家は南に海を擁する坡城の中でも南の端、ひと足伸ばせば海を望むことのできる一画にあった。小さな山の西中腹にへばりつくように建った家の敷地の南、崖にも似た急な坂の一歩手前に立てば、実際、遠くに海を見ることができた。
 坂を下って小さな通りを二つ抜ければ夜まで賑わう大通りにぶつかり、更に行けば川が見える。橋を渡ってしばらく歩けばもう一つ川があり、その向こうには更に大きな通りが横たわっているというが、まだ暁はそこまで足を伸ばしたことが無かった。
 腹の痛みも治まって数日、なんとか家の者の顔と名を一致させられるようになった暁を、その日外へ連れ出したのは紅花だった。
「帰るにはこの道を通るしかないから。雨の日は滑りやすいから気を付けな。坂の入口はこの地蔵っこが目印ね」
 家を離れて坂道を下りがてら、紅花は早口で説明していく。すらすらと流れてくる言葉に返答する暇もなく、暁は忙しなく瞬きながら、坂の傍らにぽつんと佇む薄汚れた地蔵に目をやった。
 前掛けはなく、茶色く水気を失った花が数輪足もとに置いてある。初めて通ったときに気付かなかったのは、日が暮れていたせいもあるのだろう。ただでさえこの坂道は昼夜問わず、両側から枝垂れた木々の枝葉に光を遮られていた。
 小走りで紅花の背に戻り、また後について歩く。
 坂を下りきるとやっと空から光が射した。視界が開けただけでも随分気分がいい。暁は左手で目を覆って空の青さを見る。
「ここへ来たときに通った道はとても広くて、息が詰まるくらい賑やかで驚いた」
「関を抜けて来たんなら大通りでしょ。今から行くのははその一つ手前ね。裏通りって呼んでる」
 そして紅花は肩越しに振り向く。
「そういや、あんたが唸ってる間に関が閉じたんだって。運良かったわね」
「閉じた?」
「流行り病って早売りでは言ってるけど。それが本当なら次に行き来できるのはいつになるか分かんないわね」
 早売りが何か分からなかったが、紅花が前を向いてしまったので暁は口を噤んだ。
 暁の偽りが紅花の知るところとなってからまだ日が浅い。あれ以来二人の仲が縮まるような、これといった切っ掛けも無く、暁は未だに自分より年下のこの少女に対して近寄りにくさを感じていた。そして紅花もそれは同じなのだろう。
 人の通りもまばらな通りで、前と後ろに分かれて顔も合わせずに歩いているのが何よりの証左だ。
 程なく小さな通りにぶつかって紅花は左へ足を向けた。これが裏通りなのだろう。大通りとは比べようもないが、すれ違う人の数が途端に増えて暁は拳を握った。日の光の下でも、辺りに闊歩する人々の髪は黒いままで、それが腹の底に震えるような居心地の悪さを呼び起こしていた。
 ここは壬ではないのだ。
 遥かに遠く、潮の香の流れるところまで、足を棒にして歩いてきたのだ。絵でしか見たことのない遠くまで。話にしか聞いたことのない海の傍まで。目が覚めるたびにぼんやりと感じる違和、知らぬところへ突然放り出されたような心許無さも、いつか慣れるのだろうか。慣れて、受け容れてしまうのだろうか。
 通りの左右には小さな店が開いており、ごちゃごちゃと置かれた物が目に飛び込んでくる。子供たちが建物の隙間を走っていくのが遠く見えた。
「こっち」
 踏み入れた区画の左手四軒目の店に紅花はすたすたと歩いていく。白の紋様の染め抜かれた紺暖簾が下がり、引き戸が左右に開け放たれた小さな店だ。奥には飾り物を置いた低い棚がずらり、そして脇にも物が所狭しと積まれ、吊られ、並んでいた。
「……何?」
 一歩中に踏み込むと視界が薄暗くなった。ぎゅっと目をつむって開けると、紅花は既に棚の向こうにいた。そちらへ歩こうとしたが、狭い通路を階段状に積まれた箱が塞いでいる。箱の行方を追って、たわんだ低い天井にまで目が辿り着いたとき、紅花が暁の右手の通路を指で示した。
