戸の向こうは土間が二歩分、すぐに板間が始まり、突き当たりで右手と左手に廊下が続いていた。
 暁は二人に続いて戸をくぐる。腹を強烈に刺激する匂いがそこかしこに溢れている。下駄を脱ごうとする針葉に倣って、下駄を踏まぬよう暗い中に目をこらす。
「あ、ちょっと待ちな。お湯貰おう。足汚れてるだろ。紅花ちゃん」
 左手に向かって呼び掛けた浬の声が終わらぬうちにがらりと音がして足音が近付き、快活そうな少女が光を背に姿を現した。黒髪を後ろに引っ詰めており、たすきを掛けて袖を肘の上までたくし上げている。ぴんとつり上がった眉と目が気の強さを感じさせた。
「あー、良かった。ちゃんと戻ってきた。日が落ちても戻んないからどうしようかと思ってた。ちょうどご飯できたとこ。にしてもひっどいなりね」
 たったふた息で次から次へ流れるように言葉が出てくる。暁は浬の背後で目を丸くした。
「そりゃ四日も出てればね。お湯貰えるかな」
「ちょっと待ってて」
 少女は引っ込んですぐに湯気立つ盥を持って現れた。手拭いも二つ置く。針葉は早速その脇に腰を下ろして足を拭い始めた。紅花も鼻を摘まんでその後ろにしゃがみ込む。
「それで今回はどうだったの」
「どうってこたねぇ、一振りだけだ。だが中々良い品でな」
「ちょっと待って。一、一って言ったの? たったの一?」
 詰め寄って聞き返す甲高い声に、針葉は眉を寄せて顔を背ける。少女は顔をしかめて低い天井を仰いだ。
「二年前なんて、そりゃもう凄いもんだったけどね。刀が合わせて十、おまけに人が一人」
「んなもん端っから条件が違うだろうが。第一お前、大火から何日経ってると思ってんだ」
「人は今回もいるんだけどね」
 少女が元々吊り上がった眉を更に上げて、困ったように笑う浬の後ろに目をやった。邪魔、と彼の肩を押しやって、隠れるように身を竦めていた暁を見付ける。
「あんま苛めてやんなよ。暁、それが紅花。そいつと喧嘩すると後がうるせえから気ぃ付けろ」
「はっ? あか……え、何? 暁?」
「今日の飯は煮魚か」
 すたすたと歩いて行こうとする針葉の裾を、紅花が身を伸ばして捕まえた。
「ちょ……っと、待ちな針葉! あんたら毎回毎回飽きずに拾ってくるけど、どういうことよ、これで七人よ。どうすんの、何させんの。こんな子、あたしがちょっと突付いただけでぶっ倒れそうじゃない」
「浬も織楽も俺が拾ったんじゃねえよ、黄月きづきに言え黄月に」
 そして紅花の手を引っぺがすと、「そうだ、あいつ具合は良くなったのか。手当てしてもらわねぇとな」言い訳がましく呟いて騒々しい足音を立て、大股で右の通路を行ってしまった。それを睨んでいた紅花は、改めて暁をじろじろと無遠慮に見つめる。
「あんた、壬びとなの」
「は……はい」
 応酬に気圧された様子の暁が、思わずしゃちこばって答える。紅花はその返答だけで顔をしかめて浬を睨んだ。
「ちょっと、声変わりもしてない子供じゃない。それに、はい、だって。どこぞのお坊ちゃんなの? それとも浬、あんたが仕込んだの?」
「紅花ちゃんより年上らしいよ。十四。それに僕も怪我させられたし、威勢の良さは折り紙付きだよ」
 浬が苦笑しながら自分の手を紅花に見せる。自死を止めようとした末の歯形の跡は、今なおくっきりと残っていた。
「それ、この子が?」
「そう、暁が」
 浬の手を目の前に持ってきてじっと見つめ、紅花は意外そうに暁を見た。しかし当の本人は居心地が悪そうに視線を逸らす。しばらくして紅花は眉を上げ、目を細めた。
