数人が一斉に店に駆け込んできた、と思ったら雨が降り出したらしい。暁は灰色の重たげな空を見上げて棚を内側に引っ込めた。
「あらー、一気に降り出しましたね。大丈夫ですか、濡れてない?」
「平気平気。いや、この時期は参るねえ」
「うちの人も漁に出らんないからって家でごろごろしてんのさ。とっとと晴れてほしいよ」
 今日の店番は紅花と暁の二人だった。紅花と客のやり取りを聞きながら、暁は品に付いた滴を拭っていく。
 雨脚が弱くなって雨宿りの客が出て行ってからも、通りに人は少なく、客の入りは今一つで、早めに店を閉めることとなった。暁が品を片付けている間、奥の部屋からはぎこちない算盤の珠の音が流れきていた。
「坡城は梅雨が長いね」
「そうなの? あたしはここでしか暮らしたことないから分かんないけど」
「そう言えば紅花はここに住んでたんだっけ」
 暁が奥の間に上がると、紅花が眉間に皺を寄せて帳面を睨め付けているところだった。
「替わろうか」
「あんた勘定得意なの」
「ある程度は」
 暁は紅花から算盤を借り受けて机の前に座り、売上と個数にざっと目を通す。
「あの家じゃ生粋の坡城産まれなんて多分あたしだけよ。紅砂だって産まれは西の方だもん。ちっちゃい時に負ぶわれてここに来たって」
「じゃあその目の色も、西のほうでは皆そうなのか」
 紅花が黙ったので暁は手を止めて顔を上げた。
「さあ。父ちゃと母ちゃは黒目黒髪だったわよ。でもその上はどっか遠くから来た人だったって」
 薄暗い中では、紅花の目も暁の目も同じ色に過ぎない。暁は揺らめく火を手元に寄せて算盤に指を戻した。ぱちぱちと珠の音。
「雨は鬱陶しいけど梅雨のさなかに祭りがあるから、ここらの人は皆それ楽しみにしてんのよ」
「祭り?」
「そ。一つ向こうの川沿いを北に行ったとこに神社があってさ、その神社はもうぼろっぼろで何のありがたみも無いんだけど、その近くでお祭り。出店もいっぱい出るし、お芝居もやるし、相撲も、あたしは見らんないけどやってるみたいだし、何より花火! やっぱり祭りと言えば花火よ」
 暁は数を帳面に小さく書き留めて、もう一度初めから珠を弾きなおす。
「それは何を祀るお祭りなんだ」
「何を祀るって、どういうことよ」
「どういうって……」
「難しいこと知らないわよ。でも多分ここだけじゃなくて、坡城なら他のとこでも梅雨のさなかにお祭りしてんのよね。梅雨なんて吹っ飛ばせって景気づけじゃないの」
 豪気なことだ。暁は目で縦の数字を読み、横並びの珠をぱちぱちと弾いていく。
「早いもんね」
「そうかな」
「普通は読んでもらって弾くじゃない。葦さんはあんたみたく一人で弾いちゃうんだけど、あたしは苦手」
 ちゃっと算盤を御破算にして、暁は紅花のほうへ帳面を向ける。
「この数で合っていると思う。二度ともこれになったから」
「ありがと。あんた、こっちのほうが合ってるんじゃない」
 紅花は眉を上げて笑い、腰を上げて火を提灯に入れる。暁も続いて立ち上がり下駄を履く。
「こっち」
「だってあんた、客相手って全然慣れないじゃない。すぐ慌てるし言葉詰まらせるし適当に話合わせんのもできないし、三月もやってりゃさすがにもうちょっと上手くなるわよ。あんたやっぱり根っからのお坊ちゃんね。あ、違う、お嬢ちゃんだっけね」
 答えが返って来ないのに気付き、土間を先導する紅花は「それよ」と後ろに声を掛けた。
「こういうこと言われて、そんなことあるかってすぐに返せないと、なかなか辛いわよって言ってんの。気ぃ悪くしないでよ、自分に合わないことどんだけやってもきついでしょ」
 紅花の声には一片の悪意も無い。暁は後ろでその声を聞きながら歩く。ただ歩く。