「そっち通って来な」
 言われたまま、紅花のいる店の奥の戸のほうへ行く。そこには一段高くなった板間があり、隙間から見える敷居の向こうにはすぐ畳が敷かれている。奥に箪笥、脇に寄せられた二三の机とそれを埋める紙の束、隅に並んだ箱と、その中にぎっしり詰まった小物の数々、そして墨の匂いがした。
 紅花は当然といった風に下駄を脱いで板を踏み、戸の向こうに消えた。迷いつつも下駄を揃えて後を追ったが、畳を数歩進んだところで暁はぎょっと立ち止まった。戸で隠れていた左には男の背姿があったのだ。紅花は男の脇に膝を畳んで暁を見上げた。
「こちらよしさん。こっちは暁ね」
 男はちらと暁を振り返ってのっそり立ち上がった。年の頃は三十ほどか四十ほどか、思ったより背が低い。眠たげに垂れた瞼に逆らうように眉を上げて、暁の容貌をじろじろと眺め、口の端をひょいと上げる。
「東雲かい」
「そんなとこ。大丈夫よ、二年より前から知った顔だから」
 言葉を継げずにいる暁を押し退けるようにして男は低い鴨居をくぐった。土間に揃えてあった下駄を突っ掛けてかつかつと歩いていく。
「そんならちょいと出てくるから、店は頼んだね。朝のぶんはそこに書き付けてあるから」
「あたしも教えながらだから、早めにお願いね」
 彼はそのまま通りへ消えた。首を痛めるほど後ろを見つめていた暁はやっと前に向き直り、控えめに彼の消えたほうを指差す。
「あの人、店の人」
「買い入れを任せてるの、値打ちにも値段にも目が利くからね。それと店の番も」
 もう一度通りを振り返り、暁は弾かれたように紅花を見た。
「この店は紅花のものなのか」
「あたしの親がね。今は、そうだね、あたしの名義ではあるけど」
 紅花の親のことを聞くのは初めてだった。そういえば紅砂と紅花以外に、家の者の血縁の話を耳にしたことはなかった。若い者ばかり、まるで全てがあの家の中で終始しているようだった。
「でも葦さんには言わないように。あたしのことはただの手伝いとしか思ってないから」
「どうして」
「面倒でしょ。甘く見られたら困んのよ。そのために時々は年嵩の人にそれらしく振る舞ってもらったり、あんまり多く関わらせないようにしてるんだから」
 つまりは底までは信用していないということか。暁はもう一度彼の背姿を思い出す。紅花がふんと鼻息を吐いた。
「別に疑っちゃいないわよ、でもそういうもんなの」
 暁は小さく頷く。彼女の言い分は少し分かる気がした。どんなに切り盛りが上手くても、しっかりしているように見えても、紅花はまだ幼いのだ。暁は堆く積み上げられた箱を振り返った。
「さっきかんざしが見えたけれど、飾り物の店なのか。だから紅砂のものじゃないんだね」
「別にそういうわけでもないけど。さ、そろそろ無駄口は終わり、あんたにやってもらうことを言うから」
 え、と短い声が漏れた。人差し指をぴんと立てていた紅花が、拍子抜けしたように肩を落とす。眉間に深い皺が二本寄っている。
「何のために連れて来たと思ってんの。いい、これ以上ただ飯は食わせないわよ。心して聞いて、二度は言わないからね」
 暁は瞬きして小さく頷き、紅花の話を聞き逃すまいと身構えた。

 紅花の指南は、時々に客の相手で中断しつつ昼まで続いた。
「織楽も浬も、家に来てすぐはここで働いてたの。だからそう難しいことは無いはず。ちょっとした勘定ができてお客と話ができれば八割がたできたも同然よ」
 紅花は人差し指を立てたままそう言い、暁に物の並べ方を教えながら店の中をぐるりと回った。曰く、鮮やかで人目を引くものは戸の近くに、売りたい相手の目線の高さに、そして店の中をぐるりと回らせるように置く。すぐには難しいだろうから、今ある配列を守って並べておくように。