「あたしなら千切れるまで噛み付いてやるけどね」
 そしてかつんと歯を打つ。浬は慌てて手を引っ込めた。それを眺めて溜息を吐き、紅花はくるりと踵を返す。
「六人分しか用意してないからね、針葉と浬とで魚減らしなよ。お吸い物はもっかい分け直すから。あーあ、お皿あったかなあ」
 時が止まったように紅花の背の去っていくのを見ていた暁も、浬に促されてようやく汚れきった下駄を脱いだ。盥の湯は既に温んでいた。



「ここがとりあえずあんたの部屋ね。後でまた片付けるから、今日はこれで我慢しといて。あんたに住むつもりがあるんならだけど」
 戸に一番近い手前側の部屋まで暁を案内した紅花は、手短に言って襖を開けた。左右の壁に冬の物が集めて重ねられている。今まで物置となっていた部屋を、急ごしらえで空けたのだった。広いとは言い難いが、一人が寝泊りするには十分だった。
「蒲団はちょっと待って、どっかあったと思うから。あと着るもんね。他に何か要る」
「あ、えっと……」
「無いならまた後でね。蒲団探してくるから」
「あのっ」くるりと背を向けた紅花に慌てて呼び掛ける。紅花は眉を上げて振り向いた。
「あの……この家は誰のものなんだ。見たところ、みんな若いようだが」
 この部屋に案内される前、ここの二つ隣にあたる真中の部屋に膳を並べて七人で夕餉を取った。久々に湯気の立つものを体に入れた喜びよりも、見知らぬ顔がずらりと並ぶ、その中に放り込まれた緊張のほうが勝っていた。
 既に知っている三人のほかは全て男だった。
 紅花の兄だという紅砂こうさはがっしりした体つきで、彫りの深い顔立ちをしており、暁より一つ上で浬と同じ歳。朴訥な質らしく話が弾んだわけではないが、淡々と暁に問いを寄越した。言葉の端々にも国や家を失ったばかりの暁に対する気遣いが感じられ、紅花の兄とは思えないほど穏やかな男だった。
 その一つ上の歳で、女と見間違うほどしなやかな所作が目立ったのは織楽しがく。黙っていれば整った顔立ちなのだろうが、好奇の目を爛々と輝かせて、茶碗片手に空席だった暁の前を陣取り、後には膳ごと移動して、聞き慣れぬ訛りで次々に話し掛けてきた。
 そしてこの家には暁より先に壬びとがいた。黄月という名の彼は針葉に次ぐ古株で、歳も針葉と同じく暁の三つ上とのことだった。部屋に連れられて自分のものと似た茶色の髪を見たとき、暁は思わず口を覆った。だが彼の席は針葉の向かいで暁から一番遠く、また彼から何の言葉が飛んでくることもなく、未だに一言も交わさないままだった。
 つまりこの家の六人は暁とさほど年齢の変わらぬ者ばかりで、頭となる者がいないのだ。そのうえ出身もばらばらで、何がどうしてこの家に暮らしているのか暁には全く掴めなかった。
「持ち主は前の長、でももう死んじゃったの。お陰で火の車よ。今は別の人から借りてることになってるけど、まあ名前だけね」
「その別の人というのが今の長なのか」
「今の長は針葉よ。あんたを連れてきた柄の悪いほう。って言ってもこれも名前だけかもね。今住んでる中では一番の古株だし、黄月と並んで年長だから」
 暁は首を傾げつつ、ごちゃついた頭の中に一つ書き足す。針葉は長で、誰よりも古株。
「それよりあんた、お湯使うんならしっかり体流してからにしてよね。その着物も替えな。浬のならどうにか着られるでしょ、一式借りたらいいわよ」
 今更気付いたように暁が小さく頷く。そのとき襖から顔を出したのは当の浬だった。
