知らんかったいうんが驚きやわ。何、皆して黙ってたん」 「たまにしか帰って来ない人のことなんて話題にも上がんないのよ」 「ほら、またそういうこと言うやろ。暁、聞いた今の。どう思う」 一気に部屋が賑やかになる。暁は話題を変えようと、左手の壁に立て掛けられた三味線を指した。 「舞台でこういうものを弾いたりもするのか」 「いや、ただの借りもん」 織楽は三味線と 唐突に音が止まった。 「何やそれ、筝か。弾けるん」 「あ……ううん、まさか」 さっと指を隠した暁だったが、織楽が三味線を元に戻そうとするのを見て、さっと手で制した。 「立て掛けるなら日の当たらないほうに」 「ご指導いたみいります」 にこりと笑って従う織楽に、暁は目を逸らして頷きを返す。 そのとき聞こえたのは右隣の部屋の襖が閉まる音だった。足音は畳を踏みしめて間仕切りの襖の前にやって来る。織楽も立ち上がり、二人の脇を通ってそちらへ歩んだ。 「織楽、いるか。開けるぞ」 低い男の声だった。紅花がびくりと肩を揺らしてそちらへ膝を向ける。織楽が返答すると、廊下に近いほうの襖が開いた。男の姿は二人の位置からは見えない。 「会心の白綾だったな。舞台の上ながらに、お前と添い遂げられぬが悔やまれる……」 情をたっぷりと含ませた艶やかな声だった。骨の浮き出た大きな手が織楽の長い髪をさらさらと弄ぶ。しかし当の織楽は何の反応も見せず、男の声はにわかに焦りを帯びてくる。 「否、お前の白綾になら、たとい呪われ殺される運命とて望んで受け入れよう。……おい」 声が突然低くなる。 「何かようて寄越せ。一人でくっちゃべってるこっちが恥ずかしい」 「お客が」 織楽が親指で二人を指すと襖の向こうから、織楽の相手方を務めた役者が顔を出し、すぐ引っ込んだ。織楽の体がぐいと向こうに引き寄せられたのは、衿を掴まれたのだろう。どすを利かせた囁き声が聞こえてくる。 「この野郎、恥かかせやがって」 「我が殿の醜態も余興にはなりましょう」 「誰が殿だ、誰が」 暁が口を開けて脱力している横で紅花は、余程のお気に入りなのだろう、「本川さんよ本川さん!」男の名を連呼しつつ暁の腕を殴打する。暁は身を捩って必死にそれを避けた。 「何の用や。阿呆さらすために来たんか」 「三味取って来いとよ。紅でも鳴り物でも、無くなったもんの辿り着く先なんぞ決まっちょうわ」 「そんなふうに疑われたら白綾呪っちゃあう」 「殴るぞ」 男はもう一度部屋を覗き込み、視界を塞ぐ着物を手で除けて織楽の額を叩いた。置き場所の変わった三味線は、対面に位置する襖からは丸見えなのだ。 織楽は二人の所まで戻り、三味線を取って男の方へ歩く。途中、振り返って暁を読んだ。 「撥、そこあるん取って」 それはちょうど左腕を伸ばしたところに置かれていた。暁は袖口を押さえて撥を取り、男に渡しに行く。間近で見れば年のころは二十半ばか、さすがに紅花の様子も頷ける、凛々しく上がった眉の印象的な、華やぎ整った顔立ちだった。 男がもう一度織楽を軽く叩いて出て行った。襖が閉まった後も紅花は名残惜しく男のいたほうを見つめている。織楽は元の場所へ腰を下ろす、その背では日が沈みかけ、空が赤紫に染まっていた。 「何や紅花、そない本川のこと好きやったん」 「当たり前でしょ! まさかあんたの隣の部屋に、い、い、いらっしゃったなんて」 「後で戻ってきたら話さしたろか」 「ええええ!」 昂奮気味の紅花にぶんぶんと肩を揺すられながら、暁は、逆光の中で織楽の目が細く笑うのを見た。 「……ん、」 笑うように結んだ唇から声が漏れる。輪郭は天を向いた顎へとなだらかな曲線を描き、鎖骨を通って、開いた衿の奥へと続いていた。むき出しの首筋から口を離して、女の顔へ向き直る。細い手首を押さえつけた掌が、じっとりと熱い。 「くすぐったい?」 「焦らすんだもの」 くすくすと笑い声が耳に触れる。 今や日は沈みかけ、辺りは青みを帯びていた。長屋に挟まれた狭い裏通りは更に薄暗く、すぐ傍の通りを歩いても、二人の影は湿った暮色に溶けて見えないだろう。汗まじりの匂いが闇の中で形を成す。 「雨止みは久々だっていうのに、待ても覚えたのね。少しはお利巧になった?」 「そう言うあんたこそ、雨の間に疼きでもしたか」 右手を壁から離し、八つ口に差し入れる。女が息を漏らして肩を縮めると、衿がするりと落ちて肌の滑らかさが露わになった。 「いいわ、じゃあ次は雨の中で。濡れそぼった二人なんて絵になりそうじゃない」 「なるもんかよ」 男は笑いとともに声を吐き出し、白い胸元に口づける。女の手が伸びて、男の額からうなじまでを撫でた。時にぴくりと爪を立てるのがいじらしい。