針葉の部屋は、暁の部屋と同じ西の並びのちょうど反対にあたる、南の端にある。小間物屋で働き始めてひと月、ようやく暇をもらった暁は、彼の部屋の障子が開いているのを見て覗き込んだ。
 ぬらり光る刀身が光をはね返すところだった。
 思わず足を止めて目を瞠る。
 彼の両脇に小さな山を成しているのは刀だった。
 声を上げたつもりは無かったが、針葉はふっと振り向いて懐紙を咥えた口元に人差し指を立て、畳を指差した。
 手入れの途中だったらしい。暁はおとなしくその場に坐して待つ。
 暁が針葉の部屋に入るのはこの家にやって来てから初めてで、彼と話すこと自体が何日ぶりか分からなかった。刀を提げて壬をうろついていた彼も、普段は外で雇われ仕事をしているらしい。朝餉や夕餉のときでも、大抵は縁側寄りの暁から遠い席で黄月たち古株と話していて、言葉を交わす機会など無かった。
 そしてどこぞの小悪党のように見える彼は、暁が気軽に口をききたい相手でもなく、どこぞの小悪党のように見えながら実は長であるという彼に、新入りの暁が気後れしていたことも事実だった。
 今、部屋は静寂に満ちている。
 針葉の横顔はいつになく真剣に、なかごも露わな刀身を見つめる。傍らの箱にあった布で刀身を撫でるように滑らせ、はばきに鍔、切羽をはめて柄に収めてとんと手で打つ。最後に目釘を打って鞘に収め、そのひとふりを左へ置く。そこでようやく彼は懐紙を外した。
「ちょうど良かった。お前の部屋のも持って来い」
「あの、そのことだけれど」
 ん、と針葉は刀の山から抜け出て暁の前に胡坐をかいた。
「あの。まず、長とは知らず無礼を申したことを詫びます」
「は」
「それから、ええと……こういうことは直談判するのではなく、誰かに話を通してから言いに来るべきものかもしれないけれど、どうか、あの刀はどこにもやらないでほしい」
 針葉は眉を寄せて暁の懇願を聞く。その表情が、ますます暁を焦らせる。
「置いてもらった身でありながら出過ぎた願いだというのは重々承知のうえ。売って得られるだけの儲けは、この家に返します。どのくらいかかるか分からないけれど、必ず。だからどうか」
「おい待て」
 眉間に皺を寄せたまま針葉が呟く。暁は乗り出しぎみだった身をぴんと伸ばして膝に手を置いた。
「お前、芝居でも見てきたのか」
「芝居……?」
「その話し方。それから何だ、直談判がどうのって。お前、この家を何だと思ってんだ」
「何って……」
 この家が何なのかは暮らしてふた月近くが過ぎた今でもよく分からない。十代半ばの者ばかり暁を含めて七名、何かを胸に集まった同志というわけでもなく、同郷の友というわけでもない。生業も全く異なり、帰って来る日もあれば来ない日もあり、自由気ままなようでありながら底には一定の秩序が見え隠れしている。
 暁が首を捻っていると、針葉は不満げに口を歪めた。
「お前の良いところは威勢の良さだろうが。じゃあ、んな三つ指ついて頭下げんじゃねえよ。刀欲しけりゃ死ぬ気で奪い取りに来い、くらい言えねえのか」
「針葉こそ私のことを何だと……っ。だいたい、そんなこと言われて黙ってやしないだろう」
「当たり前だ糞餓鬼が。殴り飛ばすぞ」
「ほら!」
 針葉が突然吹き出した。暁ははっと熱から醒め、突き付けた人差し指をそそくさと隠す。
「そう、そんでいい。で、何だ、あの刀売るなってか。……物は良かったな、何しろ上松の刀だ」
 暁は唇を舐め、針葉の表情の変化にじっと目を凝らす。ごくりと唾を呑んだとき、針葉がにっと口角を上げた。
「ま、いいだろ。別に売り飛ばすもん探すために壬に入ったわけじゃない」
「本当!」
「だが何だってあれにこだわる」
 すっと針葉が顔を寄せて暁の目を見た。黒い目。鋭い目。暁はその中に自分を見る。
「お前も単なる火事泥じゃねえな。むしろその刀を守った……救い出した、取り返した? そんなとこか」
 彼は読み取ろうとしている、自分の表情を。暁は思わず顔を背けた。一瞬でも気を許したのが間違いだった。
「余計な詮索だったか。怖がんな、好きにすりゃいい。それがこの家に徒なすもんでなけりゃな」