「なんだ、ここにいたのか」
「ちょうど良かった、この子にあんたの着物貸したげてよ」
「ああ、今からお湯使う? 上がったらさっきの部屋の向かいに来な、黄月に手当てしてもらうから」
 そう言えば先程針葉もそんなことを言っていた。暁は頷いて浬から着物を受け取った。
 風呂を備える家などそうそう無いというのを、暁はどこかで聞いた気がした。恐らくここも、昔宿だったというから目こぼしされているだけなのだろう。そう考えるとこの家の者に拾われたのは幸運だった。
 国を焼き尽くした火が、足を拭う湯を沸かし、温かな夕餉を作り、そしてこうして凍えた体を清め、温める。皮肉なものだった。
 数日ぶりの湯に疲れを溶かし、幾分眠くなった頭で黄月の部屋へ向かう。
 紅花とのやり取りこそ緊張したが、腹も膨れ湯浴みもして、戸惑いながらも、満たされることに慣れ始めた頃だった。「飯でも食って熱い湯浴びて一晩眠ってみろ」――針葉の言葉を思い出す。
 襖を開けると、黄月の広い背と、その向かいに浬、部屋の隅には胡坐姿の針葉が見えた。
「お、来た来た」
 針葉の声に黄月が振り返り、眠たげにも見える切れ長の目で暁を見た。座っていてもひょろりと背の高いのが分かる。壬出身の彼は、暁に比べれば多少濃いものの、同じ茶味をおびた目と髪の色をしている。やはり壬びとの特徴である波打った髪は後ろで一つにまとめられていた。
 畳に足を一歩踏み入れて、暁は部屋の中を見回す。それは、冬物を除いてがらんどうの暁の部屋とあまり変わりがなく、無駄なもの一切が省かれていた。違うのは奥の一角だけで、そこには山ほど引き出しの付いた棚があり、伏せられた鉢や棒、立て掛けられた板が見えるのだった。
「座って待っておけ」
 彼がそれだけを呟いて浬のほうへ向き直ったので、暁は少し萎んだ気持ちを隠すようにその場に腰を下ろした。
「ひとっ風呂浴びてきたか。どうだ、極楽にゃ近付けたか」
 針葉が二人の脇を通って暁の傍に胡坐をかく。暁は少し下がって彼に場所を譲ると、小さく頷いて水気を含んだ髪をもう一度絞った。
「にしてもお前、本当にどっかの坊ちゃんかよ。野良仕事してるって顔じゃねえな」
 暁は数度瞬いたが、針葉が答えを待っているふうではなかったので、小さく首を振って笑うに留めた。
「これはまた、思い切りのいい」
 その時聞こえたのは黄月の声だった。暁は視線をそちらへ向ける。
 彼は自分の右横にある薬箱の引き出しを開けて、草色の丸く平べったい薬入れを取り出す。一瞬見えた引き出しの中には様々なものが入っていたが、それらもきちんと整理されており、無駄な隙間は少しも無かった。
 彼の背が目隠しとなって見えないが、軟膏か何かを塗っているようだった。恐らくは暁が付けた歯型に。
「指は動くな」
「ああ、うん。曲げるのは全く問題ない」
 黄月は頷いて、取り出したのと同じ段に薬入れを仕舞い、肩越しに暁を一瞥した。
「切創だったか。見せてみろ」
 そう言ったきり返事も待たずに、一番上の引き出しを開け、つやのある朱色の薬入れを迷いなく取り出した。先程の薬入れの色違いだ。浬が場所を譲ったので、暁は黄月の向かいに移動する。真正面から見た壬びとの目は、懐かしい色のはずなのにとても冷ややかに見えた。思わずごくりと唾を呑む。
「あの、もう痛まないし……大丈夫だと思うけれど……」
「それを決めるのはお前じゃない」
 彼の表情は変わらない。口だけが小さく動いて抑揚のない言葉を吐き出す。