「生憎うちじゃ勘定だけさせたげるほど算盤使う機会無いし、お金だってそんな出せないしさ、別の仕事見付けたっていいのよ。前にも言ったと思うけど、織楽も浬も最初はここで働いて、そのうち自分に合ったことやり始めたんだから」
 勝手口を開けるとき、ようやく紅花の声が止まった。外はまだ小雨がぱらついていた。
 少しずつ上手くできるようになってきた、そう思った矢先だった。でもそんなことは口に出せないから、口元には少しだけ笑みを浮かべる、「私も思ってた、やっぱり柄じゃないよね」、すぐに言葉にできるように唾に混ぜて口の中に留めておく。
 悔しいのは、こう言われても小間物屋にしがみ付くしかない自分だった。だって想像もつかない、自分に何ができるというのだろう。歌を諳んじられたところで、筝を弾けたところで、それがどう銭に変わるのだ。
「ま、壬びとってだけでしばらくは難しいでしょうし、あんたに任せるわよ」
 声に出さずに小さく頷く。そう、壬びとだから、だから仕方ないのだ、そんな言い訳を身の回りに積み重ねて。
 道を右に折れて坂道に入るところで、紅花が暁にぐっと身を寄せた。
「それよりあんた、かたくなに男もん着続けてるけど、いつまでそうしとくつもり」
 咄嗟の言葉に詰まった暁に、紅花は口を尖らせて肩を竦めた。
「何考えてんだか知らないけど遅かれ早かればれるわよ。そりゃあんたは声も低いほうだし、そんなに女っぽく見えないけどさ、いつ誰が感付くか知らないからね。あたしは別に触れ回ったりはしないけど、訊かれたら嘘は吐かないから」
 暁はじっと紅花の目を見つめて、小さく笑った。
「分かった。ありがとう」
「……なんでそこでありがとうなのよ。意味分かんない」
 不機嫌そうにそっぽを向いてずんずん坂道を上っていく紅花を、暁は追う。この家に来てからの三月、この少女に反感を覚えたことは数知れずあった。だが今思い返せば、この少女に一度たりとも嘘は無かった。一度たりとも悪意は無かったのだ。
 耳には痛くとも、それがどれほど、本当の意味で「有り難い」ことか。
 足元が雨でぬかるんで重い。先を行く紅花が足を止めて待っていることに気付き、暁はもう一度「ありがとう」と声を掛けた。



 暁の部屋から漏れてくるうっすらとした煙に紅花が顔を青くしたのは、それから数日後の祭りの夕、いよいよ出掛けようと縁側に出たときのことだった。
「あか……あんた、今度は何やって……!」
 力任せに障子を開けた途端、顔がまともに煙に包まれて、目をつむって咳き込んだ。息を落ち着けて目の前の煙を払うと、その向こうに暁が不満そうな目で突っ立っていた。手には小皿を持っており、部屋全体を薄く覆う煙はその中から湧き出しているのだった。
 紅花の来襲に慌てる様子も無いのが、却って紅花を苛立たせた。暁に向かってつかつかと歩いていく。
「何やってんのって聞いてるでしょ、とにかく早く消し」
「開けるな」
 遮られた紅花は足を止めた。いつもぼうっとしてばかりの暁の剣幕に、顔をしかめて障子を振り返る。しばらくそうしていたが、待っていても暁は同じ言葉を繰り返すだけだろうと判断し、戻って障子を閉めた。彼女の苛立ちを示して、開けたときと同じ力任せの音が響いた。
「ほら、閉めたわよ。……ねえ、一体何してんのよあんた。何がしたいの」
「言葉で説明しても分からないだろう。見るのならそこへ」
 暁が示したのは一番北側の隅、玄関に近い方の襖の端だった。蒲団がすぐ傍に寄せてある。渋々そちらに腰を下ろすと、暁は紅花の右隣の隅、障子の近くへ歩いていった。
「また最初からやり直しだ……」
 途中、そんな呟き声が聞こえたものだから、紅花は暁に聞こえるように盛大に舌打ちして腕を組んだ。