 針葉は刀の間に戻って右の山から一つを取った。ふと顔を向けると、暁はまだ怒ったように顔を背けたまま固まっている。
「何でもいいからとにかく持って来い。錆させる気か」
 そこまで言うとようやく暁は立ち上がり、廊下へ消えた。針葉は改めて懐紙を折ると唇に挟み、次の刀の手入れに取り掛かった。



 そして次に暇を与えられたのは、月が替わって新緑が目に眩しい頃だった。家と小間物屋を往復するうちに桜の時期を逃してしまった。針葉がいつかの夕餉で花見の話をしていたが、暁にはそれを置いても店に出ねばならない理由があった。
 そしてその日、朝餉を終えて箱膳を片付けているとき、暁は同じ部屋にいた紅花に尋ねた。
「かほづき?」
 しかし紅花は胡散臭そうな目つきで暁を睨んだ。確認するようにもう一度口に出し、暁が頷くのを見てひらひらと手を振った。
「知らないわよ。何それ」
「壬とここだと呼び方が違うのかもしれない。香ほづ木はけぶって芳香を放つんだ。こちらでも式には使うだろう」
 食い下がる暁に眉をひそめ、紅花は短く息を吐いた。
「知らないって。とにかくこの家にはそんなの置いてないし、大通りでも見たことないけど。壬のことなら黄月に訊いたら。ちょうど部屋にいたわよ」
 それだけ言い残して内廊下を歩いて行く。取り残された暁はすぐ右手にある襖に目をやったが、それはぴっちりと閉じて人を拒んでいるように思えた。
 黄月とは、家に上がった初めの日に冷たく言葉を投げられ、暁も投げ返してから、未だに大した会話をしていない。彼は外で寝泊まりすることこそほとんど無かったが、元々口数が少ないため、声を交わさずとも一日が回ってしまうのだ。飯を作り洗い物をして暮らしのあらゆるところで関わる、家にいれば必ず声を聞く紅花との違いだった。
 気は進まなかったがそれより他に仕様がない。暁は大きく息を吐き、意を決して襖に手を掛けた。
 黄月は襖に背を向けて何かの作業をしていた。首を伸ばして覗き込むと、何かの粉をいくつかに分けて包んでいるようだ。
「何だ」ちらと暁に向けた目に敵意は無く、ただただ淡々としている。それもまた、口論以来しばらく不機嫌を剥き出しにしていた紅花との違いだ。もっとも単に年長者としての落ち着きなのかもしれないが。
 少しほっとした心持ちで問いを投げるが、返ってきたのは思わしくない答えだった。
「聞いたことがあるような気もするが……紅花が無いと言ったんなら無いんだろう」
 作業に手を戻し、暁に背を向けたまま黄月は話した。だからこそ暁は彼を見下ろして堂々と落胆した。
 暁のものと似た茶の髪と目、暁と同じ壬びと。しかし彼が壬の北、険しい山の向こうの貧しい集落の出というのは、以前彼がわずかに感情を見せたときに気付いていた。いくら抑揚のない話し方をしても、身に染み付いたものは隠しきれないのだ。
 山を隔てればこれほど違いがあるか……声に出さずに呟いて、暁はすっと息を吸った。
「じゃあ壬の商い人が多く集まるところは知らないか」
「それなら境だ。国を渡るときに通る道の近くにちょっとした市ができている。行ってみるといい、随分様変わりしている」
 言われてみれば、壬との境目に壬の商い人がいるというのは至極納得できる話だった。短く礼を述べて立ち去ろうとしたとき、後ろから声が掛かって振り返る。黄月は手を止めて暁を見上げていた。
 目が合う。壬の色。だが同じ壬でも山をいくつも越えた向こう、北の出の――それでも、たじろぐより先に懐かしい色だと思った。
「紅砂にでも付き添ってもらえ。昼前には帰ってくる」
 境への道なら見当はついていたが、頷いて部屋を出た。結局、昼過ぎに帰ってきた紅砂と共に坂道を下って大通りに出たのは、日も傾き始めた頃だった。それでも夏至に向かうこの時期は、日暮れまで充分すぎるほど長い。
 暁が大通りまで出るのは、初めて坡城入りしたときを含めて数えるほどしかない。いつ来ても酔いそうな人出だ。紅花の店のある裏通りを二つ束ねて余りある道幅を人が埋め尽くして、向かいの店に何が並んでいるのかも見えないほどだ。