 そして紅花は戸の向こうに小さな山となって置かれている飾り物を指した。
「まずはあれを片付けてみて」
 棚の周りをちょろちょろと歩き回り、何度も無駄足を踏みながら一種類ずつ片付けていく。薄暗い店の中には、簪や櫛といった飾り物の他に、化粧道具、反物、根付に煙管、小刀まで様々なものが詰め込まれていた。何に使うのか分からないもので埋め尽くされた一画もあった。
 しかし珍かなものに目を奪われたのも最初だけ、たった数往復で暁は挫けかけていた。物を並べ替えようとするたび紅花の声が細かく飛んでくるのだ。唇を噛んでその場を眺め、何が正しいのか理解しようとするのだが、「ぼうっとしてないで」とまた声。
 終いには、声になる前のほんの小さな息の音を捉えるだけで暁の肝は縮んだ。
 しかし昼前には紅花も、増え始めた客の相手にかかりきりとなった。紅花が誰かの話し声を棚の向こうに聞きながら、暁はじっくりと目で見て考える。何故簪はここに並んでいるのか。何故櫛はここに。この棚は他と棚とどう違うのか。
 自分なりの理由付けができた後で配置を間違うことはなく、遅々として進まなかった最初半分に対して、残り半分はみるみるうちに片付いた。
「どう、進んでる」
 客捌きが一段落して奥の間を覗き込んだ紅花は、眉を高く上げたお決まりの表情で暁を振り返った。
「なんだ、できんじゃないの。最初からちゃんとやってよ」
 こういう時にすぐに言葉が出てくればいいのに。喉で絡まって固まってしまった声を呑み込みながら、暁は視線を落とす。
「ま、いいわよ。悪いけどあたし、葦さんが戻ったら出るから。昼からは二人でやってみて」
「え」
「奥に何か食べるものあると思うから好きにして。お金持ってるなら何か食べてきてもいいけど」
「あの」
 あ、と紅花が暁から視線を外す。暁が振り向くと、若い女が店を覗き込んでいた。馴染みなのか、紅花はすかさず笑みを浮かべると、暁を押し退けて挨拶に行ってしまう。
 二人の会話も頭に入らない。圧倒的な声の華やぎを後ろに聞きながら、暁は、目に付いた品の並びを揃えていった。

 没頭していた暁は、「ちっとは慣れたかい」と葦の声に引き戻されて顔を上げた。
「あ、……紅花は」
「出てったよ。聞いてなかったのかい」
「あ、いいえ」
 葦は小脇に抱えた箱を畳の上に置いて振り返る。「お前さん昼は」
「すみません、まだ」
「さっと食ってきな。もう少ししたらお客が多くなる」
 小さく辞儀を返して暁は畳に上がる。戻ったときには葦の言葉どおり、何人かの客が品を見ていた。慌てて土間に下り、そしてはたと我に返る。一体これから何をすればいいのか。
 一つ向こうの棚で葦が客相手をしている。流れるような言葉。
 自分もああやって話さなければならないのだろうか。でも何も教わっていないのにどうやって。聞き取ろうとした耳がすぐに挫ける。
 仕方なく、午前と同じように目に付いたものを整理していると、同じ並びに中年の男が歩いてきた。「えーっと……」口の中で呟きながらきょろきょろと辺りを見回し、ゆっくりと近付いてくる。
 いつの間にか暁は手を止めていた。口の中に溜まった唾を何度も呑み込む。「いらっしゃいませ」、いや違う、「どうなさいました」、いやそれよりも、「何かお探しでしょうか」、よし、行け。
「なっなに」
「ああ、ここか。ちょっとごめんよ」
 ばっと顔を上げた暁の肩を押して、男は根付を二つ取り、すぐに棚の間を曲がって行ってしまった。
「葦さん、お勘定」
「はいよ。いつもご贔屓いただいて。おっ、それはこの前仕入れたばっかりなんですよ。お子さんにで」
「と私の分とね。この色の深みがたまらんね」
「さっすがお目が高い」