 隅へ行くと、暁は部屋の中心を向いて座り、皿を手前に置いた。そして両手を前に出すと、それに重ねるように深々と額衝ぬかずく。畳から頭を上げるまで呼吸がたっぷり十ほど、その間紅花は、組んだ腕が解けるほど呆気にとられてそれを見ていた。
 やがて暁は両手で皿を持って音も立てずに立ち上がり、部屋の中心を通って向い側の隅まで歩いた。紅花の視界を右から左へ横切っていくのは、時に止まって見えるほど、ゆっくりした歩みだった。
 隅に着くと、また中心を向いて額衝く。次に向かったのは中心ではなく、紅花の向かいにある隅だった。そちらへ、一歩ごとに皿を持ち上げながら歩く。隅に辿り着いたときには、両手を限界まで伸ばしていた。そこから最初に歩き出した場所まで、皿を下ろしながら歩いていく。
 紅花は今や、どこか気味の悪いものを感じていた。軽い気持ちで火遊びしていると思ったから、声を荒らげて押し入ったのだ。こんなに真剣に何かを――何をしているのかは未だに全くの謎だったが、何かをしているとは予想しえなかった。
 そもそも暁は先程から、何に向かっていちいち辞儀をしているのだろう。何か降りてでもくるのだろうか? 天井を見たが、紅花の部屋と別段変わりはなく、強いて言えば煙に霞んで見えるだけだった。
 そうこう考えているうちに、暁は一番最初と同じように中心に向かって礼をし、立ち上がって、今度は中心まで畳を踏んだ。そこで左へ方向を変え、紅花と向かい合うかたちとなる。そこで止まるかと思えば、暁は紅花には目も向けず、真っ直ぐ前を向いたまま歩いてきた。目に見えぬ何かを見ているかのように。
 紅花が体を反らせると、隅で止まり、反対を向いて中心へ戻って行った。煙が濃く流れてきたが、そのとき初めて紅花は、その煙が沈丁花のような、ほのかな重さをもった香りを含んでいることに気付いた。しかしそれも一瞬で、ふっと溶けるように消えてしまった。
 中心に戻った暁はその場に跪いて深く頭を下げると、左手で皿を覆い、右の袖でさっと皿を煽いだ。何の動きも消えた部屋に、煙だけが高く舞っている。すっと暁が息を吸う音がした。
「……終わり。ありがとう、黙っていてくれて」
 いつもと同じ、ゆっくりした口調だった。終わったら怒鳴りつけようと座っていたはずの紅花も、いつしか胸の中が穏やかに打つのを感じていた。
「うん……あたしだってね、あんたがこんな、何かよく分かんないけど大事そうなことやってるなんて知ってたら、開けたりしなかったわよ。何も言わずに始めるから、火なんか出てたら大変だと思って」
 紅花は言葉を選んで話している自分に気付いた。
 思えば、こんなに落ち着いて話をするのは初めてだった。暁が家に来て、その身上にいくつかの偽りを見つけて以来、暁との会話にはいつも義務感やぎこちなさが漂っていた。小間物屋で言葉を交わすときだって紅花の目線で話すばかりで、こうして暁自身の領域に踏み込んだことは今まであっただろうか。
 親しく話をする機会など山ほどあったはずなのに、先の口論の直前には、馴染まない暁を気遣おうと決心したはずなのに、嘘を吐いたのは向こうだからと、それら全てを奥底に押し込めてしまっていた。
 それに気付いた今、弾かれたように聞きたいことが喉の奥から溢れてきていた。黄月も壬びとではあったが、風習や慣習については全く話そうとしなかったのだ。それに、いい香りのする煙を引き連れて、清めるように部屋中を練り歩く暁の姿は、まるでお芝居の一場面のように紅花の中に焼き付いていた。
 紅花は部屋の中心にある暁の影に寄って行った。
「ねえ、何なの今の。あたしに見せてくれたんだもん、壬びとだけの秘密ってわけじゃないんでしょ」