 あちこちから笑い声怒鳴り声、値切る声や客引きの声、親が子を呼び子が親を呼ぶ声、そして何十何百の足音が響いていた。
 紅砂を見失わないよう、頭半分高い彼を追っていく。
 紅花の兄である彼について暁は、「間地」と呼ばれる二つの川と海に挟まれた地域の道場に通っていることしか知らなかった。そこで遊んでいるわけはないから、この若さで教える側なのだろうか。それとも小間使いでもしているのか。紅花とは対極的に口数の少ない彼は、見慣れぬ容姿も相まって、どこか話しかけるのを躊躇わせた。
 頭を傾けて、少し歪な彼の耳と、その向こうの頬を見る。斜め後ろからでは目は見えず、窪んだ輪郭から濃い睫毛だけが見えた。口を固く結び、真っ直ぐに前を向いている。
 こんなに押し黙っていて、うまく教えられるのだろうか。それともやはり小間使いでも。
 不意に紅砂が振り向く。
「前向いとけ」
 返事をしようとしたところで前から歩いてきた人とぶつかりそうになる。家の裏ばかりが見える小道に入るまで、二人は人ごみの中を黙々と歩き続けた。
 やがて人通りが落ち着くと、紅砂は歩調を緩めて暁と横に並んだ。
「銭は持ってるのか」
 暁は袂から巾着を取り出した。柄のない布に紐を取り付けただけの簡単なつくりで、小間物屋の品の入れ替えの際に売れ残りを安く買ったものだった。
「前、紅花の小間物屋で一緒に店番しただろう。一日に朱ごろ一枚。ふた月頑張ったから、もう大分貯まって、鈍ひらもいくつかあるんだ」
「……そうか」
 給金というより駄賃だった。暁が満足している様子だったので、紅砂は迷いつつも妹の厳しいやり方には触れなかった。
「最近はどんな具合だ」
「うん……まあ、どうにか。でもまだ分からないことばかりだ。最初に思ったよりずっと大変だった」
 暁はそこで声の調子を切り替える。
「あの店はどうして紅砂のものじゃないんだ。飾り物を多く置いているからかと訊いたんだけど、それは違うと紅花が」
 紅砂は暁をしげしげと見つめた。
「あいつは何も言ってないのか」
「何を」
「……いや。隠すことじゃないか。俺の両親と仲の良かった夫婦がいて、子に恵まれなかったから紅花が貰われていった。その夫婦の家があの小間物屋だった、それだけだ」
 暁は家に来てすぐ、紅花の紅砂に対する態度に驚いたことを思い出した。兄を名で呼ぶなど暁には考えられない。
「あれ、じゃあ紅砂にも紅花にもそれぞれ親がいるんだね。じゃあどうしてあの家で……」
 口に出した後で、嫌な予感がさっと頭をかすめた。
「聞いて気分のいい話じゃない」口を覆った暁を気遣ってか、彼は何でもないような口調で言った。「あの家にいるのは、理由はどうあれ他に行くあてのない奴ばかりだ」
 暁は口から手を離す。視線が落ちる。心の奥が重みを増して沈んでいくようだった。
 今まで知らなかった、分からなかったあの「家」の一面。どうして出自の違う者ばかり、どうして年若い者ばかり。浬は自分と同じく大火で生き延びた、それだけは聞いていたが、まさか皆が皆、同じように事情を抱えているというのか。あの元気な紅花や、闊達豪放を絵に描いたような針葉までもが。
 足取りの重くなった暁に気付いて、紅砂は色の薄くなった空を見上げた。
「まあ紅花で良かったんじゃないか。あれでいてあいつは人をうまく使う」
 暁は少し考えて「物怖じは、しないね」と答えるに留めた。その言葉だけでも暁が小間物屋で受けた躾が忍ばれて、紅砂は小さく笑った。

 そしてしばらく歩きどおし、坡城入りした日にはこれほど歩いただろうかと暁が汗ばんだ首を拭ったとき。
「あの道を抜ければすぐだ」
 紅砂が指差していたのは、普通に歩いていれば見逃してしまいそうなごみごみした小さな通りだった。饐えた臭いに顔をしかめながら、大通りと同じように前後に並んで進む。時々何かを踏む感触があったが、それが何かを確認するにも狭すぎた。