 暁は唇を結ぶと控えめに衿を開け、反対側に顔を逸らした。黄月の顔が近付くのが分かった。火を翳す、指が触れる。
「もう塞がりかけているな。腫れも無い、綺麗なものだ」
 黄月の声が遠ざかる。「浬の怪我のほうが酷いくらいだ」彼はぼそりと呟き、開いたままの引き出しから綿の入った小瓶を取り出した。中から一つを取り、傷口に何度か押し付けて湿す。それが終われば、なめらかな朱の蓋を開いて薬を指に取り、傷口に塗り込む。
 暁の後ろでは針葉と浬が雑談を始めていた。話題は夕餉のことから壬のことにまで及び、暁もつい耳をそちらへ向ける。
「針葉、浬」
 黄月の低い声が二人の会話を終わらせた。針葉が、やっと気付いたように小さく笑う。
「悪い、気ぃ散ったか」
「もしこいつがこれ以後自害しようとするのなら、勝手に死なせておけ」
 部屋から音が消えた。
「死にたい奴を押し留めてお前たちが傷を受けることはない。手出しは介錯だけにしろ」
 分かったな、と黄月が念を押すのを、暁は視線を落として聞いていた。今自分の傷の手当てをしてくれている者の放つ言葉とは思えなかった。
 二人が同意を示したのかは分からない。黄月の手が離れて小瓶や薬入れをきっちりと元の場所へ仕舞っていく。
 針葉に肩を叩かれて、暁は畳から目を離す。頭の中で黄月の言葉を幾度か反芻して、ようやく目を上げた。
「北だろう、音がそう言っている」
 黄月の眉がぴくりと動くのを確認して、暁は立ち上がる。のろのろと畳から廊下の板張りへ出ると、心がほっと重荷を下ろしたようだった。追ってくる声も無い。
「何だ、さっきの」
 遠慮なく訊く針葉に首を振って答えると、暁は自分に割り当てられた部屋へ歩いた。襖を閉めた後で、思い出したように衿を整えた。



「紅砂」
 洗い終えた着物を盥ごと抱えて南の縁側を歩いていたところで、紅花は兄の姿に気付いた。歩み寄った先に座っている彼は、紅花と二つ年の離れたただ一人の家族だった。昼の光に照らされると二人の目は淡く透き通り、見霽みはるかす海のように色を変える。
「今日は間地あわいじ行かぁの」
 坡城の出の二人だが、二人きりで話すときに口をついて出るのは、西国の出だった親譲りの、どこのものとも分からぬ訛りだった。
「いや、今日は詰め日やなぁけ。それ、あいつのか」
 紅砂は盥の中の藍色を指差した。
「ん。……あの子今日、腹ん壊して寝とうがよ。あたしの作ったもんしか食うとらぁに」
「そら慣れんもん食うけ仕様んなぁ。壬は海ん無ぁけ珍しそうにしとうたじゃろ。他ん誰んどうもな、気にしゃあや」
 紅花は頷いて盥を置き、庭に出て物干し竿を取った。着物を持ち上げてぱんと風に晒し、袖を竿に通していく。途中で紅砂が替わり、重くなった物干し竿を元の位置に戻した。その間に紅花は他の洗い物を風に晒していく。
「紅砂、あの子が黄月んとこ行っとうとき傍んいたん」
「や、俺は怪我もしとらぁけ。何ぞあらぁかや」
「何てやなぁけど、足ん傷はよう治したがや思うて。首んこったけしか聞かぁけな」
 足、と紅砂が繰り返すと、紅花は立ち上がって自分の左脹脛ふくらはぎを二度叩いた。
「色ん濃ぉし気付かぁだじゃ思うけど、ここんとこ、べたぁて血の染みとうてな、洗とうてたまげたわ」
 紅砂はふと眉をひそめて暁の歩き方を思い出す。彼の動きは流れるように滑らかで、不自然さはどこにも感じられなかった。姿勢など、猫背の黄月より余程しっかりしていたくらいだ。血の流れるくらい足に深傷を負っているのなら、それなりに他の部分が庇うはずだが。