「壬では雨呼あまよびと言っていた。春分、夏至、秋分、冬至、の区切りごとに行うんだ。梅雨の只中に行う夏至の今日が、一番大事な日」
 言われてみれば、今日は昼の一番長い日なのだった。祭りの裏に隠れて、まるで忘れていた。
「壬の音の中に水が入ってるのとは、何か関係あるの」
「うん。壬は水に恵まれ水を尊ぶ国だから。さっき歩いていた道筋は陽や雲を模したものだって」
 紅花が返事しないのに気付いて、暁は暗い部屋の中、身振り手振りで説明する。
「最初、紅花の右手から左手に、つまり西から東に歩いた。あれが雲だ。煙を雲に見立てている」
「ああ……じゃあ次の、そっちに折れ曲がって歩いたのが陽ってわけ」
 東から南を通って西へ、皿を頭の上に掲げるようにして進んだ暁を思い出した。
「最後に、今まで通らなかった北にも雲を捧げて終わり」
 へぇ、と紅花が感嘆の声を上げた。坡城では一度として聞いたことのない話だった。酷い日照りの年にでも生まれた風習だろうか。
「そんな面白い話があるんなら、もっと早く教えてくれれば良かったのに……。まあいいわ、それより今からお祭りに行くの、前に話したやつ。もう皆出ちゃったかも。あんた一緒に行かない。花火も上がるわよ」
「え」
 それは短く、棘のある返答だった。今までの穏やかな空気が突如として割れた気がした。
「嫌なら無理にとは言わないけど」
「そうじゃなくて、雨呼びの後は、明日の日が昇るまで部屋は開けないよ」
「あ、そう……いや、だから、あたしが出て行ってから、もっかい焚けばいいじゃない」
「香ほづ木はもう使い切ったし、あの式は日入りしてすぐにするものなんだ」
 紅花の結んだ唇が震えていた。出来る限り穏便に終わらせようとしていたが、もう限界だ。紅花は肺の底まで息を吸った。
「馬鹿言わないでよね、あんたが雨呼びとやらを大事に思ってるのと同じように、あたしだって祭りを楽しみにしてたんだから!」
「何を祀っているのかも分からないような祭りなんてただの娯楽だろう。雨呼びと一緒にされたくない。雨が絶えたらどうするつもりだ」
「そんなことあるわけないじゃない。昨日だってじゃんじゃん降ったし明日も降るわよ、じゃんっじゃん降るわよ。ここは坡城だからね、水の国のくせに雨乞いしなきゃいけない壬じゃないの」
 ずいと突き付けた紅花の人差し指を暁はぱしんと跳ね除ける。
「雨呼びは雨乞いじゃない」
「傍から見たら同じよ。それにね、雨呼びとやらは一年に四度もあるらしいけど祭りは一度なの。一度くらいあたしに譲ったって罰当たんないわよ」
「夏至が一番大事だって言ったばかりじゃないか」
「そんなの……」
 遠くで風を切るような甲高い音、続いて腹に響くような低い爆発音が聞こえた。花火が始まったのだ。あぁー、と紅花が涙にも似た声を漏らす。ばっと立ち上がったが、暁が珍しく俊敏に動いて、先に障子をがっちりと塞いでいた。
「ちょっと、そこ! 障子開けて! せめてそこから見る!」
 紅花は片手で障子を掴み、片手で暁の衿を掴む。しかし暁も障子をぴっちり閉めておくことに全力をかけ、意地でも動こうとはしない。
「開けない、って、言ったはずだ!」
 暁の腕がぷるぷると震える。紅花は衿にかけた手を暁の頭に移した。髪がぶちぶちと音を立てる。
「痛い痛い痛い!」
「こんなときだけ力発揮してんじゃない、わよ、どきな!」
 ……そのうち、ぷつんと途切れるように花火の音が止んだ。何事かと耳を澄ます二人が小競り合いを再開する前に、ざあっと雨の音が辺りを包んだ。
 紅花が静かに暁の衿を放す。
「……あんたのせいだからね」
 のろりと立ち上がった紅花の後ろで、暁は衿を整えた。後頭部がひりひり痛む。