 暁は眉をひそめて、男が持って行ったのと同じものにぐっと顔を寄せ、弾かれたように離した。何かの虫を模したもののようだった。ごちゃごちゃと多い肢や翅まで精巧に真似ている。首を捻っていると男の背姿が店から出て行き、入れ替わりに二人連れの女が入ってきた。
 一日目はそれ以降ひと言も発することなく終わり、店を閉めて奥の間で算盤そろばんを弾く葦を見ながら、帰っていいのか分からず暁も正座していた。葦の指がぱちぱちと器用に動いて、ちゃっと御破算にする。
「よし、ばっちり」帳面に何か書き入れてようやく顔を上げ、「ええと、暁とか言ったね。今日はどうだった」
「どう……あの、分からないことだらけで、……葦さんのように物の説明ができるよう、書き付けたものをお借りできると有難いのですが」
 葦が、んん、と両の眉を寄せた。
「お前さん、あの坊主よりお堅いこと言いよるな」
「あの坊主」
「ほら、東雲の出だっていう。時々顔見るし、今もあの家にいるんだろ」
 浬のことだ。彼も働いていたという紅花の話を思い出す。そこまでは分かったが、お堅いの意味が分からず、暁は瞬きだけを繰り返した。
「書き付けなんかありゃしないね。全部耳から盗んで学んだことばかりだ、だから学が無くたってできるのよ。悪いが花ちゃんだって真似できやしない、何しろ年季が違うからね。小手先の真似よりも、お前さんはまず声を出すようにしな」
「声、ですか」
「贔屓客の顔も薀蓄も分からんだって、お客へ挨拶はできるし、何がどこにあるかくらいは分かるだろう。今日のお客にゃお前さんが見えてなかったはずだ」
「私はちゃんと店の中にいました」
「そう、いた。いただけだ。店の者だと思ってもらえなきゃ、勘定頼まれることだって無いわけよ。分かるかい」
 暁は視線を落とす。葦が言うのはつまり、客にとって暁自身も客だったということか。
「ま、字が読めるくらいだから勘定だってできるんだろう。そこらへんを期待しとくよ」
 腰を上げて背を向けた葦に暁は大きく頷き、「勘定ならできます」追うように言葉を投げた。
「そんなら明日はお代を叩き込もうかね」
 ひらと手を振った葦を追って暁も店を出る。外は日が落ちてひやりと冷たく、暁は人通りの少なくなった道を、坂の入口まで小走りに急いだ。



 この三日間、人よりも小物のほうが数を見ている。
 一つ一つ指差しながら棚の端まで行き着いて、暁はほっと息を吐いた。店を開ける前と閉めた後、そして客のいないときを狙って物の名と値段をほぼ全て教えてもらい、大まかに紙に書き付け、諳んじること五巡目が終わったところだった。
 暁はちらと店の右奥に垂れた暖簾に目をやる。ほぼ全て教えてもらった。教えてもらっていないどころか足すら踏み入れていないのは、この先だけだ。だが葦は「お前さんにゃまだ早い」と言うばかりだった。
 くるりと踵を返したところへ暁より年若い少女が店へ入ってくるのが見えた。
「いらっしゃいませ」
「はいいらっしゃい。偉いね、お使いかい」
 暁の声は葦の声にかき消されてしまう。それでもちらほら物を尋ねられることも増えていた。
 ひょいと少女が棚の影から姿を現し、暁に背を向けて棚を物色し始める。
「何をお探しでしょう」
 少女はちらと暁に視線を投げてすぐに棚に目を戻した。「組紐。丈夫なやつ。それから端切れも。綺麗なやつね」
 暁が場所を教えると、少女は少し迷って物を選び、再び暁を見た。
「お兄さん店の人なの」
「はい」
「葦さーん! この人本当に店の人?」
 棚の向こうから葦の返事が届くのを待って、少女は「ふうん」と暁をじろじろ眺め回した。気圧されながらも暁は少女の選んだ品の額を思い出して足し合わせる。
「四のしゅごろです」
「はあい。じゃあこれで」
 少女は袂からそのまま朱色の平たい銭を取り出して暁の掌に四つ置く。
「ちょうど頂戴します。ありがとうございました」
「花ちゃんいないのね。お兄さんより花ちゃんが良かった」