 紅花が右手に目をやって、浬が帰ってくるのを見付けた。坂道を抜けて手招きに近寄ってきた彼は、顔ほどの大きさをした柳茶色の本を小脇に抱えている。
「まぁた小難しいもん買ってきたの。借りたの?」
 言うなり浬の手から取り上げてぱらぱらとめくり、顔をしかめてすぐに突き返す。
「草紙は次に借りてくるから」
 苦笑いで紅花を宥め、小脇に抱え直して玄関へ向かおうとする浬を、紅砂の声が止めた。
「一応訊くが、あの新入りは足に怪我なんかしてたか」
 浬は眉に指を当てて考える仕草を見せたが、すぐに離して首を傾げた。
「そこまで見てなかったな。あのとき治療したのは首だけだったけど、痛めてたっておかしくないよ。暁に会ったのは、大火の始まりから十日くらい……ちょうど十日か。最近ちょっとましだったとは言え、夜は随分冷えるし、食べるものは無いわ野盗はうろつくわで、命のあったのが不思議なくらいなんだから」
 そう言った後で、彼自身かすかに眉をひそめる。
「ならいいんだけど。そうだね、一日目に開いた傷だとすりゃもう固まってるかもね」
 紅花は大袈裟に頷いて縁側から立ち上がり、盥から次の着物を取った。まだじっとりと湿った重りに、物干し竿がしなる。
「そうだ、ちゃたろ知らない。さっきからどこ探してもいないんだけど」
 振り向いた紅花が見たのは、戸の中に吸い込まれる浬の姿だった。がらりと閉まる音。兄の姿ももう無い。
 ぽかぽかと陽光の降り注ぐ昼下がりがやけに気怠かった。盥の中に残る着物に目を落とし、紅花はぐいと伸びをして縁側で一息ついた。



 縁側から内廊下に入った紅花が、その先に悠然と歩く猫の後姿を見つけたのは、翌々日のことだった。
「あ」
 短く叫んで手を伸ばすが、腕の中に山と抱えた畳み終わりのものがずり落ちそうになり、慌てて抱え直したときにはもう猫はどこかへ消えていた。仕方なく、それぞれの部屋に放り込みがてら、猫がいないか見て回る。近いほうから針葉、浬……と潰して、戸口に一番近い左右二部屋を残すのみとなった。
 まず右手にある織楽の部屋を開けたが、着物に飾り物に調度品に、ぐちゃぐちゃと物が散らかっているだけで猫の気配はない。この部屋の主も、このところずっと芝居小屋に詰めていて帰らない日が多かった。
「もう家ん外かや」
 散らかった部屋を出て最後に向かい合ったのは、暁のものとなった部屋だった。今紅花の手にあるのは着物一つ、随分と身軽になったはいいが、襖に手を掛ける前にひと呼吸置いてしまう。
 あの新入りは口数も表情の変化も少ない。この家で暮らしていく気があるのかどうかはっきりしないまま、来た翌日には腹を壊して何も聞けず終いとなり、どうにか快復した今も何を考えているか分からないままだ。
 だからだろうか、紅花はどうにもあの新入りが好きになれない。いつでも茶色い目が揺れている。いつでも眉に憂いを帯びている。それが紅花にはこの家を拒んでいるように映った。そのくせ決して口には出そうとしない。嫌なら、さっさとそう言って出て行けばいいのに。
 そう、あたしが遠慮する必要は無い。どうするのか、決めるのはあっちなんだから。
 紅花は首をぶんと振り、息を吐いて襖に手を伸ばす。そのとき、中から漏れてくる声に気付いて手を止めた。
 と言っても、くぐもった音が高低の調子をもって流れてくるだけで話している内容は聞こえない。一方は暁だろうが、では相手は?