「じゃんじゃん雨が降るって言ったのは紅花じゃないか」
「あたしが言ったのは昨日と明日で、今日は違うの!」
 ひと呼吸置いて、二人同時に息を吐く。体の底から吐き出すような、長い長い溜息の音だった。
「蒲団ちょうだい。何かもう色々疲れた。……あんたもでしょ」
 互いに背を向けて、奪い合うように一つの蒲団に包まる。そのうち、雨に降られて坂道を駆け上ってくる家の者の足音が聞こえた。いつもなら出迎えてやる紅花だが、今日は意地でも起きようとはしなかった。



 暁にとっては雨呼びが、紅花にとっては祭りが終わってからも、雨はしとしとざあざあ十日ばかり降り続き、妙に暑い日が数日続いた後、唐突に雲が切れて晴れ間が覗いた。
 暁が初めて迎える坡城の夏は、肌に纏わりつくように重かった。客が切れた隙に団扇を煽いで前髪を浮かせ、汗を拭う。引っ切り無しに耳に飛び込んでくる蝉の鳴き声まで重苦しい。
 それでもどうにか夕を迎えて客足も鈍り、だらだら続く日差しの中で物を引っ込めようとしたとき、足が近付いてきて目の前で止まった。
「風鈴ちょーうだい」
 暁が顔を上げると、屈み込んだ男と目が合った。どこかで見た、ような、見ていないような。
「ああ、ここおったんや。なに、一人? 不用心やなあ」
 男はそう言いながら腰を伸ばして店に目をやる。その訛りと馴れ馴れしい口調で、暁もやっと思い出した。家にほとんど帰って来ない、妙にしなやかな所作の男だ。
「今、葦さんが少し出ているので」
「そうか。もう店仕舞い?」
「いえ、風鈴くらいなら」
 暁は立ち上がって店の奥へと足を進める。後ろの男はこちらを見ては手に取り、あちらを見ては光に透かし、何度も足を止めながらゆっくりと付いて来た。風鈴が欲しいと言った割に自由なものだ。暁はちらと肩越しに振り向き、男の顔を再度確かめて頭を働かせる。名が思い出せない。確か、し、し、し、
「懐かしいなあ。なあ知ってる、俺も前にここで働いとってん」
「紅花から聞きました」
 そうだ、紅花の台詞。「……と……も最初はここで働いて」……、織楽と浬。
「織楽!」
「はあい」
 突然足を止めて振り向いた暁に、彼は満面の笑みで応えた。慌てて店の一画を示しごまかす。
「あ……、風鈴はこちらです」
「えぇー、今のんて何ぃ、人の名ぁ忘れてたん」
 にやにやと執拗に顔を寄せた織楽は、暁がぐっと唇を結んだのを見て背を真っ直ぐに戻し、吊り下げられた風鈴の一つに手を伸ばした。
「しゃあないしゃあない。そら全く会ってへんもんな」
 ちりん、と涼しげな音が辺りに満ちる。彼は目を閉じて音に聞き入っているようだった。
「ずっと外で何をしているんですか」
「んー? いやもうほんま大変やってんて。去年の暮れに上がったばっかやのに二つぶっ続けやで。もうちょいしたらもう一つあって、それが終わったらようやくちょっと休み。ほんまこき使うわあ」
 力説する織楽だが、何が何なのか暁にはまるで分からない。「また紅花に連れて来てもらいや」と言葉を切り上げられてしまい、仕方なく頷く。
「ほんならこれ。いくら」
「一鈍です」
「お、早い早い。全部覚えとんの、偉いなあ」
 受け取った銭を奥の間へ片付けに行く。葦の声がして振り向くと、暁がやっていたように店仕舞いの準備をする織楽と葦が話しているところだった。程なくして店仕舞いとなり、暁は風鈴の音を連れた織楽と肩を並べて家へ戻ることになった。
 ちりん、ちりん、織楽の歩く速さに合わせて、高い澄んだ音が響く。
 暁は彼と葦との会話を思い出していた。「おっちゃん久しぶり」「久しぶりだね。季春はどうだい」……
「芝居小屋でしたっけ」
「ん」
季春座きしゅんざって」