 は、と問い返すより早く少女は踵を返した。彼女の背中が見えなくなってようやく暁は思い当たる。誰かに似ていると思ったら紅花だ。あのつっけんどんな受け答えも、思い返してみれば、そっくりそのままではないか。わずかにしょげた気持ちが、おかしさに上書きされていく。
 掌に乗った小さな銭をぎゅっと握り締めて、暁は奥の間へ歩んだ。何はともあれ、暁が勘定を行った最初の客だった。銭を受け取った、たったそれだけで、大役を終えたように体がじわりと熱くなってくる。
 朱ごろとにびひら。この店の大抵のものの支払いは、その二種類の銭さえ覚えれば事足りた。暁が今受け取った朱ごろは、丸く平たい、赤みがかった銭。鈍ひらは墨色で縦長、朱ごろより重みがある。物の値付けからすると、鈍ひらのほうが価値の高い銭であるようだった。
 朱ごろを奥の間の引き出しに収めてまた土間へ下りる。
 棚の葦は先程からずっと同じ客と話している。ちらと見ると相手は子連れの客だった。葦が風呂敷をいくつか広げて見せているから、高いものを買ってもらえそうなのだろうか。
 ふと、店の中を覗き込むように首を伸ばしている年頃の娘が目に入った。
「いらっしゃいませ」
 勘定の受け取りを初めて終えた嬉しさが、暁の頬を緩めていた。声が自然と大きくなる。黒い髪を纏め上げた娘はにこりと微笑んで、店に足を踏み入れた。
「蜻蛉はどこだったかしら」
「蜻蛉……蜻蛉玉でしたらこちらです」
 暁が案内し終えた矢先、また客の姿が見えた。「硯は置いてるかいな」こちらへどうぞ、「この巾着の柄違いって」そことあちらに並んでいるもので全てです、「鍋の蓋は」ございません。
 息切れしそうになりながら客を捌き終えたところへ、「あの」と背後から声がして振り返る。
 先程の娘が濃緑色の蜻蛉玉を持って立っていた。
「これくださいな。おいくら?」
 蜻蛉玉。二朱です、と口から飛び出しそうになった言葉で慌てて呑み込む。違う、娘の手にある簪には蜻蛉玉だけではなく、花や珠やといくつも飾りが下がっている。女ものの飾りは物によって差が大きく、極めて細かく値が分かれているものの一つだった。
 頭が真っ白になる。覚えたはずなのに、詰め込んだはずなのに。
「あの、……すみません」
 咄嗟に娘の手から簪を引っ掴んで葦のもとへ向かったが、まだ会話が続いている。子連れの女が暁に気付いて葦を促すと、ようやく彼は振り向いた。
「すみません。これ、いくらですか」
「そいつは三の朱ごろだね。早く行きな、お客さんを待たすもんじゃない」
 小さく礼を返して娘のもとへ戻り、可愛らしい巾着を出して待っている彼女にどうにか笑顔を作る。
「お待たせしました。こちらは三の朱ごろです」
「働き始め? そうよね、初めて見るもの。三朱か、ちょっと待って」
 笑顔で頷く娘に、暁の肩からほっと力が抜けた。しかしそれも、娘は白い指で矩形の銭を摘まみ出すまでだった。
「あの……」
 思わず目を寄せるが、暁の掌に乗せられた墨色の銭は、どう見ても鈍ひらだった。
「三の朱ごろ、ですが」
「ちょうど朱が無いの。鈍ひらでお願い」
 今や口の中はからからだった。当たり前と言えば当たり前すぎる、しかし今まで思いもよらなかったことだ。鈍ひらは朱ごろ何枚に相当するのだろう。
 暁ははっと思い付き、もう一度礼をして奥の間に引っ込んだ。引き出しの中に転がる朱ごろを掴めるだけ掴み、もどかしく下駄を履いて娘のもとへ戻る。
「やだ、そんなに持ってくることないのに」
 娘が笑って、暁の掌から朱色の銭をいくつか取り、巾着に戻した。彼女は簪を手に店を出ていく……その背が見えなくなるまでじっと見つめていた暁は、そこでやっと腹の底から息を吐いた。
「勘定もできるようになったかい」