 いつの間にか板張りに座り込み、襖に耳を寄せていた。
「お前のお決まりの道なんだろうね」
 聞き取れた暁の声に、驚いて耳を離す。ここへ来て間もない暁に、しかも周りと距離を置いたあの気性で、お前と呼びかける相手がいるのだ。どうにも話の背景がつかめないが。もう一度耳を近付ける。
「お前は親とか兄弟とかいないの。……私と同じか。私はね、母さまはずっと昔に亡くなって、他もみんな大火で死んだんだ……大火で」
 紅花はいつしかうつむいて、ゆっくりと落ち着いた暁の声を聞きながら、繰り返し板目を数えていた。今まで彼は自分の境遇を全く語ろうとしなかった。話してくれていたら、こちらにだって考えるところはあったのだ、今のように。
 思えば、四年前に紅花がこの家に引き取られたときには前の長がいて気を回してくれたし、兄もいた。一人残され、突然六人の中に放り込まれた彼は、居辛いこともあったのだろう。細やかに気遣いしてやれるのなんて自分くらいしかいないじゃないか。紅花は力強く頷く。
 で、彼は一体誰に話しかけているのだ。
 もう一度耳を近付けたところで、聞き慣れた猫の声がみゃあと耳に甘えた。あ。ようやく思い当たる。そうだ、部屋という部屋を覗き込んだ理由を忘れていた。
 そのとき暁の声が耳に届いた。
「ごめんね。お姉ちゃん、食べるものなんて持ってないよ」
 紅花は顔を上げた。一つ手元に残っている暁の着物をむんずと掴んで立ち上がり、振り向きざまに襖を開ける。たん、と小気味いい音が響いた。
 茶色の虎猫を膝に乗せて撫でていた暁が、びくりと肩を揺らして腰を浮かせる。転げ落ちた猫はくるりと四足を曲げて立ち、沈黙の中にゆっくりと尻尾を立てた。
 先に動いたのは暁だった。猫を掻っ攫うように抱きかかえて紅花に差し出す。胴体が伸びて白い腹毛が露わになった。
「こ……の猫、どこかから入り込んでた!」
 紅花は眉毛をぴんと吊り上げ、目を細めてそれを見下ろす。やがて後ろ手にきっちりと襖を閉め、大股で暁の真向かいに歩くと、膝をついて裾を払った。鮮やかな身のこなしに気圧されて、暁はわずかに身を反らす。
「ちゃたろ」
「……え」
「茶太郎。ずっと前から住み着いてんの」
 暁は神妙な顔つきで頷き、茶太郎と呼ばれた猫を下ろした。虎猫はぷいと暁に背を向け、縁側を渡って外へ、緊張に満ちた部屋を早々と抜け出す。縋るような目でそれを追っていた暁も、影すら見えなくなると、紅花にうつむぎがちな顔を向けた。その鼻先に紅花は紺地の着物を突き付ける。
「この前着てたやつ。ほつれてたところは縫い直したから」
「どうも……」
 暁はそれを恐る恐る両手で受け取り、少し悩んで自分の前に置く。
 しんと沈黙が流れた。紅花は腕組みした険しい顔のまま動かず、暁はあまりの重みに動けずにいる。
「……で?」
「は」
「どうなのよ。さっきからずっと待ってるんだけど」
 苛ついた紅花の声に、問い返すように暁が顔を上げた。
「何か言うことがあるんじゃないの。黙ってたらやり過ごせるなんて甘っちょろいこと考えてんじゃないわよ」
「そんなこと……」
 暁は眉を寄せ、しかしすぐ考え込むようにうつむいた。暁とて、このままごまかせるとは思っていない。しかしそれなら、何から話せばいいのか、どこまで話せば納得させられるのか、思い巡らせるほどに絡まっていく。どうしようもなく目を泳がせていると、紅花がばしんと畳を叩いた。暁の顔が強ばる。