「そ、大通りのな。それより店出てもそんな畏まってんの。ええねんで、もっと気楽で。何か話したいこと無いん、訊きたいこととか何でも」
 あっと口を押さえて暁は少し考える。
「あの、他の人はどんな仕事をしているの」
「ん、仕事?」
「紅花が、他の仕事を探してもいいって言って。でもまだ、どういうことができるのかよく分からないから」
「なんやぁ。そんなんぱっと訊いたらええやん」ちりん、ちりん、「ま、それが訊き辛かってんな。せやんな、いきなり六人の中にり込まれてもなぁ」
 ちりん。
「針葉はあんま落ち着いてへんけど色々やってんで、何か売ったり運んだり。黄月は薬作って店に卸してる。お前も手当てしてもうてたやろ。元々親が薬師やってんて。紅砂は間地の道場で、あれは何て言うんやろ」
「教えているんじゃなく?」
「それもやってるんかな。本業は按摩みたいな……正骨やったかな。黄月は腹痛とか怪我とか治すやろ、紅砂は肩外れたりしたのん治すねんて。紅花は見たまんま、家のこと何から何まで。それからえーっと、浬やな。あいつは何や難しいこと。よう分からん」
 暁が怪訝な顔で織楽を見る。
「そないな顔せんとって、あいつが紅花の店から離れた辺りがちょうど忙しぃてなあ。でもあいつ拾たん俺やねんで。命の恩人やで。んー、多分黄月の手伝いとかかなあ、よう書状みたいなん書いてんで。あいつは頭ええからなぁ」
 まだほのかに明るい坂の道を、二人は縦に並んで上る。後ろを行く暁は蚊を手で払いながら考える、しばらくは小間物屋にいるしかないのだろうか。あの店なら壬びとであろうが雇ってくれるし、客と親しく言葉を交わせなくとも、仕事の流れは身に付いている。
 だが暁とて気付いている、朝から夕まで働いて朱ごろ一枚というのは駄賃だ。衣食住を与えられて文句を言えるはずも無いが、これでは針葉に約した刀代どころか香ほづ木の代金だって楽には払えない。これでは国を渡ることなど。
 ちりん。
「……浬を拾ったのは織楽なのか」
「そやで。黄月も一緒やったけど」
「じゃあ大火の後に東雲に渡ったんだね。針葉と浬が壬に来たように。どうしてそんなことをしているんだ」
 足音。
「何かおかしい思うん」
「針葉と浬を見たとき……最初に会ったとき、私はあの二人が飛鳥の手の者だと思った。雇われて人を殺す連中だと。そうでないと知って、じゃあ大火に乗じて物を奪いに来た連中だと思った。実際、何か金目のものがあれば持って行こうとしていたようだし、東雲では刀をいくつも見付けたって」
「合わせて十な」
「うん。……でも針葉は言った、売り飛ばすものを探すために壬入りしたわけじゃないと。じゃあどうして」
 足音。暁だけの。
 ふと気付く、あの澄んだ音が聞こえない。吸い込まれたかのように。耳がおかしくなったかのように。
「それ知ってどうしたいんか、俺はそっちのんが知りたいわあ」
 笑い声。足音も無く、確かに足を踏み出しているはずなのに、彼は宙にでも浮かんでいるのか。
「……どうして」
 これでは問いの応酬だ、腹の探り合いだけで何も進まない……暁がそう思ったとき、織楽はとんと飛び跳ねて坂を抜けた。追ってふわりと跳ね上がる長い髪、ちりん、耳に響く涼やかな音。
「決もてるやん、そない華奢な体つきで焼け野が原十日も彷徨って、後生大事に曰くありげな刀持ち帰った子ぉが、さぁ、果たして次に何企むんか。この筋はどない進むんか、気にしな言うんが無茶やわ」
 振り向いた彼の顔には笑みが満ちていた。暁の疑念など蹴散らしてしまうほど晴れやかな、朗らかな笑みが。
「何ぞ力になれるかしれんやん?」
 暁は改めて唇をぐっと結んだ。今の暁には、それより他に成す術が無かった。