ましてやそれが、こちらが歯を立てたときであれば尚更だ。 顔を離して息を深く吐き、膝で裾を割る。 女の右手が男の腕を掴み、しなやかな指がするりと袖の中へと滑り込んだ。骨ばった肘をなぶり、指は更に上っていく―― 手が止まった。 男も動きを止めて、女が袖をめくるのを見ている。女は腕に顔を近付け、藍闇に目を凝らす。男の顔からは、先程までの急いた様子が消え失せている。 「何よこれ。彫るのはいいけど……」 子供を窘めるような、笑いと呆れの混ざった声だった。 「これで粋とは言えないんじゃない。勿体無いわね、何を思ったのよ」 男が黙りこくっているのに気付いて、女は彼の頬を引き寄せ唇を吸う。日の落ちたところでは、表情を確認するよりもその方が早かった。 「指は綺麗なもんでしょ。右腕も、そう……? いつかお揃いで入れればいいじゃない、ね」 指に指を絡めて口づける。男の右中指と薬指を唇で挟んだところで、愛撫していた手はどこかへ消え去った。男の影が背を向け去っていく。 「え……ちょっと、やだ、怒ったの」 女は慌てて崩れた衿を直し、男に手を伸ばす。が、にべもなく振り払われただけだった。 「飽きた」 小さく消えていく足音が止まることは無かった。女が人前に出られるほど身形を整えて通りへ出たとき、彼の姿は影ほども見えなかった。 すっかり日の暮れた道を、暁と紅花は芝居小屋の名の入った提灯で照らしながら戻る。持ち手は暁だった。 紅花は人の間を器用にすり抜けつつ、目は暁にぴたりと留めたままで、今日という日の素晴らしさを滔々と語る。 「ほんっと信じらんない、何だろ、あんたが付いて来たから? あんたがツキ持ってんのかしら。まさか本川さんを間近で見られると思わなかったし、それに、それに、まさか話までできるなんて……」 水を流すように次から次へと現れる言葉はいつも通りだが、いつも厳しく光っている目は、今はとろんと酔いしれて悩ましげだ。紅花は頬に両手を当ててほぅと溜息を漏らす。 「舞台を降りても輝きが消えないって、あれこそ本物の凄まじさよね。まず迫力が違うのよ迫力が。あの美しさにあの色気、あの声、そこらの男と同じ生き物だと思えない。だからって見た目だけじゃないのよ。今日みたいな役だけじゃなく荒事だってこなすし、舞台の上でのあの人は何か憑いてるに違いないわね。ね、暁も思うでしょ」 ぼんやりと灯る橙色は、風や手の動きにちらちらと揺らぎを残す。暁の生返事にも気を留めず、紅花はまた陶酔に戻る。 「どうしよ、もうこれから織楽の部屋行けないかも。隣が気になって話どころじゃないもん。ねえ暁どうだった、あたし何か変なこと言ってなかった。本川さん、あたしのこと変な客だって思わなかったわよね。笑ってくれてたわよね。ああ、もうどうしよ、今日眠れない。明日も起きらんない。溶けそう」 紅花と例の役者の会話を、暁は全く覚えていない。真っ赤になった紅花が敷居を挟んで彼と対面しているとき、織楽が暁の名を呼んだのだ。 「なんやぎこちないし不器用な奴や思てたけど、上手いこと隠してんねんなあ」 あの言葉が意味していたのは。あの笑いが意味していたのは。 「どういう布石なん。言うてみ、誰にも言わんし」 綻びだらけだ。胸の潰れる思いでかろうじて首を振る。「どうして」、いつかと同じ台詞、芸の無い台詞。どうして私はこんなところで、何も成し遂げられずに、足を踏み出すことすらできずに駄目になってしまう。 織楽は暁に顔を寄せた。息が掛かるほど。目が閉じられない。長い髪が暁の頬に触れる。 「前に言うたやん、これが終わったらちょっと休みやて」 「え……」 「何ぞ助けたろか」 黒い瞳が暁を捉える。濃い睫毛に縁取られた形の良い目が、逡巡まで見透かすように、じっと暁を見つめる。面白がるようでありながら、迷いの無い目。信じろと。願ってみろと。 ――暁は唇を噛み、しっかりと提灯を携えた。大通りではまだ盛んだった人通りも、一つ奥に入ればすぐに消えてしまう。紅花のお喋りはまだ止まない。 「針葉、結局戻って来なかったね」 ふっと紅花の熱っぽい語りが止まり、返ってきたのはいつもどおりの声だった。 「知ったこっちゃないわよ。どうせ遊び回ってんでしょ」 縋るのなら長たる彼だろうと思っていた。単なる火事場泥棒ではなく、もう何も取る物の無くなった国をうろついていた、針葉と浬。それはほんのわずかな糸口、足掛かりだった。 「そんなことより本川さんよ。いい、本川さんは甲ノ組、つまり上級に上がってすぐ名付きの役を演ったのよ。男形ではなかなか無いことなんだから。どういう話かっていうと」 壬の、豊川の象徴たる刀を、飛鳥から奪い返すための。 戻 扉 進 |