 やっと抜けた先は別世界だった。奥に広い地面を埋め尽くすのは、座り込んだ商人とその品々だ。頭、頭、その向こうにも頭が蠢くのは、石をひっくり返して見られる虫の群れのようだった。彼らは壬びとの特徴を持った者が多かったが、それに混じって黒髪もちらほら見られた。
「良かった、これだけ壬びとがいればきっと見付かる」
 しかし紅砂は、歩き出そうとした暁を引き留めた。
「俺から離れるな。行きたいところがあれば必ず声を掛けろ」
「でも見たところ一本道だし、迷うことなんて」
 暁が言った正にそのとき、近くでわっと喚声が上がった。振り返った目の前の地面に、小柄な青年の体が飛んでくる。小さく叫んで足を引く。土埃。彼は少しの間歯を食いしばって呻き、切れた唇の血を拭って起き上がった。口を覆う指の間から、鼻血が赤い筋となって漏れる。
 そこに人ごみを分けて、殴り飛ばした張本人らしい中年の大男が出てくる。
「暁、下がれ」
 紅砂に腕を引かれて遠ざかる。何事かと集まる人々を逆流し、ようやく自由に動けるところまで離れたときには、もう彼らを囲む二重三重の人の輪が出来上がっていて、その内で何が起きているかは、囃し立てる周りの反応でしか知れなかった。
「何だ、あれ……」
「盗んだか、けちでもつけたか、単に虫が好かなかったか。何にしても、巻き込まれていいことはない。当分は通れないからこっち側を回ろう」
 しかし暁は騒動を見つめたままだった。取り囲む群衆は、腕を振り上げ声を張り上げて、まるで楽しんでいるようだった。様子からすると、どちらかがどちらかを一方的に叩きのめしているのだろう。一目見た体格で、それがどちらなのかは考えるまでもなかった。
「どうして……止めないんだ」
 今見ているものが信じられなかった。皆が皆、自制を失って酔ったように騒ぎ立てる。実際、喧嘩騒ぎに酔っているのだろう。今、暁の立っている場所からそれがどのように見えるのか、見せられるものならそうしたかった。それがどんなにおぞましい光景か、教えてやれるものなら。
「紅砂、どうして。どうして皆」
「ここでは珍しいことじゃない、いつ来てもあんなもんだ。あいつ、歩いて帰れたらいい方だろうな」
「そんな、だって壬では」
「暁、ここは壬じゃない」
 厳しい紅砂の声に、暁は目を見開いた。一瞬、全ての喧騒が遠くなった。
「よっ、ここでも喧嘩かい。一発派手なもん見せてくれよ」
 通りがかりの客が囃し立てたが、二人が反応しないと見ると、すぐ群衆の中に混ざっていった。紅砂がもう一度、諭すようにゆっくり声を吐き出す。
「ここは壬じゃない……壬に近い坡城で、壬から行き場のない人が大量に流れ込んだばかりの、危ない場所だ」
 息が止まるようだった。壬を一括りに危険なものと捉えているのが許しがたく、しかしたった今目の前で起こった騒動は、紛れもない真実だった。
「二年前、東雲から人が流れ込んだときも、同じように一部の地域がひどく荒れた。坡城びとはそれを覚えている。黄月がお前を一人にさせなかったのも同じ理由だ。今みたいな騒動も一つだが、それ以上に、壬の顔は今、疚しいことがなくても不信の対象になるんだ」
 がつんと頭を殴られるようだった。紅花が暁を紹介するとき、何故二年以上前からの知り合いと言ったのか、そして続けて東雲びとと名乗るよう言った葦にも、合点がいった。
 ここは借り物の場所でしかない。改めて突き付けられたその事実は、暁の体に寒々と染みていった。

 日は傾いていく。騒動はどうにか収まり、あれほど集まっていた人も今は散っていたが、どうにもそこを踏む気になれず、暁は香ほづ木売りを探して同じ場所をうろついていた。
 どうしても見付けられないと悟ると、反対側へと歩いたが、地面にべっとりと付いた血の跡には目を向けないようにした。それほど血を流した青年の体は、どうしたことか綺麗に消えていた。血の量ほどに傷はひどくなかったのだと無理やり思い込んで、騒動のことは頭から追い出した。
 改めて歩いていれば、薄汚い壁の近くは吐瀉物でぬかるみ、その近くにいくつもの痩せた体がだらんと転がっているのが見えた。甘味をおびた酸っぱい匂いが時々鼻をつく。ここに着いたばかりのときだって、きっと見えてはいたのだ。