 いつの間にか会話を終えていたらしい葦が後ろにいた。暁は小さく頷く。まだ緊張が顔から抜けていなかった。
 その後は客の数も落ち着き、暁が物の整理をしているうちに日が暮れた。朱色に沈んでいく通りを眺めて暁はしばし、肌から熱が溶け出していくような心地良い疲労感にたゆたった。

 しかし、収支合わせに算盤を弾いていた葦の声が暁の目を覚まさせるまで、そう長くはかからなかった。
「坊主、ちょいとこっち来な」
 奥の間から低い声がしたのは、暁が敷居からはみ出した棚や箱を店の中に引きずっているときだった。強い口調に嫌な予感を抱きながらも、戸だけぴっちりと閉めて奥の間へ上がる。
「どうも勘定の合いよらんが、お前さん、くすねたりしとらんな。……まあそこまで言わんでも、貰い損ねたり、釣銭を渡し過ぎたりしとらんかね」
 彼は机に対して横向きに座っており、畳の上には何か書き付けた紙が何枚も散らばっていた。その上に真っ新な紙が三枚置かれており、それぞれの上に色の異なる貨幣が積んであった。それを踏まぬように敷居を跨いで座る。
「今日銭に触ったのは、若い女の子……葦さんがお使いかと訊いたあの子から四朱を受け取ったのと、お代を訊きに行ったあのときだけです」
「ああ、あれね。そんで朱ごろはちゃんと三枚貰ったかい」
「朱ごろは無いからと言って鈍ひらを渡されて」
 葦は腕組みして細かく頷く。
「そんで釣りは。何枚渡した」
「……分からないから取ってもらいました」
 彼の眉間に皺が寄った。
「それだね。ったく、迷ったときは必ず聞けちゅうたが。分からんまま勝手に進めよんが一番手に負えん。大体何だ、分からんた。勘定はできるっちゃなかんね」
「……一枚の鈍ひらが、朱ごろ何枚になるか知らなかったので」
「そいつはおかしいね。坊主、お前さん東雲の出で二年より前から坡城にいるんだろう。そりゃ嘘なんかい」
 はっと息を呑んだ。そういえば紅花がそんなことを言っていた。暁は心の中で、勝手な嘘を吐いた紅花を恨んだ。一体どうしてそんな意味のないでたらめを告げたのか。
「お前さん、東雲じゃなくて壬だな。この前の大火で焼け出されたくちだろう」
 暁は迷いつつも首を縦に振った。少なくとも暁自身に、嘘を吐く理由は無かった。
「困ったもんだね、花ちゃんにも。……ふん、まあいい、これからもお客に訊かれたら東雲の出ってことで通しときな」
 顔を上げると、葦は机に向かって筆を動かしていた。どうして紅花と同じことを言うのかと、問いかける前に彼は紙を突き出した。
「ほれ持っときな、坡城での銭の扱いだ」
 紙に書き付けてあったのは貨幣の名と絵、両替の枚数だった。さっと全体に目を通す。朱ごろ、鈍ひら、褪す葉、白菊。一枚の鈍ひらに相当する朱ごろの数は、八枚だった。
 たったこれだけ。坡城で生きていくうえで当たり前のように備わっていなければならない、たったこれだけのことが、自分には足りなかった。壬へ来てひと月近くが経とうとしているのに、思いも寄らなかった。
「一番左のは滅多に見ないだろうが、その他は覚えといて損無い。明日までに全て叩き込みな」
 暁は墨が乾いたのを確認して紙を四つ折りにし、畳をじっと見つめ、とうとう心を決めたように手をついて深く頭を下げた。畳から墨の匂いがする。
「申し訳ないことをしました。それから、有難うございます」
「まあ、そんなに吹っ飛んだわけじゃない。きちっと合わんと気持ち悪いんでな、性分だよ。それより、今日はもういいから早く帰って、明日店を開けるまでに来ときな。試しに両替勘定させるから」
 暁はもう一度頭を下げて、言われるまま店を出た。辺りは既に紫がかっており、人通りは少なかった。夜が少しずつ温み始めている。もうひと月もすれば、雪解け水が地を豊かに潤す水の季節が来るだろう。空にちかちかと瞬き始める星を見上げて、暁は思いをめぐらせた。