「あーもう! そういう煮え切らないのが大っ嫌い。じゃあこうしよ、あたしが訊いてくから、あんたは包み隠さず答えるの。いいね。まず一つ目、あんた嘘吐いてたね」
「嘘……」
「嘘でしょ。何よその着物。あんたが今着てるそれも」
「嘘というわけじゃ」
 途端に紅花の顔が厳しくなった。腕を組んだまま、頭を暁の方へ突き出す。
「あのねえ、ことこれに限っちゃ嘘か真以外ないの。もういい、今のではっきりした。じゃあ次、どうして嘘吐いたか言いなさい」
 暁は何か言いたげな恨めしい目で紅花を見たが、すぐに目を伏せて、すり傷の消えた頬に睫毛のまばらな影を落とした。
「嘘なんて吐いていない。私は一言も自分が男だとは言っていない」
 小さく吐き棄てるような呟きに、紅花の頬がぴくりと引きつる。
「ああそう! 男もん着てそんな短い髪して薄汚れた形で泥棒の真似事して、ついつい見間違えたほうが悪いって言うわけ。とんだ恩知らずね」
 暁は聞こえているのかいないのか、うつむいたまま微動だにしない。いや、唇がわずかに震えている。
「それなら……考えてみるといい。煙と腐れた骸に囲まれて、野盗のうろつく中で、どうやって……。あの二人に会ったときだって、こちらは一人、あちらは二人、それも火を放って何もかも焼き尽くした国の者が……結局は坡城びとだったかもしれないけれど私は、針葉の足音が近付いてきた、あのとき確かに死を決めた」
 紅花は軽く睨むように暁の顔を見据えた。茶太郎を相手に語っていた境遇が耳に蘇る。
 あれからまだ数日と経っていないし、それなりに辛い目にも遭ってきたのだろう。針葉も浬も地獄と語った、着物は汚れに汚れ酷い臭いが染み付いていた。その中を十日も生き延びた僥倖は、裏を返せば十日の地獄を彷徨ったということだ。
 詳しいことは知れずとも、所々に堅さの残る言葉遣いは育ちの良さを感じさせるし、自分と一つしか歳の変わらぬ女だというのだから、釜底に落とされた恐怖は同情しても余りある。それは分かるのだが、では女を男と偽ったところで自分を守れるものだろうか。研ぎ澄まされた殺意を前に、二つの間には何の違いもないのに。
「……分かったわよ、二人の得体が知れなかったのが理由ってわけね。でもそれなら、さすがにもう充分でしょ。もう隠さなくても」
「言うな」
 暁は短く言葉を切った。
「私が言うまで、決して誰にも言うな。頼む」
 今度は暁から顔を寄せる。縋り付くように見た紅花の顔は、大きな目を更に見開いていることを除いて、至って冷静だった。
「そうしないと、ここまで生きた意味がない。あのとき喉を裂いていたほうが余程ましだ」
 そこまで言葉を繋げたところで、紅花は目を閉じて立ち上がり、踵を返した。
「別に言いふらす気なんて無いわよ」
 ほっと肩に溜めた息を吐いて、暁は紅花を見上げる。紅花は暁から顔を逸らして、しばらく下唇を突き出していた。
「……ただね、黄月がぐちゃぐちゃ言うのも分かるわ。あんた、地獄みたいなとこで生き残ったわりには、えらく簡単に命を盾にできるんだね」
 紅花は視線をめぐらせ、口を真一文字に結んで動かない暁を一瞥した。すぐにぴったりと閉じた襖へ爪先を滑らせる。
「大火の中を十日間生き延びるのって、そんなに容易かったの。今度教えてよ」
 襖が開いて勢いよく閉まる。暁のものとなった部屋に、開いたときと同じ歯切れのいい音を残して、軋んだ足音が遠ざかっていった。