 厄介事を避けるためと理由を付けて、並んだ品のみに目をやる。心におりが溜まっていくようだった。
「どうだ、ありそうか」
 暁は苦しい表情で唸って、次の商人の広げた布の上へと視点を移す。そうしてのろのろと歩いた先で、ようやく足を止めた。
 四十手前ごろの男が一人、土の上に布を広げて胡坐をかいている。着ているものは埃だらけ、不精髭に落ち窪んだ目、文句を言いたそうに開いた口から黄色い歯ののぞく、世辞にも声を掛けたい商い人ではなかったが、彼の前に無造作に広げられている乾涸びた木片は、間違いなく暁の探していたものだった。
 暁はほっと膝を曲げ、巾着を取り出した。
「小藤を一欠け」
 しかし男は暁を見てにやにや笑うだけだった。
「挙句の果てにゃ、お前みたいな餓鬼が小藤を買いに来るときたか。世も末だな」
 暁は眉をひそめて男のにやついた口元を見た。男は追い払う仕草をして、後ろに立っている紅砂に目を向ける。
「ほら子守りの兄ちゃん、早いこと連れて帰っておまんま食わせてやんな。餓鬼がお遣いで来るような場所じゃないんだよ」
「買いに来たのは私だ。それに、払うものは払うんだ、理由も無しに売らないというのは解せない」
「私、だと。解せない、だとよ。なんっとも気取った言葉遣いだな、え?」
 横を向いてひとしきり笑い、男は暁に向き直った。
「ここに来てから、声が掛かるのはお前みたいな大尽ばっかりだよ、お坊ちゃん。金さえありゃ何でもできると思ってやがる。俺はなぁ、こんな汚いなりはしてても、扱うもんにゃ一切甘えは許してないつもりだ。関が閉じてからだって飛鳥近くまで川を上って、今までと同じ質のもんを出してる。命懸けだ。だがな」
 そこで一度言葉を切って暁を睨め付ける。
「客にゃ正直うんざりだ。大火に乗じてぽっと金を掴んだだけの奴が、平然と値打ちも分からん木を買っていく。悪くなりゃ雨呼びの作法すら知らん。ふっかけてみたところで、怒り出すならまだ良いほうだ。下手すりゃ、高けりゃ高いだけ良いんだろうとにこにこしてやがる。ああ、とんだいい商売だよ。全く反吐が出るぜ、かぶれどもが」
 吐き捨てるように言うと、男はふっと口を噤んだ。飛んでくる唾に顔をしかめていた暁を押しのけるように、布の対角の端を掴む。
「こう気分が悪くちゃ、今日はもう店仕舞いだな。片付けの邪魔だ、さっさと失せな」
 しかし暁は引き下がろうとしなかった。胡散臭そうに見つめる男の目を見返して、低く淡々と話す。
「別にかぶれて買いに来たわけじゃない。壬で暮らせずとも、これまで続けてきた慣いを絶やしたくないだけだ」
「ほう、相変わらず気取った言葉で語るねえ。かぶれじゃないってんなら、小藤を選んだのはどういうわけだ」
「他ならいさ知らず、雨待ちのこの時期に、それ以外では礼を欠く」
 後ろで聞いている紅砂は、男の表情が静かになっていくのを危惧していた。あれだけ機嫌の悪かった男が、急に落ち着いた素振りを見せるのは妙だ。いざとなれば暁を縛り付けてでも帰るつもりだった。
 しかし予想に反して、男は布にかけた手を戻し、木片を並べ直し始めた。
 驚いて目を丸くする暁を正面から見据えて、男は口を開いた。
「そこまで言うんならやってもらおうか。火の糧に放り込むような屑木から、お前の望む小藤まで、ここにゃありとあらゆる香ほづ木が並んでる。均し値は鈍ひら四枚、壬銭なら小鍔三枚。どれを選んでも掛け値なし、文句もなしだ」
「安いものを選べばあなたの勝ち、高いものを選べば私の勝ちということか」
「小藤以外はこっちの勝ちと言いたいとこだが、まあそういうことだ。乗るかい」
 頷くより先に、暁は木片を選り分け始めていた。色の濃いものを右に、白みがかったものを左に置いていく。全て分けた後で、右を指して顔を上げた。
「こちらは仕舞っていい」
 つまり色の濃いものの中に、暁の言う「小藤」は無いということか。紅砂は男に視線を移したが、彼は眉一つ動かさずに示された方を片付けている。
 次に暁は表面や断面を観察し、いくつかを右に移した。次はこちらを、と男に告げ、男はまた顔を変えずにそれらを仕舞う。残ったのは、最初にあった木片の四半分程度だった。どれも似た色、似た見た目のものばかりだ。
 その内から一つ手に取り、手で覆うようにして鼻に近付けた。小藤とは烟らずとも香を放つものらしい。暁はまた木々を左右に分けていく。あるものはすぐに、またあるものは時間をかけて、右に積まれていくのは左に残したものより多かった。紅砂は暁の右隣に膝を付いて、積み上がったものの一つを手に取る。
 息とともに鼻腔をすり抜けたのは、かすかに甘酸っぱい香りだった。それを戻して他のものも試すが、どれも果物を思わせる軽やかな芳香を放っていた。
 次に左から一つ取って嗅いでみる。途端、眉を寄せて顔を離した。
 悪臭というわけではない。だが甘いのか苦いのか、むせるように濃い、独特の重みある香りだった。彼の反応など意にも介さず香りを聞く暁に、紅砂は顔をしかめて木片を返した。
 さすがに今回は右を残すのではないか、そう思ったのも束の間、最後の木片を聞き終えた暁が仕舞うよう言ったのは、これまでと同じ方だった。
 通り過ぎる人が、妙に静かな一画に不思議そうに視線を投げる。
 木片は残り少なくなっていた。香りによる選り分けを何度も繰り返して、一つずつ、慎重に落としていく。
 ふと空を見上げた紅砂は、日がほとんど落ちているのに気付いた。周りの商人はちらほら荷をまとめ始め、残っている者も夕闇の中で、今までとは違う品を並べ出していた。長居をしすぎたと視線を戻す。
 ついに残りは二つになっていた。さすがに最後の選択には惑っている様子で、何度も鼻に近付けては首を捻る。一つを右手に、もう一つを左手に持ってじっくり見比べるが、暮れた後の薄闇に包まれたこの刻限では、色の違いなど分かりそうにもなかった。
 しばらく両方に目をやって、暁が差し出したのは右手の木片だった。目を凝らして見ればぽつぽつと虫が食ったような穴が開いている。左手の木片もその場に置いたが、そちらはつるりと木目が詰まっていた。差し出された木片を、男はひょいと掴む。
「こっちを戻すんだな。待ったは無しだぜ」
「いや。……選ぶのはそちらだ」
 男の表情が強ばった。紅砂はどきりとしてそれを睨み付ける。暁は鈍ひらを四枚出したが、男は険しい顔でそれを見つめるばかりだった。
「これだけ訊こう、何だってこの虫食いを選んだ」
「それは……理由は分からないけれど、私が今までに焚いた小藤はそちらだった」
「なるほど、何が何でも小藤を使い慣れてるって言うんだな」
 男の肩からふっと力が抜けたように見えた。
「お前の勝ちだ。こっち、お前の選ばなかったのも同じ木から取れるんだが、小藤の香は虫に食われてなきゃよく出ない。この香りは、木が身を守るときのもんらしくてな」
 静かに語る男の声を聞いて、暁はようやく彼の語った自負を素直に受け入れた。銭と一緒に袋に収めようとしたところで男が声を掛ける。
「カゾの葉は持ってるか」
「カゾ? ……いいや」
 首を振ると、男は脇の風呂敷を解いて掌一つ分はある葉を差し出した。水気が抜けて萎び、所々黒ずんでいる。
「焚く一日前までこれに包んどきな。虫の匂いの混ざりが無くなる」
「あ……ありがとう」
 暁は立ち上がって頭を下げた。男は改めて布の対角を摘まみ、その中に自分の荷全てを詰めて四辺を結んだ。立ち上がって弓なりに背を伸ばすと、暁をじっと見下ろす。
「お前が何者かは知らんが、久々に面白かった。いい雨呼んで、秋にゃまた来いよ」
 すぐには返す言葉が浮かばず、暁はただ頷いた。ほっと体から緊張が解けていく。
「そんときにゃあ元値きっかりだぞ。畜生、鈍四枚じゃ大損だ」
 ぼやきながらもどこか、笑うような響きが含まれていた。暁は唇の端をぴくりと歪ませた。払うものは払うと大見得を切ったはいいものの、今の手持ちは鈍ひらと朱ごろが数枚ずつ、賭けがなければとても払えないところだった。秋までは脇目を振らず働くしかなさそうだ。
 埃に汚れた彼の着物を見送って、暁と紅砂は遅い帰路についた。